いにしえの文 › 論衡(虚と実を秤にかける書)

卜筮篇

論衡(虚と実を秤にかける書) 論衡 · 王充 · 80年頃 · 段落 22 · 漢字 2,228字 · 朗読 8.9分

論衡(虚と実を秤にかける書) 後漢の人・王充が自ら明かしたこの書の意は四字である — 「疾虚妄」、虚しく妄りなものを憎む。天が人の事に応えて災いを下すとか、死ねば鬼神になって仇を返すとか、日を選ばなければ障りがあるとかいう、その時代の言い分を一つ一つ捕らえて論じる。 論じる肌合いが人とは違う。年長者の言葉だからといってそのままにしない — 孔子に問い(問孔)、孟子を刺し(刺孟)、韓非を否とする(非韓)。天が咎めて災いを下すという言い分には、それならば天はなぜ君主一人のために国中に旱を下すのかと問い返す。 「虚」の字が付いた九篇(書虚・変虚・異虚・感虚・福虚・禍虚・龍虚・雷虚・道虚)が一列に並び、古い書に記された不思議な話を順に捕らえる。「増」の字が付いた三篇(語増・儒増・芸増)は、言葉がどのように膨らんでいくのかを扱う。 吉験篇には、夫余の東明が弓をよく射たので王が殺そうとし、南へ逃れて掩淲水に至ったという話がある。今に残る東明の記録のうち最も早い形である。

俗信卜筮,謂卜者問天,筮者問地,蓍神龜靈,兆數報應,故舍人議而就卜筮,違可否而信吉凶。其意謂天地審告報,蓍龜真神也。如實論之,卜筮不問天地,蓍龜未必神靈。有神靈,問天地,俗儒所言也。

俗は占いを信じて、亀卜は天に問うものであり、筮(ぜい)は地に問うものであって、蓍(めどぎ)は神妙で亀は霊妙であり、きざしと数が応えて返るのだから、人の相談を捨てて占いに頼り、可否を差し置いて吉凶を信じるのだという。その意味は、天地が見きわめて告げ返し、蓍と亀はまことに神妙だということだ。実際に論じれば、占いは天地に問うのではなく、蓍と亀は必ず神妙なものではない。神妙さがあって天地に問うというのは、俗な儒者の言うことである。

何以明之?子路問孔子曰:「豬肩羊膊可以得兆,葦?可以得數,何必以蓍龜?」孔子曰:「不然!蓋取其名也。夫蓍之為言耆也,龜之為言舊也,明狐疑之事當問耆舊也。」

どうしてそう言えるか。子路が孔子に問うた。「豚の肩や羊の腿でもきざしを得られ、葦や蒲でも数を得られます。どうして必ず蓍と亀を使うのですか。」孔子は言った。「そうではない。おそらくその名を取ったのだ。そもそも蓍という言葉は耆(おい)であり、亀という言葉は旧(ふるさ)である。迷う事は年長く経験ある人に問うべきだということを明らかにしたのだ。」

由此言之,蓍不神,龜不靈,蓋取其名,未必有實也。無其實則知其無神靈,無神靈則知不問天地也。且天地口耳何在,而得問之?天與人同道。欲知天,以人事。相問,不自對見其人,親問其意,意不可知。欲問天,天高,耳與人相遠。如天無耳,非形體也。非形體則氣也,氣若雲霧,何能告人?蓍以問地,地有形體,與人無異。問人,不近耳則人不聞,人不聞則口不告人。夫言問天,則天為氣,不能為兆;問地,則地耳遠,不聞人言。信謂天地告報人者,何據見哉?

