いにしえの文 › 貞観政要(貞観の治における政の要) › 政體第二

政治の本体政體第二

貞観政要(貞観の治における政の要) 貞觀政要 · 呉兢 · 8世紀初め · 段落 14 · 漢字 3,282字 · 朗読 13.1分

貞観政要(貞観の治における政の要) 政體第二 唐の太宗が臣下と交わした言葉を主題ごとに集めた書。君主の道から始まり、諫言を受け入れる法、官吏を選ぶ法、刑罰と税と征伐を経て「終わりを慎む」で終わる。魏徴が面を合わせて折って諫め、太宗がそれを受け入れる場面が書の骨格である。高句麗の安市城をついに落とせずに退き、城主に絹を与えたこと、房玄齢が死に臨んで遼東征伐を止めた上疏もここにある。

貞觀初,太宗謂蕭瑀曰:「朕少好弓矢,自謂能盡其妙。近得良弓十數,以示弓工。乃曰:『皆非良材也。』朕問其故,工曰:『木心不正,則脈理皆邪,弓雖剛勁而遣箭不直,非良弓也。』朕始悟焉。朕以弧矢定四方,用弓多矣,而猶不得其理。況朕有天下之日淺,得為理之意,固未及於弓,弓猶失之,而況於理乎?」自是詔京官五品以上,更宿中書內省。每召見,皆賜坐與語,詢訪外事,務知百姓利害,政教得失焉。

貞観の初め、太宗が蕭瑀に言った。

「朕は若いころから弓矢を好み、自分でその妙を知り尽くしたと思っていた。近ごろ良い弓を十数張り手に入れ、弓職人に見せたところ『どれも良い材ではありません』と言う。朕が理由を問うと、職人は『木の心が正しくなければ木目はみな歪み、弓がいくら強くても矢をまっすぐ飛ばせません。良い弓ではありません』と言った。朕ははじめて悟った。

朕は弓矢で四方を定め、弓を使うことは多かったのに、それでもその理を分かっていなかった。まして朕が天下を得てからの日は浅く、政を行う心得は弓にも及ばない。弓さえ見誤ったのに、まして政においてはどうであろうか。」

これより都の五品以上の官に詔を下し、交代で中書内省に宿直させた。召し見るたびに席を与えて語り合い、外の事を尋ねて、民の利害と政治や教化の得失を知ることに努めた。

貞觀元年,太宗謂黃門侍郎王珪曰:「中書所出詔敕,頗有意見不同,或兼錯失而相正以否。元置中書、門下,本擬相防過誤。人之意見,每或不同,有所是非,本為公事。或有護己之短,忌聞其失,有是有非,銜以為怨。或有茍避私隙,相惜顏面,知非政事,遂即施行。難違一官之小情,頓為萬人之大弊。此實亡國之政,卿輩特須在意防也。隋日內外庶官,政以依違,而致禍亂,人多不能深思此理。當時皆謂禍不及身,面從背言,不以為患。後至大亂一起,家國俱喪,雖有脫身之人,縱不遭刑戮,皆辛苦僅免,甚為時論所貶黜。卿等特須滅私徇公,堅守直道,庶事相啟沃,勿上下雷同也。」

貞観元年、太宗が黄門侍郎の王珪に言った。

「中書省から出る詔勅には、意見の揃わないものがかなりあり、誤りが混じって互いに正すこともあれば、正せないこともある。もともと中書省と門下省を置いたのは、互いに過誤を防がせるためであった。人の意見はいつも同じとは限らず、是非を分けることがあるが、それは元来公の事である。

ところが、自分の短所をかばい、自分の失を聞くのを嫌って、是非をめぐって恨みを抱く者がいる。また、かりそめに私の確執を避け、互いに顔を立てて、政に適わないと知りながらそのまま実施する者もいる。一人の官の小さな情に逆らいかねて、たちまち万人の大きな弊害となる。これこそ国を亡ぼす政であるから、卿たちはとりわけ心に留めて防がねばならぬ。

