賢者を用いる任賢第三
1房玄齢
房玄齡,齊州臨淄人也。初仕隋,為隰城尉。坐事,除名徙上郡。太宗徇地渭北,玄齡杖策謁於軍門,太宗一見,便如舊識,署渭北道行軍記室參軍。玄齡既遇知己,遂罄竭心力。是時,賊寇每平,眾人競求金寶,玄齡獨先收人物,致之幕府,及有謀臣猛將,與之潛相申結,各致死力。累授秦王府記室,兼陜東道大行臺考功郎中。玄齡在秦府十餘年,恒典管記。隱太子、巢刺王以玄齡及杜如晦為太宗所親禮,甚惡之,譖之高祖,由是與如晦並遭驅斥。及隱太子將有變也,太宗召玄齡、如晦,令衣道士服,潛引入閤謀議。及事平,太宗入春宮,擢拜太子左庶子。貞觀元年,遷中書令。三年,拜尚書左僕射,監修國史,封梁國公,實封一千三百戶。既總任百司,虔恭夙夜,盡心竭節,不欲一物失所。聞人有善,若己有之。明達吏事,飾以文學,審定法令,意在寬平。不以求備取人,不以己長格物,隨能收敘,無隔疏賤。論者稱為良相焉。十三年,加太子少師,玄齡自以一居端揆十有五年,頻抗表辭位,優詔不許。十六年,進拜司空,仍總朝政,依舊監修國史。玄齡復以年老請致仕,太宗遣使謂曰:「國家久相任使,一朝忽無良相,如失兩手。公若筋力不衰,無煩此讓。自知衰謝,當更奏聞。」玄齡遂止。太宗又嘗追思王業之艱難,佐命之匡弼,乃作《威鳳賦》以自喻,因賜玄齡,其見稱類如此。
房玄齢は斉州臨淄の人である。初めに隋に仕えて隰城の尉となったが、事に触れて名を削られ、上郡に移された。太宗が渭水の北の地を巡ったとき、玄齢は杖をついて軍門に参ったので、太宗は一目見て古い知り合いのように思い、渭北道行軍記室参軍に任じた。玄齢は己を知る人に出会って、ついに心と力を注ぎ尽くした。
このとき、賊を平定するたびに人々は競って金や宝を求めたが、玄齢だけは先に人材を集めて幕府に連れて来た。また謀臣や猛将がいれば、ひそかに互いに結んで、それぞれ死力を尽くさせた。
重ねて秦王府の記室を授けられ、陝東道大行台考功郎中を兼ねた。玄齢は秦王府に十余年あって、つねに文書を司った。隠太子と巣刺王は、玄齢と杜如晦が太宗に親しく礼遇されるのをひどく憎み、高祖に讒言したので、これによって如晦とともに追い払われた。隠太子が変を起こそうとしたとき、太宗は玄齢と如晦を召し、道士の服を着せてひそかに閤に引き入れ、謀を議した。
事が収まり太宗が春宮に入ると、太子左庶子に抜擢された。貞観元年に中書令に遷り、三年に尚書左僕射に任じられ、国史の編修を監し、梁国公に封じられ、実封千三百戸を受けた。
諸官司を統べ任せられてからは、朝から夜まで敬み慎み、心と節を尽くして、一つの物も所を失わないようにしようとした。人に善いところがあると聞けば、自分にあるかのように思った。官吏の事に明らかに通じ、文学で飾り、法令を審らかに定めたが、その意は寛やかで公平なところにあった。備わることを求めて人を取らず、自分の長所で人を量らず、能に応じて取り立て、疎遠な者や身分の低い者を隔てなかった。論ずる者は良い宰相と称した。
十三年に太子少師を加えられた。玄齢は自ら宰相の座に十五年あるとして、しばしば表を奉って位を辞したが、優しい詔で許されなかった。十六年に司空に進んだが、そのまま朝政を統べ、以前どおり国史の編修を監した。玄齢がまた年老いたことを理由に退官を願うと、太宗は使いを遣わして言った。
「国家が長く宰相として任せ使ってきたのに、一朝にして急に良い宰相がいなくなれば、両手を失ったようなものだ。公の筋力が衰えていないなら、こうした辞退で煩わせるな。自ら衰えたと知ったら、そのとき改めて奏せ。」
玄齢はそこでやめた。太宗はまたかつて、王業の難しさと、天命を助けた者たちの匡弼を思い返し、「威鳳賦」を作って自らに喩え、玄齢に賜った。彼が称えられたさまはこのようであった。
2杜如晦
杜如晦,京兆萬年人也。武德初,為秦王府兵曹參軍,俄遷陜州總管府長史。時府中多英俊,被外遷者眾,太宗患之。記室房玄齡曰:「府僚去者雖多,蓋不足惜。杜如晦聰明識達,王佐才也。若大王守藩端拱,無所用之;必欲經營四方,非此人莫可。」太宗自此彌加禮重,寄以心腹,遂奏為府屬,常參謀帷幄。時軍國多事,剖斷如流,深為時輩所服。累除天策府從事中郎,兼文學館學士。隱太子之敗,如晦與玄齡功第一,遷拜太子右庶子。俄遷兵部尚書,進封蔡國公,實封一千三百戶。貞觀二年,以本官檢校侍中。三年,拜尚書右僕射,兼知吏部選事。仍與房玄齡共掌朝政。至於臺閣規模,典章文物,皆二人所定,甚獲當時之譽,時稱房、杜焉。
