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林邑

晋書 四夷伝(晋書に記された四方の異民族の記録) 晉書 四夷傳 · 房玄齢ほか · 648年(唐・貞観22年) · 段落 6 · 漢字 768字 · 朗読 3.1分

晋書 四夷伝(晋書に記された四方の異民族の記録) 全一巻 晋が見た四方の隣人たち。慕容廆に破られた夫余を詔によって立て直した話、馬韓・辰韓の風俗と蘇塗、粛慎の楛矢と石砮、そして兄と弟が馬の争いで分かれた吐谷渾七代の話が収められている。

1馬援の銅柱の跡

林邑國本漢時象林縣,則馬援鑄柱之處也,去南海三千里。後漢末,縣功曹姓區,有子曰連,殺令自立爲王,子孫相承。其後王無嗣,外孫范熊代立。熊死,子逸立。其俗皆開北戶以向日,至於居止,或東西無定。人性凶悍,果於戰鬥,便山習水,不閑平地。四時暄暖,無霜無雪,人皆倮露徒跣,以黑色爲美。貴女賤男,同姓爲婚,婦先娉婿。女嫁之時,著迦盤衣,橫幅合縫如井欄,首戴寶花。居喪翦鬢謂之孝,燔屍中野謂之葬。其王服天冠,被纓絡,每聽政,子弟侍臣皆不得近之。

林邑国はもと漢の時の象林県であり、すなわち馬援が銅の柱を立てた所で、南海から三千里である。後漢の末、県の功曹で姓が區という者に、連という子があり、県令を殺して自ら立って王となり、子孫が代々継いだ。その後、王に嗣(あとつぎ)がなく、外孫の范熊が代わって立った。熊が死んで、子の逸が立った。

その風俗ではみな北に戸を開いて日に向かわせるが、住まう場所は東西が定まらない。人々の性質は荒く激しく、戦いに果敢で、山に慣れ水に馴れていて、平地には不得手である。四季は暖かく、霜も雪もない。人々はみな裸で裸足であり、黒い色を美しいとする。女を貴び男を賤しみ、同じ姓で婚姻し、嫁の側が先に婿に申し込む。女が嫁ぐときは迦盤衣(かばんえ)を着る。横幅を井戸の囲いのように縫い合わせたもので、頭には宝の花をいただく。喪に服すと頬ひげを切ることを孝といい、屍を野で焼くことを葬りという。その王は天の冠をかぶり、瓔珞(ようらく)をまとうが、政務を聞くたびに、子弟や侍臣はみな近づくことができない。

2奴の文が王となる

自孫權以來,不朝中國。至武帝太康中,始來貢獻。咸康二年,範逸死,奴文纂位。文,日南西卷縣夷帥範椎奴也。嘗牧牛澗中,獲二鯉魚,化成鐵,用以爲刀。刀成,乃對大石嶂而咒之曰:「鯉魚變化,冶成雙刀,石嶂破者,是有神靈。」進斫之,石即瓦解。文知其神,乃懷之。隨商賈往來,見上國制度,至林邑,遂教逸作宮室、城邑及器械。逸甚愛信之,使爲將。文乃譖逸諸子,或徙或奔。及逸死,無嗣,文遂自立爲王。以逸妻妾悉置之高樓,從己者納之,不從者絕其食。於是乃攻大岐界、小岐界、式僕、徐狼、屈都、乾魯、扶單等諸國,並之,有衆四五萬人。遣使通表入貢於帝,其書皆胡字。至永和三年,文率其衆攻陷日南,害太守夏侯覽,殺五六千人,餘奔九真,以覽屍祭天,鏟平西卷縣城,遂據日南。告交州刺史硃蕃,求以日南北鄙橫山爲界。

孫権のときより中国に朝(ちょう)しなかったが、武帝の太康の年間に初めて来て貢ぎ物を献じた。咸康二年、范逸が死ぬと、奴(しもべ)の文が位を奪った。文は日南の西巻県の夷の首長、范椎の奴である。かつて谷川で牛を飼っていたとき、鯉二匹を得たが、それが鉄に変わったので、それで刀を作った。刀ができあがると、大きな岩に向かって呪(まじな)って言った。「鯉が変化して二本の刀となった。岩が砕けるなら、それは神霊があるのだ。」進んで斬りつけると、岩はたちまち瓦のように崩れた。文はその神霊を知り、刀を懐に抱いて持ち歩いた。

