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巻下補閑集 卷下

補閑集(破閑集を補う書き留め) 補閑集 · 崔滋(チェ・ジャ) · 1254年 · 段落 49 · 漢字 12,823字 · 朗読 51.3分

補閑集(破閑集を補う書き留め) 補閑集 卷下 破閑集の後を継ぐ詩話集。崔瑀が「その書は広くないので、継いで繕え」と命じ、崔滋が著した。李奎報・李仁老・兪升旦・金仁鏡を一人ずつ品評し、同じ題を幾人もがそれぞれ詠んだものを並べて置き、誰がどう違うかを論じる。高麗の文壇が互いをどう見ていたかがそのまま残った。獒樹の犬の話が初めて記された場所であり、モンゴルに焼かれた開京の旧跡で桐一本を見てきた記録もここにある。最後の巻には怪しい話を八つ、わざわざ付け足しておいた — 「苦しんで学ぶ者を遊ばせ、休ませるためである」と記している。

有一好事者,集聲律七字聯評之,第其上下,屬予曰:「彼雄深奇妙,古雅宏遠之句,必反覆詳閱,久而後得味,故學者不悅,如工部詩之類也。今所集若干聯,皆一見卽悅之語,可以資補閑,君其錄於後編。」觀其所評,皆不法古人,新以臆論之,尙有可取,列之于左。新警如文順公萬日寺樓云:「渡了幾人舟自泛,噪殘孤虎鳥猶鳴。」含蓄如芮學士樂全閑居云:「萬里行裝春已暮,百年計活夜何長。」婉麗如文順公夏日卽事云:「密葉翳花春後在,薄雲漏日雨中明。」淸峭如皇祖北山寺云:「墮檻松聲淸刮夜,倚空山骨冷磨秋。」俊壯如金翰林克己云:「天馬足驕千里近,海鰲頭壯五山輕。」富貴如趙祭酒伯琪:「鶯花別院笙歌咽,車駕高門劍佩鳴。」精彩如文順公甘露寺云:「霜花照日添秋露,海氣干雲散夕霏。」飄逸如陳補闕江上云:「風吹釣叟帆邊雨,山染沙鷗影外秋。」淸遠如皇祖北山聖居寺云:「別洞白雲欹枕送,到山明月卷簾迎。」奇巧如文順公興聖寺云:「走藤遇曲難成杖,臥木因高偶作梯。」志寓如李司成百全東山溪亭云:「地側逆流雖湊北,時平沔水會朝東。」優游如文順公乞退後云:「周行世界閑僧坐,遍閱夫郞老妓休。」感懷如文順公病中云:「病憶故人空有淚,老思明主若爲情。」豪易如李眉叟:「林間出沒幾多屋,天外有無何處山。」淸駛如文順公北寺樓云:「閑雲頃刻成千狀,流水尋常作一聲。」金翰林云:「多情塞月圓還缺,少格山花落又開。」幽博如金翰林:「讖雨廢池蛙閣閣,相風枯樹鵲査査。」文順公興聖寺云:「厭雪寒麕爭穴燥,避風幽鳥擇枝低。」明媚如金翰林:「雨送紫茸歸野蕨,風催靑子上江梅。」文順公:「雨晴草色連空綠,風暧梅花度嶺香。」此二聯一骨,而雨送之聯其氣飄然。爽豁如鄭舍人嶺南寺樓云:「一溪明月憑欄夜,萬里淸風卷箔天。」文順公北山寺云:「半壁夕陽飛鳥影,滿山秋月冷猿聲。」龍潭寺云:「萬柳影中南北路,一溪聲裏兩三家。」皆一骨也,萬里淸風之語尤佳。華艶如外王父上李諫議純祐云:「詰筆暖霑紅藥露,朝衣輕颺紫薇風。」又上奇相國云:「滿衣花影朝溫室,一徑松陰退冷齋。」李眉叟:「風細佩聲傳紫禁,日高花影上紅墻。」又云:「日照花塼迎醉步,月和蓮燭映回廊。」外王父:「花院雨晴紅露泣,筠階日午碧霜乾。」此五聯皆一骨也,滿衣花影之語句格尤勝。佼壯如皇祖上文烈公西征云:「一聲鼓角靑山裂,萬里旌旗白日濛。掃盡河山還聖主,洗回風月付詩翁。三鼇山峻忠誠壯,五鳳樓高國手雄。」文順公占韻賦晉康公第蟠松云:「乾坤摠入吹噓內,草木猶榮顧眄前。」崔承制宗蕃登高望長安云:「十川蛇遶平章洞,三峴龍蟠學士家〔世稱,松京五宅,皆學士家,在三峴中〕。」此五聯皆一骨也,上文烈公三聯最爲淸雄。壯麗如劉司成沖基初入新都云:「海爲門作琉璃闕,山自花開錦繡都〔壬辰,移居海上花山。〕。」金翰林莘鼎新都夜直云:「一江風月金門遠,萬國烟花玉輦春。」皆一骨而劉尤贍壯。

ある事好きな者が、声律の七字の連(れん)を集めて品評し、その上下を定めて、私に頼んだ。「あの雄々しく深く奇(く)しく妙(たえ)で、古(いにしえ)めいて雅(みや)びやかで大きく遠い句は、必ず繰り返し詳しく見渡して、久しくなってから味を得るものなので、学ぶ者は喜びません。工部(こうぶ)の詩のようなものがそれです。いま集めたいくつかの連は、どれも一度見ればすぐ喜ぶ言葉ですから、閑(ひま)を補うのに役立つでしょう。あなたは後の編に記してください。」

その品評したものを見ると、どれも昔の人に倣(なら)わず、新しく臆測(おくそく)で論じたものだが、それでも取るべきところがあるので、以下に並べておく。

新しく人を覚(さと)らせるもの——文順公「万日寺の楼」

渡り終えた何人かの舟がおのずと浮かび 鳴き疲れた孤(ひと)つの虎に、鳥がなお鳴いている。

含(ふく)みのあるもの——芮学士楽全「閑かに暮らして」

万里を行く支度に、春はもう暮れ 百年を暮らす算段に、夜はどうしてこんなに長いのか。

美しく麗(うるわ)しいもの——文順公「夏の日の即事」

密(こ)んだ葉が花を覆(おお)って春の後にも残り 薄い雲が日を漏(も)らして雨の中も明るい。

清く峭(けわ)しいもの——亡き祖父「北山寺」

欄(おばしま)に落ちる松の音が清らかに夜を削り 空に寄りかかる山の骨が冷たく秋を磨(す)る。

抜きんでて雄々しいもの——金翰林克己

天の馬の足が驕(おご)れば千里が近く 海の鰲(おおがめ)の頭が雄々しければ五つの山が軽い。

富貴なもの——趙祭酒伯琪

鶯(うぐいす)と花の別院に笙(しょう)と歌がむせび 車と高い門に剣(つるぎ)と佩玉(はいぎょく)が鳴る。

精彩(せいさい)あるもの——文順公「甘露寺」

霜の花が日に照って秋の露を加え 海の気が雲を侵(おか)して夕べの霞(かすみ)を散らす。

翻(ひるがえ)って抜きんでたもの——陳補闕「江の上で」

風が釣(つ)る翁(おきな)の帆のそばに雨を吹き 山が砂の鷗(かもめ)の影の外に秋を染める。

清く遠いもの——亡き祖父「北山の聖居寺」

別の谷の白い雲は枕を傾けて送り 山に着いた明るい月は簾(すだれ)を巻いて迎える。

奇しく巧みなもの——文順公「興聖寺」

走る藤(ふじ)は曲がりに出会って杖(つえ)になりにくく 臥(ふ)した木は高さのおかげで、たまたま梯(はしご)になった。

志を託(たく)したもの——李司成百全「東山の渓亭」

地が傾いて逆らう流れが北に集まるとはいえ 時が平らかで沔水(べんすい)が集まって東に朝(ちょう)する。

ゆたかに遊ぶもの——文順公「退きを願った後に」

世界をめぐり歩いて閑(ひま)な僧が坐り 男たちをひろく経(へ)て老いた妓(ぎ)が休む。

感じ入るもの——文順公「病の中で」

病んで旧(ふる)い友を思えば、むなしく涙があるばかり 老いて明らかな王を思えば、この情をどうしよう。

豪(ごう)やかで易(やす)いもの——李眉叟

林の間に出たり隠れたりするのは、どれほど多くの家なのか 天の外にあるかないか分からないのは、どこの山なのか。

清く速いもの——文順公「北寺の楼」

閑かな雲はわずかの間に千の姿を成し 流れる水はいつも一つの音を立てる。

金翰林

情の多い辺塞(へんさい)の月は丸くなってまた欠け 格の少ない山の花は散ってまた咲く。

幽(かす)かで広いもの——金翰林

雨を占う捨てられた池に蛙(かわず)がかくかくと鳴き 風を見る枯れた木に鵲(かささぎ)がさあさあと騒ぐ。

文順公「興聖寺」

雪を厭(いと)う寒い麕(のろ)は乾いた穴を争い 風を避ける幽かな鳥は低い枝を選ぶ。

明るく美しいもの——金翰林

雨は紫の芽を送って野の蕨(わらび)に帰し 風は青い実を催(もよお)して江の梅に上らせる。

文順公

雨が晴れて草の色が空に連なって緑であり 風が暖かくて梅の花が嶺(みね)を越えて香る。

この二つの連は一つの骨だが、「雨は送って」の連のほうが、その気が翻っている。

爽やかに開けたもの——鄭舎人「嶺南の寺の楼」

ひと筋の渓(たに)の明るい月に、欄に寄りかかる夜 万里の清い風に、簾を巻き上げた空。

文順公「北山寺」

半(なか)ばの壁の夕日に飛ぶ鳥の影 山に満ちる秋の月に冷たい猿の声。

「龍潭寺」

万(ばん)の柳の影の中に南北の路 ひと筋の渓の音の内に二、三軒の家。

どれも一つの骨だが、「万里の清い風」という言葉がいよいよ美しい。

華やかで美しいもの——母方の祖父が李諫議純祐に差し上げたもの

筆を執(と)りつめれば、暖かく赤い芍薬(しゃくやく)の露に濡れ 朝服(ちょうふく)が軽く紫薇(しび)の風に翻る。

また奇相国に差し上げて

衣に満ちる花の影で温室に朝(ちょう)し ひと筋の松の陰で冷斎(れいさい)に退く。

李眉叟

風が細くて佩玉の音が紫禁(しきん)に伝わり 日が高くて花の影が赤い牆(かき)に上る。

また

日が花の甃(しきがわら)を照らして酔った歩みを迎え 月が蓮(はす)の燭(ともしび)と和(あ)って回廊に映る。

母方の祖父

花の院に雨が晴れて赤い露が泣くようで 竹の階(きざはし)に日が真昼で碧(あお)い霜が乾いた。

この五つの連はどれも一つの骨だが、「衣に満ちる花の影」の言葉と句法がいよいよ優れている。

強く雄々しいもの——亡き祖父が文烈公の西征に差し上げたもの

ひと声の鼓(つづみ)と角(つのぶえ)に青い山が裂け 万里の旗に白い日が曇る。 河と山をすべて掃(は)いて聖なる王にお返しし 風と月を洗って戻し、詩翁(しおう)に託す。 三鼇山(さんごうさん)が険しく忠誠が雄々しく 五鳳楼が高くて国の手(て)が雄々しい。

文順公が韻を引いて晋康公の家の蟠(わだかま)った松を詠んで

天と地がすべて吹き助けられる内に入り 草と木がなお、顧(かえり)み見やられる前に栄える。

崔承制宗蕃が高い所に登って長安を見やって

十の川が蛇(へび)のように平章洞をめぐり 三つの峴(みね)が龍のように学士の家にわだかまる。〔世に言われるには、松京の五つの家はみな学士の家で、三つの峴の中にあるという。〕

この五つの連はどれも一つの骨だが、文烈公に差し上げた三つの連が最も清く雄々しい。

雄々しく美しいもの——劉司成沖基がはじめて新しい都に入って

海を門として瑠璃(るり)の宮闕を作り 山がおのずと花を開いて錦の繡(ぬい)の都となった。〔壬辰(じんしん)の年、海の上の花山に移り住んだ。〕

金翰林莘鼎「新しい都で夜に宿直して」

ひとつの江の風と月に金門(きんもん)が遠く 万国の霞と花に玉の輦(くるま)が春だ。

どちらも一つの骨だが、劉のほうがいよいよ豊かで雄々しい。

毅廟幸西都時,白學士光臣,管記黃州,上歌謠云:「洞仙溪水千年色,岊嶺松風萬壑聲。」晉陽公孫女配東宮,生男後,公宴宗室諸王,陳八洞樂觀之〔舊京諸坊,號十二洞,各有里樂,及遷都皆廢,晉陽公更爲八洞,閱其樂。〕,東山洞進歌謠云:「東山曲是童輝四,中岳聲爲萬歲三〔見子山爲中岳,其洞亦進樂。〕。」花山洞云:「一門簪履三韓會,八洞笙歌萬壽聲。」此三聯一格也。

毅宗が西都に行幸された時、白学士光臣が黄州の管記(かんき)であって、歌謡を奉って言う、

洞仙(どうせん)の渓の水は千年の色 岊嶺(せつれい)の松風は万の谷の音。

晋陽公の孫娘が東宮の配偶となり、男子を産んだ後、公は宗室の諸王に宴を設け、八つの洞(どう)の楽を並べて見せた。〔古い都の多くの坊(ぼう)を十二洞と呼び、それぞれに里の楽があった。都を移すとみな廃(すた)れたので、晋陽公があらためて八つの洞を作り、その楽を見渡した。〕

東山洞が歌謡を奉って言う、

東山の曲は、この童(わらべ)を四つに輝かせるもの 中岳(ちゅうがく)の声は、万歳を三つに唱えるもの。〔子山を中岳としたので、その洞もまた楽を奉った。〕

花山洞が言う、

一つの門の簪(かんざし)と履(くつ)が三韓に集まり 八つの洞の笙と歌が万寿(ばんじゅ)の声となる。

この三つの連は一つの格である。

凡用故事不同,或名號或言行。大抵用事之聯,罕有新意,唯假借爲用,如有新意,然失實。眉叟云:「老去陶潛方止酒,慵多杜叟不梳頭。」此用古人名。又云:「附熱肯追氷氏子,絶交偏恨孔方兄。」此假用名。又云:「要作洞中秦博士,何須墓上漢征西。」用古人官。皇祖云:「氷廳掛鏡容寒士,霜署提綱激暖卿。」假用官名。文順公云:「墮車醉者只全酒,把甕丈人寧有機。」用古人語。皇祖云:「薄宦一生誰得鹿,故人千里子知魚。」借用古人語〔得鹿之語,非指薄宦,知魚之說,不關故人,此皆借用。〕。文順公云:「世味淺深曾染指,人生得失已忘蹄。」染指,借用古人事〔與上知魚,借用語同。〕,忘蹄,借用古人語。詩家貴借用,然用之不工,則意反而語生。尹直講于一,趙直講文拔,同在國學考藝試闈,趙作詩云:「欲雨欲晴天半笑,無風無月夜全聾。」尹吟味良久曰:「此古人所謂借字,甚工也。」

およそ故事を用いるのは一様でなく、ある時は名や号(ごう)、ある時は言葉や行いである。おおむね故事を用いた連には新しい意があるものがまれで、ただ借りて用いれば新しい意があるように見えるが、実(じつ)を失う。

眉叟が言う、

老いて行く陶潛はまさに酒をやめ 怠(なま)けの多い杜(と)の翁は髪を梳(と)かさない。

これは昔の人の名を用いたものである。

また言う、

熱に付きながら、どうして氷氏(ひょうし)の子を追おうか 交わりを絶って、ひとえに孔方兄(こうほうけい)を恨む。

これは名を借りて用いたものである。

また言う、

谷の中の秦の博士になりたいだけなのだから どうして墓の上の漢の征西将軍を用いよう。

これは昔の人の官を用いたものである。

亡き祖父が言う、

氷の庁(ちょう)に鏡を掛けて寒い士を受け入れ 霜の署(しょ)に綱(つな)を提(さ)げて暖かな卿(けい)に突き当たる。

これは官の名を借りて用いたものである。

文順公が言う、

車から落ちた酔った者は、ただ酒のおかげで無事であり 甕(かめ)を抱えた老人に、どうして機心(きしん)があろう。

これは昔の人の言葉を用いたものである。

亡き祖父が言う、

薄い官(やく)の一生に、誰が鹿を得たであろう 旧(ふる)い友は千里の彼方(かなた)、あなたは魚を知っているか。

これは昔の人の言葉を借りて用いたものである。〔鹿を得るという言葉は薄い官を指したものではなく、魚を知るという言い方は旧い友と関わりがない。これはみな借りて用いたものである。〕

文順公が言う、

世の味の浅さ深さは、かつて指を染めて試し 人の生の得失は、もう筌(うえ)を忘れた。

「指を染める」は昔の人の事を借りて用いたものであり〔上の「魚を知る」と同じく、言葉を借りて用いたものである。〕、「筌を忘れる」は昔の人の言葉を借りて用いたものである。

