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記し終えた後の、さまざまな話錄後雜記

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 懲毖錄 · 柳成龍(リュ・ソンリョン) · 1633年刊行(壬辰倭乱の後に著す) · 段落 11 · 漢字 5,285字 · 朗読 48.4分

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 録後雑記 壬辰倭乱が終わった後、領議政の柳成龍が自らの目で見たものを記して残した記録。「過ぎたことを懲らして後の憂いを慎む」という意で名を付けた。戦争がどのように始まり、朝廷が何を見落としたかを言い逃れなく記した。李舜臣を推挙したこと、明の軍とのいざこざ、民が経た惨状がそのまま収められている。

戊寅秋長星竟天狀如白練自西向東數月而滅戊子間漢江三日赤辛卯竹山大平院後有石自起立通津縣僵柳復起民間訛言將遷都又東海魚產於西海漸至漢江海州素產靑魚近十餘年絕不產移產於遼海遼東人謂之新魚又遼東八站居民一日無故相驚曰有寇從朝鮮至朝鮮王子十亭轎子到鴨綠江傳相告語老弱登山數日乃定又我國使臣自北京還宿金石山河姓人家其主人言有朝鮮譯官語我云爾有三年酒五年酒毋惜爲樂不久兵至爾軰雖有酒誰其飲之以此遼人疑朝鮮有異志多驚惑云使臣歸。啓其事。朝廷以譯官必有造言生事誣陷本國者逮捕數人鞫於仁政殿庭用壓膝火刑皆不服而死此辛卯年間事明年遂有倭變是知大亂將生人雖未覺而形於兆眹不一其端至於白虹貫日太白經天無歲無之人視爲常事又都城內常有黑氣非烟非霧盤地接天如此幾十餘年其他變恠難以殫記天之告人可謂深切而特人不能察耳

戊寅の年の秋、長い星が空に伸びて、形が白い絹のようであり、西から東へ向かって数か月で消えた。戊子の年のころには漢江の水が三日のあいだ赤かった。辛卯の年には竹山の太平院の後ろで石が自ずと立ち上がり、通津縣で倒れていた柳がふたたび起き上がった。民間に、やがて都を移すという浮いた噂が流れた。

また東海で獲れていた魚が西海で獲れるようになり、次第に漢江にまで至った。海州はもとより鯖が獲れる所であったのに、近ごろ十余年のあいだまったく獲れず、遼東の海へ移って獲れたので、遼東の人はこれを「新しい魚」と呼んだ。

また遼東の八站の民が、ある日わけもなく互いに驚いて「賊が朝鮮から来る。朝鮮の王子の輿十台が鴨綠江に着いた」と言い、互いに伝えて言を移したので、老いた者と幼い者が山に登り、数日たってようやく収まった。

また我が国の使臣が北京から帰る途中、金石山の河という姓の人の家で泊まったが、その主人が言うには、「朝鮮の譯官が私に、〈お前に三年ものの酒と五年ものの酒があれば、惜しまず楽しめ。久しからず軍が来るのだから、お前たちに酒があっても誰がそれを飲むものか〉と言った」とのことであった。このため遼東の人が朝鮮に異な志があるのかと疑って、大いに驚き惑ったという。

使臣が帰ってその事を申し上げた。朝廷では、譯官のうちに必ず言を作って事を起こし本国を誣る者があろうとして、数人を捕らえて仁政殿の庭で糾問し、壓膝と火刑を用いたが、みな自白せずに死んだ。これは辛卯の年ごろの事であり、その翌年にとうとう倭の変があった。

これによって分かる。大きな乱がまさに起ころうとすれば、人はたとえ気づかなくとも、兆しに現れるものがその端が一つではない。白い虹が日を貫き、太白星が空を横ぎることに至っては、ない年がなくて、人々は常の事と見ていた。また都城の内に常に黒い気があって、煙でもなく霧でもないものが地に蟠って天に届いていたが、こうしたことが十余年であった。そのほかの変異は書き尽くしがたい。天が人に告げることは深く切であると言うに足るのに、ただ人が察せられないだけである。

夾注 3

戊寅の年は一五七八年、戊子の年は一五八八年、辛卯の年は一五九一年である。

八站は、義州から遼東へ行く路の途中の八つの駅站である。

壓膝は、膝を押さえて自白を取る刑罰である。

杜詩長安城頭頭白烏夜飛延秋門上呼又向人家啄大屋屋底達官走避胡蓋記異也壬辰四月十七日賊報至朝野遑遑忽有恠鳥鳴於後苑飛在空中或近或遠只一鳥而聲滿城中人無不聞終日達夜其鳴不暫停如此十餘日。車駕出狩賊入城宮闕廟社公私廬舍一空嗚呼其亦恠甚矣又五月余隨駕至平壤寓於金乃進家乃進語余曰年前有豺屢入城中大同江水赤東邊濁甚西邊淸今果有此變時賊猶未至平壤余聞此語默然不答而心不喜未幾平壤又陷蓋豺乃野獸不合入城市如春秋記鸜鵒來巢六鷁退飛多麋有蜮之類鮮有無其應者天之示人顯矣聖人之垂戒深矣可不懼哉可不愼哉又壬辰春夏間歲星守尾箕尾箕乃燕分而自古言我國與燕同分時賊兵日逼人心洶懼不知所出一日。下敎曰福星方在我國賊不足畏蓋。聖意欲假此以鎭人心故也然是後都城雖失而卒能恢復舊物。旋軫故都賊酋秀吉又不能終逞兇逆而自斃斯豈偶然哉蓋莫非天也

杜甫の詩に「長安の城頭の頭の白い烏が、夜に飛んで延秋門の上で鳴く」とあるのは、おおむね怪しい事を記したものである。

壬辰の年の四月十七日に賊の報せが至ると、朝廷も民間も慌てふためいた。ふいに怪しい鳥が後苑で鳴きながら空中を飛び、あるいは近くあるいは遠くであったが、ただ一羽の鳥なのに声が城の中に満ちて、聞かない人はなかった。終日夜を徹してその鳴き声が片時も止まず、こうしたことが十余日であった。車駕が城を出て避けられ、賊が城に入ると、宮闕と宗廟社稷、公私の家が一時に空になった。ああ、それもまた怪しさが甚だしい。

また五月に私が車駕に従って平壤に至り、金乃進の家に宿った。乃進が私に言うには、「幾年か前に豺が幾度も城の中に入り、大同江の水が赤かったが、東の岸ははなはだ濁り、西の岸は清んでいました。今まさにこの変があります」とのことであった。その時、賊はまだ平壤に至っていなかった。私はこの言を聞いて黙って答えなかったが、心中喜ばしくなく、幾日もせずに平壤もまた陥ちた。

