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敘目

淮南子(淮南の学士たちの書) 淮南子 · 劉安と文客たち · 紀元前139年頃 · 段落 3 · 漢字 871字 · 朗読 3.5分

淮南子(淮南の学士たちの書) 漢の淮南王・劉安が文客たちとともに編んだ書である。道徳経・荘子・列子に続く道家の四番目の位置に置かれるが、一人の声ではなく、幾つもの手が分けて書いた百科に近い。天と地の枠組み(天文・地形・時則)、人の精神と治め、兵法と箴言までを一つの家に全部入れてある。 嫦娥が西王母の不死の薬を盗んで月へ逃げたという話が初めて記されたところが覧冥訓である。今に伝わる月の神話の根がここの一行である。 説山訓と説林訓の二篇は短い箴言を次々に並べており、道応訓は物語五十五段のそれぞれを「ゆえに老子が言うには」で結ぶ。古い話を道徳経の句に一つずつ合わせてみたことになる。 時則訓は東方の果てを「碣石山を過ぎ、朝鮮を過ぎる」と定め、人間訓は秦の始皇が長い城を築いて「東は朝鮮に結んだ」と記す。漢の初めに朝鮮がどのあたりと考えられていたかを示す二箇所である。

淮南子名安,厲王長子也。長,高皇帝之子也。其母趙氏女,為趙王張敖美人。高皇帝七年討韓信於銅鞮,信亡走匈奴,上遂北至樓煩。還過趙,不禮趙王。趙王獻美女趙氏女,得幸,有身。趙王不敢內之於宮。為築舍于外。及貫高等謀反發覺,并逮治王,盡收王家及美人,趙氏女亦與焉。吏以得幸有身聞上,上方怒趙王,未理也。趙美人弟兼因辟陽侯審食其言之呂后,呂后不肯白,辟陽侯亦不強爭。及趙美人生男,恚而自殺。吏奉男詣上,上命呂后母之,封為淮南王。暨孝文皇帝即位,長弟上書願相見,詔至長安。日從游宴,驕蹇如家人兄弟。怨辟陽侯不爭其母於呂后,因椎殺之。上非之,肉袒北闕謝罪,奪四縣,還歸國。為黃屋左纛,稱東帝,坐徒蜀巖道,死於雍。上閔之,封其四子為列侯。時民歌之曰:「一尺繒,好童童;一升粟,飽蓬蓬。兄弟二人,不能相容。」上聞之曰:「以我貪其地邪?」乃召四侯而封之:其一人病薨,長子安襲封淮南王,次為衡山王,次為廬江王。太傅賈誼諫曰:「怨讎之人,不可貴也。」後淮南衡山卒反如賈誼言。初,安為辨達,善屬文。皇帝為從父,數上書,召見。

淮南子は名を安といい、厲王劉長の子である。長は高皇帝の子である。その母は趙氏の娘で、趙王張敖の美人となっていた。高皇帝七年、韓信を銅鞮で討ったとき、信は逃げて匈奴に走り、帝はそのまま北へ樓煩まで至った。帰る途中に趙を通ったが、趙王を礼をもって扱わなかった。趙王は美女である趙氏の娘を献じ、娘は寵を得て身ごもった。趙王はこれを宮中に入れることができず、外に屋敷を建てて住まわせた。貫高たちの謀反が発覚するに及んで、趙王もあわせて捕らえて取り調べ、王の家の者と美人たちをすべて収容したので、趙氏の娘もその中にいた。役人は、彼女が寵を得て身ごもっていることを帝に申し上げたが、帝はそのとき趙王に怒っていて、取り合わなかった。趙の美人の弟の兼が、辟陽侯の審食其を通じて呂后に話したが、呂后は帝に申し上げようとせず、辟陽侯も強く争わなかった。趙の美人は男子を産むと、怒りのあまり自ら死んだ。役人はその男子を奉じて帝のもとに差し出し、帝は呂后にその母となるよう命じ、淮南王に封じた。孝文皇帝が位につくと、弟の長は上書して会いたいと願い、詔によって長安に至った。日々、遊びや宴に従い、驕り勝手にふるまうさまは一家の兄弟のようであった。辟陽侯が自分の母のことを呂后に争ってくれなかったのを恨み、鉄槌で打ち殺した。帝はこれをとがめ、長は肌をあらわにして北の門で罪を謝し、四県を取り上げられて国に帰った。黄色の屋根と左の纛を用いて東帝と称したので、罪に当たって蜀の巖道に移され、雍で死んだ。帝はこれを哀れみ、その四人の子を列侯に封じた。そのとき民はこれを歌って、「一尺の絹でも十分に美しい、一升の粟でも腹いっぱいになる。兄弟二人が、互いを容れられない」といった。帝はこれを聞いて、「わたしがその土地を欲しがったというのか」といい、そこで四人の侯を召して封じた。そのうち一人は病で死に、長子の安が淮南王を継いで封じられ、次は衡山王となり、次は廬江王となった。太傅の賈誼が諫めて、「恨みを抱く者を高い位につけてはなりません」といった。のちに淮南と衡山はついに賈誼の言ったとおりに反乱した。はじめ、安はわけをわきまえて物事に通じ、文を作るのが巧みであった。皇帝は彼にとって父のきょうだいに当たる間柄で、たびたび上書したので、召されて会見した。

