いにしえの文 › 淮南子(淮南の学士たちの書)

俶真訓

淮南子(淮南の学士たちの書) 淮南子 · 劉安と文客たち · 紀元前139年頃 · 段落 27 · 漢字 5,377字 · 朗読 21.5分

淮南子(淮南の学士たちの書) 漢の淮南王・劉安が文客たちとともに編んだ書である。道徳経・荘子・列子に続く道家の四番目の位置に置かれるが、一人の声ではなく、幾つもの手が分けて書いた百科に近い。天と地の枠組み(天文・地形・時則)、人の精神と治め、兵法と箴言までを一つの家に全部入れてある。 嫦娥が西王母の不死の薬を盗んで月へ逃げたという話が初めて記されたところが覧冥訓である。今に伝わる月の神話の根がここの一行である。 説山訓と説林訓の二篇は短い箴言を次々に並べており、道応訓は物語五十五段のそれぞれを「ゆえに老子が言うには」で結ぶ。古い話を道徳経の句に一つずつ合わせてみたことになる。 時則訓は東方の果てを「碣石山を過ぎ、朝鮮を過ぎる」と定め、人間訓は秦の始皇が長い城を築いて「東は朝鮮に結んだ」と記す。漢の初めに朝鮮がどのあたりと考えられていたかを示す二箇所である。

有始者,有未始有有始者,有未始有夫未始有有始者。有有者,有無者,有未始有有無者,有未始有夫未始有有無者。

始まりがあるものがあり、始まりがあることがまだ有るに至らないものがあり、始まりがあることがまだ有るに至らないことさえまだ有るに至らないものがある。有るものがあり、無いものがあり、有ると無いとがまだ有るに至らないものがあり、有ると無いとがまだ有るに至らないことさえまだ有るに至らないものがある。

所謂有始者,繁憤未發,萌兆牙櫱,未有形埒垠堮,無無蝡蝡,將欲生興而未成物類。有未始有有始者,天氣始下,地氣始上,陰陽錯合,相與優游競暢于宇宙之間,被德含和,繽紛蘢蓯,欲與物接而未成兆朕。有未始有夫未始有有始者,天含和而未降,地懷氣而未揚,虛無寂寞,蕭條霄雿,無有仿佛,氣遂而大通冥冥者也。有有者,言萬物摻落,根莖枝葉,青蔥苓蘢,萑蔰炫煌,蠉飛蝡動,蚑行噲息,可切循把握而有數量。有無者,視之不見其形,聽之不聞其聲,捫之不可得也,望之不可極也,儲與扈冶,浩浩瀚瀚,不可隱儀揆度而通光耀者。有未始有有無者,包裹天地,陶冶萬物,大通混冥,深閎廣大,不可為外,析豪剖芒,不可為內,無環堵之宇而生有無之根。有未始有夫未始有有無者,天地未剖,陰陽未判,四時未分,萬物未生,汪然平靜,寂然清澄,莫見其形,若光燿之間於無有,退而自失也,曰:「予能有無,而未能無無也。及其為無無,至妙何從及此哉!」

いわゆる始まりがあるものとは、こんもりと膨らんでまだ発せず、芽や兆しが起こりながら、まだ形も境も際もなく、うごめきながら今にも生まれ起きようとして、まだ物のたぐいを成していないものである。始まりがあることがまだ有るに至らないものとは、天の気がはじめて降り、地の気がはじめて昇り、陰陽が交じり合って、互いにゆるやかに遊び競って宇宙の間に広がり、徳を被り和を含み、入り乱れて盛んでありながら、物と接しようとしてまだ兆しを成していないものである。始まりがあることがまだ有るに至らないことさえまだ有るに至らないものとは、天が和を含みながらまだ降さず、地が気を懐きながらまだ揚げず、虚しく無く、静かに寂しく、ひろがり空しく、ほのかなものさえ有らず、気がついに大きく通じて暗く暗いものである。有るものがあるとは、万物が分かれ落ち、根・茎・枝・葉が青々と茂り、彩り輝き、飛び回り蠢き、歩き息をして、触れ辿り握ることができ、数と量があることをいう。無いものがあるとは、見てもその形が見えず、聴いてもその声が聞こえず、探っても得られず、望んでも極めきれず、ひろびろと果てしなく、測り量ってそっと見積もることができないのに、光を通すものである。有ると無いとがまだ有るに至らないものとは、天地を包みこみ、万物を陶い鋳て、大きく通じて混じり暗く、深く広く大きくて、これより外を考えられず、毛を割き芒を裂いても、これより内を考えられず、ひと囲いの家すら持たずに、有と無の根を生むものである。有ると無いとがまだ有るに至らないことさえまだ有るに至らないものとは、天地がまだ分かれず、陰陽がまだ判れず、四季がまだ分かれず、万物がまだ生まれず、ひろびろと平らかに静まり、しんと清く澄んで、その形を見た者がない。光が無と有のあいだに差して、退いて自ら失せるようであり、こういう。「私は無を有つことはできるが、まだ無を無くすことはできない。その無を無くすことに至れば、至妙なものがどうしてここに及びえよう。」

夫大塊載我以形,勞我以生,逸我以老,休我以死。善我生者,乃所以善我死也。夫藏舟於壑,藏山於澤,人謂之固矣。雖然,夜半有力者負而趨,寐者不知,猶有所遁。若藏天下於天下,則無所遁其形矣。

そもそも大いなる土塊は、私を形として載せ、生によって私を労し、老いによって私を安らがせ、死によって私を休ませる。私の生をよくするものは、すなわち私の死をよくするものである。そもそも舟を谷に隠し、山を沢に隠せば、人は堅いと思う。しかし夜半に力ある者が背負って走れば、眠っている者は気づかない。やはり逃れ去る隙があるのだ。もし天下を天下に隠せば、その形が逃れ去る所はない。

物豈可謂無大揚攉乎?一範人之形而猶喜。若人者,千變萬化而未始有極也。弊而復新,其為樂也,可勝計邪!譬若夢為鳥而飛於天,夢為魚而沒於淵,方其夢也,不知其夢也,覺而後知其夢也。今將有大覺,然後知今此之為大夢也。始吾未生之時,焉知生之樂也?今吾未死,又焉知死之不樂也?昔公牛哀轉病也,七日化為虎。其兄掩戶而入覘之,則虎搏而殺之。是故文章成獸,爪牙移易,志與心變,神與形化。方其為虎也,不知其嘗為人也;方其為人,不知其且為虎也。二者代謝舛馳,各樂其成形。狡猾鈍惛,是非無端,孰知其所萌!

