礼と楽を論じる論禮樂第二十九
太宗初即位,謂侍臣曰:「準《禮》,名,終將諱之。前古帝王,亦不生諱其名,故周文王名昌,《周詩》云:『克昌厥後。』春秋時魯莊公名同,十六年《經》書:『齊侯、宋公同盟於幽。』惟近代諸帝,妄為節制,特令生避其諱,理非通允,宜有改張。」因詔曰:「依《禮》,二名義不偏諱,尼父達聖,非無前指。近世以來,曲為節制,兩字兼避,廢闕已多,率意而行,有違經語。今宜依據禮典,務從簡約,仰效先哲,垂法將來,其官號人名,及公私文籍,有『世』及『民』兩字不連讀,並不須避。」
太宗が位に就いたばかりのころ、侍臣に言った。
「『礼記』に照らせば、名は亡くなった後に避けるものである。前の古の帝王も、生きているうちにその名を避けさせはしなかった。だから周の文王の名は昌であるが、『周詩』には『その後を能く昌んにする』とあり、春秋の時の魯の荘公の名は同であるが、十六年の『経』には『斉侯と宋公が幽で同盟した』と書かれている。ただ近い代の諸々の帝だけが妄りに制を立て、わざわざ生きているうちにその忌み名を避けさせた。理として広く許されることではないので、改めるべきである。」
そこで詔を下した。
「『礼記』によれば、二字の名は義として片方だけを避けることはしないという。孔子が聖に達していたのだから、前に指し示したところがないわけではない。近い代より以来、曲げて制を立てて二字をあわせて避けるので、失われ欠けたものがすでに多い。意のままに行って、経の言葉に背くところがある。いまは礼の典に拠って簡約に従うことに努め、仰いで先の賢者に倣い、将来に法を垂れよ。官の号や人の名、および公私の文書で、「世」と「民」の二字が続けて読まれないものは、いずれも避けなくてよい。」
貞觀二年,中書舍人高季輔上疏曰:「竊見密王元曉等俱是懿親,陛下友愛之懷,義高古昔,分以車服,委以藩維,須依禮儀,以副瞻望。比見帝子拜諸叔,諸叔亦即答拜,王爵既同,家人有禮,豈合如此顛倒昭穆?伏願一垂訓誡,永循彜則。」太宗乃詔元曉等,不得答吳王恪、魏王泰兄弟拜。
貞観二年、中書舎人の高季輔が上疏した。
「ひそかに見ますに、密王の李元暁らはみな睦しい親族で、陛下が友として愛される御心は、義において古よりも高く、車と衣服を分け与え、藩を守る任を委ねられました。礼儀に依って、仰ぎ望む気持ちに適うようにされるべきです。近ごろ見ますに、帝の子が諸々の叔父に拝すると、叔父もすぐに拝を返します。王の爵はすでに同じで、家の人には家の礼があるとはいえ、どうしてこれほど昭穆を逆さまにしてよいでしょうか。伏して願いますに、ひとたび訓えと戒めを垂れられ、永く常の則に循わせてください。」
太宗はそこで元暁らに詔して、呉王の李恪、魏王の李泰の兄弟の拝に拝を返さないようにさせた。
貞觀四年,太宗謂侍臣曰:「經聞京城士庶居父母喪者,乃有信巫書之言,辰日不哭,以此辭於吊問,拘忌輟哀,敗俗傷風,極乖人理。宜令州縣教導,齊之以禮典。」
貞観四年、太宗が侍臣に言った。
「聞くところ、都の士や民で父母の喪にある者が、巫の書の言葉を信じて辰の日には哭さず、それを理由に弔問を断り、忌みに縛られて哀しみをやめるという。風俗を崩し気風を損なって、人の理に極めて背く。州と県に教え導かせ、礼の典によって斉えさせるべきである。」
貞觀五年,太宗謂侍臣曰:「佛道設教,本行善事,豈遣僧尼道士等妄自尊崇,坐受父母之拜,損害風俗,悖亂禮經,宜即禁斷,仍令致拜於父母。」
貞観五年、太宗が侍臣に言った。
