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円光が西で学ぶ圓光西學

三国遺事(三国時代の遺聞集) 三國遺事 · 一然(イリョン) · 1281年(高麗・忠烈王7年) · 段落 9 · 漢字 2,475字 · 朗読 9.9分

三国遺事(三国時代の遺聞集) 義解 第5 高麗の僧・一然が編んだ三国時代の説話集。正史が捨てた話を集めている。檀君神話を載せる最も古い書物である。

1二十五歳で船に乗り金陵へ向かう

圎光西學唐續高僧傳苐十三卷載.新羅皇隆寺釋圎光俗姓朴氏本住三韓.卞韓·辰韓·馬韓,光即辰韓人也.家世海東祖習綿逺,而神噐恢廓,愛染篇章校獵玄儒,討讎子史文華騰翥於韓服,愽贍猶愧扵中原.遂割略親朋發憤溟渤,年二十五乗舶造于金陵,有陳之世号稱文國,故得諮考先疑詢猷了義.初聽𤴶嚴旻公弟子講,素霑世典謂理窮神,及聞釋宗反同腐芥.虚尋名教實懼生涯,乃上啓陳主請歸道法,有勑許焉.既爰初落采即禀具戒,逰歴講肆具盡嘉謀領牒徵言.不謝光景故得成實·涅槃蕰括心府,三藏釋論徧所披尋.末又投吳之虎山,念定相㳂無忘覺觀.

円光が西で学ぶ。

唐の『続高僧伝』第十三巻に載っている。

新羅皇隆寺の僧侶円光は、俗姓は朴氏で、もとは三韓に住んでいた。三韓とは卞韓・辰韓・馬韓であり、円光は辰韓の人である。

家は代々海東に住み、祖先の学んだところが遠く続いていた。器量は広く大きく、文章を好んで老荘と儒家を広く読みあさり、諸子の書や史書を探って考え合わせた。

文才は韓の地で高く飛んだが、広く備えることでは、なお中原に恥じるところがあった。

ついに親族や友人を断ち、海に志を発して、二十五歳で船に乗り金陵に至った。

陳の世は文の国と称されていたので、かねて抱いていた疑いを問い明かし、道を尋ねて意味を了することができた。

初めに荘厳寺の旻公の弟子が講ずるのを聞いた。もとは世俗の典籍に浸り、理を究め神妙を得たと思っていたが、仏教の宗旨を聞いてみると、かえって腐った芥のようであった。

むなしく名高い教えを尋ねていたことが、まことに一生を恐れさせた。そこで陳の主に書を上げて道法に帰することを請うと、許す勅があった。

初めて髪を落とすと、すぐに具足戒を受けた。講席をめぐり歩いてよい教えをことごとく備え、言葉の要旨を書き取った。

月日をむなしく過ごさなかったので、『成実論』と『涅槃経』を胸のうちに納め、三蔵と釈論をあまねく開いて尋ねた。

終わりにはまた呉の虎丘山に入り、思念と禅定を相継いで、覚観を忘れなかった。

夾注 1

底本は「虎山」だが「虎丘山」の誤りと見る。 ― 訳者

2塔が燃えているという見まちがいが命を救う

息心之衆雲結林泉.並以綜渉四含,㓛流八定明善易擬筒直難虧.深副夙心遂有終焉之慮.於即頓絶人事盤遊聖迹,攝想青霄緬謝終右.時有信士宅居山下,請光出講固辝不許.苦事邀延遂従其志.創通成論末講般若,皆思解佼徹嘉問飛移,兼䋴以絢采織綜詞義,聽者欣欣㑹其心府.従此因循舊章開化成任,每法輪一動輒傾注江湖.雖是異域通傳,而沐道頓除嫌郄,故名望横流播于嶺表,披榛負橐而至者相接如鱗.㑹隋后御字,威加南國.暦窮其數軍入揚都,遂被乱兵将加刑戮.有大主将望見寺塔火燒走赴救之,了無火狀但見光在塔前被縛將殺.旣恠其異即解而放之.斯臨危逹感如此也.光學通吳越便欲觀化周·秦,開皇九年来逰帝宇.值佛法初㑹攝論肇興,奉佩文言振績微緖,又馳慧解宣譽京臯.

