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三斤王

三国史記(三国時代の正史) 三國史記 · 金富軾(キム・ブシク)ほか · 1145年(高麗・仁宗23年) · 段落 5 · 漢字 238字 · 朗読 1.0分

三国史記(三国時代の正史) 百済本紀 現存する最も古い韓国の歴史書。新羅・高句麗・百済の本紀と、志・表・列伝から成る。金富軾が随所に「論曰」として自らの評を付けているので、編者が何を疑い何を責めたかがそのまま残っている。

1三斤王が即位する

三斤王,文周王之長子。王薨,繼位,年十三歲,軍國政事,一切委於佐平解仇。

三斤王は文周王の長子である。王が亡くなって位を継いだが、年は十三歳であったので、軍事と国政をすべて佐平の解仇に委ねた。

夾注 1

或云壬乞。

壬乞ともいう。

2二年 — 解仇を斬る

二年,春,佐平解仇與恩率燕信聚衆,據大豆城叛。王命佐平眞男以兵二千討之,不克。更命德率眞老,帥精兵五百,擊殺解仇。燕信奔高句麗,收其妻子,斬於熊津。

二年春、佐平の解仇が恩率の燕信とともに衆を集め、大豆城に拠って反いた。王は佐平の眞男に命じて兵二千でこれを討たせたが、勝てなかった。改めて德率の眞老に命じ、精兵五百を率いて解仇を撃ち殺させた。燕信は高句麗へ逃げたので、その妻子を捕らえて熊津で斬った。

3史論 — 賊を討たなければ臣ではない

論曰:《春秋》之法,君弑而賊不討,則深責之,以為無臣子也。解仇賊害文周,其子三斤繼立,非徒不能誅之,又委之以國政,至於據一城以叛,然後再興大兵以克之。所謂履霜不戒,馴致堅氷,熒熒不滅,至于炎炎,其所由來,漸矣。唐憲宗之弑,三世而後,僅能殺其賊,況海隅之荒僻,三斤之童蒙,又烏足道哉!

論じて言う。

『春秋』の法では、君が殺されたのに賊を討たなければ深く責めて、臣も子もないものとみなした。解仇が文周を害したのに、その子の三斤は位を継いで、これを誅することができなかったばかりか、国政まで委ね、一城に拠って反くに至ってから、ようやく再び大軍を起こして勝った。

いわゆる霜を踏んでも戒めず堅い氷に至り、ちらつく火を消さずに燃えさかるに至るというもので、その由来するところは少しずつである。唐の憲宗が殺されたときも、三代の後にやっとその賊を殺せたのであるから、まして海の隅の荒れた辺地で、三斤のような幼い子に、どうして言うべきことがあろうか。

4二年 — 日食がある

三月己酉朔,日有食之。

三月己酉の朔に日食があった。

5三年 — 三斤王が亡くなる

三年,春夏大旱。秋九月,移大豆城於斗谷。冬十一月,王薨。

三年、春と夏に大いに旱があった。秋九月、大豆城を斗谷に移した。冬十一月、王が亡くなった。