高麗
1箕子の残した教え
高麗者,出自扶餘之別種也。其國都於平壤城,即漢樂浪郡之故地,在京師東五千一百里。東渡海至於新羅,西北渡遼水至於營州,南渡海至於百濟,北至靺鞨。東西三千一百里,南北二千里。其官大者號大對盧,比一品,總知國事,三年一代,若稱職者,不拘年限。交替之日,或不相祗服,皆勒兵相攻,勝者爲之。其王但閉宮自守,不能制禦。次曰太大兄,比正二品。對盧以下官,總十二級。外置州縣六十餘城。大城置傉薩一,比都督。諸城置道使,比刺史。其下各有僚佐,分掌曹事。衣裳服飾,唯王五彩,以白羅爲冠,白皮小帶,其冠及帶,咸以金飾。官之貴者,則青羅爲冠,次以緋羅,插二鳥羽,及金銀爲飾,衫筒袖,褲大口,白韋帶,黃韋履。國人衣褐戴弁,婦人首加巾幗。好圍棋投壺之戲,人能蹴鞠。食用籩豆、簠簋、尊俎、罍洗,頗有箕子之遺風。
高麗は扶余の別種から出た。その国は平壌城に都を置く。すなわち漢の楽浪郡の古い地で、都から東へ五千百里にある。東は海を渡って新羅に至り、西北は遼水を渡って営州に至り、南は海を渡って百済に至り、北は靺鞨に至る。東西は三千百里、南北は二千里である。
官の第一を大対盧と呼び、一品に当たり、国の事をすべて取り仕切る。三年に一度交替するが、職にふさわしい者なら年数には縛られない。交替の日、互いに承服しないことがあれば、みな兵を率いて攻め合い、勝った者がこれになる。王はただ宮門を閉じて自ら守るだけで、止めることができない。次を太大兄といい、正二品に当たる。対盧以下の官は、合わせて十二級である。外には州県の六十余りの城を置き、大きな城には傉薩を一人置いて都督に当て、諸城には道使を置いて刺史に当て、その下にそれぞれ補佐の者がいて、事務を分けて受け持つ。
衣服や飾りは、王だけが五色を用いる。白い羅で冠を作り、白い革の細い帯を締め、冠も帯もみな金で飾る。身分の高い官は青い羅で冠を作り、その次は紅の羅で作り、鳥の羽を二本挿し、金銀で飾る。上着は筒袖、袴は裾が広く、白い革の帯に黄色い革の靴をはく。国の人は粗い布の衣に弁をかぶり、女は頭に巾幗をかぶる。囲碁と投壺の遊びを好み、人々は蹴鞠が上手である。食事には籩豆・簠簋・尊俎・罍洗を用い、箕子の残した風がかなり残っている。
夾注 1
ここでいう京師は長安である。 ― 訳者
2おんどると厳しい法
其所居必依山谷,皆以茅草葺舍,唯佛寺、神廟及王宮、官府乃用瓦。其俗貧窶者多,冬月皆作長坑,下燃;煴火以取暖。種田養蠶,略同中國。其法:有謀反叛者,則集衆持火炬競燒灼之,燋爛備體,然後斬首,家悉籍沒;守城降敵,臨陣敗北,殺人行劫者,斬;盜物者,十二倍酬贓;殺牛馬者,沒身爲奴婢。大體用法嚴峻,少有犯者,乃至路不拾遺。其俗多淫祀,事靈星神、日神、可汗神、箕子神。國城東有大穴,名神隧,皆以十月,王自祭之。
住む所は必ず山や谷に寄り、みな茅で屋根を葺き、ただ仏寺と神廟、王宮と役所だけが瓦を用いる。その習わしでは貧しい者が多く、冬には長いおんどるを作り、下で火を焚いて暖を取る。田を耕し蚕を飼うことは、おおむね中国と同じである。
その法では、謀反や背きを企てた者は、人を集めて松明を持たせ、競って焼かせ、全身がただれたうえで首を斬り、家はことごとく没収する。城を守りながら敵に降った者、戦いに臨んで敗れて逃げた者、人を殺したり奪ったりした者は、首を斬る。物を盗んだ者は、十二倍にして償わせる。牛や馬を殺した者は、身を没収して奴婢とする。おおむね法の使い方が厳しく、犯す者が少なく、道に落ちた物を拾わないほどである。
習わしには淫祀が多く、霊星の神・日の神・可汗の神・箕子の神を祀る。国の城の東に大きな穴があって神隧と名づけ、いずれも十月に、王が自ら祭る。
3扃堂で書を読む
俗愛書籍,至於衡門廝養之家,各於街衢造大屋,謂之扃堂,子弟未婚之前,晝夜于此讀書習射。其書有《五經》及《史記》、《漢書》、范曄《後漢書》、《三國志》、孫盛《晉春秋》、《玉篇》、《字統》、《字林》;又有《文選》,尤愛重之。
習わしとして書物を愛し、身分の低い門番や馬飼いの家に至るまで、それぞれ街路に大きな家を建てて扃堂と呼ぶ。子弟は婚姻の前まで、昼も夜もここで書を読み弓を習う。その書には五経および史記・漢書・范曄の後漢書・三国志・孫盛の晋春秋・玉篇・字統・字林があり、また文選があって、とりわけ愛し重んじている。
4栄留王の朝貢
其王高建武,即前王高元異母弟也。武德二年,遣使來朝。四年,又遣使朝貢。高祖感隋末戰士多陷其地,五年,賜建武書曰:
その王の高建武は、すなわち前の王の高元の異母弟である。武徳二年、使いを遣わして朝廷に参り、四年、また使いを遣わして朝貢した。高祖は、隋の末の戦いの兵士が多くその地に落ちていることを心に懸け、五年、建武に書を下した。
夾注 2
高建武は栄留王である。 ― 訳者
高元は嬰陽王である。 ― 訳者
5捕虜を互いに帰そうという書
朕恭膺寶命,君臨率士,祗順三靈,綏柔萬國。普天之下,情均撫字,日月所照,咸使乂安。王既統攝遼左,世居籓服,思稟正朔,遠循職貢。故遣使者,跋涉山川,申布誠懇,朕甚嘉焉。方今六合甯晏,四海清平,玉帛既通,道路無壅。方申輯睦,永敦聘好,各保疆蕣,豈非盛美。但隋氏季年,連兵構難,攻戰之所,各失其民。遂使骨肉乖離,室家分析,多歷年歲,怨曠不申。今二國通和,義無阻異,在此所有高麗人等,已令追括,尋即遣送;彼處有此國人者,王可放還,務盡撫育之方,共弘仁恕之道。
「朕は謹んで宝命を受け、天下に君臨して、三霊を敬い従い、万国をなだめいたわっている。天の下すべてに、いたわり育てる心は等しく、日と月の照らすところを、みな安らかにしようとしている。王は遼東を統べ、代々蕃国にあって、正朔を奉じることを思い、遠くから職貢を務めてきた。それゆえ使者を遣わし、山を越え川を渡って誠意を述べさせた。朕ははなはだ褒めている。いま天地は静かで、四海は清く平らかで、玉と絹はすでに通い、道にふさがりはない。睦みを広げ、永く聘問の誼を厚くし、それぞれ領土を保つなら、どうして盛んな美しさでないことがあろう。
ただ、隋の家の末の年に、兵を連ねて難を作り、戦いの場でそれぞれその民を失った。ついに骨肉は離れ、家は分かれ、多くの年月を経ても、慕う思いを晴らせずにいる。いま二国は和を通じ、義においてさえぎるものはない。ここにいる高麗の人々は、すでに探し集めさせたので、ほどなく送り返す。そちらにいるこの国の人々も、王は帰してほしい。いたわり育てる手立てを尽くし、ともに仁と寛さの道を広めよう。」
6一万人が帰る
於是建武悉搜括華人,以禮賓送,前後至者萬數,高祖大喜。
そこで建武は華人をすべて探し集め、礼を尽くして送り出したので、前後に着いた者は万をもって数えられ、高祖は大いに喜んだ。
7どうして臣と呼ばせよう
七年,遣前刑部尚書沈叔安往冊建武爲上柱國、遼東郡王、高麗王,仍將天尊像及道士往彼,爲之講《老子》,其王及道俗等觀聽者數千人。高祖嘗謂侍臣曰:「名實之間,理須相副。高麗稱臣于隋,終拒煬帝,此亦何臣之有!朕敬於萬物,不欲驕貴,但據有土宇,務共安人,何必令其稱臣,以自尊大。即爲詔述朕此懷也。」侍中裴矩、中書侍郎溫彥博曰:「遼東之地,周爲箕子之國,漢家玄菟郡耳!魏、晉已前,近在提封之內,不可許以不臣。且中國之于夷狄,猶太陽之對列星,理無降尊,俯同籓服。」高祖乃止。
七年、もとの刑部尚書の沈叔安を遣わして建武を上柱国・遼東郡王・高麗王に冊封し、あわせて天尊像と道士を連れて行かせ、老子を講じさせたので、王と道士・俗人などで見聞きした者は数千人であった。高祖はかつて側近の臣に言った。「名と実のあいだは、理として互いに合わなければならない。高麗は隋に臣と称しながら、ついに煬帝を拒んだ。これが何の臣であろう。朕は万物を敬い、おごり高ぶろうとは思わない。ただ土地を持つ者として、ともに人を安らかにすることに努めるだけだ。どうして必ず臣と称させて、自ら尊大になる必要があろう。すぐに詔を作って、朕のこの思いを述べよ。」侍中の裴矩と中書侍郎の温彦博が言った。「遼東の地は、周では箕子の国であり、漢の家の玄菟郡にすぎません。魏・晋より前には、封域の内に近くありましたから、臣でないことを許してはなりません。また中国が夷狄に対するのは、太陽が列なる星に対するようなものです。尊さを下げて、身をかがめて蕃国と同じになる理はありません。」高祖はそこで思いとどまった。
8朱子奢の和解
九年,新羅、百濟遣使訟建武,云閉其道路,不得入朝。又相與有隙,屢相侵掠。詔員外散騎侍郎硃子奢往和解之。建武奉表謝罪,請與新羅對使會盟。
九年、新羅と百済が使いを遣わして建武を訴え、道をふさいで朝廷に参らせず、また互いに隙があってたびたび侵し奪うと述べた。詔によって員外散騎侍郎の朱子奢を遣わして和解させると、建武は上表して罪を謝し、新羅の使いと向かい合って会盟したいと願った。
9千里の長城を築く