商人に従って行き来し、上国の制度を見て、林邑に至ると、ついに逸に宮室・城邑・器械を作ることを教えた。逸はたいそう愛して信じ、将とした。文はそこで逸の子たちを讒言(ざんげん)したので、ある者は移され、ある者は逃げた。逸が死んで嗣がないと、文はついに自ら立って王となった。逸の妻妾をみな高い楼に置き、自分に従う者は受け入れ、従わない者は食を断った。そうして大岐界・小岐界・式僕・徐狼・屈都・乾魯・扶単などの諸国を攻めて併せ、四、五万人の衆を得た。使者を送って表をたてまつり、帝に朝貢したが、その書はみな胡の文字であった。永和三年に至り、文は衆を率いて日南を攻め落とし、太守の夏侯覽を害して五、六千人を殺したので、残った者は九真へ逃げた。覽の屍で天を祭り、西巻県の城を削って平地とし、ついに日南を占めた。交州刺史の硃蕃に告げて、日南の北のはずれの横山を境としたいと求めた。

3貪りが招いた災い

初,徼外諸國嘗齎寶物自海路來貿貨,而交州刺史、日南太守多貪利侵侮,十折二三。至刺史姜壯時,使韓戢領日南太守,戢估較太半,又伐船調枹,聲云征伐,由是諸國恚憤。且林邑少田,貪日南之地,戢死絕,繼以謝擢,侵刻如初。及覽至郡,又耽荒於酒,政教愈亂,故被破滅。

初め、境の外の諸国は宝物を携えて海路から来て交易していたが、交州刺史や日南太守はおおむね利を貪って奪い侮り、十のうち二、三を削り取った。刺史の姜壯のときに至って、韓戢に日南太守を任せたが、戢は値を半ば以上も叩き、さらに船を徴発し枹(ばち)を取り立て、征伐するのだと言い立てた。これによって諸国は憤り恨んだ。そのうえ林邑は田が少なく、日南の地を欲しがっていた。戢が死んで絶えると、謝擢が継いだが、奪い削ることは初めと同じであった。覽が郡に着いてからは、さらに酒におぼれて政事と教化はいよいよ乱れた。それゆえ破られ滅ぼされたのである。

4日南を失う

既而文還林邑。是歲,硃蕃使督護劉雄戍于日南,文復攻陷之。四年,文又襲九真,害士庶十八九。明年,征西督護滕畯率交廣之兵伐文于盧容,爲文所敗,退次九真。其年,文死,子佛嗣。

やがて文は林邑に帰った。この年、硃蕃は督護の劉雄を日南に守らせたが、文はまたこれを攻め落とした。四年、文はさらに九真を襲い、士人も民も十のうち八、九を害した。翌年、征西督護の滕畯が交州・広州の兵を率いて盧容で文を討ったが、文に敗れ、退いて九真に留まった。その年、文が死んで、子の佛が継いだ。

5和議と侵入

升平末,廣州刺史勝含率衆伐之,佛懼,請降,含與盟而還。至孝武帝甯康中,遣使貢獻。至義熙中,每歲又來寇日南、九真、九德等諸郡,殺傷甚衆,交州遂致虛弱,而林邑亦用疲弊。

升平の末、広州刺史の滕含が衆を率いて討つと、佛は恐れて降伏を願ったので、含は盟を結んで帰った。孝武帝の寧康の年間に、使者を送って貢ぎ物を献じた。義熙の年間に至ると、毎年また日南・九真・九徳などの諸郡を侵し、殺し傷つけた者がたいそう多かったので、交州はついに弱り果て、林邑もまたそれによって疲れ衰えた。

6胡達の朝貢

佛死,子胡達立,上疏貢金盤椀及金鉦等物。

佛が死んで、子の胡達が立ち、上疏して金の盆と椀、金の鉦(かね)などの物を貢いだ。