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勿吉

北史 四夷伝(北史に記された四方の異民族の記録) 北史 四夷傳 · 李延寿 · 659年(唐・顕慶4年) · 段落 4 · 漢字 1,167字 · 朗読 4.7分

北史 四夷伝(北史に記された四方の異民族の記録) 全一巻 北朝の四王朝が見た東方。卵から生まれた朱蒙神話の完全な姿、長寿王百年の外交(婚姻の話と娘の死)、蓋鹵王の表文、そして勿吉・契丹・室韋・流求・倭まで十四の枝 — 隋の煬帝の滅亡を「徳を広げる者は栄え、土地を広げる者は滅びる」と結んでいる。

1七つの部に分かれた勿吉

勿吉國在高句麗北,一曰靺鞨。邑落各自有長,不相總一。其人勁悍,於東夷最強,言語獨異。常輕豆莫婁等國,諸國亦患之。去洛陽五千里。自和龍北二百餘里有善玉山,山北行十三日至祁黎山,又北行七日至洛環水,水廣里餘,又北行十五日至太岳魯水,又東北行十八日到其國。國有大水,闊三里餘,名速末水。其部類凡有七種:其一號粟末部,與高麗接,勝兵數千,多驍武,每寇高麗;其二伯咄部,在粟末北,勝兵七千;其三安車骨部,在伯咄東北;其四拂涅部,在伯咄東;其五號室部,在拂涅東;其六黑水部,在安車骨西北,其七白山部,在粟末東南。勝兵並不過三千,而黑水部尤爲勁健。自拂涅以東,矢皆石鏃,即古肅慎氏也。東夷中爲強國。所居多依山水。渠帥曰大莫弗瞞咄。國南有從太山者,華言太皇,俗甚敬畏之,人不得山上溲汙,行經山者,以物盛去。上有熊羆豹狼,皆不害人,人亦不敢殺。

勿吉国は高句麗の北にあり、靺鞨ともいう。邑落ごとにそれぞれ長があって、一つに統べられていない。その人々は強く荒く、東夷の中で最も強く、言葉がとりわけ異なる。つねに豆莫婁などの国を軽んじるので、諸国もこれを患いとする。洛陽から五千里である。和龍から北へ二百余里に善玉山があり、山から北へ十三日行くと祁黎山に至り、さらに北へ七日行くと洛環水に至る。水の広さは一里余りである。さらに北へ十五日行くと太岳魯水に至り、さらに東北へ十八日行くとその国に着く。国に大きな川があり、幅は三里余りで、速末水という。その部族はおよそ七種ある。第一は粟末部と号し、高麗に接し、戦える兵は数千で、勇猛な者が多く、しばしば高麗を侵す。第二は伯咄部で、粟末の北にあり、戦える兵は七千。第三は安車骨部で、伯咄の東北にある。第四は拂涅部で、伯咄の東にある。第五は号室部で、拂涅の東にある。第六は黒水部で、安車骨の西北にある。第七は白山部で、粟末の東南にある。戦える兵はいずれも三千を越えないが、黒水部がとりわけ強く健やかである。拂涅から東は、矢がみな石の鏃で、すなわち古の肅慎氏である。東夷の中では強国である。住む所は多く山と水に拠る。首長を大莫弗瞞咄という。国の南に從太山があり、中国の言葉では太皇という。風俗ではこれをはなはだ敬い畏れ、人は山の上で小便をして汚すことができず、山を通る者は器に入れて持って行く。山の上に熊・羆・豹・狼がいるが、みな人を害さず、人もまた敢えて殺さない。

