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蓋鹵王

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 12 · 漢字 2,046字 · 朗読 8.2分

三国史記(三国時代の正史) 百済本紀 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1蓋鹵王が即位する

蓋鹵王,諱慶司,毗有王之長子。毗有在位二十九年,薨,嗣。

蓋鹵王は名が慶司で、毗有王の長子である。毗有が位にあって二十九年に亡くなると、継いだ。

夾注 1

或云近蓋婁。

近蓋婁ともいう。

2十四年 — 日食がある

十四年,冬十月癸酉朔,日有食之。

十四年、冬十月の朔の癸酉に、日食があった。

3十五年 — 靑木嶺に大きな柵を設ける

十五年,秋八月,遣將侵高句麗南鄙。冬十月,葺雙峴城,設大柵於靑木嶺,分北漢山城士卒戍之。

十五年、秋八月に、将を遣わして高句麗の南の辺りを侵した。冬十月に、雙峴城を修め、靑木嶺に大きな柵を設け、北漢山城の兵を分けてこれを守らせた。

4十八年 — 魏に表を上る(前)

十八年,遣使朝魏。上表曰:「臣立國東極,豺狼隔路,雖世承靈化,莫由奉藩。瞻望雲闕,馳情罔極,凉風微應。伏惟皇帝陛下,協和天休,不勝係仰之情。謹遣私署冠軍將軍駙馬都尉弗斯侯長史餘禮,龍驤將軍帶方太守司馬張茂等,投舫波阻,搜徑玄津,託命自然之運,遣進萬一之誠。冀神祇垂感,皇靈洪覆,克達天庭,宣暢臣志,雖旦聞夕沒,永無餘恨。」又云:「臣與高句麗,源出扶餘夫餘,先世之時,篤崇舊款。其祖釗,輕廢鄰好,親率士衆,凌踐臣境。臣祖須,整旅電邁,應機馳擊,矢石暫交,梟斬釗首。自爾已來,莫敢南顧。自馮氏數終,餘燼奔竄,醜類漸盛。遂見凌逼,構怨連禍,三十餘載,財殫力竭,轉自孱踧。若天慈曲矜,遠及無外,速遣一將,來救臣國,當奉送鄙女,執箒後宮,幷遣子弟,牧圉外廐,尺壞壤匹夫,不敢自有。

十八年に、使者を遣わして魏に朝し、表を上った。

「臣は国を東の果てに立てましたので、山犬と狼が道をふさぎ、代々神しき教化を受け継いできたとはいえ、藩として奉る道がありませんでした。雲のかかる宮門を仰ぎ望めば、馳せる思いは限りなく、涼しい風がわずかに応えます。伏して思いますに、皇帝陛下は天の恵みと和し合われますので、繋ぎ仰ぐ思いに堪えられません。

つつしんで、私に署した冠軍將軍・駙馬都尉・弗斯侯の長史の餘禮と、龍驤將軍・帶方太守・司馬の張茂らを遣わし、波にさえぎられた所に舟を投げ、黒い渡し場に道を探らせ、命を自然の運に託して、万に一つの誠を進め捧げさせます。願わくは天地の神が感じを垂れ、皇帝の霊が広く覆われ、よく天の庭に達して臣の志を述べ明らかにできましたならば、朝に聞いて夕に死のうとも、永く残る恨みはございません。」

また言った。

「臣は高句麗とともに源が扶餘から出ましたので、先の世には古い交わりを篤く重んじておりました。その祖父の釗が隣との好みを軽んじて捨て、自ら兵を率いて臣の境を踏み荒らしました。臣の祖父の須が軍を整えて電のように進み、機に応じて馳せ撃ちましたので、矢と石がしばし交わるうちに釗の首を斬って梟しました。それ以来、あえて南を顧みることはありませんでした。

