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百済百濟

旧唐書 東夷伝(旧唐書に記された東夷の記録) 舊唐書 東夷傳 · 劉昫ほか · 945年(後晋・開運2年) · 段落 16 · 漢字 2,607字 · 朗読 10.4分

旧唐書 東夷伝(旧唐書に記された東夷の記録) 全一巻 唐が見た三国最後の一世紀。扃堂で書を読む高麗の若者たち、蓋蘇文の政変、安市城の土山、白江口の四度の戦いと熊津の白馬の盟い、真徳女王の太平頌、そして高氏・扶余氏の代が絶える瞬間まで。

1六佐平の国

百濟國,本亦扶餘之別種,嘗爲馬韓故地,在京師東六千二百里,處大海之北,小海之南。東北至新羅,西渡海至越州,南渡海至倭國,北渡海至高麗。其王所居有東西兩城。所置內官曰內臣佐平,掌宣納事;內頭佐平,掌庫藏事;內法佐平,掌禮儀事;衛士佐平,掌宿衛兵事;朝廷佐平,掌刑獄事;兵官佐平,掌在外兵馬事。又外置六帶方,管十郡,其用法:叛逆者死,籍沒其家;殺人者,以奴婢三贖罪;官人受財及盜者,三倍追贓,仍終身禁錮。凡諸賦稅及風土所產,多與高麗同。其王服大袖紫袍,青錦褲,烏羅冠,金花爲飾,素皮帶,烏革履。官人盡緋爲衣,銀花飾冠。庶人不得衣緋紫。歲時伏臘,同於中國。其書籍有《五經》、子、史,又表疏並依中華之法。

百済国はもとより扶余の別種で、かつて馬韓の古い土地であった。都から東へ六千二百里、大海の北、小海の南に位置する。東北は新羅に至り、西へ海を渡れば越州に至り、南へ海を渡れば倭国に至り、北へ海を渡れば高麗に至る。王の住まいには東西二つの城がある。

置かれている内官は、内臣佐平が王命の出納を受け持ち、内頭佐平が倉庫を受け持ち、内法佐平が礼儀を受け持ち、衛士佐平が宿衛の兵を受け持ち、朝廷佐平が刑罰と訴訟を受け持ち、兵官佐平が外の兵馬を受け持つ。また外には六つの帯方を置いて、それぞれ十郡を管している。その法の使い方は、反逆した者は死刑にしてその家を没収し、人を殺した者は奴婢三人で罪をつぐない、官人で賄賂を受けたり盗んだりした者は三倍を取り立て、そのうえ終身官職につけない。あらゆる租税や土地の産物は、高麗と同じものが多い。

王は袖の大きな紫の袍と青い錦の袴を着け、黒い羅の冠に金の花を飾り、白い革の帯を締め、黒い革の靴をはく。官人はみな紅の衣を着て、銀の花で冠を飾る。庶民は紅や紫を着ることができない。季節ごとに伏日や臘日を祝うのは中国と同じである。書籍には五経と諸子と史書があり、上表や上疏もみな中華のきまりに従っている。

2果下馬を献じる

武德四年,其王扶餘璋遣使來獻果下馬。七年,又遣大臣奉表朝貢。高祖嘉其誠款,遣使就冊爲帶方郡王、百濟王。自是歲遣朝貢,高祖撫勞甚厚。因訟高麗閉其道路,不許來通中國,詔遣硃子奢往和之。又相與新羅世爲仇敵,數相侵伐。

武徳四年、その王の扶余璋が使いを遣わして果下馬を献じた。七年、また大臣を遣わして上表し朝貢したので、高祖はその誠意を褒め、使いを遣わして帯方郡王・百済王に冊封した。これより毎年使いを遣わして朝貢し、高祖はたいそう厚くねぎらった。そのついでに、高麗が道をふさいで中国と行き来させないと訴えたので、詔によって朱子奢を遣わして和解させた。また新羅とは代々の敵となって、たびたび互いに攻め合った。

