巻上補閑集 卷上
孫知樞抃,以太祖聖製,示予曰:「宜載補閑。」對曰:「此書欲集瑣言,爲遣閑耳,非撰盛典也。」知樞曰:「爲儒臣,辭撰聖訓可乎?」聞之,蹶然載諸編首。太祖當干戈草創之際,留意陰陽浮屠。參謀崔凝諫云:「傳曰『當亂修文,以得人心』,王者雖當軍旅之時,必修文德。未聞依浮屠陰陽,以得天下者。」太祖曰:「斯言朕豈不知之?然我國山水靈奇,介在荒僻,土性好佛神,欲資福利。方今兵革未息,安危未決,旦夕恓惶,不知所措,唯思佛神陰助,山水靈應,儻有效於姑息耳。豈以此爲理國、得民之大經也。待定亂居安,正可以移風俗美敎化也。」長興五年甲午,征百濟大克,獲河內三十餘郡,及渤海國人皆歸順。乃命有司,剏開泰寺,爲華嚴道場,親製願文手書。略「生遇百罹,未堪多難。兵纒兎郡,災擾辰韓,人莫聊生,室無完堵云云。證天有誓,剗平巨孽,拯塗炭之生民,恣農桑於鄕里。上憑佛力,次仗玄威,二紀之水擊火攻,身蒙矢石,千里之南征東討,親枕干戈。丙申秋九月,於崇善城邊,與百濟兵交陣,一呼而兇狂瓦解,再鼓而逆黨氷消。凱唱浮天,歡聲動地云云,雚蒲宼竊,溪洞微凶,改悔自新,尋懷歸順。某也志在於搦姧除惡,濟弱扶傾,不犯秋毫,不傷寸草云云。答佛聖之維持,酬山靈之贊助,特命司局,剏造蓮宮。乃以天護爲山號,以開泰爲寺名云云。所願佛威庇護,天力扶持云云。淸泰二年,新羅敬順王來朝上書,略曰:「本國禍亂將構,曆數已窮。幸觀天子之光,願作庭臣之禮。」三年,百濟王甄萱入朝,上許住南宮,討其子神劎之罪。後奉御崔遠表賀,略曰:「神劎之自取滅亡,盖爾罪不容天地,羅王之自來賓服,由盛德遠屆遐荒云云。智邦之簪紳也,曾輻湊於上國,逆子之兵革也,今瓦解於南方。而陛下聞隣之急,徑往救之,仁勇也,隣王來附,曲待悉親,智信也,忘萱小嫌,接以恩信,寬仁也,誅諸逆子,慰撫殘民,義明而仁洽矣。以此爲帝王垂統之五常,胡不有子孫遵先於萬世云云?」太祖文章筆法,天縱多能,然此帝王家餘事,不足歸美。觀信書訓書及崔遠表,其盛德可知。
知樞(ちすう)の孫抃(そんべん)が太祖の聖製(せいせい)を示して私に言った。「補閑集に載せるべきです。」私は答えた。「この書は細々とした話を集めて閑(ひま)を送ろうとするだけのもので、盛大な典籍を編むのではありません。」知樞は言った。「儒臣でありながら、聖人の訓(おしえ)を書き記すことを辞退してよいのですか。」これを聞いて私は立ち上がり、編の冒頭に載せることにした。
太祖は干戈(かんか)の中で国を創(はじ)めようとする頃、陰陽と仏教(浮屠)に心を寄せておられた。参謀の崔凝(さいぎょう)が諫めて言った。「伝(でん)に『乱れた時には文を修めて人の心を得る』とあります。王たる者は軍旅の時に当たっても、必ず文徳を修めなければなりません。仏教や陰陽に頼って天下を得た者があるとは聞いておりません。」
太祖は言われた。「この言葉を朕がどうして知らないであろうか。しかしわが国は山水が霊妙で奇(く)しく、荒れた辺地に挟まれていて、土地の性が仏と神を好むので、福と利を祈ろうとするのだ。いま兵革(へいかく)は止まず、安危も決せず、朝夕あわただしくて措(お)くところを知らない。ただ仏と神のひそかな助け、山水の霊妙な応えが、しばらくの間にでも効き目があろうかと思うだけである。どうしてこれを国を治め民を得る大本(おおもと)としようか。乱が定まり安らかに住めるようになるのを待てば、まさに風俗を移し、教化を美しくすることができよう。」
長興五年甲午(こうご)、百済を討って大いに勝ち、河内(かだい)の三十余郡を得て、渤海国の人々もみな帰順した。そこで有司に命じて開泰寺(かいたいじ)を建て、華厳(けごん)の道場とし、自ら願文(がんもん)を作って手ずから書かれた。おおよそ次のようである。
「生きて百(もも)の憂いに遭い、多くの難に堪えられなかった。兵乱が兎郡(とぐん)にからまり、災いが辰韓(しんかん)を乱して、人は生きる術(すべ)がなく、家に完(まっと)うな垣もなかった。……天に誓いを立てて証(あかし)とし、大きな災いを斬り平らげ、塗炭(とたん)に苦しむ民を救い、村里で農と蚕(かいこ)を思うままにさせようとした。上は仏の力に頼み、次は玄(くら)い威(いきおい)に依って、二十四年のあいだ水で撃ち火で攻め、身に矢と石を受け、千里を南に征し東に討って、自ら干戈を枕とした。丙申(へいしん)の秋九月、崇善城(すうぜんじょう)のほとりで百済の兵と陣を交え、一度呼べば凶(きょう)なる狂(きょう)なるものが瓦のように崩れ、二度太鼓を打てば逆らう党(やから)が氷のように消えた。凱歌(がいか)は天に浮かび、喜ぶ声は地を動かした。……葦(あし)や蒲(がま)の間で盗みを働く者、谷あいの小さな凶徒(きょうと)も、悔い改めて自ら新しくなり、やがて帰順する心を抱いた。某(それがし)の志は、姦(かん)なるものを捕らえ悪を除き、弱い者を救い、傾くものを支えることにあって、毛一筋も犯さず、一寸の草も傷つけなかった。……仏と聖(ひじり)が支えてくださったことに答え、山の霊が助けてくださったことに報いようと、特に司局(しきょく)に命じて蓮宮(れんぐう)を造らせた。そこで天護(てんご)を山の名とし、開泰(かいたい)を寺の名とする。……願うところは、仏の威(い)が庇(かば)い護り、天の力が支えてくださることである。……」
清泰(せいたい)二年、新羅の敬順王が来朝して書を上(たてまつ)った。おおよそ次のようである。「本国は禍乱がまさに起ころうとし、暦数(れきすう)はすでに尽きました。幸いに天子の光を仰ぎましたので、庭に仕える臣の礼を行いたいと願います。」
三年、百済王の甄萱(けんけん)が入朝すると、王は南宮に住むことを許され、その子の神剣(しんけん)の罪を討たれた。後に奉御(ほうぎょ)の崔遠(さいえん)が表(ひょう)を上って祝った。おおよそ次のようである。
「神剣が自ら滅亡を招いたのは、おおよそその罪が天地に容(い)れられなかったからであり、新羅王が自ら来て賓(ひん)として服したのは、盛大な徳が遠く荒れた辺境にまで届いたことによります。……智邦(ちほう)の官人たちはかつて上国に車の輻(や)のように集まり、逆らう子の兵革は今や南方で瓦のように崩れました。しかも陛下は隣国の急を聞いてただちに赴いて救われましたから、仁であり勇であります。隣国の王が来て頼ると、心を尽くして遇し、ことごとく親しくされましたから、智であり信であります。甄萱の小さな嫌(きら)いを忘れ、恩と信とで迎えられましたから、寛(かん)であり仁であります。もろもろの逆らう子を誅(ちゅう)して残された民を慰め撫でられましたから、義は明らかで仁は行き渡っております。これを帝王が統(とう)を垂れる五常(ごじょう)とされるのですから、どうして子孫が万世にわたって先祖に従わないことがありましょうか。……」
太祖の文章と筆法は、天が授けた多くの才によるものだが、これは帝王の家にとっては余(あま)りの事であって、そこに美を帰するには足りない。「信書」と「訓書」、それに崔遠の表を見れば、その盛大な徳を知ることができる。
光宗尙儒雅,擧賢良文學。時玄鶴來儀於含元殿,文士皆作贊頌。學士趙翼頌曰:「伊鶴軒昻,禀精于陽。有白斯羽,則惟汝常。匪白匪黄,玄乃衣裳!之禽之色,厥表何祥?惟我后德,過百皇王,崇文重道,急用賢良。仙翰色純,厥祥允當。含元肅穆,望天高翔。覽文德輝,豈周鳳凰?飲啄率度,羽儀載光。諸福畢至,四方其昌。於萬斯年,景祚無疆。」學士雙冀,典試春闈,亦以玄鶴呈祥,爲詩題。
光宗は儒雅(じゅが)を尊んで、賢良で文学に通じた者を選んだ。その時、黒い鶴が含元殿(がんげんでん)に来て舞ったので、文士たちはみな讃(さん)と頌(しょう)を作った。学士の趙翼(ちょうよく)の頌に言う、
あの鶴は高く昂(あが)り 陽から精気を受けた。 白い羽があるのは お前たちには常のこと。 白くもなく黄でもなく 黒いのが衣裳(いしょう)だ。 この鳥のこの色 その現れは何の瑞(しるし)か。 ただわが君の徳が 百(もも)の帝王を超えて 文を崇(とう)び道を重んじ 賢良を用いるに急であるから 仙(せん)の羽の色は純(すみ)きって その瑞はまことにふさわしい。 含元殿は粛(しゅく)として静かなのに 天を望んで高く翔(かけ)る。 文徳の輝きを見れば 周の鳳凰とてどうして及ぼうか。 飲み啄(つい)ばむことも法度に従い 羽と振る舞いは光を載せている。 もろもろの福がことごとく至り 四方は栄えるだろう。 ああ、万年にわたって 大きな幸いは限りがない。
学士の双冀(そうき)が春の科場を司(つかさど)った時にも、黒い鶴が瑞を現したことを詩の題とした。
王輪寺三重子,其袖一蠧篇來示予,乃光宗代侍中文貞公崔承老禁中雜著詩藁也。惜其國初文字,幸不湮沒到于今,取其中四韻絶句四首,載之。長生殿後百葉杜鵑花應製云:「去年曾是滿朱欄,今日芳姿又一般。伹願此花開萬轉,微臣長奉聖人歡。」東池新竹云:「錦籜初開粉節明,低臨輦路綠陰成。宸遊何必將天樂,自有金風撼玉聲。」百濟進白鵲讚云:「皚皚雪色好飛鳴,來自江南僅十程。看爾羽毛偏潔朗,只應來瑞我時淸。」謝宣獎入唐文字,兼頒內庫酒果詩云:「多幸千年遇至尊,不才忝職在西垣。文章敢望同諸彦,寵渥須誇示後昆。銘感極來徒有淚,喜歡深處却無言。尋思報答終難得,伹祝南山拜聖恩。」又有重陽讌御製,走筆頌美詩。以此知光廟弄翰捷疾,煥乎有文。方其時,金虎不偃,未暇嚮學,而宸翰猶若是,況大平已久,世世君王,當淸燕之際,黃竹白雲之作,不爲不多。然補閑所載,皆卿大夫高僧逸士所作,豈宜與天章同列而評?當別部收錄,卓其雲漢之瞻望。
王輪寺(おうりんじ)の三重子(さんじゅうし)が、虫の食った一篇を袖に入れて来て私に見せた。光宗の代の侍中、文貞公崔承老(さいしょうろう)が宮中で書いた雑著の詩稿であった。国の初めの文字が幸いに埋もれずに今日まで伝わったことが惜しまれたので、その中から四韻の絶句四首を取って載せる。
「長生殿の後ろの百葉(ひゃくよう)の杜鵑花(つつじ)」を、王命によって作ったものに言う、
去年も赤い欄干に満ちていたが 今日その香(かぐわ)しい姿はまた同じだ。 ただ願うのは、この花が万(ばん)たび咲いて 微(いや)しい臣が長く聖人の歓(よろこ)びを奉ることだ。
「東の池の新しい竹」に言う、
錦の皮が開いたばかりで白い節が明るく 王の車の道に低く臨んで緑の陰を成した。 王の遊びにどうして天の楽(がく)を連れてくる必要があろう おのずと金(こん)の風が玉の音を揺らすのだから。
「百済が白い鵲(かささぎ)を献じたことを讃える」に言う、
白々とした雪の色で美しく飛び鳴き 江南から来た道はわずか十(と)の行程。 お前の羽毛がとりわけ清らかで明るいのを見れば ただわが世の清いことを告げに来たのだろう。
「唐に送る文を作ったことを褒めてくださり、あわせて内庫の酒と果物を賜ったことに謝す」に言う、
千年に一度、至尊に遇えたのは大きな幸い 才もないのに恐れながら西垣(せいえん)に職を得た。 文章であえて諸(もろ)の賢人と並ぶことを望めようか 厚い寵愛は後の子孫に誇ってよいだろう。 刻みつけた感激が極まって、ただ涙があるばかり 喜びの深いところでは、かえって言葉がない。 報い奉る道をいくら考えても、ついに得られない ただ南山に祈りをかけて、聖恩に拝するだけだ。
また重陽(ちょうよう)の宴で王が作られた文に、筆を走らせてその美しさを讃えた詩がある。これによって、光宗が筆を執られるのが速く、輝かしく文のあやを備えておられたことが分かる。
その頃は武器が伏せられず、学問に向かう暇もなかったのに、王の筆はなおこのようであった。まして太平が久しくなって、代々の王が静かに憩(いこ)う折に作られた黄竹(こうちく)や白雲(はくうん)のような作は、少なくないはずである。しかし補閑集に載せたものは、みな卿大夫(けいたいふ)や高僧、世を避けた士の作である。どうして天子の文章と同じ列に置いて評することができよう。別に部(ぶ)を設けて収め記し、天の川を仰ぐように高く掲げるべきである。
成宗十五年八月,車盖幸東京,頒赦,凡有奇才異能隱滯丘園者,勅有司捜訪無遺。又收籍內外義夫節婦孝子順孫,旌表門閭,錫物段有差。時有敬順王入朝日不來者,己鮐背矣,猶爲白衣,作詩獻內相王融,云:「九天光動轉星辰,日旆龍旗竝海巡。黃葉鷄林曾索漠〔我太祖作興,新羅崔致遠,知必受命,上書,有鷄林黃葉,鵠嶺靑松之語。羅王聞而惡之,卽帶家隱居伽耶山海印寺終焉。其鑑識之明,見於上書中。羅人深服之,乃以公昔所居,名爲上書莊。後高士李能逢,吳世才,安淳之,相繼而寄居〕。烟花今復上園春。」又云:「閭閻光彩旌忠孝,丘壑喧傳訪隱淪。縱昔未隨周老往,幸今親覩漢儀新。」上自東京還過興禮府,御大和樓,宴群臣有唱和,流傳于世。
成宗十五年八月、王の車蓋(しゃがい)が東京(とうけい)に行幸して赦(しゃ)を下し、およそ奇(く)しき才や並ならぬ能(のう)を持ちながら丘(おか)や園(その)に埋もれている者があれば、有司に命じて残らず探し求めさせた。また内外の義(ぎ)なる夫、節(せつ)ある婦、孝子、順(すなお)な孫を書き上げて、門や村に旌表(せいひょう)し、品物を差をつけて賜った。
その時、敬順王が入朝した日に来なかった者がいた。すでに年老いて背が曲がっていながら、まだ白衣のままで詩を作り、内相の王融に献じた。
九天(きゅうてん)の光が動いて星辰(せいしん)が移り 日の旆(はた)と竜の旗が並んで海を巡る。 黄葉(こうよう)の鶏林(けいりん)はかつて寂しかったが 〔わが太祖が興(お)こられた時、新羅の崔致遠(さいちえん)は必ず天命を受けると知って書を上ったが、その中に「鶏林は黄葉、鵠嶺(こくれい)は青松」という語があった。新羅王が聞いてこれを憎んだので、崔致遠はすぐに家族を連れて伽耶山(かやさん)の海印寺(かいいんじ)に隠れ住み、そこで世を終えた。その見識の明らかさは上書の中に現れている。新羅の人々は深く感服し、公が昔住んでいた所を上書荘(じょうしょそう)と名づけた。後に高士の李能逢・呉世才・安淳之が相次いで来て寄り住んだ。〕 煙と花は今また春の園に上る。
