南行月日記
予嘗欲遊踐四方。凡吾馬足之所到。若有異聞異見。則詩以拾文以採。以爲後日之觀。其意何哉。假得老以至脚衰腰僂。所處不過房櫳之內。所見不出衽席之間。則取吾手集。覩昔少壯時奔馳步驟遊賞之跡。赫赫若前日事。尙足以舒暢其幽鬱也。予詩集中有江南詩若干首。至今讀其詩。則當日之遊。了了然若在眼前矣。後五載。出補全州幕府。二年間凡所遊歷。頗亦多矣。然每遇江山風月。嘯才出吻。而簿書獄訟。來相侵軼。止得一聯一句。而其不能卒就者多。故所得全篇。不過六十餘首。然列郡風土山川形勝。有所可記。而倉卒不能形于歌詠。則草草書于短牋片簡。目爲日錄。雜用方言俗語也。及庚申季冬。入洛閑居。始出而見之。莽莽焉不可讀之。其所自爲而反自笑也。盡取而焚棄之。拾一二可讀者。姑次而記之云。夫全州者。或稱完山。古百濟國也。人物繁浩。屋相櫛比。有故國之風。故其民不椎朴。吏皆若衣冠士人。進止詳審可觀。有中子山者。最蓊鬱。州之雄鎭也。其所謂完山者。特一短峯耳。異哉。一州之以此得號也。距州理一千步。有景福寺。寺有飛來方丈。予自昔聞之。以事叢務劇。不得一訪。一日。因休暇遂往觀焉。所謂飛來方丈者。昔普德大士自盤龍山飛來之堂也。普德字智法。嘗居高句麗盤龍山延福寺。一日。忽謂弟子曰。句麗唯尊道敎。不崇佛法。此國必不久矣。安身避難。有何處所。弟子明德曰。全州高達山。是安住不動之地。乾封二年丁卯三月三日。弟子開戶出見。則堂已移於高達山。距盤龍一千餘里也。明德曰。此山雖奇絶。泉水枯涸。我若知師移來。必幷移舊山之泉矣。崔致遠作傳備詳。故於此略之。十一月己巳。始歷行屬郡。則馬靈,鎭安。山谷間古縣也。其民質野。面如獼猴。杯盤飮食腥膻。有蠻貊風。有所訶詰。則狀若駭鹿然。似將奔遁也。循山繚繞而行。乃得至於雲梯。自雲梯至高山。危峯絶嶺。辟立萬仞。路極窄。下馬而後行。高山於他郡中。頗爲不陋。自高山至禮陽。自禮陽至朗山。皆一宿而去。明日將向金馬郡。求所謂支石者觀之。支石者。俗傳古聖人所支。果有奇迹之異常者。明日。入伊城。民戶凋耗。籬落蕭條。客館亦草覆之。吏之來者。不過纍纍四五人而已。見之惻然可傷。十二月。奉朝勑。課伐木邊山。邊山者。國之材府。修營宮室。靡歲不採。然蔽牛之大。干霄之幹。常不竭矣。以其常督伐木。故呼予曰斫木使。予於路上。戲作詩曰。權在擁軍榮可詑。官呼斫木辱堪知。以類於擔夫樵者之事故也。正月壬辰。初入邊山。層峯複岫。昂伏屈展。其首尾所措。跟肘所極。不知幾許里也。旁俯大海。海中有群山島猬島鳩島。皆朝夕所可至。海人云。得便風直若激箭。則其去中國。亦不遠也。山中尤多栗。一方之人。歲相資以爲食焉。行若干里。有美箭植植立如麻。僅數百步。皆以樊籬障之。絶竹林直下。始得平路。行至一縣。曰保安者也。方潮汐之來。雖平路。忽漫然爲江海。故候潮之進退。以爲行期。予始行也。潮方來。尙去人五十許步。於是促鞭馳馬欲先焉。從者愕然急止之。予不聽猶馳之。俄而崩奔蹴踏而至。其勢若萬軍倍道趨來。穹豐然甚可畏也。予𢥠然急走登山。而後僅得免焉。然亦能追及而蕩馬腹也。其或蒼波翠巘。隱見出沒。陰晴昏旦。每各異狀。雲霞綵翠。浮動乎其上。縹緲如萬疊畫屛。擧目眺賞。恨不與二三子之能詩者齊轡而同吟也。然萬景觸惱。使人情張王。初不思爲詩。不覺率然自作也。嘗過主史浦。明月出嶺。晃映沙渚。意思殊蕭洒。放轡不驅。前望蒼海。沈吟良久。馭者怪之。得詩一首云云。閏十二月丁未。又承朝旨。監諸郡冤獄。先指進禮縣。山極高。入之漸幽奧。如蹈異邦別境。邑邑然意漸無聊。日過午。始入郡舍。令尉皆不在。夜二更許。令尉各自八千步許。