詩家は借りて用いることを貴(とう)ぶ。しかし用い方が巧みでなければ、意が裏返って言葉が生硬になる。

尹直講于一と趙直講文抜がともに国学で芸(げい)を試す場にいたが、趙が詩を作って言う、

雨になろうか晴れようかとして、天が半ば笑い 風もなく月もなくて、夜がすっかり聾(みみしい)だ。

尹はしばらく吟じ味わって言った。「これは昔の人が言ったところの、字を借りたものだ。たいへん巧みである。」

皇祖九月二十五日夜月云:「已將凉扇藏秋篋,漸見寒鉤掛曉簾。」體物精妙。文順公再三和李需詠白云:「笏光朝未退,窓色醉方醒。」亦爲奇警。康日用御試占韻賦雪云:「聲逐漁簑歸渭浦,迹隨僧杖入天台。」此押强韻,甚工。予入北朝,見故燕地村家壁上題:「春前有雨花開早,秋後無霜葉落遲。」傍書曰端的,此殆謂敍事對屬端的也。鄭與齡和文懿公葦詩云:「春芽綠日河豚上,秋葉黃時塞鴈來。」此賦物端的也,敍事不及賦物。世傳,文懿公見與齡此句曰:「吾詩不敢與此同板。」遂削之,此言之者過耳。觀鄭詩雖端的,是新進,刻燭賦物,號爲急作者之體也。昔爲童冠赴夏課會,占韻急作土卵云:「種時鳩始乳,收日雁初賓」。亦其體。櫻桃云:「摘來夏實珠千顆,想得春花雪一枝。」此亦一骨而異體。有二生賦絞床,一曰:「下恐壓顚擎柱錯,中嫌陷落絡繩多。」一曰:「靑衫影裏承恩少,畵角聲中得意多。」壓顚之聯意,巧語瑣,靑衫之語,非新進急作,乃老儒語也。李侍郞需,被人請走筆賦鞘子云:「裹皮尙有將軍質,著漆猶存國士風。恐管不留中漸窄,惡塵多滯下微通。」恐管之聯與壓顚之聯,語格同,其使恐、留、惡三字,尤生且疎。然爲時俗所尙,裹皮、著漆皆常談也,若改爲裹革、漆身,此聯有可觀。

亡き祖父の「九月二十五日の夜の月」に言う、

もう涼しい扇(おうぎ)を秋の箱に収めたのに だんだん冷たい鉤(かぎ)が暁の簾(すだれ)に掛かるのが見える。

物を描いたのが精(せい)しく妙である。

文順公が二度三度、李需の「白いものを詠む」に和して言う、

笏(しゃく)の光は朝(ちょう)からまだ退かない時 窓の色は酔いがまさに覚める時。

これもまた奇しく人を覚(さと)らせる。

康日用が御試で韻を引いて雪を詠んで言う、

音は漁(りょう)の蓑(みの)を追って渭水(いすい)の浦に帰り 跡は僧の杖に従って天台山に入る。

これは強い韻を押したのがたいへん巧みである。

私は北朝に入って、昔の燕(えん)の地の村家(むらや)の壁の上に題されたものを見た。

春の前に雨があるので花が早く咲き 秋の後に霜がないので葉が遅く散る。

傍らに「端的(たんてき)」と書かれていた。これはおそらく、事を述べて対(つい)を付けたのがぴたりと当たっているという意味であろう。

鄭与齢が文懿公の「葦(あし)」の詩に和して言う、

春の芽が緑の日に河豚(ふぐ)が上り 秋の葉が黄ばむ時に辺塞(へんさい)の雁(かり)が来る。

これは物を詠んだのがぴたりと当たっている。事を述べることは、物を詠むことに及ばない。

世に伝わるところでは、文懿公が与齢のこの句を見て「私の詩は、敢えてこれと同じ板に置けない」と言って、ついに削り取ったというが、これは言う者が行き過ぎている。鄭の詩を見ると、ぴたりと当たっているとはいえ、これは新しく進んで来る者が燭(ともしび)に刻(しるし)をつけて物を詠む、いわゆる急いで作る者の体である。

昔、冠(かんむり)をつけた者と子どもたちが夏の学びの会に出た時、韻を引いて急いで里芋(さといも)を詠んで言う、

植える時には鳩(はと)が雛(ひな)を育てはじめ 収める日には雁がはじめて客となる。

これもまたその体である。

「桜桃(おうとう)」に言う、

摘んで来れば夏の実が珠(たま)の千粒(つぶ) 思い浮かべれば春の花が雪のひと枝。

これもまた一つの骨でありながら、体が異なる。

二人の書生が「絞床(こうしょう)」を詠んだが、一人は、

下は、倒れて押し潰(つぶ)されるのを恐れて柱の支えが交差し 中は、落ち込むのを嫌って絡(から)げた縄が多い。

一人は、

青い衫(ひとえ)の影の内では恩を受けることが少なく 彩(いろど)られた角(つのぶえ)の音の中では意を得ることが多い。

「倒れて押し潰される」の連は意は巧みだが言葉が細々としており、「青い衫」の言葉は、新しく進んで来る者の急作ではなく、まさに老いた儒者の言葉である。

李侍郎需が人の頼みを受けて筆を走らせ「鞘(さや)」を詠んで言う、

皮で包まれていてもなお将軍の質(しつ)があり 漆(うるし)を塗ってもなお国士の風(ふう)が残る。 管(くだ)が留まらないのを恐れて中がだんだん狭く 塵が多く溜(た)まるのを憎んで下が少し通っている。

「恐れる」の連は「倒れて押し潰される」の連と言葉の格が同じで、その「恐」「留」「悪」の三字を操(あやつ)ったのがいよいよ生硬で、そのうえ粗(あら)い。しかし当時の世俗が尊ぶところとなった。「皮で包む」「漆を塗る」はどちらもありふれた言い方だから、もし「裹革(かかく)」「漆身(しっしん)」に改めていたなら、この連には見るべきところがあったであろう。

詩評曰:「氣尙生語欲熟。初學之氣生,然後壯氣逸,壯氣逸,然後老氣豪。」文順公少年時走筆,皆氣生之句,膾炙衆口。如次韻文長老見贈云:「睡美工夫深巷雨,夜寒消息一瓶氷。」又:「數篇詩句閑中迫,一局棊聲靜裡喧。」又:「一洞烟霞僧富貴,兩峰松月鶴生涯〔其寺對兩峰。〕,朝暮鳥聲門外樹,古今人影路傍潭。」又:「階竹困陰孫未長,庭梅飽雨子初肥。」又:「顔逢美酒雙紅易,眼爲佳人一白難。」:「滿林白雪猿跳破,半壁斜陽鳥喚殘。」「竹根擘地龍腰曲,蕉葉翻堦鳳尾長。」「蟾腹硯寒書易凍,猊蹄鑢煖坐慵遷。」「觀棋遺迹衣生皺,省酒奇功語減暄。」半壁斜陽,語格淸爽,省酒奇功,氣生語熟,古今人影,辭雖已陳,屬意則新,閑中迫,聯辭淺,而意不淺。無衣子爲大學生時,野行云:「臂筐桑女盛春色,頂笠蓑翁戴雨聲。」陳補闕云:「觸石樹腰成磊碨,入地泉脚失潺湲。」臂筐之句,氣與語俱生,爲時俗所尙,觸石聯,氣雖生語猶熟,雖詩老亦驚。

詩評に言う、「気は生(せい)であることを尊び、言葉は熟(う)れることを求める。はじめて学ぶ時は気が生であり、その後に雄々しい気が抜きんでて、雄々しい気が抜きんでた後に老いた気が豪(ごう)やかになる。」

文順公が若い時に筆を走らせたものは、どれも気が生の句だが、多くの人の口に上(のぼ)った。たとえば文長老が贈ったものに次韻して言う、

眠りが甘い工夫(くふう)は深い巷(こうじ)の雨 夜が冷たい便(たよ)りは一つの瓶(かめ)の氷。

また、

幾篇(いくへん)かの詩句は閑(ひま)な中で急(せ)き ひと局(きょく)の碁(ご)の音は静けさの内で騒がしい。

また、

ひと谷の霞(かすみ)は僧の富貴 二つの峰の松と月は鶴の暮らし。〔その寺は二つの峰に向かい合っていた。〕 朝夕の鳥の声は門の外の木 昔と今の人の影は路傍の潭(ふち)。

また、

階(きざはし)の竹は陰に苦しんで孫(ひこばえ)が育たず 庭の梅は雨に飽(あ)きて実がようやく肥えた。

また、

顔が良い酒に出会って両方(ふたかた)赤くなるのは易(やす)く 眼が美しい人のために一度白くなるのは難しい。

林に満ちる白い雪は猿が跳んで破り 半ばの壁の斜(かた)むく日は鳥が呼んで消える。

竹の根は地を割って龍の腰が曲がり 芭蕉の葉は階に翻(ひるがえ)って鳳(ほう)の尾が長い。

蟾(ひきがえる)の腹の硯(すずり)は冷たくて書が凍りやすく 獅子(しし)の蹄(ひづめ)の火炉(かろ)は暖かくて座を移すのが怠(ものう)い。

碁を見ていた跡に衣が皺(しわ)になり 酒を控えた奇(く)しい功で言葉が暖かさを減らす。

「半ばの壁の斜むく日」は言葉の格が清く爽やかで、「酒を控えた奇しい功」は気が生でありながら言葉が熟れており、「昔と今の人の影」は言葉がすでに述べられたものだが意の付け方は新しく、「閑な中で急く」の連は言葉が浅くとも意は浅くない。

無衣子が太学生であった時、野の路を行きながら言う、

腕に籠(かご)を掛けた桑摘(くわつ)みの女は春の色を盛り 頭に笠(かさ)をかぶった蓑の翁は雨の音をかぶる。

陳補闕が言う、

石に触れて木の腰がごつごつと塊(かたま)り 地に入って泉の脚(あし)がせせらぎを失った。

「腕に籠」の句は気と言葉がどちらも生であって、当時の世俗が尊ぶところとなり、「石に触れて」の連は気は生であっても言葉がなお熟れているので、詩に老いた者さえ驚いた。

凡詩紀美自敍,皆要其得實。或用同姓名故事,是謂精博。趙文正公和崔、琴兩相國唱和詩云:「貴糸題鷹後,仙源駕鯉孫。」用同姓事。「谷同鸎放手,年別桂分恩。」此紀美得實,崔、琴皆忠肅公門下,壯元故也。崔相復和云:「庭蘭同舊臭,門笋按新孫。」自敍得實。「弄翰殘星詠,臨戎愛日恩。」用同姓幷得實也。誥院孫得之和進云:「失多名負得,兒少姓慙孫。」此用同姓名之字,爲自敍也。

およそ詩で美しさを記し自ら述べるには、どれもその実を得ることが肝要である。あるいは同じ姓や名の故事を用いれば、これを精しく広いという。

趙文正公が崔・琴の二人の相国が唱え和えた詩に和して言う、

貴い糸は鷹(たか)を題した後 仙(せん)の源(みなもと)は鯉(こい)に乗った孫。

同じ姓の事を用いたものである。

谷が同じなので鶯(うぐいす)が手を放し 年が別なので桂(かつら)が恩を分ける。

これは美しさを記して実を得たものである。崔と琴がどちらも忠肅公の門下の状元であったからである。

崔相国がまた和して言う、

庭の蘭は昔の香りと同じで 門の筍(たけのこ)は新しい孫を見守る。

自ら述べて実を得たものである。

筆を弄(もてあそ)んで残る星を詠み 戦(いくさ)に臨んで愛(いと)おしむ日の恩。

同じ姓を用いながら、あわせて実を得たものである。

誥院の孫得之が和して奉って言う、

失うことが多くて、名が「得」に背(そむ)き 子が少なくて、姓が「孫」に恥じる。

これは同じ姓と名の字を用いて、自ら述べたものである。

河直講千旦訪予曰:「康日用賦鷺鷥云:「飛割碧山腰。」苦吟未得對。後眉叟對云:「占巢喬木頂。」載之破閑。凡續補是好事,如未得佳句則已,何眉叟自揚己短,如彼乎?君其削去。」予對曰:「破閑所載,鄭舍人至都門而返,黃彬彬慟哭下樓,似乎過矣。然先覺之言,不敢擅非,況以占巢喬,對飛割碧熟矣,何削?」河怒其拒,突出便去。時座有兩三客,吟味良久曰:「請各對之」,曰「立拳靑草面」,或「起穿靑壠首」,或「睡偎紅蓼脛」,或「立窺淸沼面」,或「叫穿明月脇」,爭自爲勝。予戲曰:「康李兩老,豈不能道你輩此等句也?」客呵呵而罷。

河直講千旦が私を訪ねて来て言った。「康日用が鷺(さぎ)を詠んで『飛んで碧(あお)い山の腰を割る』と言い、苦しんで吟じたが対句を得られませんでした。後に眉叟が対句を付けて『高い木の頂に巣を占める』と言い、これを「破閑集」に載せました。およそ継ぎ補うのは良い事ですが、もし美しい句を得られなかったならやめておくべきで、どうして眉叟が自ら己の足りなさをあのように表したのでしょうか。あなたはそれを削り取ってください。」

私は答えた。「「破閑集」に載ったもののうち、鄭舎人が都の門まで来て引き返したというものと、黄彬彬が泣き叫んで楼を下りたというものは、行き過ぎのようだ。しかし先に覚(さと)った人の言葉を敢えてみだりに誤りだとはできないし、まして『巣を占める高い木』で『飛んで割る碧い山』に対(つい)を付けたのは熟(う)れているのだから、どうして削ろうか。」

河はそれを拒まれたことに腹を立てて、ふいに出て行ってしまった。その時、座に二、三人の客がいて、しばらく吟じ味わってから言った。「それぞれ対句を付けてみよう。」一人は「青い草の面(かお)に拳(こぶし)を立てる」と言い、ある者は「青い畝(うね)の頭を貫いて立ち上がる」と言い、ある者は「赤い蓼(たで)の脛(すね)に寄りかかって眠る」と言い、ある者は「清い沼(ぬま)の面を覗(のぞ)いて立つ」と言い、ある者は「明るい月の脇(わき)を貫いて叫ぶ」と言って、争って自分が優(すぐ)れているとした。

私はからかって言った。「康と李の二人の老人が、どうしてあなたたちのこういう句を言えなかったであろうか。」客たちはからからと笑って散(ち)った。

趙承宣伯琪,文正公之子,弱冠擢第,不數年腰犀爲襯衣使,過淸風縣。其監務井宗厚,膝行膜拜而進曰:「我是嚴君同榜,不幸陸沈,年將七十始得此任。」趙驚起避席再拜,作詩贈之曰:「靑衫門外白頭翁,曾共先人折桂叢。同榜盡爲卿相貴,可憐七十在淸風。」時趙年二十餘,詩語已老。

趙承宣伯琪は文正公の子で、弱冠で及第し、何年もしないうちに犀(さい)の帯を締めて襯衣使(しんいし)となり、清風県を通った。その監務の井宗厚が膝(ひざ)で這(は)って来て拝(はい)し、進み出て言った。「私はお父上と同じ榜(ぼう)です。不幸にして陸(おか)に沈み、年がもう七十になってはじめてこの任を得ました。」

趙は驚いて立ち上がり、席を外して二度拝し、詩を作って贈った。

青い衫(ひとえ)の門の外の白髪の翁(おきな)よ かつて亡き父とともに桂(かつら)の叢(むら)を折られたのだ。 同じ榜の人はみな卿相(けいしょう)の貴さを得たのに 哀(あわ)れなことだ、七十で清風におられるとは。

その時、趙の年は二十余りであったのに、詩の言葉はすでに老いていた。

崔相國保淳爲省郞時,措大皇甫瓘往謁,相國以畵松詩卷子示之,皇卽次韻聯寫曰:「蒼髯一叟老雲峰,水墨傳眞號是松。無限子孫今滿洞,大夫餘蔭有誰蒙。」相國驚曰:「此郞必占龍頭。」後果作成均試副元,未幾又作金榜第一人。

崔相国保淳が省郎(しょうろう)であった時、措大(そだい)の皇甫瓘が挨拶に行くと、相国は松の絵の詩の巻子(かんす)を見せた。皇甫はすぐに次韻して続けて書いて言う、

青い髭(ひげ)の一人の翁が雲の峰に老いた 水墨でまことの姿を伝え、その名は松だ。 限りない子孫が今は谷に満ちているのに 大夫(たいふ)の余(あま)った蔭(かげ)を、誰が受けていよう。

相国は驚いて言った。「この郎官は必ず龍頭を占めるだろう。」後に果たして成均試の副元となり、間もなくまた金榜の第一人となった。

己酉仲春,因事到古京,皆丘墟,有孤桐生大觀殿古址,已拱矣。及日暮子規啼西麓,不忍澘然。曉起見壁間有二絶,問重修都監胥吏,是誰作也,答云是副使安搢所書。其一曰:「萬家煨燼一無遺,殿上生桐自底時。我老萬分觀再造,薰風琴用汝當支。」二曰:「不意皇都有子規,終宵啼月使人悲。潛思往事汍瀾泣,曉傍孤桐詠黍離。」此詩雖非警策,卽事備詳可哀。

己酉(きゆう)の仲春、用があって古い都に至ると、すべて丘と廃墟になっていて、孤(ひと)つの梧(あおぎり)が大観殿の古い跡に生えて、もう両手で抱えるほどになっていた。日が暮れると杜鵑(ほととぎす)が西の裾(すそ)で鳴いたので、涙を流さずにはいられなかった。

暁に起きて壁の間に絶句二首があるのを見、重修都監の吏(り)に誰が作ったのかと問うと、副使の安搢が書いたものだと答えた。

その一つ、

万(ばん)の家が灰になって一つも残らなかったのに 殿(でん)の上に梧が生えたのは、どの時からなのか。 私は老いても万分の一でも再び造られるのを見るだろうから 薫風(くんぷう)の琴は、お前を使って支えることになろう。

