南月山 — 甘山寺南月山 (甘山寺)
1弥勒尊像の光背の裏に刻まれた文
南月山〔亦名甘山寺.〕寺在京城東南二十許里.金堂主弥勒尊像火光後記云.開元七年己未二月十五日,重阿喰全忘誠爲亡考仁章一吉于·亡妃觀肖里夫人敬造甘山寺一所石彌勒一軀,兼及愷元伊飡·第懇誠小舎·玄度師·姊古巴里·前妻古老里·後妻阿好里兼庶族及漠一吉喰·一幢薩喰·聦敏七舎·妹首肹買䓁同營兹善.亡妣肖里夫人古人成之,東海攸友邊散也.〔古人成之以下文未詳其意, 但存古文而已. 下同.〕
南月山は〔甘山寺ともいう。〕都の東南二十里ばかりにある。
金堂の主仏である弥勒尊像の光背の裏に刻まれた文にこう述べる。
開元七年己未の二月十五日に、重阿飡の全忘誠が、亡き父の仁章一吉飡と亡き母の観肖里夫人のために、慎んで甘山寺一か所と石の弥勒一体を作った。
あわせて愷元伊飡、弟の懇誠小舎、玄度法師、姉妹の古巴里、前妻の古老里、後妻の阿好里と、庶族の漠一吉飡・一幢薩飡・聡敏大舎、姉妹の首肹買らがともにこのよい事を成した。
亡き母の肖里夫人は…〔「古人成之」より下の文は、その意が詳らかでない。ただ古い文をそのまま残しただけである。以下も同じ。〕
夾注 3
亦名甘山寺.
甘山寺(かんさんじ)ともいう。
古人成之以下文未詳其意, 但存古文而已. 下同.
「古人成之」より下の文は、その意が詳らかでない。ただ古い文をそのまま残しただけである。以下も同じ。
底本は前を「一吉于」、後を「一吉喰」と記す。いずれも新羅の第七等の官位である一吉飡である。 ― 訳者
2阿弥陀仏の光背の裏に刻まれた文
弥陁佛火光後記云.重阿喰金志全曽以尚衣奉御,又執事侍郎,年六十七致仕閑居.奉爲國主大王·伊喰愷元·亡考仁章一吉于·亡妃·亡弟小舎梁誠·沙門玄度·亡妻古路里·亡妹古巴里,又爲妻阿好里等捨甘山莊田建伽藍,仍造石彌陁一軀奉爲亡考仁章一吉于.古人成之,東海攸反邊散也.〔按帝系, 金愷元乃太宗春秋之弟太子愷元角干也, 乃丈熈之所生也. 誠志全乃仁章一吉于之子. 東海攸反恐法敏葬東海也.〕
阿弥陀仏の光背の裏に刻まれた文にこう述べる。
重阿飡の金志全は、かつて尚衣奉御を務め、また執事侍郎を務めて、年六十七で官を退いて閑かに暮らした。
国主である大王と伊飡の愷元、亡き父の仁章一吉飡と亡き母、亡き弟の小舎の梁誠、沙門の玄度、亡き妻の古路里、亡き姉妹の古巴里のために、また妻の阿好里らのために、甘山の荘園と田を差し出して寺を建てた。
そして石の阿弥陀一体を作って、亡き父の仁章一吉飡に奉り上げた。
〔帝王の系譜を調べると、金愷元はすなわち太宗春秋の弟の太子愷元角干であり、文熙の生んだ子である。誠志全はすなわち仁章一吉飡の子である。「東海攸反」はおそらく法敏を東海に葬ったことを指すのであろう。〕
夾注 1
按帝系, 金愷元乃太宗春秋之弟太子愷元角干也, 乃丈熈之所生也. 誠志全乃仁章一吉于之子. 東海攸反恐法敏葬東海也.
帝王の系譜を調べると、金愷元はすなわち太宗春秋の弟の太子愷元角干であり、文熙の生んだ子である。誠志全はすなわち仁章一吉飡の子である。「東海攸反」はおそらく法敏を東海に葬ったことを指すのであろう。