御旨を承った後、みずから罪を申し上げる状啓有。旨祗受後自劾狀
前月二十八日右副承旨成貼以大臣受閫外之任云云有。旨書狀臣在東頗祗受臣本以至愚無狀冒受重任於國事板蕩之際其僨事辱國之狀固難悉數况與賊俱生坐淹時日京都未復而專仰。天兵臣子之罪萬死猶輕第臣之區區愚意則不得不達於。君父之前正月二十八日李提督自坡州欲退東坡臣與元帥金命元戶曹判書李誠中分戶曹判書林忠侃接待使李德醫運糧使權徵京畿觀察使李廷馨等同進廷辨於大將幕次問其退兵之由提督始辭不見但云此處不便駐軍姑退東坡留一二日休兵更進臣等以爲大軍一退機關甚重人聽驚惑將許多曲折移時爭辨最後提督出立幕前諸將環侍臣等進於其前或立辨或扣頭泣請提督反覆以少退更進之意論解不已至出。奏本見示臣手指。奏本中若干語辨爭不已大將張世爵至於發怒以足蹴迫通事使之速退臣等不得已皆各掩泣而退右相俞泓亦追到請之而不得其後欲自東坡退開城臣等叩心拊膺進退懇請者不記其數提督不得已紿臣等曰兵馬不可露處姑退開城我則當留駐此處臣等纔出墻外而提督跨馬馳去臣等雖立於路傍相顧駭歎而無如之何及還開城久留之時則講和之說尙未發端故臣只以登時進兵之意隨事祈懇而其時大軍旣退而坡州東坡等處人心動搖臣來在東坡提督至欲移權慄李薲之軍皆退臨津接待使李德馨韓應寅等陳其不可提督令開於臣臣卽遣從事官辛慶晋作書力陳坡州不可不守而其時臣在東坡金命元在坡州急於鎭定人心而提督之退兵平壤又出於不意故臣等未及馳去請止自此以後。天兵久留不還而查將獨留東坡不肯明言事情日遣金志貴往來於龍山等處取見。王子書及擄臣等書簡傳報提督臣慮其更有如平壤講解之事屢與金命元同見查將問其緣由則查將不言實狀只以大軍前進必期勦滅之言慰答而觀其辭色揣其所爲則多有可疑者一日臣直問提督之意如何則查將始以先爲圖出。王子後當進兵爲言臣極力辨正其言甚多查將猶以。王子爲諉臣不得已據大義攻破其說曰本國於倭賊有。廟社之讎不可共戴一天圖出。王子雖甚切迫而亦是第二件事旣而聞沈遊擊之來其日臣方以點視糧草往在德津壇卽遣從事官辛慶晋書小帖呈於道中勸令進兵臣追到欲與面辨則遊擊已在路中馬上擧手遙止不爲相見但語通事曰求見之意則吾已知之仍爲馳去其還不由東坡直自龍山從水路以去臣雖昏鄙無狀亦有人心豈有徒聞講和之說而甘心俯首不爲一言相及之理乎其後又聞開城留駐諸將中惟南將王必迪頗主用兵前後作書陳䇿請遣精兵繞出南路先擊漢南之賊以斷賊路王必迪亦以其計爲然同義兵將李山謙發遣炮手三十人往探道路其兵猶在振威而臣又作呈文馳送于平壤使李德馨等呈懇於提督臣之𤨏力微誠固已極盡無餘而於事無補臣罪當誅尙復何言但。天兵進退和戰制在經略與提督而提督在此之時旣不言和議退兵之後又在數百里之外在此查總兵以下又非主斷之將而至今諱其實每以行計用兵爲言臣雖欲碎首爭辨而其路無由故只得詳具此間聞見事狀盡達於。朝廷請急時區處區區妄料惟欲使。朝廷早聞曲折而致力於大將及經略所在之處以濟大計而已至於賊中出來王子書及擄臣賊酋文字臣亦見之其間固多有駭痛切骨之事而自古戰陣之間彼此事情關於機關者。朝廷不得聞知而失於酬應以至誤事者甚多故臣與金命元反覆詳議不得不達而又難直達或謄書上送或送於備邊司以備叅考處置而不知其陷於輕。朝尋國之罪此則迷臣昏謬輕妄料事不審之致罪何所逃大抵國事如此臣死已晚䇿勵疲鈍死於干戈臣之榮也近日各處軍民亦有死之心無生之氣臣未甞不約束諸將期於死戰自京城東西逐日血戰不敢以。天兵和戰之說而有所搖惑惟其食盡兵疲不能一决於數日之間以重。君父之憂臣之罪狀萬死猶輕國專至急閫外重任不可以負罪無狀之臣因循冒處使三軍之氣索然而諸將無復有禀畏之勢請亟下有司以正刑章而擇授可堪之人收拾萬一以濟時艱則臣雖死之日猶生之年臣不勝惶恐涕泣之至
先月二十八日に右副承旨が官印を押して下した、「大臣が閫外の任を受けたのであるから…」という御旨の書を、臣が東坡にあって承り受けました。
臣はもとより至って愚かで取るに足らぬ身でありながら、国の事が揺らぐ時に重い任を忝けなくも受けましたので、事を誤り国を辱めた実状は、まことに数え尽くしがたいのです。ましてや敵とともに生きながら座して日を送り、京城を取り戻せないまま、ただ明の軍ばかりを仰いでおりますので、臣下の罪は万度死んでもなお軽いのです。ただ臣のつまらぬ愚かな意は、君父の前に申し上げないわけにはまいりません。