「仏道が教えを立てたのは、もともと善い事を行うためである。どうして僧や尼、道士らに妄りに自らを尊び崇めさせ、座ったまま父母の拝を受けさせて、風俗を損ない害し、礼の経を乱れさせてよいだろうか。ただちに禁じ断ち、続いて父母に拝するようにさせよ。」
貞觀六年,太宗謂尚書左僕射房玄齡曰:「比有山東崔、盧、李、鄭四姓,雖累葉陵遲,猶恃其舊地,好自矜大,稱為士大夫。每嫁女他族,必廣索聘財,以多為貴,論數定約,同於市賈,甚損風俗,有紊禮經。既輕重失宜,理須改革。」乃詔吏部尚書高士廉、御史大夫韋挺、中書侍郎岑文本、禮部侍郎令狐德棻等,刊正姓氏,普責天下譜牒,兼據憑史傳,剪其浮華,定其真偽,忠賢者褒進,悖逆者貶黜,撰為《氏族志》。士廉等及進定氏族等第,遂以崔幹為第一等。太宗謂曰:「我與山東崔、盧、李、鄭,舊既無嫌,為其世代衰微,全無官宦,猶自云士大夫,婚姻之際,則多索財物,或才識庸下,而偃仰自高,販鬻松槚,依托富貴,我不解人間何為重之?且士大夫有能立功,爵位崇重,善事君父,忠孝可稱,或道義清素,學藝通博,此亦足為門戶,可謂天下士大夫。今崔、盧之屬,惟矜遠葉衣冠,寧比當朝之貴?公卿已下,何暇多輸錢物,兼與他氣勢,向聲背實,以得為榮。我今定氏族者,誠欲崇樹今朝冠冕,何因崔幹猶為第一等,只看卿等不貴我官爵耶?不論數代已前,只取今日官品、人才作等級,宜一量定,用為永則。」遂以崔幹為第三等。至十二年,書成,凡百卷,頒天下。又詔曰:「氏族之美,實系於冠冕,婚姻之道,莫先於仁義。自有魏失御,齊氏雲亡,市朝既遷,風俗陵替,燕、趙古姓,多失衣冠之緒,齊、韓舊族,或乖禮義之風。名不著於州閭,身未免於貧賤,自號高門之胄,不敦匹嫡之儀,問名惟在於竊貲,結褵必歸於富室。乃有新官之輩,豐財之家,慕其祖宗,競結婚姻,多納貨賄,有如販鬻。或自貶家門,受辱於姻婭;或矜其舊望,行無禮於舅姑。積習成俗,迄今未已,既紊人倫,實虧名教。朕夙夜兢惕,憂勤政道,往代蠹害,咸已懲革,唯此弊風,未能盡變。自今以後,明加告示,使識嫁娶之序,務合禮典,稱朕意焉。」
貞観六年、太宗が尚書左僕射の房玄齢に言った。
「近ごろ山東の崔・盧・李・鄭の四姓は、代を重ねて傾き落ちてきたのに、なお昔の土地を頼みにして自ら誇り大きく構えるのを好み、士大夫と称している。娘を他の族に嫁がせるたびに、必ず広く結納の財を求めて多いのを貴いとし、額を論じて約を定めるのは市の商人と同じで、風俗をはなはだ損ない、礼の経を乱すところがある。軽重がすでに宜しさを失っているのだから、理として改めるべきである。」
そこで吏部尚書の高士廉、御史大夫の韋挺、中書侍郎の岑文本、礼部侍郎の令狐徳棻らに詔して、姓氏を刪り正させた。広く天下の系譜を集めさせ、あわせて史や伝に拠って、その浮わついた華を切り落とし、その真偽を定め、忠賢な者は褒めて進め、背き逆らった者は貶して退けて、『氏族志』を撰んだ。
士廉らが氏族の等第を定めて差し出すにあたり、ついに崔幹を第一等とした。太宗が言った。
「私は山東の崔・盧・李・鄭と、もとより昔から嫌うところはない。彼らは代々衰え微かになって、まったく官に就く者がないのに、なお自ら士大夫と言い、婚姻の際には財物を多く求める。才も識も凡庸で低いのに、寝そべったまま自ら高いと構え、松や槚を売り、富と貴に寄りかかる。私は、世の人が何のために彼らを重んじるのか解せない。
