いにしえの文 › 海東高僧伝(海の東の国の高僧たちの伝) › 全一巻

義淵

海東高僧伝(海の東の国の高僧たちの伝) 海東高僧傳 · 覚訓 · 1215年 · 段落 2 · 漢字 793字 · 朗読 3.2分

海東高僧伝(海の東の国の高僧たちの伝) 全一巻 韓国に残る最も古い僧伝。覚訓が王の命を受けて1215年に著したので、三国遺事より六十六年早い。高句麗に初めて来た順道、百済へ渡った摩羅難陀、新羅で首が落ちると白い乳が噴き出したという厭髑、世俗五戒を授けた円光、そして那爛陀寺に留まりそこで生涯を終えた阿離耶跋摩と慧業まで、十八人の伝が収められている。真興王が源花を立て花郎を置いた経緯もここに記されている。

1義淵が鄴(ぎょう)に行き、法上に仏の年代を問う

釋義淵。句高麗人也。世系緣致咸莫聞也。自隷剃染。善守律儀。慧解淵深。見聞泓博。兼得儒玄。為一時道俗所歸。性愛傳法。意在宣通。以無上法寶.光顯實難。未辨所因。聞.前齊定國寺沙門法上。戒山慧海。肅物範人。歷跨齊世為都統。所部僧尼不減二百萬。而上綱紀將四十年。當文宣時盛弘釋典。內外闡揚。黑白咸允。景行既彰。逸響遐被。是時句高麗大聖相王高德。乃深懷正信。崇重大乘。欲以釋風被之海曲。然莫測其始末緣由.自西徂東年世帝代。故件錄事條。遣淵乘帆向鄴。啟發未聞。其略曰:釋迦文佛。入涅槃來。至今幾年。又在天竺。經歷幾年。方到漢地。初到何帝。年號是何。又齊陳佛法誰先從爾。至今歷幾年帝。請乞具注。其十地.智度.地持.金剛般若等諸論本。誰述作著論。緣起靈瑞所由有傳記不。謹錄諮審。請垂釋疑。上答云。佛以姬周昭王二十四年甲寅歲生。十九出家。三十成道。當穆王二十四年癸未。王聞西方有化人出。便即西入。至竟不還。以此為驗。四十九年在世。滅度至今齊世武平七年丙申。凡一千四百六十五年。後漢明帝永平。經法初來。魏晉相傳。吳孫權赤烏年。康僧會適吳。方弘教法。地持阿僧伽比丘從彌勒菩薩受得其本。至晉安帝隆安年。曇摩讖於姑藏為河西王沮渠蒙遜譯。摩訶衍論.是龍樹菩薩造。晉隆安年。鳩摩什波至長安為姚興譯。十地論金剛般若論。竝是僧佉弟波藪槃豆造。至魏宣武帝時。菩提留支始翻。上答指證。由緣甚廣。今略舉要。淵服膺善誘。博通幽奧。辯高灸輠。理究連環。曩日舊疑。煥然氷釋。今茲妙義。朗若霞開。西承慧日。東注法源。望懸金不刊。傳群玉而無朽。所謂苦海津濟。法門梁棟者。其惟吾師乎。既返國揄揚大慧。導誘群迷。義貫古今。英聲藉甚。自非天質火拔。世道相資。何以致如斯之極哉。史不敘所終。故不書

釈義淵(しゃくぎえん)は高句麗の人である。家の系譜も、どうしてここに至ったのかも、まったく伝わっていない。髪を剃り染めの衣を着てからは戒律をよく守り、智慧の解(さと)りは深く、見聞も広かった。儒学と玄学(げんがく)まであわせて身につけ、当時の道人と俗人が帰依するところとなった。

生まれつき法を伝えることを好み、心は広く宣べ通すことにあったが、無上の法の宝は明らかに顕すことがまことに難しく、その拠(よ)るところを見分けられなかった。聞くところでは、先の斉(せい)の定国寺の沙門法上(ほうじょう)は、戒律は山のようで智慧は海のようであり、物事に厳しく人の手本となって、斉の一代を通じて都統(つとう)となり、その統べる僧と尼は二百万を下らず、法上が綱(つな)を握ったのは四十年近くであった。文宣帝の時に当たって仏典を盛んに広め、内外にこれを掲げたので、黒衣の者も白衣の者もみな認め仰いだ。その大いなる行いはすでに明らかで、すぐれた響きは遠くまで及んでいた。