馮氏の運が尽きてのち、残った者どもが逃れ隠れ、醜い輩が次第に盛んになりました。ついに踏まれ迫られ、怨みを結び禍が続いて三十余年、財は尽き力は枯れ、次第に自ら縮こまってまいりました。もし天の慈しみが曲げて憐れみ、遠く外にまで及びましたならば、速やかに一人の将を遣わして臣の国をお救いください。かならず我が娘を奉り送って後宮で箒を執らせ、あわせて子弟を遣わして外の厩で馬を飼わせましょう。一尺の土地、一人の男も、あえて自ら持とうとはいたしません。」

5十八年 — 魏に表を上る(後)

」又云:「今璉有罪,國自魚肉,大臣彊族,戮殺無已,罪盈惡積,民庶崩離,是滅亡之期,假手之秋也。且馮族士馬,有鳥畜之戀,樂浪諸郡,懷首丘之心,天威一擧,有征無戰,臣雖不敏,志效畢力,當率所統,承風響應。且高句麗不義,逆詐非一,外慕隗囂藩卑之辭,內懷凶禍豕突之行。或南通劉氏,或北約蠕蠕,共相脣齒,謀凌王略。昔唐堯至聖,致罰丹水,孟嘗稱仁,不捨塗詈。涓流之水,宜早壅塞,今若不取,將貽後悔。去庚辰年後,臣西界小石山北國海中,見屍十餘,幷得衣器鞍勒,視之,非高句麗之物。後聞,乃是王人來降臣國,長蛇隔路,以沈于海。雖未委當,深懷憤恚。昔宋戮申舟,楚莊徒跣,鷂撮放鳩,信陵不食。克敵立名,美隆無已,夫以區區偏鄙,猶慕萬代之信,況陛下合氣天地,勢傾山海,豈令小竪,跨塞天逵?今上所得鞍一以實驗。

また言った。

「いま璉には罪があり、国は自ら魚や肉のように裂かれ、大臣や強い族を殺すことをやめず、罪は満ち悪は積もって、民は崩れ離れております。これは滅亡の時であり、手を借りる秋であります。

また馮族の兵と馬には鳥や獣が古い巣を慕う思いがあり、楽浪の諸郡は首を丘に向ける心を抱いておりますので、天の威がひとたび挙がれば、征つことはあっても戦うことはございません。臣は不敏ではありますが、志は力を尽くすことにならい、かならず統べるところを率いて、風を承けて響き応えましょう。

また高句麗は義しからず、逆らい偽ることは一度ではありません。外には隗囂が藩として身を低くした言葉を慕いながら、内には凶しき禍と猪のように突き進む行いを抱いております。あるいは南に劉氏と通じ、あるいは北に蠕蠕と約し、ともに唇と歯となって王の治めを踏み越えようと謀っております。

昔、唐堯は至れる聖でありながら丹水に罰を加え、孟嘗は仁と称えられながら道で罵る者を見逃しませんでした。細く流れる水は早くに塞ぐべきものですから、いま取られなければ、のちの悔いを残されることになりましょう。

去る庚辰の年のあと、臣の西の境の小石山の北の海の中で屍十余を見、あわせて衣と器と鞍と手綱を得ましたが、見ればそれは高句麗の物ではありませんでした。のちに聞きますと、それは王の人が臣の国に下って来るところを、長い蛇が道をふさいだために海に沈んだのでした。くわしくは分かりませんが、深く憤りを抱いております。

昔、宋が申舟を殺すと楚の莊王は裸足で立ち、鷂が放した鳩をつかむと信陵君は食を取りませんでした。敵に克って名を立てる美しさは盛んで極まりがなく、小さく偏った辺りの者でさえなお万代の信を慕うのですから、まして陛下は気を天地に合わせ、勢いは山と海を傾けられるのに、どうして小さな童に天の大路をふさがせておかれましょうか。いま得た鞍一つを上って、実際に験していただきます。」

6十八年 — 顯祖が詔を下す(前)