杜如晦は京兆万年の人である。武徳の初めに秦王府の兵曹参軍となり、やがて陝州総管府の長史に遷った。そのとき府中には英俊が多かったが、外へ遷される者が多く、太宗はこれを憂えた。記室の房玄齢が言った。
「府の僚で去る者は多いですが、惜しむに足りません。杜如晦は聡明で見識が通じており、王を助ける才です。もし大王が藩を守って手をこまねいておられるなら用いるところはありませんが、必ず四方を経営しようとされるなら、この人でなければなりません。」
太宗はこれよりいっそう礼を重くし、心腹として託し、ついに奏して府の属官とし、つねに帷幄で謀に加えた。そのとき軍国の事が多かったが、裁き決めることが流れるようで、当時の人々は深く服した。重ねて天策府従事中郎を授けられ、文学館学士を兼ねた。
隠太子が敗れたとき、如晦と玄齢の功が第一であったので、太子右庶子に遷り任じられた。やがて兵部尚書に遷り、蔡国公に進み封じられ、実封千三百戸を受けた。貞観二年に本官のまま侍中を検校し、三年に尚書右僕射に任じられ、吏部の選事をあわせて司った。そのまま房玄齢とともに朝政を執った。台閣の規模から典章・文物に至るまで、みな二人が定めたもので、当時の誉れを大いに得て、世に「房・杜」と称された。
3魏徴
魏徵,鉅鹿人也,近徙家相州之內黃。武德末,為太子洗馬。見太宗與隱太子陰相傾奪,每勸建成早為之謀。太宗既誅隱太子,召徵責之曰:「汝離間我兄弟,何也?」眾皆為之危懼。徵慷慨自若,從容對曰:「皇太子若從臣言,必無今日之禍。」太宗為之斂容,厚加禮異,擢拜諫議大夫。數引之臥內,訪以政術。徵雅有經國之才,性又抗直,無所屈撓。太宗每與之言,未嘗不悅。徵亦喜逢知己之主,竭其力用。又勞之曰:「卿所諫前後二百餘事,皆稱朕意,非卿忠誠奉國,何能若是?」三年,累遷秘書監,參預朝政,深謀遠算,多所弘益。太宗嘗謂曰:「卿罪重於中鉤,我任卿逾於管仲,近代君臣相得,寧有似我於卿者乎?」六年,太宗幸九成宮,宴近臣,長孫無忌曰:「王珪、魏徵,往事息隱,臣見之若讎,不謂今者又同此宴。」太宗曰:「魏徵往者實我所讎,但其盡心所事,有足嘉者。朕能擢而用之,何慚古烈?徵每犯顏切諫,不許我為非,我所以重之也。」徵再拜曰:「陛下導臣使言,臣所以敢言。若陛下不受臣言,臣亦何敢犯龍鱗,觸忌諱也。」太宗大悅,各賜錢十五萬。七年,代王珪為侍中,累封鄭國公。尋以疾乞辭所職,請為散官。太宗曰:「朕拔卿於讎虜之中,任卿以樞要之職,見朕之非,未嘗不諫。公獨不見金之在鑛,何足貴哉?良冶鍛而為器,便為人所寶。朕方自比於金,以卿為良工。雖有疾,未為衰老,豈得便爾耶?」徵乃止。後復固辭,聽解侍中,授以特進,仍知門下省事。十二年,太宗以誕皇孫,詔宴公卿,帝極歡,謂侍臣曰:「貞觀以前,從我平定天下,周旋艱險,玄齡之功無所與讓。貞觀之後,盡心於我,獻納忠讜,安國利人,成我今日功業,為天下所稱者,惟魏徵而已。古之名臣,何以加也。」於是親解佩刀以賜二人。庶人承乾在春宮,不修德業。魏王泰寵愛日隆,內外庶寮,咸有疑議。太宗聞而惡之,謂侍臣曰:「當今朝臣,忠謇無如魏徵,我遣傅皇太子,用絕天下之望。」十七年,遂授太子太師,知門下事如故。徵自陳有疾,太宗謂曰:「太子宗社之本,須有師傅,故選中正,以為輔弼。知公疹病,可臥護之。」徵乃就職。尋遇疾。徵宅內先無正堂,太宗時欲營小殿,乃輟其材為造,五日而就。遣中使賜以布被素褥,遂其所尚。後數日,薨。太宗親臨慟哭,贈司空,謚曰文貞。太宗親為制碑文,復自書於石。特賜其家食實封九百戶。太宗後嘗謂侍臣曰:「夫以銅為鏡,可以正衣冠;以古為鏡,可以知興替;以人為鏡,可以明得失。朕常保此三鏡,以防己過。今魏徵殂逝,遂亡一鏡矣!」因泣下久之。乃詔曰:「昔惟魏徵,每顯予過。自其逝也,雖過莫彰。朕豈獨有非於往時,而皆是於茲日?故亦庶僚茍順,難觸龍鱗者歟!所以虛己外求,披迷內省。言而不用,朕所甘心。用而不言,誰之責也?自斯已後,各悉乃誠。若有是非,直言無隱。」