夾注 1

扶余璋は武王である。 ― 訳者

3太宗の璽書

貞觀元年,太宗賜其王璽書曰:「王世爲君長,撫有東蕃。海隅遐曠,風濤艱阻,忠款之至,職貢相尋,尚想徽猷,甚以嘉慰!朕自祗承寵命,君臨區宇,思弘王道,愛育黎元。舟車所通,風雨所及,期之遂性,咸使乂安。新羅王金真平,朕之籓臣,王之鄰國。每聞遣師,征討不息,阻兵安忍,殊乖所望。朕已對王侄信福及高麗、新羅使人,具敕通和,咸許輯睦。王必須忘彼前怨,識朕本懷,共篤鄰情,即停兵革。」璋因遣使奉表陳謝,雖外稱順命,內實相仇如故。十一年,遣使來朝,獻鐵甲雕斧。太宗優勞之,賜彩帛三千段並錦袍等。

貞観元年、太宗はその王に璽書を下した。「王は代々君長となって東の蕃を安んじてきた。海の隅は遥かに遠く、風と波は険しいのに、忠誠は至り、朝貢は相次いでいる。その美しい心を思えば、まことに褒めるべく、慰めとなる。朕は寵命を謹んで受け継ぎ、天下に君臨するにあたり、王道を広め、民を愛して育てることを思い、船と車の通うところ、風と雨の及ぶところ、それぞれが生き方をまっとうし、みな安らかであることを願っている。新羅王の金真平は朕の蕃臣であり、王の隣国である。ところが聞くたびに、軍を出して征伐がやまないという。兵を頼んで残忍をよしとするのは、願うところにはなはだ背いている。朕はすでに王の甥の信福と、高麗・新羅の使者に対して、和を通ずるよう命じ、みな睦むことを許した。王はぜひとも以前の恨みを忘れ、朕の本心を知って、ともに隣としての情を厚くし、ただちに戦いをやめるがよい。」璋はそこで使いを遣わして上表し謝ったが、表向きは命に従うと言いながら、内心では実のところ以前のとおり敵としていた。十一年、使いを遣わして朝廷に参り、鉄の甲と彫りを施した斧を献じたので、太宗は厚くねぎらい、彩りの絹三千段と錦の袍などを下賜した。

4義慈王の冊封

十五年,璋卒,其子義慈遣使奉表告哀。太宗素服哭之,贈光祿大夫,賻物二百段,遣使冊命義慈爲柱國,封帶方郡王、百濟王。

十五年、璋が亡くなり、子の義慈が使いを遣わして上表し喪を告げた。太宗は素服して哭し、光禄大夫を追贈し、香典の品二百段を贈り、使いを遣わして義慈を柱国に冊命し、帯方郡王・百済王に封じた。

5四十の城を奪う

十六年,義慈興兵伐新羅四十餘城,又發兵以守之,與高麗和親通好,謀欲取党項城以絕新羅入朝之路。新羅遣使告急請救。太宗遣司農丞相里玄獎齎書告諭兩蕃,示以禍福。及太宗親征高麗,百濟懷二,乘虛襲破新羅十城。二十二年,又破其十餘城。數年之中,朝貢遂絕。

十六年、義慈は兵を起こして新羅の四十余りの城を攻め、さらに兵を出してこれを守らせ、高麗と和親して誼を通じ、党項城を奪って新羅が朝廷に参る道を断とうと図った。新羅は使いを遣わして急を告げ、救いを求めた。太宗は司農丞の相里玄奨に書を持たせて遣わし、二つの蕃国を諭し、禍と福を示した。太宗が自ら高麗を攻めると、百済は二心を抱き、隙に乗じて新羅の十城を襲って破った。二十二年、さらにその十余りの城を破った。数年のうちに、朝貢はついに絶えた。

6再び朝貢する

高宗嗣位,永徽二年,始又遣使朝貢。使還,降璽書與義慈曰:

高宗が位を継ぎ、永徽二年、はじめてまた使いを遣わして朝貢した。使いが帰るとき、義慈に璽書を下した。

7奪った城を返せ

至如海東三國,開基自久,並列疆界,地實犬牙。近代已來,遂構嫌隙。戰爭交起,略無寧歲。遂令三韓之氓,命懸刀俎,尋戈肆憤,朝夕相仍。朕代天理物,載深矜湣。去歲王及高麗、新羅等使並來入朝,朕命釋茲讎怨,更敦款穆。新羅使金法敏奏書:「高麗、百濟,脣齒相依,競舉兵戈,侵逼交至。大城重鎮,並爲百濟所並;疆宇日蹙,威力並謝。乞詔百濟,令歸所侵之城。若不奉詔,即自興兵打取。但得故地,即請交和。」朕以其言既順,不可不許。昔齊桓列土諸侯,尚存亡國;況朕萬國之主,豈可不恤危籓!王所兼新羅之城,並宜還其本國;新羅所獲百濟俘虜,亦遣還王。然後解患釋紛,韜戈偃革,百姓獲息肩之願,三蕃無戰爭之勞。比夫流血邊亭,積屍疆場,耕織並廢,士女無聊,豈可同年而語矣!王若不從進止,朕已依法敏所請,任其與王決戰;亦令約束高麗,不許遠相救恤。高麗若不承命,即令契丹諸蕃渡遼澤入抄掠。王可深思朕言,自求多福,審圖良策,無貽後悔。

「海東の三国について言えば、国を開いてから久しく、境を並べ、土地は実に犬の歯のように入り組んでいる。近ごろになって、ついに互いの隔てを作り、戦いが交互に起こって、安らかな年がほとんどない。そのため三韓の民は命を包丁とまな板の上に懸け、矛を取って怒りをふるうことが朝夕に続いている。朕は天に代わって万物を治めるにあたり、深く哀れに思う。昨年、王と高麗・新羅などの使いがそろって朝廷に参ったとき、朕はこの恨みを解いて、あらためて睦みを厚くするよう命じた。新羅の使いの金法敏が書を奉って申し上げた。〈高麗と百済は唇と歯のように寄り合い、競って兵を挙げ、侵し迫ることが交互に至ります。大きな城や重い鎮はみな百済に併せられ、領土は日ごとに縮み、威力もともに衰えました。どうか百済に詔を下し、侵した城を返させてください。もし詔を奉じないなら、すぐに自ら兵を起こして打ち取らせてください。もとの土地を得られれば、すぐに和を請います。〉朕はその言葉が理にかなっているので、許さないわけにはいかなかった。昔、斉の桓公は列土の諸侯でありながら、なお滅びる国を存えさせた。まして朕は万国の主である。どうして危うい蕃国を憐れまずにおられよう。王が併せた新羅の城は、みなその本国に返すのがよい。新羅が得た百済の捕虜も、また王のもとへ返させる。そうしてのちに患いを解き、もつれを放ち、矛を納め甲を伏せれば、民は肩を休める願いを得て、三つの蕃国に戦いの労はなくなる。あの辺りの亭に血を流し、戦場に屍を積み、耕しも織りもともに廃れ、男も女も頼るところがないのと、どうして同じ年に並べて語れよう。王がもし朕の指示に従わないなら、朕はすでに法敏の請いのとおり、王と決戦することを許すであろう。また高麗を取り締まって、遠くから助けることを許さない。高麗がもし命を承けないなら、すぐに契丹など諸蕃に命じて遼沢を渡って入り、奪い取らせる。王は朕の言葉を深く思い、自ら多くの福を求め、良い策をよく図って、後の悔いを残さないようにせよ。」

8海東の曽・閔の最期

六年,新羅王金春秋又表稱百濟與高麗、靺鞨侵其北界,已沒三十餘城。顯慶五年,命左衛大將軍蘇定方統兵討之,大破其國。虜義慈及太子隆、小王孝演、偽將五十八人等送于京師,上責而宥之。其國舊分爲五部,統郡三十七,城二百,戶七十六萬。至是乃以其地分置熊津、馬韓、東明等五都督府,各統州縣,立其酋渠爲都督、刺史及縣令。命右衛郎將王文度爲熊津都督,總兵以鎮之。義慈事親以孝行聞,友于兄弟,時人號「海東曾、閔」。及至京,數日而卒。贈金紫光祿大夫、衛尉卿,特許其舊臣赴哭。送就孫皓、陳叔寶墓側葬之,並爲豎碑。

六年、新羅王の金春秋がまた上表して、百済が高麗・靺鞨とともにその北の境を侵し、すでに三十余りの城が落ちたと述べた。顕慶五年、左衛大将軍の蘇定方に命じて兵を率いて討たせ、その国を大いに破った。義慈と太子の隆、小王の孝演、偽の将五十八人などを捕虜として都に送ると、帝は責めたうえで許した。その国はもと五つの部に分かれ、三十七の郡、二百の城を統べ、戸は七十六万であった。ここに至ってその地を分けて熊津・馬韓・東明など五つの都督府を置き、それぞれ州県を統べさせ、その地の長を立てて都督・刺史および県令とした。右衛郎将の王文度に命じて熊津都督とし、兵を総べてこれを鎮めさせた。義慈は親に仕えることが孝行として知られ、兄弟と仲がよく、当時の人は「海東の曽子・閔子騫」と呼んだが、都に着いて数日で亡くなった。金紫光禄大夫・衛尉卿を追贈し、特にその旧臣が弔いに来ることを許し、孫皓・陳叔宝の墓の傍らに送って葬り、あわせて碑を建てた。