心を休める者たちが林や泉に雲のように集まった。

あわせて四阿含をあまねく渡り、八定に功を流して、明らかな善は比べやすいが、まっすぐな堅さは崩しがたかった。

かねての心に深くかない、ついにここで終わろうという思いが起こった。

そこで世事をふつりと断ち、聖なる跡をあまねく巡り、青空に思いを収めて、俗世にはるかに別れを告げた。

その時、信ずる者が山の下に住んでいて、円光に出て講じてくれるよう請うた。固く辞して許さなかったが、しきりに迎えようと努めるので、ついにその志に従った。

初めに『成実論』を通し、後に『般若経』を講ずると、いずれも思いと解釈が深く通じ、よい問いが行き交った。あわせて美しい文彩で言葉と意味を織り込んだので、聞く者は喜んでその心にかなった。

これより古い法に従って教化を開き、任を果たしたので、法輪が一度めぐるたびに、たちまち江湖が傾いて注いだ。

異国の人の伝えるものではあったが、道に浸って隔てをたちまち取り除いたので、名望は広く流れて嶺南の外まで伝わった。藪を分け袋を背負って来る者が、魚の鱗のように続いた。

ちょうど隋の主が天下を治め、威が南の国にまで及んだ。運数が尽きて軍が揚都に入り、ついに乱れた兵に捕らえられて殺されようとした。

大将が寺の塔に火が燃えているのを望み見て駆けつけて救おうとしたが、まったく火の跡はなく、ただ円光が塔の前に縛られて殺されようとしているのだけが見えた。

その不思議さを怪しんで、すぐに解いて放してやった。危うきに臨んで感応が至ることがこのようであった。

円光は学問が呉と越に通じると、すぐに周と秦の地の教化を見ようと思い、開皇九年に帝都に来て遊んだ。

ちょうど仏法が初めて集まり、『摂大乗論』がはじめて興る時に出会い、その文言を奉じ持って、かすかな糸口を振るい起こした。また智慧ある解釈を走らせて、都に名を広めた。

3帰った後、国の文書を一身に担う

勣業旣成道東湏継.夲國逺聞上啓頻請,有勑厚加勞問放歸桑梓.光徃還累紀,老幼相欣.新羅王金氏靣申䖍敬仰若聖人.光性在虚閑,情多汎愛,言常含笑愠結不形.而牋表啓書徃還國命並出自胷襟,一隅傾奉皆委以治方詢之道化.事異錦衣.請同觀國.乗機敷訓垂範于今.年齒旣高乗輿入内.衣服·藥·食並王手自營不許佐助用希專福,其感敬爲此類也.将終之前王親執慰,嘱累遺法兼濟民斯,爲說徴祥被于海曲.

学業はすでに成ったので、道は東へ継がれなければならなかった。

本国が遠く聞いて書を上げてしきりに請うたので、勅が下って手厚くねぎらい、故郷に帰らせた。

円光が行き来したのは幾年にもなっていたので、老いも若きも共に喜んだ。新羅王金氏は面を合わせて敬う心を述べ、聖人のように仰いだ。

円光は性質が虚しく静かで、情は広く愛するところにあり、言葉には常に笑みを含んで、怒りの色が現れなかった。

それでいて書簡や表、奏上の文、国の命令のやり取りは、すべて彼の胸から出た。

国中が傾けて奉り、みな治める方策を委ね、教化の道を尋ねた。

錦の衣を着て帰る類のことではなく、国を共に見てほしいと請うたのである。機に乗じて教えを広め、今に至るまで模範となった。

年がすでに高くなると、輿に乗って宮中に入った。衣服・薬・食物はすべて王が自ら手ずから整え、人の手助けを許さなかった。福をひとりで得ようとしたのである。その感じ入り敬うさまはこのようであった。