孝文皇帝甚重之,詔使為《離騷賦》,自且受詔,日早食已。上愛而秘之。天下方術之士多往歸焉。於是遂與蘇飛、夜尚、左吳、田由、雷被、毛被、伍被、晉昌等八人,及諸儒大山、小山之徒,共講論道德,總統仁義,而著此書。其旨近《老子》,淡泊無為,蹈虛守靜,出入經道。言其大也,則燾天載地,說其細也,則淪於無垠,及古今治亂存亡禍福,世間詭異瓌奇之事。其義也著,其文也富,物事具類,無所不載,然其大較歸之於道,號曰《鴻烈》。鴻,大也;烈,明也,以為大明道之言也。故夫學者不論《淮南》,則不知大道之深也。是以先賢通儒述作之士,莫不援采以驗經傳。以父諱長,故其所著,諸「長」字皆曰「脩」。光祿大夫劉向校定撰具,名之《淮南》。又有十九篇者,謂之《淮南外篇》。自誘之少,從故侍中、同縣盧君受其句讀,誦舉大義。會遭兵災,天下棋峙,亡失書傳,廢不尋修,二十餘載。建安十年,辟司空椽,除東郡濮陽令,覩時人少為《淮南》者,懼遂凌遲,於是以朝餔事畢之間,乃深思先師之訓,參以經傳道家之言,比方其事,為之注解,悉載本文,并舉音讀。典農中郎將弁揖借八卷刺之,會揖身喪,遂亡不得。

孝文皇帝は彼をとても重んじ、詔して『離騒賦』を作らせたところ、詔を受けるとすぐ、朝の食事を終えるころには仕上げた。帝はこれを愛して秘蔵した。天下の方術の士が多くそこへ赴いて身を寄せた。そこでついに蘇飛・夜尚・左吳・田由・雷被・毛被・伍被・晉昌ら八人、および大山・小山と呼ばれる儒者たちとともに、道徳を論じ、仁義を総べて、この書を著した。その趣旨は『老子』に近く、淡泊で無為、虚を踏み静を守り、経と道を出入りする。その大きさをいえば天を覆い地を載せ、その細かさをいえば果てのないところに沈み、さらに古今の治乱・存亡・禍福、世間の怪しく珍しい事柄にまで及ぶ。その意味はあきらかで、その文章は豊かであり、物と事が類をそろえて、載せていないものがない。しかしその大筋は道に帰するので、名づけて『鴻烈』という。鴻とは大、烈とは明であり、大いに道を明らかにする言葉だとしたのである。だから学ぶ者が『淮南』を論じなければ、大道の深さを知ることはできない。そのため、昔の賢人や物事に通じた儒者、著述の士は、だれもがこれを引いて経伝の裏づけとしてきた。父の名が長であったため、その著したものでは「長」の字をすべて「脩」とした。光禄大夫の劉向が校定して整え、これを『淮南』と名づけた。また十九篇のものがあり、これを『淮南外篇』という。誘は若いころから、もとの侍中で同じ県の盧君に句読を授かり、大義を唱えて学んだ。ちょうど兵乱の災いに遭い、天下は碁盤のように対峙して、書物や伝えを失い、打ち捨てて尋ね修めないまま二十余年が過ぎた。建安十年、司空の掾に取り立てられ、東郡濮陽の令に任じられたが、当時の人で『淮南』を学ぶ者が少ないのを見て、ついに衰えてしまうことを恐れ、そこで朝夕の務めを終えた合間に、先師の教えを深く思い、経伝や道家の言を参照し、その事柄を比べ合わせて注解をつくり、本文をすべて載せ、あわせて音と読みを示した。典農中郎将の弁揖が八巻を借りて写したが、ちょうど揖が亡くなり、そのまま失われて取り戻せなかった。

至十七年,遷監河東,復更補足。淺學寡見,未能備悉,其所不達,注以「未聞」。唯博物君子覽而詳之,以勸後學者云爾。

十七年になって河東を監する職に移り、あらためて補い足した。学は浅く見聞は狭くて、すべてを備えつくすことはできず、通じないところは「未だ聞かず」と注した。ただ博識な君子がこれを見て詳らかにし、後に学ぶ者を励ましてくれることを願うばかりである。