おおむね豺は野の獣であるから、城の中の市に入るのは当たらない。春秋に、鸜鵒が来て巣を作った事、六羽の鷁が退いて飛んだ事、麋が多かった事、蜮がいた事を記したのと同じように、その応ずることのないものは稀であった。天が人に示すことは明らかであり、聖人が戒めを垂れたことは深いのだから、恐れずにいられようか、慎まずにいられようか。

また壬辰の年の春夏のあいだ、歲星が尾と箕に留まった。尾と箕はすなわち燕の分野であるが、昔から我が国は燕と分野を同じくすると言われた。その時、賊兵が日ごとに迫って人心が騒がしく恐れて、どうすべきか分からなかった。ある日、教旨を下されて「福星がまさに我が国にあるのだから、賊は恐れるに足らない」と言われた。おおむね聖上の意が、これを借りて人心を鎮めようとされた故である。しかしこの後、都城はたとえ失ったとしても、ついに旧のものを取り戻して古い都へ車を戻され、賊の首領の秀吉もついに凶悪な逆心を遂げられず自ら斃れたのだから、これがどうして偶然であろうか。おおむね天でないものはない。

夾注 2

歲星は木星である。分野は、空の星座を地の地域に分けて組み合わせたものである。

蜮は、水の中から砂を射て人を害するという虫である。

倭最奸巧其用兵殆無一事不出於詐術然以壬辰之事觀之可謂工於都城而拙於平壤也我國昇平百年民不知兵猝聞兵至倉皇顚倒遠近靡然皆失魂魄倭乘破竹之勢旬日之間徑造都城使智不及謀勇不及斷人心崩潰莫可收拾此兵家善謀而賊之巧計故曰工也於是乃自恃常勝之威而不顧其後散出諸道任其狂肆兵分則勢不得不弱千里連營曠日持久所謂强弩之末不能穿魯縞而張叔夜所謂女眞不知兵豈有孤軍深入而能善其歸者殆近之矣是以。天兵以四萬攻破平壤平壤旣破則其在諸道者亦皆奪氣雖京城猶據而大勢已縮我民之在四方者處處要擊賊首尾不能相救終不得不遁故曰拙於平壤也嗚呼賊之失計我之幸也誠使我國有一將將數萬兵相時用奇擊斷長蛇分其要脊行之於平壤之敗則其大帥可坐致也發之於京城以南則將使隻輪不返矣如此然後賊心驚膽破數十百年間不敢正視於我而無復後慮矣當時我方積衰力不能辦此。天朝諸將又不知出此使賊從容去來略無懲畏要索萬端於是出於下䇿欲以封貢覊縻之可勝歎哉可勝惜哉至今思之令人扼腕

倭は最も奸しく巧みで、その兵の用い方はほとんど一つの事も詐りの術から出ないものがない。しかし壬辰の年の事で見れば、都城では巧みであったが、平壤では拙かったと言うに足る。

我が国は太平であること百年で民が兵を知らなかったのに、にわかに軍が来ると聞いて慌てふためいて倒れ、遠近が薙ぎ倒されたようになってみな魂を失った。倭が竹を割く勢いに乗じて十日のあいだにまっすぐ都城に至ったので、智のある者が謀る間がなく、勇のある者が決する間がなく、人心が崩れて収拾できなかった。これは兵家の良い謀りであり、賊の巧みな計であるから、それゆえ巧みだと言ったのである。

そこで常に勝ってきた威を自ら恃んでその後ろを顧みず、諸々の道へ散り出て思うままに狂い振る舞わせた。兵が分かれれば勢いが弱くならざるを得ず、千里に陣営を連ねて日を費やして長く引いたのだから、いわゆる強い弩の末は魯の薄絹も貫けないというものである。張叔夜が「女眞は兵を知らないのだから、どうして孤立した軍で深く入って、その帰りをうまくやれる者があろうか」と言った言葉に、ほとんど近い。

このため明軍が四万で平壤を攻め破り、平壤がすでに破れると、諸々の道にいた者もみな気を奪われた。たとえ京城をそのまま拠っていても大きな勢いはすでに縮み、四方にいた我が民が所々で要路を塞いで撃ったので、賊は頭と尾が互いに救えず、ついに逃げざるを得なかった。それゆえ平壤では拙かったと言ったのである。

ああ、賊が計を誤ったのは我が方の幸いである。まことに我が国に一人の將があって数万の兵を率い、時を見て奇なる謀りを用いて長い蛇を撃ち切り、その腰を割いたならば、平壤で敗れた時にこれを行っていれば、その大將を座して捕らえることができたであろうし、京城の南でこれを起こしていれば、まさに車輪一つも帰らせなかったであろう。このようにした後にこそ、賊の心が驚き肝が潰れて、数十百年のあいだ敢えて我が方を正面から見ることができず、後の憂いがふたたびなかったであろう。

その時、我が方はまさに衰えが積もって力がこれを成し遂げられず、明の朝廷の諸々の將もまたこうすることを知らなかったので、賊に静かに行き来させ、少しも懲り恐れることなく万端に要求させた。そこで低い計に出て、封貢で繋ぎ止めようとしたのだから、嘆きに堪えられようか、惜しさに堪えられようか。今も思えば、人に腕を握りしめさせる。

夾注 1

封貢は、倭の首領を王に封じ、朝貢を納めることを許して懐けることである。

昔鼂錯上言兵事曰用兵臨戰合刃之急有三一曰得地形二曰卒服習三曰器用利三者兵之大要而勝負之所决爲將者不可不知也倭奴習於攻戰而器械精利古無鳥銃而今有之其致遠之力命中之巧倍蓰於弓矢我若相遇於平原廣野兩陣相對以法交戰則敵之極難蓋弓矢之技不過百步而鳥銃能及於數百步來如風雹其不能當必矣然先擇地形得其山阨險阻林木茂密處散伏射手使賊不見其形而左右俱發則彼雖有鳥銃槍刀皆無所施而可大勝也今擧一事爲證壬辰賊入京城逐日分掠於城外至。園陵亦不保有高陽人進士李櫓稍解操弓有膽氣一日與同伴二人各持弓矢入。昌敬陵不意賊衆大出滿谷中櫓等無以爲計奔入於藤蘿蒙密叢中賊來索之徘徊窺覘櫓等從其內輒射之皆應弦而倒又遷其處往來倐忽賊尤莫能測自是所至見叢薄則遠遠走避不敢近。二陵得全以此見之地形得失成敗隨之方賊在尙州申砬李鎰等若知出此先於兎遷鳥嶺三數十里間伏射手數千人使賊莫測多少則可以制敵乃以烏合之卒不鍊之兵棄其險塞相角於平地宜其敗也余於兵機備言之今又特記之以爲後戒

