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諫めを受け入れる納諫第五

貞観政要(貞観の治における政の要) 貞觀政要 · 呉兢 · 8世紀初め · 段落 14 · 漢字 2,278字 · 朗読 9.1分

貞観政要(貞観の治における政の要) 納諫第五 唐の太宗が臣下と交わした言葉を主題ごとに集めた書。君主の道から始まり、諫言を受け入れる法、官吏を選ぶ法、刑罰と税と征伐を経て「終わりを慎む」で終わる。魏徴が面を合わせて折って諫め、太宗がそれを受け入れる場面が書の骨格である。高句麗の安市城をついに落とせずに退き、城主に絹を与えたこと、房玄齢が死に臨んで遼東征伐を止めた上疏もここにある。

貞觀初,太宗與黃門侍郎王珪宴語,時有美人侍側,本廬江王瑗之姬也,瑗敗,籍沒入宮。太宗指示珪曰:「廬江不道,賊殺其夫而納其室。暴虐之甚,何有不亡者乎!」珪避席曰:「陛下以廬江取之為是邪,為非邪?」太宗曰:「安有殺人而取其妻,卿乃問朕是非,何也?」珪對曰:「臣聞於《管子》曰:『齊桓公之郭國,問其父老曰:「郭何故亡?」父老曰:「以其善善而惡惡也。」桓公曰:「若子之言,乃賢君也,何至於亡?」父老曰:「不然,郭君善善而不能用,惡惡而不能去,所以亡也。」』今此婦人尚在左右,臣竊以為聖心是之,陛下若以為非,所謂知惡而不去也。」太宗大悅,稱為至善,遽令以美人還其親族。

貞観の初め、太宗が黄門侍郎の王珪と宴して語っていたとき、美しい女が側に侍っていた。もとは廬江王瑗の姫で、瑗が敗れたとき没収されて宮に入った者である。太宗が指して王珪に示して言った。

「廬江王は無道で、その夫を殺して妻を納れた。暴虐のひどさよ。どうして亡びないことがあろうか。」

王珪は席を避けて言った。

「陛下は、廬江王が彼女を取ったことを是とされますか、非とされますか。」

太宗が言った。

「人を殺してその妻を取ることが、どうして是であろう。卿がかえって朕に是非を問うのは、どういうことか。」

王珪が答えた。

「臣が『管子』で聞きましたことに、斉の桓公が郭の国へ行き、その父老に『郭はどうして亡んだのか』と問うと、父老は『善いものを善いとし、悪いものを悪いとしたからです』と言いました。桓公が『あなたの言うとおりなら賢い君ではないか。どうして亡びるに至ったのか』と問うと、父老は『そうではありません。郭の君は善いものを善いとしながら用いることができず、悪いものを悪いとしながら去けることができませんでした。だから亡んだのです』と言いました。

いまこの婦人がまだ側にいますので、臣はひそかに聖なる御心がそれを是とされているのかと思いました。陛下がもし非とされるのなら、いわゆる悪を知りながら去けないことになります。」

太宗は大いに悦び、至って善いことだと称えて、ただちにその美人を親族に返させた。

貞觀四年,詔發卒修洛陽之乾元殿以備巡狩。給事中張玄素上書諫曰:

貞観四年、詔して卒を発し、洛陽の乾元殿を修めて巡狩に備えさせた。給事中の張玄素が書を奉って諫めた。

陛下智周萬物,囊括四海。令之所行,何往不應?誌之所欲,何事不從?微臣竊思秦始皇之為君也,藉周室之餘,因六國之盛,將貽之萬葉,及其子而亡,諒由逞嗜奔欲,逆天害人者也。是知天下不可以力勝,神祇不可以親恃。惟當弘儉約,薄賦斂,慎終始,可以永固。

陛下は智が万物にあまねく及び、四海を嚢に括るようにしておられます。令を行えば、どこが応じないでしょうか。志して欲されれば、何事が従わないでしょうか。

微臣がひそかに思いますに、秦の始皇が君であったとき、周室の遺りを藉り、六国の盛りを承けて、万代に遺そうとしましたが、その子の代で亡びました。まことに好み欲するところを放って追い、天に逆らい人を害したからです。これで、天下は力で勝つことはできず、神祇は親しんで恃むことはできないと分かります。ただ倹約を弘め、賦斂を薄くし、終始を慎んでこそ、永く固めることができます。