貞觀二年,破突厥頡利可汗,建武遣使奉賀,並上封域圖。五年,詔遣廣州都督府司馬長孫師往收瘞隋時戰亡骸骨,毀高麗所立京觀。建武懼伐其國,乃築長城,東北自扶餘城,西南至海,千有餘里。十四年,遣其太子桓權來朝,並貢方物,太宗優勞甚至。
貞観二年、突厥の頡利可汗を破ると、建武は使いを遣わして祝いを奉り、あわせて封域図を献じた。五年、詔によって広州都督府司馬の長孫師を遣わし、隋の時に戦って死んだ者の骨を収めて埋め、高麗が立てた京観を壊させた。建武は自分の国を討たれるのを恐れ、そこで長城を築いた。東北は扶余城から、西南は海まで、千余里であった。十四年、その太子の桓権を遣わして朝廷に参らせ、あわせて土地の産物を献じたので、太宗はきわめて厚くねぎらった。
10淵蓋蘇文の政変
十六年,西部大人蓋蘇文攝職有犯,諸大臣與建武議欲誅之。事泄,蘇文乃悉召部兵,云將校閱,並盛陳酒饌于城南,諸大臣皆來臨視。蘇文勒兵盡殺之,死者百余人。焚倉庫,因馳入王宮,殺建武,立建武弟大陽子藏爲王。自立爲莫離支,猶中國兵部尚書兼中書令職也,自是專國政。蘇文姓錢氏,須貌甚偉,形體魁傑,身佩五刀,左右莫敢仰視。恆令其屬官俯伏於地,踐之上馬,及下馬,亦如之。出必先布隊仗,導者長呼以辟行人,百姓畏避,皆自投坑穀。
十六年、西部大人の蓋蘇文が職務にあたって罪を犯したことがあり、諸大臣は建武と相談して殺そうとした。事が漏れると、蘇文は部の兵をすべて呼び集め、閲兵するといって、城の南に酒と食べ物を盛大に並べたので、諸大臣はみな来て見物した。蘇文は兵を動かしてことごとく殺し、死んだ者は百余人であった。倉庫を焼き、そのまま王宮に駆け込んで建武を殺し、建武の弟の大陽の子の蔵を立てて王とした。自ら莫離支となったが、これは中国の兵部尚書が中書令を兼ねた職のようなもので、これより国政を一人で握った。
蘇文は姓を泉氏といい、ひげと顔はたいそう威厳があり、体つきは大きくすぐれ、身に刀を五本帯びていたので、左右の者はあえて見上げることができなかった。いつも属官を地に伏せさせ、踏みつけて馬に乗り、馬を下りるときも同じようにした。外に出るときは必ず先に隊列と儀仗を並べ、先導する者が長く声をあげて通行人を払ったので、民は恐れて避け、みな穴や谷へ身を投げた。
11討つ名分を得る
太宗聞建武死,爲之舉哀,使持節弔祭。十七年,封其嗣王藏爲遼東郡王、高麗王。又遣司農丞相里玄獎齎璽書往說諭高麗,令勿攻新羅。蓋蘇文謂玄獎曰:「高麗、新羅,怨隙已久。往者隋室相侵,新羅乘釁奪高麗五百里之地,城邑新羅皆據有之。自非反地還城,此兵恐未能已。」玄奘曰:「既往之事,焉可追論?」蘇文竟不從。太宗顧謂侍臣曰:「莫離支賊弑其主,盡殺大臣,用刑有同坑阱。百姓轉動輒死,怨痛在心,道路以目。夫出師吊伐,須有其名,因其弑君虐下,敗之甚易也。」
太宗は建武の死を聞き、そのために哀悼の礼を行い、節を持たせた使いを遣わして弔い祭らせた。十七年、跡を継いだ王の蔵を遼東郡王・高麗王に封じた。また司農丞の相里玄奨を遣わし、璽書を持たせて高麗を説き諭し、新羅を攻めないようにさせた。蓋蘇文は玄奨に言った。「高麗と新羅は、恨みの隙がもう長い。過ぎた日、隋が侵してきたとき、新羅は隙に乗じて高麗の五百里の地を奪い、城や邑をみな占めてしまった。地を返し城を戻さないかぎり、この戦いはやめられないであろう。」玄奨は「過ぎた事を、どうして遡って論じられよう」と言ったが、蘇文はついに従わなかった。太宗は側近の臣を顧みて言った。「莫離支はその主を殺し、大臣をことごとく殺し、刑罰の使い方は落とし穴のようだ。民は身を動かすだけでたちまち死ぬので、怨みと痛みが心にこもり、道では目で語り合うばかりだ。そもそも軍を出して弔い伐つには、その名分が必要である。君を殺し下の者を虐げたことを名分とすれば、これを破るのはきわめて易しい。」
12二つの道から進む
十九年,命刑部尚書張亮爲平壤道行軍大總管,領將軍常何等率江、淮、嶺、硤勁卒四萬,戰船五百艘,自萊州汎海趨平壤。又以特進英國公李勣爲遼東道行軍大總管,禮部尚書江夏王道宗爲副,領將軍張士貴等率步騎六萬趨遼東。兩軍合勢,太宗親御六軍以會之。
十九年、刑部尚書の張亮に命じて平壌道行軍大総管とし、将軍の常何らを率い、江・淮・嶺・硤の強い兵四万と戦船五百艘で、萊州から海に出て平壌へ向かわせた。また特進・英国公の李勣を遼東道行軍大総管とし、礼部尚書・江夏王の道宗を副として、将軍の張士貴らを率い、歩兵と騎兵六万で遼東へ向かわせた。二つの軍は勢いを合わせ、太宗は自ら六軍を率いてこれに合わさった。
13遼東城が落ちる