昔、鼂錯が兵の事を上って言うには、「兵を用いて戦いに臨み、刃を合わせる時の急なものが三つある。一つは地形を得ること、二つは卒が習い慣れていること、三つは器具が利いことである」と。この三つは兵の大きな要めであり、勝ち負けが決せられるところであるから、將たる者が知らないわけにはいかない。

倭は攻め戦うことに習い慣れて、兵器が精しく利い。昔は鳥銃がなかったが今はあって、その遠くに及ぶ力と当てる巧みさが、弓と矢より幾倍である。我が方がもし広い野で相見えて、二つの陣が向かい合って法のとおりに戦うならば、これに敵するのはきわめて難しい。おおむね弓と矢の技は百歩に過ぎないが、鳥銃はよく数百歩に及んで、来ることが風と雹のようであるから、当たり得ないことは間違いない。

しかしまず地形を選び、山が塞がって険しく、木が茂った所を得て射手を散らして伏せ、賊にその姿を見せないようにして左右から共に射れば、相手にたとえ鳥銃と槍刀があってもすべて用いる所がなく、大いに勝つことができる。

今、一つの事を挙げて証しとする。壬辰の年に賊が京城に入って日ごとに分かれて城の外を掠めたので、王陵までも保てなかった。高陽の人、進士李櫓が弓を取ることを少し知って胆気があった。ある日、連れ二人と共にそれぞれ弓と矢を持って昌陵・敬陵に入ったところ、思いがけず賊の群れが大きく出て谷に満ちた。櫓らはどうする計もなく、蔓が密に茂った叢の中へ走り入った。賊が来て探し、うろついて覗き見たので、櫓らがその内からふいに射ると、みな弦の音に応じて倒れた。またその場所を移してしばらくのうちに行き来したので、賊はいよいよ測ることができなかった。これより後、至る所で茂った叢を見れば遠くから走り避けて敢えて近づかず、二つの陵が無事を得た。

これによって見れば、地形を得るか失うかに、成るか崩れるかが従う。まさに賊が尙州にいた時、申砬・李鎰らがもしこうすることを知って、まず兎遷と鳥嶺の三、四十里のあいだに射手数千人を伏せ、賊に多少を測らせないようにしていたならば、敵を制することができたであろう。ところが烏の群れのように集まった卒と、習わせていない兵で、その険しい要めを棄てて平地で競い合ったのだから、その敗れたのは当然である。私は兵の機を述べた所で具えて言ったが、今またとりわけ記して後の戒めとする。

夾注 2

鼂錯は、漢の文帝の時の臣である。

昌陵・敬陵は、高陽にある王陵である。

城者禦暴保民之所當以堅固爲主古人言城制皆曰雉所謂千雉百雉者是也余平時讀書鹵莾不知雉爲何物每以垜當之甞疑垜但千百則其城至小不能容衆將何以哉及變後始得戚繼光紀效新書讀之乃知雉非垜卽今之所謂曲城甕城者也蓋城無曲城甕城則雖人守一垜而垜間立盾以遮外面矢石賊之來傅城下者不可見而禦之也紀效新書每五十垜置一雉外出二三丈二雉間相去五十垜一雉各占地二十五垜矢力方盛左右顧眄便於發射敵無緣來附城下矣壬辰秋余久留安州念賊方在平壤若一朝西下則行在前面無一遮障處不量其力欲修安州城而守之重陽日偶出晴川江上顧視州城默坐深念者久之忽思得一䇿城外當從形勢別築凸城如雉制而空其中使容人前面及左右鑿出砲穴可從中放砲上建敵樓樓相距千步以上大砲中藏鐵丸如鳥卵者數斗賊多集城外砲丸從兩處交發無論人馬雖金石無不糜碎若是則他堞雖無守兵只使數十人守砲樓而敵不敢近矣此實守城妙法其制雖倣於雉而功勝於雉萬萬矣蓋千步之內敵旣不敢近則所謂雲梯衝車者皆不得用此事余偶思得之其時卽。啓聞。行在後於經席屢發之又欲使人見其必可用丙申春京城東水口門外擇地聚石作之未成而異論紛起廢而不修後日如有遠慮者勿以人廢言修擧此制則其於備禦之道所益不少矣

城とは暴を防ぎ民を保つ所であるから、まさに堅固であることを主とすべきである。昔の人が城を造る法を言う時、みな雉と言ったが、いわゆる千雉、百雉というのがこれである。

私は平時に書を読むことが粗くて、雉が何の物であるか分からず、常に垜のことと思っていた。かつて疑ったのは、垜がただ千か百であれば、その城はきわめて小さくて衆を容れられないのだから、まさにどうするのかということであった。乱の後にはじめて戚繼光の紀效新書を得て読み、雉が垜ではなく、すなわち今いわゆる曲城・甕城であることを知った。

おおむね城に曲城と甕城がなければ、たとえ人ごとに垜一つずつを守り、その間に盾を立てて外の矢と石を遮っても、賊が城の下に取り付くのを見て防ぐことができない。紀效新書には、垜五十ごとに雉一つを置いて外へ二、三丈出させ、二つの雉のあいだの隔たりは五十の垜で、一つの雉がそれぞれ二十五の垜を受け持つようにさせてある。そうすれば矢の力がまさに盛んで、左右を顧みて射るのに便宜であるから、敵が城の下に取り付いて来る道がない。

壬辰の年の秋、私が長く安州に留まって思ったのは、賊がまさに平壤にいるのだから、もし一朝にして西へ下れば、行在所の前に一か所も遮り覆う所がないということであり、その力を計らずに安州の城を修めて守ろうとした。重陽の日にたまたま晴川江のほとりに出て、邑の城を顧み見ながら黙って座って深く考えることが久しかったが、ふいに一つの計を思い得た。

城の外にまさに形勢に従って別に突き出た城を築くが、雉の制と同じようにしてその中を空けて人が入れるようにし、前面と左右に砲の穴を穿ってその中から砲を放てるようにし、上には敵樓を立てるが、樓と樓の隔たりを千歩余りとする。大きな砲の中には鳥の卵ほどの鉄の弾を数斗入れる。賊が城の外に多く集まった時、砲の弾が二か所から交互に出れば、人と馬は言うまでもなく、金と石であっても砕けないものがない。このようにすれば、ほかの狹間に守る兵がいなくとも、ただ数十人で砲樓を守らせれば、敵が敢えて近づけない。これはまことに城を守る妙なる法であり、その制はたとえ雉に倣ったとしても、効き目は雉より万々倍勝る。おおむね千歩の内に敵がすでに敢えて近づけなければ、いわゆる雲梯と衝車をすべて用いられない。