魏徴は鉅鹿の人で、近ごろ家を相州の内黄に移した。武徳の末に太子洗馬となった。太宗と隠太子がひそかに互いに傾け奪おうとするのを見て、つねに建成に早く手を打つよう勧めた。太宗が隠太子を誅した後、魏徴を召して責めて言った。
「お前は我が兄弟を離間した。どういうことか。」
人々はみな彼を危ぶんで恐れた。魏徴は慷慨して平然とし、落ち着いて答えた。
「皇太子がもし臣の言に従っていたなら、必ず今日の禍はありませんでした。」
太宗はこれに容を正し、厚く礼を異にして、諫議大夫に抜擢し任じた。たびたび寝所の内に引き入れて、政の術を尋ねた。魏徴はもとより国を治める才があり、性もまた剛直で、屈し撓むところがなかった。太宗は彼と語るたびに、喜ばないことがなかった。魏徴もまた己を知る主に出会ったことを喜び、その力を尽くした。太宗はまた彼を労って言った。
「卿が前後に諫めたことは二百余件、みな朕の意に適っている。卿が忠誠で国を奉じているのでなければ、どうしてこのようにできようか。」
三年に重ねて遷って秘書監となり、朝政に参与して、深い謀と遠い計らいで広め益すところが多かった。太宗はかつて言った。
「卿の罪は帯の鉤を射たよりも重く、朕が卿に任せたのは管仲より厚い。近代の君臣が互いを得たことで、どうして朕と卿のような例があろうか。」
六年、太宗が九成宮に行幸して近臣に宴を賜ったとき、長孫無忌が言った。
「王珪と魏徴は、昔は息隠に仕えましたので、臣は彼らを仇のように見ておりました。今日またこの宴をともにするとは思いもしませんでした。」
太宗が言った。
「魏徴は昔まことに朕の仇であった。ただ、仕える相手に心を尽くしたことは嘉すに足る。朕が抜いて用いることができるのだから、どうして古の烈士に恥じようか。魏徴はいつも顔を犯して切に諫め、朕が間違うことを許さない。それが朕が彼を重んじる理由である。」
魏徴は再拝して言った。
「陛下が臣を導いて言わせてくださるので、臣は敢えて申すのです。もし陛下が臣の言を受けられないなら、臣もどうして敢えて龍の鱗を犯し、忌み憚るところに触れましょうか。」
太宗は大いに悦び、それぞれに銭十五万を賜った。
七年、王珪に代わって侍中となり、重ねて鄭国公に封じられた。やがて病を理由に職を辞し、散官にしてほしいと願った。太宗が言った。
「朕は卿を仇や捕虜の中から抜き、枢要の職に任せた。朕の非を見れば諫めないことはなかった。公は、金が鉱の中にあるのを見たことがないのか。何の貴いことがあろう。良い鍛冶が鍛えて器とすれば、人の宝となる。朕はいま自らを金に喩え、卿を良い職人としている。病はあっても、まだ衰え老いてはいない。どうしてすぐそうできようか。」
魏徴はそこでやめた。後に再び固く辞したので、侍中を解くことは聞き入れ、特進を授け、そのまま門下省の事を司らせた。
十二年、太宗は皇孫が生まれたので詔して公卿に宴を賜った。帝はきわめて喜び、側近の臣たちに言った。
「貞観より前、朕に従って天下を平定し、艱険を巡ったことでは、玄齢の功に譲るものはない。貞観の後、朕に心を尽くし、忠直な言を献じ、国を安んじ人を利し、朕の今日の功業を成して天下の称えるところとなったのは、ただ魏徴だけである。古の名臣とて、何を加えようか。」
そこで自ら佩刀を解いて二人に賜った。
庶人の承乾が春宮にあって徳業を修めず、魏王泰の寵愛が日ごとに高まったので、内外の多くの僚はみな疑いの議があった。太宗は聞いてこれを憎み、側近の臣たちに言った。
「いまの朝臣で、忠直なことは魏徴に及ぶ者がない。朕は彼を遣わして皇太子の師傅とし、天下の望みを絶とう。」
十七年、ついに太子太師を授け、門下の事は以前どおり司らせた。魏徴が自ら病があると述べると、太宗は言った。
「太子は宗社の本であるから、師傅がなければならぬ。だから中正の者を選んで輔弼とするのだ。公の病は知っている。臥したまま護ってもよい。」
