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順道

海東高僧伝(海の東の国の高僧たちの伝) 海東高僧傳 · 覚訓 · 1215年 · 段落 2 · 漢字 506字 · 朗読 2.0分

海東高僧伝(海の東の国の高僧たちの伝) 全一巻 韓国に残る最も古い僧伝。覚訓が王の命を受けて1215年に著したので、三国遺事より六十六年早い。高句麗に初めて来た順道、百済へ渡った摩羅難陀、新羅で首が落ちると白い乳が噴き出したという厭髑、世俗五戒を授けた円光、そして那爛陀寺に留まりそこで生涯を終えた阿離耶跋摩と慧業まで、十八人の伝が収められている。真興王が源花を立て花郎を置いた経緯もここに記されている。

1順道 — 符堅が使者とともに仏像と経文を送って来る

釋順道。不知何許人也。邁德高標。慈忍濟物。誓志弘宣。周流震旦。移家就機。誨人不倦。句高麗第十七解味留王〔或云小獸林王〕二年壬申夏六月。秦符堅發使及浮屠順道。送佛像經文。於是君臣以會遇之禮。奉迎于省門。投誠敬信。感慶流行。尋遣使迴謝。以貢方物。或說.順道從東晉來。始傳佛法則秦晉莫辨。何是何非。師既來異國。傳西域之慈燈。懸東暆之慧日。示以因果。誘以禍福。蘭薰霧潤。漸漬成習。然世質民淳。不知所以裁之。師雖蘊深解廣。未多宣暢。自摩騰入後漢。至此二百餘年.後四年。神僧阿道至自魏〔存古文。〕始創省門寺。以置順道。記云以省門為寺。今興國寺是也。後訛寫為肖門。又剏伊弗蘭寺。以置阿道。古記云興福寺是也。此海東佛教之始。惜乎.之人也.之德也。宜書竹帛以宣懿績。其文辭不少概見。何哉。然世之使於西方。不辱君命。必侍賢者而能之。則特至他邦肇行未曾有之大事。非其有大智慧.大謀猷。得不思議通力。其何以行之哉。以此知其為異人。斯亦法蘭.僧會之流乎。

釈順道(しゃくじゅんどう)は、どこの人であるか分からない。徳に努めて高くこれを掲げ、慈悲と忍耐で人を救い、法を広く宣べることを誓って、震旦(しんたん)をあまねく巡り歩いた。家を移して人の機根に近づき、人を教えることに飽きることがなかった。

高句麗の第十七代解味留王〔小獣林王ともいう〕の二年、壬申(じんしん)の夏六月、秦の符堅(ふけん)が使者と僧の順道を遣わし、仏像と経文を送ってきた。そこで君臣は人を迎える礼をもって省門(しょうもん)でこれを奉じ迎え、誠を尽くして敬い信じたので、喜びが流れ広がった。やがて使者を返して謝意を述べ、その地の産物を献じた。ある説では順道は東晋から来たともいう。すると仏法が初めて伝わったのが秦(しん)か晋(しん)か、見分けがつかない。どちらが正しく、どちらが誤りなのか。

師はすでに異国に来て、西域の慈悲の灯を伝え、東暆(とうい)に智慧の日を懸け、因果を示し、禍福によって導いた。蘭の薫りや霧の湿りのように、少しずつ染みこんで習いとなった。しかし世は飾らず民は素朴で、これをどう裁ち整えるべきかを知らなかった。師は深く蓄え広く解していたが、多くを宣べ広めることはできなかった。摩騰(まとう)が後漢に入ってからここに至るまで、二百余年である。

その四年の後、神僧の阿道(あどう)が魏から来た。〔古い文のままにしておく。〕はじめて省門寺を建てて順道を置いた。記録には省門を寺としたとあり、今の興国寺がそれである。のちに誤って写され肖門(しょうもん)となった。また伊弗蘭寺(いふつらんじ)を建てて阿道を置いた。古い記録に興福寺というのがそれである。これが海東の仏教のはじまりである。

惜しいことだ。その人がらよ、その徳よ。まさに竹や帛(きぬ)に書き記してその美しい功績を世に伝えるべきであったのに、その文章のあらましさえ見ることができない。どうしたことだろうか。しかし世において、西方に使いして君命を辱めないということは、必ず賢い者でなければできないことである。まして他国に至って、いまだかつてない大事を初めて行うのであればなおさらだ。大いなる智慧と大いなる謀(はか)りごとがあり、思いもよらぬ神通の力を得た者でなければ、どうしてこれを行えただろうか。これによって彼が並の人でなかったと分かる。これもまた法蘭(ほうらん)や僧会(そうえ)の輩(ともがら)ではないか。

2賛 — 順道を伝の第一に置く

贊曰:古者三韓鼎峙。開國稱王。彼佛聲光蔑有其兆。及感應道交。賢德聿來。以赴機叩。易曰.感而遂通。天下之故。順道有之矣。始予躬詣所謂興國興福。因有綴文記事之志。無緣以發之。今謬承景命。乃以順道為傳首云。

賛(さん)じて言う。

昔、三韓が鼎(かなえ)の足のように並び立ち、国を開いて王と称したとき、あの仏の声と光はその兆しさえなかった。感応の道が互いに交わるに至って、はじめて賢い徳がやって来て、人の機根の叩くところに応じた。『易』に「感じてついに通ずるのが天下のゆえんである」とあるが、順道はこれを備えていた。

はじめ、私はみずから、いわゆる興国寺と興福寺に行ってみた。それによって文を綴り事を記そうという志を抱いたが、それを果たす縁がなかった。いま、おそれながら大きな命を承(う)けたので、順道を伝の第一に置くのである。