9周留城の復興軍

文度濟海而卒。百濟僧道琛、舊將福信率衆據周留城以叛。遣使往倭國,迎故王子扶余豐,立爲王。其西部、北部並翻城應之。時郎將劉仁願留鎮於百濟府城,道琛等引兵圍之。帶方州刺史劉仁軌代文度統衆,便道發新羅兵合契以救仁願,轉鬥而前,所向皆下。道琛等於熊津江口立兩柵以拒官軍,仁軌與新羅兵四面夾擊之,賊衆退走入柵,阻水橋狹,墮水及戰死萬餘人。道琛等乃釋仁願之圍,退保任存城。新羅兵士以糧盡引還,時龍朔元年三月也。

文度は海を渡る途中で亡くなった。百済の僧の道琛と、もとの将の福信が人々を率いて周留城に拠って背き、倭国に使いを遣わして、もとの王子の扶余豊を迎えて王に立てた。その西部と北部は、みな城を翻して応じた。そのとき郎将の劉仁願が百済の府城に留まって守っていたが、道琛らは兵を率いてこれを囲んだ。帯方州刺史の劉仁軌が文度に代わって人々を統べ、近道から新羅の兵を出して合わせ、仁願を救い、戦いながら進むと、向かうところはみな降った。道琛らは熊津江の口に二つの柵を立てて官軍を防いだが、仁軌は新羅の兵と四方から挟み撃ちにし、賊の軍は退いて柵に逃げ込もうとしたが、水にさえぎられ橋が狭く、水に落ちた者と戦死した者が一万余りであった。道琛らはそこで仁願の囲みを解き、退いて任存城を守った。新羅の兵士は食糧が尽きて引き返した。時に龍朔元年三月である。

10道琛と福信

於是道琛自稱領軍將軍,福信自稱霜岑將軍,招誘叛亡,其勢益張。使告仁軌曰:「聞大唐與新羅約誓,百濟無問老少,一切殺之。然後以國府新羅。與其受死,豈若戰亡!所以聚結自固守耳!」仁軌作書,具陳禍福,遣使諭之。道琛等恃衆驕倨,置仁軌之使於外館。傳語謂曰:「使人官職小,我是一國大將,不合自參。」不答書遣之。尋而福信殺道琛,並其兵衆,扶余豐但主祭而已。

ここで道琛は自ら領軍将軍と称し、福信は自ら霜岑将軍と称して、背いて逃げた者たちを招き寄せたので、その勢いはいよいよ張った。人をやって仁軌に告げさせた。「聞くところでは、大唐は新羅と誓いを交わし、百済の者は老いも若きも問わずすべて殺し、そのうえで国を新羅に与えることにしたという。死を受けるくらいなら、戦って死ぬ方がましではないか。だから集まって自ら守っているだけだ。」仁軌は書を作り、禍と福を詳しく述べて、人を遣わして諭した。道琛らは人数を頼んでおごり高ぶり、仁軌の使いを外の客館に置き、言葉を伝えて「使いの官職が低い。わたしは一国の大将だ。自ら会うのにふさわしくない」と言い、返書も出さずに帰した。やがて福信は道琛を殺してその兵を併せ、扶余豊はただ祭りを主るだけとなった。