魏徴はそこで職に就いた。やがて病に遇った。魏徴の家の内にはもともと正堂がなかったので、太宗はそのとき小さな殿を造ろうとしていた材を回して造らせ、五日で出来上がった。中使を遣わして布の被と素の褥を賜り、彼の尚ぶところを遂げさせた。数日後に亡くなった。
太宗は自ら臨んで慟哭し、司空を贈り、諡を文貞といった。太宗は自ら碑文を作り、さらに手ずから石に書いた。特にその家に食実封九百戸を賜った。
太宗は後にかつて側近の臣たちに言った。
「そもそも銅を鏡とすれば衣冠を正すことができ、古を鏡とすれば興替を知ることができ、人を鏡とすれば得失を明らかにすることができる。朕はつねにこの三つの鏡を保って己の過ちを防いできたが、いま魏徴が逝って、ついに一つの鏡を失った。」
そして涙を流して久しくいた。やがて詔して言った。
「昔はただ魏徴が、つねに朕の過ちを顕した。彼が逝ってからは、過ちがあっても顕れない。朕がどうして昔だけ非があり、今日はすべて是であろうか。だからこれもまた、多くの僚がかりそめに従い、龍の鱗に触れがたく思っているからであろう。それゆえ己を虚しくして外に求め、迷いを披いて内を省みる。言って用いられないのは朕の甘んじるところだが、用いながら言わないのは誰の責めか。これより後は、おのおのその誠を尽くせ。是非があれば、直言して隠すな。」
4王珪
王珪,太原祁縣人也,武德中,為隱太子中允,甚為建成所禮。後以連其陰謀事,流於巂州。建成誅後,太宗即位,召拜諫議大夫。每推誠盡節,多所獻納。珪嘗上封事切諫,太宗謂曰:「卿所論皆中朕之失,自古人君莫不欲社稷永安,然而不得者,只為不聞己過,或聞而不能改故也。今朕有所失,卿能直言,朕復聞過能改,何慮社稷之不安乎?」太宗又嘗謂珪曰:「卿若常居諫官,朕必永無過失。」顧待益厚。貞觀元年,遷黃門侍郎,參預政事,兼太子右庶子。二年,進拜侍中。時房玄齡、魏徵、李靖、溫彥博、戴胄與珪同知國政,嘗因侍宴,太宗謂珪曰:「卿識鑒精通,尤善談論,自玄齡等,咸宜品藻。又可自量孰與諸子賢?」對曰:「孜孜奉國,知無不為,臣不如玄齡。每以諫諍為心,恥君不及堯、舜、臣不如魏徵。才兼文武,出將入相,臣不如李靖。敷奏詳明,出納惟允,臣不如溫彥博。處繁理劇,眾務必舉,臣不如戴胄。至如激濁揚清,嫉惡好善,臣於數子,亦有一日之長。」太宗深然其言,群公亦各以為盡己所懷,謂之確論。
王珪は太原祁県の人である。武徳の間に隠太子中允となり、建成からひどく礼遇された。後にその陰謀の事に連なって、巂州に流された。建成が誅された後、太宗が即位すると、召して諫議大夫に任じた。つねに誠を推し節を尽くして、献じ納めるところが多かった。
王珪がかつて封じた書を奉って切に諫めると、太宗は言った。
「卿の論ずるところはみな朕の失に当たっている。古来、君主が社稷の永く安らかであることを願わなかった者はないが、それを得られなかったのは、ただ己の過ちを聞かず、あるいは聞いても改められなかったからだ。いま朕に失があれば卿が直言でき、朕もまた過ちを聞いて改められる。どうして社稷の安らかでないことを憂えようか。」
太宗はまたかつて王珪に言った。
「卿がもしつねに諫官の職にあれば、朕は必ず永く過失がないだろう。」
顧みて待遇することはいっそう厚くなった。貞観元年に黄門侍郎に遷って政事に参与し、太子右庶子を兼ねた。二年に侍中に進み任じられた。
そのとき房玄齢・魏徴・李靖・温彦博・戴冑が王珪とともに国政を司っていた。かつて宴に侍った折、太宗が王珪に言った。
「卿は人を見る眼が精しく通じ、とりわけ談論が巧みだ。玄齢たちから、みな品評してみよ。また自ら量って、諸子と比べて誰が賢いか。」
答えて言った。
「勤めて国を奉じ、知れば為さないことがないという点では、臣は玄齢に及びません。つねに諫め争うことを心とし、君が堯・舜に及ばないのを恥じるという点では、臣は魏徴に及びません。才が文武を兼ね、出れば将、入れば相となる点では、臣は李靖に及びません。奏することが詳らかで明らかで、出し入れがただ適うという点では、臣は温彦博に及びません。煩わしい事を処し難しい事を理め、多くの務めを必ず挙げるという点では、臣は戴冑に及びません。濁ったものを激して清いものを揚げ、悪を憎み善を好むことに至っては、臣も数子に対して一日の長があります。」