夏四月,李勣軍渡遼,進攻蓋牟城,拔之。獲生口二萬,以其城置蓋州。五月,張亮副將程名振攻沙卑城,拔之,虜其男女八千口。是日,李勣進軍於遼東城。帝次遼澤,詔曰:「頃者隋師渡遼,時非天贊,從軍士卒,骸骨相望,遍于原野,良可哀歎。掩骼之義,誠爲先典,其令並收瘞之。」國內及新城步騎四萬來援遼東,江夏王道宗率騎四千逆擊,大破之,斬首千餘級。帝渡遼水,詔撤橋樑,以堅士卒志。帝至遼東城下。見士卒負擔以填塹者,帝分其尤重者,親於馬上持之。從官悚動,爭齎以送城下。時李勣已率兵攻遼東城。高麗聞我有拋車,飛三百斤石於一里之外者,甚懼之。乃于城上積木爲戰樓以拒飛石。勣列車發石以擊其城,所遇盡潰。又推撞車撞其樓閣,無不傾倒。帝親率甲騎萬余與李勣會。圍其城。俄而南風甚勁,命縱火焚其西南樓,延燒城中,屋宇皆盡。戰士登城,賊乃大潰,燒死者萬余人,俘其勝兵萬餘口,以其城爲遼州。初,帝自定州命每數十里置一烽,屬於遼城,與太子約,克遼東,當舉烽。是日,帝命舉烽,傳入塞。
夏四月、李勣の軍は遼水を渡り、蓋牟城を攻めて抜き、捕虜二万を得て、その城で蓋州を置いた。五月、張亮の副将の程名振が沙卑城を攻めて抜き、その男女八千人を捕らえた。この日、李勣は遼東城へ進軍した。帝は遼沢に宿り、詔を下した。「さきに隋の軍が遼水を渡ったとき、時は天の助けを得ず、従軍した兵卒の骨が互いに見渡すほどに原野に広がった。まことに哀しむべきことだ。骨を覆う義は、実に古い法である。すべて収めて埋めさせよ。」国内城と新城の歩兵・騎兵四万が遼東を救いに来たので、江夏王の道宗が騎兵四千を率いて迎え撃ち、大いに破って千余級を斬った。帝が遼水を渡ると、詔によって橋を取り払わせ、兵卒の覚悟を固めさせた。
帝は遼東城の下に至り、兵卒が荷を背負って堀を埋めているのを見て、その中でもっとも重いものを分け取り、自ら馬の上で持った。従う官は驚いて動き、競って担って城の下へ運んだ。そのとき李勣はすでに兵を率いて遼東城を攻めていた。高麗は、こちらに三百斤の石を一里の外へ飛ばす抛車があると聞いて、たいそう恐れ、城の上に木を積んで戦いの楼を作り、飛んでくる石を防いだ。李勣は車を並べて石を発し城を撃つと、当たるところはみな崩れた。また撞車を押してその楼閣を突くと、倒れないものはなかった。帝は自ら甲の騎兵一万余を率いて李勣と合わさり、その城を囲んだ。ほどなく南風がたいそう強く吹いたので、火を放ってその西南の楼を焼かせると、城の中まで燃え広がり、家はすべて尽きた。兵が城に登ると、敵は大いに崩れ、焼け死んだ者は一万余人、その強い兵一万余人を捕虜とし、その城を遼州とした。はじめ帝は定州から数十里ごとに狼煙を一つ置き、遼東城まで連ね、太子と、遼東を落としたら狼煙を挙げると約束していた。この日、帝は狼煙を挙げさせ、辺境の内へ伝えさせた。
14白巌城の降伏
師次白崖城,命攻之,右衛大將軍李思摩中弩矢,帝親爲吮血,將士聞之,莫不感勵。其城因山臨水,四面險絕。李勣以撞車撞之,飛石流矢,雨集城中。六月,帝臨其西北,城主孫伐音潛遣使請降,曰:「臣已願降,其中有貳者。」詔賜以旗幟,曰:「必降,建之城上。」伐音舉幟於城上,高麗以爲唐兵登也,乃悉降。初,遼東之陷也,伐音乞降,既而中悔,帝怒其反覆,許以城中人物分賜戰士。及是,李勣言於帝曰:「戰士奮厲爭先,不顧矢石者,貪虜獲耳。今城垂拔,奈何更許其降,無乃辜將士之心乎?」帝曰:「將軍言是也。然縱兵殺戮,虜其妻孥,朕所不忍也。將軍麾下有功者,朕以庫物賞之,庶因將軍贖此一城。」遂受降,獲士女一萬,勝兵二千四百,以其城置岩州,授孫伐音爲岩州刺史。我軍之渡遼也,莫離支遣加屍城七百人戍蓋牟城,李勣盡虜之,其人並請隨軍自效。太宗謂曰:「誰不欲爾之力,爾家悉在加屍,爾爲吾戰,彼將爲戮矣!破一家之妻子,求一人之力用,吾不忍也!」悉令放還。
軍は白巌城に至り、攻めさせた。右衛大将軍の李思摩が弩の矢に当たると、帝が自らその血を吸ってやったので、将兵はこれを聞いて感激し、励まない者はなかった。その城は山に寄り水に臨み、四面が険しく切り立っていた。李勣が撞車で突き、飛ぶ石と流れ矢が城の中に雨のように集まった。六月、帝がその西北に臨むと、城主の孫伐音がひそかに使いを遣わして降伏を願い、「臣はすでに降る気持ちでおりますが、その中に二心の者がおります」と言った。詔によって旗を賜り、「降るのなら、城の上に立てよ」と言った。伐音が城の上に旗を挙げると、高麗の人々は唐の兵が登ったと思い、そこでみな降った。