また士大夫には、功を立てることができて爵位が高く重く、君と父によく仕えて忠と孝が称えるに足る者があり、道と義が清らかで素朴、学と技芸が広く通じている者もある。これもまた門戸となるに足り、天下の士大夫と言ってよい。いま崔氏や盧氏の類は、ただ遠い代の衣冠を誇るばかりで、どうして当朝の貴さに比べられよう。公卿以下が、何の暇に銭や物を多く送り、そのうえ他人に勢いを与え、声に向かって実を背にして、そうなることを栄えとするのか。
私がいま氏族を定めるのは、まことに今の朝廷の冠を戴く者を尊び立てようとするのである。どういうわけで崔幹がなお第一等なのか。ただ卿らが私の官と爵を貴ばないのが見えるだけではないか。数代前のことは論ぜず、ただ今日の官品と人材だけを取って等級とし、ひとたび量り定めて、永く則とするがよい。」
そしてついに崔幹を第三等とした。十二年に至って書が成り、合わせて百巻となって天下に頒たれた。また詔を下した。
「氏族の美しさはまことに冠を戴くことにかかり、婚姻の道は仁と義に先立つものがない。魏が統御を失い、斉氏が亡んで以来、市と朝はすでに移り、風俗は崩れ衰えた。燕と趙の古い姓は多く衣冠の緒を失い、斉と韓の旧い族はときに礼と義の風に背いた。名は州や里に著れず、身は貧しさと賤しさを免れないのに、自ら高い門の裔と号する。配偶の儀を篤くせず、名を問うのはただ財を掠め取ることにあり、婚礼を結ぶのは必ず富む家に帰する。
そこへ新しく官に就いた輩や財の豊かな家が、その祖宗を慕って競って婚姻を結び、財と賄を多く納めて、商いのようになっている。あるいは自ら家門を貶めて姻戚から辱めを受け、あるいはその旧い望みを誇って舅や姑に無礼を行う。習いが積もって俗となり、今に至ってやまず、すでに人倫を乱し、まことに名と教えを損なっている。
朕は明け暮れ恐れ慎み、政の道に憂え勤めて、過ぎた代の蠹い害はみなすでに懲らし改めたが、ただこの弊えた風だけは変えきれなかった。今より後、明らかに告げ示して、嫁ぎ娶る序を知らせ、礼の典に適うよう努めさせ、朕の意に適うようにせよ。」
禮部尚書王珪子敬直,尚太宗女南平公主。珪曰:「《禮》有婦見舅姑之儀,自近代風俗弊薄,公主出降,此禮皆廢。主上欽明,動循法制,吾受公主謁見,豈為身榮,所以成國家之美耳。」遂與其妻就位而坐,令公主親執巾,行盥饋之道,禮成而退。太宗聞而稱善。是後公主下降有舅姑者,皆遣備行此禮。
礼部尚書の王珪の子の王敬直が、太宗の娘の南平公主を娶った。王珪が言った。
「『礼記』には嫁が舅と姑に見える儀があるのに、近い代の風俗が崩れ薄くなって、公主が嫁げばこの礼はみな廃されてきた。主上は敬み明らかで、挙措に法制を循われる。私が公主の謁見を受けるのは、どうして自分の身の栄えのためであろうか。国家の美しさを成すためにすぎない。」
そしてその妻とともに席に着いて座り、公主にみずから手拭いを持たせ、手水を差し出し食事を供える道を行わせて、礼が成ってから退いた。太宗は聞いて善いと称えた。この後、公主が嫁いで舅と姑のある者は、みなこの礼を備えて行わせた。
貞觀十二年,太宗謂侍臣曰:「古者諸侯入朝,有湯沐之邑,芻禾百車,待以客禮。晝坐正殿,夜設庭燎,思與相見,問其勞苦。又漢家京成亦為諸郡立邸舍。頃聞考使至京者,皆賃房以坐,與商人雜居,才得容身而已。既待禮之不足,必是人多怨嘆,豈肯竭情於共理哉?」乃令就京城閑坊,為諸州考使各造邸第。及成,太宗親幸觀焉。
貞観十二年、太宗が侍臣に言った。