また言う、
村の巷(こうじ)に光が差して忠と孝が旌表され 丘や谷はにぎやかに語り伝えて隠れた者を訪ねる。 たとえ昔は周の老人に従って行けなかったとしても 幸いに今、漢の新しい儀(ぎ)を自ら目にしている。
王は東京から帰る途中、興礼府(こうれいふ)を過ぎて大和楼(だいわろう)に上られ、群臣と宴を開いて唱(とな)え和(こた)えたものがあり、世に伝わっている。
姜仁憲公邯贊,大平七年壬午,擢甲科第一人,顯宗統和二十七年己酉,爲翰林學士。是年十一月,契丹聖宗親將兵而至,上幸錦城,以河拱辰請降,丹帝還師。凡策皆出姜邯贊,上以詩慰獎曰:「庚戌年中有虜塵,干戈深入漢江濱。當時不用姜君策,擧國皆爲左衽人。」今俗傳云:「有一使臣,夜入始興郡,見大星隕于人家,遣吏往審之,其家婦適生男子。使心異之,因求其子而養,是爲姜公,及爲相。宋使有鑑識者,來見公曰,『文曲星不現久矣,不知何在,今公卽是。』乃下階禮之」〔此說甚荒唐,然今古搢紳相傳,又任相國宅有記,故載之。〕
姜仁憲公邯賛(かんいんけんこうかんさん)は、太平七年壬午(じんご)に甲科第一人として選ばれ、顕宗の統和二十七年己酉(きゆう)に翰林学士となった。この年の十一月、契丹の聖宗が自ら兵を率いて至ったので王は錦城に行幸されたが、河拱辰(かこうしん)が降伏を請うたことで契丹の帝は軍を返した。
およそ計(はか)りごとはすべて姜邯賛から出たので、王は詩によって慰め讃えられた。
庚戌(こうじゅつ)の年に胡(えびす)の塵が立ち 干戈(かんか)が深く漢江のほとりまで入り込んだ。 あの時に姜君の計りごとを用いなかったなら 国を挙げてみな衿(えり)を左に合わせる人になっていただろう。
今、世間ではこう語り伝えている。「ある使臣が夜に始興郡(ししこうぐん)に入り、大きな星がある家に落ちるのを見た。吏(り)を遣わして調べさせると、その家の妻がちょうど男の子を産んでいた。使臣は心に不思議に思い、その子を求めて育てた。これが姜公である。宰相となった時、宋の使臣の中に人を見抜く者がいて、公に会って『文曲星(ぶんきょくせい)が現れなくなって久しく、どこにあるのか分からなかったが、今、公こそがそれだ』と言い、階(きざはし)を下りて礼をした。」〔この話はきわめて荒唐である。しかし昔も今も官人たちが語り伝え、また任相国の家に記録があるので、ここに載せる。〕
崔文憲公沖有二子,常戒之曰:「士以勢力進,鮮克有終,以文行達,乃爾有慶。吾幸以文行顯,誓以淸愼終于世。」乃作訓子孫文傳之。中葉不謹失其本,有二詩。其一曰:「家世無長物,唯傳至寶藏。文章爲錦繡,德行是珪璋。今日相分付,他年莫散忘。好支廊廟用,世世益興昌。」文憲公之孫,中書令思諏,作訓儉文,遺子平章溱,溱之孫持示予。今已三十餘年,但記:「吾祖令公常用木器八字」,忘其餘。不知其卷子今誰傳之。
崔文憲公沖には二人の子があり、常に戒めて言った。「士が勢力によって進めば、終わりをよく全うする者はまれだ。文と行いによって達してこそ、慶(よろこ)びがある。私は幸いに文と行いによって知られたのだから、清く慎んで世を終えることを誓う。」そこで「訓子孫文」を作って伝えた。
中ごろ慎まなかったためにその本(もと)を失い、二つの詩だけが残った。その一つに言う、
家には代々、余(あま)りの物がなく ただ至って尊い宝の蔵(たくわ)えだけを伝える。 文章は錦(にしき)となり 徳行は玉の笏(しゃく)となる。 今日これを分けて授けるのだから 後の年に散らし忘れてはならない。 廊廟(ろうびょう)の用をよく支えて 代々いよいよ興(おこ)り栄えよ。
文憲公の孫、中書令の思諏(ししゅう)が「訓倹文」を作って子の平章の溱(しん)に遺したが、溱の孫がそれを持って来て私に見せた。今すでに三十余年が経ち、「わが祖父令公は常に木の器を用いられた」という八字だけを覚えていて、その他は忘れてしまった。その巻子(かんす)を今、誰が伝えているのかは分からない。
文憲公於成宗在位二十五年乙巳,擢第春官,爲甲科第一,位至內史令。其子文和公惟善,當顯宗二十二年庚午,爲御試乙科獨元。文宗七年辛丑,改內史爲中書,父子皆拜爲中書令。次子惟吉,以門蔭累遷,守司空左僕射,攝尙書令。及二十二年丁未,上賜宴國老,文和公兄弟扶持文憲公入赴,當時以爲盛事。翰林學士金行瓊,作詩賀之曰:「紫綬金章子及孫,共陪鳩枕醉皇恩。尙書令侍中書令,乙狀元扶甲狀元。曠代唯聞四人到,一門今有兩公存。家傳冢宰猶爲罕,世襲魁科最可尊。幾日搢紳相藉藉,今朝街路更喧喧。聯翩功業流靑史,雖秃千毫不足言。」
文憲公は成宗の在位二十五年乙巳(いつし)に春官の試に選ばれて甲科第一となり、位は内史令に至った。その子の文和公惟善は、顕宗二十二年庚午(こうご)の御試(ぎょし)で乙科のただ一人の首席となった。文宗七年辛丑(しんちゅう)に内史を改めて中書としたので、父と子がともに中書令に任じられたことになる。
次の子の惟吉は門蔭(もんいん)によって何度も遷(うつ)り、守司空左僕射となって尚書令を兼ねた。二十二年丁未(ていび)に至って王が国の老人たちに宴を賜った時、文和公の兄弟が文憲公を扶(たす)け支えて入り進んだので、当時の人はこれを盛大な事と見なした。
翰林学士の金行瓊が詩を作って祝った。
紫の綬(じゅ)と金の章(しるし)を帯びた子と孫が ともに鳩(はと)の杖に侍(はべ)って王の恩に酔う。〔底本は枕だが、杖の誤りと見る。〕 尚書令が中書令に侍り 乙科の状元(じょうげん)が甲科の状元を扶ける。 遠い代にただ四人が至ったと聞くばかりなのに 一つの門に今、二人の公がおられる。 家が冢宰(ちょうさい)を伝えるのさえまれなのに 代を継いで科挙の首席を占めたのは、最も尊ぶべきことだ。 何日も官人たちが互いに言い騒いでいたが 今朝は街路がさらににぎやかだ。 次々と連なる功業は青史(せいし)に流れ 千本の筆が禿(ち)びても言い尽くせない。
鄭中丞敍雜書載,崔侍中惟善閨情詩云:「黃鳥曉啼愁裏雨,綠楊晴弄望中春。」又梳詩云:「入用宜加首,何曾在匣中。」非特才華贍給,足以知位極人臣也。今觀侍中集中,如加首之句頗多,鄭何取此一聯,知位極人臣也?始公於顯廟二十二大平十年,赴簾前試,上謂侍臣曰:「華國文章,花月亦與其末,朕欲幷試要其捷疾。」先放賦題「君猶舟」,及賦畢就方寫,乃署詩題「御苑種仙桃」。公卽應題直書,名紙曰:「御苑桃新種,移從閬苑仙。結根丹地上,分影紫庭前。細葉看如畵,繁英望欲然。品高鷄省樹,香接獸爐烟。天近先春茂,晨淸帶露鮮。是應王母獻,聖壽益千年。」詩與賦俱稱旨,御手批爲牓元,詔入翰林,直除七品。明年庚辰,爲禮部員外郞、兼掌誥,累遷至中書令卒,配饗於廟庭。則其位極人臣之兆,惟此詩的矣。
中丞(ちゅうじょう)鄭敍(ていじょ)の雑書に、崔侍中惟善の「閨情(けいじょう)」の詩が載っている。
鶯が暁に鳴くのは愁(うれ)いの中の雨 緑の柳が晴れて戯れるのは見渡すかぎりの春。
また「櫛(くし)」の詩に言う、
用いるには頭に加えるのがふさわしいのに どうして箱の中にあったりしようか。
才の輝きが豊かであるだけでなく、位が人臣として極まるところに至ることまで知れる、というのである。しかし今、侍中の文集を見ると「頭に加える」のような句はかなり多い。鄭敍はどうしてこの一連だけを取って、位が極まることを知ったと言うのだろうか。
はじめ公が顕宗二十二年、太平十年に簾(すだれ)の前の試に臨んだ時、王は侍臣に言われた。「国を輝かせる文章には、花や月もその末に連なる。朕はあわせて試して、その速さを見たい。」まず賦の題「君は舟のごとし」を出し、賦を終えてまさに清書しようとする時に、詩の題「御苑に仙桃を植える」を掲げた。
公はすぐに題に応じ、名を記した紙に直(ただ)ちに書きつけた。
御苑に桃を新しく植えた 閬苑(ろうえん)の仙人のもとから移してきたのだ。 赤い地の上に根を結び 紫の庭の前に影を分ける。 細い葉は見れば絵のようで 咲き盛る花は見れば燃えるようだ。 品格は鶏省(けいしょう)の樹より高く 香りは獣(けもの)の形の香炉の煙に接する。 天が近いので春より先に茂り 暁が清らかなので露を帯びて鮮やかだ。 これはきっと西王母が献じたものだろう 聖人の寿(いのち)は千年を加えるだろう。
詩も賦もともに王の意に適(かな)い、王は自らの手で榜(ぼう)の首席と定められ、詔(みことのり)によって翰林に入れ、ただちに七品に任じられた。翌年の庚辰(こうしん)に礼部員外郎となって掌誥(しょうこう)を兼ね、何度も遷って中書令に至って没し、廟庭に配享(はいきょう)された。とすれば、位が人臣として極まる兆(しる)しは、この詩にだけ確かに現れていたのだ。
慶源李氏,自國初世爲大官。至昌和公子淵,有子曰顥,爲慶源伯,頲顗顔三子,皆爲宰相。一女是仁睿太后,兩女俱爲宮主。弟僕射子祥,有二子曰預曰䫨,爲宰相,其孫皆婚宗室。貴戚之盛,今古罕比。初顗在諫垣,時陰陽者流,各執圖讖,互言裨補。上問之,顗對曰:「陰陽本乎大易,易不言地理裨補。後世詭誕者曲論之,以至成文字惑衆人。況圖讖荒虛怪妄,一無可取。」上心然之。頲顗䫨子孫,今尤顯達。昌和公以龍首,入黃扉,掌試得人,崔平章奭、金平章良鑑、參政崔思訓朴寅亮、學士崔澤魏齊萬等,皆門生。有人作詩云:「庭下芝蘭三宰相,門前桃李十公卿。」
慶源の李氏は、国の初めから代々大官を務めた。昌和公子淵に至って子があり、顥(こう)といい、慶源伯となった。頲・顗・顔の三人の子はみな宰相となった。一人の娘は仁睿太后であり、二人の娘はともに宮主となった。弟の僕射子祥には二人の子があり、預と䫨といって宰相となり、その孫たちはみな宗室と婚姻した。貴戚の盛んなことは、昔も今も比べるものがまれである。
はじめ顗が諫垣(かんえん)にいた時、陰陽を扱う者たちがそれぞれ図讖(としん)を持ち出して、互いに裨補(ひほ)を説いた。王が問われると、顗は答えた。「陰陽は大易(たいえき)に根ざしますが、易には地理の裨補を説いておりません。後世の偽り欺く者がこれを曲げて論じ、ついには文字を成して多くの人を惑わすに至りました。まして図讖は荒唐で虚(むな)しく怪(あや)しく妄(みだ)りで、一つも取るべきものがありません。」王は心の中でそれを正しいと思われた。
頲と顗と䫨の子孫は、今いよいよ栄えている。昌和公は龍の首(こうべ)として黄扉(こうひ)に入り、試を司って人を得た。崔平章奭、金平章良鑑、参政の崔思訓と朴寅亮、学士の崔沢と魏斉万らは、みなその門生である。ある人が詩を作って言った、
庭の下には芝(し)と蘭(らん)のような三人の宰相 門の前には桃と李(すもも)のような十人の公卿。
崔文憲公典試,所貢十四人,乙科三人金無滯、李從現、洪德成,同拜尙書,李象廷、崔尙、崔有孚,相繼爲參政,金淑昌、金正、金良贄、吳學麟,竝爲學士,世號尙書牓。大康九年癸亥,同牓,無達官,李資玄、郭輿,皆棄官爲處士,時號處士牓。有一滑稽僧,戲擧子云:「須占尙書牓,休登處士科。」
崔文憲公が試を司って貢(たてまつ)った十四人のうち、乙科の三人である金無滞・李従現・洪徳成がともに尚書に任じられ、李象廷・崔尚・崔有孚が相次いで参政となり、金淑昌・金正・金良贄・呉学麟がそろって学士となったので、世にこれを「尚書榜(しょうしょぼう)」と呼んだ。
大康九年癸亥(きがい)の同じ榜には顕達した官人がなく、李資玄と郭輿がともに官を捨てて処士となったので、当時これを「処士榜(しょしぼう)」と呼んだ。ある滑稽な僧が、科挙を受ける者たちをからかって言った、
ぜひとも尚書榜を占めるがよい 処士科には登らないことだ。
任良淑公濡門下四牓,文正公、文安公、文順公、韓陳兩樞密、劉司成沖基、尹亞卿于一,皆同年。又有金平章敞,李樞密中敏,崔僕射、承宣昆季,王儞、金珪、葛南成三卿,亦多韻人。今時參知政事崔璘,知門下省事洪鈞,守司空、左僕射孫抃,樞密院使趙脩,右僕射、翰林學士李淳牧,右承宣、翰林學士尹有功,刑部尙書、學士宋國瞻,兵部尙書、學士金孝印,左諫議大夫、衛尉卿河千旦及予,皆英烈公門生,時論推盛。
任良淑公濡の門下には四つの榜があった。文正公・文安公・文順公、韓と陳の二人の枢密、劉司成沖基、尹亜卿于一が、みな同じ年に選ばれた。また金平章敞、李枢密中敏、崔僕射と承宣の兄弟、王儞・金珪・葛南成の三卿がいて、これも風韻のある人が多かった。
今の参知政事崔璘、知門下省事洪鈞、守司空・左僕射孫抃、枢密院使趙脩、右僕射・翰林学士李淳牧、右承宣・翰林学士尹有功、刑部尚書・学士宋国瞻、兵部尚書・学士金孝印、左諫議大夫・衛尉卿河千旦、そして私までが、みな英烈公の門生である。当時の議論はこれを盛大だと称えた。
門生之於宗伯,執父子禮。唐裵皡三知貢擧,門生馬胤孫掌試後,引新牓門生往謁。裵作一絶云:「三主禮闈年八十,門生門下見門生。」本朝學士韓彦國,率門生謁崔文淑公惟淸,公作詩云:「綴行來訪我何榮,喜見門生門下生。」良淑公爲三代帝舅〔毅明神宗三代。〕,位冢宰。門下趙文正公,以司成典試,領門生往謁誥院,李仁老作詩賀云:「十年黃閣佐昇平,四闢春闈獨擅盟。國士從來酬國士,門生今復得門生。」良淑公之冢嗣,平章事景肅,四提文柄,不數年門下腰犀者,十餘人。中有三將軍一郞將,前古未聞。芸閣學士柳璥,自登第十六年,典司馬試署牓,明日往謁。時平章以大師懸車。有姪兩宰兩樞,諸從弟姪甥,亦皆卿大夫,與四牓門生,分列階前。柳率門生入拜庭下,平章坐堂上,伶官奏樂。觀者莫不慶嘆,以至泣下。翰林林桂一以詩賀云:「兩府鈞台拜庭下,一時英俊集門前。坐看桃李孫枝秀,盛事希聞繼世傳。」