物に大きな取り立てがないなどと、どうしていえよう。一度人の形を型どっただけでも、それでも喜ぶ。人というものは、千変万化してまだ極まりがない。古びればまた新しくなる。その楽しみようは、数え上げられるものだろうか。たとえば、夢で鳥となって天を飛び、夢で魚となって淵に沈む。その夢を見ている間は、それが夢だと知らず、覚めて後にそれが夢だと知るようなものである。いま、いずれ大いなる目覚めがあって、その後にいまのこれが大いなる夢であったと知るのだろう。はじめ私がまだ生まれていなかったとき、どうして生の楽しみを知っていたろうか。いま私はまだ死んでいないのに、どうして死が楽しくないと知れようか。かつて公牛哀(こうぎゅうあい)は病が転じて、七日で虎に変わった。その兄が戸を開けて入り覗き見ると、虎は打ちかかってこれを殺した。こうして紋様は獣となり、爪と牙は移り変わり、志は心とともに変わり、神は形とともに変わったのである。虎であるときは、かつて人であったことを知らず、人であるときは、やがて虎になることを知らない。二つは入れ替わり食い違って走り、それぞれ成った形を楽しむ。狡く、鈍く、おぼろで、是非には端がない。誰がその芽ばえたところを知ろうか。

夫水嚮冬則凝而為冰,冰迎春則泮而為水,冰水移易于前後,若周員而趨,孰暇知其所苦樂乎!是故形傷于寒暑燥溼之虐者,形苑而神壯;神傷乎喜怒思慮之患者,神盡而形有餘。故罷馬之死也,剝之若槁;狡狗之死也,割之猶濡。是故傷死者其鬼嬈,時既者其神漠。是皆不得形神俱沒也。夫聖人用心,杖性依神,相扶而得終始,是故其寐不夢,其覺不憂。

そもそも水は冬に向かえば凝って氷となり、氷は春を迎えれば解けて水となる。氷と水は前後に移り変わり、円をめぐって走るようであるのに、誰がその苦しみ楽しみを知る暇があろうか。そのため形が寒暑乾湿の暴虐に傷められた者は、形が萎えても神は壮んであり、神が喜怒と思い巡らしの患いに傷められた者は、神が尽きても形は余る。だから疲れ果てた馬が死んだときは、皮を剥げば枯れたようであり、狡い犬が死んだときは、割いてもなお潤っている。そのため傷んで死んだ者はその鬼が騒がしく、寿命が尽きた者はその神が静かである。これはいずれも形と神がともに消えきれなかったものである。そもそも聖人の心の使いようは、性に杖つき神に依り、互いに支え合って始めと終わりを得る。そのため眠って夢を見ず、覚めて憂えない。

古之人有處混冥之中,神氣不蕩于外,萬物恬漠以愉靜,攙搶衡杓之氣莫不彌靡,而不能為害。當此之時,萬民猖狂,不知東西,含哺而游,鼓腹而熙,交被天和,食于地德,不以曲故是非相尤,茫茫沈沈,是謂大治。於是在上位者,左右而使之,毋淫其性;鎮撫而有之,毋遷其德。是故仁義不布而萬物蕃殖,賞罰不施而天下賓服。其道可以大美興,而難以算計舉也。是故日計之不足,而歲計之有餘。

古の人には、混じり暗いなかに居て、神と気が外へ揺れ出ず、万物は安らぎ静まって楽しく静かであり、彗星や北斗の柄の気もことごとく衰えて害をなし得ない、そういう者があった。このとき、万民は狂ったようで東西も知らず、食べ物を含んで遊び、腹を鼓して楽しみ、ともに天の和を被り、地の徳を食らい、ねじれた作意や是非で互いを咎めず、ぼうっとして深々としていた。これを大いなる治まりというのである。そこで上の位に在る者は、左右に使っても、その性を乱さず、鎮め撫でて有っても、その徳を移さなかった。そのため仁義を布かなくても万物は繁り殖え、賞罰を施さなくても天下は客として服した。その道は大いなる美として興すことはできるが、数え勘定で挙げることは難しい。そのため日ごとに計れば足らないが、年で計れば余りがある。

夫魚相忘於江湖,人相忘於道術。古之真人,立於天地之本,中至優游,抱德煬和,而萬物雜累焉,孰肯解構人間之事,以物煩其性命乎!夫道有經紀條貫,得一之道,連千枝萬葉。是故貴有以行令,賤有以忘卑,貧有以樂業,困有以處危。夫大寒至,霜雪降,然後知松柏之茂也。據難履危,利害陳于前,然後知聖人之不失道也。是故能戴大員者履大方,鏡太清者視大明,立太平者處大堂,能游冥冥者與日月同光。是故以道為竿,以德為綸,禮樂為鉤,仁義為餌,投之於江,浮之於海,萬物紛紛,孰非其有!

そもそも魚は江湖のなかで互いを忘れ、人は道の術のなかで互いを忘れる。古の真人は天地の本に立ち、内はきわめてゆるやかに遊び、徳を抱き和を温めたので、万物が入り混じり積み重なっても、誰が好んで人間の事を解きほどき組み立て、物によってその性命を煩わせようか。そもそも道には綱と条理があり、一なる道を得れば、千の枝万の葉がつながる。そのため貴ければ令を行うすべがあり、賤しければ低さを忘れるすべがあり、貧しければ業を楽しむすべがあり、困れば危うさに身を置くすべがある。そもそも大寒が至り霜や雪が降って、その後にはじめて松や柏の茂りを知る。難に拠り危うきを踏み、利害が目の前に並んで、その後にはじめて聖人が道を失わないことを知る。そのため大いなる円を戴くことができる者は大いなる方を踏み、太清を鏡とする者は大いなる明るさを見、太平を立てる者は大いなる堂に居り、暗く暗いところに遊べる者は日月と光を同じくする。そのため道を竿とし、徳を糸とし、礼楽を鉤とし、仁義を餌として、江に投げ、海に浮かべれば、万物は入り乱れていても、どれがその持ち物でないことがあろうか。