世を去る前に、王が自ら手を取って慰め、残す法とあわせて民を救うことを重ねて嘱した。そこでよい兆しを説いてやると、海辺の隅にまで及んだ。

4福ある人の墓に埋めたところ

以彼建福五十八年少覺不悆.経于七日遺誡清切,端坐終于所住皇隆寺中.春秋九十有九,即唐貞觀四年也.〔冝云十四年.〕當終之時寺東北虚中音樂滿空異香充院,道俗悲慶知其霊感.遂葬于郊外,國給羽儀葬具同於王禮.後有俗人児胎死者,彼土諺云“當於有福人墓埋之種㣧不絶.”乃私瘞於墳側,當日震此胎屍擲于塋外.由此不懐敬者率崇仰焉.

あの建福五十八年に、少し心地よくないのを覚えた。

七日を経て残した戒めは清らかで切実であり、住んでいた皇隆寺の中で端座して世を去った。年は九十九、すなわち唐の貞観四年である。〔十四年と言うべきである。〕

世を去る時、寺の東北の空に音楽が天に満ち、異香が院に満ちた。僧も俗も悲しみながらも慶事と受け取り、その霊感を知った。

ついに郊外に葬ったが、国が儀仗と葬具を給して、王の礼と同じにした。

後に、ある俗人が腹の中で子を失った。その地の言い伝えに「福ある人の墓に埋めれば子孫が絶えない」というので、そこでひそかに墓の傍らに埋めた。

その日のうちにこの胎児の屍に雷が落ち、墓の外に投げ出した。

これによって、敬う心を抱かなかった者もみな高く仰いだ。

夾注 1

冝云十四年.

十四年と言うべきである。

5弟子円安が伝えた話

有弟子圎安,神忘機頴.性希歴覽慕仰幽求.遂北趣九都,東觀不耐,又西燕·魏後展帝亰.備通方俗,尋諸経論跨轢大綱,洞清纖旨.晚歸心學高䡄光塵初住亰寺,以道素有聞特進蕭瑀奏請住於藍田所造津梁寺,四事供給無替六時矣.安甞叙光云.“夲國王染患醫治不損,請光入宫别省安置,夜别二時爲說深法,受戒懴悔,王大信奉.一時初夜王見光首金色晃然,有象日輪隨身而至.王后宫女同共觀之.由是重發勝心克留疾所,不久遂差.光於辰韓·馬韓之間盛通正法,每歳再講匠成後學.之資並充營寺,餘惟衣盋而已.〔載逹凾.〕

弟子に円安がいた。精神は清らかで才は抜きんでていた。

性質として広く見ることを好み、奥深いものを求めることを慕った。ついに北は九都に赴き、東は不耐を見、また西は燕・魏を経て、後に帝都に至った。

地方の風俗にあまねく通じ、諸経や論を尋ねて大綱を渡り歩き、細かな趣旨まではっきり明らかにした。

晩年には心を修める学びに帰り、円光の跡を高く慕った。初めは都の寺に住んだが、道がもとより知られていたので、特進の蕭瑀が奏して藍田に建てた津梁寺に住むことを請い、四事の供養が六時に欠けることがなかった。

円安はかつて円光についてこう語った。

「本国の王が病にかかり、医者の治療でも治らなかったので、円光を宮中に入れ、別に部屋を設けて住まわせ、夜ごとに二度、深い法を説かせた。戒を受けて懺悔すると、王は大いに信じ奉った。

ある日の宵のうち、王は円光の頭が金色に輝くのを見たが、日輪のような姿が身に従って至った。王后と宮女も共にこれを見た。

これによって重ねてすぐれた心を起こし、病室にとどめたところ、久しからずしてついに癒えた。

円光は辰韓と馬韓の間に正しい法を大いに通じさせ、年ごとに二度講じて後学を育て上げた。施された財はあわせて寺を営むのに充て、残るものはただ衣と鉢だけであった。」〔「達」の函に載っている。〕

夾注 1

載逹凾.