隋の時代、内外の多くの官が政をあいまいに従って禍乱に至ったが、人々はこの理を深く思うことができなかった。当時はみな禍が自分の身に及ぶまいと思い、面前では従い背後では別のことを言って、憂いとしなかった。後に大乱が一度起こると家も国もともに失われ、身を抜け出せた者が刑死を免れたとしても、みな苦労してやっと免れただけで、当時の世評にひどく貶され退けられた。

卿たちはとりわけ私を滅して公に従い、直き道を固く守り、諸事において互いに諫め諭し、上下が声を揃えて同じことを言うな。」

貞觀二年,太宗問黃門侍郎王珪曰:「近代君臣治國,多劣於前古,何也?」對曰:「古之帝王為政,皆志尚清靜,以百姓之心為心。近代則唯損百姓以適其欲,所任用大臣,復非經術之士。漢家宰相,無不精通一經,朝廷若有疑事,皆引經決定,由是人識禮教,理致太平。近代重武輕儒,或參以法律,儒行既虧,淳風大壞。」太宗深然其言。自此百官中有學業優長、兼識政體者,多進其階品。累加遷擢焉。

貞観二年、太宗が黄門侍郎の王珪に問うた。

「近代の君臣が国を治めたさまは、古の時代より劣ることが多い。どうしてか。」

答えて言った。

「古の帝王が政を行うには、みな志が清らかで静かなことを尚び、民の心を自分の心としました。近代ではただ民を損なって自分の欲に合わせ、任用する大臣も経学を修めた士ではありません。漢の宰相は一つの経に精通しない者がなく、朝廷に疑わしい事があれば、みな経を引いて決しました。これによって人々は礼と教えを知り、政は太平に至りました。近代は武を重んじ儒を軽んじ、ときに法律を混ぜるので、士の行いはすでに欠け、素朴な風俗が大きく壊れました。」

太宗はその言葉を深く善しとした。これより多くの官のうち学業が優れ、政の本体をあわせて知る者は、その位階を多く進め、重ねて抜擢した。

貞觀三年,太宗謂侍臣曰:「中書、門下,機要之司。擢才而居,委任實重。詔敕如有不穩便,皆須執論。比來惟覺阿旨順情,唯唯茍過,遂無一言諫諍者,豈是道理?若惟署詔敕、行文書而已,人誰不堪?何煩簡擇,以相委付?自今詔敕疑有不穩便,必須執言,無得妄有畏懼,知而寢默。」

貞観三年、太宗が側近の臣たちに言った。

「中書省と門下省は機密と要を司る役所である。才ある者を抜いて座らせたのだから、委ねたものはまことに重い。詔勅に穏当でないものがあれば、みな取り上げて論じなければならぬ。近ごろはただ意に阿り情に従って、はいはいと言ってかりそめに過ごし、ついに一言も諫めて争う者がない。これが道理であろうか。

もし詔勅に署名し文書を回すだけなら、誰ができないことがあろう。何をわざわざ選び抜いて、互いに委ねる必要があろうか。今より詔勅に穏当でない疑いがあれば、必ず取り上げて言え。みだりに恐れて、知りながら黙っていてはならぬ。」

貞觀四年,太宗問蕭瑀曰:「隋文帝何如主也?」對曰:「克己復禮,勤勞思政,每一坐朝,或至日昃,五品已上,引坐論事,宿衛之士,傳飱而食,雖性非仁明,亦是勵精之主。」太宗曰:「公知其一,未知其二。此人性至察而心不明。夫心暗則照有不通,至察則多疑於物。又欺孤兒寡婦以得天下,恒恐群臣內懷不服,不肯信任百司,每事皆自決斷,雖則勞神苦形,未能盡合於理。朝臣既知其意,亦不敢直言。宰相以下,惟承順而已。朕意則不然,以天下之廣,四海之眾,千端萬緒,須合變通,皆委百司商量,宰相籌畫,於事穩便,方可奏行。豈得以一日萬機,獨斷一人之慮也。且日斷十事,五條不中,中者信善,其如不中者何?以日繼月,乃至累年,乖謬既多,不亡何待?豈如廣任賢良,高居深視,法令嚴肅,誰敢為非?」因令諸司,若詔敕頒下有未穩便者,必須執奏,不得順旨便即施行,務盡臣下之意。