「古くは諸侯が朝に入れば、湯沐の邑があり、飼い草と穀物が百車あって、客の礼で待遇した。昼は正殿に座り、夜は庭に篝火を設けて、会うことを思い、その労苦を問うた。また漢の家も都に諸郡のための邸舎を立てた。近ごろ聞けば、考課の使者で都に至る者はみな部屋を借りて座し、商人と雑じって住み、やっと身を容れるだけだという。待遇の礼がすでに足りないのだから、必ず人々に怨みと嘆きが多いだろう。それでどうして、ともに治めることに情を尽くそうとするだろうか。」
そこで都の内の空いた坊に、諸州の考課の使者のためにそれぞれ邸宅を造らせた。出来上がると、太宗はみずから行き幸って見た。
貞觀十三年,禮部尚書王珪奏言:「準令,三品以上,遇親王於路,不合下馬,今皆違法申敬,有乖朝典。」太宗曰:「卿輩欲自崇貴,卑我兒子耶?」魏徵對曰:「漢、魏已來,親王班皆次三公下。今三品並天子六尚書九卿,為王下馬,王所不宜當也。求諸故事,則無可憑,行之於今,又乖國憲,理誠不可。」帝曰:「國家立太子者,擬以為君。人之修短,不在老幼。設無太子,則母弟次立。以此而言,安得輕我子耶?」徵又曰:「殷人尚質,有兄終弟及之義。自周已降,立嫡必長,所以絕庶孽之窺窬,塞禍亂之源本。為國家者,所宜深慎。」太宗遂可王珪之奏。
貞観十三年、礼部尚書の王珪が申し上げた。
「令に照らせば、三品以上は道で親王に会っても馬を下りるのが当たらないのに、いまはみな法に背いて敬いを示しており、朝廷の典に背くところがあります。」
太宗が言った。
「卿らは自らを尊く貴いものとし、私の子を卑しめようというのか。」
魏徴が答えた。
「漢と魏より以来、親王の班はみな三公の下に次いでおりました。いま三品はあわせて天子の六尚書と九卿であり、王のために馬を下りるのは、王が当たるべきことではありません。故事に求めれば拠るものがなく、今に行えばまた国の憲に背きますから、理としてまことに宜しくありません。」
帝が言った。
「国家が太子を立てるのは、君とするためである。人の命の長短は、老いと幼いにかかわらない。もし太子がなければ、母を同じくする弟が次いで立つ。これで言えば、どうして私の子を軽んじてよいだろうか。」
魏徴がまた言った。
「殷の人は質を尊んで、兄が終われば弟が継ぐという義がありました。周より以降は、嫡を立てるのに必ず長としました。庶出の者が窺うのを絶ち、禍いと乱れの本を塞ぐためです。国家を担う者が、深く慎むべきところです。」
太宗はついに王珪の申し出を可とした。
貞觀十四年,太宗謂禮官曰:「同爨尚有緦麻之恩,而嫂叔無服,又舅之與姨,親疏相似,而服之有殊,未為得禮,宜集學者詳議。餘有親重而服輕者,亦附奏聞。」是月尚書八座與禮官定議曰:
貞観十四年、太宗が礼官に言った。
「同じ釜の飯を食った間柄にさえ緦麻の恩があるのに、兄嫁と夫の弟のあいだには服がない。また母の兄弟と母の姉妹は、親しさと疎さが互いに似ているのに、服に違いがある。礼を得ているとは言えないので、学者を集めて詳しく議させよ。そのほか、親しさが重いのに服の軽いものがあれば、あわせて奏上せよ。」
この月、尚書八座と礼官が議を定めて申し上げた。
臣竊聞之,禮所以決嫌疑、定猶豫、別同異、明是非者也,非從天下,非從地出,人情而已矣。人道所先,在乎敦睦九族。九族敦睦,由乎親親,以近及遠。親屬有等差,故喪紀有隆殺,隨恩之薄厚,皆稱情以立文。原夫舅之與姨,雖為同氣,推之於母,輕重相懸。何則?舅為母之本宗,姨乃外戚他姓,求之母族,姨不與焉,考之經史,舅誠為重。故周王念齊,是稱舅甥之國;秦伯懷晉,實切《渭陽》之詩。今在舅服止一時之情,為姨居喪五月,徇名喪實,逐末棄本,此古人之情或有未達,所宜損益,實在茲乎。