「達」の函に載っている。

6三岐山の神が隣の比丘を押し潰す

又東亰安逸戸長貞孝家在古夲殊異傳載圎光法師傳曰.“法師俗姓薛氏王亰人也.初爲僧學佛法,年三十歳思静居修道獨居三岐山.後四年有一比丘来所居不逺别作蘭若居二年,爲人強猛好修呪述.法師夜獨坐誦経,忽有神聲呼其名.“善㦲善㦲.汝之修行.凢修者雖衆如法者稀有.今見隣有比丘径修呪術而無所,得喧聲惱他静念,住䖏礙我行路每有去来㡬發惡心.法師爲我語告而使移遷.若久住者恐我忽作罪業.”明日法師徃而告曰,“吾於昨夜有聽神言,比丘可移别䖏.不然應有餘殃.”比丘對曰,“至行者爲魔所眩.法師何憂狐鬼之言乎.”其夜神又來曰,“向我告事比丘有何荅乎.”法師恐神瞋怒而對曰.“終未了說.若強語者何敢不聽.”神曰,“吾已具聞.法師何湏補說.但可黙然見我所爲.”遂辝而去.夜中有聲如雷震,明日視之山頹填比丘所在蘭若.神亦来曰“師見如何.”法師對曰“見甚驚懼.”

また、東京の安逸戸長貞孝の家にある古い書『殊異伝』に載る「円光法師伝」にこう言う。

「法師は俗姓は薛氏で、王都の人である。

初めは僧となって仏法を学んだが、三十歳の時、静かに住んで道を修めることを思い、三岐山に独り住んだ。

四年の後、一人の比丘が来て、住む所から遠くないところに別に蘭若を建て、二年住んだ。人柄は荒く強く、呪術を修めることを好んだ。

法師が夜に独り座って経を誦していると、ふと神の声がその名を呼んだ。

『善いことだ、善いことだ、お前の修行は。およそ修める者は多いが、法のとおりにする者はまれである。

今見れば、隣に比丘がいて、ひたすら呪術ばかりを修めて得るところがなく、騒がしい声で他人の静かな思いを悩ませている。住む所が私の通う道を塞いでいて、行き来するたびにかなり悪い心が起こる。