太宗はその言葉を深く善しとし、諸公もおのおの自分の思うところを尽くして言ったとして、確かな論だと評した。
5李靖
李靖,京兆三原人也。大業末,為馬邑郡丞。曾高祖為太原留守,靖觀察高祖,知有四方之誌,因自鎖上變,詣江都。至長安,道塞不通而止。高祖克京城,執靖,將斬之,靖大呼曰:「公起義兵除暴亂,不欲就大事,而以私怨斬壯士乎?」太宗亦加救靖,高祖遂舍之。武德中,以平蕭銑、輔公祏功,歷遷揚州大都督府長史。太宗嗣位,召拜刑部尚書。貞觀二年,以本官檢校中書令。三年,轉兵部尚書,為代州行軍總管,進擊突厥定襄城,破之。突厥諸部落俱走磧北。北擒隋齊王暕之子楊道政,及煬帝蕭後,送於長安,突利可汗來降,頡利可汗僅以身遁。太宗謂曰:「昔李陵提步卒五千,不免身降匈奴,尚得名書竹帛。卿以三千輕騎,深入虜庭,克復定襄,威振北狄,實古今未有,足報往年渭水之役矣。」以功進封代國公。此後,頡利可汗大懼,四年,退保鐵山,遣使入朝謝罪,請舉國內附。又以靖為定襄道行軍總管,往迎頡利。頡利雖外請降,而心懷疑貳。詔遣鴻臚卿唐儉、攝戶部尚書將軍安修仁慰諭之,靖謂副將張公謹曰:「詔使到彼,虜必自寬,乃選精騎賫二十日糧,引兵自白道襲之。」公謹曰:「既許其降,詔使在彼,未宜討擊。」靖曰:「此兵機也,時不可失。」遂督軍疾進。行至陰山,遇其斥候千餘帳,皆俘以隨軍。頡利見使者甚悅,不虞官兵至也。靖前鋒乘霧而行,去其牙帳七里,頡利始覺,列兵未及成陣,單馬輕走,虜眾因而潰散。斬萬餘級,殺其妻隋義成公主,俘男女十餘萬,斥土界自陰山至於大漠,遂滅其國。尋獲頡利可汗於別部落,餘眾悉降。太宗大悅,顧謂侍臣曰:「朕聞主憂臣辱,主辱臣死。往者國家草創,突厥強梁,太上皇以百姓之故,稱臣於頡利,朕未嘗不痛心疾首,誌滅匈奴,坐不安席,食不甘味。今者暫動偏師,無往不捷,單於稽顙,恥其雪乎!」群臣皆稱萬歲。尋拜靖光祿大夫、尚書右僕射,賜實封五百戶。又為西海道行軍大總管,征吐谷渾,大破其國。改封衛國公。及靖身亡,有詔許墳塋制度依漢衛、霍故事,築闕象突厥內燕然山、吐谷渾內積石二山,以旌殊績。
李靖は京兆三原の人である。大業の末に馬邑郡丞となった。そのとき高祖は太原留守であり、李靖は高祖を観察して四方を図る志があると知り、自ら身を鎖して変を上奏しようと江都に向かった。長安に至って道が塞がって通れず、やめた。
高祖が京城を克ち、李靖を捕らえて斬ろうとすると、李靖は大声で叫んだ。
「公は義兵を起こして暴乱を除こうとされるのに、大事を成そうとせず、私怨で壮士を斬るのですか。」
太宗もまた李靖を救ったので、高祖はついに赦した。武徳の間、蕭銑と輔公祏を平定した功で、諸職を経て揚州大都督府の長史となった。
太宗が位を嗣ぐと、召して刑部尚書に任じた。貞観二年に本官のまま中書令を検校し、三年に兵部尚書に転じて代州行軍総管となり、突厥の定襄城を進み撃って破った。突厥の諸部落はみな磧の北へ走った。北で隋の斉王暕の子の楊道政と、煬帝の蕭后を捕らえて長安に送り、突利可汗は来降し、頡利可汗はやっと身一つで逃れた。太宗が言った。
「昔、李陵は歩卒五千を率いても身が匈奴に降るのを免れなかったが、それでも名は竹帛に書かれた。卿は軽騎三千で虜の庭に深く入り、定襄を克ち復し、威を北狄に振るった。まことに古今になかったことで、往年の渭水の役に報いるに足る。」
功によって代国公に進み封じられた。
この後、頡利可汗は大いに懼れ、四年に鉄山に退いて保ち、使いを遣わして入朝して罪を謝し、国を挙げて内附することを願った。また李靖を定襄道行軍総管として、頡利を迎えに行かせた。頡利は外では降を請いながら、心には二心を抱いていた。詔して鴻臚卿の唐倹と、戸部尚書を摂する将軍の安修仁を遣わして慰め諭させた。李靖は副将の張公謹に言った。
「詔使があちらに着けば、虜は必ず自ら気を緩めるだろう。そこで精騎を選び二十日分の糧を携え、兵を率いて白道から襲おう。」
公謹が言った。
「すでにその降を許し、詔使があちらにいるのですから、まだ討ち撃つべきではありません。」