この事は私がたまたま思い得たものであるから、その時すぐ行在所へ申し上げ、後に経筵の席でも幾度も述べた。また人々に必ず用いるに足ることを見せようとして、丙申の年の春に京城の東の水口門の外に地を選んで石を集めて作りかけたが、成し遂げられないまま異なる議が乱れ起こって、やめて修めなかった。後日もし遠く思う人があれば、人によって言を棄てずにこの制を修め起こせば、防ぎ守る道に益するところが少なくないであろう。

夾注 2

雉は、城壁の外へ突き出させて築き、横から敵を射る場所である。

垜は、城の上に築いて身を隠して弓を射る場所である。

余在安州時友人金士純爲慶尙右監司有書云欲修治晋州爲死守計先是賊甞一犯晋州不勝而退余答士純云賊早晩必來報來則必用大勢守比舊差難惟當建砲樓以待之可無患遂於書中詳言其制癸巳六月余聞賊復攻晉州謂辛從事慶晋曰晋事甚危幸而有砲樓則猶可支不然難守矣旣而下陜川聞晋已陷丹城縣監趙君宗道亦士純友也爲余言前年與士純同在晉州士純見余書踊躍稱奇卽與幕下士友數人巡城因其地形以爲當設於八處督令伐木浮江而下州民憚其役乃曰前無砲樓猶守郤賊今何用勞人士純不聽材已具始役有日適士純病不起其事遂寢云相與一痛而罷嗚呼士純之不幸卽一城千萬人之不幸也斯固數也非人力之所能容

私が安州にいた時、友人の金士純が慶尙右監司となって文を送り、「晋州を修め治めて死を覚悟して守る計としたい」と言った。これより先、賊がかつて一度晋州を犯したが、勝てずに退いた。

私が士純に答えて、「賊は早晩必ず来て報いるであろうし、来れば必ず大きな勢いを用いるのだから、守ることが以前より少し難しいであろう。ただ砲樓を立てて待ってこそ憂いがないであろう」と言い、ついに文の中にその制を詳しく述べた。

癸巳の年の六月、私は賊がふたたび晋州を攻めると聞いて、從事官辛慶晉に「晋州の事がはなはだ危うい。幸いに砲樓があればなお支えられるであろうが、そうでなければ守りがたいであろう」と言った。やがて陜川へ下って、晋州がすでに陥ちたことを聞いた。

丹城縣監趙宗道も士純の友であったので、私に言うには、「昨年、士純と共に晉州にいましたが、士純があなたの文を見て跳ね上がって奇なりと称え、すぐ幕下の士の友二、三人と城をめぐり、その地形に従ってまさに八か所に設けるべきだと言って、木を伐って江に浮かべて下すことを督促しました。邑の民がその役を厭って、〈前に砲樓がなくてもなお守って賊を退けたのに、今どうして人を労するのか〉と言いましたが、士純は聞かず、材木をすでに整えて役を始めてから幾日かになりましたのに、ちょうど士純が病んで起き上がれず、その事がついに止みました」とのことであった。互いに一度痛んで別れた。

ああ、士純の不幸は、すなわち一つの城の千万人の不幸である。これはまことに運であって、人の力でどうにかできるところではない。

夾注 1

金士純は金誠一であり、士純はその字である。

壬辰四月賊連陷內郡我軍望風潰散無敢交鋒者備邊司諸臣日聚。闕下講備禦之䇿而無以爲計或建議曰賊善用槍刀我無堅甲可禦故不能敵當以厚鐵爲滿身甲長不見物被入賊陣則賊無隙可刺而我可勝矣衆曰然於是大聚工匠晝夜打造余獨以爲不可曰與賊鬪雲合鳥散貴於捷疾旣被滿身厚甲其重不可勝身且不能運何望殺賊數日知其難用遂罷又臺諫請見大臣言計其中一人盛氣斥大臣無謀座上問有何䇿對曰何不於漢江邊多設高棚使賊不得上而俯射之耶或曰賊之鐵丸亦不得上耶其人無語而退聞者傳以爲笑嗚呼兵無常勢戰無常法臨機制變進退合散出奇無窮只在於將而已然則千言萬計皆無用惟在於得一將才而鼂錯所陳三䇿尤係切要闕一不可其餘紛紛者何補焉大抵國家擇將於無事之日任將於有事之際擇之貴精任之貴專當時慶尙道水將則朴泓元均陸將則李珏曹大坤已非才選及其變生巡邊使防禦使助防將等皆自朝廷受命而來各持專斷之權自行號令進退由意而不相統屬正犯輿尸之戒事何由得濟且所養非所用所用非所養將卒不相知皆兵家大忌奈何前車旣覆後不知改至今尙循此塗轍如此而望其無事者特幸耳言之其說甚長非可一二盡嗚呼危哉

壬辰の年の四月に賊が内の郡を次々に陥れたので、我が軍は敵の勢いを望んだだけで崩れ散り、敢えて刃を交える者がなかった。備邊司の諸々の臣が日ごとに闕の下に集まって防ぎ守る計を議ったが、計がなかった。

ある者が議を出して、「賊が槍と刀をよく使うのに我が方には防ぐ堅い甲がないので敵せない。まさに厚い鉄で全身の甲を作り、長くして身が現れないようにして、着て賊の陣に入れば、賊が刺す隙がなくて我が方が勝てる」と言うと、皆が正しいと言って、そこで工匠を大きく集めて昼夜打ち造った。私だけが独り正しくないとして、「賊との戦いは雲のように集まり鳥のように散るものであって速さを貴ぶのに、すでに全身に厚い甲を着れば、その重さに堪えられず身も動かせないであろうから、どうして賊を殺すことを望めようか」と言った。数日して用いがたいことを知って、ついにやめた。

また臺諫が大臣に会って計を述べることを請うたが、そのうち一人が気を立てて大臣が謀りのないことを斥けた。座にいた者が「どんな計があるのか」と問うと答えて、「どうして漢江のほとりに高い棚を多く設けて賊が上って来られないようにして、見下ろして射ないのか」と言った。ある者が「賊の鉄の弾も上って来られないのか」と言うと、その人は言葉なく退き、聞いた者が伝えて笑い話とした。

ああ、兵には定まった形勢がなく、戦いには定まった法がない。機に臨んで変を作り、進み退き、集まり散って、奇なる謀りを尽きることなく出すのは、ただ將にあるだけである。そうであれば千の言と万の計がみな用がなく、ただ一人の將の才を得ることにある。鼂錯が述べた三つの計がいよいよ切で要めであって、一つも欠かすことができないのだから、そのほかの乱れたものが何の助けになろうか。