これによって言えば、蓍は神妙でなく、亀は霊妙でなく、おそらくその名を取っただけで、必ず実があるのではない。その実がないなら神妙さがないことが分かり、神妙さがないなら天地に問うのではないことが分かる。また天地の口や耳はどこにあって、問うことができるのか。天と人は道を同じくする。天を知ろうとするなら人の事でそれを知る。互いに問うとき、自分でその人に向かい合い、じかにその意を問わなければ、意は分からない。天に問おうとしても、天は高く、耳は人から遠い。天に耳がないのなら、形ある体ではない。形ある体でないなら気であり、気は雲や霧のようなもので、どうして人に告げられよう。蓍で地に問うが、地には形ある体があって、人と変わりがない。人に問うとき、耳に近づけなければ人は聞こえず、人が聞こえなければ口も人に告げない。そもそも天に問うというなら、天は気であってきざしになれず、地に問うというなら、地は耳が遠くて人の言葉を聞けない。まことに天地が人に告げ返すというなら、何を根拠に見るのか。

人在天地之間,猶虮虱之著人身也。如虮虱欲知人意,鳴人耳傍,人猶人聞。何則?

人が天地のあいだにいるのは、しらみの卵やしらみが人の体に付いているのと同じだ。しらみの卵やしらみが人の意を知ろうとして、人の耳のかたわらで鳴いても、人はやはり聞こえない。なぜか。

小大不均,音語不通也。今以微小之人,問巨大天地,安能通其聲音?天地安能知其旨意?或曰:「人懷天地之氣。天地之氣,在形體之中,神明是矣。人將卜筮,告令蓍龜,則神以耳聞口言,若己思念,神明從胸腹之中聞知其旨。故鑽龜揲蓍,兆見數著。」

大小が釣り合わず、音や言葉が通じないからだ。いま小さく微かな人が、巨大な天地に問うのだから、どうしてその声を通わせられよう。天地がどうしてその意を知りえよう。ある人はこう言う。「人は天地の気を抱いている。天地の気が体の中にあって、それが神明である。人が占おうとして蓍や亀に告げると、神が耳で聞き口で言うのが自分で思い考えるのと同じで、神明が胸や腹の中からその意を聞き知る。だから亀に穴を穿ち蓍をかぞえると、きざしが現れ数が顕れる。」

夫人用神思慮,思慮不決,故問蓍龜,蓍龜兆數,與意相應,則是神可謂明告之矣。時或意以為可,兆數不吉;或兆數則吉,意以為凶。夫思慮者己之神也,為兆數者亦己之神也。一身之神,在胸中為思慮,在胸外為兆數,猶人入戶而坐,出門而行也。行坐不異意,出入不易情。如神明為兆數,不宜與思慮異。天地有體,故能搖動。搖動,有生之類也;生,則與人同矣。問生人者須以生人,乃能相報。如使死人問生人,則必不能相答。今天地生而蓍龜死,以死問生,安能得報?枯龜之骨,死蓍之莖,問生之天地,世人謂之天地報應,誤矣。

そもそも人は神を使って思い考え、考えが決まらないので蓍や亀に問う。蓍や亀のきざしと数が意と合えば、それは神が明らかに告げたと言ってよい。だが、ときには意では可だと思うのにきざしや数が吉でなく、あるいはきざしや数は吉なのに意では凶だと思う。そもそも思い考えるのは自分の神であり、きざしや数となるのもまた自分の神である。一つの身の神が、胸の中にあれば思い考えとなり、胸の外にあればきざしや数となるのは、人が戸に入って座り、門を出て歩くのと同じだ。歩くときと座るときで意は違わず、出るときと入るときで情は変わらない。神明がきざしや数となるのなら、思い考えと違うはずがない。天地には体があるので、揺れ動くことができる。揺れ動くのは生あるたぐいであり、生があるなら人と同じである。生きた人に問う者は、生きた人でなければ応え合うことができない。死んだ人に生きた人へ問わせれば、必ず応え合うことができない。いま天地は生きていて蓍と亀は死んでいる。死んだもので生きたものに問うて、どうして応えを得られよう。枯れた亀の骨、死んだ蓍の茎で、生きた天地に問い、世の人はそれを天地が応え返したというのは、誤りである。