法師は私のために言って、移らせてくれ。長くとどまれば、私がふと罪業を作ってしまうのが恐ろしい。』

翌日、法師は行って告げた。『私は昨夜、神の言葉を聞いた。比丘は他の所に移るのがよいでしょう。そうしなければ、きっと余りある災いがあるでしょう。』

比丘は答えた。『行いの至った者が魔に惑わされたのですね。法師はどうして狐狸の言葉を憂えるのですか。』

その夜、神がまた来て言った。『この前私が告げた事に、比丘は何と答えたか。』

法師は神が怒るのを恐れて答えた。『まだ言い終えていない。強いて言えば、どうして聞かぬことがあろうか。』

神が言った。『私はすでにすべて聞いた。法師はどうして言い足そうとするのか。ただ黙って私のすることを見ていよ。』

そして暇を告げて去った。

夜中に雷のような音がして、翌日見ると、山が崩れて比丘のいた蘭若を埋めてしまっていた。

神がまた来て言った。『師の見たところはどうか。』

法師は答えた。『見てはなはだ驚き恐れました。』」

7神の正体は老いた狐であった

神曰,“我歳㡬於三千年神術最壮,此是小事何足爲驚.但復将来之事無所不知,天下之事無所不逹.今思法師唯居此䖏雖有自利之行而無利他之功.現在不掦高名未来不取勝果.盍採佛法於中國導群迷扵東海.”對曰“學道中國是夲所願,海陸逈阻不能自通而已.”神詳誘歸中國所行之計,法師依其言歸中國.留十一年,愽通三藏兼學儒術.真平王二十二年庚申〔三囯史云明年辛酉来.〕師将理䇿東還,乃隨中國朝聘使還國.法師欲謝神至前住三岐山寺,夜中神亦来呼其名曰,“海陸途間徃還如何.”對曰,“蒙神鴻恩平安到訖.”神曰“吾亦授戒於神仍結生生相濟之約.”又請曰,“神之真容可得見耶.”神曰“法師若欲見我形,平旦可望東天之際.”法師明日望之有大臂貫雲接扵天際.其夜神亦来曰,“法師見我臂耶.”對曰,“見已甚竒絶異.”因此俗号臂長山.神曰,“雖有此身不免無常之害.故吾無月日捨身其嶺.法師来送長逝之魂.”待約曰徃看,有一老狐黒如㭍.但吸吸無息俄然而死.法師始自中國來,本朝君臣敬重爲師.常講大乗経典.此時高䴡·百濟當侵邉鄙王甚患之,欲請兵於隋〔冝作唐〕請法師作乞兵表.皇帝見以三十萬兵親征高䴡.自此知法師旁通儒術也.享年八十四入寂葬明活城西.”

神が言った。

「私の年は三千年に近く、神通の術は最も強い。これは小さな事で、驚くに足らない。ただそのうえ、これから来る事で知らぬことはなく、天下の事で通じないことはない。

今思うに、法師がこの所にだけ住むなら、自らを利する行はあっても、他を利する功はない。今は高い名を揚げられず、後には勝れた果を得られないだろう。

どうして中国で仏法を採り、東海の迷う者たちを導かないのか。」

答えた。「中国で道を学ぶのは、もとより願っていたことです。ただ海と陸がはるかに隔たって、自ら通じられないだけです。」

神が中国へ行く計を詳しく教えると、法師はその言葉のとおり中国に行った。

十一年とどまって三蔵に広く通じ、あわせて儒学も学んだ。

真平王二十二年庚申の年に〔『三国史』には翌年の辛酉の年に来たという。〕法師は支度を整えて東に帰ろうとし、中国に朝聘に来た使者に従って国に帰った。

法師は神に謝そうとして、以前に住んだ三岐山の寺に至った。夜中に神がまた来て名を呼び、言った。「海と陸の道を行き来したのはどうであったか。」

答えた。「神の大きな恩を受け、平安に行って帰りました。」

神が言った。「私もまたあなたから戒を受け、そのうえ生まれ変わるたびに互いに救い合う約束を結ぼう。」

また請うた。「神の真の姿を見ることができますか。」

神が言った。「法師が私の姿を見たければ、明け方に東の空の果てを望みなさい。」

法師が翌日望むと、大きな腕が雲を貫いて天の果てに届いていた。

その夜、神がまた来て言った。「法師は私の腕を見たか。」

答えた。「見て、はなはだ奇しく、すぐれておりました。」

これによって、俗に臂長山と呼ぶ。

神が言った。「この身はあるとはいえ、無常の害を免れない。だから私は某月某日にあの嶺で身を捨てるので、法師は来て永く去る魂を送ってほしい。」

約束の日を待って行って見ると、老いた狐が一匹、漆のように黒く、ただ喘ぐばかりで息がなく、やがて死んだ。

法師が初めて中国から帰ると、本朝の君臣が敬い重んじて師とした。常に大乗の経典を講じた。

この時、高句麗と百済が常に辺境を侵したので、王はこれをはなはだ憂え、隋に〔「唐」と書くべきである。〕兵を請おうとして、法師に兵を乞う表を作らせた。

皇帝はこれを見て、三十万の兵で自ら高句麗を討った。これより法師が儒学にもあまねく通じていることが知られた。

年八十四で入寂し、明活城の西に葬った。

夾注 3

三囯史云明年辛酉来.