夫挾依於跂躍之術,提挈人間之際,撢掞挺挏世之風俗,以摸蘇牽連物之微妙,猶得肆其志,充其欲,何況懷瑰瑋之道,忘肝膽,遺耳目,獨浮游無方之外,不與物相弊摋,中徙倚無形之域而和以天地者乎!若然者,偃其聰明而抱其太素,以利害為塵垢,以死生為晝夜,是故目觀玉輅琬象之狀,耳聽白雪、清角之聲,不能以亂其神。登千仞之谿,臨蝯眩之岸,不足以滑其和。譬若鍾山之玉,炊以鑪炭,三日三夜而色澤不變。則至德天地之精也。是故生不足以使之,利何足以動之;死不足以禁之,害何足以恐之。明於死生之分,達於利害之變,雖以天下之大,易骭之一毛,無所概於志也。

そもそも爪先立ち跳び上がるような術に頼り、人の世の境目を引き回し、世の風俗を揺すり動かし、物の微妙なところを探り手繰るだけでも、なお志を伸ばし欲を満たすことができる。まして、大きく美しい道を懐き、肝や胆を忘れ、耳目を捨て、ひとり方位なき外を浮かび遊び、物と互いに損ね合わず、内では形なき領域を移り歩いて天地と和する者はどうであろうか。このような者は、その聡明を伏せてその太素を抱き、利害を塵や垢とし、死と生を昼と夜とする。そのため目に玉の車や玉と象牙の飾りの姿を観、耳に白雪や清角の調べを聴いても、その神を乱すことはできない。千仞の谷に登り、猿でも目がくらむ崖に臨んでも、その和を乱すには足らない。たとえば鍾山の玉は、炉の炭で焼いても、三日三夜のあいだ色艶が変わらないようなものである。つまり至徳とは天地の精である。そのため生でさえこれを動かすに足らないのに、利がどうしてこれを動かすに足ろうか。死でさえこれを止めるに足らないのに、害がどうしてこれを怖れさせるに足ろうか。死生の分かれに明らかで、利害の変わりに通じていれば、たとえ天下の大きさを脛の一本の毛と取り替えたとしても、志に気にかけるところがない。

夫貴賤之於身也,猶條風之時麗也;毀譽之於己,猶蚊虻之一過也。夫秉皓白而不黑,行純粹而不糅,處玄冥而不闇,休于天鈞而不䃣,孟門、終隆之山不能禁,雖體道能不敗,湍瀨旋淵、呂梁之深不能留也,太行石澗、飛狐、句望之險不能難也。是故身處江海之上,而神游魏闕之下。非得一原,孰能至於此哉!

そもそも貴賤が身に及ぶのは、東風が時おり吹きつけるようなものであり、謗りと誉れが自分に及ぶのは、蚊や虻がひとたび過ぎるようなものである。そもそも真白を執って黒まず、純粋を行って混じらず、玄く暗いところに居て暗まず、天の均しさに休んで揺るがなければ、孟門や終隆の山も止めることができず、道を体として敗れることがないので、瀬や渦巻く淵、呂梁の深みも留めることができず、太行の石の谷、飛狐や句望の険しさも難とすることができない。そのため身は江海の上に居ながら、神は魏の宮門の下に遊ぶ。一なる源を得ずして、誰がここに至りえよう。

是故與至人居,使家忘貧,使王公簡其富貴而樂卑賤,勇者衰其氣,貪者消其欲。坐而不教,立而不議,虛而往者實而歸,故不言而能飲人以和。是故至道無為,一龍一蛇,盈縮卷舒,與時變化。外從其風,內守其性,耳目不燿,思慮不營。其所居神者,臺簡以游太清,引楯萬物,群美萌生。是故事其神者神去之,休其神者神居之。道出一原,通九門,散六衢,設於無垓坫之宇,寂漠以虛無。非有為於物也,物以有為於己也。是故舉事而順于道者,非道之所為也,道之所施也。

そのため至人とともに住めば、家は貧しさを忘れ、王公はその富貴を簡素にして低く賤しいことを楽しみ、勇ましい者はその気を衰えさせ、貪る者はその欲を消す。坐って教えず、立って議さずとも、虚しくして往った者は満ちて帰るので、語らずして人に和を飲ませることができる。そのため至上の道は無為であって、あるときは龍、あるときは蛇となり、満ち縮み巻き広げ、時とともに変化する。外ではその風に従い、内ではその性を守り、耳目は輝かず、思いは経め営まない。その神を置くところは広く簡らかで太清に遊び、万物を引き導いて、多くの美が芽ばえ生まれる。そのため、その神を事とする者からは神が去り、その神を休ませる者には神が留まる。道は一なる源から出て九つの門に通じ、六つの衢に散り、果てなき家に設けられて、静かに虚しく無い。物に対して為すところがあるのではなく、物の側が自分に対して為すところがあるのである。そのため事を起こして道に順うものは、道が為したものではなく、道が施したものである。

夫天之所覆,地之所載,六合所包,陰陽所呴,雨露所濡,道德所扶,此皆生一父母而閱一和也。是故槐榆與橘柚合而為兄弟,有苗與三危通為一家。夫目視鴻鵠之飛,耳聽琴瑟之聲,而心在雁門之間,一身之中,神之分離剖判,六合之內,一舉而千萬里。是故自其異者視之,肝膽胡、越;自其同者視之,萬物一圈也。百家異說,各有所出,若夫墨、楊、申、商之於治道,猶蓋之無一橑,而輪之無一輻,有之可以備數,無之未有害於用也。己自以為獨擅之,不通之于天地之情也。今夫治工之鑄器,金踊躍于鑪中,必有波溢而播棄者,其中地而凝滯,亦有以象於物者矣。其形雖有所小用哉,然未可以保於周室之九鼎也,又況比於規形者乎?其與道相去亦遠矣!