貞観四年、太宗が蕭瑀に問うた。

「隋の文帝はどのような君主か。」

答えて言った。

「己に克って礼に復り、勤めて政を思い、ひとたび朝に座れば日の傾くまで及び、五品以上を引いて座らせて事を論じ、宿衛の兵が食事を運んで食べました。性は仁明ではありませんでしたが、やはり精を励ました君主です。」

太宗が言った。

「公はその一を知って二を知らぬ。この人は性が察しすぎるのに心が明らかでなかった。そもそも心が暗ければ照らしても通らないところがあり、察しすぎれば物事を多く疑う。また孤児と寡婦を欺いて天下を得たので、いつも群臣が内心服さないのではないかと恐れ、諸官司を信じて任せようとせず、事ごとにみな自分で決断した。精神を労し身を苦しめたが、理にすべて適うことはできなかった。朝廷の臣もその意を知って、直言できなかった。宰相以下はただ承って従うだけであった。

朕の考えはそうではない。天下は広く四海の人は多く、千筋万筋であるから、変通に適わなければならぬ。すべて諸官司に委ねて検討させ、宰相が計らって事に穏当であってはじめて奏上して行える。どうして一日に万機を一人の考えで独断できようか。

そのうえ一日に十の事を決して五つが的を外れるなら、当たったものはまことに善いが、外れたものはどうするのか。日を重ね月を重ね、数年に及べば、誤りはすでに多い。亡びずして何を待とう。賢良な者を広く任せ、高く居て深く見、法令を厳粛にして、誰が敢えて悪事をしようか、とするのに及ぶまい。」

そこで諸官司に命じ、下された詔勅に穏当でないものがあれば必ず取り上げて奏し、意に従ってすぐ実施してはならぬとして、臣下の考えを尽くさせた。

貞觀五年,太宗謂侍臣曰:「治國與養病無異也。病人覺愈,彌須將護,若有觸犯,必至殞命。治國亦然,天下稍安,尤須兢慎,若便驕逸,必至喪敗。今天下安危,系之於朕。故日慎一日,雖休勿休。然耳目股肱,寄於卿輩,既義均一體,宜協力同心,事有不安,可極言無隱。儻君臣相疑,不能脩盡肝膈,實為國之大害也。」

貞観五年、太宗が側近の臣たちに言った。

「国を治めるのは、病を養うのと変わらない。病人が治ったように感じたときこそ、いっそう養生しなければならず、もし触れ犯すことがあれば必ず命を落とす。国を治めるのも同じで、天下が少し安らかになればいっそう慎まなければならず、すぐ驕り放縦になれば必ず滅び敗れる。

いま天下の安危は朕に懸かっている。だから日ごとに一日ずつ慎み、安らかであっても安らかとしない。しかし耳目や手足は卿たちに預けてある。義においてすでに一体なのだから、力を合わせ心を同じくし、事に穏当でないものがあれば言い尽くして隠すな。もし君臣が互いに疑って胸の内を尽くせないなら、まことに国の大きな害である。」

貞觀六年,太宗謂侍臣曰:「看古之帝王,有興有衰,猶朝之有暮,皆為蔽其耳目,不知時政得失,忠正者不言,邪謅者日進,既不見過,所以至於滅亡。朕既在九重,不能盡見天下事,故布之卿等,以為朕之耳目。莫以天下無事,四海安寧,便不存意。可愛非君,可畏非民。天子者,有道則人推而為主,無道則人棄而不用,誠可畏也。」魏徵對曰:「自古失國之主,皆為居安忘危,處理忘亂,所以不能長久。今陛下富有四海,內外清晏,能留心治道,常臨深履薄,國家歷數,自然靈長。臣又聞古語云:『君,舟也;人,水也。水能載舟,亦能覆舟。』陛下以為可畏,誠如聖旨。」

