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圓光

海東高僧伝(海の東の国の高僧たちの伝) 海東高僧傳 · 覚訓 · 1215年 · 段落 3 · 漢字 1,808字 · 朗読 7.2分

海東高僧伝(海の東の国の高僧たちの伝) 全一巻 韓国に残る最も古い僧伝。覚訓が王の命を受けて1215年に著したので、三国遺事より六十六年早い。高句麗に初めて来た順道、百済へ渡った摩羅難陀、新羅で首が落ちると白い乳が噴き出したという厭髑、世俗五戒を授けた円光、そして那爛陀寺に留まりそこで生涯を終えた阿離耶跋摩と慧業まで、十八人の伝が収められている。真興王が源花を立て花郎を置いた経緯もここに記されている。

1円光 — 三岐山の神、雲門寺、そして世俗五戒

釋圓光.俗姓薜氏。或云朴。新羅王京人。年十三落髮為僧〔續高僧傳云入唐剎削〕神器恢廓。惠解超倫。校涉玄儒。愛染篇章。逸想高邁。厭居情鬧。三十歸隱三岐山影不出洞。有一比丘。來止近地。作蘭若修道。師夜坐誦念。有神呼曰。善哉凡修行者雖眾。無出法師右者。今彼比丘徑修呪術。但惱汝淨念礙我行路。而無所得。每當經歷。幾發惡心。請師誘令移去。若不□住從。當有患矣。明旦師往告彼僧曰。可移居逃害。不然將有不利。對曰。至行魔之所妨。何憂妖鬼言乎。是夕其神來訊。彼答.師恐其怒也。謬曰未委耳。何敢不聽。神曰吾己俱知其情。且可默住而見之。至夜聲動如雷。黎明往視之。有山頹于蘭若壓焉。神來證曰。吾生幾千年。威變最壯。此何足怪。因諭曰。今師雖有自利。而闕利他。何不入中朝得法波及後徒。師曰.學道於中華固所願也。海陸逈阻。不能自達。於是神祥誘西遊之事。乃以真平王十二年春三月。遂入陳遊歷講肆。領牒微言。傳稟成實.涅槃.三藏數論。便投吳之虎丘。攝想青霄。因信士請。遂講成實。企仰請益。相接如鱗。會隋兵入楊都。主將望見塔火。將救之。秖見師被縛在塔前。若無告狀。異而釋之。開皇間攝論肇興。奉佩文言。宣譽京皐。勣業既精。道東須繼。本朝上啟。有勅放還。真平二十二年庚申。隨朝聘使奈麻諸父大舍橫川還國。俄見海中異人出拜請曰。願師為我剏寺常講真詮。令弟子得勝報也。師頷之。師往來累稔。老幼相忻。王亦面申虔敬。仰若能仁。遂到三岐山舊居。午夜彼神來問往返如何。謝曰。賴爾恩護凡百適願。神曰。吾固不離扶擁。且師與海龍結剏寺約。其龍今亦偕來。師問之曰。何處為可。神曰。于彼雲門小當有群鵲啄地。即其處也。詰朝師與神龍偕歸。果見其地。即崛地有石塔存焉。便剏伽藍。額曰雲門而住之。神又不捨冥衛。一日神報曰。吾大期不久。願受菩薩戒。為長往之資。師乃授訖。因結世世相度之誓。又謂曰神之形可得見乎。曰。師可遲明望東方。有大臂貫雲接天。神曰。師見予臂乎。雖有此神。未免無常。當於某日死於某地。請來訣別。師趁期往見。一禿黑狸吱吱而斃。即其神也。西海龍女常隨聽講。適有大旱。師曰汝幸雨境內。對曰。上帝不許。我若謾雨。必獲罪於天。無所禱也。師曰。吾力能免矣。俄而南山朝隮。崇朝而雨。時天雷震即欲罰之。龍告急。師匿龍於講床下講經。天使來告曰。予受上帝命師為逋逃者。主萃不得成命奈何。師指庭中梨木曰。彼變為此樹。汝當擊之。遂震梨而去。龍乃出謝禮。以其木代已受罰。引手撫之。其樹即蘇。真平王三十年。王患句高麗屢侵封疆。欲請隋兵以征敵國。命師修乞師表。師曰。求自存而滅他。非沙門之行也。然貧道在大王之土地。費大王之衣食。敢不唯命是從。乃述以聞。師性虛閑。情多汎愛。言常含笑。慍結不形。為牋表啟書。竝出自胸襟。舉國傾奉。委以治方。乘機敷化。垂範後代。三十五年皇龍寺設百座會。邀集福田講經。師為上首。常僑居加悉寺講演真詮。沙梁部.貴山。箒頂。詣門摳衣告曰。俗士顓蒙無所知識。願賜一言。為終身之誡。師曰有菩薩戒。其別有十。若等為人臣子。恐不能行。今有世俗五戒。一曰事君以忠。二曰奉親以孝。三曰交友以信。四曰臨戰不退。五曰殺生有擇。若等行之無忽。貴山曰。他則既受命矣。但不曉殺生有擇。師曰。春夏月及六齋日不殺。是擇時也。不殺使畜。謂牛馬鷄犬。不殺細物。謂肉不足一臠。是擇物也。過此雖□所□。但不求多殺。此可謂世俗之善戒。貴山等守而勿墮。後國王染患。醫治不□。請師說法。入宮安置。或講或說。王誠心信奉。初夜見師首領。金色如日輪。宮人共覩。王疾立効。法臘既高。乘輿入內。衣服藥石。竝是王手自營用希專福。襯施之資捨充營寺。惟餘衣鉢以此盛宣正法。誘掖道俗。將終之際。王親執慰。囑累遺法兼濟斯民。為說徵詳。建福五十八年。不豫經七日。遺誡清切。端坐終于所住。皇隆寺東北虛中音樂盈空。異香充院。合國悲慶。葬具羽儀同於王禮。春秋九十九。即貞觀四年也。後有兒胎死者。聞諺傳埋于有德人墓側。子孫不絕。乃私瘞之。即日震。胎屍擲于塋外。三岐山浮屠至今存焉。