おおよそ国は事のない日に將を選び、事のある折に將を任せるのだから、選ぶことは精しさを貴び、任せることは専らであることを貴ぶ。その時、慶尙道の水軍の將は朴泓・元均であり、陸軍の將は李珏・曺大坤であって、すでに才で選んだものではなかった。変が生じると、巡邊使・防禦使・助防將らがみな朝廷から命を受けて来て、それぞれ専ら決断する権を持って自ら号令を行い、進み退くことを自分の意のままにして互いに統べ属さなかったので、まさに輿に屍を載せるという戒めを犯したのであり、事が何によって成ろうか。

また養ったところが用いるところではなく、用いるところが養ったところではなく、將と卒が互いに知らないのだから、みな兵家の大いに忌むところである。どうして前の車がすでに覆ったのに、後ろで改めることを知らず、今までなおこの轍を踏んでいるのか。このようにして事のないことを望むのは、ただ幸いだけである。述べればその話がはなはだ長くて、一つ二つでは尽くせない。ああ、危ういことだ。

夾注 1

周易の師卦に「軍を多くの者に率いさせれば、輿に屍を載せる」とあり、命令が一つから出ないことを戒めた言葉である。

癸巳正月。天兵發平壤余在軍前先行時臨津氷泮不可渡提督連遣人督造浮橋余至金郊驛見黃海道守令率吏民候餉大軍者滿野余召牛峰縣令李希愿問所率邑人幾何曰近數百余分付曰爾速領邑人登山採葛明日會余於臨津江口不可失期希愿去翌日余宿開城府又明日曉馳至德津堂見江氷猶未盡解氷上流澌半身許下流舟艦不得上京畿巡察使權徵水使李蘋長湍府使韓德遠及倡義秋義軍千餘人集江面皆束手無計余令呼牛峰人納葛綯爲巨索大數圍長可橫江江南北岸各立兩柱相對其內偃置一橫木引巨索十五條鋪過江面兩頭結橫木江面旣濶遠索半沉水不能起衆曰徒費人力余令千餘人各持短杠二三尺穿葛索極力回轉數周互相撑起排比如櫛於是衆索緊束高起穹窿儼然成橋樣刈細柳鋪其上厚覆以草而加之土唐軍見之大喜皆揚鞭馳馬而過炮車軍器皆從此渡旣而渡者益多絞索頗緩近水大軍由淺灘以渡而無責焉余念其時倉卒備葛不多更倍之得三十條則加緊無緩矣後見南北史齊兵攻梁主巋巋與周總管陸騰拒之周人於峽口南岸築安蜀城橫引大索於江上編葦爲橋以渡軍糧正是此法余自謂偶思得之不知古人已行爲之一笑因記其事以爲他日應猝之助云

癸巳の年の正月に明軍が平壤を発つと、私は軍の前にいて先に行った。その時、臨津江の氷が解けて渡れなかったので、提督が続けて人を遣わして浮橋を造ることを督促した。

私が金郊驛に至って見ると、黃海道の守令が吏と民を率いて大軍に食わせるものを待つ者が野に満ちていた。私が牛峰縣令李希愿を呼んで、率いている邑の人がいくらかと問うと、「数百に近い」と言った。私が申し渡して、「お前は速やかに邑の人を率いて山に登り葛を採って、明日臨津江の口で私に会え。期限を違えるな」と言うと、希愿は行った。

翌日、私は開城府で泊まり、その次の日の明け方に德津堂へ馳せ到って見ると、江の氷がまだすべて解けずに、氷の上に流氷が半身ほど流れ、下から船が上って来られなかった。京畿巡察使權徵、水使李蘋、長湍府使韓德遠と、倡義軍・秋義軍の千余人が江辺に集まったが、みな手を束ねて計がなかった。

私が令を下して牛峰の人を呼んで葛を納めさせ、撚って大きな綱を作ると、太さが二抱えほどで、長さが江を横ぎるに足った。江の南北の岸にそれぞれ柱二つを向かい合わせて立て、その内に横木一つを寝かせて置いた。大きな綱十五筋を引いて江の上に敷いて渡らせ、二つの端を横木に結んだ。江の幅がすでに広くて遠いので、縄が半ばも水に沈んで起き上がらず、皆が「いたずらに人の力だけを費やす」と言った。

私が千余人にそれぞれ二、三尺の短い棒を持たせて葛の縄に通し、力を尽くして数回りさせると、互いに支えて起き上がり、櫛の歯のように並び立った。そこで諸々の縄がぴんと束ねられて高く起き上がり、弓の背のように湾曲して、厳かに橋の形を成した。細い柳を伐ってその上に敷き、草で厚く覆って土を加えた。明の軍が見て大いに喜んで、みな鞭を挙げて馬を駆って通り、砲車と軍器がみなこれに従って渡った。やがて渡る者がいよいよ多くなって撚った縄がかなり緩んで水に近づいたので、大軍は浅い灘から渡ったが、責めることはなかった。

私が思うに、その時はにわかであったので葛を揃えることが多くなかったのだから、さらに倍にして三十筋を得ていたならば、もっとぴんとして緩みがなかったであろう。後に南北史を見ると、齊の軍が梁の主の巋を攻めた時、巋が周の總管陸騰と共に防いだが、周の人が峽口の南の岸に安蜀城を築いて大きな縄を江の上に横に引き、葦を編んで橋を作って軍糧を渡したとあるので、まさにこの法であった。私は自ら偶然思い得たと思っていたのに、昔の人がすでに行っていたことを知らなかったので、これを一度笑った。そこでその事を記して、後日にわかな時に応ずる助けとする。

癸巳夏余病臥漢城墨寺洞一日。天將駱尙志訪余于臥次問病甚勤因言朝鮮方微弱而賊猶在境上練兵禦敵最爲急務宜乘此。天兵未回學習鍊兵法以一敎十以十敎百則數年間皆成精鍊之卒可以守國余感其言卽馳。啓于。行在因使所帶禁軍韓士立招募京中得七十餘人往駱公處請敎駱撥帳下曉陣法張六三等十人爲敎師日夜鍊習槍劒筤筅等技旣而余下南方其事旋廢。上見狀啓下備邊司令別設都監訓鍊以尹相斗壽領其事其年九月余自南。召赴。行在迎。駕於海州扈從還都至延安更。命余代領都監事時都城飢甚余請發龍山倉唐粟米一千石日給人二升應募者四集都監堂上趙儆以糓小不能給欲設法限節置一巨石令願募者先擧石試力又令招越土墻丈許能者許入不能者拒之人飢困無氣中格者十一二或在都監門外求試不得顚仆而死未久得數百千人立把摠哨官分部領之又欲敎鳥銃而無火藥有軍器寺匠人大豐孫者以入賊陳多煑火藥與賊囚江華將殺之余特貸其死令煑熖焇贖罪其人感懼爲之盡力一日所煑幾十斤逐日分諸各部晝夜習放第其能否而賞罰之月餘能中飛鳥數月後與降倭及南方之善鳥銃者相較無不及而或過之余上箚請措置軍糧益募兵滿一萬置五營營各隷二千每年半留城中敎鍊半出城外擇閒曠肥饒地屯田積粟輪還遞代則數年之後兵食之源厚而根本固矣。上下其議兵曹不卽擧行卒無見效

