いにしえの文 › 論衡(虚と実を秤にかける書)

物勢篇

論衡(虚と実を秤にかける書) 論衡 · 王充 · 80年頃 · 段落 9 · 漢字 1,538字 · 朗読 6.2分

論衡(虚と実を秤にかける書) 後漢の人・王充が自ら明かしたこの書の意は四字である — 「疾虚妄」、虚しく妄りなものを憎む。天が人の事に応えて災いを下すとか、死ねば鬼神になって仇を返すとか、日を選ばなければ障りがあるとかいう、その時代の言い分を一つ一つ捕らえて論じる。 論じる肌合いが人とは違う。年長者の言葉だからといってそのままにしない — 孔子に問い(問孔)、孟子を刺し(刺孟)、韓非を否とする(非韓)。天が咎めて災いを下すという言い分には、それならば天はなぜ君主一人のために国中に旱を下すのかと問い返す。 「虚」の字が付いた九篇(書虚・変虚・異虚・感虚・福虚・禍虚・龍虚・雷虚・道虚)が一列に並び、古い書に記された不思議な話を順に捕らえる。「増」の字が付いた三篇(語増・儒増・芸増)は、言葉がどのように膨らんでいくのかを扱う。 吉験篇には、夫余の東明が弓をよく射たので王が殺そうとし、南へ逃れて掩淲水に至ったという話がある。今に残る東明の記録のうち最も早い形である。

儒者論曰:「天地故生人。」此言妄也。夫天地合氣,人偶自生也。猶夫婦合氣,子則自生也。夫婦合氣,非當時欲得生子;情欲動而合,合而生子矣。且夫婦不故生子,以知天不故生人也。然則人生於天地也,猶魚之於淵,飢虱之於人也。因氣而生,種類相產,萬物生天地之間,皆一實也。傳曰:「天地不故生人,人偶自生。」

儒者は論じて言う。「天地は故に人を生んだ。」この言は妄りである。そもそも天地が気を合わせて、人が偶々自ら生じるのである。夫婦が気を合わせれば子が自ら生じるのと同じである。夫婦が気を合わせるとき、その時に子を得ようとしているのではない。情欲が動いて合い、合って子を生むのである。その上、夫婦が故に子を生むのではないことから、天が故に人を生むのではないことが分かる。それなら人が天地から生じるのは、魚が淵から生じ、虱が人から生じるのと同じである。気によって生じ、種類が相い産むのであり、万物が天地の間に生じるのは、みな同じ一つの実である。伝えに言う。「天地は故に人を生むのではなく、人は偶々自ら生じる。」

若此,論事者何故云天地為爐,萬物為銅,陰陽為火,造化為工乎?案陶冶者之用爍銅燔器,故為之也。而云天地不故生人,人偶自生耳,可謂陶冶者不故為器而器偶自成乎?夫比不應事,未可謂喻;文不稱實,未可謂是也。曰:「是喻人稟氣不能純一,若爍銅之下形,燔器之得火也,非謂天地生人與陶冶同也。」興喻,人皆引人事,人事有體,不可斷絕。以目視頭,頭不得不動;以手相足,足不得不搖。目與頭同形,手與足同體。今夫陶冶者初埴作器,必模范為形,故作之也;燃炭生火,必調和爐灶,故為之也。及銅爍不能皆成,器燔不能盡善,不能故生也。

こうであるなら、事を論ずる者はどうして天地を炉とし、万物を銅とし、陰陽を火とし、造化を工とすると言うのか。案ずるに、陶や冶をする者が銅を爍かし器を燔くのは、故にそうするのである。それなのに天地は故に人を生むのではなく、人は偶々自ら生じるだけだと言うなら、陶や冶をする者が故に器を作らないのに器が偶々自ら成ったと言えるだろうか。そもそも比べが事に応じなければ喻えとは言えず、文が実に称わなければ是とは言えない。