李靖が言った。
「これは兵機である。時を失ってはならぬ。」
ついに軍を督して急ぎ進んだ。陰山に至って、その斥候の千余の天幕に遇い、みな捕らえて軍に従わせた。頡利は使者を見て大いに悦び、官兵が至ることを慮らなかった。李靖の前鋒が霧に乗じて進み、その牙帳から七里のところまで来て、頡利はやっと気づいた。兵を並べたが陣を成す前に、単騎で身軽に走り去り、虜の衆はそれによって潰え散った。万余級を斬り、その妻である隋の義成公主を殺し、男女十余万を捕らえた。土地の境を陰山から大漠まで広げ、ついにその国を滅ぼした。やがて頡利可汗を別の部落で捕らえると、残る衆はみな降った。
太宗は大いに悦び、顧みて側近の臣たちに言った。
「朕が聞くに、主が憂えれば臣は辱められ、主が辱められれば臣は死ぬという。昔、国家が草創のころ、突厥が強く横暴で、太上皇は民のために頡利に臣と称された。朕は心を痛め頭を痛めないことはなく、匈奴を滅ぼすことに志して、座っても席が安まらず、食べても味が甘くなかった。いましばらく偏師を動かしただけで、行くところ勝たないことなく、単于が額を地につけた。その恥は雪がれたぞ。」
群臣はみな万歳を称えた。
やがて李靖を光禄大夫・尚書右僕射に任じ、実封五百戸を賜った。また西海道行軍大総管となって吐谷渾を征し、その国を大いに破った。衛国公に封を改めた。李靖が亡くなると、詔して墳墓の制度を漢の衛青・霍去病の故事に依ることを許し、闕を築いて突厥の内の燕然山と吐谷渾の内の積石の二山に象らせ、すぐれた功績を表した。
6虞世南
虞世南,會稽餘姚人也。貞觀初,太宗引為上客。因開文館,館中號為多士,咸推世南為文學之宗。授以記室,與房玄齡對掌文翰。嘗命寫《列女傳》以裝屏風,於時無本,世南暗書之,一無遺失。貞觀七年,累遷秘書監,太宗每機務之隙,引之談論,共觀經史。世南雖容貌懦弱,如不勝衣,而誌性抗烈,每論及古先帝王為政得失,必存規諷,多所補益。及高祖晏駕,太宗執喪過禮,哀容毀顇,久替萬機,文武百寮,計無所出,世南每入進諫,太宗甚嘉納之,益所親禮。嘗謂侍臣曰:「朕因暇日,每與虞世南商榷古今,朕有一言之善,世南未嘗不悅,有一言之失,未嘗不悵恨。其懇誠若此,朕用嘉焉。群臣皆若世南,天下何憂不治?」太宗嘗稱世南有五絕:一曰德行,二曰忠直,三曰博學,四曰詞藻,五曰書翰。及卒,太宗舉哀於別次,哭之甚慟。喪事官給,仍賜以東園秘器,贈禮部尚書,謚曰文懿。太宗手敕魏王泰曰:「虞世南於我,猶一體也。拾遺補闕,無日暫忘,實當代名臣,人倫準的。吾有小善,必將順而成之;吾有小失,必犯顏而諫之。今其云亡,石渠、東觀之中,無復人矣,痛惜豈可言耶!」未幾,太宗為詩一篇,追思往古理亂之道,既而嘆曰:「鍾子期死,伯牙不復鼓琴。朕之此篇,將何所示?」因令起居褚遂良詣其靈帳讀訖焚之,其悲悼也若此。又令與房玄齡、長孫無忌、杜如晦、李靖等二十四人,圖形於淩煙閣。
虞世南は会稽余姚の人である。貞観の初め、太宗が引いて上客とした。文館を開くと、館中は士が多いと言われたが、みな世南を文学の宗と推した。記室を授けて、房玄齢と向かい合って文翰を司らせた。かつて「列女伝」を写して屏風を装わせたが、そのとき本がなく、世南は暗記して書き、一つも遺し失うことがなかった。
貞観七年に重ねて遷って秘書監となった。太宗は政務の隙あるごとに彼を引いて談論し、ともに経史を観た。世南は容貌は柔弱で衣にも堪えないようであったが、志と性は剛烈であった。古の帝王が政を行った得失に論が及ぶたびに、必ず規し諷する意を込めて、補い益すところが多かった。
高祖が崩じると、太宗は喪を執ることが礼に過ぎ、哀しむ容で身を損ない、長く万機を廃したので、文武の百僚は計らいの出るところがなかった。世南が入って諫めるたびに、太宗は大いに嘉して納れ、いっそう親しく礼遇した。かつて側近の臣たちに言った。
「朕は暇な日ごとに虞世南と古今を論じ合うが、朕に一言の善があれば世南は喜ばないことがなく、一言の失があれば悵み恨まないことがない。その懇ろな誠がこのようであるから、朕はこれを嘉する。群臣がみな世南のようであれば、天下が治まらないことを何も憂えようか。」