11白江の口の四つの戦い

二年七月,仁願、仁軌等率留鎮之兵,大破福信余衆于熊津之東,拔其支羅城及尹城、大山、沙井等柵,殺獲甚衆。仍令分兵以鎮守之。福信等以真峴城臨江高險,又當沖要,加兵守之。仁軌引新羅之兵乘夜薄城,四面攀堞而上,比明而入據其城,斬首八百級,遂通新羅運糧之路。仁願乃奏請益兵,詔發淄、青、萊、海之兵七千人,遣左威衛將軍孫仁師統衆浮海赴熊津,以益仁願之衆。時福信既專其兵權,與撫余豐漸相猜貳。福信稱疾,臥於窟室,將候扶余豐問疾,謀襲殺之。扶余豐覺而率其親信掩殺福信,又遣使往高麗及倭國請兵以拒官軍。孫仁師中路迎擊,破之。遂與仁願之衆相合,兵勢大振。於是仁師、仁願及新羅王金法敏帥陸軍進,劉仁軌及別帥杜爽、扶余隆率水軍及糧船,自熊津江往白江以會陸軍,同趨周留城。仁軌遇扶余豐之衆于白江之口,四戰皆捷。焚其舟四百艘,賊衆大潰,扶余豐脫身而走。偽王子扶余忠勝、忠志等率士女及倭衆並降。百濟諸城皆復歸順。孫仁師與劉仁願等振旅而還。詔劉仁軌代仁願率兵鎮守。乃授扶余隆熊津都督,遣還本國,共新羅和親,以招輯其餘衆。

二年七月、仁願・仁軌らは留まって守っていた兵を率いて、熊津の東で福信の残りの軍を大いに破り、その支羅城および尹城・大山・沙井などの柵を抜き、殺し捕らえた者がはなはだ多かった。そのうえ兵を分けてこれを守らせた。福信らは真峴城が江に臨んで高く険しく、しかも要所に当たるので、兵を加えて守らせた。仁軌は新羅の兵を率いて夜に乗じて城に迫り、四方から狭間をよじ登り、夜明けごろに城に入って占め、八百級を斬り、ついに新羅が食糧を運ぶ道を通した。仁願はそこで兵を増やすよう願い出たので、詔によって淄・青・萊・海の兵七千人を出し、左威衛将軍の孫仁師を遣わして軍を率い、海を渡って熊津に赴かせ、仁願の軍に加えさせた。

そのとき福信はすでに兵権を一人で握り、扶余豊とは次第に互いに疑い隔てるようになった。福信は病と称して洞穴の部屋に臥し、扶余豊が見舞いに来るのを待って、襲って殺そうと図った。扶余豊はこれに気づき、親しい手下を率いて福信を襲い殺し、また高麗と倭国に使いを遣わして兵を請い、官軍を防いだ。孫仁師は途中で迎え撃ってこれを破り、ついに仁願の軍と合わさって、軍の勢いは大いに振るった。ここで仁師・仁願と新羅王の金法敏は陸軍を率いて進み、劉仁軌と別将の杜爽、扶余隆は水軍と食糧船を率い、熊津江から白江へ向かって陸軍と合わさり、ともに周留城へ進んだ。仁軌は白江の口で扶余豊の軍に出会い、四度戦ってみな勝ち、その船四百艘を焼いたので、賊の軍は大いに崩れ、扶余豊は身をかわして逃げた。偽の王子の扶余忠勝・忠志らは男女と倭の軍を率いてみな降り、百済の諸城はみな帰順した。孫仁師と劉仁願らは軍を整えて帰り、詔によって劉仁軌が仁願に代わって兵を率いて鎮め守った。そこで扶余隆に熊津都督を授けて本国に帰し、新羅と和親して、その残りの人々を招き集めさせた。

12熊津の白馬の盟い

麟德二年八月,隆到熊津城,與新羅王法敏刑白馬而盟。先祀神祇及川穀之神,而後歃血。其盟文曰:

麟徳二年八月、隆は熊津城に至り、新羅王の法敏と白い馬を割いて盟った。先に天地の神と川や谷の神を祀り、そののちに血をすすった。その盟いの文は次のとおりである。

13盟いの文

往者百濟先王,迷於逆順,不敦鄰好,不睦親姻。結托高麗,交通倭國,共爲殘暴,侵削新羅,破邑屠城,略無寧歲。天子憫一物之失所,憐百姓之無辜,頻命行人,遣其和好。負險恃遠,侮慢天經。皇赫斯怒,恭行吊伐,旌旗所指,一戎大定。固可瀦宮汙宅,作誡來裔,塞源拔本,垂訓後昆。然懷柔伐叛,前王之令典;興亡繼絕,往哲之通規。事必師古,傳諸曩冊。故立前百濟太子司稼正卿扶余隆爲熊津都督,守其祭祀,保其桑梓。依倚新羅,長爲與國,各除宿憾,結好和親。恭承詔命,永爲籓服。仍遣使人右威衛將軍魯城縣公劉仁願親臨勸諭,具宣成旨,約之以婚姻,申之以盟誓。刑牲歃血,共敦終始;分災恤患,恩若弟兄。祗奉綸言,不敢失墜,既盟之後,共保歲寒。若有棄信不恆,二三其德,興兵動衆,侵犯邊陲,明神鑒之,百殃是降,子孫不昌,社稷無守,禋祀磨滅,罔有遺餘。故作金書鐵契,藏之宗廟,子孫萬代,無或敢犯。神之聽之,是饗是福。