貞観六年、太宗が側近の臣たちに言った。

「古の帝王を見ると、興ることがあり衰えることがあるのは、朝があれば暮があるようなものだ。みな耳目を覆われて当時の政の得失を知らず、忠義で正しい者は言わず、邪で諂う者が日ごとに進み、すでに過ちを見られなくなって、だから滅亡に至ったのだ。

朕は九重の内にいて天下の事をすべて見ることはできない。だから卿たちに広げて朕の耳目とする。天下に事なく四海が安寧だからといって、心を留めないことがあってはならぬ。愛すべきものは君ではないか。畏るべきものは民ではないか。天子とは、道があれば人が推して主とし、道がなければ人が棄てて用いない。まことに畏るべきことだ。」

魏徴が答えた。

「古来、国を失った君主は、みな安らかなときに危うさを忘れ、治まっているときに乱れを忘れたので、長く続かなかったのです。いま陛下は四海を豊かに有し、内外は清く安らかでありながら、治める道に心を留め、つねに深い淵に臨み薄い氷を踏むようにしておられます。国家の運数は自然と霊妙に長く続くでしょう。

臣はまた古語に『君は舟であり、民は水である。水は舟を載せることもでき、また舟を覆すこともできる』と聞いております。陛下が畏るべきこととされるのは、まことに聖旨のとおりです。」

貞觀六年,太宗謂侍臣曰:「古人云:『危而不持,顛而不扶,焉用彼相?』君臣之義,得不盡忠匡救乎?朕嘗讀書,見桀殺關龍逄,漢誅黽錯,未嘗不廢書嘆息。公等但能正詞直諫,裨益政教,終不以犯顏忤旨,妄有誅責。朕比來臨朝斷決,亦有乖於律令者。公等以為小事,遂不執言。凡大事皆起於小事,小事不論,大事又將不可救,社稷傾危,莫不由此。隋主殘暴,身死匹夫之手,率土蒼生,罕聞嗟痛。公等為朕思隋氏滅亡之事,朕為公等思龍逄、晁錯之誅,君臣保全,豈不美哉!」

貞観六年、太宗が側近の臣たちに言った。

「古人は『危ういのに支えず、倒れるのに扶けないなら、あの大臣を何に用いよう』と言った。君臣の義として、忠を尽くして正し救わないでいられようか。朕はかつて書を読み、桀が関龍逢を殺し、漢が晁錯を誅したのを見て、書を置いて嘆息しないことはなかった。公たちがただ正しい言葉で直く諫め、政治と教化に益するなら、顔を犯し意に逆らったからといって、みだりに誅し責めることは決してない。

朕が近ごろ朝に臨んで決裁したことにも、律令に外れたものがあった。公たちは小事と思って、ついに取り上げて言わなかった。およそ大事はみな小事から起こる。小事を論じなければ大事はもう救えなくなり、社稷が傾き危うくなるのは、みなこれによる。隋の主は残虐で、身は一匹夫の手に死んだが、国土の民のうち嘆き痛んだという話はほとんど聞かない。