門生は宗伯(そうはく)に対して父子の礼を執る。唐の裴皡(はいこう)は三たび貢挙を司ったが、門生の馬胤孫が試を司った後、新しい榜の門生を率いて挨拶に行った。裴皡は絶句一首を作った。
三たび礼闈(れいい)を主(つかさど)って年は八十 門生の門下で門生を見る。
本朝の学士韓彦国が門生を率いて崔文淑公惟清に挨拶した時、公が詩を作った。
列をつらねて私を訪ねてくる、これは何という栄(ほま)れか 門生の門下から出た者を喜んで見る。
良淑公は三代の王の母方の叔父となり〔毅宗・明宗・神宗の三代である。〕、位は冢宰であった。門下の趙文正公が司成として試を司り、門生を率いて誥院に挨拶に行った時、李仁老が詩を作って祝った。
十年のあいだ黄閣(こうかく)で太平を助け 四たび春の科場を開いて独り盟主の座を占められた。 国士は昔から国士に報いるもの 門生が今また門生を得たのだ。
良淑公の長男、平章事の景肅が四たび文柄(ぶんぺい)を握ると、何年もせぬうちに門下で犀(さい)の角の帯を締める者が十余人になった。その中に三人の将軍と一人の郎将がいた。昔から聞いたことのない事である。
芸閣学士の柳璥(りゅうけい)は、及第してから十六年で司馬試を司り、榜を掲げた翌日に挨拶に行った。その時、平章は大師として車を懸けて退いていた。甥に宰臣二人と枢臣二人があり、多くの従弟・甥・姉妹の子もみな卿大夫であったから、四つの榜の門生とともに階(きざはし)の前に分かれて立った。柳璥が門生を率いて入り、庭の下で拝すると、平章は堂の上に座り、伶官(れいかん)が楽を奏した。見る者はみな祝い嘆じ、涙を流すまでになった。翰林の林桂一が詩で祝った。
二つの府の鈞台(きんだい)が庭の下で拝し 一時の英俊が門の前に集まった。 座ったまま桃や李(すもも)の孫の枝が秀(すぐ)れるのを見る 盛大な事が代を継いで伝わるとは、まれに聞くことだ。
崔譽肅公奭,其先佐太祖有功。公擢第狀元,爲平章事。其子文肅公惟淸,留守南都日,有二子在輦下,公以詩訓之曰:「家傳淸白無餘物,只有經書萬卷存。恣汝分將勤讀閱,立身行道使君尊。」因自注曰:「君尊則國理,國理則家安,家安則身安,身安則餘無所求。」二嗣果以儒雅位宰相。長曰靖安公讜,今判樞璘卽其孫,弟曰文懿公詵,今侍中宗峻,僕射宗梓,承宣宗蕃皆其子。僕射和侍中詩曰:「三代平章後,唯兄拜侍中」。又有三壻皆爲相。一是龍頭,二同受鉞,爲上副元帥。世世積善,慶流子孫,靑紫滿朝,盛矣哉!」文肅公家集行於世,故唯載訓子一篇。
崔譽肅公奭は、その先祖が太祖を助けて功があった。公は状元として選ばれ、平章事となった。その子の文肅公惟清が南都の留守であった日、二人の子が都にいたので、公は詩によって教えた。
家が伝えるのは清白(せいはく)だけで、余りの物はない ただ経書が万巻あるばかりだ。 お前たちは思うままに分け取って勤めて読み 身を立て道を行って、王を尊くせよ。
そして自ら注をつけて言った。「王が尊ければ国が治まり、国が治まれば家が安らかで、家が安らかなら身が安らかで、身が安らかならそのほかに求めるものはない。」
二人の子は果たして儒雅によって宰相に上った。長男は靖安公讜(とう)で、今の判枢の璘(りん)がその孫である。弟は文懿公詵(せん)で、今の侍中宗峻、僕射宗梓、承宣宗蕃がみなその子である。僕射が侍中に和(こた)えた詩に言う、
三代の平章の後に ただ兄上だけが侍中に拝された。
また三人の婿がいて、みな宰相となった。一人は龍の首(こうべ)、二人はともに鉞(まさかり)を授かって上元帥と副元帥となった。代々善を積んで慶びが子孫に流れ、青と紫の綬(じゅ)が朝廷に満ちた。盛大なことである。
文肅公の家集は世に行われているので、ここには子を教えた一篇だけを載せる。
文宗在宥十一,淸寧二年丙申,始創興王寺,甚欲宏壯。時文和公爲知奏事,諫曰:「昔唐太宗神聖英武,數千百年已來,罕有倫比。不許度人爲僧,不許創立寺觀。遵述高祖之志,益固王業,史傳美之。今陛下承祖宗積累之功,天下向成,固宜節用愛人,能持盈守成,以傳於聖嗣也。奈何罄民財竭民力,以供不急之費,欲危邦本耶?臣竊惑焉。」上優詔答曰:「卿言誠忠,朕夙願已成,不可廻革。」異日侍淸閑論時政,上從容慰獎曰:「諫諍是忠,從好佞。」公卽對曰:「創垂猶易,守成難。」雖虞夏之賡歌,何以加此?
文宗が位にあって十一年、清寧二年丙申(へいしん)に、はじめて興王寺を建てるにあたり、ひどく大きく壮麗にしようとされた。その時、文和公が知奏事であって諫めた。
「昔、唐の太宗は神聖で英武であり、数千百年来、比べられる者がまれでした。人を得度(とくど)させて僧とすることを許さず、寺や道観を建てることを許さず、高祖の志を継いで王業をいよいよ固めたので、史書はこれを美(ほ)めました。いま陛下は祖宗が積み重ねてこられた功を承(う)け、天下は成り立とうとしています。まことに費えを節し人を愛し、満ちたものを保ち成ったものを守って、聖なる後嗣にお伝えになるべきです。どうして民の財を尽くし民の力を枯らして、急がぬ費用に充て、国の本(もと)を危うくしようとされるのですか。臣はひそかに惑(とま)どっております。」
王は寛(ゆた)かな詔で答えられた。「卿の言葉はまことに忠である。しかし朕の久しい願いはすでに成ったのだから、覆(ひるがえ)すことはできない。」
別の日、静かな席に侍(はべ)って当時の政(まつりごと)を論じた時、王は穏やかに慰め讃えて言われた。「諫め争うのが忠であり、好むままに従うのは諂(へつら)いである。」公はすぐに答えた。「初めて創(はじ)めて垂れるのはむしろ易く、成ったものを守るのが難しいのです。」虞(ぐ)や夏(か)の唱和した歌とて、どうしてこれに勝ろうか。
李參政靈幹,題羅州法輪寺云:「秋凉晚景最相宜,一宿蓮房一展眉。星斗夜深光燦爛,樓臺月轉影參差。六時永耀慈燈朗,萬古長存聖跡奇。結得良緣何事也,爇心香供佛爲師。」或以此詩落句語未工,使也字尤疎野,非也。公從上遊朴淵,風雨暴作振座石,上心動。公乃作勅書投淵,數龍之罪欲罰之,龍卽感悟,出其脊受杖。則公之爲文,其神乎不可測也。豈以此么麼詩中一字之工拙,度於公也。
参政の李霊幹が羅州の法輪寺に題して言う、
秋の涼しい夕暮れの景色が最もふさわしく 蓮房(れんぼう)に一夜泊まって一度眉を開く。 星々は夜が深まって光が燦爛(さんらん)とし 楼台に月が移って影がまちまちに揺れる。 六時(ろくじ)に長く輝いて慈悲の灯(ともしび)は明るく 万古に長く残って聖人の跡は奇(く)しい。 良い縁を結び得たのは何の事であったか 心の香を焼いて仏に供え、師としたのだ。
ある人は、この詩の落句(らっく)が言葉として練れておらず、「為」の字がとりわけ粗(そ)く野(や)だと言うが、そうではない。公が王に従って朴淵(はくえん)に遊んだ時、風雨が急に起こって座の石を揺るがし、王の心が動いた。公はそこで勅書を作って淵に投げ入れ、龍の罪を数え上げて罰しようとした。すると龍はたちまち感じ悟り、その背を出して杖(つえ)を受けた。公が文を作ることは、神妙で測り知れないのである。どうしてこんな些細な詩の中の一字の巧拙で、公を測ることができようか。
文宗大康七年辛酉,崔良平公思齊,使入宋,船上云:「天地何疆界,山河自異同。君母謂宋遠,回首一帆風。」陳補闕澕,以書狀官入大金云:「西華已蕭索,北寨尙昏蒙。坐待文明旦,天東日欲紅。」癸巳春,朝家聞大金皇帝,播遷河南,遣起居注崔璘、內侍權述及予,詣行在問安。時因韃靼路梗,以木道過鐡山浦,至遼地海州津。權有詩云:「九天移四海,悲乘槎去路。憑誰問萬里,烟波迷所之。」予於前歲,以副樞使蒙古。抵宿興中府,見一寺壁上書一絶云:「四野盡爲狐兎窟,萬邦猶仰犬羊天。人間樂國是何處,深歎吾生不後先。」崔有朝覲不遠千里之意。陳以幕佐入朝,稱北寨昏蒙,非禮。權詩言雖迷悶,義存奔問。興中一絶,是客子所題,言高何罪。
文宗の大康七年辛酉(しんゆう)、崔良平公思斉が使いとして宋に入り、船の上で言う、
天と地にどんな境(さかい)があろう 山と河がおのずと異なり、また同じであるだけだ。 あなたは宋が遠いと言わないでほしい 首をめぐらせば一枚の帆に風があるのだから。
陳補闕澕が書状官として大金に入り、言う、
西華(せいか)はすでに寂(さび)れ 北の寨(とりで)はなお暗くおぼろだ。 座って文明の朝を待てば 天の東で日が赤くなろうとしている。
癸巳(きし)の春、朝廷は大金の皇帝が河南に移ったと聞いて、起居注の崔璘、内侍の権述、そして私を遣わし、行在所(ぎょうざいしょ)に参って安否を問わせた。その時、韃靼(だったん)のために路が塞がっていたので、船路で鉄山浦を過ぎ、遼の地の海州の津(つ)に至った。権述が詩を作った。
九天が四海に移ってしまい 悲しいことに、槎(いかだ)に乗って行く路だ。 誰に頼って万里を問おうか 煙(けぶ)る波に行く先を見失った。
私は前の年、副枢として蒙古に使いした。興中府に至って宿った時、ある寺の壁の上に書かれた絶句一首を見た。
四方の野はことごとく狐(きつね)と兎(うさぎ)の巣となり 万邦はなお犬と羊の天を仰いでいる。 人の世の楽しい国はどこにあるのか わが生が後にも先にもならなかったことを深く嘆く。
崔思斉には、朝覲(ちょうきん)に千里を遠いとしない志がある。陳澕は幕佐として朝(ちょう)に入りながら「北の寨は暗くおぼろだ」と言ったのだから、礼ではない。権述の詩は言葉は迷い塞(ふさ)がっているが、義は駆けつけて安否を問うところにある。興中府の絶句は旅人が題したものだから、言葉が高いとしても何の罪であろう。
睿宗御宇,尙章句,好遊宴。時曾王父尙書崔㵸,在綸閣,乃上書,略曰:「昔唐文宗欲置詩學士,宰相奏曰,『詩人多輕薄,昧於識理。若承顧問,恐撓聖聰。』文宗乃止。帝王當好經術,日與儒雅討論經史,諮諏政理化民成俗之無暇,安有事童子之雕蟲,數與輕蕩詞臣,吟風嘯月,以喪天衷之淳正耶?」上優納。有一詞臣承隙曰:「所言儒雅,別是何人?㵸短於風月,不樂人唱和,故有此言。」上怒,左遷爲春州副使。方上道,和人贈別云:「吾家世受盛朝恩,欲繼忠淸不墮門。但把螢輝增聖日,敢將蠡測議詞源。自慙風月無功業,回望雲霄已夢魂。駭汗未收還感淚,謫來猶得駕朱轓。」
睿宗が世を治められた時、章句を尊び、遊びと宴を好まれた。その時、曾祖父の尚書崔㵸が綸閣(りんかく)にあって書を上った。おおよそ次のようである。
「昔、唐の文宗が詩学士を置こうとした時、宰相が奏して『詩人はおおむね軽薄で、理(ことわり)を知ることに暗うございます。もし顧みて問われることをお受けすれば、聖上の明(あき)らかさを乱すことが恐ろしい』と言ったので、文宗はこれを止めました。帝王は経術を好み、日ごとに儒雅な者と経書・史書を論じ、政(まつりごと)の理(ことわり)や、民を教化して風俗を成すことを問うにさえ暇がないほどであるべきです。それなのに、どうして子どもが虫を彫るような技(わざ)を事とし、しばしば軽々しい詞臣(ししん)たちと風を詠み月に嘯(うそぶ)いて、天が授けた純粋で正しいものを失おうとされるのですか。」
王は寛かに受け入れられた。ある詞臣が隙(すき)をうかがって言った。「申し上げた儒雅な者とは、別に誰のことでしょうか。崔㵸は風月に拙(つた)なく、人と唱え和えることを楽しまないので、こんなことを言うのです。」王は怒られて、春州の副使に左遷された。まさに路に上る時、人に和して別れを告げて言う、
わが家は代々、盛(さか)りの朝(ちょう)の恩を受けてきた 忠と清とを継いで家門を落とさぬようにと思ってきた。 ただ蛍(ほたる)の光を手にして王の日(ひ)を増そうとしたばかり どうして瓢(ひさご)で測って詞(し)の源を議論しようか。 風月に功業のないことを自ら恥じ 雲の空を振り返れば、もはや夢の中の魂だ。 驚いた汗も引かぬうちに、かえって感激の涙が流れる 流されて来てさえ、なお赤い車に乗ることができるのだから。
凡出大軍,命元帥必以儒將。西都反,文烈公爲元帥。時太平已久,諸武人未曉行營故事,公於帳中微吟古人詩曰:「白鹿坡頭百萬兵,碧油幢下一書生。如今始信爲儒貴,臥聽將軍報五更。」軍中傳誦,自是內廂將軍報更籌。
およそ大軍を出す時、元帥に命じるのは必ず儒将(じゅしょう)であった。西都が背(そむ)いた時、文烈公が元帥となった。その時すでに太平が久しく、多くの武人が行営の古い作法を知らなかったので、公は帳(とばり)の中で古人の詩を低く吟じた。
白鹿坡(はくろくは)のほとりの百万の兵 碧(あお)い油の幕の下の一人の書生。 今になってはじめて儒者であることの貴さを信じる 横になって、将軍が五更(ごこう)を告げるのを聞くのだから。
軍中が伝えて唱え、これより内廂(ないしょう)の将軍が更(こう)を告げることになった。
朴參政寅亮,奉使入中朝,所至皆留詩。金山寺云:「巉巖怪石疊成山,上有蓮房水四環。塔影倒江蟠浪底,磬聲搖月落雲間。門前客棹洪波急,竹下僧棊白日閑。一奉皇華堪惜別,更留詩句約重還。」行次越州,聞樂調中奏新聲,旁人曰:「此公詩也。」至浙江,風濤大起,見子胥廟在江邊,作詩弔之曰:「掛眼東門憤未消,碧江千古起波濤。今人不識前賢志,但問潮頭幾尺高。」須臾風霽船利涉,其感動幽顯如此。宋人集其詩成編,今傳于世。
参政の朴寅亮が使いの命を奉じて中国の朝廷に入り、至るところでみな詩を残した。「金山寺」に言う、