答える。「これは、人が気を稟けるのに純一になりきれないことを、銅を爍かして形に下し、器を燔いて火を得ることに喻えたのであって、天地が人を生むのが陶や冶と同じだと言ったのではない。」喻えを興すとき、人はみな人の事を引く。人の事には体があって、断ち絶つことができない。目で頭を視れば、頭は動かずにいられない。手で足に触れれば、足は搖れずにいられない。目と頭は同じ形であり、手と足は同じ体である。今、陶や冶をする者が初めに埴で器を作るとき、必ず模や范で形を作る。故にそうするのである。炭を燃して火を生じさせるとき、必ず炉や灶を調え和する。故にそうするのである。しかし銅を爍かしてもみな成るわけではなく、器を燔いてもことごとく善いわけではない。故に生むことはできないのである。

夫天不能故生人,則其生萬物,亦不能故也。天地合氣,物偶自生矣。夫耕耘播種,故為之也;及其成與不熟,偶自然也。

そもそも天が故に人を生むことができないなら、その万物を生むのも、やはり故にすることはできない。天地が気を合わせて、物が偶々自ら生じるのである。そもそも耕し耘り播き種えるのは、故にそうするのである。しかしそれが成るか熟さないかに至っては、偶々自然である。

何以驗之?如天故生萬物,當令其相親愛,不當令之相賊害也。或曰:「五行之氣,天生萬物。以萬物含五行之氣,五行之氣更相賊害。」

何によってこれを験すか。もし天が故に万物を生んだのなら、まさにそれらを相い親しみ愛させるべきで、相い賊い害させるべきではない。ある人が言う。「五行の気で天が万物を生んだ。万物が五行の気を含むから、五行の気が更わり相い賊い害するのである。」

曰:「天自當以一行之氣生萬物,令之相親愛,不當令五行之氣反使相賊害也。」或曰:「欲為之用,故令相賊害,賊害相成也。故天用五行之氣生萬物,人用萬物作萬事。不能相制,不能相使,不相賊害,不成為用。金不賊木,木不成用。火不爍金,金不成器。故諸物相賊相利,含血之蟲相勝服、相嚙噬、相啖食者,皆五行氣使之然也。」曰:「天生萬物欲令相為用,不得不相賊害也。則生虎狼蝮蛇及蜂蠆之蟲,皆賊害人,天又欲使人為之用邪?且一人之身,含五行之氣,故一人之行,有五常之操。五常,五行之道也。五藏在內,五行氣俱。如論者之言,含血之蟲,懷五行之氣,輒相賊害。一人之身,胸懷五藏,自相賊也;一人之操,行義之心,自相害也。且五行之氣相賊害,含血之蟲相勝服,其驗何在?」曰:「寅木也,其禽虎也;戍土也,其禽犬也;丑未亦土也,丑禽牛,未禽羊也。木勝土,故犬與牛羊為虎所服也。亥水也,其禽豕也;巳火也,其禽蛇也;子亦水也,其禽鼠也;午亦火也,其禽馬也。水勝火,故豕食蛇;火為水所害,故馬食鼠屎而腹脹。」曰:「審如論者之言,含血之蟲,亦有不相勝之效。午馬也,子鼠也,酉雞也,卯兔也。水勝火,鼠何不逐馬?金勝木,雞何不啄兔?亥豕也,丑牛也。土勝水,牛羊何不殺豕?巳蛇也,申猴也。火勝金,蛇何不食獼猴?獼猴者,畏鼠也。嚙噬猴者,犬也。鼠水,獼猴金也。水不勝金,獼猴何故畏鼠也?戍土也,申猴也。土不勝金,猴何故畏犬?東方木也,其星倉龍也。西方金也,其星白虎也。南方火也,其星朱鳥也。