このとき高句麗の大丞相王(だいじょうしょうおう)高徳(こうとく)は、正しい信を深く抱き、大乗を尊び重んじて、仏の風を海の片隅にまで及ぼそうとした。しかし、その初めと終わりのいわれ、西から東へ来た年と世代と帝の代を測りかねたので、事柄を条(じょう)に書き出し、義淵を船に乗せて鄴(ぎょう)へ遣わし、聞き得ていないことを尋ねさせた。

その大要はこうである。「釈迦牟尼仏が涅槃に入られてから今まで何年になりますか。また天竺におられたのは何年で、漢の地にはいつ至りましたか。初めて至ったのはどの帝の時で、年号は何でしょうか。また斉と陳では、仏法は誰から先に始まり、今まで何代の帝を経ましたか。くわしく書き記してくださるようお願いします。『十地』『智度』『地持』『金剛般若』などの諸論は、その本(もと)を誰が作ったのでしょうか。論が作られたいわれや、霊妙な瑞祥(ずいしょう)によるという伝記はありますか。謹んで書き記してお尋ねします。疑いを解いてくださるようお願いします。」

法上が答えて言った。「仏は周の昭王二十四年、甲寅(こういん)の年に生まれ、十九で出家し、三十で道を成した。穆王(ぼくおう)二十四年、癸未(きび)の年に当たる。王は西方に化人(けにん)が現れたと聞いてすぐ西に入り、ついに帰らなかった。これをもって証(あかし)とする。四十九年のあいだ世におられた。滅度の後、今の斉の武平七年、丙申(へいしん)の年までで、あわせて千四百六十五年である。

後漢の明帝の永平に経と法が初めて来て、魏と晋が次々に伝えた。呉の孫権の赤烏(せきう)の年に、康僧会(こうそうえ)が呉に赴いて、はじめて教法を広めた。『地持論』は阿僧伽(あそうが)比丘が弥勒菩薩からその本を受けたもので、晋の安帝の隆安(りゅうあん)の年に、曇無讖(どんむしん)が姑臧(こぞう)で河西王の沮渠蒙遜(しょきょもうそん)のために訳した。『摩訶衍論(まかえんろん)』は竜樹(りゅうじゅ)菩薩が作ったもので、晋の隆安の年に鳩摩羅什(くまらじゅう)が長安に至り、姚興(ようこう)のために訳した。『十地論』と『金剛般若論』はどちらも僧佉(そうきゃ)の弟である婆藪槃豆(ばすばんず)が作ったもので、魏の宣武帝の時になって、菩提留支(ぼだいるし)がはじめて訳した。」

法上が答えて挙げ示した証(あかし)は、そのいわれが非常に広いので、いまは要点だけを取り上げる。

義淵は胸に刻んでよく導かれ、幽(かす)かで深いところまで広く通じた。言葉は高く油を注いだように流れ、理(ことわり)を究めて輪のようにつないだ。過ぎた日の古い疑いは氷が解けるように晴れ、いまの妙なる義は霞が開けるように明るくなった。西で智慧の日を受け継ぎ、東に法の源を注いだのであるから、金を懸けたように削られず、玉の群れを伝えて朽ちないことを望んでよい。いわゆる苦海を渡す渡し場であり、法門の梁(はり)であるというのは、ただわが師のことではないか。国に帰って大いなる智慧を掲げ、迷う多くの人を導いたので、その義は古今を貫き、すぐれた名は広く知られた。生まれつきの資質が抜きんでており、世の道がこれを助けたのでなければ、どうしてこのような極みに至れただろうか。史書は彼の終わりを記していないので、書かない。

2賛 — 法上が口で授けたものを指南とする

贊曰:佛生年月日傳記互出。理難一定。然淵親承法上口授而來。乃與唐法琳辨正論所據若合符節。當以此為指南。然鉅儒吳世文援引古文特啟異論。致有問對。雖辭旨煩麗。亦不足憑也。

賛(さん)じて言う。

仏の生まれた年と月と日は、伝記ごとに違って出ており、理(ことわり)で一つに定めることは難しい。しかし義淵が法上からみずから口伝えで受けて来たものは、唐の法琳(ほうりん)の『弁正論』が拠(よ)りどころとしたものと割り符を合わせたようにぴたりと合うので、まさにこれを指南とすべきである。大儒の呉世文(ごせいぶん)は古い文を引いてとりわけ異なる論を立て、それによって問答もあったが、言葉と趣旨が煩わしく華やかなばかりで、やはり頼るには足りない。