皆奔喘而來。以馬縛懸於門柱。戒人不給蒭粟。凡馬之極於馳者不如是。恐斃也。予陽睡而聞之。知二君顧老夫頗誠。故不得已聽置酒。有妓彈琵琶。頗可聽。予於他郡不飮。至是稍痛飮。又聽絃聲。豈以路遠境絶。如入異邦。而觸物易感之然耶。自進禮至南原府。南原。古帶方國也。客館後有竹樓。閑敞可愛。一宿而去。庚申春三月。又沿水課船。凡水村沙戶漁燈鹽市。無不遊閱。入萬頃,臨陂,沃溝。凡留數日而行。將指長沙。有一巖。巖有彌勒像。挺然突立。是因巖鑿出者。距其像若干步。又有巨巖枵然中虛者。自其中入之。地漸寬敞。上忽通豁。屋宇宏麗。像設嚴煥。是兜率寺也。日侵暮。促鞭絶馳。入禪雲寺宿焉。明日入長沙。自長沙到茂松。皆殘敗小郡。事亦無可記者。但沿江問船計艘而已。平昔遇一泉一池。挹酌游泳。愛翫不足者。慕江海而不見故也。今竝海久矣。態於目者。皆水也。聲於耳者。亦水之哮怒也。則倦然已猒見矣。何天之餉人驟過。如使飢者暴飽。而反猒見甘旨耶。是年八月二十日。予先君諱旦也。先一日遂往邊山蘇來寺。壁上有故資玄居士詩。予亦和二首書于壁。明日。與扶寧縣宰李君及餘客六七人至元曉房。有木梯高數十級。疊足凌兢而行。乃得至焉。庭階窓戶。上出林杪。聞往往有虎豹攀緣而未上者。傍有一庵。俗語所云蛇包聖人所昔住也。以元曉來居故。蛇包亦來侍。欲試茶進曉公。病無泉水。此水從巖罅忽湧出。味極甘如乳。因嘗點茶也。元曉房才八尺。有一老闍梨居之。庬眉破衲。道貌高古。障其中爲內外室。內室有佛像元曉眞容。外則一甁雙屨茶瓷經机而已。更無炊具。亦無侍者。但於蘇來寺。日趁一齋耳。予陪吏竊語予曰。此師嘗遇全州。所至恃力橫暴。人皆病之。其後莫知所去。今見之則其師也。予歎曰。夫中下人。其器有常。故滯而莫遷。凡以惡駭人者。器必有異於人。故其反於善。必岌岌超卓如此者。昔有獵將遇牛頭二祖大士。改過修善。卒成宿德。海東明德大士。亦自捉鷹。爲普德聖師之高弟。推此類言之。此師之折節易行。介然有殊行。殊不爲怪也。又問所謂不思議方丈者求觀之。其高險萬倍於曉公方丈。有木梯高可百尺。直倚絶壁。三面皆不測之壑。回身計級而下。乃得至於方丈。一失足則更無可奈何矣。予平日登一臺一樓高不過尋丈者。以頭病故。猶眩眩然不得俯臨。至是益悚然股抃。未入而頭已旋矣。然自昔飽聞勝跡。今幸特來。若不入見其方丈。又不得禮眞表大士之像。則後必悔矣。於是盤桓蒲北而下。足猶在級而若將已墮者。遂入焉。敲石取火。焚香禮律師眞容。律師者。名眞表。碧骨郡大井村人也。年十二。來棲賢戒山不思議巖。賢戒山者。卽此山是已。眞心宴坐。欲見慈氏地藏。踰日不見。乃投身絶壑。有二靑衣童子以手奉之曰。師法力微小。故二聖不見也。於是努力益勤。至三七日。巖前樹上。有慈氏地藏現身授戒。慈氏親授占察經二卷。幷與一百九十九栍。以爲導往之具。其方丈。以鐵索釘巖故不欹。俗傳海龍所爲也。將還。縣宰置酒一巓曰。此望海臺也。吾欲勞君。先使人設席而待。請小休焉。予遂登眺。則大海周廻。距山才百餘步。每一杯一詠。萬景自媚。殊無人世間一點塵思。飄然若蛻俗骨傅羽翰。飛出六合之外。而擧首一望。若將以手招群仙也。坐者十餘人皆醉。以予先君諱日故。但無管絃歌吹耳。凡所歷無可記則不載。夫以京師爲身。以四方爲支。則予所遊者。南道之一偏。而特一支之一指耳。況此錄也皆忘漏剗削之餘。烏足爲後日之觀乎。姑藏之。以待東西南北之窮遊極踐。摠記備錄。然後合爲一通。以爲老境忘憂之資。不亦可乎。辛酉三月日。志。
