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焉耆国焉耆國

晋書 四夷伝(晋書に記された四方の異民族の記録) 晉書 四夷傳 · 房玄齢ほか · 648年(唐・貞観22年) · 段落 3 · 漢字 371字 · 朗読 1.5分

晋書 四夷伝(晋書に記された四方の異民族の記録) 全一巻 晋が見た四方の隣人たち。慕容廆に破られた夫余を詔によって立て直した話、馬韓・辰韓の風俗と蘇塗、粛慎の楛矢と石砮、そして兄と弟が馬の争いで分かれた吐谷渾七代の話が収められている。

1焉耆国のありさま

焉耆國西去洛陽八千二百里,其地南至尉犁,北與烏孫接,方四百里。四面有大山,道險隘,百人守之,千人不過。其俗丈夫翦發,婦人衣襦,著大袴。婚姻同華夏。好貨利,任奸詭。王有侍衛數十人,皆倨慢無尊卑之禮。

焉耆国は、西へ洛陽から八千二百里である。その地は南は尉犁(いり)に至り、北は烏孫(うそん)と接し、四方四百里である。四面に大きな山があり、道は険しく狭いので、百人が守れば千人でも通れない。その風俗では、男は髪を切り、婦人は襦(はだぎ)に大きな袴(はかま)を着る。婚姻は華夏と同じである。財と利を好み、偽り欺くことを平気でする。王には侍衛が数十人いるが、みな傲慢で上下の礼がない。

2會が龜茲を滅ぼす

武帝太康中,其王龍安遣子入侍。安夫人獪胡之女,妊身十二月,剖脅生子,曰會,立之爲世子。會少而勇傑,安病篤,謂會曰:「我嘗爲龜茲王白山所辱,不忘於心。汝能雪之,乃吾子也。」及會立,襲滅白山,遂據其國,遣子熙歸本國爲王。會有膽氣籌略,遂霸西胡,蔥嶺以東莫不服。然恃勇輕率,嘗出宿於外,爲龜茲國人羅雲所殺。

武帝の太康の年間に、その王の龍安が子を送って入侍させた。安の夫人は獪胡(かいこ)の娘で、十二か月身ごもり、脇を割いて子を生んだ。これを會(かい)といい、立てて世子とした。會は若くして勇ましく傑(すぐ)れていた。安の病が重くなると、會に言った。「私はかつて龜茲王の白山に辱められ、心に忘れられない。おまえがこれを雪(そそ)いでくれるなら、まことに私の子である。」會が立つと白山を襲って滅ぼし、ついにその国を占め、子の熙を本国に帰して王とした。會は胆力と計略があり、ついに西胡の覇者となって、葱嶺(そうれい)より東は服さぬものがなかった。しかし勇を頼みとして軽はずみであり、あるとき外に出て泊まったところ、龜茲国の人の羅雲に殺された。

3張植が伏兵を破る

其後張駿遣沙州刺史楊宣率衆疆理西域,宣以部將張植爲前鋒,所向風靡。軍次其國,熙距戰於賁侖城,爲植所敗。植時屯鐵門,未至十餘里,熙又率衆先要之于遮留穀。植將至,或曰:「漢祖畏于柏人,岑彭死于彭亡,今穀名遮留,殆將有伏?」植單騎嘗之,果有伏發。植馳擊敗之,進據尉犁,熙率群下四萬人肉袒降于宣。呂光討西域,復降於光。及光僭位,熙又遣子入侍。

その後、張駿が沙州刺史の楊宣を送り、軍を率いて西域を治めさせた。宣が部将の張植を先鋒にすると、向かうところは風になびくようであった。軍がその国に着くと、熙は賁侖城(ふんりんじょう)で防ぎ戦ったが、植に敗れた。植が鉄門に陣を張り、十余里に達しないころ、熙はまた軍を率いて遮留谷(しゃりゅうこく)で先に待ち受けた。植が至ろうとしたとき、ある者が言った。「漢の高祖は柏人(はくじん)を憚り、岑彭(しんほう)は彭亡(ほうぼう)で死にました。いま谷の名は遮留、すなわち遮り留めるという名です。おそらく伏兵がいるのではありませんか。」植が単騎で試すと、はたして伏兵が起こった。植は駆けて攻めてこれを破り、進んで尉犁を占めた。熙は配下四万人を率いて肌をあらわにして宣に降った。呂光が西域を討つと、再び光に降り、光が位を僭称すると、熙はまた子を送って入侍させた。