」顯祖以其僻遠冒險朝獻,禮遇尤厚。遣使者邵安,與其使俱還。詔曰:「得表聞之,無恙甚喜。卿在東隅,處五服之外,不遠山海,歸誠魏闕,欣嘉至意,用戢于懷。朕承萬世之業,君臨四海,統御群生。今宇內淸一,八表歸義,襁負而至者,不可稱數。風俗之和,士馬之盛,皆餘禮等,親所聞見。卿與高句麗不穆,屢致凌犯,苟能順義,守之以仁,亦何憂於寇讐也?前所遣使,浮海以撫荒外之國,從來積年,往而不返,存亡達否,未能審悉。卿所送鞍,比校較舊乘,非中國之物。不可以疑似之事,以生必然之過,經略權要,以具別旨。」又詔曰:「知:高句麗阻疆,侵軼卿土,修先君之舊怨,棄息民之大德。兵交累載,難結荒邊,使兼申胥之誠,國有楚、越之急。乃應展義扶微,乘機電擧。

顯祖は、彼が辺遠でありながら危険を冒して朝し献じたとして、礼をもってもてなすことをとりわけ厚くした。使者の邵安を遣わし、その使者とともに帰らせ、詔を下した。

「表を得て聞き、無事であるとのこと、たいへん喜ばしい。卿は東の隅にあって五服の外に処りながら、山と海を遠いとせず、誠をもって魏の宮門に帰してきた。その至れる心を喜び嘉し、胸に収めておく。

朕は万世の業を承けて四海に君臨し、群がる生を統べ治めている。いま宇内は清く一つとなり、八方の外も義に帰して、幼子を背負って来る者は数え切れない。風俗の和らぎと兵馬の盛んなことは、みな餘禮らが自ら聞き見たところである。

卿が高句麗と睦まじくなく、たびたび踏まれ犯されているというが、まことに義に従い、仁をもって守ることができるなら、また仇や寇を何を憂えることがあろうか。

先に遣わした使者は、海に浮かんで荒れた外の国を慰めさせたものであるが、年を重ねても行ったまま帰らず、生きているか死んだか、着いたかどうか、くわしくは知ることができなかった。卿が送った鞍は、昔乗っていたものと比べてみると中国の物ではない。似ているという事柄によって、かならずそうであるという過ちを生じさせてはならないので、経略の要となる計りごとは、別に旨を具えることとする。」

また詔を下した。

「知った。高句麗が険しさを頼んで卿の土地を侵し、先の君の古い怨みを繰り返して、民を休ませる大きな徳を捨てたとのこと、兵の交わりは幾年にも及び、難は荒れた辺りに結ばれ、使者は申胥の誠を兼ね、国には楚と越の急があるという。そこで義を展べて弱きを扶け、機に乗じて電のように挙がるべきであろう。

7十八年 — 顯祖が詔を下す(後)

但以高句麗稱藩先朝,供職日久。於彼,雖有自昔之釁,於國,未有犯令之愆。卿使命始通,便求致伐,尋討事會,理亦未周。故往年遣禮等至平壤,欲驗其由狀,然高句麗奏請頻煩,辭理俱詣,行人不能抑其請,司法無以成其責,故聽其所啓,詔禮等還。若今復違旨,則過各咎益露,後雖自陳,無所逃罪,然後興師討之,於義為得。九夷之國,世居海外,道暢則奉藩,惠戢則保境。故羈縻著於前典,楛貢曠於歲時。卿備陳彊弱之形,具列往代之迹,俗殊事異,擬貺乖衷。洪規大略,其致猶在。今中夏平一,宇內無虞。每欲陵威東極,懸旌域表,拯荒黎於偏方,舒皇風於遠服。良由高句麗卽敍,未及卜征。今若不從詔旨,則卿之來謀,載協朕意,元戎啓行,將不云遠。便可豫率同興,具以待事,時遣報使,速究彼情。