公たちは朕のために隋氏が滅亡した事を思い、朕は公たちのために関龍逢と晁錯が誅された事を思って、君臣ともに身を全うするなら、何と美しいことではないか。」

貞觀七年,太宗與秘書監魏徵從容論自古理政得失,因曰:「當今大亂之後,造次不可致化。」徵曰:「不然,凡人在危困,則憂死亡。憂死亡,則思化。思化,則易教。然則亂後易教,猶饑人易食也。」太宗曰:「善人為邦百年,然後勝殘去殺。大亂之後,將求致化,寧可造次而望乎?」徵曰:「此據常人,不在聖哲。若聖哲施化,上下同心,人應如響,不疾而速,期月而可,信不為難,三年成功,猶謂其晚。」太宗以為然。封德彜等對曰:「三代以後,人漸澆訛,故秦任法律,漢雜霸道,皆欲理而不能,豈能化而不欲?若信魏徵所說,恐敗亂國家。」徵曰:「五帝、三王,不易人而化。行帝道則帝,行王道則王,在於當時所理,化之而已。考之載籍,可得而知。昔黃帝與蚩尤七十餘戰,其亂甚矣,既勝之後,便致太平。九黎亂德,顓頊征之,既克之後,不失其化。桀為亂虐,而湯放之,在湯之代,即致太平。紂為無道,武王伐之,成王之代,亦致太平。若言人漸澆訛,不及純樸,至今應悉為鬼魅,寧可復得而教化耶?」德彜等無以難之,然咸以為不可。太宗每力行不倦,數年間,海內康寧,突厥破滅。因謂群臣曰:「貞觀初,人皆異論,云當今必不可行帝道、王道,惟魏徵勸我。既從其言,不過數載,遂得華夏安寧,遠戎賓服。突厥自古以來,常為中國勍敵,今酋長並帶刀宿衛,部落皆襲衣冠,使我遂至於此,皆魏徵之力也。」顧謂徵曰:「玉雖有美質,在於石間,不值良工琢磨,與瓦礫不別。若遇良工,即為萬代之寶。朕雖無美質,為公所切磋,勞公約朕以仁義,弘朕以道德,使朕功業至此,公亦足為良工爾。」

貞観七年、太宗が秘書監の魏徴とくつろいで古来の政の得失を論じ、そこで言った。

「いまは大乱の後だから、急に教化に至ることはできない。」

魏徴が言った。

「そうではありません。およそ人は危うく困れば死を憂え、死を憂えれば教化を思い、教化を思えば教えやすくなります。ですから乱の後に教えやすいのは、飢えた人が食べやすいのと同じです。」

太宗が言った。

「善人が国を百年治めて、はじめて残虐を克ち殺戮を去るという。大乱の後に教化に至ることを求めて、どうして急に望めようか。」

魏徴が言った。

「これは常の人について言ったことで、聖明な者には当たりません。もし聖明な者が教化を施して上下が心を同じくすれば、人々は響きのように応じ、急がずとも速く、一月で足りるでしょう。まことに難しくはなく、三年で功を成しても、なお遅いというべきです。」

太宗はそのとおりだと思った。封徳彝らが答えた。

「三代の後、人は次第に軽薄で偽りがちになりました。ですから秦は法律に任せ、漢は覇道を混ぜたのです。みな治めようとしてできなかったのであって、どうして教化できるのにしようとしなかったでしょうか。もし魏徴の言うことを信じられるなら、国家を敗り乱すことを恐れます。」

魏徴が言った。

「五帝と三王は、人を取り替えずに教化しました。帝の道を行えば帝となり、王の道を行えば王となる。そのとき治めるところにあるだけで、教化するのです。古い記録を調べれば分かります。昔、黄帝は蚩尤と七十余度戦いましたから、その乱れはひどいものでしたが、勝った後すぐ太平に至りました。九黎が徳を乱したので顓頊がこれを征し、克った後もその教化を失いませんでした。桀が乱れ暴虐であったので湯がこれを追放し、湯の代にすぐ太平に至りました。紂が無道であったので武王がこれを伐ち、成王の代にやはり太平に至りました。もし人が次第に軽薄で偽りがちになって純朴に及ばないと言うなら、今ごろはみな化け物になっているはずで、どうしてまた教化できましょうか。」

徳彝らはこれに反論できなかったが、みなできないことだと思った。太宗がつねに力を尽くして倦まずに行ったので、数年のうちに国内は安らかになり、突厥は滅びた。そこで群臣に言った。

「貞観の初め、人々はみな異論を唱え、いまは必ず帝の道も王の道も行えないと言ったが、ただ魏徴だけが朕に勧めた。その言に従って数年も経たぬうちに、ついに華夏は安寧となり、遠い戎も服従した。突厥は古来つねに中国の強敵であったが、いまその酋長たちは刀を帯びて宿衛し、部落はみな衣冠を受け継いでいる。朕をここまで至らせたのは、みな魏徴の力である。」