釈円光(しゃくえんこう)は、俗姓は薜(せつ)氏、朴(ぼく)氏ともいう。新羅の王都の人である。十三歳で髪を剃って僧になった。〔『続高僧伝』には唐に入って髪を剃ったとある。〕器量は大きく広く、智慧の解(さと)りは群れを抜いていた。玄学と儒学をあまねく渡り、文を作ることを好んだ。すぐれた思いが高く跳び越え、騒がしい所に住むことを嫌った。三十で三岐山(さんきさん)に帰って隠れ、その影は谷を出なかった。

ひとりの比丘が来て近くの地に住み、蘭若(らんにゃ)を造って道を修めた。師が夜に坐して唱えていると、神があって呼びかけて言った。「よいことだ。およそ修行する者は多いが、法師にまさる者はいない。いまあの比丘はひたすら呪(まじな)いを修めて、ただおまえの清らかな思いを乱し、私の通る道を塞ぐばかりで、得るものがない。通るたびに何度も悪い心が起こった。どうか師が説いて、移って行かせてほしい。もしそのまま留まって従わなければ、必ず憂いがあるだろう。」

翌朝、師は行ってその僧に言った。「移り住んで害を避けなさい。そうしなければ、よくないことが起こるでしょう。」答えて言った。「至極の行いは魔が妨げるものだ。どうして妖(あや)しい鬼の言葉を気に掛けようか。」その日の夕、あの神が来て尋ねたので、師は相手の答えを伝えようとしたが、その怒りを恐れて偽って「まだ言っていない。どうして聞かないことがあろうか」と言った。神は言った。「私はもうその事情をすべて知っている。黙って留まって見ていなさい。」

夜になると、音が雷のように鳴り響いた。明け方に行って見ると、山が崩れて蘭若を押しつぶしていた。神が来て証(あかし)を立てて言った。「私が住んで幾千年、威と変化はいちばん勇ましいのだ。これが何の不思議だろうか。」そして諭して言った。「いま師はみずからを利することはあっても、人を利することが足りない。どうして中原に入って法を得、後の人に及ぼさないのか。」師が言った。「中華で道を学ぶのはまことに願うところだが、海と陸が遥かに隔たっていて、自分では至れない。」そこで神は西へ行くことをくわしく教え導いた。

ついに真平王十二年の春三月、陳に入って講席(こうせき)をあまねく巡り、微妙な言葉を書き取り、『成実論』と『涅槃経』と三蔵と諸論を伝え受けた。そして呉の虎丘(こきゅう)に入って思いを青い空に凝らしていたが、信者の願いによって、ついに『成実論』を講じた。仰いでさらに学びたいと願う者が、魚の鱗のように連なった。ちょうど隋の軍が楊都(ようと)に入ってきたとき、将がその塔に火が上がっているのを望んで救いに行くと、ただ師が塔の前に縛られていながら、訴える気色もないのが見えただけであった。不思議に思って解き放った。