2勿吉の風俗

地卑濕,築土如堤,鑿穴以居,開口向上,以梯出入。其國無牛,有馬,車則步推,相與偶耕。土多粟、麥、穄,菜則有葵。水氣堿,生鹽于木皮之上,亦有鹽池。其畜多獵,無羊。嚼米爲酒,飲之亦醉。婚嫁,婦人服布裙,男子衣豬皮裘,頭插武豹尾。俗以溺洗手面,于諸夷最爲不潔。初婚之夕,男就女家,執女乳而罷。妒,其妻外淫,人有告其夫,夫輒殺妻而後悔,必殺告者。由是姦淫事終不發。人皆善射。以射獵爲業。角弓長三尺,箭長尺二寸,常以七八月造毒藥,傅矢以射禽獸,中者立死。煮毒藥氣亦能殺人。其父母春夏死,立埋之,塚上作屋,令不雨濕;若秋冬死,以其屍捕貂,貂食其肉,多得之。

土地は低く湿っていて、土を堤のように築き、穴を掘って住み、入口を上に向けて開け、梯子で出入りする。その国に牛はなく、馬はいる。車は人が押し、二人が組んで耕す。土地には粟・麦・穄が多く、野菜では葵がある。水の気が塩辛く、木の皮の上に塩が生じ、塩の池もある。家畜より狩りが多く、羊はいない。米を噛んで酒を造り、飲むとやはり酔う。婚姻のとき、婦人は布の裙を着け、男子は豚の皮の衣を着て、頭に虎や豹の尾を挿す。風俗では小便で手と顔を洗い、諸々の夷の中で最も清くない。初めて婚する夕べには、男が女の家へ行き、女の乳に手を触れてそれで終わる。妬みが強く、妻が外で淫したことを誰かが夫に告げると、夫はすぐに妻を殺し、のちに悔いて、必ず告げた者を殺す。このため姦淫の事はついに表に出ない。人はみな弓が上手で、射と狩りを生業とする。角弓は三尺の長さ、矢は一尺二寸の長さで、つねに七、八月に毒薬を作り、矢に塗って鳥や獣を射れば、当たった者はたちまち死ぬ。毒薬を煮る気もまた人を殺すことができる。その父母が春や夏に死ねば、すぐに埋め、塚の上に屋根を作って雨に濡れないようにする。秋や冬に死ねば、その屍で貂を捕り、貂がその肉を食うので、多く獲ることができる。

3乙力支の朝貢

延興中,遣乙力支朝獻。太和初,又貢馬五百匹。乙力支稱:初發其國,乘船溯難河西上,至太濔河,沈船于水。南出陸行,度洛孤水,從契丹西界達和龍。自云其國先破高句麗十落,密共百濟謀,從水道並力取高麗,遣乙力支奉使大國,謀其可否。詔敕:「三國同是籓附,宜共和順,勿相侵擾。」乙力支乃還。從其來道,取得本船,泛達其國。九年,復遣使侯尼支朝。明年,復入貢。其傍有大莫盧國、覆鐘國、莫多回國、庫婁國、素和國、具弗伏國、匹黎爾國、拔大何國、郁羽陵國、庫伏真國、魯婁國、羽真侯國,前後各遣使朝獻。太和十二年,勿吉復遣使貢楛矢、方物于京師。十七年,又遣使人婆非等五百餘人朝貢。景明四年,復遣使侯力歸朝貢。自此迄於正光,貢使相尋。爾後中國紛擾,頗或不至。興和二年六月,遣石文雲等貢方物。以至於齊,朝貢不絕。