振り返って魏徴に言った。

「玉は美しい質を持っていても、石の間にあって良い職人に琢き磨かれなければ、瓦礫と変わらない。良い職人に出会えば、万代の宝となる。朕には美しい質はないが、公に切磋され、公が苦労して朕を仁義で律し、道徳で広めて、朕の功業をここまで至らせた。公もまた良い職人というに足る。」

貞觀八年,太宗謂侍臣曰:「隋時百姓縱有財物,豈得保此?自朕有天下已來,存心撫養,無有所科差,人人皆得營生,守其資財,即朕所賜。向使朕科喚不已,雖數資賞賜,亦不如不得。」魏徵對曰:「堯、舜在上,百姓亦云『耕田而食,鑿井而飲』,含哺鼓腹,而云『帝何力』於其間矣。今陛下如此含養,百姓可謂日用而不知。」又奏稱:「晉文公出田,逐獸於碭,入大澤,迷不知所出。其中有漁者,文公謂曰:『我,若君也,道將安出?我且厚賜若』漁者曰:『臣願有獻。』文公曰:『出澤而受之。』於是送出澤。文公曰:『今子之所欲教寡人者,何也?願受之。』漁者曰:『鴻鵠保河海,厭而徙之小澤,則有矰丸之憂。黿鼉保深淵,厭而出之淺渚,必有釣射之憂。今君逐獸碭,入至此,何行之太遠也?』文公曰:『善哉!』謂從者記漁者名。漁者曰:『君何以名?為君尊天事地,敬社稷,保四國,慈愛萬民,薄賦斂,輕租稅,臣亦與焉。君不尊天,不事地,不敬社稷,不固四海,外失禮於諸侯,內逆民心,一國流亡,漁者雖有厚賜,不得保也。』遂辭不受。」太宗曰:「卿言是也。」

貞観八年、太宗が側近の臣たちに言った。

「隋の時代には、民に財物があってもどうしてそれを守れたであろうか。朕が天下を得てからは、心を留めて撫で養い、みだりに取り立てることがないので、人々はみな生業を営み自分の財を守っている。これが朕の与えたものだ。もし朕が取り立てと召し出しをやめなかったなら、たびたび褒美を与えたとしても、かえって受けない方がましであったろう。」

魏徴が答えた。

「堯と舜が上にいたとき、民もまた『田を耕して食い、井を鑿って飲む』と言い、食べ物を口に含み腹を鼓って『帝が何の力を尽くしたか』と言いました。いま陛下がこのように含み養っておられるので、民は日ごとに用いながらそれを知らない、と申せます。」

また奏上した。

「晋の文公が狩りに出て、碭で獣を追い、大きな沢に入って道を失い、出口が分からなくなりました。その中に漁をする者がいて、文公は『わたしはお前の君である。道はどこへ出ているか。お前に厚く与えよう』と言いました。漁師は『臣は申し上げたいことがあります』と言い、文公は『沢を出てから受けよう』と言いました。そこで沢の外へ送り出すと、文公は『いまお前が寡人に教えようとするのは何か。受けたい』と言いました。

漁師は『鴻や鵠は河海に身を守りますが、嫌になって小さな沢に移れば、矢や弾の憂いがあります。黿や鼉は深い淵に身を守りますが、嫌になって浅い渚に出れば、必ず釣りや射かけの憂いがあります。いま君は碭で獣を追い、ここまで入られました。どうして行くことがあまりに遠いのですか』と言いました。

文公は『善いことだ』と言い、従者に漁師の名を記させました。漁師は『君は何のために名をお尋ねになるのですか。君が天を尊び地に仕え、社稷を敬い、四方の国を保ち、万民を慈しみ愛し、賦を薄くし租税を軽くされるなら、臣もまたその中にあります。君が天を尊ばず、地に仕えず、社稷を敬わず、四海を固めず、外は諸侯に礼を失い、内は民の心に逆らえば、一国は流れ亡びますから、漁師が厚い賜を受けても守ることはできません』と言い、ついに辞して受けませんでした。」