二つ、

思いもよらず皇都に杜鵑がいて 夜通し月に鳴いて人を悲しませる。 ひそかに過ぎた事を思ってはらはらと泣き 暁に孤つの梧のそばで「黍離(しょり)」を詠む。

この詩は人を覚らせ鞭(むち)打つものではないが、そのまま事を備えて詳しく、哀れむに足る。

予掌書上洛,後爲遨頭復之任。闢所居廳事,後欄臨小池,名之曰不勞亭,種花竹其前。及瓜代,第四年丁未春,帶玉出鎭東南路,巡歷上洛,自牧守至于鄕校諸儒,呈歌詩引啓,騈塡街路。有四大老年七八十餘,自號尙原四老,呈短引幷絶句詩四首。其一曰:「前爲藍袖後朱轓,政最如公古未聞。草綠圓門虎生子,至今傳作美談云。」其二曰:「不勞亭畔百花開,曾是爲州手自栽。去後春光猶寂寞,無情亦喜相君來。」予覽之曰:「虎負子渡河去,古人美之。今來生子,非善政也,但取空獄云耳。」

私は上洛の掌書記となり、後に遨頭(ごうとう)としてその任に再び就いた。住む所の庁(ちょう)を開いて裏の欄(おばしま)が小さな池に臨むようにし、「不労亭」と名づけて、その前に花と竹を植えた。

任期を交代して四年目の丁未の春、玉を帯びて東南路を鎮(しず)めに出て上洛を巡ると、牧使や守令から郷校の多くの儒者に至るまで、歌と詩と引啓(いんけい)を奉る者が街路に並んで満ちていた。

老人が四人いて、年が七十八十余りであったが、自ら「尚原四老」と呼んで、短い引(いん)とあわせて絶句の詩四首を奉った。

その一つ、

前には藍(あい)の袖、後には朱の車の覆(おお)いであられて 政(まつりごと)が公ほどの方は、昔から聞いたことがありません。 草の緑の円い門で虎が子を産んだので 今まで語り伝えられて、美しい話となっております。

その二つ、

不労亭のほとりに百の花が咲いたのは かつて州を治められて、手ずから植えられたものです。 去られた後は春の光もなお寂しかったのに 情のないものまでが、相君(しょうくん)のお越しを喜んでおります。

私は見て言った。「虎が子を背負って川を渡って行ったことを、昔の人は美しいとした。いま来て子を産んだというのは良い政ではなく、ただ獄(ひとや)が空になったことを取って言っただけである。」

古今警絶句不多。如草堂江上云:「功業頻看鏡,行藏獨倚樓。」悶云:「卷簾唯白水,隱几亦靑山。」陳補闕云:「杜子美詩,雖五字氣吞象外。」殆謂此等句也。然白水之聯,用唯亦二字爲妙,欲味其妙,當悶中咀嚼。崔壯元基靜四時詞云:「侵雪還萱草,占霜有麥花。」白拈草堂語。吳先生世才自敍云:「丘壑孤忠赤,才名兩鬢華。」暗竊草堂格。皇祖初入金閨,奉使江南留題曰:「雲霄茅下纔連茹,原隰蓬間忽斷根。」詩人以爲,與杜子美:「日月籠中鳥,乾坤水上萍。」其琢句精工相似。或云:「此等句格,琢爲五字,則絶妙,七言則未工。」眉叟破閑云:「古今琢句之法,唯杜少陵得之。如日月籠中句,吟味果如啖蔗。」陳補闕云:「三年旅枕庭闈月,萬里征衣草樹風。」未若草堂:「三年笛裡關山月,萬國兵前草木風。」語峭意深。李史館允甫,平生嗜杜詩,時時吟賞干戈送老儒一句曰:「此語天然遒緊,凡才固不得導。」宋翰林昌問:「工部,『九江春草外,三峽暮帆前。』辭易意滑,儻可及導?」史館笑曰:「其語意豁遠,固非汝曹所識。如:「古墻猶竹色,虛閣自松聲。」此工部尋常語體,今幾人學杜體,而莫能髣髴。唯雪堂。「欹枕落花餘幾片,閉門新竹自千竿。」其語格淸緊則同,遣意閑雅過之,蓋有欹枕閉門之語耳。」史館嘗與李翰林〔文順公〕,宿安和寺留詩,翰林曰「廢興餘老木,今古獨寒流。」史館曰:「改獨爲尙,則草堂句也。」歸正寺壁題云:「晨鍾雲外濕,午梵日邊乾。」此奪工部晨鍾雲外濕,勝地石堂烟句也。於晨鍾言濕可警,於梵言乾疎矣。但對觸切耳。石堂烟句,是氣吞之類也。補閑只載本朝詩。然言詩不及杜,如言儒不及夫子,故編末略及之。凡詩琢鍊如工部,妙則妙矣。彼手生者,欲琢彌苦,而拙澁愈甚,虛雕肝腎而已,豈若各隨才局,吐出天然無礱錯之痕?今之事鍛鍊者,皆師貞肅公,李眉叟曰:「章句之法不外是,如使古人見之,安知不謂生拙也?」

昔も今も、人を覚らせる抜きんでた句は多くない。たとえば草堂の「江の上で」に言う、

功業(こうぎょう)は、しばしば鏡を見ること 進むか退くかは、独り楼に寄りかかること。

「悶(もだえ)」に言う、

簾(すだれ)を巻けば、ただ白い水 几(つくえ)に寄りかかれば、やはり青い山。

陳補闕が「杜子美の詩は、たとえ五字でも気が形の外を呑(の)む」と言ったのは、おそらくこういう句を指したのである。しかし「白い水」の連は「唯」と「亦」の二字を用いたのが妙なので、その妙を味わおうとするなら、悶(もだえ)の中で噛(か)みしめなければならない。

崔状元基静の「四時の詞」に言う、

雪を押して萱草(かんぞう)が戻り 霜を占めて麦の花がある。

草堂の言葉を素手(すで)で掴(つか)んだものである。

呉先生世才が自ら述べて言う、

丘と谷に孤(ひと)つの忠が赤く 才と名に両の鬢(びん)が白い。

ひそかに草堂の格を盗んだものである。

亡き祖父がはじめて金閨(きんけい)に入り、江南に使いして題し残したものに言う、

雲の空の茅(かや)の下でやっと根を連ねたのに 原と沢(さわ)の蓬(よもぎ)の間でふいに根が断たれた。

詩人たちは、杜子美の

日と月は籠(かご)の中の鳥 天と地は水の上の萍(うきくさ)

と言ったものと、その句を琢(みが)き磨(と)いだ精巧さが互いに似ていると言った。ある人は言った。「こういう句の格は五字で琢けば絶妙だが、七言にすれば巧みでない。」

眉叟の「破閑集」に「昔も今も句を琢く法は、ただ杜少陵が得た。『日と月は籠の中』のような句は、吟じ味わえば果たして甘蔗(さとうきび)を噛むようだ」とある。

陳補闕が言う、

三年の旅の枕に庭の闈(かど)の月 万里の旅の衣に草と木の風。

と言ったものは、草堂の

三年、笛の中の関山(かんざん)の月 万国、兵の前の草木の風

と言ったものが、言葉が峭(けわ)しく意が深いのには及ばない。

李史館允甫は生涯、杜甫の詩を好んで、時おり「干戈(かんか)が老いた儒者を送る」の一句を吟じ味わって言った。「この言葉は天のままに強く緊(し)まっているので、凡庸な才ではまことに引き出せない。」

宋翰林昌が問うた。「工部の『九江の春草の外、三峡の夕べの帆の前』は言葉が易しく意が滑(なめ)らかですから、もしかして及んで引き出せるでしょうか。」

史館は笑って言った。「その言葉と意が開けて遠いのだから、まことにあなたたちが分かるところではない。『古い牆(かき)はなお竹の色、空(から)の閣はおのずと松の音』のようなものは、そのまま工部のありふれた言葉の体なのに、今どれほどの人が杜甫の体を学んでも、似せることさえできない。ただ雪堂の

枕を傾ければ散る花が幾片(いくひら)残り 門を閉ざせば新しい竹がおのずと千竿(せんかん)。

が、その言葉の格が清く緊まっているのは同じで、意の運びが閑(しず)かに雅(みや)びやかで、それを越えている。おおむね『枕を傾け門を閉ざす』という言葉があるからだ。」

史館がかつて李翰林〔文順公〕とともに安和寺に宿って詩を残したが、翰林が言う、

廃(すた)れ興(おこ)るなかに老いた木が残り 昔と今に独り冷たい流れがある。

史館が言った。「『独り』を『なお』に改めれば、草堂の句だ。」

帰正寺の壁に題して言う、

暁の鐘は雲の外で湿(しめ)り 昼の梵唱(ぼんしょう)は日のそばで乾く。

これは工部の「暁の鐘は雲の外で湿り、優れた地は石の堂の煙」という句を奪ったものである。暁の鐘に湿ると言ったのは人を覚らせるが、梵唱に乾くと言ったのは粗(あら)い。ただ対(つい)の当たり方が切(せつ)なだけである。「石の堂の煙」の句は、気が呑む類である。

「補閑」はこの国の詩だけを載せる。しかし詩を語って杜甫に及ばないのは、儒を語って孔子に及ばないのと同じなので、編の終わりにおおよそ触れておく。

およそ詩を琢き鍛えることを工部のようにすれば、妙なことは妙である。しかし、あの手が生(せい)の者が琢こうとするほどいよいよ苦しくなって、拙(つた)なく渋いことがいよいよひどくなり、むなしく肝(きも)と腎(じん)を彫(きざ)むだけだ。どうして、それぞれ才の器(うつわ)に従って、天のままに磨ぎ削った跡もなく吐き出すのに及ぼうか。

いま鍛えることを事とする者たちはみな貞肅公を師とするが、李眉叟が言った。「文の句の法はこれ以外にない。もし昔の人に見せたなら、生硬で拙いと言わないとどうして分かろう。」

文以豪邁壯逸爲氣,勁崚淸駛爲骨,正直精詳爲意,富贍宏肆爲辭,簡古倔强爲體。若局生澁瑣弱蕪淺是病。若詩則新奇絶妙,逸越含蓄,險怪俊邁,豪壯富貴,雄深古雅上也。精雋遒緊,爽豁淸峭,飄逸勁直,宏贍和裕,炳煥激切,平淡高邈,優閑夷曠,淸玩巧麗次之。生拙野疎,蹇澁寒枯,淺俗蕪雜,衰弱淫靡病也。夫評詩者,先以氣骨意格,次以辭語聲律。一般意格中其韻語,或有勝劣一聯,而兼得者蓋寡。故所評之辭,亦雜而不同。詩格曰:「句老而字不俗,理深而意不雜,才縱而氣不怒,言簡而事不晦,方入於風騷。」此言可師。

文は、豪(ごう)やかで抜きんでて雄々しく秀(すぐ)れていることを気とし、強く険(けわ)しく清く速いことを骨とし、正しく直(す)ぐで精(せい)しく詳しいことを意とし、豊かで大きく思うままであることを辞とし、簡(かん)で古(いにしえ)めいて屹(そび)え強いことを体とする。閉じこもり生硬で渋く細々として弱く荒れて浅いのは病である。

詩で言えば、新しく奇(く)しく絶妙なもの、抜きんで越えて含みのあるもの、険しく怪(あや)しく抜きんでたもの、豪やかで雄々しく富貴なもの、雄々しく深く古めいて雅(みや)びやかなものが上である。

精しく秀れて強く緊まったもの、爽やかに開けて清く峭(けわ)しいもの、翻(ひるがえ)って抜きんで強く直ぐなもの、大きく豊かで和(やわ)らかでゆたかなもの、輝いて激しく切なもの、平らかで淡く高くはるかなもの、ゆたかに閑かで平らかに開けたもの、清く楽しめて巧みで美しいものが、その次である。

生硬で拙く野(や)で粗いもの、つまずき渋って冷たく枯れたもの、浅く俗(ぞく)で荒れて雑(ざつ)なもの、衰え弱く淫(いん)で萎(な)えたものは病である。

およそ詩を品評する者は、まず気と骨と意と格によって、次に言葉と声の律によってする。同じ意と格の中で、その韻の言葉に優劣のある一連があっても、あわせて得たものはおおむねまれである。だから品評する言葉もまた混じって一様でない。

「詩格」に「句が老いながら字が俗でなく、理が深いながら意が雑でなく、才が思うままでありながら気が怒らず、言葉が簡でありながら事が暗くない。そうしてこそ、はじめて風騒に入る」とあるのは、師とするに足る言葉である。

書命之作,始於畢命冏命。秦改命爲制,改令爲詔,漢因之。周官六辭三曰誥,春秋作而誥絶。元狩六年初作誥,告示大臣曰敎,秦制也。記功曰冊,凡封立用之,或有哀冊,其文辭必簡而典實。魏晉齊梁間,代王言者,其文尙浮縟。唐興元稹,芟繁辭侔古訓,齊澣以古謨誥爲準的,常袞長於除書,楊炎善於德音,皆得制誥體。本朝詞誥古有典則,及睿王代一變華靡,今又三變,皆繁辭虛美,甚者至類俳優戲讚。文懿公撰睿代內外制〔唐制內翰林外中書,本朝內省郞外誥院。〕若干章,目爲本朝制誥規式。

命を下す文は「畢命」と「冏命」に始まった。秦が命を改めて制とし、令を改めて詔としたので、漢もそれに従った。「周官」の六つの辞のうち三番目が誥(こう)だが、「春秋」が作られると誥が絶えた。元狩六年にはじめて誥を作った。大臣に告げ示すものを教(きょう)というが、秦の制度である。功を記すものを冊(さく)といって、およそ封じ立てる時に用いる。哀冊(あいさく)もあるが、その文は必ず簡で法度があって実(じつ)がある。

魏・晋・斉・梁の間、王の言葉を代わって書く者たちは、その文が浮いた飾りを尊んだ。唐が興って元稹が煩(わずら)わしい言葉を切り落として昔の訓(おしえ)と並ばせ、斉澣は昔の謨(ぼ)と誥を標準とし、常袞は除書(じょしょ)に長(た)け、楊炎は徳音(とくおん)に巧みだったので、みな制誥(せいこう)の体を得た。

この国の詞誥(しこう)は昔から法度があったが、睿王の代に至ってひとたび華やかに萎(な)えた方へ変わり、いままた三たび変わって、どれも煩わしい言葉と空しい美(ほ)めであり、ひどいものは俳(わざおぎ)の戯(たわむ)れの讃(さん)に似るところまで至った。文懿公は睿宗の代の内外の制の数章を選んで〔唐の制度では内が翰林、外が中書だが、この国では内が省郎、外が誥院である。〕「本朝制誥規式」と名づけた。

漢制帝書有四,曰冊曰制曰詔曰誡勅,唐制王言有七,冊書制書勅書〔今之批答回詔等諸詔,皆勅書。〕勅牒等是。凡拜公相命將曰制,皆用白麻,貞觀中或用黃麻。宣吿百寮,謂之宣麻〔元和初,雙日起草,隻日百寮立班於宣政殿下,舍人奉制,矩步而宣之。〕。本朝一年除拜雖多,合宣一麻。故其制書首末章,皆總論通行,末章以於戲,或以噫字標其首,唯中諸章紀諸公功德,故各異。每章簾律與首尾二章相協,分編作諸公吿身各一通,是爲大官誥。唐誥初用紙或用絹,貞觀後用綾,敎書亦通行,各附其編首。宗室雖大誥,不宣吿廷會,故不預宣麻。舊制樞密僕射八座〔魏隋唐皆以六尙書兩僕射爲八座,今以六尙書左右散騎爲八座。〕,上將竝小官誥。近樞密使始預宣麻,僧官誥視卿相,大小各有差。文懿公所撰中書門下摠省吏兵曹,及行員姓名草押規式,與令文不同,中書所藏宋及遼金三國誥式,亦各異,宜從板本令文。

漢の制度では帝の文が四つあって、冊・制・詔・誡勅(かいちょく)という。唐の制度では王の言葉が七つあって、冊書・制書・勅書〔今の批答(ひとう)や回詔(かいしょう)などの諸詔は、みな勅書である。〕・勅牒(ちょくちょう)などがこれである。

およそ公と相を拝(はい)し将を命じるものを制といい、どれも白い麻(あさ)を用いるが、貞観の間にはときに黄色い麻を用いた。百僚(ひゃくりょう)に広めて告げるのを「宣麻(せんま)」という。〔元和の初め、偶数の日に草稿を起こし、奇数の日に百僚が宣政殿の下に列を作ると、舎人が制を奉じて、きちんとした歩みで広めた。〕

この国では一年に官を授けることが多くても、合わせて一つの麻を広める。だからその制書の初めと終わりの章はすべてまとめて論じてひろく行い、終わりの章は「於戲(ああ)」で、あるいは「噫(ああ)」の字でその頭を標(しる)す。ただ中ほどの多くの章が多くの公の功徳を記すので、それぞれ異なる。章ごとに簾(れん)と律が初めと終わりの二章と互いに合い、分けて編んで多くの公の告身(こうしん)をそれぞれ一通ずつ作る。これが大官誥(だいかんこう)である。

唐の誥は、はじめ紙を用い、あるいは絹を用いたが、貞観の後は綾(りょう)を用いた。教書もまたひろく行われて、それぞれその編の頭に付けた。宗室は大きな誥であっても朝廷の集まりで広めて告げないので、宣麻に加わらない。

