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京畿と黃海道に送って軍務を知らせた文移京畿黃海道軍務文

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 懲毖錄 · 柳成龍(リュ・ソンリョン) · 1633年刊行(壬辰倭乱の後に著す) · 段落 1 · 漢字 513字 · 朗読 4分

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 巻15 軍門謄錄 壬辰倭乱が終わった後、領議政の柳成龍が自らの目で見たものを記して残した記録。「過ぎたことを懲らして後の憂いを慎む」という意で名を付けた。戦争がどのように始まり、朝廷が何を見落としたかを言い逃れなく記した。李舜臣を推挙したこと、明の軍とのいざこざ、民が経た惨状がそのまま収められている。

國家昇平百年民不知兵一遇狂寇不能支吾禍至於此今者懲創往事圖毖後患之䇿惟在於鍊兵一事但爲之不得其方使奸吏操縱其間則民情有所不安亦非可行之䇿故別設武學事目使之各在其面隨便操鍊事行移知委京畿防禦使下去時亦擧此意已爲申勅大抵。祖宗朝軍政大綱專在於設立鎭管使有統屬而昇平之後此制墜廢軍政無統兵無部伍卒然遇變將出於朝兵出於野紛然無制如驅群羊以當矢石之場不敗何待今者。朝廷深懲此弊申明鎭管之法非止一再而外方鍊兵之規尙多紊亂失序誠爲寒心頃者忠淸道鍊兵之事。朝廷別遣御史爲之一從訓鍊都監分付施行故其哨官旗隊之法歷歷分明一覽可見分數乃兵家之要法分數旣明然後操鍊可爲而號令可施京畿則有水原廣州楊州長湍四鎭管而江華喬桐則以在海中故不屬於陸軍而別爲一鎭黃海道則有海州黃州二鎭管此其。祖宗經遠之慮今鍊兵之規不可捨此而他求京畿則各鎭管所屬之軍別爲成册從其多少幷其各面哨官旗隊總牒報黃海道亦依此一樣成册急速牒報黃海道海邊各浦屬於所江而僉使爲其鎭管蓋以黃海無水使故使僉使爲鎭管使各浦之勢有所統屬立法本意實非偶然而今則僉使旣不知自爲鎭管所屬各浦又不知屬於所江事無統領何以禦敵今後所江僉使次知屬浦之事一年人番水軍之數時存戰艦之數及常時船隻改造時材木所取處軍士應入數火迫飛報

国が太平であること百年、民が兵を知らず、ひとたび狂った寇に遭うと支えきれず、禍がここに至った。今、過ぎた事を懲らし、後の患を慎む策を図ることは、ただ兵を習わせる一事にある。ただ、行うのにその方途を得ないために、よこしまな吏がその間で手管を弄すれば民情が安んじないので、これもまた行うに足る策ではない。そのため別に武學事目を設けて、それぞれその面で便宜に従って操り習わせる事を公文で知らせ、京畿の防禦使が下って行く時にも、この趣旨を挙げてすでに重ねて戒めた。

おおよそ祖宗の朝の軍政の大綱は、ひとえに鎭管を立てて統べるものと属するものがあるようにした点にあったのだが、太平の後にこの制が崩れ廃れて、軍政に統べるものがなく、兵に部伍がなく、にわかに変に遭えば將は朝廷から出て兵は野から出て、乱れて制がないので、羊の群れを駆って矢と石の飛ぶ場に当たらせるようなもので、敗れずに何を待とうか。

今、朝廷がこの弊を深く懲らして鎭管の法を重ねて明らかにしたことが一度二度ではないのに、外の邑の兵を習わせる規はいまだに乱れて序を失ったものが多く、まことに心寒いことである。先ごろ忠淸道で兵を習わせた事は、朝廷が別に御史を遣わして行わせ、ひとえに訓鍊都監の申し渡しに従って施行したので、その哨官と旗總・隊總の法がはっきりと分明で、ひと目見れば分かる。隊を分けて数を定めることは兵家の要めの法であり、それが明らかになった後にはじめて操り習わせることができ、号令を施すことができる。

京畿には水原・廣州・楊州・長湍の四つの鎭管があり、江華と喬桐は海の中にあるので陸軍に属させず別に一つの鎭とし、黃海道には海州・黃州の二つの鎭管があるが、これは祖宗が遠くを見通された配慮である。今、兵を習わせる規はこれを捨ててほかに求めることはできない。京畿は各鎭管に属する軍を別に册に作り、その多少に従って各面の哨官と旗總・隊總を併せて報せ、黃海道もこれと同じように册を作って急ぎ報せよ。

黃海道の海辺の各浦は所江に属し、僉使がその鎭管となるが、おおむね黃海に水使がいないので僉使を鎭管として、各浦の勢いに統べるものと属するものがあるようにしたのであり、法を立てた本意はまことに偶然ではない。ところが今、僉使はすでに自ら鎭管であることを知らず、属する各浦もまた所江に属することを知らず、事に統べるものがないので、何によって敵を防ぐのか。今より後は所江の僉使が属する浦の事を受け持ち、一年に番に立つ水軍の数、今ある戦艦の数、平時に船を造り替える時に材木を得る所、入るべき軍士の数を、火急に報せよ。

夾注 1

同月十九日

同じ月の十九日