はじめ遼東が落ちたとき、伐音は降伏を乞いながら、やがて途中で思い返したので、帝はその二転三転に怒り、城の中の人と物を兵たちに分け与えることを許していた。ここに至って李勣は帝に言った。「兵卒が奮い立って先を争い、矢や石を顧みないのは、ただ奪い取るものを欲しがるからです。いま城が落ちようとしているのに、どうしてまた降伏を受け、将兵の心を裏切られるのですか。」帝は言った。「将軍の言葉は正しい。しかし兵を放って殺させ、その妻子を捕らえることは、朕には忍びない。将軍の下で功のあった者には、朕が蔵の品で賞を与えよう。将軍から、この一つの城を買い取りたいのだ。」こうして降伏を受け、男女一万と強い兵二千四百を得て、その城で巌州を置き、孫伐音に巌州刺史を授けた。
唐の軍が遼水を渡ったとき、莫離支は加屍城の兵七百を遣わして蓋牟城を守らせていたが、李勣がすべて捕らえると、その者たちはそろって従軍して功を立てたいと願った。太宗は言った。「誰がお前たちの力を望まないであろう。しかしお前たちの家はみな加屍にある。お前たちが私のために戦えば、彼らは殺されるであろう。一家の妻子を壊して一人の力を得ることは、私には忍びない。」すべて放って帰らせた。
15駐蹕山の戦いの前夜
車駕進次安市城北,列營進兵以攻之。高麗北部傉薩高延壽、南部耨薩高惠貞率高麗、靺鞨之衆十五萬來援安市城。賊中有對盧,年老習事,謂延壽曰:「吾聞中國大亂,英雄並起。秦王神武,所向無敵,遂平天下,南面爲帝,北夷請服,西戎獻款。今者傾國而至,猛將銳卒,悉萃於此,其鋒不可當也。今爲計者,莫若頓兵不戰,曠日持久,分遣驍雄,斷其饋運,不過旬日,軍糧必盡,求戰不得,欲歸無路,此不戰而取勝也。」延壽不從,引軍直進。太宗夜召諸將,躬自指麾。遣李勣率步騎一萬五千於城西嶺爲陣;長孫無忌率牛進達等精兵一萬一千以爲奇兵,自山北于狹穀出,以沖其後;太宗自將步騎四千,潛鼓角,偃旌幟,趨賊營北高峰之上;令諸軍聞鼓角聲而齊縱。因令所司張受降幕於朝堂之側,曰:「明日午時,納降虜於此矣!」遂率軍而進。
帝の車駕は進んで安市城の北に宿り、陣営を並べて兵を出して攻めた。高麗の北部傉薩の高延寿と南部傉薩の高恵真が、高麗・靺鞨の軍十五万を率いて安市城を救いに来た。敵の中に、年を取って事に慣れた対盧がいて、延寿に言った。「私が聞くに、中国が大いに乱れて英雄が並び立ったが、秦王は神のような武勇で向かうところ敵がなく、ついに天下を平らげ、南を向いて帝となり、北の夷は服従を願い、西戎は誠意を差し出したという。いま国を傾けて来て、猛将と精兵がすべてここに集まっている。その鋒先に当たることはできない。いまの策としては、兵を留めて戦わず、日を長引かせて持ちこたえながら、勇猛な者を分け遣わして、その食糧を運ぶ道を断つに越したことはない。十日もたたずに軍糧は必ず尽き、戦おうとしてもできず、帰ろうとしても道がなくなる。これが戦わずに勝ちを取る道である。」延寿は従わず、軍を率いてまっすぐ進んだ。
太宗は夜に諸将を呼び、自ら指揮した。李勣を遣わして歩兵・騎兵一万五千で城の西の嶺に陣を張らせ、長孫無忌は牛進達らの精兵一万一千を率いて奇兵とし、山の北の狭い谷から出てその後ろを突かせ、太宗は自ら歩兵・騎兵四千を率い、鼓と角笛を隠し旗を伏せて、敵の陣営の北の高い峰の上へ向かい、諸軍には鼓と角笛の音を聞いたら一斉に出よと命じた。そして担当の役所に命じて、朝堂の傍らに降伏を受ける幕を張らせ、「明日の昼には、ここで降った敵を受けるであろう」と言い、こうして軍を率いて進んだ。
夾注 1
秦王は太宗である。 ― 訳者
16高延寿の降伏
明日,延壽獨見李勣兵,欲與戰。太宗遙望無忌軍塵起,令鼓角並作,旗幟齊舉。賊衆大懼,將分兵禦之,而其陣已亂。李勣以步卒長槍一萬擊之,延壽衆敗。無忌縱兵乘其後,太宗又自山而下,引軍臨之,賊因大潰,斬首萬餘級。延壽等率其餘寇,依山自保。於是命無忌、勣等引兵圍之,撤東川梁以斷歸路。太宗按轡徐行,觀賊營壘,謂侍臣曰:「高麗傾國而來,存亡所系,一麾而敗,天佑我也!」因下馬再拜以謝天。延壽等膝行而前,拜手請命。太宗簡傉薩以下酋長三千五百人,授以戎秩,遷之內地。收靺鞨三千三百,盡坑之,餘衆放還平壤。獲馬三萬疋、牛五萬頭、明光甲五千領,他器械稱是。高麗國振駭,後黃城及銀城並自拔,數百里無復人煙。因名所幸山爲駐蹕山,令將作造《破陣圖》,命中書侍郎許敬宗爲文勒石以紀其功。授高延壽鴻臚卿,高惠真司農卿。張亮又與高麗再戰于建安城下,皆破之,於是列長圍以攻焉。