太宗が言った。

「卿の言うとおりだ。」

貞觀九年,太宗謂侍臣曰:「往昔初平京師,宮中美女珍玩,無院不滿。煬帝意猶不足,征求無已,兼東西征討,窮兵黷武,百姓不堪,遂致亡滅。此皆朕所目見。故夙夜孜孜,惟欲清凈,使天下無事。遂得徭役不興,年穀豐稔,百姓安樂。夫治國猶如栽樹,本根不搖,則枝葉茂榮。君能清凈,百姓何得不安樂乎?」

貞観九年、太宗が側近の臣たちに言った。

「昔、都をはじめて平定したとき、宮中には美しい女と珍しい玩びものが満ちていない院はなかった。それでも煬帝の意はなお足らず、求め取ることをやめず、あわせて東西に征討して兵を窮め武をみだりにしたので、民は堪えられず、ついに滅亡に至った。これはみな朕が目で見たことだ。

だから朝から夜まで勤めて、ただ清らかで静かであることを願い、天下に事なきようにした。ついに賦役は起こらず、年ごとに穀物はよく実り、民は安らかで楽しんでいる。そもそも国を治めるのは木を植えるのと同じで、根が揺らがなければ枝葉は茂り栄える。君が清らかで静かであれば、民がどうして安らかで楽しくないことがあろうか。」

貞觀十六年,太宗謂侍臣曰:「或君亂於上,臣理於下;或臣亂於下,君治於上。二者茍逢,何者為甚?」特進魏徵對曰:「君心治,則照見下非。誅一勸百,誰敢不畏威盡力?若昏暴於上,忠諫不從,雖百里奚、伍子胥之在虞、吳,不救其禍,敗亡亦繼。」太宗曰:「必如此,齊文宣昏暴,楊遵彥以正道扶之得治,何也?」徵曰:「遵彥彌縫暴主,救理蒼生,才得免亂,亦甚危苦。與人主嚴明,臣下畏法,直言正諫,皆見信用,不可同年而語也。」

貞観十六年、太宗が側近の臣たちに言った。

「君が上で乱れ、臣が下で治めることもあり、臣が下で乱れ、君が上で治めることもある。この二つに遇うなら、どちらがひどいか。」

特進の魏徴が答えた。

「君の心が治まっていれば、下の者の非を照らし見ます。一人を誅して百人を励ますのですから、誰が威を畏れて力を尽くさないでしょうか。もし上が暗く暴虐で、忠義の諫めに従わないなら、たとえ百里奚や伍子胥が虞や呉にいたとしても、その禍を救えず、敗亡が続きました。」

太宗が言った。

「必ずそうであるなら、斉の文宣帝が暗く暴虐であったのに、楊遵彦が正しい道で支えて治まりを得たのはどうしてか。」

魏徴が言った。

「遵彦は暴虐な主の隙を縫い、民を救って、やっと乱を免れさせたのですから、やはりひどく危うく苦しいことでした。君主が厳明で、臣下が法を畏れ、直言や正しい諫めがみな信じて用いられるのとは、同じ年に並べて語ることはできません。」

貞觀十九年,太宗謂侍臣曰:「朕觀古來帝王,驕矜而取敗者,不可勝數。不能遠述古昔,至如晉武平吳、隋文伐陳已後,心逾驕奢,自矜諸己,臣下不復敢言,政道因茲弛紊。朕自平定突厥、破高麗已後,兼並鐵勒,席卷沙漠以為州縣,夷狄遠服,聲教益廣。朕恐懷驕矜,恒自抑折,日旰而食,坐以待晨。每思臣下有讜言直諫,可以施於政教者,當拭目以師友待之。如此,庶幾於時康道泰爾。」

貞観十九年、太宗が側近の臣たちに言った。

「朕が古来の帝王を見るに、驕り誇って敗れた者は数え切れない。遠い昔を述べるまでもなく、晋の武帝が呉を平定し、隋の文帝が陳を伐った後は、心がいっそう驕り奢って自らを誇り、臣下は二度と敢えて言わず、政の道はこれによって緩み乱れた。