険(けわ)しい巌(いわ)と怪(あや)しい石が重なって山を成し 上には蓮房があって水が四方を囲む。 塔の影は江(かわ)に倒(さか)さまに映って波の底にうずくまり 磬(けい)の音は月を揺らして雲の間に落ちる。 門の前の旅人の櫂(かい)は大波に急(せ)かされ 竹の下の僧の碁(ご)は白昼(まひる)も閑(のど)かだ。 ひとたび皇華(こうか)の使いを奉じれば別れが惜しくてならず さらに詩句を残して、再び帰ることを約束する。
越州を過ぎる時、楽の調べの中に新しい声を奏するのを聞いた。傍らの人が「これは公の詩です」と言った。
浙江に至って風と波が大きく立った。伍子胥(ごししょ)の廟(びょう)が江のほとりにあるのを見て、詩を作って弔(とむら)った。
東の門に眼(まなこ)を掛けて、憤(いきど)おりはまだ消えず 碧い江に千古のあいだ波濤を立てている。 今の人は前(さき)の賢人の志を知らず ただ潮(しお)の頭が何尺の高さかを問うばかりだ。
しばらくすると風が晴れて船は順(すな)おに渡った。幽(かく)れたものと顕(あら)われたものを動かしたことは、このようであった。宋の人がその詩を集めて本に編み、今も世に伝わっている。
權學士適,奉國表遊學於宋。路上寄文烈公及諸友曰:「別離眞細事,此別意難窮。客路波濤外,家鄕夢寐中。出門纔暑雨,倚棹已秋風。他日江湖興,扁舟復欲東。」及到泊明州定海縣,皇帝遣使,勞問於道路,擇州府秀才令伴行。入參闕下,寵賚異常,詔入辟廱承學。凡在學七年,屢居考藝科魁,皇帝臨軒策試,擢甲科第一人。及還本朝,睿廟聞而嘉之,命有司,備樂部綵山,迎于禮成江。御大觀殿迎見,仍讌群臣三日以慶之。直除爲國子博士,命撰定國學禮儀規式書簿。不數年間備歷淸要。使於四方,題詠頗多。嘗於樂安北寺詠竹云:「大雪漫天萬木摧,琅玕相映一枝梅。不如六月炎蒸酷,呼召淸風分外來。」送安禪老之楓岳云:「江陵日暖花初發,楓岳天寒雪未消。翻笑上人山水癖,未能隨處作逍遙。」亭止房云:「半年塵土負靑山,蕭寺偸乘一日閑。始見黃花知令節,更驚紅葉炤衰顔。天圍大野蒼茫外,舟在淸江寂寞間。賴有上房沽酒引,淡烟斜日未能還。」凡題詠和贈至數十卷,皆散亡。今纔得二十餘首,率皆長篇,但取其中絶句四韻各二首,錄之。公率不事章句,如有和答之作,率爾出語,不欲驚人。尤長於文辭,富艶體中,有淸駛之骨。累遷國子祭酒、翰林學士、兼寶文閣學士、知制誥。典試南省,甚得其人,門下秀士林宗庇,獻詩引略云:「乘航歸上國,北方學者莫之先。衣錦還故鄕,東都主人喟然嘆。」詩曰:「東國罕聞雙學士,西朝獨步甲科名。」公覽之,美其引曰:「擧前言敍今事甚的,又對屬甚善。但宋西也而言北方,是謂拘文失實,白圭一玷耳。」
学士の権適が国の表文(ひょうぶん)を奉じて宋に留学した。路上で文烈公および友人たちに寄せて言う、
別れはまことに些細な事だが この別れは思いが尽くしがたい。 旅の路は波濤の外 ふるさとは夢の中。 門を出た時はまだ暑い雨だったが 櫂(かい)に寄りかかればもう秋風だ。 いつの日か江湖の興が起これば 小舟でまた東へ行こう。
明州の定海県に船を着けると、皇帝が使いを遣わして路上で労(いた)わり問い、州府の秀才を選んで同行させた。宮闕に参内すると寵愛と賜り物が並はずれで、詔によって辟廱(へきよう)に入って学を継がせた。学にあること七年、たびたび芸を考(かんが)える科の首席を占め、皇帝が軒(のき)に臨んで策問で試した時、甲科第一人に選ばれた。
本朝に帰ると、睿宗がこれを聞いて嘉(よ)しとされ、有司に命じて楽部と綵山(さいさん)を整え、礼成江で迎えさせた。大観殿に出て迎え見られ、続いて群臣に三日間の宴を設けて祝われた。ただちに国子博士に任じ、国学の礼儀の規式と帳簿を作り定めるよう命じられた。何年もせぬうちに、清く要(かなめ)の職を一通り経た。
四方に使いして題詠したものがかなり多い。かつて楽安の北寺で竹を詠んで言う、
大雪が天に満ちて万(ばん)の木が折れる中 琅玕(ろうかん)が梅の一枝と互いに映(は)えている。 六月の蒸す暑さが酷(きび)しい時に 清い風を呼んで思いのほかに来させるのには及ばない。
「安禅老を楓岳に送る」に言う、
江陵は日が暖かくて花が咲き始めたのに 楓岳は天が寒くて雪がまだ消えない。 かえって笑ってしまう、上人の山水の癖(へき)を 行く先ごとに逍遙(しょうよう)することはできないのだから。
「亭止房」に言う、
半年のあいだ塵(ちり)と土に埋もれて青い山に背(そむ)いていたが 寂しい寺で一日の閑(ひま)を盗んだ。 黄の菊を見てはじめて良い季節を知り さらに紅葉が老いた顔を照らすのに驚く。 天は大きな野を蒼茫(そうぼう)の外に囲み 舟は清い江の寂寞(せきばく)の間にある。 上の房で酒を買ってくる縁(ゆかり)があるので 淡い煙と斜(かたむ)く日の中、帰ることができない。
およそ題詠や和して贈ったものは数十巻に至ったが、みな散り失われた。今やっと二十余首を得たが、おおむねみな長篇なので、ただその中から絶句と四韻を各二首だけ選んで記す。
公はおおむね章句を事としなかったので、和して答える作があっても大まかに言葉を出して、人を驚かせようとはしなかった。文辞にはとりわけ長(た)け、豊かで艶(つや)やかな体(たい)の中に、清く速(はや)い骨があった。何度も遷って国子祭酒・翰林学士兼宝文閣学士・知制誥となった。
南省の試を司って、たいへんよく人を得た。門下の優れた士、林宗庇が詩とその序を献じた。おおよそ次のようである。「船に乗って上国に帰れば、北方の学ぶ者も先に立つことができず、錦を着てふるさとに帰れば、東都の主人が嘆息して感嘆した。」詩に言う、
東の国では二人の学士をまれに聞くばかり 西の朝(ちょう)では独り甲科の名を踏んだ。
公はこれを見て、その序を美(ほ)めて言った。「昔の人の言葉を引いて今の事を述べたのがたいへん的(まさ)しく、対句もたいへん良い。ただ宋は西であるのに北方と言ったのは、文に縛られて実(じつ)を失ったものだ。白玉の一つの瑕(きず)というだけのことだが。」
鄭舍人知常,以詩鳴於仁廟時。嘗與郭先生,扈從宿長源亭有作云:「玉漏丁東月掛空,一春天與牧丹風。小堂卷箔烟波綠,人在蓬萊縹緲中。」詠竹云:「脩竹小軒東,蕭然數十叢。碧根龍走地,寒葉玉鳴風。秀色高群卉,淸陰拂半空。幽奇不可狀,霜夜月明中。」留題團月驛云:「飲闌欹枕畵屛低,夢覺前村第一鷄。却憶夜深雲雨散,碧空孤月小樓西。」長源亭有作云:「岧嶢雙闕枕江濱,淸夜都無一點塵。風送客帆雲片片,露凝宮瓦玉鱗鱗。綠楊閉戶八九屋,明月卷簾三四人。縹緲蓬萊在何許,夢闌黃鳥報靑春。」月詠臺云:「碧波浩渺石崔嵬,中有蓬萊學士臺。松老壇邊蒼蘚合,雲低天末片帆來。百年風雅新詩句,萬里江山一酒杯。回首鷄林人不見,月華空炤海門回。」題邊山蘇來寺云:「古徑寂寞縈松根,天近斗牛聊可捫。浮雲流水客到寺,紅葉蒼苔僧閉門。秋風微凉吹落日,山月漸白啼淸猿。奇哉厖眉一衲老,長年不夢人間喧。」西都云:「南陌風微細雨過,輕塵不動柳陰斜。綠窓朱戶笙歌咽,摠是梨園弟子家。」語韻淸華,句格豪逸,讀之使煩襟昏眼。洒然醒悟,但雄深巨作乏耳。
舎人の鄭知常が仁宗の時に詩で名を知られた。かつて郭先生とともに王に従って長源亭に宿った時に作ったものに言う、
玉の水時計がぽとりと鳴り、月は空に掛かる ひと春を、天が牡丹の風とともに与えてくれた。 小さな堂で簾(すだれ)を巻けば煙る波が緑で 人は蓬萊(ほうらい)のはるかな中にいる。
「竹を詠む」に言う、
長い竹が小さな軒(のき)の東に 寂しく数十の叢(むら)をなす。 碧(あお)い根は龍が地を走るようで 冷たい葉は玉が風に鳴るようだ。 秀(すぐ)れた色は群れの草より高く 清い陰は半空(なかぞら)を払う。 幽(かす)かで奇(く)しいさまは形容できない 霜の夜、月の明るい中では。
「団月駅に書き残す」に言う、
酒の席が終わって枕に寄れば絵の屏風が低く 夢が覚めれば前の村の一番鶏(どり)。 ふと思い出す、夜更けに雲と雨が散り 碧い空に孤(ひと)つの月が小さな楼の西にあったことを。
「長源亭で作る」に言う、
高くそびえる二つの宮闕が江のほとりを枕にし 清い夜にはまるで一点の塵もない。 風は旅人の帆を送り、雲は片々(へんぺん) 露は宮の瓦に凝(こ)って、玉は鱗(うろこ)のよう。 緑の柳に戸を閉じた家が八つ九つ 明るい月に簾を巻く人が三人四人。 はるかな蓬萊はどのあたりにあるのか 夢が尽きると鶯が青い春を告げる。
「月詠台」に言う、
碧い波ははるかに広く、石は高くそびえ その中に蓬萊学士の台(だい)がある。 松の老いた壇のほとりに青い苔(こけ)が合わさり 雲の低い天の果てから片帆(かたほ)が来る。 百年の風雅は新しい詩句 万里の江山はひとつの酒の杯(さかずき)。 首をめぐらせても鶏林の人は見えず 月の光がむなしく海の門を照らしてめぐる。
「辺山の蘇来寺に題す」に言う、
古い径(みち)は寂しく松の根に絡み 天が近いので北斗と牽牛(けんぎゅう)に手が触れられそうだ。 浮く雲、流れる水に、旅人が寺に着き 紅(あか)い葉、青い苔に、僧が門を閉じる。 秋風がうすら寒く沈む日に吹き 山の月が次第に白んで清らかな猿が鳴く。 奇(く)しいことだ、眉の白い襤褸(つづれ)を着た老僧よ 長い年月、人の世の騒がしさを夢にも見ないのだから。
「西都」に言う、
南の畦(あぜ)道に風が弱く細い雨が過ぎ 軽い塵も立たず柳の陰が斜(なな)めに落ちる。 緑の窓、朱の戸に笙(しょう)と歌がむせび どれもみな梨園(りえん)の弟子の家だ。
言葉と韻が清く華やかで、句と格は豪(ごう)やかで逸(すぐ)れており、読めば煩(わずら)わしい胸と曇った目がさっぱりと覚める。ただ雄々しく深く大きな作に乏しいだけである。
高學士唐愈微時云:「安得凌河漢,高遊上界仙。直將千斛水,擧手洗雲天。」書雲巖云:「風入湖山萬竅呼,宿雲歸盡塞天高。蒼鷹直上百千尺,那箇纖塵點羽毛。」觀其詩辭意豪壯。果以志節爲名宰相,歷仕三朝。
学士の高唐愈が、まだ微(いや)しかった時に言う、
どうすれば天の川を越えて 高く上界の仙人として遊べるだろうか。 そのまま千斛(こく)の水を手に取り 手を挙げて雲の天を洗ってやろう。
「雲巌に書く」に言う、
風が湖と山に入って万の穴が叫び 宿っていた雲がすべて帰って辺塞(へんさい)の天が高い。 青い鷹(たか)がまっすぐ百千尺を上れば どんな細かい塵が羽毛につくだろうか。
その詩を見ると、言葉と意(こころ)が豪やかで雄々しい。果たして志と節(せつ)で名高い宰相となり、三つの朝(ちょう)に仕えた。
睿王乾統七年丁亥,欲伐東藩,制尹瓘爲上元帥,吳延寵爲副。駕幸西都,御龍堰闕,授鉞遣之。師行入大戍關,屠部落八十餘,築英吉等四城。詔拜尹侍中吳參政,皆爲功臣。又築咸州崇寧鎭等城,明年虜圍新城,吳率衆往救。酋長實現等,獻黃金良馬,詣闕陳款。於是會群臣廷議,諫議大夫金緣奏曰:「人主之愛土地,將以養民,豈宜爭地,使赤子肝腦塗地?願陛下許其地,以禽獸畜之,服則撫,否則舍,吾民可得休息矣。」上心然之。六月實現等,伏宣政殿門外,叩頭曰:「夷狄亦人耳。今蕩覆我巢穴,我安所依?願還我疆土,令復地着,則誓不擾邊境。」上笑許之。七月罷吉英州戍兵,有司劾兩元帥,罷封傳,私騎還。諫官又奏:「尹吳及林彦等,誘古羅等殲之,失義於夷狄,師多喪亡。竭民力耗國用,築九城,勢殆而卒棄之,罪無赦。」上不得已許皆罷職。踰年臺省上疏,極論尹吳林等罪,竟不納。臺閣諸郞,皆去職不視事。時因接宋朝使,詔令就職,獨金諫議緣便不出,特制爲借樞密院副使,趣就參議,後除禮賓卿。詔復兩元帥及林彦等官。時學士李䫨和金富佾詩曰:「臨軒授鉞命東征,一擧腥膻盡掃淸。漢塞已空無古月,秦人何苦築新城。滿庭諫切眞長策,拓地功高是大名。從諫擧功誰最急,吾皇聖制兩平明。」
睿王の乾統七年丁亥(ていがい)、東の藩(はん)を討とうとして、尹瓘を上元帥、呉延寵を副元帥とされた。王は西都に行幸して龍堰(りゅうえん)の闕に出られ、鉞(まさかり)を授けて遣わされた。
軍が進んで大戍関に入り、部落八十余を打ち破って英吉など四つの城を築いた。詔によって尹瓘を侍中、呉延寵を参政とし、ともに功臣とされた。また咸州や崇寧鎮などの城を築いた。
翌年、胡(えびす)が新城を囲んだので、呉延寵が衆を率いて救いに行った。酋長の実現らが黄金と良い馬を献じ、宮闕に参って誠(まこと)を申し述べた。そこで群臣を集めて朝廷で議した時、諫議大夫の金縁が奏した。
「君主が土地を惜しむのは民を養おうとするためです。どうして土地を争って、赤子(せきし)のような民の肝と脳を地に塗(まみ)らせてよいでしょうか。願わくは陛下がその地を許され、獣(けもの)のように養われて、服するなら撫(な)で、そうでなければ放っておかれますように。そうすれば、わが民は休むことができます。」
王は心の中でそれを正しいと思われた。六月、実現らが宣政殿の門の外に伏して頭を地につけて言った。「夷狄(いてき)もまた人であるだけです。いまわれらの巣穴を覆されましたので、われらはどこに頼ればよいのでしょうか。願わくはわれらの疆土(きょうど)を返され、再び地に着いて住まわせてくださるなら、誓って辺境を騒がせません。」王は笑って許された。
七月、吉州と英州の戍(まもり)の兵を解いたところ、有司が二人の元帥を弾劾して、封伝(ほうでん)を解いて私(わたくし)に馬に乗って帰ったと言った。諫官もまた奏した。「尹瓘と呉延寵と林彦らは、古羅らを誘い出して殺し、夷狄に対して義を失い、兵を多く失いました。民の力を尽くし国の用を費やして九つの城を築いたのに、形勢が危うくなってついにこれを捨てたのですから、罪は赦(ゆる)せません。」王はやむなく、みな職を解くことを許された。
年を越えて台省が上疏し、尹瓘・呉延寵・林彦らの罪を極めて論じたが、ついに受け入れられなかった。台閣の多くの郎官はみな職を去って事を見なくなった。その時、宋朝の使いを迎える用のために詔で職に就かせたが、ただ金諫議縁だけはすぐに出てこなかったので、特に借枢密院副使として参議に就くよう促し、後に礼賓卿に任じた。詔によって二人の元帥と林彦らの官を回復された。