方今承百王之末,屬雕弊之餘,必欲節以禮制,陛下宜以身為先。東都未有幸期,即令補葺;諸王今並出藩,又須營構。興發數多,豈疲人之所望?其不可一也。陛下初平東都之始,層樓廣殿,皆令撤毀,天下翕然,同心傾仰。豈有初則惡其侈靡,今乃襲其雕麗?其不可二也,每承音旨,未即巡幸,此乃事不急之務,成虛費之勞。國無兼年之積,何用兩都之好?勞役過度,怨讟將起。其不可三也。百姓承亂離之後,財力雕盡,天恩含育,粗見存立,饑寒猶切,生計未安,三五年間,未能復舊。奈何營未幸之都,而奪疲人之力?其不可四也。昔漢高祖將都洛陽,婁敬一言,即日西駕。豈不知地惟土中,貢賦所均,但以形勝不如關內也。伏惟陛下化雕飏之人,革澆漓之俗,為日尚淺,未甚淳和,斟酌事宜,詎可東幸?其不可五也。

いま百王の末を承け、雕れ弊れた後に属していますから、必ず礼の制で節しようとされるなら、陛下が自ら先んじられるべきです。

東都に行幸の期はまだないのに、すぐ修繕させ、諸王がいま並んで藩に出るので、また営み構えなければなりません。興し発することが幾度も重なって、どうして疲れた民の望むところでしょうか。その不可の一つ目です。

陛下が初めて東都を平定されたとき、層なる楼と広い殿をみな撤し毀たせたので、天下は翕然として心を同じくし傾き仰ぎました。どうして初めはその奢りを憎み、いまはかえってその雕り麗しさを襲われるのでしょうか。その不可の二つ目です。

ご言葉を承るたびに、すぐ巡幸されるのではないとのこと。これはつまり急がぬ務めであり、虚しい費えの労を成すものです。国に二年分の蓄えもないのに、どうして両都の好さを用いるのでしょうか。労役が度を過ぎれば、怨みの声が起こります。その不可の三つ目です。

民は乱離の後を承けて財力が雕り尽き、天の恩で含み育てられて、やっと存ち立つのが見えるばかりです。飢えと寒さはなお切なく、生計は安んじておらず、三年五年のうちに旧に復することはできません。どうして行幸もしない都を営んで、疲れた民の力を奪うのでしょうか。その不可の四つ目です。

昔、漢の高祖が洛陽に都しようとしたとき、婁敬の一言でその日に西へ駕を向けました。その地が土の中にあって貢賦の均しくなるところだと知らなかったのではありません。ただ形勝が関内に及ばなかったからです。伏して思いますに、陛下が雕り飄れた人を化し、澆く漓い俗を革められてから日はまだ浅く、ひどく淳く和らいではおりません。事の宜しさを斟み酌んで、どうして東へ行幸できましょうか。その不可の五つ目です。

臣嘗見隋室初造此殿,楹棟宏壯,大木非近道所有,多自豫章采來,二千人拽一柱,其下施轂,皆以生鐵為之,中間若用木輪,動即火出。略計一柱,已用數十萬,則餘費又過倍於此。臣聞阿房成,秦人散;章華就,楚眾離;乾元畢工,隋人解體。且以陛下今時功力,何如隋日?承雕殘之後,役瘡痍之人,費億萬之功,襲百王之弊,以此言之,恐甚於煬帝遠矣。深願陛下思之,無為由余所笑,則天下幸甚矣。

臣はかつて隋の室が初めてこの殿を造るのを見ました。楹と棟は宏く壮んで、大木は近い道で得られるものではなく、多くは豫章から採って来たのですが、二千人で一本の柱を曳きました。その下に轂を施しましたが、みな生鉄で作ったのです。その間に木の輪を用いると、動くとすぐ火が出たからです。おおよそ一本の柱を計っても、すでに数十万を用いたのですから、残りの費えはまたこれの倍を超えました。

臣が聞きますに、阿房が成って秦の人は散り、章華が就って楚の衆は離れ、乾元が工を畢えて隋の人は解体したといいます。また陛下のいまの功力は、隋の日と比べてどうでしょうか。雕れ残った後を承け、瘡みついた人を役し、億万の功を費やして、百王の弊を襲うなら、これで言えば、煬帝よりはるかにひどいことを恐れます。深く願いますに、陛下がこれをお思いになって、由余に笑われることがなければ、天下は幸いの甚しいことです。

太宗謂玄素曰:「卿以我不如煬帝,何如桀、紂?」對曰:「若此殿卒興,所謂同歸於亂。」太宗嘆曰:「我不思量,遂至於此。」顧謂房玄齡曰:「今玄素上表,洛陽實亦未宜修造,後必事理須行,露坐亦復何苦?所有作役,宜即停之。然以卑干尊,古來不易,非其忠直,安能如此?且眾人之唯唯,不如一士之諤諤。可賜絹二百匹。」魏徵嘆曰:「張公遂有回天之力,可謂仁人之言,其利溥哉!」