私はかつて四方をめぐり歩こうと思っていた。およそわが馬の足が至る所に、変わった聞きごとや変わった見ものがあれば、詩に拾い文に採って、後の日の眺めとしようとした。その意図は何か。もし老いて脚が衰え腰が曲がり、居る所が部屋の内にすぎず、見るものが敷物のあいだを出なくなったら、自分の手で集めたものを取り出して、昔、若く元気だったころに駆け、歩き、遊び賞した跡を見れば、昨日の事のようにはっきりとして、なおその内にこもった重苦しさを晴らすに足りるからである。
わが詩集のなかに「江南詩」が幾首かあり、いまその詩を読むと、その日の遊びがはっきりと目の前にあるようである。その五年後、出て全州の幕府に補せられたが、二年のあいだにめぐり歩いて経たことはかなり多かった。しかし山河や風月に出会うたびに、吟ずる才が口から出ようとすると、文書と訴訟が来て互いに侵し、わずかに一聯一句を得て、ついに仕上げられないものが多かった。だから出来上がった全編は六十余首にすぎない。
しかし諸郡の風土や山川のすぐれた姿で書き留めるに足るものがあっても、あわただしくて歌に表せないときは、短い紙や切れ端に大まかに書いて、これを「日録」と呼び、方言や俗語を混ぜて使った。庚申の年の暮れの月に都に入って閑かに暮らし、はじめて取り出して見ると、ぼんやりして読めなかった。自分が書いたものなのに、かえってみずから笑った。すべて取って焼き捨て、一つ二つ読めるものを拾って、ひとまず順に並べて記す。
およそ全州という所は、完山ともいい、古い百済の国である。人や物が賑わい、家が櫛の歯のように並んで、古い国の風格がある。だからその民は無骨でなく、役人はみな衣冠を整えた士人のようで、進み退きが細やかで、見るに足る。中子山というものがあって最も木深く、郡の雄々しい鎮めの山である。いわゆる完山というのは、ただ低い峰一つにすぎない。不思議なことだ、一つの郡がこれで名を得たとは。
郡の役所から千歩離れた所に景福寺があり、寺に飛来方丈がある。私は昔からこれを聞いていたが、事が多く務めが忙しく、一度も訪ねられなかった。ある日、暇を得てついに行って見た。いわゆる飛来方丈とは、昔、普徳大師が盤龍山から飛んで来た堂である。
普徳は字が智法で、かつて高句麗の盤龍山延福寺にいた。ある日、ふと弟子に言った。「高句麗はただ道教を尊んで仏法を崇めない。この国は必ず長くもたないだろう。身を安らかにして難を避けるには、どこがよいか。」弟子の明徳が言った。「全州の高達山が、安らかに留まって動かない地です。」乾封二年丁卯三月三日、弟子が戸を開けて出て見ると、堂はすでに高達山に移っていて、盤龍山から千余里離れた所であった。明徳は言った。「この山は奇しくすぐれているが、泉の水が枯れている。私がもし師が移って来られると知っていたら、必ず元の山の泉もあわせて移したであろう。」崔致遠が伝を作って詳しく備えているので、ここでは省く。
十一月己巳の日に、はじめて属する郡々をめぐり歩いた。馬霊と鎮安は山あいの古い県である。その民は素朴で田舎びて、顔が猿のようであり、杯や膳の飲み食いに生臭さがあって、辺境の風俗がある。咎めることがあると、様子が驚いた鹿のようで、いまにも逃げ出しそうである。
山に沿ってめぐり歩いてから、ようやく雲梯に至ることができた。雲梯から高山に至るまでは、危うい峰と切れ落ちた嶺が万仞に削り立ち、道がきわめて狭くて、馬を降りてからようやく行けた。高山は他の郡のなかではかなりみすぼらしくない。高山から礼陽に至り、礼陽から朗山に至るまでは、みな一晩ずつ泊まって発った。