その時、学士の李䫨が金富佾の詩に和して言う、
軒に臨んで鉞を授け、東征を命じられると 一挙に腥(なまぐさ)さをすべて掃(は)き清めた。 漢の辺塞はすでに空(むな)しく古(いにしえ)の胡はいないのに 秦の人は何を苦しんで新しい城を築いたのか。 庭に満ちた諫めが切(せつ)なのは、まことに長(なが)き策 地を拓(ひら)いた功が高いのは、これこそ大きな名(ほま)れ。 諫めに従うことと功を挙げること、どちらが最も急なのか わが王の聖なる裁きは、どちらにも公平で明らかだ。
天慶元年,謝恩使金緣林有文等入宋,皇帝接遇加等。金林等還,上問皇帝起居,金曰:「帝厚我國,享禮異常,然凡事皆極侈異,可爲寒心。」後三年癸巳,使李資諒李永等往朝,帝御睿謀殿賜宴,製詩示之,仍命和進。資諒賡韻曰:「鹿鳴嘉宴會賢良,仙樂洋洋出洞房。天上賜花頭上艶,盤中宣橘袖中香。黃河再報千年瑞,綠醑輕浮萬壽觴。今日陪臣參盛際,願歌天保永無忘。」此詩語涉淺易,而帝大加稱賞,以其卽事詳當也。明日流傳諸鋪店,書之爲簇掛諸壁。及資諒等辭,帝密諭曰:「似聞女眞比壤,後日來朝,宜招引數人與偕?」資諒曰:「夷狄貪婪,不可通上國。」宋之廷臣曰:「女眞珍奇雜出,高麗常貿易。資諒恐分利他國,故沮之。陛下於高麗愛如赤子。今資諒負德,陽好言而實詐。女眞不必藉高麗,可遣一介招致。」後果與交通,卒爲女眞移神器。宋朝群臣,不及一資諒之智,反以忠言爲詐,惜也。
天慶元年、謝恩使の金縁と林有文らが宋に入ると、皇帝の接待は格を上げたものであった。金縁と林有文らが帰ってくると、王は皇帝の起居(ようす)を問われた。金縁は言った。「皇帝はわが国を厚く扱い、もてなしの礼は並はずれでした。しかし何事もみな度を越して奢(おご)り並はずれていますので、寒心すべきです。」
その後三年の癸巳(きし)に、李資諒と李永らを使いとして遣わし朝(ちょう)させた。皇帝は睿謀殿に出て宴を賜り、詩を作って示され、そのうえ和して奉るよう命じられた。李資諒は韻を継いで作った。
鹿鳴(ろくめい)の良い宴に賢良な人が集まり 仙(せん)の楽が洋々と洞房(どうぼう)から流れ出る。 天上から賜った花は頭の上で艶(あで)やかに 盤(さら)の中から下された橘(たちばな)は袖の中で香(かお)る。 黄河は再び千年の瑞(しる)しを告げ 緑の美酒が万寿の杯に軽く浮かぶ。 今日、陪臣(ばいしん)が盛(さか)りの席に参りましたので 「天保」を歌って永く忘れぬことを願います。
この詩は言葉が浅く易(やす)い方に流れているが、皇帝は大いに褒め讃えた。その場の事に即して詳しく当を得ていたからである。翌日、多くの店に流れ伝わり、これを書いて軸にして壁に掛けた。
李資諒らが暇(いとま)を告げる時、皇帝はひそかに諭(さと)された。「聞くところでは女真が土地を接しているという。後日、来朝する時には何人かを招き誘って一緒に来るのがよいだろう。」李資諒は言った。「夷狄は貪(むさぼ)りますので、上国と通じさせることはできません。」
宋の朝廷の臣が言った。「女真には珍しく奇(く)しいものがいろいろ出るので、高麗は常に貿易しております。李資諒は利が他国に分かれるのを恐れて、これを妨げているのです。陛下は高麗を赤子のように愛されていますのに、いま李資諒は徳に背き、表(うわ)むきは良い言葉を言いながら実は欺(いつわ)っております。女真は必ずしも高麗を借りる必要はなく、使いの一人を遣わして招くことができます。」
後に果たして互いに通じたが、ついには女真に神器(しんき)を移されてしまった。宋朝の多くの臣は李資諒ひとりの智に及ばず、かえって忠なる言葉を欺りと見なしたのだから、惜しいことである。
每歲二月望爲燈夕。前一日駕幸奉恩寺,禮祖聖眞,號爲奉恩行香。在舊都九街廣坦,白沙平鋪,大川溶溶流出兩廊間。至此夕,百寮隨大小各結繒山,諸軍府亦以繒綵結絡,聯亘街陌,以畵幛書屛張左右。競作伎樂,萬枝燈火,連天如白晝。上行幸還,兩部伎女,着霓裳戴花冠,執樂迎蹕于昇平門外,奏還宮樂。入興禮利賓門間,宮殿沈沈,高㨖星斗,樂聲轟轟,如在半天。仁廟朝魏闕火,興禮利賓門還宮樂廢,久矣。重營至十八年畢,就是年燈夕,復舊樂入此門。上吟一絶云:「此地君臣樂,虛經十八年。幸因匡弼力,旣醉復如前。」載此御製者因紀事,他皆類此。
毎年二月十五日を燈夕(とうせき)とする。その一日前に王の車が奉恩寺に行幸して太祖の真影(しんえい)に礼するので、「奉恩行香」と言った。
古い都の九つの街(まち)は広く平らで、白い砂が一面に敷かれ、大きな川がゆったりと二つの廊の間を流れ出ていた。この夕べになると、すべての官人が大小に応じてそれぞれ絹の山を結(ゆ)い、諸軍府も絹と綵(いろぎぬ)で結び連ねて街と畦(あぜ)に連(つら)なり、絵の幕と書の屏風を左右に張った。競って伎楽(ぎがく)を催し、万の枝の灯火が天に連なって真昼のようであった。
王が行幸から帰られると、両部の伎女(ぎじょ)が虹(にじ)の裳(もすそ)を着け花の冠をかぶり、楽器を執って昇平門の外で車駕(しゃが)を迎え、「還宮楽」を奏した。興礼門と利賓門の間に入ると、宮殿は深々として高く星を刺(さ)し、楽の声が轟々と鳴って半空(なかぞら)にいるようであった。
仁宗の朝に魏闕(ぎけつ)が焼けて、興礼・利賓の二つの門で還宮楽を奏することが廃(や)んで久しかった。建て直して十八年に至って終わり、その年の燈夕に古い楽を復してこの門に入った。王は絶句一首を吟じられた。
この地の君と臣の楽しみが むなしく十八年を過ぎた。 幸いに正し助けた力によって すでに酔えば、また以前のとおりだ。
この御製(ぎょせい)を載せたのは事を記そうとするためで、他もみなこれと同じである。
尹文康公彦頤,晚節尤嗜禪味,退居鈴平郡金剛齋,自號金剛居士。每入郭,跨黃牛,人皆識之。與慧炤門人貫乘禪師爲友,相得甚懽。時貫乘住廣明寺,置一蒲庵止容一座,約曰:「先逝者,坐此而化。」一日跨牛詣貫乘同飯,已曰:「吾歸期不遠,吿別來耳。」言訖徑去,貫乘遣人隨其後,送蒲庵。公見之笑曰:「師不負約,吾行決矣。」遽取筆書偈云:「春復秋兮,花開葉落。東復西兮,善養眞君。今日途中,反觀此身,長空萬里,一片閑雲。」書畢,坐庵而逝。當時高人勝士,莫不咨嗟慕望,李中丞者號爲忠謇,獨排之曰:「尹公身爲宰輔,望重具瞻,雖退老,猶念國家風俗,益礪操持,以示後人,乃反作浮屠行,反道敗常,以傷聖化。恐詭異之風,自此始焉。」
尹文康公彦頤は晩年に禅の味をいよいよ好み、鈴平郡の金剛斎に退いて住み、自ら金剛居士と号した。城(まち)に入るたびに黄色い牛に乗ったので、人はみな見分けた。
慧炤の門人である貫乗禅師と友になり、互いに得たものがたいへん楽しかった。その時、貫乗は広明寺に住み、蒲(がま)の庵(いおり)を一つ置いていたが、やっと一人の座を容(い)れるほどであった。約束して言った。「先に逝(ゆ)く者が、ここに坐って化(か)することにしよう。」
ある日、牛に乗って貫乗のところへ行き、ともに飯を食べてから言った。「私の帰る期(とき)は遠くないので、別れを告げに来たのです。」言い終わるとまっすぐ去ったので、貫乗は人をやってその後を追わせ、蒲の庵を送った。公はそれを見て笑って言った。「師は約束に背かれなかった。私の行く道は決まった。」
そこで筆を取って偈(げ)を書いた。
春がまた秋となり 花が咲き、葉が落ちる。 東がまた西となり まことの主(あるじ)をよく養う。 今日、道の途中で この身を振り返って見れば 長い空の万里に 一片(ひとひら)の閑(のど)かな雲。
書き終えて、庵に坐ったまま逝った。
その時、高い人や優れた士で嘆息し慕い仰がない者はなかった。しかし李中丞という者は真(ま)っ直(す)ぐだと言われていたが、ひとり斥(しりぞ)けて言った。「尹公は身が宰相となり、名望が重くて誰もが仰いだ人である。年老いて退いたとしても、なお国と風俗を思って志操をいよいよ磨き守り、後の人に示すべきであったのに、かえって僧侶の行(おこな)いをして、道を覆し常(つね)を破り、聖人の教化を傷つけた。怪(あや)しく異(こと)なる風(ふう)が、これより始まるのではないかと恐れる。」
予嘗見風騷格論,平頭上尾、蜂腰鶴膝、大韻小韻、正紐旁紐之病,是好事者閑談。昨日聞人言:「昔有金國使來寓客館,館後苽花盛開。使云:「苽花千萬發。」促接伴卽對。伴曰:「蓂葉兩三開。」使笑而不肯,又對亦不諾。有一胥吏進曰:「柳樹一雙垂。」使者曰:「柳樹二字雖非同韻,聲相近可對。」伴遽曰:「是不難,宜致蓂爲莢。」使大悅。」此風騷小韻病也,金使犯之。接伴雖不能對,不爲不才而卒能善對。
私はかつて「風騒格論」を見たが、平頭・上尾・蜂腰・鶴膝・大韻・小韻・正紐・旁紐という病(やまい)が挙げてあった。これは事を好む者たちの閑(ひま)な話である。
昨日、人から聞いた話である。「昔、金の使いが来て客館に泊まったが、客館の裏に瓜(うり)の花が盛んに咲いていた。使いが『瓜の花が千万と咲いた』と言い、接伴にすぐ対句を作るよう促した。接伴が『蓂(めい)の葉が二つ三つ開いた』と言うと、使いは笑って受け入れず、また対句を作っても頷(うなず)かなかった。ある胥吏(しょり)が進み出て『柳の木が一対(ひとつい)垂れた』と言うと、使いは『柳樹の二字は同じ韻ではないが、声が互いに近いので対句になりうる』と言った。接伴はすぐに『これは難しくありません。蓂を莢(きょう)にすればよいのです』と言ったので、使いは大いに喜んだ。」
これは風騒の小韻の病であって、金の使いがそれを犯したのである。接伴はすぐに対句を作れなかったが、才がないのではなく、ついにうまく対句を作ることができた。
東都本新羅。古有四仙,各領徒千餘人,歌法盛行。又有玉府仙人,始制曲調數百。本朝閔僕射可擧,傳得其妙。嘗一日獨坐彈琴,有雙鶴來翔,因作別調云:「月城仙迹遠,玉府樂聲微。雙鶴來何晚,吾將伴汝歸。」皇龍寺雨花門,是古仙徒所創,風物荒凉,過者無不感傷。學士胡宗旦,乘使軺過是門,見進士崔鴻賓留題:「古樹鳴朔吹,微波漾殘暉。徘徊想前事,不覺淚霑衣。」胡瞿然驚曰:「眞不世才也。」及復命,上問東都遺事,遂奏此詩以爲警。皇祖以繡衣巡北塞曰:「龍城秋日淡,古戍白烟橫。萬里無金革,胡兒賀大平。」其淡古無痕迹,與崔詩同,彼崔詩感歎今昔,故情思多,此詩閑昑邊塞,故風力壯。
東都はもともと新羅である。昔、四仙(しせん)があってそれぞれ千余人の徒(と)を率い、歌う法が盛んに行われた。また玉府仙人があって、はじめて曲調を数百作った。本朝の僕射閔可挙が、その妙を伝え得た。
かつてある日、ひとり坐って琴を弾いていると、二羽の鶴が飛んで来た。そこで別調(べっちょう)を作って言う、
月城の仙(せん)の跡は遠く 玉府の楽の声はかすかだ。 二羽の鶴はどうしてこんなに遅く来たのか 私はこれからお前たちと連れ立って帰ろう。
皇龍寺の雨花門は昔の仙徒(せんと)が建てたものだが、風物が荒れて寂しく、通る者は心を痛めない者がなかった。学士の胡宗旦が使いの車に乗ってこの門を過ぎた時、進士の崔鴻賓が書き残して題したものを見た。
古い木は北風に鳴り 小さな波は残る日の光に揺れる。 行きつ戻りつして昔の事を思えば 知らぬうちに涙が衣を濡らす。
胡宗旦はぎょっとして驚いて言った。「まことに世にまれな才だ。」帰って復命する時、王が東都の遺(のこ)った事を問われたので、ついにこの詩を奏して戒めとした。
皇祖が繡衣(しゅうい)をもって北の辺塞を巡られた時に言う、
龍城の秋の日は淡く 古い戍(まもり)に白い煙が横に流れる。 万里に武器がなく 胡(えびす)の子らが太平を祝っている。
その淡く古(いにしえ)めいて跡がないところは、崔鴻賓の詩と同じである。あの崔鴻賓の詩は今と昔を感じ嘆いたので情と思いが多く、この詩は辺塞を閑(のど)かに吟じたので風の力が雄々しい。
任文肅公克忠,過延福亭云:「煬帝汴河秋冷落,明皇蜀道雨凄凉。當時此恨無人信,滿目溪山淚數行。」文順公題云:「複道渾成碧草蕪,笙歌寂寞鳥相呼。箇中殷鑑分明在,莫遣遺基掃地無。」感古情深,讀之悽然。殷鑑一聯,含蓄深切。
任文肅公克忠が延福亭を過ぎて言う、
煬帝(ようだい)の汴河(べんが)は秋が寂しく 明皇の蜀の道は雨が物寂しい。 あの時この恨みを信じる者はいなかったが 目に満ちる渓(たに)と山に涙が幾筋か。
文順公が題して言う、
複道(ふくどう)はすっかり青草に埋もれ 笙(しょう)と歌は寂(さび)れて鳥が互いに呼ぶ。 この中に殷(いん)の鑑(かがみ)がはっきりとあるのだから 残った礎(いしずえ)を掃き払って無くさないでほしい。
古(いにしえ)に感じる情が深く、読めば物寂しい。「殷の鑑」の一連は、含(ふく)んだ意が深く切(せつ)である。
大同江是西都人送別之渡,江山形勝,天下絶景。鄭舍人知常送人云:「大同江水何時盡,別淚年年添作波。」當時以爲警策。然杜小陵云:「別淚遙添錦江水。」李太白云:「願結九江波,添成萬行淚。」皆出一模也。文順公於祖江送別云:「舟將人遠心隨去,海送潮來淚共流。」言淚雖同,意或小異。
大同江は西都の人が別れを送る渡し場である。江と山の優れた景色は天下の絶景だ。舎人の鄭知常が人を送って言う、
大同江の水はいつ尽きるだろう 別れの涙が年ごとに加わって波になるのだから。
当時の人はこれを警策(けいさく)だと見なした。しかし杜少陵は「別れの涙が遠く錦江の水に加わる」と言い、李太白は「九江の波を結んで万筋の涙を成したい」と言ったのだから、みな同じ型から出たものである。
文順公が祖江で別れを送って言う、
舟が人を遠くへ連れて行けば心も従って去り 海が潮を送って来れば涙もともに流れる。
