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日本

旧唐書 東夷伝(旧唐書に記された東夷の記録) 舊唐書 東夷傳 · 劉昫ほか · 945年(後晋・開運2年) · 段落 4 · 漢字 420字 · 朗読 1.7分

旧唐書 東夷伝(旧唐書に記された東夷の記録) 全一巻 唐が見た三国最後の一世紀。扃堂で書を読む高麗の若者たち、蓋蘇文の政変、安市城の土山、白江口の四度の戦いと熊津の白馬の盟い、真徳女王の太平頌、そして高氏・扶余氏の代が絶える瞬間まで。

1日の昇る側から取った名

日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本爲名。或曰:「倭國自惡其名不雅,改爲日本。」或云:「日本舊小國,併倭國之地。」其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。又云:「其國界東西南北各數千里,西界、南界咸至大海,東界、北界有大山爲限,山外卽毛人之國。」

日本国は、倭国の別種である。その国が日の昇る側にあるので、日本を名とした。ある人は「倭国は自らその名が上品でないのを嫌って、日本と改めた」と言い、ある人は「日本はもともと小さな国で、倭国の地を併せた」と言う。その国の人で朝廷に参る者は、自分を誇って大きく見せ、事実のとおりに答えない者が多いので、中国はこれを疑っている。また「その国の境は東西南北それぞれ数千里で、西の境と南の境はいずれも大海に至り、東の境と北の境は大きな山で限られ、山の外はすなわち毛人(毛人)の国である」とも言う。

2朝臣真人

長安三年,其大臣朝臣真人來貢方物,朝臣真人者,猶中國戶部尚書,冠進德冠,其項爲花,分而四散,身服紫袍,以帛爲腰帶。真人好讀經史,觧屬文,容止温雅。則天宴之於麟德殿,授司膳卿,放還本國。開元初,又遣使來朝,因請儒士授經。詔四門助教趙玄默就鴻臚寺教之,乃遺玄默闊幅布以爲束修之禮,題云「白龜元年調布」。人亦疑其偽此題。所得錫賚,盡市文籍,泛海而還。

長安三年、その大臣の朝臣真人(あそみのまひと)が来て土地の産物を献じた。朝臣真人は中国の戸部尚書のようなもので、進徳冠をかぶり、その頂は花の形で、四方に分かれて広がっている。身には紫の袍を着て、絹を腰帯としていた。真人は経書と史書を読むのを好み、文を作ることもでき、立ち居ふるまいは穏やかで上品であった。則天は麟徳殿で宴を開き、司膳卿を授けて本国へ帰した。開元の初めにも使いを遣わして朝廷に参り、あわせて儒者に経書を教えてもらいたいと願った。詔によって四門助教の趙玄黙が鴻臚寺に出向いて教えた。そこで玄黙に幅の広い布を束脩の礼として贈ったが、それには「白亀元年の調布」と書かれていて、人々はこの書き付けも偽りではないかと疑った。賜り物として得たものはすべて書籍を買うのに使い、海を渡って帰っていった。

3朝衡と名を改める

其偏使朝臣仲滿,慕中國之風,因留不去,改姓名爲朝衡,仕歷左補闕、儀王友。衡留京師五十年,好書籍,放歸鄉,逗留不去。天寶十二年,又遣使貢。上元中,擢衡爲左散騎常侍、鎮南都護。

その副使の朝臣仲満(なかまろ)は中国の風を慕い、そのまま留まって去らず、姓名を朝衡と改めて、左補闕・儀王友を歴任した。衡は都に五十年留まり、書籍を好み、故郷へ帰るのを許されても、ためらって去らなかった。天宝十二年、また使いを遣わして朝貢した。上元のころ、衡を左散騎常侍・鎮南都護に引き上げた。

4橘免勢と空海

貞元二十年,遣使來朝,留學生橘免勢、學問僧空海。元和元年,日本國使判官高階真人上言:「前件學生,藝業稍成,願歸本國,便請與臣同歸。」從之。開成四年,又遣使朝貢。

貞元二十年、使いを遣わして朝廷に参り、留学生の橘免勢(たちばなのはやなり)と学問僧の空海を留めた。元和元年、日本国の使いの判官である高階真人(たかしなのまひと)が「さきの学生たちは学業がほぼ成りましたので、本国に帰ることを願っております。どうか臣とともに帰らせてください」と申し上げたので、これに従った。開成四年、また使いを遣わして朝貢した。