古い制度では枢密と僕射と八座〔魏・隋・唐はどれも六尚書と二人の僕射を八座としたが、今は六尚書と左右の散騎を八座とする。〕と上将は、あわせて小さな官誥であった。近ごろは枢密使がはじめて宣麻に加わり、僧官の誥は卿相に準(なぞら)えるが、大小にそれぞれ差がある。

文懿公が作った中書門下と摠省(そうしょう)と吏曹・兵曹、および行員の姓名を草し署名する規式は令文(れいぶん)と同じでなく、中書に収めてある宋・遼・金の三国の誥式もまたそれぞれ異なるので、当然、板本の令文に従うべきである。

元正冬至八關及聖上節日,兩界兵馬諸牧都護府上賀表,下中書,第其高下以牓之。舊時尙州牧,上八關表云:「自葉飛來於漢殿,愧乏雙鳧,聞韶率舞於舜庭,願同百獸。」當時以爲警策,或者言雙鳧,縣令事也,用之牧守頗謬。遷都後辛丑年,八關表云:「衣冠雜遝,新都猶勝於舊都,簫管鏘洋,今樂不殊於古樂。」冬至表云:「在木德盛,更延松麓之帝基,及草仁深,已暢花山之王氣。」一時牓出,二表皆居第一。又元正表云:「璣衡改度,慶凝洛水之新都,玉帛趨朝,禮盛塗山之舊會,又皇風布和,東國農桑之春早,聖日燭遠,北蒙兵革之雪消。」節日表云:「錦江繞郭,爲帝王萬世之都,繡嶺開宮,復歌吹千秋之節。」牓出二表皆居第一。

正月の元日と冬至の日、八関会、そして王の誕辰(たんしん)に、両界の兵馬使と多くの牧と都護府が祝いの表(ひょう)を奉ると、中書に下して、その高下を定めて榜(ぼう)を掲げる。

昔、尚州牧が奉った八関の表に言う、

「おのずと葉が飛んで来て漢の殿(でん)に至りましたが、二羽の鴨(かも)がないのが恥ずかしく、「韶(しょう)」を聞いて舜(しゅん)の庭で舞いに従いますので、あらゆる獣と同じでありたいと願います。」

当時の人はこれを人を覚(さと)らせ鞭(むち)打つものと見なしたが、ある人は、二羽の鴨は県令の事だから、牧使や守令に用いたのはかなり誤りだと言った。

都を移した後、辛丑(しんちゅう)の年の八関の表に言う、

「衣と冠が入り混じって集まるので、新しい都がかえって古い都より優れており、簫(しょう)と笛が鏘(そう)と鳴るので、今の楽が昔の楽と変わりません。」

冬至の表に言う、

「木の徳が盛んであるところで、さらに松の裾(すそ)の帝の基(もとい)を延ばされ、草に及ぶ仁が深いので、すでに花山の王の気を広げられました。」

同じ時に榜が出ると、二つの表がどちらも第一に置かれた。

また正月元日の表に言う、

「璣衡(きこう)が度(ど)を改めたので、慶(よろこ)びが洛水の新しい都に凝(こ)り、玉と絹が朝廷に駆けつけるので、礼が塗山(とざん)の昔の集まりより盛んです。また王の風が和(やわ)らぎを広げるので、東の国の農と蚕(かいこ)の春が早く、聖なる日が遠くまで照らすので、北の蒙古の戦(いくさ)の雪が消えます。」

誕辰の表に言う、

「錦の江が城(まち)をめぐるので、帝王万世の都となり、繡(ぬい)の嶺(みね)に宮を開くので、再び千秋の節(せつ)を歌い吹きます。」

榜が出ると、二つの表がどちらも第一に置かれた。

崔宣肅公宗峻,天性淸介。自弱冠從仕,無一犯憲,位侍中爲冢宰十五年,門庭水淨。年方乞退,上賜几杖不朝,輔政如故。尙牧賀冬至狀云:「富貴瀟洒,恬淡剛明,門庭不雜塵埃,奴隷猶爲氷玉。淸威不怒,人皆望而畏之,華態多儀,天然無所飾也。終至一節,弼諧五朝,自從從仕已來,無有有司所劾,四世平章之相繼,莫高今日之蟬冠。十年冢宰之罕聞,況賜平生之鳩杖云云。」公特命狀答云:「廉正無私,忠貞自許。紫袍繼藍袍之遺愛〔其守曾爲書記,任此州。〕,鈴閣尋黃閣之前蹤〔用貞肅公事出上。〕。所聞政理聲,竝重文章價,不遺親舊。枉示寒暄,上洛芳梅,隨使來綠野堂老,中書紅藥無主,待紫薇舍人,宜收製錦之功,直躡演綸之地。」凡宰相答賀狀,例以短簡,文不過一兩行,今此答至悉異常,他州牧莫不聳聽榮之。

崔宣肅公宗峻は生まれつきの性(さが)が清く固かった。弱冠で官に就いてから一度も法を犯したことがなく、侍中の座に上って冢宰(ちょうさい)となって十五年、門と庭が水のように清かった。年が退きを願う頃になると、王は几(つくえ)と杖を賜って朝(ちょう)に出ないようにされたが、政(まつりごと)を助けることは以前のとおりとされた。

尚州牧が冬至を祝う状(じょう)に言う、

「富貴でありながら爽(さわ)やかで、淡(あわ)やかでありながら強く明らかですから、門と庭に塵が混じらず、召使いまでがかえって氷と玉になりました。清い威(い)は怒られなくても人はみな仰ぎ見て畏(おそ)れ、華やかな態(ふ)るまいに作法が多くても、天のままに飾るところがありません。ついに一つの節(せつ)に至って五つの朝(ちょう)を助け和(あ)わせられ、官に就かれて以来、有司に弾劾されたことがありません。四代にわたる平章が続きましたが、今日の蝉(せみ)の冠より高い方はなく、十年の冢宰はまれに聞くことなのに、まして一生の鳩(はと)の杖を賜ったことなど、なおさらです。」

公は特に命じて状で答えて言う、

「清く正しく私(わたくし)がなく、忠(ちゅう)で貞(てい)であろうと自ら誓ってきた。紫の袍(ほう)が藍(あい)の袍の残した愛を継ぎ〔その守令はかつて書記となってこの郡を治めた。〕、鈴閣が黄閣の先の跡を尋ねている。〔貞肅公の事を用いたので、前に出ている。〕聞こえてくる政の声が文章の値とともに重く、親しく旧(ふる)い者を捨てない。身を屈(かが)めて挨拶を寄せてくれたので、上洛の香(かぐわ)しい梅が使いに従って緑野堂の老人のもとに来て、中書の赤い芍薬(しゃくやく)が主(あるじ)がなく紫薇の舎人を待っている。当然、錦を織る功を収めて、ただちに綸(りん)を演(の)べる地を踏まれよ。」

およそ宰相が祝いの状に答えるのは、しきたりとして短い手紙で、文が一、二行に過ぎないのに、いまこの答えが至って詳しく並はずれなので、他の郡の牧使たちは耳をそばだてて栄誉と思わない者がなかった。

金政堂敞,以金牓第三人,爲晉陽門下上客,日以薦賢助國爲務。無幾何拜相位,連年掌試。同年進士韓惟善登第於門下,是年冬至尙牧賀狀云:「白布登名於成均,牓同牓奈今門生,靑衫爲客於晉陽,公與公竝時相國。」今諸州牧賀表狀,類多模奪舊本,此尙牧表狀,無一二章畵葫蘆,皆卽事但辭不圓熟耳。

金政堂敞は金榜の第三人として晋陽公の門下の上客となり、日ごとに賢い者を推して国を助けることを事とした。間もなく宰相の座に拝(はい)され、何年も試を司った。同じ年の進士である韓惟善が、その門下で及第した。

その年の冬至の日、尚州牧の祝いの状に言う、

「白い布で成均に名を上げられたので、榜が同じ榜なのに今は門生となり、青い衫(ひとえ)で晋陽の客となられたので、公と公が同じ時に並ぶ相国です。」

近ごろ多くの州と牧の祝いの表と状は、たいてい古い本を倣(なら)って奪ったものが多いのに、この尚州牧の表と状は一、二章も瓢(ひょうたん)を倣って描いたものがなく、どれもその時の事である。ただ言葉が円(まろ)やかに熟(う)れていないだけだ。

古四六龜鑑,非韓柳則宋三賢。不及此者,以文烈公爲模範可矣。文順公以逸氣豪才,驅文辭必弘長。至於牋表,必約辭短章,不愆簾律。比者蒙古帝,詔責我國,條條意曲。公爲表,不可以一二章敍答,故間或散其辭,而簾律尙存。其後爲蒙古表者,例散其辭,以至讓謝官職者,漸效之,尤爲不法。凡牋表限四六簾對者,欲謙檢而不越也,以辭約義盡爲優。隋唐以前,肆言無簾律,自唐以降,有對儷有簾律,爲對儷荒長尙非禮,況散其辭,而無簾律!是不恭也。予少時嘗頌貞肅公場屋賦,願一效嚬,及登第後,慕林宗庇鄭知常之爲四六,竊欲畵虎焉。迺今反視從前所作,皆生澁荒虛,反類狗也。恨不當時畵鵠於三賢及文烈公,雖未得寫眞,庶可彷彿於𮬾也。

昔の四六(しろく)の鑑(かがみ)は、韓愈と柳宗元でなければ宋の三人の賢人である。ここに及ばない者は、文烈公を手本としてもよい。

文順公は抜きんでた気と豪(ごう)やかな才で、文の言葉を駆り立てれば必ず大きく長くなった。しかし牋(せん)と表に至っては、必ず言葉を縮め章を短くして、簾(れん)と律を破らなかった。

近ごろ蒙古の皇帝が詔でこの国を責めたが、条(じょう)ごとに意が細やかであった。公は表を作る時、一、二章で述べて答えることができなかったので、ところどころその言葉を散らしたが、簾と律はなお残っていた。その後、蒙古に表を作る者たちはしきたりとしてその言葉を散らし、官を辞し謝するものまで次々にそれを倣ったので、いよいよ法に外れている。

およそ牋と表に四六と簾の対(つい)を限るのは、謙(けん)って自らを検(ただ)し越えないためなので、言葉が簡(かん)で意が尽きたものを優れているとする。隋・唐より前は言葉を思うままにして簾と律がなかったが、唐から下っては対の組み合わせがあり簾と律があった。対を組みながら荒く長いものさえ礼ではないのに、まして言葉を散らして簾と律がないものなど。これは恭(うやうや)しくないことである。

私は若い時、かつて貞肅公の科挙の場の賦を唱えて、一度その顔のしかめ方でも倣いたいと願い、及第した後は林宗庇と鄭知常の四六を慕って、ひそかに虎を描こうとした。それなのにいま、かえって以前に作ったものを見ると、どれも生硬で渋く荒れて空(むな)しく、かえって犬に似ている。あの時、三人の賢人と文烈公から鵠(くぐい)を描かなかったのが悔(くや)しい。まことの姿を描けなかったとしても、おそらく家鴨(あひる)には似ていたであろう。

丁未春,國家因胡宼備禦,以三品官爲鎭撫使,分遣三方。時金壯元之岱,以刑部侍郞,爲東南路按廉使、兼副行,及正朝狀賀鎭撫使云:「鷄人報曉,爭糊楚戶之鷄,鳳詔頒春,催洛荀池之鳳。恭惟懷霸王之略,通天地曰儒。文和文憲之一門積善,必有慶,司業司成之六朔超資,曾無難。朝未收選席之權衡,暮卽授戎門之節鉞,制外威名,二年魚鳥渾相識,安邊功業,萬國笙歌醉太平。」隔兩日除書到,以鎭撫使爲右僕射。金又修狀致賀云:「新詔濕鵶之字,千里而來,前書浴鳳之言,三日乃驗。恭惟才名蓋世,德行絶倫。黃閣四朝,父宰相子宰相,紅牋七世,祖文章孫文章。早躡淸班,歷遷要地,談經璧水,諸老先生無間言。揮翰玉堂,自古詞人難到處。政聲猶在於上洛,簿判尙傳於西垣。不離兩制之榮,便陟九卿之列。提衡選士,春開桃李之門,仗鉞臨戎,夏闢芙蓉之慕。天子已忘於南顧,國人爭徯於中興。果得腥羶彌滿於邇遐,三方盡擾,談笑指揮而鎭定,一境獨完。我勞也旣獨賢,宜賞之以不次。累遷芹泮,氷銜月改而轉淸,尋入栢臺,霜憲風生而更烈〔一年中,累遷祭酒司成知臺僕射。〕。顧重位當先推德,況異人不必徇資?故除光祿大夫,仍帶翰林學士,豈唯賀聖朝之善用?抑亦欣吾道之大行。」此狀雖有推美過實處,其立語敍事精詳。唯萬國笙歌之對,浮誕可笑。

丁未の春、国が胡(えびす)の賊を防ぐために三品の官を鎮撫使(ちんぶし)として三つの方面に分けて遣わした。その時、金状元之岱が刑部侍郎として東南路按廉使兼副行となった。

正月の元日に状で鎮撫使を祝って言う、

「鶏人(けいじん)が暁を告げるので、争って楚(そ)の家の鶏(とり)を貼(は)り、鳳(ほう)の詔が春を布(し)くので、洛水の荀(じゅん)氏の池の鳳を催(もよお)します。謹んで思いますに、覇王の略を懐(いだ)かれ、天と地を通じたものを儒といいます。文和公と文憲公の一つの門が善を積まれたのですから必ず慶びがあり、司業と司成を六か月で飛び越えられたのですから、もとより難しさはありませんでした。朝にまだ人を選ぶ席の秤(はかり)を収められないうちに、夕べにはもう軍門の節鉞(せつえつ)を受けられたのですから、外を押さえる威と名によって二年のあいだ魚と鳥までがみな互いを知り、辺(へん)を安らかにされた功業によって万国の笙(しょう)と歌が太平に酔います。」

二日を隔てて除書(じょしょ)が届き、鎮撫使を右僕射とした。金はまた状を整えて祝って言う、

「新しい詔の、濡れた鴉(からす)の字が千里の道を来ましたので、前の文の、鳳を浴(ゆあ)みさせた言葉が三日で当たりました。謹んで思いますに、才と名が世を覆い、徳と行いが抜きんでて比べるものがありません。黄閣の四つの朝に、父も宰相、子も宰相であり、赤い紙の七代に、祖父も文章、孫も文章です。早く清い列を踏み、要(かなめ)の地を一通り移られたので、璧水(へきすい)で経を語られれば多くの老先生に異議がなく、玉堂で筆を振るわれたのは、昔から詩人の至りがたい所です。政の声がまだ上洛に残り、簿判(ぼはん)がまだ西垣に伝わっています。二つの制(せい)の栄えを離れずに、すぐ九卿(きゅうけい)の列に上られました。秤を提(さ)げて士を選ばれて春に桃と李(すもも)の門を開き、節鉞を執(と)って戦に臨まれて夏に蓮(はす)の慕(おも)いを開かれました。天子はもう南を顧(かえり)みることを忘れ、国の人は争って中興を待っています。果たして腥(なまぐさ)さが遠近に満ちて三つの方面がみな騒がしいのに、談笑のうちに指揮して鎮め定められたので、ひとつの境(きょう)だけが無事に残りました。わが労(ろう)はすでに独り賢(かしこ)いのですから、当然、次第を飛び越えて賞すべきです。重ねて芹泮(きんはん)に移られて氷のような職名が月ごとに改まっていよいよ清くなり、続いて柏台(はくだい)に入られて霜のような法が風を起こしてさらに厳しくなりました。〔一年のうちに祭酒・司成・知台・僕射へと何度も遷った。〕顧みれば重い座は当然、徳を先に推すべきなのに、まして並はずれた人は必ずしも資格に従う必要がありましょうか。だから光禄大夫を授けられ、続いて翰林学士を帯びさせられたのですから、どうして聖なる朝廷がよく人を用いられたことを祝うだけでしょうか。そのうえ、この道が大いに行われることを喜びます。」

この状は美しさを推し上げたのが実(じつ)を過ぎたところはあるが、その言葉の立て方と事の述べ方は精(せい)しく詳しい。ただ「万国の笙と歌」の対だけは、浮いた大言(だいげん)でおかしい。

世以四六詩文爲別,或云「某工詩,某工文,某工四六,而不可兼得」。是未入文章之室者,各從門戶窺一班之說耳。大手之下無施不可,豈別有工拙哉?況四六非別出於文,蓋魏晉間著述者,爲文上長,欲其覽之易也,章分句斷騈四儷六,以爲牋表啓狀。此亦文之爲耦對者,後因變爲簾角音律之賦行於場屋,欲試其代言奏章之才也。如代王言,雖散辭無對亦可。今人以四六別作一家,鈔摘古人語多至七八字,或十餘字,幸得其對,自以爲工。了無自綴之語,況敢有新意耶?眉叟以林宗庇崑崙岡上之對,戴於破閑,吾不取焉。及第柳和流南島,寄京洛諸友云:「風生震澤,雨入松江,帆初飽漸肥之水,雪擁藍關,雲橫秦嶺,馬不前何在之家。」秉筆小兒樂其體效之。由是辭蔓,而不精實,意迃而不眞切。以至入翰林詞疏於佛天者,例以繁言蕪辭,非特辭語繁蕪,或臆論佛神報應,國家災祥,戎狄指趣,以敍事弘長,爲己之才,是欺佛妄人也。古人詞疏,必以言約者,豈其才不足爲弘長?蓋去浮虛取悃愊,表宣事由而已,作者愼之。