そもそも天の覆うもの、地の載せるもの、六合の包むもの、陰陽の吹くもの、雨露の潤すもの、道徳の支えるものは、みな一つの父母から生まれ、一つの和を通ってきたものである。そのため槐や楡が橘や柚と合わさって兄弟となり、有苗と三危が通じて一つの家となる。そもそも目に鴻や鵠の飛ぶのを見、耳に琴や瑟の音を聴きながら、心は雁門のあたりに在る。ひとつの身のうちで神が分かれ割れ、六合の内をひと挙げに千万里ゆく。そのため異なる側から見れば、肝と胆も胡と越ほどに離れており、同じ側から見れば、万物はひとつの囲いである。百家の異なる説にはそれぞれ出どころがあるが、あの墨・楊・申・商が治めの道に対しているさまは、蓋に骨一本が欠け、輪に輻一本が欠けているようなもので、あればその数を揃えられるが、無くても用に害はない。それを自分だけが独り得ていると思うから、天地の情に通じないのである。いま鋳物師が器を鋳るとき、金が炉のなかで躍り上がれば、必ず波のように溢れて飛び散り捨てられるものがあり、それが地に落ちて凝り固まれば、何かの物に似た形になることもある。その形にたとえ小さな用があるとしても、周の王室の九鼎に比べることはできない。まして型に従って作った形に比べられようか。それが道から離れていることも、また遠い。

今夫萬物之疏躍枝舉,百事之莖葉條蘖,皆本於一根,而條循千萬也。若此則有所受之矣,而非所授者。所受者無授也而無不受也。無不受也者,譬若周雲之蘢蓯,遼巢彭濞而為雨,沈溺萬物而不與為溼焉。今夫善射者有儀表之度,如工匠有規矩之數,此皆所得以至於妙。然而奚仲不能為逢蒙,造父不能為伯樂者,是曰諭於一曲,而不通于萬方之際也。今以涅染緇則黑於涅,以藍染青則青於藍。涅非緇也,青非藍也,茲雖遇其母而無能復化已。是何則?以諭其轉而益薄也。何況夫未始有涅藍造化之者乎,其為化也,雖鏤金石,書竹帛,何足以舉其數!由此觀之,物莫不生於有也,小大優游矣。

いま万物が開き跳び枝を伸ばすこと、百事が茎や葉や枝や芽を出すことは、みな一つの根に本づいて、枝が千万に従っているのである。このようであれば受けたものがあってのことで、授けた側ではない。受ける側のもとには授けるという働きがなく、しかも受けないものがない。受けないものがないとは、たとえば雲があまねく群れ茂り、広く集まり大波のように湧いて雨となり、万物を潤し沈めながら、自分は濡れることに与らないようなものである。いま弓の上手な者に標的と寸法があるのは、工匠にコンパスと曲尺の数があるのと同じで、これはみなそれによって妙に至るものである。しかし奚仲が逢蒙になれず、造父が伯楽になれないのは、これを一つの曲に悟って、万方の境目に通じていないというのである。いま涅(くろつち)で黒を染めれば涅よりも黒く、藍で青を染めれば藍よりも青い。涅は黒ではなく、青は藍ではないから、これはたとえその母に出会っても、再び変わることはできない。これはなぜか。それが転じていくほど薄くなることを教えているのである。まして、まだ涅も藍もない造化そのものであれば、その変化のありようは、たとえ金や石に刻み、竹や帛に書いても、どうしてその数を挙げきれよう。これから見れば、物は有るものから生まれないものはなく、小も大もゆるやかに遊んでいる。

夫秋豪之末,淪於無間而復歸於大矣;蘆苻之厚,通於無㙬而復反於敦龐。若夫無秋豪之微,蘆苻之厚,四達無境,通于無圻,而莫之要御夭遏者,其襲微重妙,挺挏萬物,揣丸變化,天地之間何足以論之!夫疾風绗木,而不能拔毛髮;雲臺之高,墮者折脊碎腦,而鶫劲適足以翱翔。夫與蚑蟯同乘天機,夫受形於一圈,飛輕微細者,猶足以脫其命,又況未有類也?由此觀之,無形而生有形,亦明矣。是故聖人託其神於靈府,而歸於萬物之初,視於冥冥,聽於無聲,冥冥之中獨見曉焉,寂漠之中獨有照焉。其用之也以不用,其不用也而後能用之;其知也乃不知,其不知也而後能知之也。

そもそも秋の毛の先は、隙なきところに沈んでまた大きなものへ帰り、葦の皮の厚みは、厚みなきところに通じてまた厚く大きなものへ返る。あの秋の毛ほどの微かさも、葦の皮ほどの厚みもなく、四方に達して境がなく、果てなきところに通じて、遮り折り阻む者がないものは、微かなものを重ね妙なるものを重ねて万物を揺り動かし、変化を丸め練るのだから、天地の間などどうして論ずるに足ろうか。そもそも疾い風は木を折っても、毛髪を抜くことはできない。雲台の高さから落ちる者は背骨が折れ脳が砕けるが、蚋や小さな虫はちょうど飛び回るに足る。そもそも足のある虫とともに天の機に乗り、ひとつの囲いのなかで形を受けた、飛ぶ軽く微かに細いものでも、なおその命を脱するに足るのだから、まだたぐいを持たないものならなおさらである。これから見れば、形なきものが形あるものを生むことも、また明らかである。そのため聖人はその神を霊なる府に託し、万物のはじめへ帰り、暗く暗いところに見、声なきところに聴くので、暗く暗いなかで独り明るさを見、静かに寂しいなかで独り照らすものを持つ。その用いようは用いないことによってであり、用いないからこそ後に用いることができる。その知りようはすなわち知らないことであり、知らないからこそ後に知ることができる。

夫天不定,日月無所載;地不定,草木無所植;所立於身者不寧,是非無所形。是故有真人然後有真知。其所持者不明,庸詎知吾所謂知之非不知歟?今夫積惠重厚,累愛襲恩,以聲華嘔苻嫗掩萬民百姓,使知之訢訢然,人樂其性者,仁也。舉大功,立顯名,體君臣,正上下,明親疏,等貴賤,存危國,繼絕世,決挐治煩,興毀宗,立無後者,義也。閉九竅,藏心志,棄聰明,反無識,芒然仿佯于塵埃之外,而消搖于無事之業,含陰吐陽,而萬物和同者,德也。是故道散而為德,德溢而為仁義,仁義立而道德廢矣。

そもそも天が定まらなければ日月は載るところがなく、地が定まらなければ草木は植わるところがなく、身に立てたものが安らかでなければ是非は形をなすところがない。そのため真人があって後に真の知がある。その持つものが明らかでなければ、どうして私のいう知が、知らないことではないと分かろうか。いま、恵みを積み厚みを重ね、愛を重ね恩を継ぎ、名声と輝きによって万民百姓を撫で覆い、知って喜ばせ、人がその性を楽しむようにさせるのは仁である。大きな功を挙げ、顕れた名を立て、君臣を体とし、上下を正し、親疎を明らかにし、貴賤に等をつけ、危うい国を保ち、絶えた世を継ぎ、もつれを断ち煩わしさを治め、潰れた宗族を興し、後継ぎのない者を立てるのは義である。九つの竅を閉ざし、心と志を蔵い、聡明を捨て、識なきところへ返り、ぼうっと塵埃の外をさまよい、事なき業に逍遥し、陰を含み陽を吐いて、万物が和して同じくなるのは徳である。そのため道が散って徳となり、徳が溢れて仁義となる。仁義が立てば道徳は廃れるのである。