涙を言ったのは同じだが、意(こころ)はあるいは少し異なる。
凡留題,以辭簡義盡爲佳,不必誇多耀富。朴參政寅亮,題僧伽窟二十韻,咸郞中子眞,題洛山四十四韻,李史館允甫,題佛影一百韻,皆紀事實,辭不得不繁。若亭臺樓,觀所過題詠,只在一兩聯寫景。如畵森然眼界,使悤悤過客讀之,口不倦心不厭,吟玩遣興耳。予平生飽聞任相國克忠,題黃驪縣客樓云:「月黑為飛渚,烟沈江自波。漁舟何處宿,漠漠一聲歌。」但奇其韻語,未得其味。及按廉中道抵宿此樓,是時江烟冥漠,淡月朦朧,水鳥飛鳴,漁人相歌。惱眼感耳,摠是任公之詠,其詩價對景益高。
およそ書き残して題する文は、言葉が簡(かん)にして意が尽きているものを美しいとする。多いことを誇り、豊かさを輝かせるものではない。参政の朴寅亮が僧伽窟に題したものは二十韻、郎中の咸子真が洛山に題したものは四十四韻、史館の李允甫が仏影に題したものは百韻だが、みな事実を記したものだから、言葉が繁(しげ)くならざるをえなかった。
亭(てい)や台(だい)や楼のような所では、通り過ぎながら題詠するのは、ただ一、二連で景色を描くところにある。絵のように目の前にはっきりと広がって、急ぎ足で通る旅人が読んでも口が疲れず心が飽きず、吟じ楽しんで興を託(たく)すだけだ。
私は生涯、任相国克忠が黄驪県の客楼に題したものをたっぷり聞かされてきた。
月が暗くて水辺を飛んでいるようで 煙が沈んで江がおのずと波立つ。 漁(りょう)の舟はどこに泊まるのか はるかに一声の歌。
ただその韻を踏んだ言葉が奇(く)しいと思うだけで、その味を得られなかった。按廉使となって途中この楼に泊まることになったが、この時、江の煙が暗くはるかで、淡い月がおぼろで、水鳥が飛び鳴き、漁の人が互いに歌っていた。目を奪い耳を打つものが、すべて任公が詠んだそれであった。その詩の値(あたい)は、景色を前にしていよいよ高くなった。
金海府黃山江,沿流而下六七里,蒼崖斗起。面峰挾江,有烟村十餘戶,皆竹籬茅舍,如在畵圖中。唐侍御史崔致遠,嘗累石爲臺,名曰臨鏡,題詩石壁曰:「烟巒簇簇水溶溶,鏡裡人家對碧峰。何處孤帆飽風去,瞥然飛鳥杳無縱。」歲久臺壞,壁書漫滅。後人移書於黃山樓,所囑物象與詩反。如縣額州榜何其背矣。公凡所留詠,率不過絶句一首,就中嘉景無不破的。故過客見之,吟翫不足。寄贈亦多絶句,淸婉可愛。如贈檜谷獨居僧云:「除却松風耳不喧,結茅深倚白雲根。世人知路應翻恨,石上莓苔汚屐痕。」
金海府の黄山江は、流れに沿って六、七里下ると青い崖(がけ)が切り立って起こる。峰を向かいにし江を挟んだ所に煙る村の十余戸があるが、みな竹の垣と茅(かや)の家で、絵の中にいるようだ。
唐の侍御史崔致遠が、かつて石を積んで台を作り、名づけて臨鏡(りんきょう)とし、石の壁に詩を題した。
煙る峰々はびっしりと群れ、水はゆったりと 鏡の中の人家が碧(あお)い峰に向かい合う。 どこへ、孤(ひと)つの帆が風をはらんで行くのか ちらりと飛ぶ鳥のように、はるかに跡がない。
年が久しくなって台は崩れ、壁の書も薄れて消えた。後の人が黄山楼に書を移したが、託(たく)した物の姿と詩とが互いに食い違っている。県の額(がく)と州の榜(ぼう)が、どうしてこれほど背(そむ)くのだろう。
公がおよそ書き残して詠んだものは、おおむね絶句一首に過ぎなかったが、その中で美しい景色を的(まさ)しく射抜いていないものはない。だから通る旅人は見て、吟じ楽しんでも足りない。寄せ贈ったものも絶句が多いが、清く美しくて愛すべきである。「檜谷に独り住む僧に贈る」に言う、
松風を払いのければ耳は騒がしくなく 茅の家を結んで深く白雲の根に寄りかかった。 世の人が路を知ることが、かえって恨めしいだろう 石の上の苔(こけ)が、下駄(げた)の跡で汚れてしまうのだから。
李學士知深,題豐州城頭樓云:「天與海無際,茫茫望不窮。四方千里目,六月九秋風。圖畵應難妙,篇章豈得工。只疑生羽翼,身在大虛中。」時人以此聯,言不雕鑿,而氣豪意豁。雖然十字中言無際,又言不窮,或上言望不窮,下言千里目,似乎意疊。而讀之不知有相疊之意者,盖無聲病也。古人以回忌聲病,爲金針格,信哉。
学士の李知深が豊州の城頭楼に題して言う、
天と海は際(はて)がなく はるばると見渡しても尽きない。 四方は千里を見る目 六月でも九秋(きゅうしゅう)の風。 絵でも妙に描くのは難しく 文でもどうしてうまく作れようか。 ただ羽が生えて 身が大きな虚空(こくう)の中にあるのかと疑うばかりだ。
当時の人はこの連について、言葉が削り彫りされていないのに気が豪(ごう)やかで意が闊(ひろ)い、と言った。とはいえ十字の中で「際がない」と言い、また「尽きない」と言い、上では「見渡しても尽きない」と言い、下では「千里を見る目」と言ったのだから、意が重なったようである。それでも読めば互いに重なった意があることに気づかないのは、おおむね声病(せいびょう)がないからである。昔の人が声病を振り返って忌(い)むことを金針格(きんしんかく)と言ったのは、まことにそのとおりだ。
鄭舍人知常,題八尺房云:「石頭松老一片月,天末雲低千點山。」予嘗愛其辭意淸絶,時時吟翫。及爲全羅道按廉,當二月生明,登邊山不思議房後峰,傍有老松攙天,新月隱映。下望平原,際天衆山,如灸注尖抹雲烟。忽憶鄭公詩,沈吟咀嚼,以爲不到此境,安知鄭公得意處也。
舎人の鄭知常が八尺房に題して言う、
石のほとりに松が老い、一片(ひとひら)の月 天の果てに雲が低く、千点の山。
私はかつてその言葉と意が清く抜きんでているのを愛して、時おり吟じ楽しんだ。全羅道の按廉となり、二月の月が明るくなる頃に辺山の不思議房の裏の峰に登ると、傍らに老いた松が天を突き、新しい月がほのかに映っていた。下に平原を見渡せば、天に接する多くの山が、灸(きゅう)を据えたように尖(とが)って雲と煙を擦(す)っていた。ふと鄭公の詩が思い出され、低く吟じて噛みしめ、この境(きょう)に至らずにどうして鄭公が意を得た所を知れようかと思った。
楓岳皆骨立無土,因名爲皆骨。曇無竭菩薩眞身所住,居僧雖無行,亦成道。李祭酒純祐,爲東北面兵馬使,過此山,題一絶,外王父金禮卿,次其韻曰:「韋偃當年葬虢山,變爲皆骨倚天寒。高撑巉絶看如畵,應是丹靑舊筆端。」祭酒稱賞不已,外王父曰:「此猶未盡,尙有餘懷。」更作一絶云:「無竭眞身住此山,幻將枯骨掛雲端。欲令無行居僧眼,朝暮相看入妙觀〔浮屠有白骨觀。〕。」乃曰:「從前癢處已爬了也。
楓岳はすべて骨ばかりが立って土がないので、皆骨(かいこつ)と名づけた。曇無竭(どんむかつ)菩薩の真身(しんしん)が住まう所なので、住む僧は行(おこな)いがなくても、やはり道を成すという。
祭酒の李純祐が東北面兵馬使となってこの山を過ぎ、絶句一首を題したが、母方の祖父の金礼卿がその韻を継いで言う、
韋偃(いえん)がその年に虢山(かくざん)に葬られ 皆骨に変わって天に寄りかかり寒々としている。 高く突っ張って険(けわ)しく切り立ち、見れば絵のよう これはきっと丹青(たんせい)を描いた昔の筆の先だろう。
祭酒が褒め讃えてやまないので、祖父は言った。「これでもまだ尽くしていない。まだ残った思いがある。」もう一首の絶句を作って言う、
無竭の真身がこの山に住まわれ 幻(まぼろし)に枯れた骨を雲の端に掛けておかれた。 行いもなく住む僧の眼に 朝夕向かい合わせて、妙なる観(かん)に入らせようとされたのだろう。〔仏教に白骨観がある。〕
そして言った。「これまで痒(かゆ)かった所をすっかり掻(か)いた。」
東萊客館後有積翠亭,按廉使郭東珣留詩一首。文相國公裕爲大理時,手寫上板,是後無一詩繼上者。學士金精作記,崔相國惟淸,作後記自書,世稱積翠亭三絶,謂詩絶記絶書絶。予丁未春,乘傳過玆亭,一見歎賞,不能緘默,和成一首。縣令池壯元欲勒板,固止之,恐累三絶,且負斯亭。
東萊の客館の裏に積翠亭がある。按廉使の郭東珣が詩一首を書き残した。文相国公裕が大理であった時、手ずから書いて板に掲げ、その後は詩一首さえ続けて掲げた者がなかった。学士の金精が記(き)を作り、崔相国惟清が後記を作って自ら書いたので、世に「積翠亭の三絶」と称して、詩が絶(すぐ)れ、記が絶れ、書が絶れていると言った。
私は丁未(ていび)の春、駅馬に乗ってこの亭を過ぎ、一目見て感嘆し、黙っていられずに和して一首を成した。県令の池壮元が板に刻もうとしたので、強(し)いて止めた。三絶に瑕(きず)をつけ、またこの亭に背(そむ)くことが恐ろしかったからである。
金官樓上,宋學士首題七言六韻詩三首。時有次韻者,亦留三首。後繼和無慮十餘輩。詩板滿樓,讀者皆疲。有一客書板尾云:「一聯已盡西峰意,四句何須北岳書。堪笑宋公眞好事,一樓題詠百言餘。」
金官の楼の上に、宋学士がまず七言六韻の詩三首を題した。その時、韻を継いだ者があってやはり三首を残し、後に続いて和した者がおよそ十余人であった。詩板が楼に満ちて、読む者はみな疲れた。ある旅人が板の端に書いた。
一連ですでに西の峰の意を尽くしているのに 四句でどうして北岳を書く必要があろう。 笑ってしまう、宋公はまことに事を好む人だ 一つの楼の題詠が百言を越えている。
金蘭叢石亭,山人慧素作記。文烈公戲之曰:「此師欲作律詩耶。」星山公館,有一使客留題十韻,辭繁意曲。郭東珣見之曰:「此記也,非詩也。」非特詩與文各異,於一詩文中亦各有體。古人云:「學詩者,對律句體子美,樂章體太白,古詩體韓蘇。若文辭,則各體皆備於韓文,熟讀深,可得其體。」雖然李杜古詩,不下韓蘇,而所云如此者,欲使後進,汎學諸家體耳。」
金蘭の叢石亭に、山人の慧素が記を作った。文烈公がからかって言った。「この師は律詩を作ろうというのか。」
星山の公館に、ある使客が十韻の詩を書き残して題したが、言葉が繁(しげ)くて意が曲がっていた。郭東珣が見て言った。「これは記であって、詩ではない。」
詩と文がそれぞれ異なるだけでなく、一つの詩、一つの文の中にもまたそれぞれ体(たい)がある。昔の人が言うには、「詩を学ぶ者は、律句を杜子美に体を取り、楽章を李太白に体を取り、古詩を韓愈と蘇軾に体を取る。文辞で言えば、各体がみな韓愈の文に備わっているから、熟(よ)く読んで深くすれば、その体を得ることができる。」とはいえ、李白と杜甫の古詩が韓愈と蘇軾に劣らないのに、このように言ったのは、後進に諸家の体をひろく学ばせようとしただけである。
劉學士曦,毅廟時應御試中壯元。嘗投人詩,略云:「壯元及第尋常有,天子門生有幾人。」及爲密城守道,過華封院,晝憩書壁云:「謫宦南行十六驛,今朝始踐尙原境。聊城側畔數里餘,有一僻郡號聞慶。郡邊新院勢甚嚴,爛然金碧交相映。東偏小樓尤奇絶,壓倒休文舊八詠。美哉此屋是誰營,光文其名閔其姓。我是閔公門下人,今見創構益自敬。嗟乎此人留在世,經營天下不爲病,奈何天上玉樓成,鴈過長空不留影。塵凡已隔杳難尋,只自興歎玆之永。」如使東珣見之,殆謂記也。又有人題此院云:「萬緣灰冷老居士,尙有丹心奉聖明。天下蒼生皆請祝,如何獨占華封名。」劉詩遇境戀古,故辭繁意曲,此詩但屬題此院,故語略而警。劉公嗣子大司成沖基,操行孤潔,文章洪贍,有父之風,其所著述皆散亡,不得錄。
学士の劉曦は毅宗の時、御試に臨んで状元に選ばれた。かつて人に送った詩に、おおよそ言う、
状元の及第は世にありふれているが 天子の門生は何人いるだろうか。
密城の守(かみ)となって路に華封院を過ぎ、昼に休みながら壁に書いた。
流された官(つかさ)として南に十六の駅を行き 今朝はじめて尚原の境(さかい)を踏んだ。 聊城のかたわら数里あまりに 辺(へん)の郡が一つあって聞慶という。 郡のほとりに新しい院があって構えがひどく厳(おごそ)かで 燦(きら)めく金と碧(あお)が互いに映えている。 東に寄った小さな楼はいよいよ奇(く)しく絶(すぐ)れ 沈休文の昔の八詠を圧(お)し倒している。 美しいことだ、この家は誰が営(いと)なんだのか 光る文(ぶん)がその名で、閔がその姓だ。 私は閔公の門下の人であるから いま建てたものを見て、いよいよ自ら敬(うやま)う。 ああ、この人が世に留まっていたなら 天下を経営しても病(やまい)にはならなかったろう。 それがどうして、天の上に玉の楼が成って 雁(かり)が長い空を過ぎて影も残さないのか。 塵の世はすでに隔たってはるかに尋(たず)ねがたく ただ自ら、このはるかさを嘆くばかりだ。
もし郭東珣がこれを見たなら、おそらく記だと言ったであろう。
またある人がこの院に題して言う、
万(ばん)の縁が灰のように冷えた老いた居士でさえ なお赤い心で聖明(せいめい)を奉じている。 天下の蒼生(そうせい)がみな祝(いの)りを請うているのに どうして独り華封の名を占めているのか。
劉曦の詩は景色に出会って昔を慕ったので、言葉が繁くて意が曲がり、この詩はただこの院に題することに即したので、言葉が簡(かん)で警(いまし)めがある。
劉公の子である大司成の沖基は、志操と行いが孤(こ)で潔(いさぎよ)く、文章が広く豊かで、父の風(ふう)があったが、その著したものはみな散り失われたので、記すことができない。
河直講千旦,誦白雲子吳廷碩遊八巓山詩:「水長山影遠,林茂鳥啼深。倦僕莫鞭馬,徐行得久吟。」因曰:「林茂鳥啼深之句,最爲絶唱。」予曰:「此詩遣意閑遠,連吟四句,而後得嘉味,何獨一句爲絶?如林茂鳥啼深之句,是剝杜子美隔竹鳥聲深也,以林茂之言,比隔竹之語,若涇渭然,淸濁自分。」
直講の河千旦が、白雲子呉廷碩の「八巓山に遊ぶ」の詩を唱えた。
水が長くて山の影は遠く 林が茂って鳥の鳴く声は深い。 疲れた僕(しもべ)よ、馬に鞭(むち)を打つな ゆっくり行ってこそ長く吟じられる。