翌日、金馬郡に向かおうとして、いわゆる支石というものを尋ねて見た。支石とは、世に昔の聖人が支えたものと言い伝えるが、はたして奇しい跡で並でないものがあった。
翌日、伊城に入ると、民の戸が減って失われ、垣根が寂しく、客館も草で覆ったものであった。やって来る役人はわずか四、五人にすぎなかった。見るのが哀れで、心が痛むほどであった。
十二月、朝廷の命を奉じて、辺山で木を伐る仕事を監督した。辺山は国の材木の蔵である。宮室を修め造るため、毎年伐らない年がない。それでも牛を隠すほど大きなものや、天を突くような幹が、いつも尽きない。いつも木を伐る仕事を監督するので、私を「斫木使」と呼んだ。私は道の上で、戯れに詩を作った。
権は軍を率いることにあって栄えを誇るに足るが 役所は木を伐る者と呼ぶので辱めが知れる
荷担ぎや木こりの仕事に似ているからである。
正月壬辰の日、はじめて辺山に入った。重なる峰と連なる嶺が、高くなり低くなり、曲がり伸びて、その頭と尾の置かれた所、踵と肘の及ぶ所が、何里なのか分からない。かたわらに大海を見下ろすが、海のなかに群山島と猬島と鳩島があって、みな朝夕のうちに行ける。海の人が言った。「順風を得てまっすぐに放った矢のように行けば、中国に行くのもまた遠くない。」
山のなかに栗の木がとくに多く、ひとつの地方の人が毎年これに頼って食べ物としている。幾里か行くと、良い矢竹が麻のようにびっしり立っているのがわずか数百歩で、みな垣根で囲ってあった。竹林を抜けてまっすぐ下ってから、ようやく平らな道を得た。
行って一つの県に至ったが、保安という所である。まさに潮が満ちて来るときは、平らな道でも、たちまち一面に川や海となる。だから潮の進退をうかがって、出立の時とする。私がはじめて行ったとき、潮がちょうど満ちて来て、まだ人から五十歩ほど離れていた。そこで鞭を急がせ馬を走らせて先に行こうとすると、従う者が驚いて急いで止めた。私は聞かずになお走らせた。やがて崩れるように押し寄せ、踏みつけながら至るのが、その勢いは万の軍が道を倍にして駆けて来るようで、高々と満ちて、たいへん恐ろしかった。私はぞっとして急いで走って山に登ってから、ようやく免れた。しかしそれでも追いついて、馬の腹を洗うほどであった。
あるいは青い波と緑の峰が隠れたり現れたりし、曇ったり晴れたり、暗くなったり明るくなったりして、そのたびにそれぞれ違った姿であった。雲と霞の色が、その上に浮かび動いて、はるかに万重の絵の屏風のようであった。目を上げて眺め賞しながら、詩の上手な二、三人と手綱を並べてともに吟じられないのを恨んだ。しかしあらゆる景色が心を揺り動かして人の情を広げるので、初めは詩を作る気がなかったのに、知らぬうちにふと、おのずから作っていた。
かつて主史浦を通ったとき、明るい月が嶺から出て砂州を照らし輝かせた。心もちがひどくさっぱりして、手綱を放して追わず、前に青い海を眺めて長く口ずさんだので、馬を引く者が不思議に思った。詩一首を得た。
閏十二月丁未の日、また朝廷の意を奉じて諸郡の無念な獄を調べた。まず進礼県に向かった。山がきわめて高く、入るほど次第に奥深くなって、他の国の別の境を踏むようで、むしゃくしゃと心が次第に楽しくなかった。日が昼を過ぎてから、ようやく郡の官舎に入ったが、令と尉がいずれもいなかった。夜二更ごろ、令と尉がそれぞれ八千歩ほどの所から、みな息を切らして駆けて来た。馬を門柱に縛って吊り、人に言いつけて飼い草や穀を与えさせなかった。およそ馬が走りきったときは、こうしないと死ぬのを恐れるからである。私はわざと寝たふりをしてこれを聞き、二人がこの老人を気遣う誠がかなり厚いことを知った。だからやむなく酒宴を設けるのを許した。妓がいて琵琶を弾いたが、かなり聞くに足った。私は他の郡では飲まなかったのに、ここに至って少し痛快に飲み、また弦の音を聞いた。道が遠く境が隔たって、他の国に入ったようで、物に触れると感じやすくなって、そうなったのだろうか。