延興年間、乙力支を遣わして朝献した。太和の初め、また馬五百匹を貢いだ。乙力支が語ったところによれば、はじめ自分の国を発って船に乗り、難河をさかのぼって西へ上り、太濔河に至って船を水に沈め、南へ出て陸を行き、洛孤水を渡り、契丹の西の境から和龍に達したという。みずから言うには、その国が先に高句麗の十の落を破り、ひそかに百済とともに謀って、水の道から力を合わせて高麗を取ろうとしており、乙力支を大国へ使いさせてその可否を問うのだ、ということであった。詔して勅した。「三国はともに籓として付き従う身である。ともに和し順い、互いに侵し擾すことのないようにせよ。」乙力支はそこで還った。来た道をたどり、もとの船を取り出して浮かび、その国に達した。九年、再び使いの侯尼支を遣わして朝した。翌年、また入貢した。その傍らに大莫盧国・覆鐘国・莫多回国・庫婁国・素和国・具弗伏国・匹黎爾国・拔大何国・郁羽陵国・庫伏真国・魯婁国・羽真侯国があり、前後してそれぞれ使いを遣わして朝献した。太和十二年、勿吉は再び使いを遣わして楛の矢と方物を都に貢いだ。十七年、また使人の婆非ら五百余人を遣わして朝貢した。景明四年、再び使いの侯力帰を遣わして朝貢した。これより正光に至るまで、貢ぎの使いが相次いだ。その後は中国が紛れ擾れたので、来ないこともかなりあった。興和二年六月、石文雲らを遣わして方物を貢いだ。斉に至るまで、朝貢は絶えなかった。

4突地稽の帰順

隋開皇初,相率遣使貢獻。文帝詔其使曰:「朕聞彼土人勇,今來實副朕懷。視爾等如子,爾宜敬朕如父。」對曰:「臣等僻處一方,聞內國有聖人,故來朝拜。既親奉聖顏,願長爲奴僕。」其國西北與契丹接,每相劫掠,後因其使來,文帝誡之,使勿相攻擊。使者謝罪。文帝因厚勞之,令宴飲于前,使者與其徒皆起舞,曲折多戰鬥容。上顧謂侍臣曰:「天地間乃有此物,常作用兵意。」然其國與隋懸隔,唯粟末、白山爲近。煬帝初,與高麗戰,頻敗其衆。渠帥突地稽率其部降,拜右光祿大夫,居之柳城。與邊人來往,悅中國風俗,請被冠帶,帝嘉之,賜以錦綺而褒寵之。及遼東之役,突地稽率其徒以從,每有戰功,賞賜甚厚。十三年,從幸江都,尋放還柳城。李密遣兵邀之,僅而得免。至高陽,沒于王須拔。未幾,遁歸羅藝。

隋の開皇の初め、相次いで使いを遣わして貢ぎ献じた。文帝はその使いに詔して言った。「朕はその土地の人が勇ましいと聞いていたが、今来てみて、まことに朕の思いにかなった。お前たちを子のように見るから、お前たちも朕を父のように敬うべきである。」答えて言った。「臣らは片隅に偏って住んでおりますが、内国に聖人がおられると聞き、それで朝拝に参りました。すでに親しく聖顔を仰ぎましたので、長く奴僕となることを願います。」その国は西北で契丹と接し、つねに互いに劫し掠めるので、のちにその使いが来たついでに、文帝は戒めて、互いに攻め撃たないようにさせた。使者は罪を謝した。文帝はそこで厚くこれを労い、御前で宴飲させたところ、使者はその一行とともに立って舞い、その身のこなしには戦いの姿が多かった。帝は侍臣を顧みて言った。「天地の間にこのような者がいて、つねに兵を用いる気でいるのだな。」しかしその国は隋と遠く隔たっており、ただ粟末と白山だけが近かった。煬帝の初め、高麗と戦って、しばしばその衆を破った。首長の突地稽はその部を率いて降ったので、右光禄大夫に任じ、柳城に住まわせた。辺の人々と行き来して中国の風俗を悦び、冠と帯を着けることを請うたので、帝はこれを嘉し、錦や綺を賜わって褒め寵した。遼東の役では、突地稽はその一行を率いて従い、たびたび戦功があったので、賞賜ははなはだ厚かった。十三年、江都への行幸に従い、やがて柳城に放ち還された。李密が兵を遣わしてこれを待ち受けたが、かろうじて免れることができた。高陽に至って王須拔に捕らえられたが、いくらもたたぬうちに逃げ帰って羅芸に帰した。