正月二十八日、李提督が坡州から東坡へ退こうとしましたので、臣は元帥金命元・戸曹判書李誠中・分戸曹判書朴忠侃・接待使李徳馨・運糧使権徴・京畿観察使李廷馨らとともに進み、大将の幕舎で兵を退く理由を問い詰めました。提督は初めは辞って会わず、ただ「この地は兵を留めるのに不便であるから、ひとまず東坡へ退いて一、二日留まって兵を休めた後、改めて進もう」と申しました。
臣らは、大軍がひとたび退けば事の機がはなはだ重く、人々が聞いて驚き惑うだろうと申して、数々の曲折を挙げ、時を移して争い論じました。最後に提督が幕舎の前に出て立ち、諸将が取り囲んで侍りましたので、臣らはその前に進み、おりおり立って論じ、おりおり頭を地につけて泣いて請いました。提督は少し退いて改めて進むという意で繰り返し説き解いてやまず、奏本を出して見せるまでに至りました。臣が手で奏本の中の幾つかの語を指して論じ争ってやみませんと、大将張世爵が怒りを発して足で通事を蹴り、追い立てて速やかに退かせました。臣らはやむなくみな各々顔を覆って泣いて退き、右相兪泓も後から至って請いましたが、得られませんでした。
その後、東坡から開城へ退こうとしましたので、臣らは胸を叩き打ち、進み退きながら懇ろに請うたことがその数も覚えません。提督はやむなく臣らを騙して、「軍馬を野天に置くことはできないから、ひとまず開城へ退かせ、わたしはこの地に留まっていよう」と申しました。臣らがやっと塀の外へ出ますと、提督は馬に乗って馳せ去ってしまいました。臣らは路傍に立って互いに顧み、驚き嘆きましたが、どうすることもできませんでした。
開城へ帰って長く留まっていた時には、和を講じようという言葉がまだ糸口を見せませんでしたので、臣はただちに兵を進めようという意で、事に応じて懇ろに請いました。その時、大軍がすでに退いて坡州・東坡などの地の人心が揺らぎましたので、臣が来て東坡におりました。提督が権慄・李薲の兵を移してみな臨津へ退かせようとしましたので、接待使李徳馨・韓応寅らがその正しくないことを申し上げますと、提督は臣に知らせさせました。臣はただちに従事官辛慶晋を遣わし、書を作って坡州を守らないわけにはいかないことを力を尽くして申し述べました。その時、臣は東坡にあり金命元は坡州にあって、人心を鎮めることに急であり、提督が平壌へ兵を退いたことはまた思いがけぬ事でありましたので、臣らは馳せて行って止めることを請う暇がありませんでした。
この後、明の軍は長く留まって帰らず、査将だけが独り東坡に留まって事情を明らかに言おうとせず、日ごとに金志貴を遣わして龍山などの地を往き来させ、王子の書と捕らわれた臣らの手紙を得て見て、提督へ伝え報せました。臣は再び平壌で和を講じたような事があるのではないかと憂え、幾度も金命元とともに査将に会ってその理由を問いました。査将は実状を言わず、ただ大軍が前へ進んで必ず討ち滅ぼすことを期するという言葉で慰めて答えましたが、その言葉と顔色を見、そのすることを計りますと、疑うべきものが多かったのです。
ある日、臣が提督の意がどうであるかを直に問いますと、査将がはじめて、まず王子を出すことを図った後に兵を進めようという言葉を申しました。臣が力を尽くして正し論じた言葉がはなはだ多かったのですが、査将はそれでも王子を口実としました。臣はやむなく大義に拠ってその言葉を打ち破って申しました。「我が国は倭賊に対して廟社の仇があり、一つの天をともに戴いて生きることはできません。王子を出すことを図る事がはなはだ差し迫ってはおりますが、それもまた二番目の事です」。