世では四六と詩と文を分けて、ときに「誰かは詩に巧み、誰かは文に巧み、誰かは四六に巧みで、あわせて得ることはできない」と言う。これは文章の部屋に入れなかった者が、それぞれ戸の隙(すき)から一片(ひとかけ)を覗(のぞ)いた言葉にすぎない。大きな手の下では施(ほどこ)して成らないものがないのだから、どうして別に巧拙があろうか。

まして四六は文から別に出たものではない。おおむね魏・晋の間、著述する者が文を長くしながら見やすくしようとして、章を分け句を切り、四字と六字を並べて牋・表・啓・状としたのである。これもまた文が対を成したものであって、後に変わって簾の角(かど)と音律の賦となり科挙の場で行われた。それは、言葉を代わって書き章を奏する才を試そうとしたのである。王の言葉を代わって書くようなものであれば、言葉を散らして対がなくてもかまわない。

今の人は四六を別に一つの家として、昔の人の言葉を抜き書きし、多ければ七字八字から十余字に至り、幸いにその対を得れば自ら巧みだと思う。まるで自分で綴(つな)いだ言葉がないのだから、まして敢えて新しい意があろうか。

眉叟は林宗庇の「崑崙(こんろん)の岡(おか)の上」という対を「破閑集」に載せたが、私は取らない。

及第した柳和が南の島に流され、都の友人たちに寄せて言う、

「風は震沢(しんたく)に立ち、雨は松江に入るので、帆がはじめてだんだん肥える水に飽(あ)き足り、雪は藍関(らんかん)を抱き、雲は秦嶺(しんれい)に横たわるので、馬が進まないのに家はどこにあるのか。」

筆を執(と)る子どもたちが、その体を喜んで倣った。これによって言葉が蔓(つる)のように伸びて精しくも実もなく、意が回り道をして真(まこと)でも切(せつ)でもなくなった。

翰林に入って仏や天に詞疏(ししょ)を作る者に至っては、しきたりとして煩(わずら)わしい言葉と荒れた文を使う。言葉が煩わしく荒れているだけでなく、ときには仏や神の報(むく)いや、国の災いと瑞(しる)しや、戎狄(じゅうてき)の意向を臆測で論じて、事を述べて大きく長くすることを自分の才とするから、これは仏を欺(だま)し人を欺くことである。昔の人の詞疏が必ず言葉を簡にしたのは、どうしてその才が大きく長くするのに足りなかったからであろう。おおむね浮いた空しさを捨てて誠(まこと)を取り、事の由(よ)るところを広めて告げるだけなのだから、作る者は慎(つつ)しむべきことである。

嘗讀文烈公集,見大覺國師碑。師以王子求出家,如宋問道,得賢首達摩天台慈恩南山等五宗法門。至泗上,禮僧伽塔天竺寺,禮觀音像皆放光明。北遼天祐帝聞其名,送大藏經諸宗疏鈔六千九百餘卷。燕京法師雲諝,高昌國闍梨尸羅嚩底,亦皆以策書法服爲問。遼人來聘者皆請見。吾使入遼,則必問師安否,日本人求師碑誌,其爲異國所尊如此。師餘力外學經史百子,皆尋其根柢,率爾落筆,文辭平淡而有味。今得數詩嘗味之,文烈公平淡之言,信哉!到飛來方丈,禮普德聖師云:「涅槃方等敎,傳授自吾師,兩聖橫經日〔元曉義相,受涅槃維摩經於師。〕,高僧獨步時。隨緣任南北,在道勿迎隨。可惜飛房後,東明古國危〔師本句高麗盤龍寺沙門,飛房至百濟孤大山。後神人見於句高麗馬嶺,吿人曰:「汝國敗無日。」〕。」題錦石庵云:「老苔斑似錦,瑞石列如屛。時有高僧倚,長眠養性靈。」題龍巖院云:「踏盡殘花上翠微,徘徊瞻景欲忘歸。他年若也酬前志,高臥烟霞與世違。」

かつて文烈公の文集を読んでいて「大覚国師の碑」を見た。師は王子として出家を求め、宋に行って道を問い、賢首(けんじゅ)・達磨・天台・慈恩・南山など五つの宗派の法門を得た。泗水(しすい)のほとりに至って僧伽塔に礼拝(らいはい)し、天竺寺で観音像に礼拝すると、どちらも光を放った。

北の遼の天祐帝がその名を聞いて、大蔵経と諸宗の疏鈔(しょしょう)六千九百余巻を送った。燕京の法師雲諝(うんしょ)と高昌国の闍梨(じゃり)尸羅嚩底(しらばてい)もまた、どちらも書と法服で挨拶した。遼から使いとして来る者はみな会うことを願い、この国の使いが遼に入れば必ず師の安否を問い、日本の人が師の碑誌を求めたので、他の国に尊ばれたことがこのようであった。

師は余(あま)った力で、外に経書と史書と百家を学んで、どれもその根と幹を尋ね、ふいに筆を下せば文の言葉が平(たい)らに淡(あわ)く、しかも味があった。いま詩の数篇を手に入れて味わうと、文烈公が平らに淡いと言った言葉は、まことに信じられる。

飛来方丈に至って普徳聖師に礼拝して言う、

涅槃(ねはん)と方等(ほうどう)の教えを わが師から伝え受けた。 二人の聖(ひじり)が経を横に置いた日であり〔元暁(げんぎょう)と義相(ぎしょう)が師から「涅槃経」と「維摩経」を受けた。〕 高い僧が独り歩んだ時であった。 縁に従って南北に任せ 道にあっては迎えも従いもしない。 惜しいことだ、房(いおり)を飛ばして移した後 東明の古い国が危うくなった。〔師はもともと高句麗の盤龍寺の沙門(しゃもん)だが、房を飛ばして百済の孤大山に至った。後に神人が高句麗の馬嶺に現れ、人に「お前の国が敗(ほろ)びる日は遠くない」と言った。〕

錦石庵に題して言う、

老いた苔(こけ)は斑(ふ)が入って錦のよう 瑞(めでた)い石は並んで屏風のよう。 時おり高い僧が寄りかかって 長く眠り、性(さが)と霊(れい)を養う。

龍巌院に題して言う、

残った花を踏み尽くして青い山に登り 行きつ戻りつ景色を仰いで、帰るのを忘れようとする。 いつの年か、もし先の志を果たすなら 霞(かすみ)の中に高く臥(ふ)して世に背(そむ)こう。

無㝵智國師戒膺,講道外游刃於文章。睿王邀入大內苦請留,師作詩云:「聖勅嚴明辭未得,巖猿松鶴別江東。多年幸免魚吞餌,一旦翻爲鳥在籠。無限旅愁宮裡月,有時歸夢洞中風。不知何日君恩報,瓶錫重回對碧峯。」卽往太白山卜居將終焉。上復遣使徵之,屢詔不受。

無礙智国師戒膺(かいよう)は、道を講じるほかに文章にも刃(やいば)を使った。睿王が迎えて宮中に入れ、留まるよう切(せつ)に頼んだので、師は詩を作って言う、

聖なる勅(みことのり)が厳しく明らかで辞(ことわ)ることができず 巌(いわ)の猿と松の鶴が江東と別れる。 長い年月、幸いに魚が餌(えさ)を呑(の)むことは免れたのに ひと朝(あさ)、かえって鳥が籠(かご)に入ったことになった。 限りない旅の愁(うれ)いは宮の中の月 時おり帰る夢は谷の中の風。 分からない、いつの日に王の恩に報いて 瓶(びん)と錫杖(しゃくじょう)で再び帰り、碧(あお)い峰に向かい合えるのか。

すぐに太白山に行って住む所を定め、そこで終わろうとした。王は再び使いを遣わして召されたが、何度の詔にも応じなかった。

大鑑國師坦然,筆蹟精妙,詩格高淡,所過多題詠。三角山文殊寺詩曰:「一室何寥廓,萬緣俱寂寞。路穿石罅通,泉透雲根落。皓月掛簷楹,凉風動林壑。誰從彼上人,淸坐學眞樂。」作四威儀頌,寄宋朝介諶禪師,師見而奇之,卽以衣鉢遙傳之。安信居士住毗琴山白雲庵,師嘗訪之題詩于板。後有人竊此詩板欲去,已到山下,玄風官吏逆知之,收在官府。不知其眞蹟今在否。

大鑑国師坦然(たんぜん)は筆の跡が精しく妙で、詩の格が高く淡(あわ)く、通る所ごとに題して詠んだものが多かった。

三角山の文殊寺の詩に言う、

ひと間(ま)がどうしてこれほど空(むな)しく広いのか 万(ばん)の縁がどれも寂(しず)かだ。 路は石の隙(すき)を貫いて通り 泉は雲の根を透(とお)って落ちる。 白い月は軒(のき)の柱に掛かり 涼しい風は林と谷を動かす。 誰かあの上人(しょうにん)に従って 清らかに坐り、まことの楽しみを学ぶだろうか。

「四威儀頌」を作って宋朝の介諶(かいしん)禅師に送ると、禅師は見て奇(く)しいと思い、すぐに衣(ころも)と鉢(はち)を遠くから伝えた。

安信居士が毗琴山の白雲庵に住んでいた時、師はかつて訪ねて板に詩を題した。後にある人がこの詩の板を盗んで行こうとして、もう山の下まで来ていたのに、玄風の吏(り)が先に気づいて取り上げ、官府に置いた。そのまことの跡が今もあるのかは分からない。

龜山曇秀禪師,與郭璵處士,金洪兩學士〔富轍洪瓘。〕等,爲文會之交。時睿王幸西都,郭金洪皆扈駕,唯曇秀不得詣行在。有詩寄云:「靑雲二學士,白日一仙翁。竝筆巡遊下,連裾扈從中。大同楊柳雨,長樂牧丹風。應製多佳句,聯篇寄驛筒。

亀山の曇秀禅師は、郭輿処士と金・洪の二人の学士〔富轍と洪瓘である。〕らと文の会の交わりを結んだ。その時、睿王が西都に行幸されたので、郭と金と洪はみな車駕(しゃが)に従ったが、ただ曇秀だけが行在所に参ることができなかった。詩があって寄せて言う、

青い雲の二人の学士と 白い日の一人の仙(せん)の翁(おきな)。 筆を並べて巡行の下にあり 裾(すそ)を連ねて供奉(ぐぶ)の中にいる。 大同江の柳に雨が降り 長楽宮の牡丹に風が吹く。 応製(おうせい)に美しい句が多いだろうから 篇を連ねて駅の筒(つつ)に寄せてほしい。

僧無已,自號大昏子,隱居智異山,餘三十年,不釋一衲。每冬夏入山不出,卷肚皮在帶索中。春秋鼓肚遊山,日食三四斗,一坐必浹旬,起行則朗吟山偈。山四面七十餘庵,一庵每宿輒留一偈。無住庵詩曰:「此境本無住,何人起此堂。唯餘無已者,去住兩無妨。」語若疎易,而寄意高深,殆寒拾之流歟。

無已(むい)という僧は自ら「大昏子」と呼び、智異山に隠れ住んで三十年余り、一枚の袈裟(けさ)を脱がなかった。冬と夏にはそのたび山に入って出ず、腹の皮を巻いて帯の紐(ひも)の中に入れておいた。春と秋には腹を鼓(つづみ)のように打ちながら山に遊んだが、一日に三、四斗(と)を食べ、ひとたび坐れば必ず十日を越え、立って歩けば朗々と山の偈(げ)を吟じた。

山の四方に庵(いおり)が七十余りあったが、一つの庵に泊まるたび、すぐに偈一つを残した。

無住庵の詩に言う、

この境(きょう)はもともと住(とど)まることがないのに どんな人がこの堂を建てたのか。 ただ無已という者だけが残って 去るも留まるも、どちらも妨げがない。

言葉は粗(あら)く易(やす)いようだが、意の託(たく)し方が高く深いので、おそらく寒山(かんざん)と拾得(じっとく)の類であろうか。

國初有亡名士,隱居智異山,操行高潔,不涉人間事。上聞之請迎,謝曰:「外臣無所知,王命不可容易受。」卽閉房不出。排戶入視之,壁上唯書一句曰:「一片絲綸來入洞,始知名字落人間。」跡之,從北牖而遁,眞隱者也。

国の初めに名を失った士がいて、智異山に隠れ住んだが、志操と行いが高く清らかで、人の世の事に関わらなかった。王がそれを聞いて請(こ)うて迎えようとすると、辞って言った。「外(そと)の臣は知るところがありませんので、王命を易々(やすやす)と受けることはできません。」そのまま部屋を閉ざして出なかった。

戸を押し開けて入って見ると、壁の上にただ一句だけが書かれていた。

ひと片(きれ)の糸のような命(めい)が谷に入って来たので はじめて、名が人の世に落ちたことを知った。

跡をたどると、北の窓から逃げたのであった。まことに隠れた人であった。

鄭參政國儉知南原,日嘗行春屬邑,過原川洞,洞左石壁上有松林寺僧正思,大書一絶曰:「古佛巖前水,哀鳴復嗚咽。應恨到人間,永與雲山別。」翌日與老儒梁積中,連鑣尋訪,結爲山水友。後每論人物,必以正思爲詩僧中龍。

鄭参政国倹が南原を治めていた時、ある日、春に属邑(ぞくゆう)を巡って原川洞を通った。谷の左の石の崖(がけ)の上に、松林寺の僧正思(しょうし)が大きく書いた絶句一首があった。

古い仏の巌(いわ)の前の水よ 哀(かな)しく鳴き、また咽(むせ)び泣く。 きっと人の世に至ったことを恨んで 永く雲の山と別れるのだろう。

翌日、老いた儒者の梁積中とともに馬の轡(くつわ)を並べて訪ねて行き、山水の友を結んだ。後に人物を論ずるたび、必ず正思を詩を作る僧の中の龍だと言った。

檜巖寺有圓鏡國師手蹟,在南樓東西壁,及客室西偏小樓間。寺僧云:「大定甲午歲西都叛時,大金使至國朝。患西北路梗,從春州路導送。一行擧入寺,禮像設訖聚觀書。一人曰:「貴人筆也?」,一人曰:「此山人書,蔬笋之氣頗存。」時有僧統宗呂,在其傍以實吿,二人皆喜其言中。」乃題詩曰:「王子膏粱氣半存,山僧蔬笋尙餘痕。顚張醉素無全骨,却恨當年許作髡。」

檜巌寺に円鏡国師の手の跡があって、南の楼の東西の壁と、客室の西寄りの小さな楼の間にある。寺の僧が言った。

「大定の甲午の年に西都が背(そむ)いた時、大金の使いがこの国に来ました。西北の路が塞(ふさ)がっているのを心配して、春州の路を通して案内し送ったのですが、一行はみな寺に入って仏像に礼を終え、集まって書を見ました。一人が『貴い人の筆ですか』と言い、一人が『これは山の人の書です。菜(な)と筍(たけのこ)の気がかなり残っています』と言いました。その時、僧統の宗呂がその傍らにいて事実のとおりに告げると、二人はどちらも自分の言葉が当たったことを喜びました。」

そこで詩を題して言う、

王子の脂(あぶら)っこい気が半ば残り 山僧の菜と筍も、まだ跡が残っている。 狂(くる)おしい張旭(ちょうきょく)と酔った懐素(かいそ)にも全(まっと)うな骨はないのだから かえって恨めしい、あの年に髪を剃(そ)ることを許したのが。

毅王近聲色好遊豫。文忠肅公克謙,時爲正言,上疏切諫之,不從。及庚寅秋,武臣構亂,乘輿南遷。癸巳冬,定山縣維鳩驛,新修公館畢,請工施壁彩,工當時妙手,姓朴亡名〔今其驛,吏具言事實。〕。寢宇西壁間,畵一白衣着笠乘馬者,緣山路信轡徐驅。物色凄然,其童僕相携持轉行。人見之,皆不知是何圖。後松廣社無衣子,壬午秋,受請領道侶千餘人,將赴西原,抵宿此驛,見之咨嗟良久曰:「此是諫臣去國圖。」乃題詩曰:「壁上何人畵此圖,諫臣去國事幾乎。山僧一見尙惆悵,何況當塗士大夫。」噫!畵工之感前事寫此圖,禪師之識舊畵留此詩,與古風雅君子無異也。後有二過客,次韻書壁曰:「曲堗言前不早圖,焦頭後悔可追乎。何人畵此諫臣去,滿壁淸風激懶夫。」次曰:「白衣黃帶諫臣圖,是屈原乎微子乎。未正君非空去國,不須毫底費土夫。

毅王は声と色(いろ)を近づけ、遊びを好んだ。文忠肅公克謙がその時、正言(せいげん)であって上疏して切に諫めたが、従われなかった。庚寅(こういん)の秋に至って武臣が乱を起こし、王の車は南に移された。

癸巳(きし)の冬、定山県の維鳩駅の新しい公館をすべて修め終えて工(たくみ)を招いて壁に彩色させたが、工は当時の妙な手で、姓は朴(ぼく)、名は伝わらない。〔今、その駅の吏が事実を備えて語った。〕

寝室の西の壁の間に、白い衣(ころも)を着て笠(かさ)をかぶり馬に乗った者が、山路に沿って手綱(たづな)を放してゆっくり行くところを描いた。物の色が物寂しく、その子どもの召使いたちが互いに支え合って、振り返りながら歩いている。人が見ても、みな何の絵なのか分からなかった。