そして言った。「『林が茂って鳥の鳴く声は深い』の句が、最も絶唱です。」
私は言った。「この詩は意の運びが閑(のど)かで遠く、四句を続けて吟じた後にはじめて良い味を得るのに、どうして一句だけが絶れているとするのか。『林が茂って鳥の鳴く声は深い』のような句は、杜子美の『竹を隔てて鳥の声が深い』を剥(は)いだものだ。『林が茂る』という言葉を『竹を隔てる』という言葉に比べれば、涇水(けいすい)と渭水(いすい)のように清濁がおのずと分かれる。」
崔文淑公典試,金承宣立之擢第龍頭,文淑公之嗣文懿公典試,金承宣之子諫議君綏,又中壯元。諫議才識富贍,墨竹傳家,筆法不凡。有一僧將歸江南,以一張紙求畵,畵畢題詩云:「南行數十里,厭見林林竹如簀。嫌君煩鈍手,鈍手慵畵繪胸中。千畝欝欝萬餘丈,一幅香牋何窄窄。君不見長沙地自褊,大王舞袖非不翩翩寬且大〔此互用韻格。〕」及爲東南路按廉,過聊城驛留詩云:「去歲楓欲丹,乘軺赴南國。今年柳初黃,返旆朝北極。萬物化無常,四時行不息。溪流似我心,澄浄唯一色。」人以此詩和裕有味,誠大夫行役之作。
崔文肅公が試を司った時、承宣の金立之が龍の首(こうべ)として選ばれ、文肅公の子の文懿公が試を司った時、金承宣の子である諫議の君綏が、また状元に入った。
諫議は才と識見が豊かで、墨で描いた竹が家に伝わり、筆法が並はずれであった。ある僧が江南に帰ろうとして、紙一枚に絵を求めたので、絵を終えて詩を題した。
南へ数十里行けば 林ごとに竹が簀(す)のように密(みっ)しているのを飽きるほど見るだろう。 あなたは私の煩(わずら)わしく鈍(にぶ)い手を嫌うだろう 鈍い手は胸の中を描き出すのに怠(おこた)るのだから。 千畝(せんぽ)が鬱々として万余丈あるのに 一幅(ひとはば)の香(かお)る紙はどうしてこんなに狭いのか。 あなたは見ないか、長沙の地はおのずと狭くても 大王の舞う袖が翻(ひるがえ)って広く大きくないわけではないことを。〔これは韻を混ぜて用いる格である。〕
東南路の按廉となり、聊城駅を過ぎて詩を残した。
去年、紅葉が赤くなろうとする頃 車に乗って南の国へ赴いた。 今年、柳が初めて黄ばむ頃 旗を返して北極に朝(ちょう)する。 万物の移り変わりには常がなく 四季の運びは息(やす)まない。 渓(たに)の流れは私の心のようで 澄み清(きよ)んで、ただひとつの色だ。
人々は、この詩は和(やわ)らかで豊かで味があり、まことに大夫が旅に出て作った作品だと言った。
蔡拾遺寶文名重一時,觀其詩,遒麗無雕琢之痕。嘗遊學錦城,後爲按廉而至,題公舍壁云:「此地來遊十餘載,今秋又作雁南飛。簾旌暮捲江山是,鏡匣朝開齒髮非。半夜白沙留月色,長年綠竹媚春輝。腰黃眼赤新榮重,來去誰云一布衣。」又和珍島碧波亭詩云:「此亭誰創碧江濱,無限黃蘆與綠筠。柳岸喜逢彭澤令,桃源行訪武陵人。稀微海上蓬萊島,出沒波間日月輪。金橘數枝低馬首,行人誰導使君貧。」次韻道康會仙亭詩云:「驅馳客路古今同,攻破愁城酒有功。風引水聲來玉枕,月移花影上珠櫳。階邊百草爭春色,檻外雙松盡日風。座上群仙皆令德,可歌詩雅賦椅桐。」
拾遺の蔡宝文は、名が一時に重かった。その詩を見ると、強(つよ)く美しくて、削り彫りした跡がない。
かつて錦城に遊学し、後に按廉となって至り、公舎の壁に題した。
この地に来て遊んでから十余年 今年の秋もまた雁(かり)となって南へ飛ぶ。 簾(すだれ)を夕暮れに巻けば江山はそのままだが 鏡の箱を朝に開けば歯と髪はもとではない。 夜半の白い砂には月の色が留まり 長い年月の緑の竹は春の輝きに媚(こ)びる。 腰は黄、眼は赤で新しい栄(ほま)れが重いのだから 行き来する道で、誰が一枚の布(ぬの)の衣(ころも)だと言おうか。
また珍島の碧波亭の詩に和して言う、
この亭を誰が碧(あお)い江のほとりに建てたのか 限りない黄の葦(あし)と緑の竹だ。 柳の岸で彭沢の令(れい)に会えたのが嬉しく 桃源に行って武陵の人を訪ねる。 かすかに見える海の上の蓬萊の島 波の間に出入りする日と月の輪。 金の橘(たちばな)の数枝が馬の首に低く垂れるのに 道行く人の誰が、使君(しくん)が貧しいと言い立てようか。
道康の会仙亭の詩に韻を継いで言う、
旅の路を駆け回るのは昔も今も同じ 愁(うれ)いの城を攻め破るのに酒には功がある。 風が水の音を引いて玉の枕に来て 月が花の影を移して珠(たま)の窓に上る。 階(きざはし)のほとりの百草は春の色を争い 欄(おばしま)の外の二本の松は日が暮れるまで風。 座の上の多くの仙人はみな良い徳の持ち主だから 詩雅(しが)を歌い椅桐(いとう)を賦(ふ)すのがふさわしい。
金右丞敦時少年時,隨一僧遊唐商館。有一商與妻有釁,欲棄去適誰家。時方冬忽雨,金遽索紙書一絶云:「東韓地勝斂寒威,瑞雪翻爲瑞雨飛。應是巫山神女術,故關賓館不敎歸。」商見之,感歎至垂淚,終不去妻。彼中朝人雖庸賈,見好詩感動如此。況士大夫乎。
右丞の金敦時が若い時、ある僧に従って唐の商館へ遊びに行った。ある商人が妻と隙(すき)を生じ、捨ててどこかの家へ行こうとしていた。その時はまさに冬であったのに、ふいに雨が降った。金敦時はすぐ紙を求めて絶句一首を書いた。
東韓の地が優れていて寒さの威(いきお)いを収めたので 瑞(めでた)い雪が翻(ひるがえ)って瑞い雨となって降る。 これはきっと巫山(ふざん)の神女の術(わざ)で わざと賓館を閉ざして帰らせないのだろう。
商人はこれを見て感嘆し、涙を流すまでになって、ついに妻を捨てなかった。あの中国の人は、たとえ凡庸な商人であっても、良い詩を見て感動することがこのようである。まして士大夫であればなおさらだ。
翰林學士吳學麟,重遊興福寺云:「日改物自改,事移人又移。鶴添新歲子,松老去年枝。院院古非古,僧僧知不知。悠然登水閣,重驗早題詩。」出語圓滑,曲盡重遊之意。學士家世業儒,其孫世功世文世才三昆季,皆文章大手。季弟世才最優,世文次之。平生詩藁山積,皆散逸不傳于世,悲夫。二兄皆達,世才老不得志,客遊東都。棄庵居士淳之贈詩曰:「我本東南一民耳,老慵未可躬耒耜。來依古寺寓閑房,每被人呼作居士。恰似伯通屋廡下,梁鴻德耀暫同止。時從苾蒭問經論,敢逐搢紳攻文字。玆邦如魯古多儒,縱或相逢如有忌。乃知所趨苟不同,雖在比鄰邈千里。況於京國文翰苑,絶聽猶如天上事。然曾慣聞濮陽公,學海渾渾無涯涘。文如典誥少委蛇,詩似雅頌肯華靡。相如大人尙誕夸,屈平離騷却骫骳。淵深沕穆喜自珍,不露虹蜺千丈氣〔金無迹嘗謂予言:「世之譏評吳公,以爲使酒豪橫者,皆非也。公乃深沈閑雅,挫銳韜光,不欲露一毫芒耳」。〕。心祈一見每叩天,未覺己身賤且鄙。至諴感神固非虛,忽此相逢非夢裡。我嘗夢裡見天人,尙記容顔公卽是。敢將拙詩對神句,但恨其時未呈似〔嘗夢見神人下降,士女觀之者甚衆。予從騈闐中望之,所謂神人者,容貌不甚肥白,乃似世間書生相。傳云,神人作詩有一句云:「萬姓欣欣樂泰階」。予謂,神人若見我,令對此句,則不可以應卒,乃預構之云:「三光爛爛開天仗。」若自進於其前,未果遂覺。今觀公之貌,與夢所見無異。〕如今屢陪樽俎筵,又得新篇加溢美。喜將黃色發眉間,卽今雖死無所恥。陳篇尙慕古聖賢,何況竝生大君子。嗚呼愛之復畏之,佩服德音曷日已。」文順公少於吳三十餘年,結爲忘年交,亦以詩寄之云:「海山東去路悠悠,一落天涯久倦遊。黃稻日肥鷄騖喜,碧梧秋老鳳凰愁。烟波不返遊吳棹,雪月期浮訪剡舟。聖代未應終見棄,莫思垂白釣淸流。」其爲一代英雄所稱慕,如此。
翰林学士の呉学麟が、興福寺にまた遊んで言う、
日が変われば物もおのずと変わり 事が移れば人もまた移る。 鶴は新しい年の雛(ひな)を加え 松は去年の枝が老いた。 院ごとに古くて、しかも古くはなく 僧ごとに知っていて、しかも知らない。 ゆったりと水辺の閣(かく)に登り かつて題した詩を改めて確かめる。
言葉の出し方が円(まろ)やかで滑(なめ)らかで、再び遊ぶ思いを細やかに尽くしている。
学士の家は代々、儒の業(なりわい)を継いだ。その孫の世功・世文・世才の三兄弟はみな文章の大きな手(て)であったが、末弟の世才が最も優れ、世文がその次であった。生涯の詩稿が山のように積まれたのに、みな散り失われて世に伝わらない。悲しいことだ。
二人の兄はともに栄えたが、世才は老いるまで志を得られず、東都に旅人として流れ住んだ。棄庵居士の淳之が詩を贈って言う、
私はもともと東南の一人の民であるだけ 老いて怠(なま)けて、自ら鋤(すき)を執ることもできない。 古い寺に来て頼り、閑(ひま)な房に寄り住むので いつも人から居士と呼ばれる。 ちょうど伯通(はくとう)の家の廂(ひさし)の下に 梁鴻(りょうこう)と徳耀(とくよう)がしばらく共に留まったようだ。 時には僧に従って経と論を問うが どうして官人を追って文字を争おうか。 この邦(くに)は魯のように昔から儒者が多いが たとえ互いに出会っても、憚(はばか)るところがあるようだ。 そこで知った、向かうところがもし同じでなければ 隣り合っていても千里のようにはるかだということを。 まして都の文翰苑(ぶんかんえん)のことは 耳にすることが絶えて、なお天上の事のようだ。 しかしかつて濮陽公のことは聞き馴れていた 学の海が広々として際(きし)がないと。 文は典(てん)と誥(こう)のようで曲がりが少なく 詩は雅(が)と頌(しょう)に似て、どうして華やかで奢(おご)るものか。 司馬相如の「大人(たいじん)」でさえ荒唐で誇(ほこ)りすぎ 屈平の「離騒」もかえって捻(ねじ)れている。 淵(ふち)のように深く奥(おく)ゆかしく、自ら宝とすることを喜んで 千丈の虹(にじ)の気を表わさない。〔金無迹がかつて私に言った。「世が呉公を譏(そし)って、酒を使って豪(ごう)で横(おう)だとするのは、みな誤りである。公はむしろ深く沈(しず)み、閑(しず)かで雅(みや)びて、鋭さを挫(くだ)き光を包んで、毛先ほども表(あら)わそうとしなかっただけだ。」〕 心に一度お目にかかることを祈って、いつも天を叩(たた)いた 自分の身が賤(いや)しく鄙(ひ)しいことにも気づかずに。 至(いた)って誠(まこと)なら神を感(うご)かすというのは、まことに空(むな)しい言葉ではない ふいにこうしてお会いしたのは、夢の中のことではない。 私はかつて夢の中で天の人を見た 今もその顔を覚えているが、公こそその人だ。 どうして私の拙(つた)ない詩で神の句に対しえよう ただあの時、差し上げられなかったことが恨めしいだけだ。〔かつて夢に神人(しんじん)が降(くだ)るのを見たが、見物する男女がたいへん多かった。私は混み合う中からそれを見たが、いわゆる神人という者は顔かたちがさほど肥えて白くはなく、世間の書生のような相(そう)であった。伝え聞くところでは、神人が詩を作って、その一句に「万(ばん)の姓(たみ)が喜び喜んで泰階(たいかい)を楽しむ」とあったという。私は、神人がもし私を見てこの句に対句を作らせたなら、急には応じられないだろうと思い、あらかじめ作っておいて「三つの光が燦(きら)めき燦めいて天の儀仗(ぎじょう)を開く」とした。自らその前に進み出ようとしたが、果たせないまま目が覚めた。いま公の貌(かたち)を見ると、夢で見たものと変わりがない。〕 今はたびたび酒肴(しゅこう)の席に侍(はべ)り また新しい篇を頂いて溢(あふ)れる美(ほ)めを加えられた。 喜んで黄(きい)ろい色を眉の間に発(は)つのだから 今すぐ死んでも恥じるところはない。 古い書物によってさえ昔の聖賢を慕うのに まして同じ世に生きている大きな君子であればなおさらだ。 ああ、これを愛し、また畏(おそ)れる 徳の言葉を身に帯びることが、どの日に終わるだろうか。
文順公は呉世才より三十余年若かったが、年を忘れた交わりを結び、やはり詩を寄せて言う、
海と山を東へ行く路ははるかで ひとたび天の涯(はて)に落ちて、長く旅に疲れている。 黄の稲が日ごとに肥えて鶏と鴨(かも)が喜び 碧(あお)い梧(あおぎり)が秋に老いて鳳凰が愁(うれ)える。 煙る波に、呉へ漕ぎ出した櫂(かい)は帰らず 雪と月に、剡(せん)を訪ねる舟を浮かべることを約(やく)す。 聖なる御代(みよ)が、ついに捨てておくはずはない 白髪を垂らして清い流れに釣(つ)ることなど思わないでほしい。
一代の英雄に称えられ慕われたことが、このようであった。
外王父題高城客樓云:「閉窓猶海氣,欹枕亦濤聲。冠盖四仙迹,江湖三日名。」此聯格高意盡。吳秘丞世文題綠楊驛云:「有花村價重,無柳驛名孤。喬木日先照,枯桑風自呼。」此聯高淡有味,有味不如意盡。
母方の祖父が高城の客楼に題して言う、
窓を閉じてもなお海の気(き)であり 枕に寄りかかってもやはり波の音だ。 冠(かんむり)と日傘は四仙の跡 江湖は三日の名(ほま)れ。
この連は格が高く、意が尽きている。
秘丞の呉世文が緑楊駅に題して言う、
花があるので村の値(あたい)は重く 柳がないので駅の名は孤(ひと)り寂しい。 高い木に日が先に照り 枯れた桑(くわ)に風がおのずと呼ぶ。
この連は高く淡(あわ)くて味があるが、味があることは意が尽きていることには及ばない。
吳世才賦北岳戟巖云:「北嶺巉巉石,旁人號㦸巖。逈椿乘鶴晉,高刺上天咸。揉柄電爲火,洗鋒霜是鹽。何當作兵器,敗楚亦亡凡。」有宋人見此詩,歎服問曰:「此人在乎,今至何官?我宋有如此作詩者,則必爵之。此詩非閑中題詠,殆被人占强韻令賦耳。」哉字助也,亦難爲韻,昔有一長官,命權敦禮賦竹陣,占哉字。權曰:「刃交風拂是,弓掛月生哉。」可同日而語。
呉世才が北岳の戟巌(げきがん)を賦して言う、
北の嶺(みね)の険(けわ)しい石を 傍らの人は戟巌と呼ぶ。 はるかな椿(つばき)の木は鶴に乗った晉(しん)であり 高く刺しているのは天に上った咸(かん)だ。 柄(え)を揉(も)めば電(いかずち)が火となり 鋒(ほこさき)を洗えば霜が塩となる。 どうすればこれを武器に作って 楚を破り、凡(はん)も滅ぼせるだろう。
