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校印桂苑筆耕集序 — 洪奭周校印桂苑筆耕集序 洪奭周

桂苑筆耕集(桂の苑で筆を耕した集) 桂苑筆耕集 · 崔致遠(チェ・チウォン) · 886年(唐・中和6年 · 新羅・憲康王12年) · 段落 10 · 漢字 722字 · 朗読 2.9分

桂苑筆耕集(桂の苑で筆を耕した集) 序 崔致遠が唐の淮南節度使・高駢の幕府で四年のあいだ書いた文章のうちから自ら選び、二十巻に編んで886年に新羅の憲康王に奉った文集。皇帝に奉った表と状、黄巣を責めた檄文、諸々の節度使に送った手紙、部下に下した委曲と挙牒、道教の斎詞と仏教の斎文、祭文、成都の羅城と安南の絵に付けた記、そして高駢に奉った啓と詩まで366編が収められている。「臣は新羅の人です」で始まる最初の啓と、「天下の人がおまえを殺そうとするだけでなく、地の底の鬼神までもおまえを斬ることを議した」という討黄巣檄文がここにあり、最後の巻は十二歳で離れた故郷へ帰る船路で作った詩である。今に伝わる韓国人の文集のうち最も古いもので、1834年に洪奭周と徐有榘が活字で刷るにあたり「我が東方の文章の根本であり始まりである」と述べた。その二つの序文も併せて訳した。

1本を重んじる心

《記》有之,曰:「酒醴之美,而玄酒明水之尙,貴五味之本也。黼黻文繡之美,而疏布之尙,反女功之始也。」古之君子必重其本始如此。

『礼記』にこういう言葉がある。「酒や醴が美味であっても玄酒と明水を尊ぶのは、五味の本を貴ぶからである。黼黻の文繡が美しくても粗布を尊ぶのは、女の仕事の始めに返るからである。」昔の君子が必ずその本と始めを重んじたのは、このようであった。

2わが東方の文章の本

吾東方之有文章而能著書傳後者,自孤雲崔公始,吾東方之士北學于中國,而以文聲天下者,亦自崔公始。崔公之書傳于後者,唯《桂苑筆耕》與《中山覆簣集》二部,是二書者,亦吾東方文章之本始也。

わが東方に文章があって書を著し後世に伝えた者は孤雲崔公から始まり、わが東方の士が北のかた中国に学んで文によって天下に名を知られたのも崔公から始まる。崔公の書で後世に伝わるものは『桂苑筆耕』と『中山覆簣集』の二部だけであり、この二書もまたわが東方の文章の本であり始めである。

3文集はあふれるのに崔公の書を知る者はまれだ

吾東方以文爲尙,至我朝益煥以融,家燕、許而戶曹、劉,以詩若文成集者,無慮充棟宇矣,而顧鮮有知崔公之書者。

わが東方は文を尊び、わが朝に至っていよいよ輝き熟して、家ごとに燕国公・許国公であり、門ごとに曹植・劉楨であって、詩や文で文集をなしたものは数えきれず棟いっぱいになるほどであるのに、見わたせば崔公の書を知る者はまれである。

4ほとんど絶えようとしていた書

余嘗見近代人所撰《東國書目》,有載《中山覆簣集》者,徧求之,終不可得。唯《桂苑筆耕》二十卷,爲吾家先世舊藏,自童幼時,知珍而玩之。然間以語人,雖博雅能文而好古者,亦皆言未曾見,然則是書也,幾乎絶矣。使是書不行于東方,是玄酒不設于太室,而疏布不羃于犧罇也,豈所以敎民不忘本哉?

私はかつて近代の人が編んだ『東国書目』を見て、『中山覆簣集』が載っていたので広く求めたが、ついに得られなかった。ただ『桂苑筆耕』二十巻だけはわが家の先代の旧蔵で、幼いころから珍しいものと知って愛読した。しかしときおり人に話すと、博雅で文に長じ古を好む者でさえ、みな見たことがないと言う。それならばこの書はほとんど絶えようとしていたのである。この書を東方に行われないままにするのは、玄酒を太室に設けず、粗布を犠罇に覆わないのと同じである。どうして民に本を忘れるなと教える道であろうか。

5騈儷文だと難ずる人へ

世或謂:「公文皆騈儷、四六,殊不類古作者。」公之入中國,在唐懿、僖之際,中國之文,方專事騈儷,風會所趨,固有不得而免者。然觀公所爲辭,往往多華而不浮。如《檄黃巢》一篇,氣勁意直,絶不以雕鏤爲工,至其詩平易近雅,尤非晩唐人所可及。是蓋以明水、疏布之質,而兼有乎酒醴、黼黻之美者,豈不彌可珍哉?