開皇の年間に『摂大乗論』がようやく起こると、その文を奉じ持って、都で名をあげた。学問はすでに精(くわ)しく、道は東に継がれなければならなかったので、本朝から文を上げると、詔(みことのり)によって帰らせられた。真平王二十二年、庚申(こうしん)の年、朝廷に赴いた使者である奈麻(なま)の諸父(しょほ)と大舎(だいしゃ)の横川(おうせん)に従って国に帰った。

しばらくして海の中から並でない人が出て来て、礼拝して願った。「願わくは師が私のために寺を建て、常に真の教えを講じて、弟子が善い報いを得られるようにしてください。」師はうなずいた。

師が行き帰りして数年になるので、老いた者も幼い者も互いに喜び、王も面(おもて)を合わせて敬いを示し、仰ぐことは仏のようであった。やがて三岐山の旧い住まいに至った。夜半、あの神が来て、行き帰りのあいだどうであったかを問うたので、師は礼を述べて言った。「あなたの恵みと護りに頼って、すべてが願いどおりになった。」神が言った。「私ももともと支え助けることを離れなかった。また師は海の竜と寺を建てる約束を結んだが、その竜がいま、やはり一緒に来ている。」

師が問うた。「どの所がよいだろうか。」神が言った。「あの雲門(うんもん)の小さな所に、鵲(かささぎ)の群れが地をついばむ所があるはずだ。それがその場所である。」翌朝、師は神と竜とともに行き、はたしてその地を見て、地を掘ると石の塔があった。そこで寺を建てて名を雲門といい、そこに住んだ。

神はまた、幽(かす)かな護りを捨てなかった。ある日、神が告げて言った。「私の大きな期限が遠くない。願わくは菩薩戒を受けて、永く行くための資(たすけ)としたい。」師はそこで授け終えた。これによって、世々生々に互いに渡し合おうと誓いを結んだ。また言った。「神の姿を見ることができようか。」「師は夜が明けるのを待って東を望みなさい。」大きな腕が雲を貫いて天に届いていた。神が言った。「師は私の腕を見たか。このような神通があっても、無常を免れることはできない。某日、某所で死ぬはずだから、来て別れを告げてほしい。」師が期限どおりに行って見ると、一匹の黒い狐が鳴き声をあげて死んだ。それがあの神であった。

西海の竜女が常に来て講を聴いていた。あるとき大きな旱(ひでり)になり、師が言った。「あなたが境のうちに雨を降らせてくれるなら幸いだ。」答えて言った。「上帝がお許しになりません。私がもし勝手に雨を降らせれば、必ず天に罪を得て、祈る所がなくなります。」師が言った。「私の力で免れさせられる。」しばらくすると南山に朝の気が立ち上がり、昼前に雨が降った。そのとき天の雷が震え響いて、すぐに罰しようとしたので、竜は急を告げた。師は竜を講床(こうしょう)の下に隠して経を講じた。天の使いが来て告げた。「私は上帝の命を受けたのに、師が逃げた者を隠したので命を果たせません。どうしましょうか。」師は庭の中の梨の木を指して言った。「あれがこの木に変わったのだから、あなたはそれを打ちなさい。」そこで梨の木に雷を落として去った。竜はそこで出て来て礼を述べ、その木が自分の代わりに罰を受けたので、手を伸ばして撫でると、その木はすぐに生き返った。

真平王三十年、王は高句麗がしばしば封土を侵すことを憂え、隋の軍を請うて敵国を討とうとして、師に出兵を請う表を書かせた。師が言った。「自分が生きることを求めて他を滅ぼすのは、沙門の行いではありません。しかし貧道(ひんどう)は大王の地にあって大王の衣と食を使っているのですから、どうして命に従わないわけにいきましょうか。」そこで書いて申し上げた。

師は性(さが)が空(むな)しく閑(しず)かで、情には広く慈しむところが多かった。言葉には常に笑みを含み、怒った気色を見せなかった。牋(せん)・表(ひょう)・啓(けい)・書(しょ)を作るのは、すべて自分の胸から出た。国中が傾き寄って奉じ、治める方策を委ねた。機に乗じて教化を広め、後の代に手本を垂れた。

三十五年、皇竜寺で百座会(ひゃくざえ)を設け、福田(ふくでん)を招き集めて経を講じたとき、師がその首座となった。常に加悉寺(かしつじ)に寄り住んで真の教えを講じていたが、沙梁部(さりょうぶ)の貴山(きさん)と箒項(しゅうこう)が門に参(まい)り、襟を正して申し上げた。「俗の士は愚かで、知るところがありません。願わくは一言を賜って、一生の戒めとさせてください。」