答える。「天はまさに一行の気で万物を生んで、相い親しみ愛させるべきであって、五行の気がかえって相い賊い害させるようにすべきではない。」

ある人が言う。「用に為そうとして、故に相い賊い害させたのであり、賊い害することが相い成すのである。だから天は五行の気で万物を生み、人は万物で万事を作す。相い制することができず、相い使うことができず、相い賊い害さなければ、用を成さない。金が木を賊わなければ、木は用を成さない。火が金を爍かさなければ、金は器を成さない。だから諸々の物が相い賊い相い利し、血を含む虫が相い勝ち服させ、相い嚙み噬み、相い啖い食うのは、みな五行の気がそうさせているのである。」

答える。「天が万物を生んで相い用と為させようとして、相い賊い害さざるを得なくしたというなら、虎や狼や蝮や蛇や蜂や蠆の虫を生んだのはみな人を賊い害するのだから、天はまた人をそれらの用と為させようとしたのか。その上、一人の身が五行の気を含むから、一人の行いに五常の操がある。五常は五行の道である。五臓が内にあって、五行の気が俱に具わっている。論者の言のとおりなら、血を含む虫が五行の気を懐いてすぐに相い賊い害するのだから、一人の身も胸に五臓を懐いて自ら相い賊い、一人の操も義を行う心が自ら相い害することになる。その上、五行の気が相い賊い害し、血を含む虫が相い勝ち服させるという、その験はどこにあるのか。」

言う。「寅は木で、その禽は虎である。戌は土で、その禽は犬である。丑と未もまた土で、丑の禽は牛、未の禽は羊である。木が土に勝つから、犬と牛と羊が虎に服させられる。亥は水で、その禽は豕である。巳は火で、その禽は蛇である。子もまた水で、その禽は鼠である。午もまた火で、その禽は馬である。水が火に勝つから、豕が蛇を食う。火が水に害されるから、馬が鼠の屎を食うと腹が脹れる。」

答える。「審らかに論者の言のとおりなら、血を含む虫に相い勝たない効もある。午は馬、子は鼠、酉は雞、卯は兔である。水が火に勝つなら、鼠はどうして馬を逐わないのか。金が木に勝つなら、雞はどうして兔を啄まないのか。亥は豕、丑は牛である。土が水に勝つなら、牛や羊はどうして豕を殺さないのか。巳は蛇、申は猴である。火が金に勝つなら、蛇はどうして獼猴を食わないのか。獼猴は鼠を畏れ、猴を嚙み噬むのは犬である。鼠は水、獼猴は金である。水は金に勝たないのに、獼猴はどういう理由で鼠を畏れるのか。戌は土、申は猴である。土は金に勝たないのに、猴はどういう理由で犬を畏れるのか。東方は木で、その星は倉龍である。西方は金で、その星は白虎である。南方は火で、その星は朱鳥であり、

北方水也,其星玄武也。天有四星之精,降生四獸之體。含血之蟲,以四獸為長,四獸含五行之氣最較著。案龍虎交不相賊,鳥龜會不相害。以四獸驗之,以十二辰之禽效之,五行之蟲以氣性相刻,則尤不相應。凡萬物相刻賊,含血之蟲則相服,至於相啖食者,自以齒牙頓利,筋力優劣,動作巧便,氣勢勇桀。若人之在世,勢不與適,力不均等,自相勝服。以力相服,則以刃相賊矣。夫人以刃相賊,猶物以齒角爪牙相觸刺也。力強角利,勢烈牙長,則能勝;氣微爪短(誅)〔銖〕,膽小距頓,則服畏也。

北方は水で、その星は玄武である。天に四つの星の精があって、降って四獸の体に生まれる。血を含む虫は四獸を長とするのであり、四獸が五行の気を含むことは最も較べて著れている。案ずるに、龍と虎が交わっても相い賊わず、鳥と龜が会っても相い害さない。四獸で験し、十二辰の禽で效えば、五行の虫が気や性で相い刻むというのは、いよいよ相い応じない。

