明軍が退いた後、慶州・蔚山の軍人が賊の首を撃ち斬った上申状天兵退後慶州蔚山軍人擊斬賊首狀
慶州府尹朴毅長馳報內。天兵退北後倭賊二百餘名或騎或步收取。天兵所棄衣甲於路射牌等突進追擊斬首十七級又據本官馳報本月十五日倭賊三百餘名騎步相半出來我軍一時突入多數射中斬三級生擒一倭又據本官馳報十五日倭四百餘名出來橫行射牌等突入接戰斬頭二十一級又據蔚山郡守金大虛牒呈本郡屯賊出來時軍官朴應琢等戰於柳沙亭斬十三級云臣觀道內軍人可用於戰陣者蔚山慶州之軍爲上永川次之此輩非自初精勇有異於他邑之人而然也特以居近賊陣日與交鋒心膽已堅故能以少敵多而不爲退北此古人所以兵以土着爲貴而所謂徵兵滿萬不如召募得百者誠非虛語也但我軍無訓養之素每令軍士自褁糧食軍器亦令自備皆鈍不堪用以此雖勇致力戰之士飢困無聊不能盡其材力而軍功論賞又不以時以此軍心或至於懈怠而不振極爲可惜臣在慶州時以。天兵用餘軍糧之在慶州者使之計日給料今慶州之軍還集者七百餘人蔚山之軍百餘人皆敢死一可當十者繼今以後若能措備軍糧資以衣甲弓箭別爲撫養皷舞其心則邊上軍兵之漸次加聚者似不止此數而將來戰守之計爲益必多常時軍功則自有都元帥等狀。啓故其軍人名目不爲幷擧只陳兩邑之軍力戰希賞之意請令備邊司查考前後狀。啓軍功等第而急速行賞以應賞不踰時之意用以激勵軍情
慶州府尹朴毅長が馳せて報せてきた内に、「明軍が退いて北へ去った後、倭賊二百余名が、あるいは馬に乗りあるいは歩いて、明軍が路に捨てた衣と甲を収めましたので、射牌らが急に進んで追い撃ち、十七級を斬りました」とありました。
また本官が馳せて報せてきたものによりますと、「今月十五日、倭賊三百余名が騎馬と徒歩相半ばして出て来ましたので、我が軍が一時に突き入って多くを射当て、三級を斬り、倭一人を生け捕りました」とありました。また本官が馳せて報せてきたものによりますと、「十五日、倭四百余名が出て来て勝手に動き回りましたので、射牌らが突き入って戦い、頭二十一級を斬りました」とありました。また蔚山郡守金大虛の牒呈によりますと、「本郡に屯する賊が出て来た時、軍官朴應琢らが柳沙亭で戦い、十三級を斬りました」とありました。
臣が道内の軍人のうち戦陣に用いるに足る者を見ますと、蔚山と慶州の軍が第一で、永川がその次です。この者たちが初めから精しく勇ましく、ほかの邑の人と違っていてそうなのではありません。ただ賊陣の近くに住んで日々刃を交えますので、心と肝がすでに堅くなった故に、よく少ない数で多い数に当たり、退いて逃げないのです。これは昔の人が、兵はその土地に根を置く者を貴いとした理由であり、いわゆる「兵を徴して万に満たせるよりも、召し募って百を得るに及ばない」という言葉が、まことに空言でないのです。
ただ我が軍は平素に教え養ったところがなく、常に軍士に自ら糧食を包んで来させ、軍器もまた自ら備えさせますので、みな鈍くて用いるに堪えません。このため、たとえ勇ましく力を尽くして戦う兵でも、飢え困じて頼るところがなく、その才と力を尽くせません。また軍功を論じて賞を与えることが時に合いませんので、このために軍の心が怠って振るわないに至りますので、きわめて惜しいことです。
臣が慶州にいた時、明軍が用いて残った軍糧で慶州にあるものを、日数を計って食う分として与えさせました。今、慶州の軍で帰り集まった者が七百余人、蔚山の軍が百余人ですが、みな死を覚悟して一人が十人に当たるに足る者です。今より後、もし軍糧を調え、衣と甲、弓と矢で助け、別に撫でて養ってその心を鼓舞すれば、辺上の軍兵で次々に加わり集まる者はこの数に止まらぬようであり、これから戦い守る計への助けは必ず多いでしょう。
平時の軍功は都元帥らの状が別にありますので、その軍人の名は併せて挙げず、ただ二つの邑の軍が力を尽くして戦い、賞を望む意だけを申し上げます。備邊司に前後の状の軍功の等級を調べさせ、急ぎ賞を行わせて、賞は時を越さぬという意に応じ、軍の心を励ましてくださいますよう。