師が言った。「菩薩戒があり、その筋は十である。おまえたちは人の臣である子だから、おそらく行えないだろう。いま世俗の五戒がある。第一は君に仕えるに忠をもってすること。第二は親に仕えるに孝をもってすること。第三は友と交わるに信をもってすること。第四は戦いに臨んで退かないこと。第五は生き物を殺すにも択(えら)びがあること。おまえたちはこれを行い、おろそかにするな。」

貴山が言った。「ほかのことはもう承りました。ただ、生き物を殺すにも択びがあるということが分かりません。」師が言った。「春と夏の月と六斎日(ろくさいにち)に殺さないのは、時を択ぶことである。使う家畜を殺さないとは、牛と馬と鶏と犬のことをいい、小さなものを殺さないとは、肉が一切れにも足りないものをいう。これが物を択ぶことである。これを越えては、たとえ使い道があっても、ただ多く殺すことを求めるな。これを世俗の善い戒と呼んでよい。」貴山たちはこれを守って落とさなかった。

のちに国王が病にかかり、医者が治せなかったので、師に法を説くことを願い、宮に入れて住まわせた。あるときは講じ、あるときは説いたので、王は誠の心で信じ奉じた。宵のうちに師の頭を見ると、金色が日の輪のようで、宮中の人々がともに見た。王の病はすぐに癒えた。

法臘(ほうろう)がすでに高く、車に乗って内に入った。衣も薬もすべて王がみずから整え、福をもっぱらにしたいと願った。施しとして受けた資(もの)はすべて出して寺を建てるのに充て、ただ衣と鉢だけを残した。これによって正しい法を盛んに広め、道人と俗人を導き助けた。まさに終わろうとする頃、王はみずから手を取って慰め、残す法を託し、あわせてこの民を救わせ、兆しをくわしく語らせた。

建福五十八年、具合が悪くなって七日の後、残した戒めは清く切(せつ)であり、端(ただ)しく坐したまま、住んでいた所で世を終えた。皇隆寺の東北の空の中に音楽が天に満ち、並でない香りが寺に満ちた。国中が悲しみ讃えた。葬りの備えと儀装は王の礼と同じであった。年は九十九、すなわち貞観四年である。

のちに、子が腹の中で死んだ女があり、徳のある人の墓のそばに埋めれば子孫が絶えないという俗の言い伝えを聞いて、ひそかに埋めた。その日のうちに雷が落ちて、胎児の屍(しかばね)を墓の外に投げ出した。三岐山の浮図(ふと)は今も残っている。

2高弟の円安

高弟圓安亦新羅人。機鋒頴銳。性希歷覽。仰慕幽永。遂北趣九都。東觀不耐。又遊西燕北魏。後展帝京。備通方俗。尋諸經論。跨轢大綱。洞清纖旨。高軌光塵。以道素有聞。特進肅瑀請住所造藍田津梁寺。供給四事。不知所終。

高弟の円安(えんあん)も新羅の人である。機(はたらき)の刃(やいば)が鋭く、生まれつき広く見て回ることを好んだ。幽(かす)かで永く続くものを仰ぎ慕って、ついに北は九都(きゅうと)に赴き、東は不耐(ふだい)を見、また西の燕(えん)と北魏に遊んだ。のちに帝の都に至り、諸地方の風俗にあまねく通じ、多くの経と論を尋ねて、大きな綱(つな)を越え、踏み進む旨(むね)までも明らかにした。高い跡と輝く塵(ちり)によって、その道はもとより聞こえていたので、特進の蕭瑀(しょうう)がみずから建てた藍田(らんでん)の津梁寺(しんりょうじ)に住むことを願い、四事(しじ)を供した。どのように世を終えたかは分からない。

3賛 — 内外に通じ、機根に従って法を授ける

贊曰:昔遠公不廢俗典。講論之際。引莊老連類。能使人悟解玄旨。若光師之論世俗戒。蓋學通內外。隨機設法之効也。然殺生有擇者。夫豈湯網去三面。仲尼弋不射宿之謂耶。又其動天神返天使則道力固可知也已。

賛(さん)じて言う。

昔、遠公(おんこう)は世俗の書物を捨てず、講論の際に荘子と老子を引いて並べ比べ、人に幽(かす)かな旨(むね)を悟らせた。円光師が世俗の戒を論じたのも、おおよそ学びが内外に通じ、機根に従って法を授けた成果である。

しかし、生き物を殺すにも択びがあると言ったのは、湯(とう)王が網の三方を外した事や、仲尼が弋(いぐるみ)で眠る鳥を射なかった事を言うのではないか。また天の神を動かし、天の使いを帰らせたことから見れば、道の力はまことに知るに足る。