如蓍龜為若版牘,兆數為若書字,象類人君出教令乎,則天地口耳何在,而有教令?孔子曰:「天何言哉?四時行焉,百物生焉。」

蓍と亀が板や木札のようなもので、きざしと数が文字のようなもので、君主が教令を出すのに似ているというなら、天地の口と耳はどこにあって、教令があるのか。孔子は言った。「天が何を言うだろう。四季がめぐり、あらゆる物が生まれる。」

天不言,則亦不聽人之言。天道稱自然無為,今人問天地,天地報應,是自然之有為以應人也。案《易》之文,觀揲蓍之法,二分以象天地,四揲以象四時,歸奇於以象閏月。以象類相法,以立卦數耳,豈云天地(合)〔告〕報人哉?

天が言わないのなら、人の言葉も聞かない。天の道は自然で何もしないと言われるのに、いま人が天地に問い、天地が応え返すというなら、それは自然なものが働きをもって人に応えることになる。『易』の文を見て蓍を数える法を見れば、二つに分けて天地になぞらえ、四つずつ数えて四季になぞらえ、余りを指のあいだに挟んで閏月になぞらえる。似たかたちを互いになぞらえて、卦の数を立てているだけであって、どうして天地が人に告げ返すなどと言えよう。

人道,相問則對,不問不應。無求,空扣人之門;無問,虛辨人之前:則主人笑而不應,或怒而不對。試使卜筮之人空鑽龜而卜,虛揲蓍而筮,戲弄天地,亦得兆數,天地妄應乎?又試使人罵天而卜,驅地而筮,無道至甚,亦得兆數。苟謂兆數天地之神,何不滅其火,灼其手,振其指,而亂其數,使之身體疾痛,血氣湊踊,而猶為之見兆出數,何天地之不憚勞,用心不惡也?由此言之,卜卜筮不問天地,兆數非天地之報,明矣。

人の道では、互いに問えば答え、問わなければ応じない。求めもなくむなしく人の門を叩き、問いもなくむなしく人の前で言い立てれば、主人は笑って応じないか、怒って答えない。試しに占う人に、むなしく亀を穿って占わせ、むなしく蓍を数えて占わせ、天地をからかっても、やはりきざしと数は得られる。天地はでたらめに応じるのか。また試しに人に、天を罵りながら占わせ、地をむち打ちながら占わせ、道に外れることがこの上なくひどくても、やはりきざしと数が得られる。もしきざしと数が天地の神だというなら、どうしてその火を消し、その手を焼き、その指を震わせてその数を乱し、その体を痛ませ血気を逆立たせることをせず、それでもその者のためにきざしを見せ数を出すのか。どうして天地が労を惜しまず、心づかいが憎まないのか。これによって言えば、占いは天地に問うものではなく、きざしと数は天地の応えではないことが明らかだ。

然則卜筮亦必有吉凶。論者或謂隨人善惡之行也,猶瑞應應(一作隨。)善而至,災異隨惡而到。治之善惡,善惡所致也,疑非天地故應之也。吉人鑽龜,輒從善兆;凶人揲蓍,輒得逆數。何以明之?紂,至惡之君也。當時災異繁多,七十卜而皆凶,故祖伊曰:「格人元龜,罔敢知吉。」

とはいえ、占いにもやはり必ず吉凶がある。論ずる者は、それは人の善悪のふるまいに従うのだといい、めでたいしるしが善に応じて来り、災いや異変が悪に従って来るのと同じだという。政の善悪は、善悪が招いたものであって、おそらく天地がわざわざ応じたものではない。吉い人が亀を穿てばすぐ良いきざしに当たり、凶い人が蓍を数えればすぐ逆らう数を得る。どうしてそう言えるか。紂はこの上なく悪い君主である。当時は災いや異変が数多く、七十度占ってどれも凶だったので、祖伊はこう言った。「至れる人も大きな亀も、あえて吉を知ることができない。」