翌日、延寿は李勣の兵だけを見て、戦おうとした。太宗は遠くに無忌の軍の塵が立つのを望み、鼓と角笛をともに鳴らし、旗を一斉に挙げさせた。敵の軍は大いに恐れ、兵を分けて防ごうとしたが、その陣はすでに乱れていた。李勣が長槍の歩兵一万で撃つと、延寿の軍は敗れ、無忌が兵を放ってその後ろに乗じ、太宗もまた山から下って軍を率いて臨んだので、敵は大いに崩れ、一万余級を斬った。延寿らは残った軍を率い、山に寄って自ら守ったので、無忌・勣らに命じて兵を率いて囲ませ、東川の橋を取り払って帰り道を断った。
太宗は手綱を押さえてゆっくり行き、敵の陣営と塁を見て、側近の臣に「高麗は国を傾けて来た。存亡の懸かることであるのに、一たび旗を振るって敗れた。天が私を助けたのだ」と言い、馬を下りて二度拝して天に謝した。延寿らは膝で進み出て、手を合わせて拝し、命を請うた。太宗は傉薩以下の長三千五百人を選んで軍の位を授け、内地に移した。靺鞨三千三百を集めてすべて穴に埋め、残りの軍は平壌へ放って帰した。馬三万頭、牛五万頭、明光の甲五千領を得、ほかの武具もそれに見合った。高麗の国中は驚き震え、のちに黄城と銀城はいずれも自ら城を空け、数百里にふたたび人の気配がなくなった。そこで滞まった山を駐蹕山と名づけ、将作に「破陣図」を作らせ、中書侍郎の許敬宗に文を作らせて石に刻み、その功を記させた。高延寿に鴻臚卿を、高恵真に司農卿を授けた。張亮もまた高麗と建安城の下で二度戦い、いずれも破ったので、長い囲みを並べて攻めた。
17安市城の土の山
八月,移營安市城東,李勣遂攻安市,擁延壽等降衆營其城下以招之。城中人堅守不動,每見太宗旄麾,必乘城鼓噪以拒焉。帝甚怒。李勣曰:「請破之日,男子盡誅。」城中聞之,人皆死戰。乃令江夏王道宗築土山,攻其城東南隅;高麗亦埤城增雉以相抗。李勣攻其西面,令拋石撞車壞其樓雉;城中隨其崩壞,即立木爲柵。道宗以樹條苞壤爲土,屯積以爲山,其中間五道加木,被土於其上,不舍晝夜,漸以逼城。道宗遣果毅都尉傅伏愛領隊兵于山頂以防敵,土山自高而陟,排其城,城崩。會伏愛私離所部,高麗百人自頹城而戰,遂據有土山而塹斷之,積火縈盾以自固。太宗大怒,斬伏愛以徇。命諸將擊之,三日不能克。
八月、陣営を安市城の東に移し、李勣はついに安市を攻め、延寿らの降った者たちを城の下に陣取らせて呼びかけた。城の中の人々は固く守って動かず、太宗の旗を見るたびに、必ず城に登って鼓を打ち喚いて防いだので、帝はたいそう怒った。李勣が「破る日には、男子をことごとく殺すことをお許しください」と言うと、城の中はこれを聞いて、人々はみな死を覚悟して戦った。そこで江夏王の道宗に命じて土の山を築かせ、城の東南の隅を攻めさせると、高麗もまた城を高くし狭間を増やして抗した。李勣は西側を攻め、抛石と撞車でその楼と狭間を壊させたが、城の中は崩れるにつれて、すぐに木を立てて柵を作った。道宗は木の枝に土を包んで積み上げて山とし、その中ほどの五つの道に木を渡し、その上に土をかぶせ、昼も夜も休まず、次第に城に迫った。道宗は果毅都尉の傅伏愛を遣わして隊の兵を率い、山の頂で敵を防がせたが、土の山がおのずと高くなって城を押し、城が崩れた。ちょうど伏愛が勝手に持ち場を離れていたところ、高麗の兵百人が崩れた城から出て戦い、ついに土の山を占めて壕を断ち、火を積み盾を巡らせて固めた。太宗は大いに怒り、伏愛を斬って引き回し、諸将に命じて攻めさせたが、三日たっても落とせなかった。
18城主に絹を賜る
太宗以遼東倉儲無幾,士卒寒凍,乃詔班師。曆其城,城中皆屏聲偃幟,城主登城拜手奉辭。太宗嘉其堅守,賜絹百匹,以勵事君之節。
太宗は、遼東に蓄えた穀物がいくらもなく、兵卒が寒さに凍えていたので、詔によって軍を返した。その城を通りかかると、城の中はみな声をひそめ旗を伏せ、城主は城に登って拝し、別れの言葉を奉った。太宗はその固く守ったことを褒め、絹百匹を賜って、君に仕える節操を励ました。
19一万四千人を買って放す
初。攻陷遼東城,其中抗拒王師,應沒爲奴婢者一萬四千人,並遣先集幽州,將分賞將士。太宗湣其父母妻子一朝分散,令有司准其直,以布帛贖之,赦爲百姓。其衆歡呼之聲,三日不息。高延壽自降後,常積歎,尋以憂死。惠真竟至長安。