臣らがひそかに聞きますところ、礼とは嫌疑を決し、ためらいを定め、同と異を別け、是と非を明らかにするものだといいます。天から降ったのでも地から出たのでもなく、人の情にすぎません。
人の道でまず行うべきは、九族を篤く睦しくすることにあります。九族が篤く睦しくなるのは、親しい者を親しむことから、近いところから遠いところへ及ぶことによります。親属には等差がありますから、喪の紀にも隆と殺があり、恩の薄厚に従って、どれも情に合わせて文を立てます。
そもそも母の兄弟と母の姉妹は、同じ気ではあっても、母に推して考えれば軽重は互いに遠く隔たります。なぜでしょうか。母の兄弟は母の本宗であり、母の姉妹は他姓の外戚です。母の族に求めれば姉妹は入らず、経や史に照らせば、母の兄弟がまことに重いのです。だから周の王が斉を思うとき、これを舅と甥の国と称し、秦の伯が晋を懐うとき、まことに「渭陽」の詩が切でありました。
いま母の兄弟への服は一季の情にとどまり、母の姉妹のためには五月の喪に居ます。名に従って実を失い、末を追って本を捨てることです。これは古人の情にも及ばなかったところがあるのですから、損し益すべきは、まことにここにあります。
《禮記》曰:「兄弟之子猶子也,蓋引而進之也。嫂叔之無服,蓋推而遠之也。」禮,繼父同居則為之期,未嘗同居則不為服。從母之夫,舅之妻,二人相為服。或曰「同爨緦麻」。然則繼父且非骨肉,服重由乎同爨,恩輕在乎異居。固知制服雖系於名文,蓋亦緣恩之厚薄者也。或有長年之嫂,遇孩童之叔,劬勞鞠養,情若所生,分饑共寒,契闊偕老,譬同居之繼父,方他人之同爨,情義之深淺,寧可同日而言哉?在其生也,乃愛同骨肉,於其死也,則推而遠之,求之本源,深所未喻。若推而遠之為是,則不可生而共居;生而共居為是,則不可死同行路。重其生而輕其死,厚其始而薄其終,稱情立文,其義安在?且事嫂見稱,載籍非一。鄭仲虞則恩禮甚篤,顏弘都則竭誠致感,馬援則見之必冠,孔伋則哭之為位,此蓋並躬踐教義,仁深孝友,察其所行之旨,豈非先覺者歟?但於時上無哲王,禮非下之所議,遂使深情郁於千載,至理藏於萬古,其來久矣,豈不惜哉!
『礼記』には「兄弟の子も子と同じで、おおよそ引き寄せて進めるのである。兄嫁と夫の弟に服がないのは、おおよそ押して遠ざけるのである」とあります。
礼では、継父と同居すれば一年の服を着け、同居したことがなければ服を着けません。母の姉妹の夫と母の兄弟の妻の二人は、互いに服を着けます。あるいは「同じ釜の飯なら緦麻」ともいいます。そうであれば、継父はそもそも骨肉でないのに服が重いのは同じ釜の飯によるのであり、恩が軽いのは別に住むことにあります。まことに、服を定めるのが名と文にかかっているとはいえ、おおよそまた恩の厚薄に拠るものだと知れます。
年長の兄嫁が幼い夫の弟に出会い、労を尽くして養い育て、情が自ら生んだ子のようであり、飢えを分け寒さを共にし、離れ合い会い合って共に老いることもあります。同居の継父に比べ、他人の同じ釜の飯に比べれば、情と義の深浅を、どうして同じ日に語れましょうか。その生きているあいだは骨肉のように愛しておいて、その死に至っては押して遠ざけるのは、本の源に求めても、深く解しがたいところです。
もし押して遠ざけるのが正しいなら、生きて共に住むことはできません。生きて共に住むのが正しいなら、死んで道行く人と同じに扱うことはできません。その生を重んじてその死を軽んじ、その始めを厚くしてその終わりを薄くするなら、情に合わせて文を立てるという義はどこにあるのでしょうか。