賢者不舉,大龜不兆,災變亟至。周武受命,高祖龍興,天人并佑,奇怪既多,丰、沛子弟,卜之又吉。故吉人之體,所致無不良;凶人之起,所招無不丑。衛石駘卒,無適子,有庶子六人,卜所以為后者,曰:「沐浴佩玉則兆。」五人皆沐浴佩玉。石祁子曰:「焉有執親之喪而沐浴佩玉!」

賢い者は用いられず、大きな亀はきざしを出さず、災いや変事がしばしば起こった。周の武王が命を受け、高祖が竜のように立ったときは、天も人もともに助け、不思議なことがすでに多く、豊や沛の若者たちが占うとやはり吉だった。だから吉い人の身が招くものは良くないものがなく、凶い人が立つとき呼ぶものは醜くないものがない。衛の石駘が死んで嫡子がなく、庶子が六人いたので、後継ぎになる者を占ったところ、こう出た。「身を清めて玉を帯びれば、きざしが出る。」五人はみな身を清めて玉を帯びた。石祁子は言った。「どうして親の喪に当たりながら身を清めて玉を帯びる者があろう。」

不沐浴佩玉,石祁子兆。衛人卜,以龜為有知也。龜非有知,石祁子自知也。祁子行善政,有嘉言,言嘉政善,故有明瑞。使時不卜,謀之於眾,亦猶稱善。何則?人心神意同吉凶也。

身を清めず玉を帯びなかったのに、石祁子にきざしが出た。衛の人が占ったのは、亀に知があると考えたからである。亀に知があるのではなく、石祁子が自分で分かっていたのだ。祁子は善い政を行い、よい言葉があった。言葉がよく政が善いので、明らかなしるしがあったのである。そのとき占わずに人々に相談したとしても、やはり善いと評されたであろう。なぜか。人の心と神の意は吉凶を同じくするからだ。

此言若然,然非卜筮之實也。

この言葉はそれらしく聞こえるが、占いの実ではない。

夫鑽龜揲蓍,自有兆數,兆數之見,自有吉凶,而吉凶之人,適與相逢。吉人與善兆合,凶人與惡數遇,猶吉人行道逢吉事,顧睨見祥物,非吉事祥物為吉人瑞應也。凶人遭遇凶惡,於道亦如之。夫見善惡非天應答,適與善惡相逢遇也。鑽龜揲蓍有吉凶之兆者,逢吉遭凶之類也。何以明之?周武王不豫,周公卜三龜,公曰:「乃逢是吉。」

そもそも亀を穿ち蓍を数えれば、おのずときざしと数があり、きざしと数が現れればおのずと吉凶があって、吉凶の人がたまたまそれと行き合うのである。吉い人が良いきざしと合い、凶い人が悪い数と出合うのは、吉い人が道を行って吉い事に出合い、ふり向いてめでたい物を見るのと同じで、吉い事やめでたい物が吉い人のためのめでたい応えなのではない。凶い人が凶悪に遭うのも、道の上では同じことだ。そもそも善や悪を見るのは天の応答ではなく、たまたま善や悪と行き合うのである。亀を穿ち蓍を数えて吉凶のきざしがあるのは、吉に出合い凶に遭うのと同じたぐいだ。どうしてそう言えるか。周の武王が心地よくなかったとき、周公は三つの亀で占い、公はこう言った。「まさにこの吉に出合った。」

魯卿庄叔生子穆叔,以《周易》筮之,遇《明夷》之《謙》。夫卜曰逢,筮曰遇,實遭遇所得,非善惡所致也。善則逢吉,惡則遇凶,天道自然,非為人也。推此以論,人君治有吉凶之應,亦猶此也。君德遭賢,時適當平,嘉物奇瑞偶至。不肖之君,亦反此焉。