癸巳の年の夏、私が病んで漢城の墨寺洞に臥していたところ、ある日、明の將駱尙志が臥所に私を訪ねて来て病を問うことがはなはだ懇ろで、そこで言うには、「朝鮮はまさに微弱なのに賊がまだ境の上にいるのだから、兵を習わせて敵を防ぐことが最も急な務めである。まさに明軍が帰らないこの時に乗じて兵を習わせる法を学び、一人で十人を教え、十人で百人を教えれば、二、三年のあいだにみな精しい卒を成して国を守ることができるであろう」とのことであった。

私がその言に感じて、すぐ行在所へ馳せて申し上げ、そこで率いていた禁軍韓士立に京城の内で募らせて七十余人を得て、駱公の所へ行って教えを請うた。駱は幕下で陣法に明るい張六三ら十人を抜いて教師とし、夜昼、槍と剣、筤筅などの技を習わせた。やがて私が南方へ下ると、その事はすぐ廃れた。

上が状を見られて備邊司に下され、別に都監を設けて訓練させ、政丞尹斗壽にその事を率いさせられた。その年の九月、私が南から召されて行在所に赴き、海州で車駕を迎えて扈從して都に帰る途中、延安に至ってあらためて私に命じられ、都監の事を代わって率いさせられた。

その時、都城で飢えが甚だしかった。私が龍山倉の唐粟米一千石を出すことを請うて、日ごとに人に二升ずつ与えると、応募する者が四方から集まった。都監堂上趙儆が穀が少なくてすべて与えられないとして法を設けて限ろうとし、大きな石一つを置いて応募しようとする者にまず石を挙げて力を試させ、また一丈ほどの土の墻を飛び越えさせて、できる者は入れ、できない者は退けた。人が飢え困じて気力がないので格に合う者が十に一つ二つで、あるいは都監の門の外で試験を受けることを求めて得られず、倒れて死んだ。久しからず数百千人を得て、把摠と哨官を立てて部を分けて率いさせた。

また鳥銃を教えようとしたが火薬がなかった。軍器寺の匠人で大豐孫という者が、賊の陣に入って火薬を多く煮て賊に与えた事で江華に囚えられ、まさに殺されようとしていたが、私が特にその死を許して、焇を煮ることで罪を償わせた。その人は感じ恐れて力を尽くし、一日に煮たものがほぼ十斤であった。日ごとに各部に分けて、夜昼放つことを習わせ、その能いと能わぬを序列づけて賞し罰した。一月余りで飛ぶ鳥を当てることができ、二、三か月の後には降った倭や南方の鳥銃の上手な者と比べて及ばないことがなく、あるいは越えることもあった。

私が箚子を上げて軍糧を調えることを請い、兵をさらに募って一万を満たして五つの營を置き、營ごとに二千ずつ属させて、毎年半ばは城の内に留まって教え習わせ、半ばは城の外に出て空いて肥えた地を選んで屯田して穀を積ませ、回り持ちで替わらせれば、二、三年の後には兵と食の源が厚くなって根本が堅くなるであろうと述べた。上がその議を下されたが、兵曹がすぐ執り行わず、ついに効き目がなかった。

夾注 3

筤筅は、竹の小枝をそのまま残して敵の槍刀を絡める長い兵器である。

唐粟米は、明から来た粟である。

焇は、火薬の元になる土から焼き出した材料である。

沈惟敬自平壤出入賊中不無勞苦然以講和爲名故不爲我國所喜最後賊留釜山久不渡海李册使逃還。中朝就差惟敬充副使與楊使入倭國移不得要領而回行長淸正等還屯海上於事。中國與我國論議藉藉皆歸咎沈惟敬甚者或言惟敬與賊同謀有叛形我國僧人松雲入西生浦見淸正還言賊欲犯。大明所言絕悖卽具奏。天朝聞者益怒惟敬知禍至憂懼不知所出乃貽書金命元叙其終始以自辨其書曰日月倐馳往事如昨憶昔倭寇貴境直低平壤目中已無八道矣老𣏓㘅。命哨探倭情相機撫馭得與足下曁李體察相會于擾攘之中目擊平壤迤西一帶居民流離愁苦如坐針氈朝不謀夕之狀殊可痛心足下身歷其事不待老!之喋喋者老朽檄召行長相會乾伏山約束不令西侵聽命罔敢踰越者數月延及大兵之至而致平壤之克設或彼時老朽不來倭乘祖公之敗而走義州未可知也平壤一道居民不被其荼毒者貴國之幸莫大矣旣而倭將行長退守王京總兵秀家付將三成長盛等三十餘將合兵連營控險阨要牢不可破碧蹄戰後尤難進取彼時判書李德馨者謁見老朽於開城將謂賊勢旣張大兵且退王京必無可望矣涕泣語老朽云王京根本之地得之可以號召諸道乃今事勢至此將奈之何老朽云徒復王京若無漢江以南諸道事勢亦難展布德馨云苟得王京實出望外漢江以南小邦君臣自能尺寸支撑不難也老朽云我試與爾國圖之務得王京幷復漢江以南諸道乃還王子陪臣方爲全國德馨涕泣叩頭感激云果得如此老爺再造小邦功德不淺鮮矣俄而老朽舟次漢江。王子臨海君等自淸正營遣人奔語老朽云倘得歸國漢江以南不拘何地任意與之老朽不從且與倭將誓云肯還還之不肯還隨爾殺之其他不必言也。王子係貴國儲君老朽敢不知重當此之時寧言殺之而不肯許他事及至釜山損資盡禮多方曲意于。王子前倨慢而後恭敬時有緩急事有輕重不得已也數言之下王京倭退矣沿途營栅遺糧不可勝計矣漢江以南諸道盡得矣。王子陪臣歸國矣終以一封覊縻諸酋歛手於釜山窮海之地候命三年不敢妄動續以封事議成老朽奉命調戢王京復會足下曁李德馨輩云今往封矣倭或退矣貴邦善後之計何如德馨應聲云善後之事小邦君臣責任也老爺不須掛意老朽初聽其言未甞不奇其大有力量大有識見偉然一柱石也及今覈其事實似覺文章功業不相符合老朽不能不爲李判書惜且如釜山竹島諸營未聞卽撤老朽責也而機張西生諸處倭兵盡渡營栅盡焚交割地方官俱有甘結矣何乃淸正一來不聞一戰不折一矢地方官抽身讓之何也旣言漢江以南自能尺寸支撑而何至已得復失若此乎又言善後之事小邦責任何不聞大計止有號泣闕下之一䇿乎法云强弱不當衆寡不敵老朽亦非責難于貴國諸當事但云緩則治其本急則治其標鍊兵修守相時撫馭貴國當事諸賢亦不可寘之不問耳渡海以來老朽四會貴國。王彼此問對之言出于胸臆合于時宜毫無假借毫無虛謬。國王之心老朽之心彼此洞鑑明矣老朽誠謂東事至此可無他慮不期貴國謀臣䇿士機智百端間事迭出內以危言激怒于。天朝外以弱卒挑釁于日本至于松雲一番說話則又出禮法之外其曰前驅伐。大明曰割八道。國王親自渡海歸服頃刻之間二三其說但知此言可使。國王動念矣可激。天朝發兵矣獨不念貴國止有八道若盡許之又許。國王親自渡海歸服則貴國之宗社臣民皆爲日本矣又可取于。二王子耶老朽以爲三尺之童决不失言至此淸正雖橫亦不放肆至此又不念我堂堂。天朝統馭外藩自有大體一恩一威亦自有時必不肯以數百載相傳之屬國置之度外亦不肯縱不奉約束之逆賊擄我藩籬理勢然也老朽極不省事至于內外親疎之別逆順向背之情亦人人之所易曉者矧玆欽承勅命調戢此事成敗休戚關係非輕敢以貴國之事蔑焉不加意耶又敢以日本之橫隱然而不報耶足下深于大體詳于國事用是走書幸足下亮我素衷卽爲上達。國王併使當事羣僚槪知所以旣云仰我。天朝以爲萬全之圖還當聽命處分以冀無疆之福毋徒過計日勞而日拙也至囑不盡觀此書王京以前則鑿鑿可懲矣釜山以後未免支辭隱語然功罪自不相揜後之論惟敬者當以此爲斷案故著之云