太宗が玄素に言った。

「卿は朕が煬帝に及ばないというが、桀や紂と比べてはどうか。」

答えて言った。

「もしこの殿がついに興るなら、いわゆる同じく乱に帰すことになります。」

太宗は嘆いて言った。

「朕は思い量らずに、ついにここに至った。」

顧みて房玄齢に言った。

「いま玄素が表を奉った。洛陽はまことにまだ修め造るべきではない。後に必ず事の理として行うべきときが来るなら、露天に座ってもまた何が苦しかろう。起こしている作役は、すぐ停めよ。しかし卑い者が尊い者を干すことは古来易しくない。その忠直でなければ、どうしてこのようにできようか。そのうえ、衆人のはいはいは、一士の諤諤に及ばない。絹二百匹を賜れ。」

魏徴は嘆いて言った。

「張公はついに天を回らす力を持った。仁ある人の言は、その利が溥いというべきだ。」

太宗有一駿馬,特愛之,恒於宮中養飼,無病而暴死。太宗怒養馬宮人,將殺之。皇後諫曰:「昔齊景公以馬死殺人,晏子請數其罪云:『爾養馬而死,爾罪一也。使公以馬殺人,百姓聞之,必怨吾君,爾罪二也。諸侯聞之,必輕吾國,爾罪三也。』公乃釋罪。陛下嘗讀書見此事,豈忘之邪?」太宗意乃解。又謂房玄齡曰,皇後庶事相啟沃,極有利益爾。

太宗に一頭の駿馬があり、特に愛してつねに宮中で飼わせていたが、病もなく急に死んだ。太宗は馬を飼っていた宮人に怒り、殺そうとした。皇后が諫めて言った。

「昔、斉の景公が馬が死んだことで人を殺そうとしたとき、晏子はその罪を数え上げることを願って『お前は馬を飼って死なせた。お前の罪の一つ目だ。公に馬のことで人を殺させ、民がそれを聞けば必ずわが君を怨むだろう。お前の罪の二つ目だ。諸侯がそれを聞けば必ずわが国を軽んじるだろう。お前の罪の三つ目だ』と言いました。公はそこで罪を釈しました。陛下はかつて書を読んでこの事を見られたのに、どうしてお忘れになったのですか。」

太宗の意はそこで解けた。また房玄齢に、皇后が諸事において諫め諭してくれるのはきわめて利益があると言った。

貞觀七年,太宗將幸九成宮,散騎常侍姚思廉進諫曰:「陛下高居紫極,寧濟蒼生,應須以欲從人,不可以人從欲。然則離宮遊幸,此秦皇、漢武之事,故非堯、舜、禹、湯之所為也。」言甚切至。太宗諭之曰:「朕有氣疾,熱便頓劇,故非情好遊幸,甚嘉卿意。」因賜帛五十段。

貞観七年、太宗が九成宮に行幸しようとしたので、散騎常侍の姚思廉が進んで諫めた。

「陛下は紫極に高く居て蒼生を寧んじ済われるのですから、欲を人に従わせるべきで、人を欲に従わせてはなりません。それならば離宮に遊び幸することは、秦の始皇や漢の武帝の事であって、堯・舜・禹・湯の行ったことではありません。」

言葉はきわめて切実で至っていた。太宗は諭して言った。

「朕には気の病があり、暑いとたちまちひどくなるので、情として遊び幸するのを好んでいるのではない。卿の意は大いに嘉い。」

そして帛五十段を賜った。

貞觀三年,李大亮為涼州都督,嘗有臺使至州境,見有名鷹,諷大亮獻之。大亮密表曰:「陛下久絕畋獵,而使者求鷹。若是陛下之意,深乖昔旨;如其自擅,便是使非其人。」太宗下書曰:「以卿兼資文武,誌懷貞確,故委藩牧,當茲重寄。比在州鎮,聲績遠彰,念此忠勤,豈忘寤寐?使遣獻鷹,遂不曲順,論今引古,遠獻直言。披露腹心,非常懇到,覽用嘉嘆,不能已已。有臣若此,朕復何憂!宜守此誠,終始若一。《詩》云:『靖恭爾位,好是正直。神之聽之,介爾景福。』古人稱一言之重,侔於千金,卿之所言,深足貴矣。今賜卿金壺瓶、金碗各一枚,雖無千鎰之重,是朕自用之物,卿立誌方直,竭節至公,處職當官,每副所委,方大任使,以申重寄。公事之閒,宜觀典籍。兼賜卿荀悅《漢紀》一部,此書敘致簡要,論議深博,極為政之體,盡君臣之義,今以賜卿,宜加尋閱。」