世間ではときに「公の文はみな騈儷・四六であって、古の作者とはまるで似ていない」と言う。公が中国に入ったのは唐の懿宗・僖宗のころで、中国の文はまさに騈儷ばかりに力を注いでいた時であり、風潮の向かうところ、まことに免れえないものがあった。しかし公の書いた文を見ると、多くは華やかであっても浮ついていない。「檄黄巣」の一篇のようなものは気が強く意が直で、彫り刻むことを技とはしておらず、その詩に至っては平易で雅に近く、晩唐の人の及ぶところではない。これはおそらく明水と粗布の質を保ちながら、酒醴と黼黻の美をも兼ねたものである。どうしていっそう珍重すべきでないことがあろうか。

6履物を脱ぐように捨てて帰り

公在中國,取科第入軍府,亦旣已聲施當時矣,而一朝去之如脫屣。及歸東方,躋翰苑貳兵部,以至阿飡,阿飡者,新羅大官。其顯用方未已也,而顧又自放於山林寂寞之濱,以終老其身而不悔,蓋度其時之皆不可有爲也。

公は中国で科挙に及第し軍府に入って、すでに当時に名を馳せていたのに、ある朝それを履物を脱ぐように捨てて去った。東方に帰ってからは翰林院に上り兵部の次官を務めて阿飡に至った。阿飡とは新羅の高い官である。その重く用いられることはまだ終わっていなかったのに、かえってまた自ら山林の寂しい水辺に身を置き、老いて死ぬまで悔いなかった。おそらくその時勢がどれも何事もなしえないものだと見きわめたのである。

7進むと退くの時を失わなかった人

士君子立身蹈道,莫有大乎出處之際,出處而不失其時,非賢者,不能也。賢者之作,固不可使其無傳,況其文傑然如彼,而又爲東國文章之本始者哉?

士君子が身を立て道を踏むうえで、進むと退くの際より大きいものはない。進退においてその時を失わないのは、賢者でなければできない。賢者の著述はまことに伝わらぬままにしてはならない。まして、その文があれほど傑出しており、また東国の文章の本であり始めとなるものであればなおさらである。

8徐準平が活字で刷る

湖南觀察使徐公準平,卽余所稱博雅能文而好古者也。聞余蓄是書,亟取而校之,捐其俸搨以活字,得數十百本,用廣其傳曰:「不可使是書絶于東國也。」

湖南観察使の徐公準平は、まさに私が博雅で文に長じ古を好むと称する人である。私がこの書を蔵していると聞いて、急いで取り寄せて校訂し、自分の俸禄を割いて活字で刷り、数十数百本を得てその流布を広めて言った。「この書を東国で絶えさせてはならない。」

9徐公の心の用いかた

嗚呼!不忘本始,敎民厚也;表章賢人,勸民善也。徐公之用心也如此,其所以爲政於湖南者,亦可知已。役旣完,徐公屬余曰:「子實傳是書,今不可以靳一言。」余辭不能得。若崔公之蹟行本末與是書之可備考證者,徐公之序詳之矣,余無所復贅云。

ああ、本と始めを忘れないのは民の教えを厚くすることであり、賢人を表彰するのは民に善を勧めることである。徐公の心の用いかたがこのようであるから、湖南で政を行うさまも推して知られる。仕事がすべて終わると、徐公は私に頼んだ。「あなたが実際にこの書を伝えたのだから、今になって一言を惜しむことはできない。」私は辞退したが許されなかった。崔公の行跡の本末と、この書で考証に足ることは徐公の序に詳しいので、私はさらに付け加えることがない。

10甲午年九月

甲午九月,大匡輔國崇祿大夫、議政府左議政豐山洪奭周序。

甲午年九月、大匡輔国崇禄大夫・議政府左議政、豊山の洪奭周が序を書く。