百圍之木,斬而為犧尊,鏤之以剞𠜾,雜之以青黃,華藻鎛鮮,龍蛇虎豹,曲成文章,然其斷在溝中,壹比犧尊、溝中之斷,則醜美有間矣,然而失木性,鈞也。是故神越者其言華,德蕩者其行偽。至精亡於中,而言行觀於外,此不免以身役物矣。夫趨舍行偽者,為精求于外也,精有湫盡,而行無窮極,則滑心濁神,而惑亂其本矣。其所守者不定,而外淫於世俗之風,所斷差跌者,而內以濁其清明,是故躊躇以終,而不得須臾恬澹矣。

百抱えもある木を斬って犠尊(ぎそん)を作り、彫刻刀で刻み、青や黄の彩りを混ぜ、花の文様は美しく鮮やかで、龍や蛇、虎や豹が曲がりくねって文様を成している。しかしその切り落としは溝のなかに在る。ひとたび犠尊と溝のなかの切り落としを比べれば、醜さと美しさには隔たりがあるが、木の性を失っていることは同じである。そのため神が外へ溢れた者はその言葉が華やかであり、徳が揺れ動いた者はその行いが偽りである。至上の精が内から失せて、言葉と行いが外に見えるのは、身をもって物に使われることを免れない。そもそも進み退きして偽りを行う者は、精を外に求めているのである。精には尽きるときがあり、行いには際限がないので、心を乱し神を濁らせて、その本を惑わせ乱す。その守るところが定まらず、外では世俗の風に溺れ、断ち損ね踏み外したことによって内ではその清らかな明るさを濁らせる。そのためためらいながら終わり、しばらくも安らかに淡々としていることができない。

是故聖人內修道術,而不外飾仁義,不知耳目之宣,而游于精神之和。若然者,下揆三泉,上尋九天,橫廓六合,揲貫萬物,此聖人之游也。若夫真人,則動溶于至虛,而游于滅亡之野,騎蜚廉而從敦圄,馳於外方,休乎宇內,燭十日而使風雨,臣雷公,役夸父,妾宓妃,妻織女,天地之間,何足以留其志!是故虛無者道之舍,平易者道之素。

そのため聖人は内に道の術を修めて、外に仁義を飾らず、耳目の働きに目を向けず、精神の和に遊ぶ。このような者は、下に三つの泉を測り、上に九天を尋ね、六合を横切って広げ、万物を数え貫く。これが聖人の遊びである。あの真人であれば、至上の虚に動きとろけ、滅び失せる野に遊び、蜚廉(ひれん)に騎り敦圄(とんご)を従え、外の方へ馳せ、宇のうちに休み、十の日を灯し、風と雨を使い、雷公を臣とし、夸父(かほ)を使い、宓妃(ふくひ)を妾とし、織女を妻とする。天地のあいだなど、どうしてその志を留めるに足ろうか。そのため虚しく無いことは道の宿であり、平らかで易しいことは道の素地である。

夫人之事其神而嬈其精,營慧然而有求於外,此皆失其神明而離其宅也。是故凍者假兼衣于春,而暍者望冷風于秋,夫有病於內者必有色於外矣。夫梣木色青翳,而蠃瘉蝸睆,此皆治目之藥也。人無故求此物者,必有蔽其明者。聖人之所以駭天下者,真人未嘗過焉;賢人之所以矯世俗者,聖人未嘗觀焉。夫牛蹄之涔,無尺之鯉;塊阜之山,無丈之材。所以然者何也?皆其營宇狹小,而不能容巨大也。又況乎以無裹之者邪!此其為山淵之勢亦遠矣。夫人之拘於世也,必形繫而神泄,故不免於虛。使我可係羈者,必其有命在於外也。

そもそも人がその神を事として働かせ、その精を乱し、あれこれ思い巡らして外に求めるのは、みなその神明を失い、その住まいを離れることである。そのため凍えた者は春に重ね着を借りようとし、暑気にあたった者は秋の冷たい風を待ち望む。そもそも内に病がある者には必ず外に色が出る。そもそも梣(とねりこ)は色が青く暗く、蝸牛や田螺は目をよくするもので、これはみな目を治す薬である。人が理由もなくこれらの物を求めるなら、必ずその明るさを覆うものがある。聖人が天下を驚かすそのことを、真人はかつて通ったことがなく、賢人が世俗を正すそのことを、聖人はかつて目を向けたことがない。そもそも牛の蹄の窪みの水には一尺の鯉がおらず、土くれほどの山には一丈の材がない。そうなるのはなぜか。みなその住まいが狭く小さくて、巨大なものを容れられないからである。まして無いもので包むのであれば、なおさらである。これでは山や淵の勢いには遠く及ばない。そもそも人が世に拘われるのは、必ず形が繋がれて神が漏れるからで、だから虚しさを免れない。もし私を繋ぎ縛ることができるなら、それは必ずその命が外に在るからである。

至德之世,甘瞑于溷澖之域,而徙倚于汗漫之宇,提挈天地而委萬物,以鴻濛為景柱,而浮揚乎無畛崖之際。是故聖人呼吸陰陽之氣,而群生莫不顒顒然,仰其德以和順。當此之時,莫之領理,決離隱密而自成,渾渾蒼蒼,純樸未散,旁薄為一,而萬物大優,是故雖有羿之知而無所用之。

至徳の世は、おぼろに広い領域に心地よく眠り、ひろびろと果てない家に身を寄せ、天地を引き持って万物に任せ、鴻濛(こうもう)を日時計の柱として、畦も崖もない境に浮かび揚がっていた。そのため聖人が陰陽の気を呼吸すると、群れ生きるものはみな仰ぎ見て、その徳を仰いで和し順った。このとき、統べ治める者はなく、分かれ隠れたものを断ち切って自ずと成り、混じり合い青々として、純朴はまだ散らず、あまねく満ちて一つとなり、万物は大いにゆるやかであった。そのため羿(げい)ほどの知があっても、それを用いる所がなかった。