貞観三年、李大亮が涼州都督となった。かつて台から来た使いが州の境に至り、名のある鷹があるのを見て、大亮にそれを献じるよう仄めかした。大亮はひそかに表を奉った。

「陛下が狩りを絶たれてから久しいのに、使者が鷹を求めます。もし陛下の意であれば、昔の旨と深く乖きます。もし自ら擅にしたのであれば、それは人を得ていない使いです。」

太宗は書を下した。

「卿は文武を兼ね資け、志は貞しく確かであるから、藩牧を委ねてこの重い寄託を負わせた。近ごろ州や鎮にあって、声と績が遠くまで彰れている。この忠と勤を念えば、どうして寝ても覚めても忘れようか。使いを遣わして鷹を献じさせたのに、ついに曲げて順わず、今を論じ古を引いて、遠くから直言を献じた。腹心を披き露したさまは尋常でなく懇ろで、見て嘉し嘆くことをやめられない。このような臣があれば、朕は何をまた憂えようか。

この誠を守って、始めも終わりも一つのようであれ。『詩』に『爾の位を靖んじ恭み、この正直を好め。神がそれを聴いて、爾に大きな福を与えよう』という。古人は一言の重さが千金に侔しいと称えた。卿の言ったことは、まことに貴ぶに足る。

いま卿に金の壺瓶と金の碗を各一つ賜る。千鎰の重さはないが、朕が自ら用いていた物である。卿は志を立てることが方しく直く、節を尽くして至って公であり、職に処り官に当たるたびに委ねたところに副ったので、いよいよ大きく任じ使って、重い寄託を申べようとしている。公事の合間には、典籍を観るがよい。あわせて卿に荀悦の『漢紀』一部を賜る。この書は叙べ方が簡要で、論議が深く博く、政の体をきわめ、君臣の義を尽くしている。いま卿に賜るので、尋ね閲することを加えよ。」

貞觀八年,陜縣丞皇甫德參上書忤旨,太宗以為訕謗。侍中魏徵進言曰:「昔賈誼當漢文帝上書云云『可為痛哭者一,可為長嘆息者六。』自古上書,率多激切。若不激切,則不能起人主之心。激切即似訕謗,惟陛下詳其可否。」太宗曰:「非公無能道此者。」令賜德參帛二十段。

貞観八年、陝県丞の皇甫徳参が上書して旨に逆らい、太宗はそれを訕り謗るものと思った。侍中の魏徴が進んで言った。

「昔、賈誼は漢の文帝のとき上書して『痛哭すべきもの一つ、長く嘆息すべきもの六つ』と申しました。古来、上書はおおむね激しく切なものです。激しく切でなければ、君主の心を起こすことができません。激しく切であればすぐ訕り謗るように見えますので、ただ陛下がその可否を詳らかにされますよう。」

太宗が言った。

「公でなければ、これを言える者はない。」

徳参に帛二十段を賜らせた。

貞觀十五年,遣使詣西域立葉護可汗,未還,又令人多賫金帛,歷諸國市馬。魏徵諫曰:「今發使以立可汗為名,可汗未定立,即詣諸國市馬,彼必以為意在市馬,不為專立可汗。可汗得立,則不甚懷恩,不得立,則生深怨。諸蕃聞之,且不重中國。但使彼國安寧,則諸國之馬,不求自至。昔漢文帝有獻千里馬者,曰:『吾吉行日三十,兇行日五十,鸞輿在前,屬車在後,吾獨乘千里馬,將安之乎?』乃償其道里所費而返之。又光武有獻千里馬及寶劍者,馬以駕鼓車,劍以賜騎士。今陛下凡所施為,皆邈過三王之上,奈何至此欲為孝文、光武之下乎?又魏文帝求市西域大珠,蘇則曰:『若陛下惠及四海,則不求自至,求而得之,不足貴也。』陛下縱不能慕漢文之高行,可不畏蘇則之正言耶?」太宗遽令止之。