およそ万物が相い刻み賊い、血を含む虫が相い服させ、相い啖い食うまでに至るのは、おのずから歯や牙が頓いか利いか、筋力が優るか劣るか、動作が巧みで便いか、気勢が勇ましく桀いかによるのである。人が世にあって、勢いが相い適わず、力が均しく等しくないので、おのずから相い勝ち服させるのと同じである。力で相い服させるなら、刃で相い賊うことになる。そもそも人が刃で相い賊うのは、物が歯や角や爪や牙で相い触れ刺すのと同じである。力が強く角が利く、勢いが烈しく牙が長ければ勝つことができ、気が微かで爪が短く銖く、胆が小さく距が頓ければ、服して畏れるのである。

人有勇怯,故戰有勝負,勝者未必受金氣,負者未必得木精也。孔子畏陽虎,卻行流汗,陽虎未必色白,孔子未必面青也。鷹之擊鳩雀,之啄鵠雁,未必鷹、生於南方而鳩雀、鵠雁產於西方也,自是筋力勇怯相勝服也。」

人に勇と怯があるから、戦いに勝ち負けがある。勝った者が必ず金の気を受けたのではなく、負けた者が必ず木の精を得たのではない。孔子は陽虎を畏れ、卻き行って汗を流したが、陽虎が必ず色が白かったのではなく、孔子が必ず面が青かったのではない。鷹が鳩や雀を撃ち、鸇が鵠や雁を啄むのは、必ずしも鷹や鸇が南方で生まれ、鳩や雀や鵠や雁が西方で産まれたからではない。おのずから筋力や勇怯が相い勝ち服させるのである。」

一堂之上,必有論者。一鄉之中,必有訟者。訟必有曲直,論必有是非。非而曲者為負,是而直者為勝。亦或辯口利舌,辭喻橫出為勝;或詘弱綴,蹇不比者為負。

一つの堂の上には必ず論ずる者がある。一つの郷の中には必ず訟える者がある。訟えには必ず曲と直があり、論には必ず是と非がある。非で曲がっている者が負け、是で直い者が勝つ。また、口が辯で舌が利く、辞や喻えが横しまに出る者が勝つこともあり、詘み弱く綴って、蹇えて比い整わない者が負けることもある。

以舌論訟,猶以劍戟斗也。利劍長戟,手足健疾者勝;頓刀短矛,手足緩留者負。夫物之相勝,或以筋力,或以氣勢,或以巧便。小有氣勢,口足有便,則能以小而制大;大無骨力,角翼不勁,則以大而服小。鵲食蝟皮,博勞食蛇,蝟蛇不便也。蚊虻之力不如牛馬,牛馬困於蚊虻,蚊虻乃有勢也。鹿之角足以觸犬,獼猴之手足以博鼠,然而鹿制於犬,獼猴服於鼠,角爪不利也。故十年之牛,為牧豎所驅;長仞之象,為越僮所鉤,無便故也。故夫得其便也,則以小能勝大;無其便也,則以強服於羸也。

舌で論じ訟えるのは、剣や戟で斗うのと同じである。利い剣と長い戟で、手足が健やかで疾い者が勝ち、頓い刀と短い矛で、手足が緩く留まる者が負ける。そもそも物が相い勝つのは、筋力によることもあり、気勢によることもあり、巧みで便いことによることもある。小さくても気勢があり、口や足が便いなら、小さいもので大きいものを制することができる。大きくても骨の力がなく、角や翼が勁くないなら、大きいもので小さいものに服することになる。

鵲が蝟の皮を食い、博勞が蛇を食うのは、蝟や蛇が便くないからである。蚊や虻の力は牛馬に及ばないが、牛馬が蚊や虻に困しむのは、蚊や虻に勢いがあるのである。鹿の角は犬を触くに足り、獼猴の手は鼠を博つに足るのに、鹿が犬に制せられ、獼猴が鼠に服するのは、角や爪が利くないからである。だから十年の牛が牧の豎に驅られ、長さ一仞の象が越の僮に鉤られるのは、便がないからである。だからその便を得れば、小さいもので大きいものに勝つことができ、その便がなければ、強いもので羸いものに服するのである。