『三国史』には翌年の辛酉の年に来たという。

冝作唐

「唐」と書くべきである。

底本は「授戒於神」だが「受戒於師」と改めて読んだ。 ― 訳者

8世俗五戒 — 殺生にも択びがある

又三國史列傳云.“賢士貴山者沙梁部人也.與同里箒項爲友,二人相謂曰,“我等期與士君子逰,而不先正心持身則恐不免於招辱.盍問道於賢者之側乎.”時聞圎光法師入隋回寓止嘉瑟岬.〔或作加西又嘉拪,皆方言也.岬俗云古尸,故或云古尸寺,猶言岬寺也.今雲門寺東九千歩許有加西峴,或云嘉瑟峴.峴之北洞有寺基是也.〕二人詣門進告昌.“俗士顓蒙無所知識.願賜一言以爲終身之誡.”光曰,“佛敎有菩薩戒其别有十.若䓁爲人臣子恐不能堪.今有世俗五戒,一曰事君以忠,二曰事親以孝,三曰交友有信,四曰臨戰無退,五曰殺生有擇.若行之無忽.”貴山䓁曰,“他則旣受命矣.所謂殺生有擇特未曉也.”光曰,“六齋曰春夏月不殺,是擇時也.不殺使畜謂馬·牛·雞·犬.不殺細物謂肉不足一臠,是擇物也.此亦唯其所用不求多殺.此是世俗之善戒也.”貴山荨曰,“自今以後奉以周旋不敢失墜.”後二人従軍事皆有竒㓛於國家.又䢖福三十年癸酉〔即真平王即位三十五年也.〕秋隋使王世儀至,於皇龍寺設百座道塲請諸高徳說経,光最居上首.”

また『三国史』の列伝にこう言う。

「賢士貴山は沙梁部の人である。同じ里の箒項と友になり、二人は互いに言った。

『我らは士君子と交わることを期しておきながら、まず心を正し身を持たなければ、辱めを招くことを免れまいと恐れる。どうして賢者のかたわらで道を問わないでいられよう。』

その時、円光法師が隋から帰って嘉瑟岬にとどまっていると聞いた。〔加西または嘉栖ともいい、いずれも方言である。岬を俗に「古尸」というので古尸寺ともいい、すなわち岬寺というのと同じである。今、雲門寺の東九千歩ほどに加西峴があり、嘉瑟峴ともいう。峴の北の洞に寺跡があるのがこれである。〕

二人は門に進んで申し上げた。『俗士は愚かで知るところがありません。願わくは一言を賜って、一生の戒めとさせてください。』

円光が言った。『仏教に菩薩戒があり、その別は十あるが、お前たちのように人の臣下となり子となる者には、おそらく堪えられないだろう。今、世俗の五戒がある。

一つは、君に仕えるに忠をもってすること、 二つは、親に仕えるに孝をもってすること、 三つは、友と交わるに信があること、 四つは、戦に臨んで退かないこと、 五つは、生きものを殺すに択びがあることである。

お前たちはこれを行って、おろそかにしてはならない。』

貴山らが言った。『他はすでに命を承りましたが、いわゆる生きものを殺すに択びがあるということが、とくに分かりません。』

円光が言った。『六斎日と春夏の月に殺さないのは、これが時を択ぶことである。

使う家畜を殺さないのは馬・牛・鶏・犬をいい、小さなものを殺さないのは肉が一切れにも足りないものをいう。これがものを択ぶことである。

これもまた、ただ用いるだけにして多く殺すことを求めないのである。これが世俗の善い戒である。』

貴山らが言った。『今より後、奉じて守り、あえて失い落とすことはいたしません。』

後に二人は軍に従って出て、ともに国家に奇しき功を立てた。

また建福三十年癸酉の年〔すなわち真平王即位三十五年である。〕の秋、隋の使者王世儀が至った。皇龍寺に百座道場を設け、諸々の高徳を請じて経を説かせたが、円光が最も上の座にいた。」

夾注 2

或作加西又嘉拪, 皆方言也. 岬俗云古尸, 故或云古尸寺, 猶言岬寺也. 今雲門寺東九千歩許有加西峴, 或云嘉瑟峴. 峴之北洞有寺基是也.

加西または嘉栖ともいい、いずれも方言である。岬を俗に「古尸」というので古尸寺ともいい、すなわち岬寺というのと同じである。今、雲門寺の東九千歩ほどに加西峴があり、嘉瑟峴ともいう。峴の北の洞に寺跡があるのがこれである。

即真平王即位三十五年也.