はじめ遼東城を落としたとき、その中で唐の軍に抗したために奴婢として没収されるはずの者が一万四千人あり、先に幽州に集めておいて、将兵に分け与えようとしていた。太宗は、その父母や妻子が一朝にして散り散りになることを憐れみ、担当の役所に値を見積もらせ、布や絹で買い戻させ、赦して民とした。その人々の喜びの声は、三日のあいだやまなかった。高延寿は降ってから、つねに嘆きを重ね、ほどなく憂いのうちに亡くなった。恵真はついに長安に至った。
20二人の美女を帰す
二十年,高麗遣使來謝罪,並獻二美女。太宗謂其使曰:「歸謂爾主,美色者,人之所重。爾之所獻,信爲美麗。憫其離父母兄弟于本國,留其身而忘其親,愛其色而傷其心,我不取也。」並還之。
二十年、高麗が使いを遣わして罪を謝し、あわせて二人の美女を献じた。太宗はその使いに言った。「帰ってお前の主に伝えよ。美しい顔は人が重んじるものであり、お前たちが献じた者も、まことに美しい。しかし本国の父母兄弟と別れることを憐れむ。その身を留めてその親を忘れさせ、その顔を愛してその心を傷つけることは、私は取らない。」あわせて帰した。
21果たせなかった再征
二十二年,又遣右武衛將軍薛萬徹等往青丘道伐之,萬徹渡海入鴨綠水,進破其泊灼城,俘獲甚衆。太宗又命江南造大船,遣陝州刺史孫伏伽召募勇敢之士,萊州刺史李道裕運糧及器械,貯于烏胡島,將欲大舉以伐高麗。未行而帝崩。高宗嗣位,又命兵部尚書任雅相、左武衛大將軍蘇定方、左驍衛大將軍契苾何力等前後討之,皆無大功而還。
二十二年、また右武衛将軍の薛万徹らを遣わして青丘道から討たせると、万徹は海を渡って鴨緑水に入り、進んでその泊灼城を破り、捕らえた者はたいそう多かった。太宗はまた江南に命じて大きな船を造らせ、陝州刺史の孫伏伽を遣わして勇敢な兵を募り、萊州刺史の李道裕に軍糧と武具を運ばせて烏胡島に蓄えさせ、大いに軍を起こして高麗を討とうとした。出発しないうちに帝が亡くなった。高宗が位を継ぎ、また兵部尚書の任雅相、左武衛大将軍の蘇定方、左驍衛大将軍の契苾何力らに命じて前後に討たせたが、いずれも大きな功なく帰った。
22男生が唐へ逃げる
乾封元年,高藏遣其子入朝,陪位於太山之下。其年,蓋蘇文死,其子男生代爲莫離支,與其弟男建、男產不睦,各樹朋黨,以相攻擊。男生爲二弟所逐,走據國內城死守,其子獻誠詣闕求哀。詔令左驍衛大將軍契苾何力率兵應接之。男生脫身來奔,詔授特進、遼東大都督兼平壤道安撫大使,封玄菟郡公。十一月,命司空、英國公李勣爲遼東道行軍大總管,率裨將郭待封等以征高麗。
乾封元年、高蔵はその子を遣わして朝廷に参らせ、泰山の下で席に陪した。その年、蓋蘇文が亡くなり、その子の男生が代わって莫離支となったが、弟の男建・男産と睦まず、それぞれ仲間を立てて互いに攻め合った。男生は二人の弟に追われ、国内城に拠って死を覚悟して守り、その子の献誠を宮門に遣わして憐れみを求めた。詔によって左驍衛大将軍の契苾何力に兵を率いて迎え受けさせると、男生は身をかわして逃げて来た。詔によって特進・遼東大都督兼平壌道安撫大使を授け、玄菟郡公に封じた。十一月、司空・英国公の李勣に命じて遼東道行軍大総管とし、副将の郭待封らを率いて高麗を征たせた。
夾注 1
高蔵は宝蔵王である。 ― 訳者
23李勣が新城を得る
二年二月,勣度遼至新城,謂諸將曰:「新城是高麗西境鎮城,最爲要害。若不先圖,余城未易可下。」遂引兵於新城西南,據山築柵,且攻且守,城中窘迫,數有降者,自此所向克捷。高藏及男建遣太大兄男產將首領九十八人,持帛幡出降,且請入朝。勣以禮延接。男建猶閉門固守。
二年二月、李勣は遼水を渡って新城に至り、諸将に「新城は高麗の西の境の鎮の城で、もっとも要害である。先にこれを図らなければ、ほかの城を容易に落とすことはできない」と言い、こうして兵を率いて新城の西南で山に寄って柵を築き、攻めながら守ったので、城の中は窮し、降る者が続き、これより向かうところで勝った。高蔵と男建は太大兄の男産を遣わし、首領九十八人を率いて白い旗を持って出て降り、あわせて入朝を願ったので、李勣は礼をもって迎えた。男建はなお門を閉じて固く守った。
24平壌城が崩れる
總章元年九月,勣又移營于平壤城南,男建頻遣兵出戰,皆大敗。男建下捉兵總管僧信誠密遣人詣軍中,許開城門爲內應。經五日,信誠果開門,勣從兵入,登城鼓噪,燒城門樓,四面火起。男建窘急自刺,不死。十一月,拔平壤城,虜高藏、男建等。十二月,至京師,獻俘于含元宮。詔以高藏政不由己,授司平太常伯;男產先降,授司宰少卿;男建配流黔州;男生以鄉導有功,授右衛大將軍,封汴國公,特進如故。