太宗はかつて世南に五つの絶があると称した。一つは徳行、二つは忠直、三つは博学、四つは詞藻、五つは書翰である。
亡くなると、太宗は別の処で哀を挙げ、ひどく慟いて哭した。喪事は官から給し、さらに東園の秘器を賜り、礼部尚書を贈り、諡を文懿といった。太宗は手ずから魏王泰に敕して言った。
「虞世南は朕にとって一体のようなものであった。遺を拾い闕を補って、一日も忘れることがなく、まことに当代の名臣、人倫の標準であった。朕に小さな善があれば必ず順って成し、朕に小さな失があれば必ず顔を犯して諫めた。いま彼が亡くなったと聞けば、石渠・東観の中にもう人はいない。痛み惜しむ気持ちをどう言葉にできようか。」
ほどなく太宗は詩一篇を作り、古の治乱の道を思い返し、そして嘆いて言った。
「鍾子期が死んで、伯牙は二度と琴を鼓かなかった。朕のこの篇を、誰に示そうか。」
そこで起居の褚遂良に命じて、その霊帳に詣って読み終えてから焼かせた。その悲しみ悼むさまはこのようであった。また房玄齢・長孫無忌・杜如晦・李靖ら二十四人とともに、凌煙閣に姿を図かせた。
7李勣
李勣,曹州離狐人也。本姓徐,初仕李密,為左武侯大將軍。密後為王世充所破,擁眾歸國,勣猶據密舊境十郡之地。武德二年,謂長史郭孝恪曰:「魏公既歸大唐,今此人眾土地,魏公所有也。吾若上表獻之,則是利主之敗,自為己功,以邀富貴,是吾所恥。今宜具錄州縣及軍人戶口,總啟魏公,聽公自獻,此則魏公之功也,不亦可乎?」乃遣使啟密。使人初至,高祖聞無表,惟有啟與密,甚怪之。使者以勣意聞奏,高祖方大喜曰:「徐勣感德推功,實純臣也。」拜黎州總管,賜姓李氏,附屬籍於宗正。封其父蓋為濟陰王,固辭王爵,乃封舒國公,授散騎常侍。尋加勣右武侯大將軍。及李密反叛伏誅,勣發喪行服,備君臣之禮,表請收葬。高祖遂歸其屍。於是大具威儀,三軍縞素,葬於黎陽山。禮成,釋服而散,朝野義之。尋為竇建德所攻,陷於建德,又自拔歸京師。從太宗征王世充、竇建德,平之。貞觀元年,拜并州都督,令行禁止,號為稱職,突厥甚加畏憚。太宗謂侍臣曰:「隋煬帝不解精選賢良,鎮撫邊境,惟遠築長城,廣屯將士,以備突厥,而情識之惑,一至於此。朕今委任李勣於并州,遂得突厥畏威遠遁,塞垣安靜,豈不勝數千里長城耶?」其後并州改置大都督府,又以勣為長史,累封英國公。在并州凡十六年。召拜兵部尚書,兼知政事。勣時遇暴疾,驗方云須灰可以療之,太宗自剪須為其和藥。勣頓首見血,泣以陳謝。太宗曰:「吾為社稷計耳,不煩深謝。」十七年,高宗居春宮,轉太子詹事,加特進,仍知政事。太宗又嘗宴,顧勣曰:「朕將屬以孤幼,思之無越卿者。公往不遺於李密,今豈負於朕哉!」勣雪涕致辭,因噬指流血。俄沈醉,御服覆之,其見委信如此。勣每行軍,用師籌算,臨敵應變,動合事機。自貞觀以來,討擊突厥、頡利及薛延陀、高麗等,並大破之。太宗嘗曰:「李靖、李勣二人,古之韓、白,衛、霍豈能及也。」
李勣は曹州離狐の人である。もとの姓は徐氏。初めに李密に仕えて左武侯大将軍となった。李密が後に王世充に破られ、衆を率いて国に帰った後も、李勣はなお李密の旧境十郡の地を占めていた。武徳二年、長史の郭孝恪に言った。
「魏公はすでに大唐に帰した。いまこの人と土地は魏公のものだ。わたしがもし表を奉って献じるなら、それは主の敗れを利として自分の功とし、富貴を求めることになる。わたしの恥とするところだ。いま州県と軍人の戸口を具に録して、すべて魏公に啓し、公が自ら献じるようにすれば、それは魏公の功となる。それもよいではないか。」
そこで使いを遣わして李密に啓した。使いが初めて着いたとき、高祖は表がなく、ただ李密に啓する書だけがあるのを聞いて、ひどく怪しんだ。使者が李勣の意を奏すると、高祖はそこで大いに喜んで言った。
「徐勣は徳に感じて功を譲った。まことに純なる臣である。」
黎州総管に任じ、李氏の姓を賜り、戸籍を宗正に附属させた。その父の徐蓋を済陰王に封じたが、固く王爵を辞したので、舒国公に封じ、散騎常侍を授けた。やがて李勣に右武侯大将軍を加えた。