ただ、高句麗は先の朝に藩と称して職を供えてから日が久しい。彼にとっては昔からの隙があるとはいえ、国に対してはまだ令を犯した咎がない。卿の使命が通じたばかりでただちに討つことを求めるので、事の成り行きを尋ね考えてみても、理はまだ行き届かない。

それゆえ去年、餘禮らを平壌に遣わしてその由と状を験そうとしたが、高句麗が奏し請うことがしきりで、言葉も理もともに備わっていたため、使いの者はその請いを抑えることができず、法を司る者もその責めを成すことができなかった。それゆえその啓したところを聴き、詔して餘禮らを帰らせた。

もしいま再び旨に違うなら、過ちと咎はいよいよ露れるであろうから、のちに自ら陳べたとしても罪を逃れるところはなく、そのうえで軍を興してこれを討つのが、義にかなうことになろう。

九夷の国は代々海の外に住み、道が通れば藩を奉り、恵みがやめば境を保つ。それゆえ羈め繋いでおくことが先の典に著され、楛の貢ぎは歳の折々に絶えがちであった。

卿は強弱の形を具えて陳べ、過ぎた代の跡を列ね挙げたが、俗が異なり事が違うので、比べ量ることは本意に背く。広い規と大きな略は、その趣きがなお残っている。

いま中夏は平らに一つとなり、宇内に憂いはない。つねに東の果てに威を及ぼし、境の外に旗を掲げ、偏った地の荒れた民を救い、皇の風を遠い服にまで広げたいと思っている。まことに高句麗が序に従っていたので、まだ征つことを卜うには及ばなかったのである。

いまもし詔の旨に従わないなら、卿が来て謀ったところが朕の意にかなうことになるから、大軍が道を開く日も遠いとは言えまい。そこで、あらかじめともに起こることを率いて備え、事を待ち、折々に報せの使者を遣わして、あちらの事情を速やかに究めよ。

8十八年 — 邵安が着かずに帰る

師擧之日,卿為鄕導之首,大捷之後,又受元功之賞,不亦善乎?所獻錦布海物,雖不悉達,明卿至心。今賜雜物如別幅。」又詔璉護送安等。安等至高句麗,璉稱昔與餘慶有讎,不令東過,安等於是皆還,乃下詔切責之。後使安等,從東萊浮海,賜餘慶璽書,褒其誠節。安等至海濱,遇風飄蕩,竟不達而還。王以麗人屢犯邊鄙,上表乞師於魏,不從。王怨之,遂絶朝貢。

軍を挙げる日に、卿が道案内の首となり、大いに勝ったのちに、また元功の賞を受けるなら、それもよいではないか。献じた錦と布と海の物は、ことごとく届いたわけではないが、卿の至れる心は明らかである。いま雑多な物を別の幅のとおりに賜る。」

また詔して璉に邵安らを護り送らせた。邵安らが高句麗に至ると、璉は昔から餘慶と仇があると称して東へ通らせなかったので、邵安らはそこでみな帰った。そこで詔を下してきびしくこれを責めた。

のちに邵安らに命じ、東萊から海に浮かんで餘慶に璽書を賜り、その誠と節を褒めさせた。邵安らは海辺に至って風に遭い漂い、ついに着かずに帰った。

王は高句麗の人がたびたび辺りを犯すとして、表を上って魏に兵を乞うたが、従われなかった。王はこれを怨み、ついに朝貢を絶った。

9二十一年 — 道琳が碁で近づく

二十一年,秋九月,麗王巨璉帥兵三萬,來圍王都漢城。王閉城門不能出戰。麗人分兵為四道,夾攻,又乘風縱火,焚燒城門。人心危懼,或有欲出降者。王窘不知所圖,領數十騎,出門西走。麗人追而害之。先是,高句麗長壽王,陰謀百濟,求可以間諜於彼者。時,浮屠道琳應募曰:「愚僧旣不能知道,思有以報國恩。願大王不以臣不肖,指使之,期不辱命。」王悅,密使譎百濟。於是,道琳佯逃罪,奔入百濟。時,百濟王近蓋婁好博。道琳詣王門,告曰:「臣少而學碁,頗入妙,願有聞於左右。」王召入對碁,果國手也。遂尊之,為上客,甚親昵之,恨相見之晚。道琳一日侍坐,從容曰:「臣異國人也,上不我疎外,恩私甚渥,而惟一技之是效,未嘗有分毫之益。今願獻一言,不知上意如何耳。