進礼から南原府に至った。南原は古い帯方の国である。客館の後ろに竹の楼があって、閑かで広々として愛らしかった。一晩泊まって発った。
庚申の年の春三月、また水路に沿って船を造る仕事を監督した。およそ水辺の村、砂の上の家、漁の灯、塩の市を、めぐり見ないものはなかった。万頃と臨陂と沃溝に入り、数日とどまって発った。
長沙に向かおうとすると、一つの岩があり、岩に弥勒の像があってにゅっとそびえ立っていた。これは岩に沿って彫り出したものである。その像から幾歩か離れた所に、また大きな岩があってうつろに中が空いていて、その中から入ると、土地が次第に広くなり、上がふいにぽっかり開けた。建物が広く麗しく、仏像が厳かで輝いていた。これが兜率寺である。
日が暮れてきたので、鞭を急がせてひたすら走り、禅雲寺に入って泊まった。翌日、長沙に入った。長沙から茂松に至るまで、みな衰えた小さな郡で、事もまた書き留めるものがなかった。ただ川に沿って船を尋ね、隻数を数えるだけであった。
ふだん、泉一つ池一つに出会っても、汲んで飲み泳いで、愛で楽しんで足りなかったのは、川や海を慕っていながら見られなかったからである。いま海に沿って久しくなり、目に姿を見せるものはみな水、耳に音を立てるものも水が吠え怒るものであるから、疲れてもう見飽きてしまった。どうして天が人に与えるのが急に過ぎて、飢えた者を一気に満腹にさせて、かえって甘い味を見るのを嫌わせるのか。
この年の八月二十日は、わが亡き父の忌日である。一日前に、ついに辺山の蘇来寺に行った。壁の上に亡き資玄居士の詩があったので、私も二首を和して壁に書いた。
翌日、扶寧県の長である李君と、ほかの客六、七人とともに元暁房に至った。木の梯子があって高さが数十段で、足を重ねておそるおそる行ってから、ようやく至ることができた。庭と階と窓と戸が、上は林の梢に出ている。聞けば、ときおり虎や豹がよじ登ろうとして登れないことがあるという。
かたわらに庵が一つあって、俗にいう蛇包聖人が昔とどまった所である。元暁が来て住んだので、蛇包もまた来て仕えた。茶を点てて元暁公に差し上げようとしたが、泉の水がなくて困っていると、この水が岩の割れ目からふいに湧き出てきて、味がたいへん甘く乳のようであった。それでいつも茶を点てた。
元暁房はわずか八尺である。老いた僧が一人住んでいて、眉が濃く、継ぎはぎの衣が破れ、道人の姿が高く古びていた。その中を仕切って内と外の室にしてあった。内の室には仏像と元暁の真影があり、外には瓶一つ、履一組、茶の碗、経机があるだけであった。炊事の道具もなく、また仕える者もなかった。ただ蘇来寺から、毎日一度の斎を受けて来るだけであった。