朕は突厥を平定し高句麗を破った後、鉄勒を併せ、砂漠を巻き取って州県とし、夷狄は遠くから服し、声と教えはいっそう広まった。朕は驕り誇る心を抱くことを恐れ、つねに自ら抑え折り、日が暮れてから食べ、座って朝を待つ。

臣下に、直言や正しい諫めで政治と教化に施せるものがあれば、目を拭って師友として待遇しようと、いつも思っている。このようにすれば、時が安らかで道が泰らかになることに近づくであろう。」

太宗自即位之始,霜旱為災,米穀踴貴,突厥侵擾,州縣騷然。帝志在憂人,銳精為政,崇尚節儉,大布恩德。是時,自京師及河東、河南、隴右,饑饉尤甚,一匹絹才得一斗米。百姓雖東西逐食,未嘗嗟怨,莫不自安。至貞觀三年,關中豐熟,咸自歸鄉,竟無一人逃散,其得人心如此。加以從諫如流,雅好儒術,孜孜求士,務在擇官,改革舊弊,興復制度,每因一事,觸類為善。初,息隱、海陵之黨,同謀害太宗者數百千人,事寧,後引居左右近侍,心術豁然,不有疑阻。時論以為能斷決大事,得帝王之體。深惡官吏貪濁,有枉法受財者,必無赦免。在京流外有犯贓者,皆遣執奏,隨其所犯,寘以重法。由是官吏多自清謹。制馭王公、妃主之家,大姓豪猾之伍,皆畏威屏跡,無敢侵欺細人。商旅野次,無復盜賊,囹圄常空,馬牛布野,外戶不閉。又頻致豐稔,米斗三四錢,行旅自京師至於嶺表,自山東至於滄海,皆不賫糧,取給於路。入山東村落,行客經過者,必厚加供待,或發時有贈遺。此皆古昔未有也。

太宗が位に即いた初めから、霜と旱が災いとなって米穀の値が跳ね上がり、突厥が侵し騒がせて州県は騒然とした。帝は志が民を憂えることにあり、精を励まして政を行い、節約と倹約を尚び、恩徳を大きく施した。

このとき都と河東・河南・隴右で飢饉がとりわけひどく、絹一匹でやっと米一斗を得るほどであった。民は東西に食を求めて歩いたが、ついに嘆いたり怨んだりせず、自ら安んじない者はなかった。貞観三年に至って関中が豊作になると、みな自ら故郷に帰り、ついに一人も逃げ散る者がなかった。人の心を得たことはこのようであった。

そのうえ諫めに従うことは水の流れるようであり、儒の学を大いに好み、勤めて士を求め、官を択ぶことに努め、古い弊を改め、制度を興し復し、一つの事にふれるたびに似た事にまで及んで善くした。

初め、息隠と海陵の一党で、ともに謀って太宗を害そうとした者が数百数千人いたが、事が収まった後に引いて側近く侍らせ、心は晴れやかで疑い隔てることがなかった。当時の世評は、大事を決断できる、帝王の体を得たと評した。

官吏が貪り濁ることを深く憎み、法を曲げて財を受けた者があれば必ず赦さなかった。都にいる流外の官で賄賂を犯した者があれば、みな捕らえて奏上させ、その犯したところに従って重い法に処した。これによって官吏はおおむね自ら清く慎んだ。

王公や妃・公主の家、大姓で豪く狡い連中を制御したので、みな威を畏れて跡を隠し、敢えて小さな民を侵し欺く者はなかった。商人や旅人が野に宿っても盗賊はもうなく、牢獄はつねに空で、馬や牛は野に広がり、外の戸を閉めなかった。

また度々豊作となり、米一斗が三、四銭であった。旅人は都から嶺南に至るまで、山東から滄海に至るまで、みな食糧を持たず道で得て食べた。山東の村落に入れば、通りかかる旅人を必ず厚くもてなし、ときには出発のときに贈り物をした。これはみな昔になかったことである。