すなわち真平王即位三十五年である。

9一然が弁じる — 一字も加えず減らさず

議曰.原宗興法已来津梁始置而未遑堂粤.故冝以歸戒滅懴之法開曉愚迷.故光於所住嘉拪岬置占察寳以爲恒規.時有檀越尼納田於占察寳,今東平郡之田一百結是也,古籍猶存.光性好虚静言常含笑形無愠色.年臘旣邁乗輿入內,當時群彦徳義攸屬無敢出其右者.文藻之贍一隅所傾.年八十餘卒於貞觀間.浮啚在三岐山金谷寺.〔今安康之西南洞也.亦明活之西也.〕唐傳云告寂皇隆寺,未詳其地疑皇龍之訛也.如芬皇作王芬寺之例也.據如上唐·郷二傳之文,伹姓氏之朴·薛,出家之東·西如二人焉不敢詳定.故两存之.然彼諸傳記皆無鵲岬·璃目與雲門之事.而郷人金陟明謬以街巷之說潤文作光師傳,濫記雲門開山祖寳壌師之事迹合爲一傳.後撰海東僧傳者承誤而録之.故時人多惑之.因辨於此不加减一字,載二傳之文詳矣.陳·隋之世海東人鮮有航海問道者,設有猶未大振,及光之後継踵西學者憧憧焉,光乃啓途矣.讃曰.航海初穿漢地雲.㡬人来徃挹清芬.昔年蹤迹青山在.金谷·嘉西事可聞.

論じて言う。

原宗が法を興してから、津や橋が初めて置かれたが、堂や庭には及んでいなかった。だから、戒に帰し懺悔によって罪を滅する法によって、愚かな迷いを開き悟らせるのが当然であった。

そこで円光は、住んでいた嘉栖岬に占察宝を置いて常の規例とした。その時、檀越の尼が占察宝に田を納めたが、今の東平郡の田百結がそれであり、古い文書がなお残っている。

円光は性質として虚しく静かなことを好み、言葉には常に笑みを含んで怒りの色が現れなかった。年と法臘がすでに高くなると輿に乗って宮中に入ったが、その時の多くの賢者のうち、徳と義であえてその右に出る者はなかった。文才の豊かさに国の一方が傾いた。

年八十あまりで貞観の間に亡くなった。浮図は三岐山の金谷寺にある。〔今の安康の西南の洞である。また明活城の西である。〕

唐の伝には皇隆寺で入寂したというが、その地がはっきりしないので、おそらく皇龍の誤りであろう。芬皇を王芬寺と書いた例と同じである。

右のような唐の伝と郷の伝、二つの文によれば、ただ姓氏が朴氏と薛氏に、出家した所が東と西に分かれて、まるで二人のようであるから、あえて詳しく定めない。だから二つともそのまま残しておく。

しかし、あの諸々の伝記には、いずれも鵲岬・璃目と雲門寺の事がない。

ところが郷の人金陟明が、街の噂をもとに誤って文を練り、「円光法師伝」を作る際に、雲門寺を開いた祖師宝壌師の事跡をみだりに記し、一つの伝に合わせてしまった。

後に『海東僧伝』を撰した者がその誤りを受け継いで記したので、当時の人は多く惑わされた。

そこでここで弁じ明かすにあたり、一字も加えず減らさず、二つの伝の文を載せたので詳しい。

陳と隋の世に、海東の人で海を渡って道を問う者はまれであり、あってもなお大いに振るわなかった。円光の後になって西に学ぶ者が相次いで行き来したので、円光こそが道を開いたのである。

讃えて言う。

海を渡り初めて漢の地の雲を穿ち 幾人が行き来して清らかな香を掬んだか 昔の跡は青山に残り 金谷・嘉西の事は聞くに足る

夾注 1

今安康之西南洞也. 亦明活之西也.

今の安康の西南の洞である。また明活城の西である。