また兄嫁に仕えたことで称えられた例は、記録に一つではありません。鄭仲虞は恩と礼がはなはだ篤く、顔弘都は誠を尽くして感を致し、馬援は兄嫁に会えば必ず冠をつけ、孔伋は哭するために位を設けました。これらはおおよそみな、みずから教えと義を践んだものであり、仁が深く孝と友に篤いものです。その行ったところの旨を察すれば、どうして先に覚った人でないでしょうか。ただ当時は上に賢い王がなく、礼は下の者が議するところではなかったので、ついに深い情が千年のあいだ塞がれ、至れる理が万古のあいだ埋もれました。その由来は久しいもので、どうして惜しくないでしょうか。
今陛下以為尊卑之敘,雖煥乎已備,喪紀之制,或情理未安,爰命秩宗,詳議損益。臣等奉遵明旨,觸類傍求,采摭群經,討論傳記,或抑或引,兼名兼實,損其有餘,益其不足,使無文之禮咸秩,敦睦之情畢舉,變薄俗於既往,垂篤義於將來,信六籍所不能談,超百王而獨得者也。
いま陛下は、尊卑の序はすでに輝かしく備わっているけれども、喪の紀の制には情と理の安らかでないところがあるとお考えになって、礼を司る官に命じ、損益を詳しく議させられました。臣らは明らかな御旨を奉じ従って、類に触れるままに傍らに求め、諸々の経を採り摭い、伝と記を討ち論じました。あるいは抑えあるいは引き、名と実をあわせ、その余りあるものを損し、その足らぬものを益して、文のなかった礼がことごとく序を得、篤く睦しむ情がすべて挙がるようにしました。過ぎた日の薄い俗を変え、将来に篤い義を垂れるもので、まことに六経が語りえなかったところ、百王を超えて独り得られたところです。
謹按曾祖父母,舊服齊衰三月,請加為齊衰五月;嫡子婦,舊服大功,請加為期;眾子婦,舊服小功,今請與兄弟子婦同為大功九月;嫂叔,舊無服,今請服小功五月。其弟妻及夫兄亦小功五月。舅,舊服緦麻,請加與從母同服小功五月。
謹んで按じますに、曾祖父母は旧くは斉衰三月の服でしたが、加えて斉衰五月とされますよう。嫡子の妻は旧くは大功でしたが、加えて一年とされますよう。諸子の妻は旧くは小功でしたが、いま兄弟の子の妻と同じく大功九月とされますよう。兄嫁と夫の弟は旧くは服がありませんでしたが、いま小功五月とされますよう。その弟の妻と夫の兄もまた小功五月とされますよう。母の兄弟は旧くは緦麻でしたが、加えて母の姉妹と同じく小功五月とされますよう。
詔從其議。此並魏徵之詞也。
詔してその議に従った。これはあわせて魏徴の言葉である。
貞觀十七年十二月癸丑,太宗謂侍臣曰:「今日是朕生日。俗間以生日可為喜樂,在朕情,翻成感思。君臨天下,富有四海,而追求侍養,永不可得。仲由懷負米之恨,良有以也。況《詩》云:『哀哀父母,生我劬勞。』奈何以劬勞之辰,遂為宴樂之事!甚是乖於禮度。」因而泣下久之。
貞観十七年十二月癸丑、太宗が侍臣に言った。
「今日は朕の誕生の日である。世間では誕生の日を喜び楽しむものとするが、朕の情ではかえって思い慕う日となる。天下に君として臨み、豊かに四海を有していながら、側で養うことを追い求めても、永く得られない。仲由が米を背負った日の恨みを抱いたのは、まことに理由があることだ。まして『詩経』に『哀しいかな父母、我を生んで労された』とある。どうして、労されたその日を、宴し楽しむ事にしてよいだろうか。礼の度にはなはだ背いている。」
そして長いこと涙を落とした。
