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匈奴

晋書 四夷伝(晋書に記された四方の異民族の記録) 晉書 四夷傳 · 房玄齢ほか · 648年(唐・貞観22年) · 段落 6 · 漢字 1,225字 · 朗読 4.9分

晋書 四夷伝(晋書に記された四方の異民族の記録) 全一巻 晋が見た四方の隣人たち。慕容廆に破られた夫余を詔によって立て直した話、馬韓・辰韓の風俗と蘇塗、粛慎の楛矢と石砮、そして兄と弟が馬の争いで分かれた吐谷渾七代の話が収められている。

1北狄の種類

匈奴之類,總謂之北狄。匈奴地南接燕趙,北暨沙漠,東連九夷,西距六戎。世世自相君臣,不稟中國正朔。夏曰薰鬻,殷曰鬼方,周曰獫狁,漢曰匈奴。其強弱盛衰、風俗好尚區域所在,皆列于前史。

匈奴の類を総じて北狄という。匈奴の地は南は燕・趙に接し、北は沙漠に至り、東は九夷に連なり、西は六戎に向かい合う。代々自分たちの間で君と臣となり、中国の正朔を奉じなかった。夏の時には薰鬻(くんいく)といい、殷の時には鬼方といい、周の時には獫狁(けんいん)といい、漢の時には匈奴といった。その強弱盛衰、風俗や好み、住む区域は、みな前の史書に載っている。

2塞の内に入った匈奴

前漢末,匈奴大亂,五單于爭立,而呼韓邪單于失其國,攜率部落,入臣於漢。漢嘉其意,割并州並界以安之。於是匈奴五千餘落入居朔方諸郡,與漢人雜處。呼韓邪感漢恩,來朝,漢因留之,賜其邸舍,猶因本號,聽稱單于,歲給綿絹錢穀,有如列侯。子孫傳襲,歷代不絕。其部落隨所居郡縣,使宰牧之,與編戶大同,而不輸貢賦。多歷年所,戶口漸滋,彌漫北朔,轉難禁制。後漢末,天下騷動,群臣競言胡人猥多,懼必爲寇,宜先爲其防。建安中,魏武帝始分其衆爲五部,部立其中貴者爲帥,選漢人爲司馬以監督之。魏末,復改帥爲都尉。其左部都尉所統可萬餘落,居於太原故茲氏縣;右部都尉可六千餘落,居祁縣;南部都尉可三千餘落,居蒲子縣;北部都尉可四千餘落,居新興縣;中部都尉可六千餘落,居大陵縣。

前漢の末、匈奴が大いに乱れて五人の単于が争って立ち、呼韓邪単于はその国を失い、部落を率いて入って漢に臣従した。漢はその志をよしとして、并州の境のあたりを割いて安住させた。そこで匈奴の五千余落が朔方の諸郡に入って住み、漢人と入り混じって暮らした。呼韓邪は漢の恩に感じて朝(ちょう)に来たので、漢はこれを留めて邸宅を賜り、もとの称号のまま単于と称させ、毎年、綿・絹・銭・穀を与えて列侯のように扱った。子孫が受け継ぎ、代々絶えなかった。その部落は住む郡県に応じて官に治めさせたので、戸籍のある民とほぼ同じであったが、租税は納めなかった。多くの年を経るうちに戸口はしだいに増え、北の地に広がって、いよいよ抑えがたくなった。後漢の末、天下が騒がしくなると、臣下たちは競って、胡人が多すぎて必ず賊となるのが恐ろしいから、あらかじめ防ぐべきだと言った。建安の年間に、魏の武帝は初めてその衆を五部に分け、部ごとにその中の貴い者を立てて帥(かみ)とし、漢人を選んで司馬として監督させた。魏の末に、また帥を都尉に改めた。左部都尉が統べるものは一万余落で、太原の旧の茲氏県に住み、右部都尉は六千余落で祁県に、南部都尉は三千余落で蒲子県に、北部都尉は四千余落で新興県に、中部都尉は六千余落で大陵県に住んだ。

3郭欽の上疏

武帝踐阼後,塞外匈奴大水,塞泥、黑難等二萬餘落歸化,帝復納之,使居河西故宜陽城下。後復與晉人雜居,由是平陽、西河、太原、新興、上党、樂平諸郡靡不有焉。泰始七年,單于猛叛,屯孔邪城。武帝遣婁侯何楨持節討之。楨素有志略,以猛衆凶悍,非少兵所制,乃潛誘猛左部督李恪殺猛,於是匈奴震服,積年不敢復反。其後稍因忿恨,殺害長史,漸爲邊患。侍御史西河郭欽上疏曰:戎狄強獷,曆古爲患。魏初人寡,西北諸郡皆爲戎居。今雖服從,若百年之後有風塵之警,胡騎自平陽、上黨不三日而至孟津,北地、西河、太原、馮翊、安定、上郡盡爲狄庭矣。宜及平吳之威,謀臣猛將之略,出北地、西河、安定,復上郡,實馮翊,於平陽已北諸縣募取死罪,徙三河、三魏見士四萬家以充之。裔不亂華,漸徙平陽、弘農、魏郡、京兆、上党雜胡,峻四夷出入之防,明先王荒服之制,萬世之長策也。

武帝が位に就いた後、塞の外の匈奴に大水が出たので、塞泥・黒難など二万余落が帰化した。帝は再びこれを受け入れ、河西の旧の宜陽城の下に住まわせた。後にまた晋の人と入り混じって住むようになったので、これより平陽・西河・太原・新興・上党・樂平の諸郡に、彼らのいない所はなくなった。泰始七年、単于の猛が叛いて孔邪城に陣を張ったので、武帝は婁侯の何楨を持節として討たせた。楨はもともと志と計略があり、猛の衆は凶悪で荒く、少ない兵では抑えられないと見て、ひそかに猛の左部督の李恪を誘って猛を殺させた。そこで匈奴は震え恐れて服し、数年のあいだ再び叛こうとしなかった。その後しだいに憤りを抱いて長吏を殺し、少しずつ辺境の患いとなっていった。