及世之衰也,至伏羲氏,其道昧昧芒芒然,吟德懷和,被施頗烈,而知乃始昧昧晽晽,皆欲離其童蒙之心,而覺視於天地之間,是故其德煩而不能一。乃至神農、黃帝,剖判大宗,竅領天地,襲九竅,重九窽,提挈陰陽,嫥捖剛柔,枝解葉貫,萬物百族,使各有經紀條貫,於此萬民睢睢盱盱然,莫不竦身而載聽視,是故治而不能和下。棲遲至於昆吾、夏后之世,嗜欲連於物,聰明誘於外,而性命失其得。施及周室之衰,澆淳散樸,雜道以偽,儉德以行,而巧故萌生。周室衰而王道廢,儒墨乃始列道而議,分徒而訟。於是博學以疑聖,華誣以脅眾,弦歌鼓舞,緣飾《詩》、《書》以買名譽於天下。繁登降之禮,飾紱冕之服,聚眾不足以極其變,積財不足以贍其費,於是萬民乃始慲觟離跂,各欲行其知偽,以求鑿枘於世而錯擇名利,是故百姓曼衍於淫荒之陂,而失其大宗之本。夫世之所以喪性命,有衰漸以然,所由來者久矣。

世が衰えるに及んで、伏羲氏に至ると、その道はおぼろにぼうっとして、徳を吟じ和を懐き、施すことはかなり強かったが、知のほうがようやく暗がりから明るみへ向かい、みなその幼い心を離れて天地のあいだを覚めた目で見ようとした。そのためその徳は煩わしくなって一つになれなかった。神農・黄帝に至っては、大いなる宗を割り、天地に穴をあけて統べ、九つの竅を継ぎ、九つの窪みを重ね、陰陽を引き、剛と柔を練り整え、枝を解き葉を貫いて、万物百族がそれぞれ綱と条理を持つようにした。ここで万民は目を見張って仰ぎ、身を起こして聴き見ないものがなかった。そのため治まりはしたが、下を和らげることはできなかった。そのまま昆吾・夏后の世に至ると、嗜みと欲は物に繋がり、聡明は外に誘われて、性命はその得るものを失った。周の王室の衰えに及ぶと、淳らかさを薄め朴を散らし、道に偽りを混ぜ、徳を行いによって削り、巧みな作意が芽ばえた。周の王室が衰えて王道が廃れると、儒と墨がようやく道を並べて議し、徒を分けて争った。そこで博く学んで聖を疑い、華やかな偽りで人々を脅し、弦歌と鼓舞によって『詩』や『書』を飾り立て、天下に名誉を買った。昇り降りの礼を煩わしくし、紱や冕の服を飾ったので、人を集めてもその変わりように応じきれず、財を積んでもその費用を満たしきれなかった。そこで万民はようやく崩れ離れ、それぞれ自分の知と偽りを行って、世に継ぎ手と穴とが合うのを求め、名と利を取り違えて選んだ。そのため人々は淫らに荒れた土手の上に広がり、その大いなる宗の本を失ったのである。そもそも世が性命を失うのは、衰えが次第にそうさせたのであって、由来するところは久しい。

是故聖人之學也,欲以返性於初,而游心於虛也。達人之學也,欲以通性於遼廓,而覺於寂漠也。若夫俗世之學也則不然,握德𢶊性,內愁五藏,外勞耳目,乃始招蟯振繾物之豪芒,搖消掉捎仁義禮樂,暴行越智於天下,以招號名聲於世。此我所羞而不為也。

そのため聖人の学びは、性をはじめへ返し、心を虚に遊ばせようとするものである。達した人の学びは、性をひろびろと開けたところへ通じさせ、静かに寂しいところで覚めようとするものである。あの俗世の学びはそうではなく、徳を握って性を揺さぶり、内に五臓を愁えさせ、外に耳目を労し、そうしてようやく物の毛や芒ほどのものを振り回し、仁義や礼楽を揺すり消し、荒い行いと行き過ぎた知を天下に振りまいて、世に名と声を呼び立てる。これは私が恥じて行わないことである。

是故與其有天下也,不若有說也;與其有說也,不若尚羊物之終始也,而條達有無之際。是故舉世而譽之不加勸,舉世而非之不加沮,定于死生之境,而通于榮辱之理,雖有炎火洪水彌靡於天下,神無虧缺於胸臆之中矣。若然者,視天下之間,猶飛羽浮芥也,孰肯分分然以物為事也!水之性真清而土汨之,人性安靜而嗜欲亂之。夫人之所受於天者,耳目之於聲色也,口鼻之於芳臭也,肌膚之於寒燠,其情一也,或通於神明,或不免於癡狂者,何也?其所為制者異也。是故神者智之淵也,淵清則智明矣;智者心之府也,智公則心平矣。

そのため天下を有つよりは、悦びを有つほうがよく、悦びを有つよりは、物の始めと終わりに遊んで、有と無の境を条理をもって見通すほうがよい。そのため世をあげて誉められても励みが増さず、世をあげて謗られても挫けが増さず、死生の境に定まり、栄辱の理に通じるので、たとえ燃える火や洪水が天下にゆきわたっても、神は胸のうちで欠けることがない。このような者は、天下のあいだを見ることが、飛ぶ羽や浮かぶ芥のようである。誰が好んで忙しく物を事とするだろうか。水の性はまことに清らかなのに土が濁らせ、人の性は安らかに静かなのに嗜みと欲が乱す。そもそも人が天から受けたものは、耳目が声や色に対し、口や鼻が香りや臭いに対し、肌が寒さや暖かさに対するありようが、その情においては同じである。それなのに、ある者は神明に通じ、ある者は癡れ狂うことを免れないのはなぜか。その制めるものが違うからである。そのため神は知の淵であって、淵が清らかであれば知は明らかになり、知は心の府であって、知が公らかであれば心は平らかになる。

人莫鑑於流沫,而鑑於止水者,以其靜也;莫窺形於生鐵,而窺於明鏡者,以睹其易也。夫唯易且靜,形物之性也。由此觀之,用也必假之於弗用也,是故虛室生白,吉祥止也。夫鑑明者塵垢弗能薶,神清者嗜欲弗能亂。精神已越於外,而事復返之,是失之於本,而求之於末也。外內無符而欲與物接,弊其玄光而求知之于耳目,是釋其炤炤,而道其冥冥也,是之謂失道。心有所至而神喟然在之,反之於虛則消鑠滅息,此聖人之游也。故古之治天下也,必達乎性命之情。其舉錯未必同也,其合於道一也。