やがて沈遊撃が来ると聞きましたが、その日、臣はまさに糧と秣を点検しに徳津壇へ行っておりました。ただちに従事官辛慶晋を遣わして小さな帖を書き、道中で差し出して兵を進めることを勧めました。臣が後から至って顔を合わせて論じようとしましたが、遊撃はすでに路にあって、馬の上から手を挙げて遠くから止め、会おうとしませんでした。ただ通事に、「会いたいという意はわたしがすでに知っている」と言い、そのまま馳せ去ってしまいました。帰るときも東坡を通らず、まっすぐ龍山から水の路を通って行ってしまいました。臣は暗く賤しく取るに足らぬ身ではありますが、やはり人の心がありますので、どうして和を講ずるという言葉だけを聞いて、心を甘んじて頭を垂れ、一言も及ばない理がございましょうか。
その後また、開城に留まっている諸将のうちで、ただ南の将王必迪が兵を用いることをかなり主張していると聞きましたので、前後して書を作って計策を申し述べ、精鋭の兵を遣わして南の路へ回り出て、漢江の南の敵をまず撃ち、敵の路を断つことを請いました。王必迪もその計策を正しいと思い、義兵将李山謙とともに砲手三十人を出し遣わして道を察しに行かせましたが、その兵はまだ振威におります。臣はまた呈文を作って平壌へ馳せ送り、李徳馨らに提督へ懇ろに差し出させました。
臣の細やかな力と小さな誠はまことにすでに尽きて余すところがありませんが、事には補いがありませんので、臣の罪は死に当たるものであり、改めて何を申しましょうか。ただ明の軍が進み退き、和し戦うことは経略と提督にかかっておりますのに、提督はこの地にいた時はすでに和を口にせず、兵を退いた後は数百里の外におります。この地にいる査総兵以下はまた決断を主とする将ではないのに、今までその実状を隠し、常に計策を行って兵を用いるという言葉ばかり申します。臣は頭を砕いてでも争い論じたいのですが、その路がありませんので、ただその間に聞き見た事の実状を詳しく具えて朝廷にすべて申し上げ、時に合わせて急ぎ処されることを請うほかありません。つまらぬながら妄りに計りますところは、ただ朝廷が早く曲折を聞いて、大将と経略のいる所へ力を尽くし、大きな計策を成させようということだけです。
敵中から出て来た王子の書と、捕らわれた臣、敵の首領の文字については臣も見ましたので、その間にまことに驚き痛み骨に徹する事が多くありました。古より戦う陣の間で、あちらこちらの事情で事の機に関わるものを朝廷が聞き知らず、応対を誤って事を誤ったことがはなはだ多かったのです。ですから臣は金命元と繰り返し詳しく議して申し上げないわけにはまいりませんでしたが、また直に申し上げがたく、おりおり写して上げ送り、おりおり備辺司へ送って参考して処置する備えとさせました。それが朝廷を軽んじ国をみだりに扱う罪に陥ることであると知りませんでしたので、これは迷った臣が暗く誤り、軽はずみで事を計るのに察しなかったせいです。罪をどこへ逃がしましょうか。
およそ国の事がこのようでありますから、臣が死ぬのもすでに遅いのです。疲れて鈍い身に鞭を打ち、戈と盾の間で死ぬことが臣の栄です。このごろ処々の兵も民も死ぬ心があって生きようとする気がありませんので、臣は諸将に約束して死ぬ覚悟で戦うことを期さなかったことはありません。京城の東西で日ごとに血を流して戦い、明の軍が和し戦うという言葉に揺らいで惑うことはありませんでした。ただ食べるものが尽き兵が疲れて、幾日かのうちにひとたび決することができず、君父の憂いを重くしましたので、臣の罪状は万度死んでもなお軽いのです。
国の事がきわめて急でありますのに、閫外の重い任を、罪を負って取るに足らぬ臣がそのまま忝けなくも占めて、三軍の気を寂しくさせ、諸将に改めて伺い畏れる勢いがなくさせるわけにはまいりません。急ぎ有司へ下されて刑の法を正され、堪えられる人を選んで授けられ、万分の一でも取り集めてこの難しい時を救わせてくださるなら、臣は死ぬ日であってもなお生きている年と同じでございます。臣は恐れ畏み、涙を流すことに堪えません。
夾注 2
四月七日
四月七日。
底本は林忠侃であるが、朴忠侃の誤りと見る