後に松広寺の無衣子が壬午(じんご)の秋、頼みを受けて道の仲間千余人を率いて、これから西原(せいげん)に行こうとしてこの駅に至って宿り、それを見て、しばらく嘆いてから言った。「これは諫める臣が国を去る絵だ。」

そこで詩を題して言う、

壁の上に、どんな人がこの絵を描いたのか 諫める臣が国を去れば、事はもう終わりに近い。 山の僧がひと目見てさえ、なお心が沈むのだから まして路に立つ士大夫であればなおさらだ。

ああ、画工が過ぎた事に感じてこの絵を描き、禅師が古い絵を見抜いてこの詩を残したのは、昔の風雅の君子と変わりがない。

後に二人の旅人があって、次韻して壁に書いて言う、

曲がった煙突(えんとつ)の言葉が出る前に早く計らなかったので 頭を焦(こ)がした後に悔いても、追いつけるだろうか。 どんな人がこの、諫める臣が去るところを描いたのか 壁に満ちる清い風が、怠(なま)けた男を揺り動かす。

次は、

白い衣に黄色い帯は、諫める臣の絵 これは屈原なのか、微子(びし)なのか。 王の誤りを正せないまま、むなしく国を去ったのだから 筆の先に士大夫を費やす必要はない。

惠文禪師天壽寺詩云:「路長門外人南北,松老巖邊月古今。」天龍寺云:「地泮花新意,氷消水舊聲。」繩鞋云:「中靑藍畝錯,邊白雪城環。」松巖月句,盜鄭舍人石頭松老一片月,此宿盜也,人莫能擒。

恵文禅師の「天寿寺」の詩に言う、

路が長くて門の外に人が南北へ行き 松が老いて巌のそばに月が昔と今にある。

「天龍寺」に言う、

地が解(と)けて花が意を新しくし 氷が消えて水が昔の音を立てる。

「草鞋(わらじ)」に言う、

中の青いところは藍(あい)の畝(うね)が入り混じったようで 縁(ふち)の白いところは雪の城がめぐったようだ。

「松と巌の月」の句は、鄭舎人の「石のほとりに松が老い、一片(ひとひら)の月」を盗んだものだから、これは年季の入った盗人(ぬすびと)であって、人が捕らえることができない。

開泰寺僧統守眞,學博識精,奉勅勘大藏經正錯,如素所親譯。河直講千旦作詩,幷以芥子一帒見寄。師卽次韻答之曰:「芥子吾宗所極論,須彌巨海摠能呑。惠來經榻知何意,卽事談玄報佛恩。」眞老宿道談,今爲五敎都僧統。

開泰寺の僧統守真は学びが広く識見が精しくて、勅(みことのり)を奉じて大蔵経の正誤を調べたが、まるでもともと自ら訳したもののようであった。

河直講千旦が詩を作り、あわせて芥子(からし)の種を一袋(ひとふくろ)送った。師はすぐに次韻して答えて言う、

芥子の種はわが宗門が極めて論ずるところ 須弥山(しゅみせん)と大きな海をすべて呑(の)むことができる。 経の机(つくえ)に恵んで送ってくださったのは、どういう意なのか そのまま事に即して玄妙(げんみょう)を語り、仏の恩に報いよう。

まことに老熟(ろうじゅく)した道の話である。今は五教の都僧統となっている。

知識沖歲,初以南省亞元,籍金閨,卽脫身往松廣社修眞。晉陽公爲知奏事,時因中使往江南者,以書遺茶香及楞嚴經。使將還,請書欲報公,師曰:「予以絶俗,何修書往復爲?」使强迫之,且以詩贈,師卽次韻云:「瘦鶴靜翹松頂月,閑雲輕逐嶺頭風。箇中面目同千里,何更新翻語一通。」卒不以書答。此眞謝世道人,雅尙不似今之以山林,爲名敎捷徑者。

知識(ちしき)沖歳は、はじめ南省の亜元(あげん)として金閨(きんけい)に名を上げたが、すぐ身を抜け出して松広寺に行き、真(しん)を修めた。

晋陽公が知奏事であった時、江南へ行く中使(ちゅうし)に託して、文とともに茶と香と「楞厳経」を送った。使いが帰ろうとして、文を請うて公に返事しようとすると、師は言った。「私は世俗を断ったのに、どうして文を書いて行き来させようか。」

使いが強いて迫り、そのうえ詩を贈ったので、師はすぐに次韻して言う、

痩(や)せた鶴は静かに松の頂の月に足を上げ 閑(のど)かな雲は軽く嶺(みね)の頭の風を追う。 その中の顔と眼(まなこ)は千里離れても同じなのだから どうしてあらためて言葉ひと通りを新しく綴(つな)ごうか。

ついに文で答えなかった。これはまことに世を辞(ことわ)った道人であって、雅(みや)びやかに尊ぶところが、近ごろ山林を名教(みょうきょう)の近道とする者たちとは同じでない。

修禪社卓然師,宰相之子,筆法絶倫。甲辰春自京師還江南,道過鷄龍山下一村,見有鵲栖于樹,體皓臆丹尾黔。居民長福云:「此鵲來巢已七年矣。其雛每歲爲土梟所食,呼訴不已。哀感所鍾,一年頭始白,二年頭盡白,三年體渾白。及今年幸免其厄,尾漸還黑。」然師異之,語同社天英師,師曰:「噫!此所謂禽頭人也。」迺作詩曰:「怨氣積頭成雪嶺,血痕沾臆化丹田。渠如不惱他家子,四海霜毛一日玄。」英師爲晉陽公所縻住,斷俗爵,禪師時年三十餘。

修禅社の卓然師は宰相の子で、筆法が抜きんでて比べるものがなかった。甲辰(こうしん)の春、都から江南に帰る途中、鶏龍山の下のある村を通ったが、鵲(かささぎ)が木に巣をかけているのを見ると、体が白く、胸が赤く、尾が黒かった。

住む民の長福が言った。「この鵲が来て巣を作ってから、もう七年になります。その雛(ひな)が毎年、土梟(みみずく)に食べられて、叫び訴えるのをやめませんでした。哀しみが凝(こ)り固まって、一年目には頭がはじめて白くなり、二年目には頭がすっかり白くなり、三年目には体がまるごと白くなりました。今年になって幸いにその災いを免れたので、尾がだんだん黒い色に戻ってきています。」

師は奇(く)しいと思って、同じ寺の天英師に話すと、師は言った。「ああ、これがいわゆる鳥の頭の人である。」

そこで詩を作って言う、

恨む気が頭に積もって雪の嶺(みね)を成し 血の跡が胸を濡らして赤い田となった。 あれがもし他人の家の子を悩ませなかったなら 四海の霜のような毛が、一日で黒くなるだろう。

英師は晋陽公に繋(つな)がれて留まり、世俗の爵(しゃく)を断った。禅師はその時、年が三十余りであった。

權學士適入中朝擢甲科。天子嘉之,直除華貫,使楊球書官誥,粧以玉軸金鈴賜之。明年表請還,帝許之。將行,相者曰:「君才高命薄,年不過四十,位不逾四品。宜頌大乘經以資算祿。」學士心然之,約三日了誦法華。帝呼前令誦,無一字錯謬。帝乃嘉嘆,賜觀音像一幀,法華書塔一幀。學士有二男一女,女卽吾祖母也。觀音像吾祖家傳之,長子權公敦禮傳官誥。次子爲浮屠,而傳法華塔,卽沒,此塔流傳方外人無知在。予守上洛時,新修米麵社,請萬德山道侶設會。一日昏時,忽有老僧持法華塔,到門通謁云:「吾是權學士內孫,與使君連戚。自吾傳此塔秘之久矣,聞君創蓮社,故來獻之。」時道侶適至鈴齋,萬德社主天因在其中,聞之驚愕,歎未曾有,乃作詩讚云:「如來昔在靈鷲山,蓮華妙法三周宣。是時寶塔從地湧,古佛讚歎何殷虔。何人幻八筆三昧,寫出塔相尤精姸。金言六萬九千字,字字蠕蠕如蟻旋。鵝溪一幅高半丈,想見高出須彌巓。問渠何處得此本,流落南州今幾年。答言學士學西宋,三日專精誦七篇。玉皇案前試聽誦,一瀉流水聲泠然。意將多寶同證聽,寵賜此塔嘉其賢。一從學士上仙去,置在僧舍無人傳。嗟哉使君偶自致,此事荒怪誰能詮。樹下探環認羊子,甕中覓畵知永禪。那知今人是昔人,宿願未滿猶在纒。故於此法彌篤信,願創蓮社功垂圓。龍天亦發歡喜心,靈貺仍將舊物還。由來外物非我有,自有眞宰專其權。得之何樂失何慼,過眼變化如風烟。君看此塔別有屬,地轉天回曾不遷。」師年十七擢進士科,旋入賢關,其年冬考藝爲第一生。卽謝世投萬德社剃髮,道行日進,爲一家之法。

権学士適が中朝に入って甲科に選ばれた。天子は嘉(よ)しとして、ただちに華やかな官を授け、楊球に官誥(かんこう)を書かせ、玉の軸と金の鈴で飾って賜った。

翌年、表を上(たてまつ)って帰ることを願うと皇帝は許された。これから出発しようとする時、人相を見る者が言った。「あなたは才が高いが命が薄く、年が四十を越えず、位が四品を越えないでしょう。当然、大乗の経を唱えて寿命と禄(ろく)を助けなさい。」

学士は心の中でそのとおりだと思い、三日を期して「法華経」をすべて暗唱した。皇帝が前に呼んで唱えさせると、一字も誤りがなかった。皇帝はそこで嘉しとして感嘆し、観音像一幅と法華書塔(ほっかしょとう)一幅を賜った。

学士には二人の男子と一人の娘があり、娘こそ私の祖母である。観音像はわが祖父の家が伝え、長男の権公敦礼が官誥を伝えた。次男は僧侶となって法華塔を伝えたが、すぐに没したので、この塔は世の外の人に流れ伝わって、どこにあるのか知る者がなかった。

私が上洛を治めていた時、米麺社を新しく修め、万徳山の道の仲間を招いて会を設けた。ある日、暗くなる頃、ふいに老いた僧が法華塔を持って門に至り、お目にかかりたいと言った。「私は権学士の内孫(ないそん)で、使君と親戚に連なります。私がこの塔を伝えて秘(ひ)めておいてから久しいのですが、あなたが蓮社(れんしゃ)を建てられると聞いたので、来て差し上げるのです。」

その時、道の仲間がちょうど鈴斎(れいさい)に至っていて、万徳社の社主である天因がその中にいた。これを聞いて驚き、かつてなかった事だと感嘆し、そこで詩を作って讃えて言う、

如来が昔、霊鷲山(りょうじゅせん)におられた時 蓮華(れんげ)の妙なる法を三たびめぐって説かれた。 この時、宝の塔が地から湧き出たので 古い仏の讃嘆(さんだん)は、どうしてあれほど篤(あつ)く敬(うやま)しかったのか。 どんな人が八つの筆の三昧(ざんまい)を幻(まど)わし出して 塔の姿を描き出したのが、これほど精(せい)しく美しいのか。 金(きん)のような言葉、六万九千字が 字ごとに蠢(うごめ)いて、蟻(あり)がめぐるようだ。 鵝渓(がけい)の一幅は高さが半丈(はんじょう) 須弥山(しゅみせん)の頂より高く聳(そび)えるのが見える気がする。 彼に問う、どこでこの本を得たのか 南の州に流れ落ちてから、今で何年になるのか。 答えて言う、学士が西の宋で学んだ時 三日ひたすら精(まこと)を尽くして七篇を唱えた。 玉皇の机(つくえ)の前で、試みに唱えるのを聞かれると 一気に注ぐ流れる水のように声が冷(りん)と澄んでいた。 意は、多宝(たほう)とともに証(あかし)して聞こうとされたもので 寵(めぐ)みでこの塔を賜って、その賢さを嘉しとされた。 ひとたび学士が仙(せん)となって上って行った後は 寺の房に置かれて伝える人がなかった。 ああ、使君のもとへ、たまたまおのずと至ったのだから この事は荒唐で怪しく、誰が解き明かせよう。 木の下で環(たまき)を探って羊子(ようし)を見分け 甕(かめ)の中で絵を見つけて永禅師を知った。 どうして知ろう、今の人がそのまま昔の人であり 久しい願いが満たされずに、なお纏(まと)われていることを。 だからこの法にいよいよ篤く信じて 蓮社を建てて、功が円(まど)かになることを願う。 龍と天もまた喜ぶ心を起こして 霊妙な賜(たまもの)として、続いて古い物を返してくれた。 もとより外の物はわがものではなく おのずとまことの主(あるじ)があって、その権(けん)を専(もっぱ)らにする。 得て何が楽しく、失って何が悲しいだろう 目を過ぎて変わるものは、風と煙のようだ。 あなたは見よ、この塔には別に属(つ)く所があって 地が転じ天がめぐっても、かつて移らなかったことを。

師は年十七で進士の科に選ばれ、すぐに賢関(けんかん)に入り、その年の冬に芸を試して第一の生となった。すぐに世を辞(ことわ)って万徳社に身を投じて髪を剃(そ)ったが、道の行いが日ごとに進んで、一家の法となった。

尹直講于一曰:「僧家詩格有三。語涉經論偈頌體,謂之豆湯痕,好作生酸語,謂之捨水滴〔僧家飯訖,洗鉢水名捨水。〕,立語寒枯,謂之蔬笋氣。」西伯寺僧統時義,李史館允甫之舍弟也,兄許其能詩。嘗住歸正寺,寺莊有陶工。安戎太守求瓦罇缸,師以詩寄之曰:「之二物身是瓦,父於土母於火。生與麴生善器使無不可,堅貞不似鴟夷滑。飽則坐飢則臥,空洞皤腹容聖賢。平生可與陶寫,宜當錦筵奉豪士。何抵死隨我。山僧一瓢計已足,用無處何汝借。況今酒禁日來急,無物充汝餓,設茶湯欲供汝兮,恐汝未慣喉吻不得過。汝於天地間唯口腹耳,珍重乎不我捨。似聞戎城太守來,萬戶流涎飮新化,果酌芳恩慰民渴,公餘樂賓傾玉斝。噫汝幸生天下無事時,往與賢太守,飮無何醉太平樂長暇。」此詩雖使尹公見之,必無三格之譏。

尹直講于一が言った。「僧家(そうけ)の詩の格に三つある。言葉が経論の偈頌(げじゅ)の体にかかるものを『豆湯(とうとう)の跡』といい、生硬で酸(す)い言葉を作ることを好むのを『捨水(しゃすい)のしずく』といい〔僧家では飯を終えて鉢を洗った水を捨水という。〕、言葉の立て方が冷たく枯れているのを『菜(な)と筍(たけのこ)の気』という。」

西伯寺の僧統時義は李史館允甫の弟で、兄が彼の詩の才を認めていた。かつて帰正寺に住んでいたが、寺の荘(しょう)に陶工がいた。安戎(あんじゅう)の太守が瓦(かわら)の酒甕(さかがめ)と壺(つぼ)を求めたので、師は詩で寄せて言う、

この二つの物は身が瓦であり 父は土、母は火である。 麴(こうじ)先生と仲よくして器として使われ、できないことがなく 固く直(す)ぐで、鴟夷子(しいし)の滑(なめ)らかさとは違う。 腹がふくれれば坐り、飢えれば臥(ふ)し 空(から)で膨(ふく)れた腹に聖賢を収める。 一生ともに心をほどくに足るのだから 当然、錦の筵(むしろ)で豪(ごう)やかな士に仕えるべきなのに どうして死ぬ気で私に付いて来ようとするのか。 山僧は瓢(ひさご)一つで勘定がもう足りているので 使う所がないのに、どうしてお前を借りようか。 まして今は酒の禁(いまし)めが日ごとに厳しくなるので お前の飢えを満たす物がない。 茶を煮た湯を供えてお前にふるまおうとしても お前が慣れなくて喉(のど)を通せないのが恐ろしい。 お前は天と地の間に、ただ口と腹だけなのだから 有(あ)り難(がた)いことだ、私を捨てないのは。 聞けば戎城(じゅうじょう)の太守が来られて 万(ばん)の家が涎(よだれ)を流して新しい教化を飲むという。 果たして香(かぐわ)しい恩を注いで民の渇きを慰め 公務の暇(ひま)に客を楽しませて玉の杯(さかずき)を傾けられよう。 ああ、お前は幸いに天下に事のない時に生まれたのだから 行って賢(かしこ)い太守とともに 飲んでどうしよう、酔って太平の楽しみに永く閑(のど)かであれ。

この詩は、たとえ尹公に見せたとしても、必ず三つの格の責(せ)めはないであろう。

陳補闕因王事,行過雉岳西。松杉蔭密,水石幽奇,心愛之入洞中,有草屋兩三隱映林間。一老僧帶兒子坐溪石,陳下馬與語,氣韻不凡。遂偶坐,見一紙扇畵蟠松,陳取扇書其背云:「老僧長伴蒼髯叟,何更移眞入扇團。」僧卽和云:「春風不到峩眉嶺,撲地蛟龍翠作團。」陳驚愕歎服。又贈十韻語意俱淸絶。不知何許人。

陳補闕が国の用で雉岳(ちがく)の西を通った。松と杉の陰が密(こ)んで、水と石が幽(かす)かに奇しく、心に愛(いと)おしくなって谷の中に入ると、草の家が二、三軒、林の間にほのかに見えた。一人の老いた僧が子どもを連れて渓(たに)のほとりの石に坐っていた。陳は馬を下りて言葉を交わしたが、気と韻が並はずれであった。ついに向かい合って坐ったが、紙の扇に蟠(わだかま)った松を描いたものを見て、陳は扇を取ってその裏に書いて言う、