二十一年、秋九月に、高句麗の王の巨璉が兵三万を率いて王都の漢城を囲みに来た。王は城門を閉ざして出て戦うことができなかった。高句麗の人は兵を四つの道に分けて挟み撃ちにし、また風に乗じて火を放ち、城門を焼いた。人の心は危ぶみ恐れ、出て降ろうとする者もあった。王は窮して謀るところを知らず、数十騎を率いて門を出て西へ走ったので、高句麗の人は追ってこれを害した。

これより先、高句麗の長壽王はひそかに百済を謀り、あちらに間諜として行ける者を求めた。そのとき僧の道琳が募りに応じて言った。「愚かな僧はすでに道を知ることができませんので、国の恩に報いることを思います。願わくは大王が臣を不肖と思わずにお指し向けくださいますなら、命を辱めないことをお約束いたします。」

王は喜び、ひそかに百済を欺かせた。そこで道琳は偽って罪を逃れるふりをし、百済へ逃げ込んだ。

そのとき百済の王の近蓋婁は碁を好んでいた。道琳は王の門に参って申し上げた。「臣は幼くして碁を学び、かなり妙なところに入っておりますので、お側に聞いていただきたく存じます。」

王は召し入れて碁を交わしてみると、まことに国の第一の手であった。そこで尊んで上客とし、たいそう親しみ、互いに会うのが遅かったことを恨んだ。

道琳はある日、侍り座ってから、おもむろに言った。「臣は異なる国の人でありますのに、上は私を疎み外すことなく、恩と私しみがたいそう厚いのに、ただ一つの技をもってならうばかりで、まだ毛筋ほどの益もございません。いま一言を献じたいと存じますが、上の御意がどうであるかは分かりかねます。」

10二十一年 — 国が窮して困る

」王曰:「第言之,若有利於國,此所望於師也。」道琳曰:「大王之國,四方皆山丘河海,是天設之險,非人為之形也。是以,四鄰之國,莫敢有覦心,但願奉事之不暇。則王當以崇高之勢,富有之業,竦人之視聽,而城郭不葺,宮室不修。先王之骸骨,權攢於露地,百姓之屋廬,屢壞於河流,臣竊為大王不取也。」王曰:「諾!吾將為之。」於是,盡發國人,烝土築城,卽於其內,作宮樓閣臺榭,無不壯麗。又取大石於郁里河,作槨以葬父骨,緣河樹堰,自蛇城之東,至崇山之北。是以,倉庾虛竭,人民窮困,邦之陧杌,甚於累卵。於是,道琳逃還以告之。長壽王喜,將伐之,乃授兵於帥臣。近蓋婁聞之,謂子文周曰:「予愚而不明,信用姦人之言,以至於此。民殘而兵弱,雖有危事,誰肯為我力戰?吾當死於社稷,汝在此俱死,無益也。

王は言った。「ともかく言ってみよ。もし国に利があるなら、それは師に望むところである。」

道琳は言った。「大王の国は四方がみな山と丘と川と海で、これは天が設けた険しさであり、人の作った形ではありません。それゆえ四方の隣の国はあえて覗う心を持てず、ただ奉り仕えるのに暇がないことを願うばかりです。それならば王は、崇く高い勢いと富み有つ業をもって人の見聞きするところを畏れさせるべきでありますのに、城郭は修めず、宮室は直しておられません。先の王の骸骨は仮に露わな地に集められ、民の小屋はたびたび川の流れに壊されております。臣はひそかに大王のために取らぬところであります。」