侍御史で西河の人の郭欽が上疏して言った。「戎狄は強く荒々しく、古くから患いでありました。魏の初めには人が少なく、西北の諸郡はみな戎の住むところとなりました。いまは服従しておりますが、百年の後に風塵の警報があれば、胡の騎兵は平陽・上党から三日もかからず孟津に至り、北地・西河・太原・馮翊・安定・上郡はことごとく狄の庭となりましょう。まさに呉を平らげた威と、謀臣・猛将の計略を継いで、北地・西河・安定の者を出し、上郡を取り戻し、馮翊を満たし、平陽以北の諸県で死罪の者を募って、三河・三魏の壮丁四万家を移して充てるべきです。裔(えい)が華を乱さぬようにするには、平陽・弘農・魏郡・京兆・上党の雑胡をしだいに移し、四夷の出入りの備えを厳しくして、先王の荒服の制度を明らかにすることが、万世の長い計(はかりごと)です。」

4相次ぐ帰化

帝不納。至太康五年,復有匈奴胡太阿厚率其部落二萬九千三百人歸化。七年,又有匈奴胡都大博及萎莎胡等各率種類大小凡十萬餘口,詣雍州刺史扶風王駿降附。明年,匈奴都督大豆得一育鞠等復率種落大小萬一千五百口,牛二萬二千頭,羊十萬五千口,車廬什物不可勝紀,來降,並貢其方物,帝並撫納之。

帝は受け入れなかった。太康五年に至って、また匈奴の胡の太阿厚がその部落二万九千三百人を率いて帰化した。七年には、さらに匈奴の胡の都大博と萎莎胡らが、それぞれ種族の大小合わせて十万余人を率い、雍州刺史の扶風王の駿のもとに出向いて降り従った。翌年には、匈奴の都督の大豆得一育鞠らが、また種族の大小一万一千五百人、牛二万二千頭、羊十万五千頭と、車や幕屋、家財を数えきれぬほど引き連れて来て降り、あわせて土地の産物を貢いだので、帝はみないたわって受け入れた。

5十九の種類と官職

北狄以部落爲類,其入居塞者有屠各種、鮮支種、寇頭種、烏譚種、赤勒種、捍蛭種、黑狼種、赤沙種、鬱鞞種、萎莎種、禿童種、勃蔑種、羌渠種、賀賴種、鐘跂種、大樓種、雍屈種、真樹種、力羯種,凡十九種,皆有部落,不相雜錯。屠各最豪貴,故得爲單于,統領諸種。其國號有左賢王、右賢王、左奕蠡王、右奕蠡王、左于陸王、右于陸王、左漸尚王、右漸尚王、左朔方王、右朔方王、左獨鹿王、右獨鹿王、左顯祿王、右顯祿王、左安樂王、右安樂王、凡十六等,皆用單于親子弟也。其左賢王最貴,唯太子得居之。其四姓,有呼延氏、卜氏、蘭氏、喬氏。而呼延氏最貴,則有左日逐、右日逐,世爲輔相;卜氏則有左沮渠、右沮渠;蘭氏則有左當戶、右當戶;喬氏則有左都侯、右都侯。又有車陽、沮渠、餘地諸雜號,猶中國百官也。其國人有綦毋氏、勒氏、皆勇健,好反叛。武帝時,有騎督綦毋伣邪伐吳有功,遷赤沙都尉。

北狄は部落をもって種類とする。塞の内に入って住むものには、屠各種・鮮支種・寇頭種・烏譚種・赤勒種・捍蛭種・黒狼種・赤沙種・鬱鞞種・萎莎種・禿童種・勃蔑種・羌渠種・賀頼種・鐘跂種・大樓種・雍屈種・真樹種・力羯種の、おおよそ十九の種類があり、みな部落をもっていて互いに入り混じらない。屠各が最も豪(ごう)で貴いので、単于となって諸種を統べる。その国の称号には、左賢王・右賢王・左奕蠡王・右奕蠡王・左于陸王・右于陸王・左漸尚王・右漸尚王・左朔方王・右朔方王・左独鹿王・右独鹿王・左顕禄王・右顕禄王・左安楽王・右安楽王の、おおよそ十六の等級があり、みな単于の実の子弟を用いる。左賢王が最も貴く、太子だけがこれになることができる。その四つの姓には呼延氏・卜氏・蘭氏・喬氏があり、呼延氏が最も貴くて、左日逐・右日逐があって代々輔相となる。卜氏には左沮渠・右沮渠があり、蘭氏には左当戸・右当戸があり、喬氏には左都侯・右都侯がある。また車陽・沮渠・余地など多くの雑号があって、中国の百官のようである。その国の人に綦毋氏・勒氏があり、みな勇ましく強く、叛くことを好む。武帝の時、騎督の綦毋伣邪が呉を討った功によって赤沙都尉に昇った。

6郝散の乱

惠帝元康中,匈奴郝散攻上黨,殺長吏,入守上郡。明年,散弟度元又率馮翊、北地羌胡攻破二郡。自此已後,北狄漸盛,中原亂矣。

恵帝の元康の年間に、匈奴の郝散が上党を攻めて長吏を殺し、上郡に入って守った。翌年、散の弟の度元が、また馮翊・北地の羌や胡を率いて二郡を攻め破った。これより後、北狄はしだいに盛んになり、中原は乱れた。