李密が叛いて誅に伏すと、李勣は喪を発して服を着し、君臣の礼を備えて、表を奉って収め葬ることを願った。高祖はついにその屍を返した。そこで威儀を大いに具え、三軍が白い喪服を着て、黎陽山に葬った。礼が成ると服を釈いて散ったので、朝廷も民間もこれを義とした。
やがて竇建徳に攻められて建徳に陥ったが、また自ら抜け出して京師に帰った。太宗に従って王世充と竇建徳を征し、平定した。
貞観元年に并州都督に任じられた。命じれば行われ禁じれば止まり、職に称うと評され、突厥はひどく畏れ憚った。太宗が側近の臣たちに言った。
「隋の煬帝は賢良を精しく選んで辺境を鎮め撫することを解さず、ただ遠く長城を築き、将士を広く屯させて突厥に備えた。情と識の惑いはここまで至ったのだ。朕がいま李勣を并州に委任して、ついに突厥は威を畏れて遠く遁れ、塞の垣は安静になった。どうして数千里の長城に勝らないことがあろうか。」
その後、并州を改めて大都督府を置き、また李勣を長史とし、重ねて英国公に封じた。并州にあわせて十六年いた。召して兵部尚書に任じ、政事をあわせて司らせた。
李勣がそのとき急な病に遇い、処方に髭の灰で療せるとあったので、太宗は自ら髭を剪って薬に和えさせた。李勣が頭を地につけて血が出るほどにし、泣いて謝意を述べると、太宗は言った。
「朕は社稷のための計らいをしたまでだ。深く謝して煩わせるな。」
十七年、高宗が春宮にあったとき、太子詹事に転じ、特進を加え、そのまま政事を司らせた。太宗はまたかつて宴の折、李勣を顧みて言った。
「朕はこれから幼い者を託そうとしているが、思うに卿に越える者はない。公は昔、李密を見捨てなかった。いまどうして朕に背こうか。」
李勣は涙を拭って言葉を述べ、指を噬んで血を流した。やがて深く酔ったので、御服を覆ってやった。彼が委ね信じられたさまはこのようであった。
李勣は軍を行るたびに、兵を用いる計らいも、敵に臨んで変に応じることも、動くたびに事の機に適った。貞観より以来、突厥や頡利、薛延陀、高句麗などを討ち撃って、みな大いに破った。太宗はかつて言った。
「李靖と李勣の二人は、古の韓信・白起である。衛青や霍去病がどうして及ぼうか。」
8馬周
馬周,博州茌平人也。貞觀五年,至京師,舍於中郎將常何之家。時太宗令百官上書言得失,周為何陳便宜二十餘事,令奏之,事皆合旨。太宗怪其能,問何,何對曰:「此非臣所發意,乃臣家客馬周也。」太宗即日召之,未至間,凡四度遣使催促。及謁見,與語其悅。令直門下省,授監察御史,累除中書舍人。周有機辯,能敷奏,深識事端,故動無不中。太宗嘗曰:「我於馬周,暫時不見,則便思之。」十八年,歷遷中書令,兼太子左庶子。周既職兼兩宮,處事平允,甚獲當時之譽。又以本官攝吏部尚書。太宗嘗謂侍臣曰:「周見事敏速,性甚慎至。至於論量人物,直道而言,朕比任使之,多稱朕意。既寫忠誠,親附於朕,實藉此人,共康時政也。」
馬周は博州茌平の人である。貞観五年に京師に至り、中郎将の常何の家に宿った。そのとき太宗は百官に上書して得失を言わせていたが、馬周は常何のために便宜二十余事を述べて奏させ、事はみな意に適った。太宗はその能を怪しんで常何に問うと、常何は答えた。
「これは臣が思いついたことではなく、臣の家の客の馬周でございます。」
太宗はその日に彼を召し、着くまでに合わせて四度も使いを遣わして催促した。謁見して語り合い、大いに悦んだ。門下省に宿直させ、監察御史を授け、重ねて中書舎人を任じた。馬周は機知ある弁があり、奏することに巧みで、事の端を深く識っていたので、動けば中らないことがなかった。太宗はかつて言った。
「朕は馬周をしばらく見ないと、すぐ彼を思う。」
十八年、諸職を経て中書令となり、太子左庶子を兼ねた。馬周は両宮の職を兼ねながら、事を処することが公平で、当時の誉れを大いに得た。また本官のまま吏部尚書を摂した。太宗はかつて側近の臣たちに言った。
「馬周は事を見ることが敏速で、性はひどく慎み深い。人物を論じ量ることに至っては、直き道で言う。朕は近ごろ彼を任せ使っているが、朕の意に適うことが多い。忠誠を注ぎ、朕に親しく附いているのだから、まことにこの人に藉って、ともに時の政を安らかにしよう。」