私に付き従う役人が、ひそかに私に言った。「この僧はかつて全州で、行く所ごとに力を頼んで乱暴にふるまい、人がみな困っていましたが、その後どこへ行ったか分かりませんでした。いま見ると、その僧です。」私は嘆いて言った。「およそ中くらいの人や下の人は、その器が定まっているから、滞って移ることができない。およそ悪で人を驚かす者は、器が必ず人と違うところがあるから、その人が善に返れば、必ずこのようにぬきんでて高く抜け出る。昔、ある狩人の将が牛頭の二祖大師に出会って過ちを改め善を修め、ついに久しい徳を成した。海東の明徳大師もまた、もとみずから鷹を使う者でありながら、普徳聖師の高い弟子となった。これを押し広めて言えば、この僧が節を折って行いを改め、きっぱりと並でない行いを持つことは、少しも怪しくない。」
また、いわゆる不思議方丈というものを尋ねて見ることを求めた。その高く険しいことは、元暁公の方丈の万倍であった。木の梯子があって高さが百尺ほどで、まっすぐ絶壁に寄りかかっており、三方がみな測り知れない谷である。身をめぐらせて段を数えながら下ってから、ようやく方丈に至れるので、一度足を踏み外せば、もうどうにもならない。
私はふだん、台や楼の一つに登るときでも、高さが八尺を越えないのに、頭の病のためになおくらくらとして見下ろせなかった。ここに至っていよいよ恐ろしく脚が震え、入る前に頭がもう回っていた。しかし昔からすぐれた跡を聞き飽きていて、いま幸いにわざわざ来たのだから、もしその方丈に入って見られず、また真表大師の像に礼をできなければ、後で必ず悔やむことになる。そこでためらってから北に下ったが、足がまだ段にあるうちから、もう落ちそうであった。ついに入った。石を打って火を得、香を焚いて律師の真影に礼をした。
律師は名が真表で、碧骨郡大井村の人である。十二歳で来て賢戒山の不思議巌に住んだ。賢戒山とは、すなわちこの山がそれである。まことの心で静かに座って弥勒と地蔵にお会いしようとしたが、日が過ぎても会えないので、すぐ身を切れ落ちた谷に投げた。青い衣を着た二人の童子が手で受け止めて言った。「師の法力が小さく少ないので、二聖が見えないのです。」そこで力を尽くしていよいよ励み、二十一日に至ると、岩の前の木の上に弥勒と地蔵が身を現して戒を授けた。弥勒はみずから『占察経』二巻を授け、あわせて籤百九十九本を与えて、導いて進ませる道具とさせた。その方丈は鉄の鎖で岩に釘づけにしてあるので傾かない。世には海の龍がしたことだと言い伝える。
帰ろうとするとき、県の長が一つの峰に酒宴を設けて言った。「これは望海台です。私はあなたを労いたいと思って、先に人を遣わして席を設けて待たせましたから、どうか少しお休みください。」私はついに登って眺めると、大海がめぐっていて、山からわずか百余歩離れていた。一杯飲んで一度吟ずるたびに、あらゆる景色がおのずから媚びて、人の世の一点の塵の思いもまったくなかった。ひるがえって俗な骨を脱いで翼を付けたようで、六方の外へ飛び出し、頭を上げて一度眺めれば、手で多くの仙人を招けそうであった。座った者十数人がみな酔った。わが亡き父の忌日なので、ただ管や弦や歌や笛だけがなかった。
およそ通ってきた所で書き留めるに足るものがなければ載せなかった。およそ都を身とし、四方を手足とすれば、私が遊んだ所は南の地方の一隅であり、ただ一つの手足の一本の指にすぎない。まして、この記録はみな忘れ、漏らし、削り取った残りであるから、どうして後の日の眺めとなるに足りようか。ひとまず収めておいて、東西南北をめぐり歩き尽くし踏み尽くしてから、すべて書き留め備えて記録するのを待って、そのうえで合わせて一つの綴りにし、老いの日に憂いを忘れる元手とすれば、また良いのではないか。辛酉の年三月某日に記す。