総章元年九月、李勣はまた陣営を平壌城の南に移し、男建はしきりに兵を出して戦ったが、いずれも大きく敗れた。男建の下で兵を預かる総管であった僧の信誠が、ひそかに人を軍中に遣わし、城門を開けて内から応じようと申し出た。五日を経て、信誠はまことに門を開き、李勣の兵が続いて入り、城に登って鼓を打ち喚き、城門の楼を焼くと、四方に火が起こった。男建は追い詰められて自ら刺したが、死ななかった。十一月、平壌城を抜き、高蔵・男建らを捕らえた。十二月、都に至り、含元宮で捕虜を献じた。詔によって、高蔵は政が自分から出たものでないとして司平太常伯を授け、男産は先に降ったので司宰少卿を授け、男建は黔州へ流し、男生は道案内の功があったので右衛大将軍を授け、汴国公に封じ、特進はもとのままとした。
25安東都護府
高麗國舊分爲五部,有城百七十六,戶六十九萬七千;乃分其地置都督府九、州四十一、縣一百,又置安東都護府以統之。擢其酋渠有功者授都督、刺史及縣令,與華人參理百姓。乃遣左武衛將軍薛仁貴總兵鎮之,其後頗有逃散。
高麗国はもと五つの部に分かれ、城は百七十六、戸は六十九万七千であった。そこでその地を分けて都督府九、州四十一、県百を置き、また安東都護府を置いてこれを統べさせた。その地の長のうち功のある者を選んで都督・刺史および県令を授け、華人とともに民を治めさせ、左武衛将軍の薛仁貴を遣わして兵を総べて鎮めさせたが、その後、逃げ散る者がかなりあった。
26宝蔵王の流刑
儀鳳中,高宗授高藏開府儀同三司、遼東都督,封朝鮮王,居安東,鎮本蕃爲主。高藏至安東,潛與靺鞨相通謀叛。事覺,召還,配流邛州,並分徙其人,散向河南、隴右諸州,其貧弱者留在安東城傍。
儀鳳のころ、高宗は高蔵に開府儀同三司・遼東都督を授け、朝鮮王に封じ、安東に住んでもとの蕃を鎮める主とさせた。高蔵は安東に至ると、ひそかに靺鞨と通じて背こうと図ったが、事が明らかになり、呼び戻されて邛州に流され、あわせてその人々を分けて河南・隴右の諸州へ散らして移し、貧しく弱い者だけを安東城の傍らに留めた。
27高氏の血筋が絶える
高藏以永淳初卒,贈衛尉卿,詔送至京師,於頡利墓左賜以葬地,兼爲樹碑。垂拱二年,又封高藏孫寶元爲朝鮮郡王。聖曆元年,進授左鷹揚衛大將軍,封爲忠誠國王,委其統攝安東舊戶,事竟不行。二年,又授高藏男德武爲安東都督,以領本蕃。自是高麗舊戶在安東者漸寡少。分投突厥及靺鞨等,高氏君長遂絕矣!
高蔵は永淳の初めに亡くなり、衛尉卿を追贈し、詔によって都まで送らせ、頡利の墓の左に葬る地を賜り、あわせて碑を建てた。垂拱二年、また高蔵の孫の宝元を朝鮮郡王に封じ、聖暦元年、左鷹揚衛大将軍に進めて授け、忠誠国王に封じて、安東の旧い戸を統べさせようとしたが、事はついに行われなかった。二年、また高蔵の子の徳武を安東都督に授け、もとの蕃を率いさせた。これより安東にあった高麗の旧い戸は次第に少なくなり、突厥や靺鞨などへ分かれて入り、高氏の君長の血筋はついに絶えた。
28献誠の譲り
男生以儀鳳初卒于長安,贈并州大都督。子獻誠,授右衛大將軍,兼令羽林衛上下。天授中,則天嘗內出金銀實物,令宰相及南北衙文武官內擇善射者五人共賭之。內史張光輔先讓獻誠爲第一,獻誠復讓右玉鈐衛大將軍薛吐摩支,摩支又讓獻誠。既而獻誠奏曰:「陛下令簡能射者五人,所得者多非漢官。臣恐自此已後,無漢官工射之名,伏望停寢此射。」則天嘉而從之。
男生は儀鳳の初めに長安で亡くなり、并州大都督を追贈された。子の献誠は右衛大将軍を授けられ、あわせて羽林衛を率いた。天授のころ、則天はかつて宮中から金銀の宝物を出し、宰相と南北衙の文武官の中から弓の上手な者五人を選んで、ともに賭けて射させた。内史の張光輔がまず献誠に一番を譲ると、献誠はさらに右玉鈐衛大将軍の薛吐摩支に譲り、摩支はまた献誠に譲った。やがて献誠が申し上げた。「陛下は弓の上手な者五人を選ばせられましたが、選ばれた者はおおむね漢の官ではありません。臣はこれより後、漢の官に弓が上手だという名がなくなるのを恐れます。伏してお願いします。この弓の催しをお止めください。」則天は褒めてこれに従った。
29来俊臣の陥れ
時酷吏來俊臣嘗求貨於獻誠,獻誠拒而不答,遂爲俊臣所構,誣其謀反,縊殺之。則天后知其冤,贈右羽林衛大將軍,以禮改葬。
そのころ酷吏の来俊臣が、かつて献誠に賄賂を求めたが、献誠は退けて答えなかったので、ついに俊臣に仕組まれ、謀反と偽り訴えられて、縊り殺された。則天后はその無念を知り、右羽林衛大将軍を追贈し、礼をもって改めて葬った。