「過ぎた日、百済の先の王は、逆らうことと従うことの別に迷い、隣との誼を厚くせず、縁者とも睦まなかった。高麗と結び、倭国と行き来して、ともに残虐をはたらき、新羅を侵して削り、邑を破り城を屠って、安らかな年がほとんどなかった。天子は一つの物でも所を失うのを哀れみ、罪のない民を憐れんで、たびたび使者に命じて和を勧めさせた。しかし険しさを頼み遠さを恃んで、天の道を侮った。皇帝はここに大いに怒り、謹んで弔い伐つことを行われ、旗の指すところ、一たびの戦いで大いに定まった。まことに宮を池とし屋敷を沼として後の世への戒めとし、源をふさぎ根を抜いて子孫に教えを垂れてもよかった。しかし、なつく者をいたわり背く者を伐つのは先の王たちの良いきまりであり、亡びたものを興し絶えたものを継ぐのは昔の賢者に共通する規範である。事は必ず古を師とすべきことが、過ぎた書物に伝わっている。それゆえ、さきの百済の太子である司稼正卿の扶余隆を立てて熊津都督とし、その祭りを守らせ、その故郷を保たせる。新羅に寄りかかって、長く味方の国となり、それぞれ古い恨みを除き、誼を結んで和親せよ。謹んで詔命を承け、永く蕃国として仕えよ。そこで使者として右威衛将軍・魯城県公の劉仁願を遣わし、自ら臨んで勧め諭し、皇帝の意を詳しく述べさせ、婚姻をもって約し、盟いをもって重ねる。いけにえを割いて血をすすり、ともに初めと終わりを厚くし、災いを分かち患いをいたわって、恵みは兄弟のようであれ。詔の言葉を謹んで奉じ、あえて落とすことなく、盟ったのちは、ともに寒い季節の節操を保て。もし信を捨てて変わらぬことができず、その徳を二つ三つにし、兵を起こし人を動かして辺境を侵すなら、明らかな神がこれを見て、あらゆる災いを下すであろう。子孫は栄えず、社稷を守る者はなく、祭りはすり減って消え、残るものはない。それゆえ金の文字と鉄の契りを作って宗廟に納める。子孫万代、決してあえて犯すことがあってはならない。神よ、これを聞き、これを享け、福を下したまえ。」

14劉仁軌の文である

劉仁軌之辭也。歃訖,埋幣帛於壇下之吉地,藏其盟書于新羅之廟。仁願、仁軌等既還,隆懼新羅,尋歸京師。

劉仁軌が作った文である。血をすすり終えると、幣帛を壇の下の良い地に埋め、その盟いの書は新羅の廟に納めた。仁願・仁軌らが帰ると、隆は新羅を恐れて、ほどなく都に戻った。

15帰れなかった扶余隆

儀鳳二年,拜光祿大夫、太常員外卿、兼熊津都督、帶方郡王,令歸本蕃,安輯餘衆。時百濟本地荒毀,漸爲新羅所據,隆竟不敢還舊國而卒。

儀鳳二年、光禄大夫・太常員外卿を授け、熊津都督・帯方郡王を兼ねさせ、もとの蕃に帰って残りの人々を安んじ集めるよう命じた。そのとき百済の本土は荒れ廃れ、次第に新羅の占めるところとなっていたので、隆はついに旧い国へ帰ることができないまま亡くなった。

16百済の血筋が絶える

其孫敬,則天朝襲封帶方郡王、授衛尉卿。其地自此爲新羅及渤海靺鞨所分,百濟之種遂絕。

その孫の敬は、則天の朝廷で帯方郡王を継いで封ぜられ、衛尉卿を授けられた。その地はこれより新羅と渤海靺鞨とに分けられ、百済の血筋はついに絶えた。