太常少卿祖孝孫奏所定新樂。太宗曰:「禮樂之作,是聖人緣物設教,以為撙節,治政善惡,豈此之由?」御史大夫杜淹對曰:「前代興亡,實由於樂。陳將亡也為《玉樹後庭花》,齊將亡也而為《伴侶曲》,行路聞之,莫不悲泣,所謂亡國之音。以是觀之,實由於樂。」太宗曰:「不然,夫音聲豈能感人?歡者聞之則悅,哀者聽之則悲。悲悅在於人心,非由樂也。將亡之政,其人心苦,然苦心相感,故聞之則悲耳。何樂聲哀怨,能使悅者悲乎?今《玉樹》、《伴侶》之曲,其聲具存,朕能為公奏之,知公必不悲耳。」尚書右丞魏徵進曰:「古人稱:禮云,禮云,玉帛云乎哉!樂云,樂云,鐘鼓云乎哉!樂在人和,不由音調。」太宗然之。
太常少卿の祖孝孫が、定めた新しい楽を申し上げた。太宗が言った。
「礼と楽を作ったのは、聖人が物に縁って教えを立て、節度としたものである。政を治めることの善悪が、どうしてこれによろうか。」
御史大夫の杜淹が答えた。
「前の代の興亡は、まことに楽によりました。陳が亡びようとするとき「玉樹後庭花」を作り、斉が亡びようとするとき「伴侶曲」を作りましたが、道を行く者がこれを聞いて悲しんで泣かない者はありませんでした。いわゆる亡国の音です。これで見れば、まことに楽によります。」
太宗が言った。
「そうではない。そもそも音や声がどうして人を動かせよう。歓ぶ者が聞けば悦び、哀しむ者が聴けば悲しむ。悲しみと悦びは人の心にあって、楽によるのではない。亡びようとする政では、その人の心が苦しい。苦しい心が互いに感じ合うから、これを聞けば悲しいだけである。どうして楽の声が哀しく怨めしくて、悦んでいる者を悲しませられよう。いま「玉樹」「伴侶」の曲は、その音がそのまま残っているから、朕は公のために奏させることができる。公が必ず悲しまないであろうことがわかるだけだ。」
尚書右丞の魏徴が進み出て言った。
「古人は『礼だ礼だというが、玉や絹のことをいうのか。楽だ楽だというが、鐘や鼓のことをいうのか』と称えました。楽は人の和にあって、音の調べによるのではありません。」
太宗はそのとおりだとした。
貞觀七年,太常卿蕭瑀奏言:「今《破陳樂舞》,天下之所共傳,然美盛德之形容,尚有所未盡。前後之所破劉武周、薛舉、竇建德、王世充等,臣願圖其形狀,以寫戰勝攻取之容。」太宗曰:「朕當四方未定,因為天下救焚拯溺,故不獲已,乃行戰伐之事,所以人間遂有此舞,國家因茲亦制其曲。然雅樂之容,止得陳其梗概,若委曲寫之,則其狀易識。朕以見在將相,多有曾經受彼驅使者,既經為一日君臣,今若重見其被擒獲之勢,必當有所不忍,我為此等,所以不為也。」蕭瑀謝曰:「此事非臣思慮所及。」
貞観七年、太常卿の蕭瑀が申し上げた。
「いま「破陣楽舞」は天下がともに伝えるところですが、盛んな徳を美しく形に表すには、なお尽くしきれていないところがあります。前後に破った劉武周・薛挙・竇建徳・王世充らについて、臣はその形状を描き、戦い勝ち攻め取る様を写し出したいと願います。」
太宗が言った。
「朕は四方がまだ定まらない時に当たって、天下のために焼かれる者を救い溺れる者を助けなければならず、やむをえずに戦い伐つ事を行った。だから世間にはついにこの舞があり、国家もそれによってその曲を作った。けれども雅やかな楽の形は、その大筋を並べることしかできない。もし細々と写し出せば、その姿は見分けやすくなる。朕が見るに、いまいる将や相のなかには、かつて彼らに使われたことのある者が多い。一日でも君臣であった間柄なのに、いま彼らが擒えられる様を改めて見せられれば、必ず忍びないところがあるだろう。私はこの者たちのために、行わないのである。」
蕭瑀が謝して言った。
「このことは臣の思慮の及ぶところではありませんでした。」