沈惟敬が平壤から賊の中を出入りして労苦がないわけではなかったが、講和を名としたため、我が国の喜ぶところとはならなかった。最後に賊が釜山に留まって長く海を渡らなかったので、李册使が逃げ帰ると、明の朝廷が惟敬を選んで副使に充て、楊使と共に倭国に入ったが、要領を得られずに帰り、行長・淸正らが帰って海の上に屯した。

この事について明と我が国の議が騒がしく、みな沈惟敬に咎を帰し、甚だしい者は「惟敬が賊と共に謀って背く形がある」と言った。我が国の僧の松雲が西生浦に入って淸正に会って帰り、「賊が大明を犯そうとしており、その言がはなはだ悖っている」と言って、すぐ明の朝廷に具えて申し上げると、聞いた者がいよいよ怒った。惟敬は禍が至ることを知って憂え恐れてどうすべきか分からず、そこで金命元に文を送ってその始めと終わりを述べて自ら弁じた。その文に言うには、

「日と月が速く走って、過ぎた事が昨日のようです。思えば先に倭が貴国の境を掠めてまっすぐ平壤に至った時、目の中にすでに八道がありませんでした。老いた身が命を奉じて倭の情を探り、機を見て撫で馭していたところ、足下と李體察使と、騒がしい中で相見えることを得ました。平壤の西一帯の民が散り崩れて憂え苦しみ、針の褥に座るように朝に夕を謀れない様を目で見て、まことに心が痛みました。足下が自ら身をもってその事を経たのだから、老いた身のくどくどしい言を待たないでしょう。

老いた身が檄文で行長を呼んで乾伏山で相見えて約束し、西を侵せないようにしたので、命を聞いて敢えて越えなかったのが二、三か月であり、引いて大軍が至るのに及んで平壤を勝つに至りました。たとえその時に老いた身が来なかったならば、倭が祖公の敗れたのに乗じて義州へ走ったかどうかは分かりません。平壤一道の民がその毒い害を被らなかったのは、貴国の幸いがこれより大きいものはありません。

やがて倭將の行長が退いて王京を守り、總兵秀家と付將の三成・長盛ら三十余の將が兵を合わせ陣営を連ねて険しい所を押さえ要めを塞いだので、堅くて破ることができず、碧蹄の戦いの後はいよいよ進んで取りがたくなりました。その時、判書李德馨が開城で老いた身に謁見し、賊の勢いがすでに張って大軍もまた退くのだから王京は必ず望むところがないと言って、泣きながら、〈王京は根本の地であって、得れば諸々の道を呼び集めることができるのに、今、事の勢いがここに至ったのだから、まさにどうしましょうか〉と言いました。老いた身が、〈いたずらに王京だけを取り戻して漢江以南の諸々の道がなければ、事の勢いはやはり広げがたい〉と言うと、德馨が、〈まことに王京を得れば実に望みの外です。漢江以南は小さな国の君と臣が自ら一尺一寸を支えるのに難しくありません〉と言いました。老いた身が、〈私が試みにお前の国と共に図って、王京を得て併せて漢江以南の諸々の道を取り戻し、王子と陪臣を帰らせてこそ、はじめて全き国となる〉と言うと、德馨が泣いて頭を叩いて感激し、〈まことにこのようになれば、老爺が小さな国を再び造られるのであり、功徳が浅く少なくありません〉と言いました。

やがて老いた身が船で漢江に泊まると、王子の臨海君らが淸正の陣営から人を遣わして馳せて来て、〈もし国へ帰れるならば、漢江以南はどの地であろうと分け隔てず意のままにお与えください〉と言いました。老いた身は従わず、また倭將と誓って、〈帰すなら帰せ。帰さないなら、お前たちの心のままに殺せ。そのほかの事は言うに足らない〉と言いました。王子は貴国の儲君であるのだから、老いた身が敢えて重いことを知らないでしょうか。この時に当たって、むしろ殺せと言っても、ほかの事は許そうとしなかったのです。釜山に至ってからは、財を損じ礼を尽くしてさまざまに王子に意を曲げましたが、前には倨り慢って後には恭み敬ったのは、時に緩急があり事に軽重があって、やむを得なかったのです。

二つ三つの言の下に王京の倭が退き、路に沿った陣営と遺した糧が数え尽くせず、漢江以南の諸々の道をすべて得て、王子と陪臣が国へ帰りました。ついに一通の封で諸々の首領を繋ぎ止めて、釜山の窮まった海辺の地で手を収めて三年のあいだ命を待ち、敢えてみだりに動きませんでした。