王は言った。「よし。わたしはそうしよう。」

そこで国の人をことごとく徴し、土を蒸して城を築き、そのうちに宮と楼閣と臺榭を造ったが、壮んで麗しくないものはなかった。また大きな石を郁里河から取って槨を作り、父の骨を葬り、川に沿って堰を立て、蛇城の東から崇山の北に至った。

それによって倉は空しく尽き、人民は窮して困り、国の危うさは積み重ねた卵よりも甚だしくなった。

そこで道琳が逃げ帰ってこれを告げたので、長壽王は喜び、攻めようとして、将たる臣に兵を授けた。近蓋婁はこれを聞き、子の文周に言った。「わたしは愚かで明らかでなく、姦しい人の言を信じ用いて、ここに至った。民は衰え兵は弱いのだから、危うい事があっても、誰が進んでわたしのために力を尽くして戦おうか。わたしはまさに社稷に死ぬべきであるが、お前がここにあってともに死ぬのは益がない。

11二十一年 — 蓋鹵王が阿旦城の下で殺される

盍避難以續國系焉?」文周乃與木劦滿致、祖彌桀取南行焉。至是,高句麗對盧齊于、再曾桀婁、古尒萬年等帥兵,來攻北城,七日而拔之,移攻南城,城中危恐,王出逃。麗將桀婁等見王下馬拜,已向王面三唾之,乃數其罪,縛送於阿旦城下戕之。桀婁、萬年,本國人也,獲罪逃竄高句麗。

どうして難を避けて国の系を続けないのか。」

文周はそこで木劦滿致と祖彌桀取とともに南へ行った。

このときに至って、高句麗の對盧の齊于と再曾桀婁と古尒萬年らが兵を率いて来て北城を攻め、七日してこれを取り、移って南城を攻めたので、城の中は危ぶみ恐れ、王は出て逃げた。高句麗の将の桀婁らは王を見て馬を下りて拝んだが、やがて王の顔に向かって三たび唾を吐き、そしてその罪を数え上げ、縛って阿旦城の下に送って殺した。桀婁と萬年はもともと国の人であり、罪を得て高句麗に逃れ隠れた者である。

夾注 2

木劦、祖彌,皆複姓,《隋書》以木劦為二姓,未知孰是。

木劦と祖彌はいずれも複姓であるが、『隋書』では木劦を二つの姓としており、どちらが正しいか分からない。

再曾、古尒,皆複姓。

再曾と古尒はいずれも複姓である。

12史論 — 桀婁の義しからぬこと

論曰:楚昭王之亡也,鄖公辛之弟懷,將弑王曰:「平王殺吾父,我殺其子,不亦可乎?」辛曰:「君討臣,誰敢讐之?君命,天也,若死天命,將誰讐?」桀婁等,自以罪不見容於國,而導敵兵,縛前君而害之,其不義也,甚矣。曰:「然則伍子胥之入郢鞭尸,何也?」曰:「楊子《法言》評此以為不由德。所謂德者,仁與義而已矣,則子胥之狠,不如鄖公之仁。以此論之,桀婁等之為不義也,明矣。」

論じて言う。

楚の昭王が逃れたとき、鄖公の辛の弟の懷が王を殺そうとして言った。「平王はわが父を殺したのだから、わたしがその子を殺すのも、また構わないではないか。」

辛は言った。「君が臣を討つことを、誰があえて仇とするのか。君の命は天である。もし天の命に死ぬのなら、いったい誰を仇とするのか。」

桀婁らは自ら罪があって国に容れられなかったために、敵の兵を導き、前の君を縛って害したのだから、その義しからぬことは甚だしい。

「それならば伍子胥が郢に入って屍に鞭打ったのはどうなのか」と言う者がある。

答える。「楊子は『法言』でこれを評して、徳によったものではないとした。いわゆる徳とは仁と義にほかならないのだから、子胥の荒さは鄖公の仁に及ばない。これによって論ずれば、桀婁らが義しからぬことは明らかである。」