宋の人がこの詩を見て感服し、問うた。「この人は生きていますか。今どの官に至っていますか。わが宋にこのように詩を作る者があれば、必ず爵(しゃく)を与えたでしょう。この詩は閑(ひま)な中で題詠したものではなく、おそらく人から難しい韻を押し付けられて賦させられたものでしょう。」
「哉」の字は助字(じょじ)なので、やはり韻にするのは難しい。昔、ある長官が権敦礼に「竹陣」を賦させ、哉の字を投げた。権敦礼が言う、
刃(やいば)が交わって風が払うのがそれであり 弓を掛ければ月が生(で)るのだ。
同じ日に並べて語るに足る。
許壯元洪材,完山道中云:「重尋舊遊處,風月似前春。只歎完山下,時無鼓腹人。」聞者皆云:「淺易然有恤民經濟之意,」後果爲冢宰。齊安進士崔裕,題桃源驛云:「避秦三四家,仍作桃源驛。自言迎送勞,却勝長城役。」有風騷諷喩之意,當時以爲警策。裕十上不第,以布衣終。則古人觀文章,知人之行止,似未必信。雖然觀崔詩,語意自苦,無和裕將大之氣。
状元の許洪材が完山へ行く路で言う、
かつて遊んだ所を改めて訪ねれば 風と月は去年の春のようだ。 ただ嘆くのは、完山の下に 今は腹を鼓(つづみ)のように打つ人がいないことだ。
聞く者はみな「浅く易(やす)いが、民を恤(あわ)れみ世を治めようとする意がある」と言った。後に果たして冢宰となった。
斉安の進士崔裕が桃源駅に題して言う、
秦を避けた三軒四軒の家が そのまま桃源駅となった。 自分では迎え送るのが苦労だと言うが それでも長城の役(えき)よりはましだという。
風刺して悟らせる意があって、当時これを警策と言った。崔裕は十度応じても及第せず、布(ぬの)の衣(ころも)のままで終わった。とすれば、昔の人が文章を見てその人の進退を知るというのも、必ずしも信ずべきものではないようだ。とはいえ崔裕の詩を見ると、言葉と意がおのずと苦しく、許洪材の、やがて大きくなろうとする気がない。
崔景文公洪胤,以金牓元,拜政堂,入中書,寓直房在第四。琴英烈公儀,亦以壯元,拜政堂,踵入此房。夜直作詩云:「中書第四宰臣房,幾閱平章與政堂。此日榮華誰得似,壯元郞代壯元郞。」英烈公掌喉舌,兼三大夫、雙學士,及爲相久柄鈞衡。乃作詩云:「出入黃扉靑瑣闥,于今二十四年臨。鷄鳴漏盡猶行路,恐向沙堤犯夜禁。」於是稱病歸老。二公皆文忠肅克謙之門下壯元也。越壬申春,同掌試春官,予出其門下。兩公竝時爲相,而忠肅公之嗣惟弼,時亦爲相。及英烈公縣車歸老,門生欲獻壽,大敞華筵,仍邀崔文二相同燕。英烈公倚酣唱曰:「一門下兩龍頭,與宗伯同時爲平章,以至退老。赴此門生之賀宴,實千古未聞也。胡不爛醉以答盛事?」門生皆俯伏階下,不勝慶嘆,至或有拭淚嗚咽者。趙同年蕡作詩,私與同年微聲曰:「共登金牓一門下,聯入黃扉數載中。宗伯〔方言座主之嗣。〕亦爲一時相,桂堂春宴賀三公。」同年以此詩雖淺俗,言今日事的然。
崔景文公洪胤が金榜(きんぼう)の首席として政堂に任じられ、中書に入ると、宿る直房(とうぼう)が四番目の房であった。琴英烈公儀も状元として政堂に任じられ、踵(きびす)を接してこの房に入った。夜、宿直しながら詩を作った。
中書の四番目の宰臣の房は 平章と政堂を幾人(いくにん)見てきたのか。 この日の栄華に誰が似(に)られよう 状元郎を状元郎が代わったのだから。
英烈公は喉舌(こうぜつ)の任を司り、三人の大夫と二つの学士を兼ね、宰相となってからは長く秤(はかり)の竿(さお)を握った。そこで詩を作った。
黄扉(こうひ)と青瑣闥(せいさたつ)を出入りして 今で二十四年になる。 鶏が鳴き水時計が尽きるまで、なお路を行くので 沙堤(さてい)で夜の禁(いまし)めを犯すのが恐ろしい。
そこで病を称して年老いて退いた。
二人の公はともに文忠肅公克謙の門下の状元である。壬申(じんしん)の春、ともに春官の試を司り、私はその門下から出た。二人の公が同じ時に宰相となったが、忠肅公の子の惟弼も、その時やはり宰相であった。
英烈公が車を懸けて年老いて退くと、門生たちは寿(ことほ)ぎを献じようとして華やかな席を大きく開き、そのうえ崔・文の二人の宰相を招いてともに宴(うたげ)した。英烈公は酒の気に任せて声を上げた。「一つの門下から二人の龍の首(こうべ)が出て、宗伯とともに同じ時に平章となり、年老いて退くに至った。この門生の祝いの宴に臨むのは、まことに千古に聞いたことのない事だ。どうして存分に酔ってこの盛大な事に答えないでいられよう。」
門生たちはみな階(きざはし)の下に伏して祝いと感嘆を抑えられず、涙を拭(ふ)いて咽(むせ)び泣く者さえあった。
同じ年に選ばれた趙蕡が詩を作り、ひそかに同年たちに低い声で吟じた。
一つの門下からともに金榜に登り 数年のうちに次々と黄扉に入った。 宗伯〔わが言葉で座主(ざす)の子である。〕もまた一時の宰相となったので 桂堂(けいどう)の春の宴で三人の公を祝うのだ。
同年たちは、この詩は浅く俗(ぞく)ではあるが、今日の事を言ったのが的(まさ)しいと言った。
景文公英烈公,俱解相印,歸老于第。上因冊東朝臨軒,敬老勅賜大酺。兩公皆入赴宴,諸門生扶侍上闕,塡街溢巷,觀者莫不嗟嘆。及罷宴歸第,英烈公謂諸子曰:「吾以龍頭爲相,以至退老,得參賜設,而門生扶侍甚盛。皆當代英材,曷勝慶快!宜效文和公宴諸門生故事。」於是召集四年牓,大開燕飮,呼出諸子孫欲命坐,公曰:「一門子弟情同骨肉,吾諸子孫亦爾等兄弟也。」乃以齒坐之。及酒酣懽甚,命門生相唱和。辰年狀頭皇甫瓘唱云:「同年先後爲兄弟。」公卽應聲對曰:「滿座英雄間子孫。」明日諸同年各作詩謝之。僕以公之一聯七字,分爲韻作詩幷引以謝,公覽而肯之。
景文公と英烈公がともに宰相の印の紐(ひも)を解き、家に帰って老いた。王は東朝(とうちょう)を冊立(さくりつ)されて軒に臨まれ、老人を敬う意味で大きな酒宴を賜った。二人の公はともに入って宴に臨んだが、多くの門生が扶(たす)け侍(はべ)って宮闕に上ったので、街と巷(こうじ)に満ちて、見る者は嘆じない者がなかった。
宴が終わって家に帰り、英烈公は多くの子に言った。「私は龍の首(こうべ)として宰相となり、年老いて退くに至った。賜った席に参り、門生たちが扶け侍ったのもたいへん盛大であった。みな当代の英才であるから、どうして喜びを抑えられよう。文和公が多くの門生に宴したという昔の事に倣(なら)うべきだ。」
そこで四つの年の榜を呼び集めて大きく宴飲(えんいん)を開き、多くの子と孫を呼び出して座らせようとして、公は言った。「一つの門の子弟は情が骨肉と同じだ。わが多くの子と孫も、お前たちの兄弟である。」そこで年の順に座らせた。
酒が熟(う)れてたいへん楽しくなると、門生たちに互いに唱(とな)え和(こた)えさせた。辰年の状頭(じょうとう)である皇甫瓘が唱えた、
同年は先になり後になり、兄弟のようだ。
公はすぐ声に応じて対句を付けた。
座に満ちる英雄が、子や孫の間に座っている。
翌日、多くの同年がそれぞれ詩を作って謝した。私は公の一連の七字を分けて韻とし、詩を作って序(じょ)を添えて謝したところ、公は見て良しとされた。
趙文正公,器識德行文武兼備,望傾朝野。丙子年討丹宼,命元帥,公爲副,不自顓制戰不利,作詩曰:「千里霜蹄容一蹶,悲鳴壯氣何逸越。若敎造父更加鞭,蹋躪沙場摧古月。」及己卯年,朝議推公爲獨元帥,專掌兵權。會蒙古兵追丹宼至,其渠率見公拜而兄之,倂力掃丹寇乃還。遷門下平章事、判兵部。時文安公文順公韓陳兩副樞,劉司成沖基,尹直講于一,皆其同牓,醵宴以賀。公作詩最爲警策,今失之,唯記一句云:「綠袖昔年爲末座,黃扉今日先諸公。」復次韻答劉待制陳臺長云:「文陣當年鼓角雄,銀袍藍袖棘闈中。靑雲穩步無多子,白髮相看不負公。烏府𢥠威搖岳鎭,鴻樞慶頌及兒童。天章待制又如許,同牓飛昇甚日窮。」功名方極,還有烟霞逸想,開獨樂園於東臯,傍竹臨泉。日與門弟賢士大夫,詩酒自娛。其酬唱至成數卷,惜哉無人收錄,不傳于今。年五十卒,三韓莫不搥胸慟慕。尹直講于一作墓銘,略曰:「公德行耶文學耶政事耶,可無愧顔閔季路之徒歟。入而相出而將,半百年前功名富貴何云云。」時謂實錄。
趙文正公は器(うつわ)と識見、徳行、文と武をあわせ備え、名望が朝廷と野(や)を傾けた。
丙子(へいし)の年、契丹の賊を討つにあたって元帥を命じられ、公を副元帥とされたが、自ら専(もっぱ)ら決することができず、戦いは利がなかった。詩を作って言う、
千里を行く霜の蹄(ひづめ)が一度つまずくのを容(ゆる)すのだから 悲しく鳴く雄々しい気は、どうしてこれほど抜きんでているのか。 もし造父(ぞうほ)にもう一度鞭(むち)を加えさせたなら 砂の原を踏みにじって古(いにしえ)の胡(えびす)を砕くだろう。
己卯(きぼう)の年に至って、朝廷の議は公を独り元帥に推し、専ら兵権を任せた。たまたま蒙古の兵が契丹の賊を追って至ったが、その頭(かしら)は公を見て拝(はい)して兄とし、力をあわせて契丹の賊を掃(は)いた後に帰った。門下平章事・判兵部に遷った。
その時、文安公と文順公、韓・陳の二人の副枢、劉司成沖基、尹直講于一がみな同じ榜であったので、金を出し合って宴を開いて祝った。公が作った詩が最も警策であったのに、今は失われて、ただ一句だけを覚えている。
緑の袖で去年は末(すえ)の席にいたのに 黄扉では今日、多くの公より先に立った。
また韻を継いで劉待制と陳台長に答えて言う、
文の陣にあの年、鼓(つづみ)と角(つのぶえ)が雄々しく 銀の袍(ほう)と藍(あい)の袖で棘闈(きょくい)の中にいた。 青い雲を穏やかに踏んだ者は多くはなく 白髪で向かい合っても、公に背(そむ)かなかった。 烏府(うふ)の恐るべき威は山岳を揺るがし 鴻枢(こうすう)の慶(よろこ)びを頌(ほ)める声は子どもにまで及ぶ。 天章閣の待制もまたこのとおりだから 同じ榜の者が飛び上がるのは、どの日に尽きるだろうか。
功名はまさに極まったのに、かえって煙と霞(かすみ)に隠れる思いがあって、東皋(とうこう)に独楽園を開き、竹を傍(かたわ)らにし泉に臨んだ。日ごとに門下の弟子や賢(かしこ)い大夫たちと、詩と酒で自ら楽しんだ。その酬(むく)い唱えたものは数巻を成したが、惜しいことに、収め記す人がなく、今に伝わらない。
年五十で没すると、三韓で胸を打って痛み慕わない者がなかった。尹直講于一が墓銘を作った。おおよそ次のようである。「公は徳行であろうか、文学であろうか、政事であろうか。顔回・閔子騫・季路の輩(やから)に恥じるところはないであろう。入れば宰相、出れば将軍であって、半百年の前の功名と富貴を何と言おうか。」当時の人はこれを実録だと言った。
英烈公與任學士永齡,同師受業,及應擧,任先擢乙第。公作詩曰:「進士出身非所望,壯元及第不才何。羨他吾友任公子,紫陌春風作探花。」明年果中壯元。
英烈公は学士の任永齢と同じ師に学んだが、科挙に応じた時、任永齢が先に乙科に選ばれた。公は詩を作った。
進士の出身は望むところではないが 状元の及第は、才のない私にどうしようもない。 羨(うらや)ましいことだ、わが友の任公子よ 紫の街(まち)の春風の中で探花郎(たんかろう)となったのだから。
翌年、果たして状元に入った。
趙文正公,與劉待制沖基,李司諫百順,及諸門弟,遊獨樂園,開飮唱和,得欺字。李曰:「谷靜聲猶答,池淸影不欺。」〔時臨池。〕劉曰:「夏日眞堪畏,秋雲不致欺〔指趙〕。」公曰:「膽麤凌酒惡,道直沒人欺。」一座動驚無復繼和。公嘗和英烈公得孫男詩云:「排陰命代我先知,行止休憑六眼龜。英物一朝呱繡帳,微陽午夜動葭帷〔冬至日生。〕。何煩弓韣勤求子,已呪桃花屢靧兒〔兒生用桃花洗面。呪曰:「取紅花,取白雪。」與兒洗面,作光澤。〕,叶得半千爲世瑞,看將十五作人師。文高華國靑錢鷟,威敵扶王白捧羆〔北史王羆〕,自昔通家恩岳在,賀懷聊展一篇詩。」初文士爭次韻,難其羆字,公最後押,尤異。
趙文正公が劉待制沖基、李司諫百順、および多くの門下の弟子と独楽園に遊び、酒席を開いて唱え和した時、「欺」の字を得た。
李百順が言う、
谷が静かなので声はなお答え 池が清いので影は欺(いつわ)らない。〔その時、池に臨んでいた。〕
劉沖基が言う、
夏の日はまことに畏(おそ)れるに足り 秋の雲は欺くことがない。〔趙公を指す。〕
公が言う、
胆(きも)が粗(あら)いので酒の荒さを見下し 道が直(す)ぐなので人に欺かれない。
一座が驚き動いて、もはや続けて和する者がなかった。
公はかつて、英烈公が孫を得た詩に和して言う、
陰(いん)を押しのけて代を継ぐことを、私が先に知った 行くか止まるかを、六つの眼の亀に頼って占う必要はない。 英(すぐ)れた子が一朝(ひとあさ)、繡(ぬい)の帳(とばり)の中で泣き かすかな陽(ひ)が夜半に葦(あし)の帷(とばり)を動かした。〔冬至の日に生まれた。〕 どうして煩わしく弓袋を掛けて子を求め祈ろうか すでに桃の花で子の顔を何度も洗ったのだから。〔子が生まれると桃の花で顔を洗う。呪(じゅ)文に「紅(あか)い花を取れ、白い雪を取れ」と言いながら子の顔を洗って、艶(つや)を出させる。〕 半千(はんせん)に叶(かな)って世の瑞(しる)しとなり 十五を見て人の師となるだろう。 文が高くて国を輝かす青錢(せいせん)の鷟(さく)であり 威が敵を押さえて王を扶ける白い羆(ひぐま)だ。〔北史の王羆である。〕 昔から通家(つうか)の恩が山岳のようにあるので 抱いた祝いを、ひとまず一篇の詩に展(ひろ)げる。
はじめ文士たちは争って韻を継いだが、その「羆」の字を難しがった。公が最後に押(お)したのが、とりわけ並はずれていた。