続いて封ずる事の議が成ると、老いた身が命を奉じて王京で調え静めるにあたり、あらためて足下と李德馨の輩に会って、〈今、封じに行くので倭はあるいは退くであろうが、貴邦の後をよくする計はどうであるか〉と言うと、德馨が声に応じて、〈後をよくする事は小さな国の君と臣の責任ですので、老爺が心にお掛けになる必要はありません〉と言いました。老いた身は初めその言を聞いて、その大いに力量があり大いに識見があって、そびえ立つ一本の柱石であると奇としなかったことはありません。今その事実を究めてみると、文章と功業が互いに符合しないことを覚えるようであり、老いた身は李判書のために惜しまずにいられません。

また釜山と竹島の諸々の陣営がすぐ撤されたと聞かなかったのは、老いた身の責めです。しかし機張・西生の諸々の所の倭兵がみな渡り、陣営と木栅がみな焼かれ、引き継いだ地方官がみな甘結を置きました。それなのに、どうして淸正がひとたび来ると、一度戦ったという話も聞かず、矢一本折ることもなく地方官が身を抜いて譲ったのは、どうしたことでしょうか。すでに漢江以南を自ら一尺一寸支えられると言ったのに、どうしてすでに得たものをふたたび失うことがここに至ったのでしょうか。また後をよくする事が小さな国の責任だと言ったのに、どうして大きな計を聞かず、ただ闕の下で泣き叫ぶ一つの計だけがあるのでしょうか。

兵法に、〈強いと弱いは当たらず、多いと少ないは敵さない〉とあるのだから、老いた身もまた貴国の事を任された方々を難しく責めるのではなく、ただ緩ければその本を治め、急ならばその末を治めると言うのです。兵を習わせ守りを修め、時を見て撫で馭することは、貴国の事を任された諸々の賢い方々も、打ち捨てて問わずにいられないだけです。

海を渡って来てから後、老いた身が四度貴国の王にお目にかかり、彼此に問い答えた言が胸の中から出て時の宜しきに合い、毛筋ほども借り飾ることがなく、毛筋ほども虚しく誤ることがありませんでした。国王の心と老いた身の心を、彼此に明らかに照らして明白です。老いた身はまことに東の事がここに至ったのだからほかの憂いはないであろうと思っていたのに、思いがけず貴国の謀る臣と策する士が機智を百端に出して、離間する事が交互に出ました。内には危うい言で明の朝廷を激怒させ、外には弱い卒で日本に隙を挑み、松雲のひとたびの話に至っては、また礼法の外に出ました。

その言に、〈先駆けて大明を伐つ〉と言い、〈八道を割いて与える〉と言い、〈国王が自ら海を渡って帰り服する〉と言ったのだから、しばらくのあいだにその言が二つ三つでした。ただこの言が国王の思いを動かすことができ、明の朝廷を激動して兵を出させることができると知っただけで、独り思わなかったのは、貴国にはただ八道があるだけであるから、もしすべて許し、また国王が自ら海を渡って服することを許せば、貴国の宗社と臣民がみな日本のものとなるということです。そのうえでまた二人の王子から何を取るのでしょうか。老いた身は思うに、三尺の童でも決して言を失うことがここに至らないでしょうし、淸正がたとえ横暴であっても、やはり放肆がここに至らないでしょう。

また思わなかったのは、我が堂々たる明の朝廷が外の藩を統べ馭するのに自ら大きな体があって、ひとたび恩しひとたび威することにもまた自ら時があるのだから、必ず数百年相伝えた属国を度外に置こうとしないであろうし、また約束を奉じない逆賊を放って我が藩籬を擄らせようとしないであろうということで、理と勢いがそうなのです。老いた身はきわめて事を省みませんが、内と外、親しいと疎い別、逆らうと順う、向かうと背く情は、やはり人ごとに容易に分かるところです。まして、ここに勅命を謹んで承けてこの事を調え静めるにあたり、成るか崩れるか、喜びか憂いかの係わりが軽くないのだから、敢えて貴国の事を蔑ろにして意を加えないでしょうか。また敢えて日本の横暴を隠して報せないでしょうか。

足下は大きな体に深く国事に詳しいので、これによって文を走らせます。願わしくは足下が私のもとの心を察して、すぐ国王へ上げ申し、併せて事を任された諸々の僚にその理由をおおよそ知らせてください。すでに我が明の朝廷を仰いで万全の図りとすると言われたのだから、かえってまさに命を聞いて処分に従い、限りない福を望むべきであって、いたずらに過ぎた計らいで日ごとに労し日ごとに拙くならないでください。至って頼み、尽くせません」と。

この文を見れば、王京以前ははっきりとして験するに足り、釜山以後は分かれた言と隠した言を免れない。しかし功と罪は自ずと互いに覆い隠せないので、後に惟敬を論ずる者はまさにこれをもって判断する案件とすべきであるから、記す。

夾注 4

底本に「老𣏓」・「老!」となっている箇所があるが、すべて「老朽」(老いた身)の誤りと見る。

この册使は、倭を封じに行く正使李宗城であり、楊使は楊方亨である。

足下は、手紙で相手を高めて呼ぶ言葉であり、ここでは金命元を指す。

祖公は、先に平壤で敗れた明の將祖承訓である。

沈惟敬遊說士也平壤戰後再入賊中此人之所難卒能以口舌代甲兵驅出衆賊復此數千里末梢一事參差不免大禍哀哉蓋平行長最信惟敬其在京城時惟敬密言於行長曰汝輩久留此不退。天朝更發大兵已從西海來出忠淸道斷汝歸路此時雖欲去不可得我自平壤與汝情熟故不忍不言耳於是行長懼遂出城此事沈惟敬自言於金右相命元而金相爲余言之如此

沈惟敬は説いて遊ぶ士である。平壤の戦いの後ふたたび賊の陣に入ったのだから、これは人が難しとするところである。ついに口と舌で甲と兵器に代えて、多くの賊を追い出してこの数千里を取り戻した。終わりに一つの事が食い違って大きな禍を免れなかったのだから、哀しいことである。

おおむね平行長が惟敬を最も信じていた。京城にいた時、惟敬が行長にひそかに言うには、「お前たちが長くここに留まって退かなければ、明の朝廷がふたたび大軍を出して、すでに西海から来て忠淸道へ出てお前の帰る路を断つであろうから、この時には行こうとしても得られないであろう。私は平壤からお前と情が馴れている故に、忍んで言わずにいられないだけだ」と。そこで行長が恐れて、ついに城を出た。この事は沈惟敬が自ら右相金命元に語り、金政丞が私に語ったのがこのとおりである。