人が流れる泡に自分を映さず、止まった水に映すのは、それが静かだからである。生の鉄に姿を覗かず、明るい鏡に覗くのは、それが平らなのを見てとるからである。そもそも平らでかつ静かであることが、形ある物の性である。これから見れば、用いることは必ず用いないことから借りてくるのだから、空の部屋に白い光が生じ、吉祥が留まるのである。そもそも鏡が明るい者には塵や垢が付きようがなく、神が清らかな者は嗜みと欲が乱しようがない。精神がすでに外へ越えてしまってから、事のほうでこれを引き返させようとするのは、本において失って末において求めることである。外と内に合わせ符がないまま物と接しようとし、その玄い光を覆って知を耳目に求めるのは、その明るく照らすものを捨てて、その暗く暗いものに従うことであり、これを道を失うというのである。心に至るところがあれば神はふっとそこに在り、これを虚へ返せば溶け消え失せて息む。これが聖人の遊びである。だから古に天下を治めるときは、必ず性命の情に通じていた。その振る舞いは必ずしも同じではなかったが、道に合っていることは一つである。

夫夏日之不被裘者,非愛之也,燠有餘於身也。冬日之不用翣者,非簡之也,清有餘於適也。夫聖人量腹而食,度形而衣,節於己而已,貪污之心奚由生哉!故能有天下者,必無以天下為也;能有名譽者,必無以趨行求者也。聖人有所于達,達則嗜欲之心外矣;孔、墨之弟子,皆以仁義之術教導於世,然而不免於儡。身猶不能行也,又況所教乎?是何則?其道外也。夫以末求返於本,許由不能行也,又況齊民乎!誠達于性命之情,而仁義固附矣,趨舍何足以滑心!

そもそも夏の日に皮衣を着ないのは、それを惜しむからではなく、暖かさが身に余っているからである。冬の日に扇を使わないのは、それを疎かにするからではなく、涼しさがほどよさに余っているからである。そもそも聖人は腹を量って食べ、身体を測って着て、自分に節するだけなのだから、貪り汚れた心がどこから生じよう。だから天下を有つことができる者は、必ず天下を目的としない。名誉を有つことができる者は、必ず走り回って求めない。聖人には通じているところがあり、通じていれば嗜みと欲の心は外に出ている。孔子や墨子の弟子たちは、みな仁義の術で世を教え導いたが、疲れ果てることを免れなかった。自身でさえ行えないのに、まして教えるほうはどうであろうか。これはなぜか。その道が外にあるからである。そもそも末によって本へ返ろうと求めるのは、許由でも行えないのだから、まして普通の人々ならなおさらである。まことに性命の情に通じていれば、仁義はもともと付いてくるので、進み退きがどうして心を乱すに足ろうか。

若夫神無所掩,心無所載,通洞條達,恬漠無事,無所凝滯,虛寂以待,勢利不能誘也,辯者不能說也,聲色不能淫也,美者不能濫也,智者不能動也,勇者不能恐也,此真人之道也。若然者,陶冶萬物,與造化者為人,天地之間,宇宙之內,莫能夭遏。夫化生者不死,而化物者不化,神經於驪山、太行而不能難,入於四海九江而不能濡,處小隘而不塞,橫扃天地之間而不窕。不通此者,雖目數千羊之群,耳分八風之調,足蹀陽阿之舞,而手會綠水之趨,智終天地,明照日月,辯解連環,澤潤玉石,猶無益於治天下也。靜漠恬澹,所以養性也;和愉虛無,所以養德也。外不滑內,則性得其宜;性不動和,則德安其位。養生以經世,抱德以終年,可謂能體道矣。若然者,血脈無鬱滯,五藏無蔚氣,禍福弗能撓滑,非譽弗能塵垢,故能致其極。非有其世,孰能濟焉?有其人不遇其時,身猶不能脫,又況無道乎?且人之情,耳目應感動,心志知憂樂,手足之㩌疾𧒃、辟寒暑,所以與物接也。蜂蠆螫指而神不能憺,蚉蝱噆膚而知不能平,夫憂患之來,攖人心也,非直蜂蠆之螫毒而蚊劲之慘怛也,而欲靜漠虛無,柰之何哉!

あの神に覆うものがなく、心に載せるものがなく、通り抜け条理をもって達し、安らかに静かで事がなく、凝り固まるところがなく、虚しく静かに待つのであれば、勢いや利は誘えず、弁の立つ者も説けず、声や色も溺れさせられず、美しいものも溢れさせられず、知ある者も動かせず、勇ある者も怖れさせられない。これが真人の道である。このような者は、万物を陶い鋳て、造化する者と友となるので、天地のあいだ、宇宙のうちで、遮り折れる者がない。そもそも変化を生むものは死なず、物を変化させるものは変わらない。神は驪山や太行を過ぎても難とされず、四海や九江に入っても濡れず、小さく狭いところに居ても塞がらず、天地のあいだを横に渡して閉ざしても緩まない。これに通じていない者は、たとえ目で数千の羊の群れを数え、耳で八方の風の調べを分け、足で陽阿の舞を踏み、手で緑水の拍子を合わせ、知が天地を極め、明るさが日月を照らし、弁舌が連環を解き、恵みが玉や石を潤しても、やはり天下を治めるのに益がない。静かに淡々としていることは性を養うゆえのものであり、和して楽しく虚しく無いことは徳を養うゆえのものである。外が内を乱さなければ性はその適いを得、性が和を揺るがさなければ徳はその位に安らぐ。生を養って世を経め、徳を抱いて年を終えれば、道を体としえたといえる。このような者は、血脈に滞りがなく、五臓に鬱した気がなく、禍福が揺り乱すことができず、謗りと誉れが塵や垢を付けることができないので、その極みに至ることができる。その世が無ければ、誰が救えよう。その人が在ってもその時に出会わなければ、身さえ脱することができず、まして道が無ければなおさらである。また人の情として、耳目が感じ動くのに応じ、心と志が憂いと楽しみを知り、手足が痒みを掻き寒暑を避けるのは、物と接するゆえである。蜂や蠍が指を刺せば神は安らいでいられず、蚊や虻が肌を噛めば知は平らかでいられない。そもそも憂いや患いが来て人の心を掻き乱すのは、ただ蜂や蠍の毒や蚊や虻の痛みばかりではないのだから、静かに淡々と虚しく無くありたいと願っても、どうしようもない。

夫目察秋豪之末,耳不聞雷霆之聲;耳調玉石之聲,目不見太山之高。何則?小有所志而大有所忘也。今萬物之來,擢拔吾性,攓取吾情,有若泉源,雖欲勿稟,其可得邪!今夫樹木者,灌以瀿水,疇以肥壤,一人養之,十人拔之,則必無餘蘖,又況與一國同伐之哉?雖欲久生,豈可得乎!今盆水在庭,清之終日,未能見眉睫;濁之不過一撓,而不能察方員。人神易濁而難清,猶盆水之類也,況一世而撓滑之,曷得須臾平乎!