老いた僧が永く青い髭(ひげ)の翁(おきな)を伴(とも)にしているのに どうしてさらにまことの姿を移して、丸い扇に入れたのか。

僧はすぐに和して言う、

春の風が峨眉(がび)の嶺(みね)に至らないので 地を打つ蛟龍(こうりゅう)が、青々と丸さを成したのだ。

陳は驚き感服した。また十韻を贈られたが、言葉と意がどちらも清く抜きんでていた。どこの人なのかは分からない。

三重空空,性不檢好詩酒,居不離京師。雖晚歲喜與少年輩遊,酩酊吟哦嘲花弄草,以自放也。常過布川,留詩讚石彌勒云:「金色巍巍丈六身,靑山獨立幾經春。我來稽首何無語,曩劫同修是故人。」後庾壯元碩,以中道按廉過,此見之,代彌勒喜書云:「腰上僧形下俗身,長安桃李眼迷春。莫言曩劫同修善,吾黨曾無破戒人。」空空聞之,作鮮嘲詩,上相國崔公云:「昔過布川院,閑留一首詩。多談彌勒在,戲答使人疑。」公絶倒〔俗以饒語者,爲多談。〕。

三重(さんじゅう)の空空(くうくう)は性(さが)が自らを検(ただ)さず、詩と酒を好んで、住むのが都を離れなかった。晩年になっても若い者たちと遊ぶのを喜んで、へべれけに酔って吟じ、花をからかい草をもてあそんで、自ら放(ほう)っておいた。

いつも布川を通るたび詩を残して石の弥勒を讃えて言う、

金色に高々とした一丈六尺の身よ 青い山に独り立って、幾(いく)たびの春を過ごしたのか。 私が来て頭を下げているのに、どうして言葉がないのか 昔の劫(こう)にともに修めた旧(ふる)い友なのだから。

後に庾状元碩が中道の按廉として通り、これを見て、弥勒に代わって喜びながら書いて言う、

腰から上は僧の形、下は俗(ぞく)の身で 長安の桃と李(すもも)に目が春に惑っている。 昔の劫にともに善を修めたと言うな わが仲間には、かつて戒(かい)を破った人などいない。

空空はこれを聞いて、冴(さ)えたからかいの詩を作って相国の崔公に差し上げて言う、

昔、布川の院を通って 閑(ひま)に一首の詩を残したところ 口の多い弥勒がいて 戯(たわむ)れに答え、使いの人に疑わせた。

公は腹を抱えて笑った。〔世間では口数の多い者を「多談」という。〕

華嚴月首座餘事,亦深於文章,有草集傳士林。嘗撰海東高僧傳。時李東觀允甫言:「有默行者,不知族氏年可五十。或爲髡或爲頭陀,不念經不禮佛,終日宴坐暝如也。有候之者,無貴賤不擧目改觀,問其名不應,問從甚處來亦不應。故以默行者名焉,居歸正寺別區。」時予適在龜城,道人存純謂予言行者:「嘗冬月敷一座具,着一衲衣,衲中無蟣蝨,坐氷堗上,寒色不形。學道後進,抱冊往從質疑者,無不委細開說。方大寒恐其凍也,候出時遣房子,急爇柴頭溫其堗而去。行者來觀之無喜慍色,徐出戶拾石礫,塡堗口泥其灰塗隙而上,宴坐如初。自是不復遣溫也。嘗齋時食菜不用醬,又不禁午後食,値幸則食之,或至七八日不食。『自言,凡名山有聖蹟,無不遊觀』,予往見不交一言。」後乙丑歲冬十月遊窟巖寺,寺僧曰:「近默行者來,陟鸇巖樂之就石窟,構一小庵,躬負石築階,新開磴道。自山下至窟,置三百餘層,無一石動搖者。時聞齋鼓下來飯食,至十餘日不下。」因往候焉,片石上有七言頌,是行者所作,其言頗涉神仙事。庚午歲,以定戎分道乘傳,復至龜城,問行者今在何所,城人云:「頃往奉州三角山門巖居焉。去歲夏月住窟巖寺時,謂寺僧曰,『有鬼自北方來,萃此城,因下山入城。』乘城上巡行而出城,人皆見之。後有鬼火晝伏昏起,其色靑小大不等。或入人家,或聚園樹,或飛空中。城人擊鳴器以噪之,守夜不眠,如是過數日方止。」時予之妻息下在是城,問之果然。後有僧益芬來吿予:「近往三角山見行者,無小恙好在。近旁村民,恐行者之去,相與修完所住草屋,日夕供護焉。」將吿別,行者謂芬曰:「大都修行者,不以寒苦易其志。今之修行,必欲高樓屹殿庇其徒,美食細服供其身。出入公卿士大夫之門,諭以造寺,息利爲得福多,屠割平民,烏在其爲修行者歟?汝勉之無忽也。芬佩服焉。」東觀言如此,因撰傳,以補僧史之闕遺。

華厳の月首座は余(あま)った仕事でまた文章に深く、草集(そうしゅう)が士林に伝わっている。かつて「海東高僧伝」を作った。

その時、李東観允甫が言った。「黙行者(もくぎょうじゃ)という者がいて、姓氏が分からず、年は五十ほどである。ある時は髪を剃り、ある時は頭陀(ずだ)となるが、経を唱えず仏に礼拝せず、一日じゅう安らかに坐って目を閉じているだけだ。挨拶に来る者があっても貴賤を分けず目を上げて見直すことがなく、その名を問うても応じず、どこから来たのかと問うても応じない。だから黙行者と名づけたが、帰正寺の別棟(べつむね)に住んでいる。」

その時、私はちょうど亀城にいたが、道人の存純が私に行者のことを語った。

「かつて冬の月に、座具を一つ敷いて袈裟(けさ)を一枚着ていたが、袈裟の中に虱(しらみ)と卵(たまご)がなく、氷の張った床(ゆか)の上に坐っていながら寒そうな色が現れませんでした。道を学ぶ後輩たちが書物を抱えて行って疑わしいことを問えば、細かく開いて説いてくれないことがありませんでした。

ひどい寒さの折、彼が凍えるのを恐れて、出かける時を見計らって房(へや)の番を遣わし、急いで薪(たきぎ)に火を点(つ)けてその床を暖めさせて来させました。行者は来てそれを見ても喜ぶ色も怒る色もなく、ゆっくり戸を出て小石を拾って焚(た)き口を塞(ふさ)ぎ、その灰を泥に練って隙(すき)を塗って上がり、はじめのように安らかに坐りました。これより後は、二度と暖めに遣わしませんでした。

かつて斎(さい)の時に菜(な)を食べても醤(ひしお)を使わず、また午(ひる)を過ぎて食べることを禁じないで、たまたまあれば食べ、あるいは七日八日に至るまで食べないこともありました。自ら『およそ名高い山に聖(せい)なる跡があれば、遊んで見ていない所はない』と言っていました。私は行って会いましたが、ひと言も交わせませんでした。」

後に乙丑(いっちゅう)の年の冬十月に窟巌寺に遊んだが、寺の僧が言った。「近ごろ黙行者が来て、鸇巌(せんがん)に登ってそこを喜んで石の窟(いわや)に向かい、小さな庵(いおり)を一つ結びました。自ら石を背負って階(きざはし)を築き、石の路を新しく開いて、山の下から窟まで三百層余りを置いたのに、一つの石も揺らぐものがありません。時おり斎を告げる太鼓の音を聞くと下りて来て飯を食べますが、十日余り下りて来ないこともあります。」

そこで行って挨拶すると、欠(か)けた石の上に七言の頌(しょう)があって、行者が作ったものであり、その言葉はかなり仙人の事にかかっていた。

庚午(こうご)の年、定戎(ていじゅう)へ分かれて行くために駅馬に乗って再び亀城に至り、行者が今どこにいるのかと問うと、城の人が言った。

「少し前に鳳州の三角山の門巌へ行って住んでおられます。昨年の夏の月に窟巌寺に留まっていた時、寺の僧に『鬼(おに)が北の方から来てこの城に集まる』と言って、続いて山を下りて城に入り、城の上をめぐり歩いて城を出られましたが、人はみなそれを見ました。後に鬼火が昼は伏せて暗くなると立ち上がり、その色が青く、大小が揃(そろ)っていませんでした。あるものは人の家に入り、あるものは園の木に集まり、あるものは空を飛びました。城の人は音の出る器を打ち鳴らして騒がせ、夜を守って眠らないこと、こうして何日か過ぎてはじめて止まりました。」

その時、私の妻と子がこの城に下りて来ていたので問うと、果たしてそのとおりであった。

後に益芬という僧が来て私に告げた。「近ごろ三角山に行って行者にお目にかかりましたが、小さな病もなくお元気でした。近くの村の民が、行者が去るのを恐れて、互いに住んでいる草の家を修め整え、朝夕に供えて守っていました。これから別れを告げようとした時、行者は私に言いました。

『およそ修行する者は、寒さと苦しみでその志を変えない。それなのに近ごろの修行は、必ず高い楼と屹(そび)える殿(でん)でその仲間を覆(おお)おうとし、良い食べ物と細(こま)やかな衣でその身を養おうとする。公卿や士大夫の門に出入りして寺を建てることを説き、利(り)を増やすことを福を得ることが多いとして民を屠(ほう)るのだから、その修行する者であることが、どこにあるのか。お前は努(つと)めて怠(おこた)るな。』

私は心に刻みました。」

東観の言葉がこのようであったので、続いて伝(でん)を作って「僧史」の欠け落ちたところを補う。

漆陽寺僧子林,愚騃不可言。來遊京都還渡臨津,中流見一白面沙彌,寄他船而先渡者,心竊喜之。比下,度其不及,不覺前之遠也,騰身超之投江而沒。偕去人歸以死報,門人設齋追薦。過三七日,忽一夕子林來至。門人怪而問之,子林云:「溺至底浮出,適有船過,船上人拯而活之。出訖,問沙彌所之,追至三角山啓聖寺,入見喜甚不忍捨去,留二十日而來。」人聞之絶倒。又月夜蟾出於庭,僧徒聚觀之,子林後至曰:「是何蟲也?」紿曰:「此土無此蟲。近有人從宋商家就買,欲畜之來放耳。雖類蟾非是,師可買畜而翫?」子林以銀盂易之。從者曰:「此蟾也。何以買爲?」子林曰:「毌妄言沮我。」卽以蒿裹之去。鄭侍郞子直聞之作詩曰:「俗習年來尙巧姦,天敎癡絶示人間。買蟾投水雖堪笑,愛友輕財意可觀。」

漆陽寺の僧子林は、愚かさが言いようもなかった。都に遊びに来て帰る途中、臨津江(りんしんこう)を渡るのだが、江の中ほどで白い顔の沙弥(しゃみ)が一人、別の舟に乗って先に渡るのを見て、心の中でひそかに喜んだ。舟が着く頃になって、追いつけないと見積もり、前が遠いことに気づかないまま身を躍(おど)らせて飛び越えようとして、江に落ちて沈んだ。

ともに行った人が帰って死んだと告げたので、門人たちは斎を設けて追善した。三七日(みなぬか)が過ぎて、ふいにある夕べ、子林が来た。門人たちが怪しんで問うと、子林は言った。「沈んで底まで至ってから浮き上がったが、ちょうど通る舟があって、舟の上の人が引き上げて助けてくれた。出てから沙弥の行った所を尋ねて、三角山の啓聖寺まで追って行き、入って会うと嬉しさがひどくて、捨てて来るのに忍びず、二十日留まってから来たのだ。」人々は聞いて腹を抱えて笑った。

また月の夜、蟾(ひきがえる)が庭に出て来たので僧たちが集まって見ていると、子林が後から来て言った。「これは何の虫か。」人は偽(いつわ)って言った。「この土地にはこんな虫がいない。近ごろある人が宋の商人の家から買って来て、飼おうとして放しておいたものだ。蟾に似ているが、それではないので、師が買って飼って楽しまれるか。」子林は銀の鉢(はち)でそれと取り替えた。

従う者が言った。「これは蟾です。何のために買われるのですか。」子林は言った。「みだりな言葉で私を遮(さえぎ)るな。」そのまま蓬(よもぎ)で包んで行った。

鄭侍郎子直がこれを聞いて詩を作って言う、

世の習いが近ごろ巧みさと姦(かん)しさを尊ぶので 天が愚かさの極みを教えて人の世に示された。 蟾を買い、水に身を投げたのは笑うに足るとしても 友を愛し財を軽んじた意は、見るに足る。

麟州有妓名白蓮者,貞肅公常奉使過此州睠之。別後寄詩云:「寄語北飛雲一片,汝應行過大華峯。峰頭若見玉井蓮,說我相思憔悴容。」後爲兵馬使,妓以其詩進呈,公復贈一絶云:「城南城北碧重重,疑是巫山十二峯。白髮未成雲雨夢,玉顔都不損春容。」李眉叟戲龍灣使君慕妓白蓮云:「風暖鶯嬌客路邊,千紅百紫競爭姸。使君却厭春光鬧,獨向秋塘賞白蓮。」李詩華艶,未若金詩淸婉。

麟州に白蓮という妓(ぎ)がいて、貞肅公はいつも使いとしてこの郡を通るたび、彼女を顧(かえり)みた。別れた後に詩を寄せて言う、

北へ飛ぶひと片(きれ)の雲に言葉を託(たく)す お前はきっと大華峰を過ぎて行くだろう。 峰の頭でもし玉井(ぎょくせい)の蓮(はす)を見たなら 私が恋しさに憔(やせ)れていく顔を話してくれ。

後に兵馬使となると、妓はその詩を差し出した。公はまた絶句一首を贈って言う、

城の南、城の北に碧(あお)さが重なり重なり 巫山の十二峰かと疑うほどだ。 白髪では雲と雨の夢を結べないのに 玉のような顔は、まるで春の姿を損(そこ)なっていない。

李眉叟が、龍湾の使君が妓の白蓮を慕っているのをからかって言う、

風が暖かく鶯(うぐいす)が艶(あで)やかな旅の路のほとりで 千の赤と百の紫が争って美しさを競う。 使君はかえって春の光の騒がしさを厭(いと)うて 独り秋の池に向かって白い蓮を賞(め)でている。

李の詩は華やかで美しいが、金の詩が清く美しいのには及ばない。

承安三年戊午,司天監李寅甫,以慶州道祭吿使,歷祀山川旣畢將還,暮抵浮石寺,有僧迎入客宇。蕭然無左右,忽有女乍見廊廡間。監謂爲近方州牧送妓,未之訝也。少選蹁躚來庭下拜之,屈伸頗不類倡。拜訖,升自階徑就室入焉,細視之非烟火食者。監雖怪之,以其姿色絶代,不忍拒也。乃攝衣出戶周覽,獨有一古井可怪,復坐愕然。久之有一沙彌,將主公命來報曰:「大監甚勞苦,幸今戾止,請臨丈室,敢以茶湯奉之。」監不得已往,强以女侍從,牢讓再三,躡出於戶。監與主公接殷勤之歡。至昏夜乃罷歸。俄而向女復來,監稍近狎焉,女曰:「大官旣悉我無疑也。妾所居去此不遠,竊慕高義以是來爾。」其應對慧利甚閑。遂同衾曲盡綢繆之意,爲留三日而出。止郵亭宿焉,向之女苒苒來至。監曰:「已去矣,何復來爲?」女曰:「腹有君之息一矣,乞復添一,所以至耳。」仍薦枕如故,比曉吿別,雲情雨意甚繾綣然。行入興州將宿,女復來入。監自念若以舊好接之,恐爲後患,遂面之而不省。女瞪目良久,怫然作色曰:「甚善。後當不復見也。」卽出戶,回風卷地,擊毀廳事間一扉,截樹杪而去,如以斤斧斫之。略論曰李監旣知其非人,何便與合歡,曲盡綢繆,人與神物交,至有腹息,胡怪誕之甚?韓子曰:「無形與聲者鬼也。人有忤於天,有違於民,有爽於物,逆於倫,而感於物。於是鬼有托於形憑於聲以應之,皆民之爲也。然則惑鬼者自欺也」。

承安三年、戊午(ぼご)の年に、司天監の李寅甫が慶州道の祭告使(さいこくし)として山川にひろく祭りを終え、これから帰ろうとする時、日が暮れて浮石寺に至ると、僧が迎えて客室に入れた。寂しく傍らに誰もいないのに、ふいに女が一人、廊(ろう)の間にちらりと見えた。監は近くの郡の牧使が送った妓だろうと思って、怪しまなかった。

しばらくすると、しとやかに庭の下に来て拝(はい)したが、身を屈(かが)め伸ばすさまが、まるで娼妓(しょうぎ)らしくなかった。拝を終えて階(きざはし)を上がり、まっすぐ部屋に入って来たが、詳しく見ると火で煮たものを食べる者ではなかった。監は怪しみながらも、その姿と色が世に抜きんでていたので、退けるに忍びなかった。

そこで衣を整えて戸を出てひろく見回すと、ただ古い井戸が一つあって怪しかった。また坐って驚いた。

しばらくすると沙弥が一人、住持の命を奉じて来て告げた。「大監はひどくお疲れでしたのに、幸いに今お着きになりましたので、どうか丈室(じょうしつ)にお越しくだされば、敢えて茶を差し上げます。」監はやむなく行きながら、強(し)いて女に従わせようとしたが、二度三度固く辞(ことわ)って、戸からそっと出て行った。