魯の卿、荘叔が子の穆叔を生んで、『周易』で占ったところ、「明夷」が「謙」に行くのに出合った。そもそも亀卜では「逢」といい、筮では「遇」という。実際に出合って得たものであって、善悪が招いたものではない。善ければ吉に逢い、悪ければ凶に遇うのは、天の道が自然にそうなのであって、人のためではない。これを推して論ずれば、君主の政に吉凶の応えがあるのも、やはり同じことだ。君の徳が賢い者に出合い、時がたまたま平らかなときに当たれば、よい物や珍しいしるしがたまたま来る。ふつつかな君はまた、その逆である。

世人言卜筮者多,得實誠者寡。論者或謂蓍龜可以參事,不可純用。夫鑽龜揲蓍,兆數輒見,見無常占,占者生意。吉兆而占謂之凶,凶數而占謂之吉,吉凶不效,則謂卜筮不可信。周武王伐紂,卜筮之逆,占曰:「大凶。」

世の人で占いを語る者は多いが、ほんとうの実を得た者は少ない。論ずる者は、蓍と亀は事の参考にはできるが、そればかりを用いることはできないという。そもそも亀を穿ち蓍を数えれば、きざしと数はすぐ現れるが、現れたものに決まった読みはなく、占う者が勝手に意味をつける。吉いきざしなのに占って凶だと言い、凶い数なのに占って吉だと言う。吉凶が当たらないと、占いは信じられないという。周の武王が紂を討つとき、占いが逆らい、占って「大凶」と言った。

太公推蓍蹈龜而曰:「枯骨死草,何知而凶!」

太公は蓍を押しのけ亀を踏んで言った。「枯れた骨と死んだ草が、何を知って凶というのか。」

夫卜筮兆數,非吉凶誤也,占之不審吉凶,吉凶變亂,變亂,故太公黜之。夫蓍筮龜卜,猶聖王治世;卜筮兆數,猶王治瑞應。瑞應無常,兆數詭異。詭異則占者惑,無常則議者疑。疑則謂(平)〔世〕未治,惑則謂(吉)〔占〕不良。何以明之?夫吉兆數,吉人可遭也;治遇符瑞,聖德之驗也。周王伐紂,遇烏魚之瑞,其卜曷為逢不吉之兆?使武王不當起,出不宜逢瑞;使武王命當興,卜不宜得凶。由此言之,武王之卜,不得凶占,謂之凶者,失其實也。魯將伐越,筮之,得鼎折足,子貢占之以為凶。何則?鼎而折足,行用足,故謂之凶。孔子占之以為吉,曰:「越人水居,行用舟不用足,故謂之吉。」

そもそも占いのきざしと数は吉凶を誤っているのではなく、占う者が吉凶を見きわめられず、吉凶が変わって乱れるのである。変わって乱れるので、太公はそれを退けた。そもそも蓍の筮と亀の卜は、聖王が世を治めることに似ており、占いのきざしと数は、王の政に対するめでたい応えに似ている。めでたい応えには決まりがなく、きざしと数は怪しく一様でない。怪しく一様でなければ占う者は惑い、決まりがなければ議する者は疑う。疑えば世はまだ治まっていないといい、惑えば占いが良くないという。どうしてそう言えるか。そもそも吉いきざしと数は吉い人が出合えるものであり、政においてめでたいしるしに出合うのは聖なる徳の証しである。周王が紂を討つとき、烏や魚のしるしに出合った。それならその占いがどうして吉くないきざしに逢ったのか。武王が立つべきでなかったのなら、出陣にめでたいしるしに出合うべきでない。武王の命が興るべきだったのなら、占いで凶を得るべきでない。これによって言えば、武王の占いは凶の占いを得たのではなく、凶だと言ったのは、その実を外していたのである。魯が越を討とうとして筮を立て、鼎の足が折れるのを得たので、子貢は占って凶とした。なぜか。鼎の足が折れれば、行くには足を使うのだから、凶だとしたのだ。孔子は占って吉とし、こう言った。「越の人は水に住み、行くには舟を使って足を使わない。だから吉だというのだ。」