そもそも目が秋の毛の先を見定めているときは、耳は雷の音を聞かない。耳が玉や石の音を調えているときは、目は泰山の高さを見ない。なぜか。小さなものに志すところがあれば、大きなものに忘れるところがあるからである。いま万物が寄せてきて、私の性を引き抜き、私の情を奪い取るさまは泉の源のようであって、たとえ受けまいと思っても、どうして思い通りになろうか。いま木を植える者が、溢れるほど水を注ぎ、肥えた土を盛っても、一人が育て十人が抜けば、必ず残る芽はない。まして一国がともに伐るのであればなおさらである。たとえ長く生きようと思っても、どうして思い通りになろうか。いま盆の水が庭にあって、一日じゅう澄ませても眉や睫を見ることはできないが、濁らせるには一度掻き回すだけで、方円も見分けられなくなる。人の神は濁りやすく清まりにくいことが、この盆の水のたぐいと同じであるのに、まして一つの世が掻き乱すのだから、どうしてしばらくでも平らかでいられよう。

古者至德之世,賈便其肆,農樂其業,大夫安其職,而處士脩其道。當此之時,風雨不毀折,草木不夭,九鼎重味,珠玉潤澤,洛出丹書,河出綠圖,故許由、方回、善卷、披衣得達其道。何則?世之主有欲利天下之心,是以人得自樂其間。四子之才,非能盡善,蓋今之世也,然莫能與之同光者,遇唐、虞之時。逮至夏桀、殷紂,燔生人,辜諫者,為炮烙,鑄金柱,剖賢人之心,析才士之脛,醢鬼侯之女,葅梅伯之骸。當此之時,嶢山崩,三川涸,飛鳥鎩翼,走獸擠腳。當此之時,豈獨無聖人哉?然而不能通其道者,不遇其世。夫鳥飛千仞之上,獸走叢薄之中,禍猶及之,又況編戶齊民乎?由此觀之,體道者不專在于我,亦有繫于世矣。

古の至徳の世には、商人はその店を便とし、農夫はその業を楽しみ、大夫はその職に安らぎ、処士はその道を修めた。このとき、風雨は折り壊すことなく、草木は若死にせず、九鼎は味が重く、珠玉は潤い、洛水から丹書が出、河から緑図が出た。だから許由・方回・善卷・披衣はその道に通じることができた。なぜか。世の主に天下を利しようとする心があったので、それによって人がその間で自ら楽しむことができたのである。四人の才は、すべてよいというわけではなく、おそらく今の世にもいるほどであろう。それでも彼らと光を同じくできる者がないのは、彼らが唐・虞の時に出会ったからである。夏の桀や殷の紂に至っては、生きた人を焼き、諫める者を罪し、炮烙を作り、金の柱を鋳、賢人の心臓を割き、才ある士の脛を裂き、鬼侯の娘を塩漬けにし、梅伯の骸を漬けた。このとき、嶢山は崩れ、三つの川は涸れ、飛ぶ鳥は翼を折られ、走る獣は脚を砕かれた。このときに、どうして聖人だけがいなかったであろうか。それでもその道を通わせられなかったのは、その世に出会わなかったからである。そもそも鳥が千仞の上を飛び、獣が藪のなかを走っても、禍はなお及ぶのだから、まして戸籍に入った普通の人々ならなおさらである。これから見れば、道を体とすることは、もっぱら自分にあるのではなく、世にかかっているところもあるのである。

夫歷陽之都,一夕反而為湖,勇力聖知與罷怯不肖者同命。巫山之上,順風縱火,膏夏紫芝與蕭艾俱死。故河魚不得明目,稚稼不得育時,其所生者然也。故世治則愚者不能獨亂,世亂則智者不能獨治。身蹈于濁世之中,而責道之不行也,是猶兩絆騏驥,而求其致千里也。置猿檻中,則與豚同,非不巧捷也,無所肆其能也。舜之耕陶也,不能利其里;南面王,則德施乎四海,仁非能益也,處便而勢利也。古之聖人,其和愉寧靜,性也;其志得道行,命也。是故性遭命而後能行,命得性而後能明。烏號之弓,谿子之弩,不能無弦而射。越舲蜀艇,不能無水而浮。今矰繳機而在上,罔罟張而在下,雖欲翱翔,其勢焉得?故《詩》云:「采采卷耳,不盈傾筐。嗟我懷人,寘彼周行。」以言慕遠世也。

そもそも歴陽の都は、ひと夜のうちに裏返って湖となり、勇も力も聖も知も、疲れ怯え不肖の者と命を同じくした。巫山の上で風に従って火を放つと、膏夏や紫芝といった良い草も、蕭や艾とともに死んだ。だから河の魚が明るい目を得られず、若い作物が育つ時を得られないのは、その生まれたところがそうなのである。だから世が治まれば愚かな者が独りで乱すことはできず、世が乱れれば知ある者が独りで治めることはできない。身を濁った世のなかに踏み入れておきながら、道が行われないことを責めるのは、騏驥(きき)の両足を縛って千里に至れと求めるようなものである。猿を檻のなかに置けば豚と同じになる。巧みで速くないからではなく、その能力を伸ばすところがないからである。舜が田を耕し陶器を焼いていたころは、その里さえ利することができなかったが、南面して王となると、徳は四海に施された。仁が増したのではなく、居るところが便であって勢いが利だったからである。古の聖人の、和して楽しく安らかに静かであることは性であり、その志を得て道が行われることは命である。そのため性は命に出会って後に行うことができ、命は性を得て後に明らかになることができる。烏号の弓も谿子の弩も、弦なしには射られない。越の小舟も蜀の艇も、水なしには浮かべない。いま矰(そう)や繳(いぐるみ)と弩が上に構え、網が下に張られていては、たとえ翔けようと思っても、その勢いでどうして思い通りになろうか。だから『詩』にこうある。「摘みに摘む卷耳(おなもみ)、傾いた籠にも満たない。ああ、私の想う人よ、あの大路に置いてきた。」これは遠い世を慕うことをいったのである。