貞観十五年、使いを西域に遣わして葉護可汗を立てさせたが、まだ還らないうちに、また人に金帛を多く携えさせ、諸国を歴って馬を買わせた。魏徴が諫めた。

「いま使いを発するのに可汗を立てることを名としておきながら、可汗がまだ定まって立たないうちに、すぐ諸国に行って馬を買うなら、彼らは必ず意が馬を買うことにあって、専ら可汗を立てるためではないと思うでしょう。可汗が立てられても恩をさほど懐かず、立てられなければ深い怨みが生まれます。諸蕃がそれを聞けば、やはり中国を重んじないでしょう。ただあの国を安寧にすれば、諸国の馬は求めずとも自ら至ります。

昔、漢の文帝に千里の馬を献じた者がありましたが、文帝は『わたしは吉い行は日に三十里、凶い行は日に五十里を行く。鸞輿が前にあり属車が後にあるのに、わたし一人が千里の馬に乗って、どこへ行こうか』と言い、その道中にかかった費えを償って返しました。また光武帝に千里の馬と宝剣を献じた者がありましたが、馬は鼓を載せる車に駕け、剣は騎士に賜りました。いま陛下の行われるすべては、はるかに三王の上を過ぎているのに、どうしてここに至って孝文帝や光武帝の下になろうとされるのですか。

また魏の文帝が西域の大きな珠を買おうとしたとき、蘇則は『もし陛下の恵みが四海に及べば、求めずとも自ら至ります。求めて得たものは、貴ぶに足りません』と言いました。陛下がたとえ漢の文帝の高い行いを慕えなくとも、蘇則の正しい言を畏れないでいられましょうか。」

太宗はただちにそれを止めさせた。

貞觀十七年,太子右庶子高季輔上疏陳得失。特賜鍾乳一劑,謂曰:「卿進藥石之言,故以藥石相報。」

貞観十七年、太子右庶子の高季輔が上疏して得失を述べた。特に鍾乳一剤を賜り、言った。

「卿は薬石のような言を奉った。だから薬石で報いるのだ。」

貞觀十八年,太宗謂長孫無忌等曰:「夫人臣之對帝王,多順從而不逆,甘言以取容。朕今發問,不得有隱,宜以次言朕過失。」長孫無忌、唐儉等皆曰:「陛下聖化道致太平,以臣觀之,不見其失。」黃門侍郎劉洎對曰:「陛下撥亂創業,實功高萬古,誠如無忌等言。然頃有人上書,辭理不稱者,或對面窮詰,無不慚退。恐非獎進言者。」太宗曰:「此言是也,當為卿改之。」

貞観十八年、太宗が長孫無忌たちに言った。

「そもそも人の臣が帝王に対するとき、多くは順い従って逆らわず、甘い言で容を取ろうとする。朕はいま問うのだから、隠すことがあってはならぬ。順に朕の過失を言え。」

長孫無忌と唐倹らはみな言った。

「陛下の聖なる化が太平を導き致しました。臣が見ますところ、その失は見えません。」

黄門侍郎の劉洎が答えた。

「陛下が乱を撥めて業を創られたことは、まことに功が万古に高く、無忌らの言うとおりです。しかし近ごろ上書した人で、辞と理が称わない者があると、面と向かって窮め詰られることがあり、恥じて退かない者はありません。言う者を奨め進めることにはならないのを恐れます。」

太宗が言った。

「この言は是である。卿のために改めよう。」

太宗嘗怒苑西監穆裕,命於朝堂斬之,時高宗為皇太子,遽犯顏進諫,太宗意乃解。司徒長孫無忌曰:「自古太子之諫,或乘間從容而言。今陛下發天威之怒,太子申犯顏之諫,誠古今未有。」太宗曰:「夫人久相與處,自然染習。自朕御天下,虛心正直,即有魏徵朝夕進諫,自徵云亡,劉洎、岑文本、馬周、褚遂良等繼之。皇太子幼在朕膝前,每見朕心說諫者,因染以成性,故有今日之諫。」

太宗がかつて苑西監の穆裕に怒り、朝堂で斬るよう命じたが、そのとき高宗は皇太子としてただちに顔を犯して進み諫めたので、太宗の意は解けた。司徒の長孫無忌が言った。

「古来、太子の諫めは、隙に乗じて落ち着いて言うものでした。いま陛下が天の威の怒りを発せられたところに、太子が顔を犯す諫めを申べたのは、まことに古今にないことです。」

太宗が言った。

「そもそも人は久しく相ともに処れば、自然と染まり習う。朕が天下を御してから、心を虚しくし正直にしたので、魏徴が朝夕に進み諫め、魏徴が亡くなってからは劉洎・岑文本・馬周・褚遂良らが続いた。皇太子は幼いころ朕の膝の前にいて、朕が諫める者を心から悦ぶのを見るたびに、それに染まって性を成した。だから今日の諫めがあるのだ。」