魯伐越,果克之。夫子貢占鼎折足以為凶,猶周之占卜者謂之逆矣。逆中必有吉,猶折鼎足之占宜以伐越矣。周多子貢直占之知,寡若孔子詭論之材,故睹非常之兆,不能審也。世因武王卜無非而得凶,故謂卜筮不可純用,略以助政,示有鬼神,明己不得專。

魯が越を討って、本当に勝った。そもそも子貢が鼎の足が折れるのを占って凶としたのは、周の占う者が逆らいだと言ったのと同じである。逆らいの中に必ず吉があるのは、鼎の足が折れる占いが越を討つのにかなっていたのと同じだ。周には子貢のようにそのまま占う知は多かったが、孔子のように裏返して論ずる才は少なかったので、並ならぬきざしを見ても見きわめられなかったのである。世は、武王の占いに誤りがないのに凶を得たことから、占いはそればかりを用いることはできず、おおよそ政を助けるもので、鬼神があることを示し、自分が思いどおりにできないことを明らかにするものだというのである。

著書記者,采掇行事,若韓非《飾邪》之篇,明已效之驗,毀卜訾筮,非世信用。夫卜筮非不可用,卜筮之人占之誤也。《洪范》稽疑,卜筮之變,必問天子卿士,或時審是。夫不能審占,兆數不驗,則謂卜筮不可信用。晉文公與楚子戰,夢與成王搏,成王在上而其腦,占曰「凶」。

書を著し記す者は行われた事を選び取るが、韓非の「飾邪」篇のようなものは、すでに当たった証しを明らかにして、亀卜をそしり筮をなじり、世が信じて用いることを誤りとした。そもそも占いは用いられないのではなく、占う人の占いが誤っているのだ。『洪範』の稽疑は、占いの変わったときには必ず天子や卿士に問うというから、ときには見きわめて正しいこともある。そもそも占いを見きわめられず、きざしと数が当たらないと、占いは信じて用いられないという。晋の文公が楚子と戦うとき、夢に成王と組み合って、成王が上になってその脳を吸うのを見た。占って「凶」と言った。

咎犯曰:「吉!君得天,楚伏其罪。君之腦者,柔之也。」

咎犯は言った。「吉です。君は天を得て、楚はその罪に伏します。君の脳を吸うのは、君を和らげることです。」

以戰果勝,如咎犯占。夫占夢與占龜同。晉占夢者不見象指,猶周占龜者不見兆者為也。象無不然,兆無不審。人之知暗,論之失實也。傳或言武王伐紂,卜之而龜,占者曰「凶」。太公曰:「龜,以祭則凶,以戰則勝。」武王從之,卒克紂焉。審若此傳,亦復孔子論卦,咎犯占夢之類也。蓋兆數無不然,而吉凶失實者,占不巧工也。

戦って本当に勝ち、咎犯の占いどおりだった。そもそも夢の占いと亀の占いは同じである。晋の夢を占う者がかたちの指すところを見抜けなかったのは、周の亀を占う者がきざしのしていることを見抜けなかったのと同じだ。かたちはそうでないものがなく、きざしは見きわめられないものがない。人の知が暗くて、論ずることが実を外しているのだ。伝えには、武王が紂を討つとき占ったところ亀の甲が焦げ、占う者が「凶」と言ったとするものもある。太公は言った。「亀が焦げたのは、祭りに使えば凶ですが、戦に使えば勝ちます。」武王はそれに従い、ついに紂を破った。この伝えのとおり見きわめるなら、これもまた孔子が卦を論じ、咎犯が夢を占ったのと同じたぐいである。思うに、きざしと数はそうでないものがないのに、吉凶が実を外すのは、占う者が巧みな職人でないからである。