監は住持と心のこもった楽しみを分かち合い、暗い夜になって終えて帰った。間もなく、さきの女がまた来た。監が少し近づくと、女は言った。「大官はもう私が人でないことをすべてご存じですから、お疑いにならないでください。私の住む所はここから遠くないのですが、ひそかに高い志を慕って、こうして来ただけです。」応対するさまが賢(さか)しく鋭(と)いのに、たいへん落ち着いていた。

ついに同じ衾(ふすま)に寝て、絡(から)み合う思いを余すところなく尽くし、三日留まってから出た。

駅亭に留まって宿っていると、さきの女がしとやかに至った。監は言った。「もう去ったのに、どうしてまた来たのか。」女は言った。「腹にあなたの子が一人いるのですが、さらに一人を加えたいと願いますので、来たのです。」そして以前のように枕を共にし、暁に別れを告げたが、雲のような情と雨のような思いがたいへん絡み合っていた。

行って興州に入って宿ろうとすると、女がまた来て入った。監は心の中で、もし昔の情で迎えれば後の災いになるのを恐れて、ついに向かい合っても知らぬふりをした。女は目を見開いてしばらくいてから、むっとして顔色を変えて言った。「たいへん結構です。これからは二度とお会いしないでしょう。」

そのまま戸を出ると、つむじ風が地を巻き、庁(ちょう)の間の扉(とびら)一枚を打ち壊し、木の先を切って去ったが、まるで斧(おの)で切ったようであった。

おおよそ論ずるに、李監はすでに彼が人でないことを知っていたのに、どうしてすぐにともに楽しみを分かち、絡み合うことを余すところなく尽くしたのか。人が神物(しんぶつ)と交わって、腹に子ができるまでに至ったのだから、どうして怪しく荒唐なことがこれほどひどいのか。

韓子が言った。「形も声もないものが鬼(き)である。人が天に逆らうことがあり、民に背(そむ)くことがあり、物に外れることがあり、倫(りん)に逆らうことがあって、物に感じれば、そこで鬼が形に託し声に寄りかかって応じる。みな民がすることである。であれば、鬼に惑わされる者は自らを欺(だま)しているのである。」

邊山有一老宿,自言,往時聞高敞縣人設燃燈會,往觀焉。有一少年異於尋常者,問諸左右,皆曰不知誰之子。及罷去,踵其後追至于山麓,少年吿曰:「莫我追。我居陋不堪寄宿。」師曰:「日暮矣,將安適歸。」曰:「業已俱來,不可辭以僻陋。」行有老嫗出迎曰:「咄爾兒子!若汝兩兄見之,此師其爲食乎?」師至是,知其爲虎窟,欲出去,嫗曰:「二子已回來,若强去必殆矣。」因携持而入。少年曰:「吾恐甚,請以師置母之後。」須臾二虎將一兎入來,嫗欲其不久滯也,曰:「我與汝等共一兎,其何以療飢?速遠出更求食來。」虎作人語而對曰:「母有食,何更求爲?」卽出去。良久復來曰:「我從山主所乞禱,各得食,小妹可從來。何能忍飢自苦?」復出去。俄有來呼者曰:「以若之子女,婆娑於州里間,主命罰之。詰朝當往入高敞縣檻穽中就死。」少年曰:「主命也,不可逃。今幸逢師亦命也。方我入檻中,衆來制我,恐不忍生嗔。師宜來吿衆寧却,曰我能獨斃之,持短槍而前。吾出一言而死,師之惠也。」明旦至縣,聞檻中有虎。師往如其言却衆,持短槍以直前,虎曰:「我向某村某家,受生爲男子。至年十二三時往謁師,剃髮以度我。」卽接刃自穴其胸而斃。後十五年師偶出洞門,見一童子,拜於道左。問之,曰:「我乃某村男子也。」師憶向檻虎之言,而髡爲沙彌。頗穎悟可愛。忽遁去不知所之,後聞日嚴寺師修秘呪,以加持力日服人,承命赴畿內蘭若。師往省之乃向沙彌也。此說甚怪誕,世謂讖有虎僧之說,惟日嚴師當之,此亦難憑。

辺山に一人の老宿(ろうしゅく)がいて、自ら語った。

先の日、高敞県の人が燃灯会を設けると聞いて、行って見物した。一人の少年がいて並はずれていたので、傍らの人々に問うと、みな誰の子なのか分からないと言った。

終わって帰る時、その後を付けて山の裾(すそ)に至ると、少年が告げた。「私を追わないでください。私の住む所は粗(そ)末で、お泊まりになるようなところではありません。」僧は言った。「日が暮れたのに、これからどこへ行こう。」少年は「もうご一緒に来てしまいましたから、辺(へん)で粗末だと辞(ことわ)るわけにもいきません」と言った。

行くと老いた婆(ばば)が出て迎えて言った。「ちっ、この子は。もしお前の二人の兄がこれを見たら、この師がその飯にならないだろうか。」僧はここに至ってその所が虎の窟(いわや)だと分かって出ようとしたが、婆は言った。「二人の子がもう帰って来ますから、もし無理に行けば必ず危ういですよ。」そこで引き留めて入れた。

少年は言った。「私はひどく恐ろしいので、どうか師を母の後ろに置いてください。」

しばらくすると虎が二頭、兎(うさぎ)一匹を持って入って来た。婆は彼らが長く留まらないことを願って言った。「私とお前たちが兎一匹を分けて、それでどうして飢えが治(なお)ろう。早く遠くへ出て、また食べ物を求めて来なさい。」

虎は人の言葉で答えた。「お母さんに食べ物があるのに、どうしてまた求めるのですか。」そのまま出て行った。しばらくしてまた来て言った。「われらが山の主(あるじ)に祈り願って、それぞれ食べ物を得ましたので、小さい妹も付いて来られます。どうして飢えを我慢して自ら苦しみますか。」また出て行った。

間もなく来て呼ぶ者があって言った。「お前の息子と娘が郡の村の間でうろついたので、主の命によって罰する。明日の朝、必ず高敞県の檻(おり)の穽(あな)に入って死ね。」

少年は言った。「主の命ですから逃げられません。いま幸いに師にお会いしたのも、また命です。私が檻の中に入れば多くの人が来て私を押さえつけるでしょうが、怒りを起こすのを我慢できないのが恐ろしいのです。師はぜひ来られて、多くの人に告げて退けさせ、『私が独りで殺せる』と言われて、短い槍(やり)を持って前にお出ましください。私がひと言を言って死ぬのが、師の恵みです。」

翌日の朝、県に至ると檻の中に虎がいると聞こえた。僧は行ってその言葉のとおり多くの人を退け、短い槍を持ってまっすぐ前に進むと、虎は言った。「私はどこの村のどこの家へ行って男として生まれます。年が十二、三になって師にお目にかかりに行ったら、髪を剃(そ)って私を渡してください。」そのまま刃(やいば)を受けて、自ら己の胸を貫いて死んだ。

その後十五年、僧がたまたま谷の門を出ると、一人の童子(どうじ)が路の左で拝(はい)するのを見た。問うと「私はあの村の男です」と言った。僧は先の日の檻の虎が言った言葉を思い出して、髪を剃って沙弥(しゃみ)とした。かなり聡(さと)くて愛(いと)おしかったのに、ふいに逃げて行った先が分からなくなった。

後に聞いたところでは、日厳寺の僧が秘(ひ)めた呪(じゅ)を修めて加持(かじ)の力で日ごとに人を屈服させるので、命を受けて畿内(きない)の蘭若(らんにゃ)に行ったという。僧は行って見ると、それが先の日の沙弥であった。

この話はきわめて怪しく荒唐である。世では讖(しん)に「虎の僧」の言葉があるといい、ただ日厳寺の僧がそれに当たるとされるが、これもまた頼りがたい。

光化縣北有蓴池,採蓴者往往見害。有一民名今同,操鎌躍入,至底探焉,入一室津然無水,槪如棟宇明,可數沙石。見一堆穹豐然,撥之有蛤大如拳。掇之而出,棄於池之濱田,復入掇,忽聞岸上錚錚聲。跳身而出,雷雨暴作。遂怖懼揮鎌而去。進士梁國元,親見其人,聞其言傳說,衆皆異之。有一措大在座末笑之,作絶句贈梁進士云:「蛟龍窟穴在蒼海,不知亦在蓴池非。旣能探底欲除害,何事平地怖畏歸。」此措大有志節,不爲浮怪所,後不知至何官。

光化県の北に蓴菜(じゅんさい)の池があって、蓴菜を採る者がときおり害を受けた。今同(こんどう)という民が一人、鎌(かま)を持って飛び込み、底に至って探ると、ひと間(ま)に入ったが、乾いて水がなく、おおむね棟(むね)のある家のように明るくて、砂と石を数えられるほどであった。

ひと盛りが膨(ふく)れて盛り上がっているのを見て掻(か)き分けると、拳(こぶし)ほどの蛤(はまぐり)があった。拾って出て池のほとりの田に捨て、また入って拾おうとすると、ふいに岸の上から錚々(しょうしょう)と音が聞こえた。身を躍(おど)らせて出ると、雷と雨が激しく起こった。ついに恐れて鎌を振り回しながら去った。

進士の梁国元がその人を自ら見て、その話を聞いて伝えると、多くの人がみな奇(く)しいと思った。一人の措大(そだい)が席の端(はし)にいてこれを嘲(あざけ)り、絶句を作って梁進士に贈って言う、

蛟龍(こうりゅう)の窟(いわや)は青い海にあるのに 蓴菜の池にもあるのかどうか、分からない。 すでに底を探って害を除こうとしたのに どうした事で、平らな地で怖(お)じ恐れて帰ったのか。

この措大は志と節(せつ)があって、浮いた怪しさに揺るがされなかった。後にどの官に至ったのかは分からない。

西伯寺僧統時義,爲學者時,與進士朴仁厚及二三子,寓奉靈寺。夜飮聯句,忽窓外唱曰:「更深將罷壺中客。」其聲厲,一座皆若以手撮毛髮而上也。又有一士人名李植,詣佛岬寺,道逢一叟狀貌魁梧。伴行數里嘯咏相得懽甚。比至寺側,將捨去入山,吟曰:「松風吹永日,蕭蕭無盡時,其下茯苓千古在,往來樵子未曾知。」嘗味其詩,意雖淸婉,不及幽獨,君亦出塵語也。又法泉寺僧失其名,夜於樓上,讀東坡詩,忽有人叩門,開視之,冠者一人被髮者一人,如舊相知握手登樓。冠者曰:「新月一眉高可見。」僧沈吟良久,被髮者曰:「胡不道。」「故人千里遠難期。」酬唱良久忽不見。西伯華嚴宗匠也,語此事甚悉,然師本是不迃不神者也。

西伯寺の僧統時義が学ぶ者であった時、進士の朴仁厚と二、三人とともに奉霊寺に寄り住んでいた。夜に酒を飲みながら句を連ねて作っていると、ふいに窓の外から吟ずる声がした。「夜が更けて、これから壺(つぼ)の中の客を終わらせよう。」その声が厳(きび)しくて、座にいた者はみな手で髪の毛を掴(つか)み上げられたようだった。

また李植という士が一人、仏岬寺に向かう路で一人の老人に出会ったが、姿かたちが大きく逞(たくま)しかった。連れ立って数里を行き、嘯(うそぶ)き詠んで互いに意が合って、楽しみがひどかった。寺のそばに至って、これから別れて山に入ろうとして吟じた。

松風が長い日を吹き 蕭々(しょうしょう)として尽きる時がない。 その下に茯苓(ぶくりょう)が千古のあいだあるのに 行き来する樵(きこり)は、かつて知ったことがない。

かつてその詩を味わうと、意は清く美しいとはいえ、幽独君(ゆうどくくん)には及ばない。それでもやはり塵(ちり)を離れた言葉である。

また法泉寺の僧が、その名は失われているが、夜に楼の上で「東坡集」を読んでいた。ふいにある人が門を叩(たた)いたので開けて見ると、冠(かんむり)をかぶった者が一人と髪を解(と)いた者が一人であった。昔から互いに知っているかのように手を取って楼に上った。

冠をかぶった者が言った。「新しい月がひと眉(まゆ)となって高く見えるほどだ。」僧がしばらく吟じかねていると、髪を解いた者が言った。「どうして言わないのか。」「旧(ふる)い友は千里の彼方(かなた)で遠く、約(やく)しがたい。」酬(むく)い唱えることをしばらく続けてから、ふいに見えなくなった。

西伯は華厳の宗匠(そうしょう)なのに、この事を語ったのがたいへん詳しい。しかし師はもともと回り道をせず、神(くす)しいことを言わない人である。

及第柳公器子源,五歲解聯句。晉陽公召見占爐字,卽應命曰:「爐堆鳳炭侯家暖。」公嘉之賜繒帛,問所欲,曰「願除父官。」卽署爲甫州倅。後投禪源剃髮,法名汝髓,殤。

及第した柳公器の子の自源は、五歳で句を連ねることを解した。晋陽公が呼んで会い、「炉」の字を引くと、すぐに命に応じて言った。「炉に鳳炭(ほうたん)を積めば、侯(こう)の家が暖かい。」公は嘉(よ)しとして絹を賜り、望むところを問うと、「父の官を授けていただきたいと願います」と言った。そこで甫州の守(かみ)とした。後に禅源寺に身を投じて髪を剃(そ)り、法名は汝髓(じょずい)であったが、早く死んだ。

動人紅彭原倡妓也,頗知文句。有一兵馬分道,與太守圍棋,因宿酲未解曰:「都護博州千杯酒,醉未分東西。」動人紅在傍曰:「太守分營一局棋,蒙不知生死。」嘗從一書生欲學韓文,書生曰:「不作詩不敎授。」遂作八韻曰:「買酒羅裳解,招君玉手搖。」又贈趙擧子曰:「幸逢溱洧會,芍藥贈如何?」自敍云:「倡女與良家,其心間幾何。可憐栢舟節,自誓死靡他。」自敍之意似乎貞烈。

動人紅(どうじんこう)は彭原の娼妓(しょうぎ)だが、かなり文の句を知っていた。ある兵馬の分道が太守と碁(ご)を打っていたが、前日の酒がまだ覚めていなくて言った。「都護は博州の千杯の酒に酔って東西を分けられない。」動人紅が傍らにいて言った。「太守は陣を分けたひと局の碁に暗くて、生と死が分からない。」

かつてある書生に従って韓愈の文を学ぼうとすると、書生は言った。「詩を作れなければ教えない。」そこで八韻を作って言う、

酒を買えば薄絹(うすぎぬ)の裳(もすそ)が解け あなたを招けば玉のような手が揺れる。

また趙挙子に贈って言う、

幸いに溱(しん)と洧(い)の集まりに出会ったのだから 芍薬(しゃくやく)を差し上げるのはどうでしょう。

自ら述べて言う、

娼(しょう)の女と良家の女と その心に、どれほどの隔(へだ)たりがあろう。 哀(あわ)れなことだ、「柏舟(はくしゅう)」の節(せつ)よ 自ら、死んでも他(ほか)はないと誓う。

自ら述べた意が、貞(てい)しく烈(はげ)しいようである。

宋學士國瞻爲察院時,出佐西北戎幕。龍城官妓家名于咄,每爲使客所寵。燕飮中善唱和共歡樂,宋獨不與遊狎。妓乃作詩呈云:「廣平腸鐡早知堅,兒本無心共枕眠。但願一宵詩酒席,助吟風月結芳緣。」

宋学士国瞻が察院であった時、出て西北の戎幕(じゅうばく)を助けた。龍城の官妓の家に于咄(うとつ)という者がいて、いつも使いの客の寵(ちょう)を受けていた。宴で歌をよく唱(とな)え和(こた)えてともに楽しんだが、宋だけは独り交わって戯(たわむ)れなかった。妓はそこで詩を作って差し出して言う、

広平の腸(はらわた)が鉄のように固いことは、早くから知っておりました 私にはもとより枕を共にして眠る心はありません。 ただ願うのは、ひと夜の詩と酒の席で 風と月を詠むお手伝いをして、香(かぐわ)しい縁を結ぶことです。

唐李肇國史補序云:「敍鬼神近帷箔悉去之。」歐陽公作歸田錄,以肇言爲法。此古今儒者撰述之常也。今此書,非敢以文章增廣國華,又非撰錄盛朝遺事,姑集雕篆之餘,以資笑語。故於末篇,紀數段淫怪事,欲使新進苦學者,游焉息焉。有所縱也,且有鑑戒存乎數字中,覽者詳之。

唐の李肇の「国史補」の序に「鬼神を述べることと、帷帳(いちょう)の内に近いことは、すべて捨てた」とあり、欧陽公が「帰田録」を作る時に李肇の言葉を法とした。これが昔も今も儒者が著(あらわ)し記す上での常(つね)である。

いまこの書は、敢えて文章で国の輝きを増し広げようとするものではなく、また盛(さか)りの朝廷の遺(のこ)った事を著し記そうとするものでもない。ひとまず彫(ほ)り刻んだ余(あま)りを集めて、笑いと話の助けになるようにしたものである。だから終わりの篇に、淫(いん)で怪しい事を数段(すうだん)記して、新しく進んで苦しんで学ぶ者に、遊び、休ませようとした。放(ほう)っておいたところはあるが、それでも数字(すうじ)の中に鑑(かがみ)と戒(いまし)めがあるので、見る人は詳しく察してほしい。