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駢拇莊子 外篇 駢拇

荘子(荘周の書) 莊子 · 荘周と後の人びと · 戦国時代(紀元前4〜3世紀)· 西晋・郭象の33篇本 · 段落 4 · 漢字 1,085字 · 朗読 4.3分

荘子(荘周の書) 外篇 「北の黒い海に魚がいる、その名を鯤という」 — この一行で始まり、背の広さが何千里あるか分からない鳥が南の海へ飛んでいくところから書が開く。胡蝶の夢を見て目覚め「私が胡蝶の夢を見たのか、胡蝶が私の夢を見ているのか」と問い、牛を解く庖丁は十九年のあいだ刃を研がず、妻が死ぬと盆を叩いて歌う。蝸牛の角の上で国と国が戦って死者数万が倒れたという話で戦をやめさせ、恵子の墓を過ぎて「私にはもう語り合う者がいない」と言う。道徳経と並べて置けば、同じところをまるで違う声で語っているのが聞こえる。

1くっついた指と枝分かれした指

駢拇枝指,出乎性哉,而侈於德;附贅縣疣,出乎形哉,而侈於性。多方乎仁義而用之者,列於五藏哉,而非道德之正也。是故駢於足者,連无用之肉也;枝於手者,樹无用之指也;多方駢枝於五藏之情者,淫僻於仁義之行,而多方於聰明之用也。是故駢於明者,亂五色,淫文章,青黃黼黻之煌煌,非乎?而離朱是已。多於聰者,亂五聲,淫六律,金石絲竹、黃鍾大呂之聲,非乎?而師曠是已。枝於仁者,擢德塞性以收名聲,使天下簧鼓,以奉不及之法,非乎?而曾、史是已。駢於辯者,纍瓦、結繩、竄句,遊心於堅白同異之間,而敝跬譽无用之言,非乎?而楊、墨是已。故此皆多駢旁枝之道,非天下之至正也。

くっついた指や枝分かれした指は、性(さが)から出たものだが徳には過ぎている。付いた瘤(こぶ)や垂れた疣(いぼ)は、体から出たものだが性には過ぎている。仁義をいくつもの筋に広げて用いる者は、五臓に並べ立てているのだが、道徳の正しさではない。

だから、足にくっついたものは要(い)らない肉をつなげたのであり、手に枝分かれしたものは要らない指を立てたのである。五臓の実(じつ)にいくつもの筋でくっつけ枝分かれさせた者は、仁義の行いに度を越して溺(おぼ)れ、耳と目の働きにいくつもの筋であふれる。

だから、明るさにくっついた者は五つの色を乱し、模様に度を越して、青や黄の縫い取りが眩(まぶ)しくなるようにする。そうではないか。離朱(りしゅ)がそれである。

聞くことに度を越した者は五つの音を乱し、六つの律に度を越して、金・石・糸・竹の音や黄鐘(こうしょう)・大呂(たいりょ)の音を出す。そうではないか。師曠(しこう)がそれである。

仁に枝分かれした者は徳を抜き出し性を塞いで名声を取りこみ、天下に笙(しょう)を吹き鼓(つづみ)を打たせて、及びもつかない法(のり)を奉(ほう)じさせる。そうではないか。曾参(そうしん)と史鰌(しちゅう)がそれである。

弁(べん)にくっついた者は、瓦(かわら)を積み縄を結ぶように文句(もんく)を飾り、堅さと白さ、同じと違うの間に心を遊ばせ、要らない言葉で半歩の誉(ほ)めを得ようと骨を折る。そうではないか。楊朱(ようしゅ)と墨翟(ぼくてき)がそれである。

だからこれらはみな、いくつもの筋でくっつき枝分かれした道であって、天下の至りの正しさではない。

2鴨の脛は短くても継げば憂いである

彼正正者,不失其性命之情,故合者不爲駢,而枝者不爲跂;長者不爲有餘,短者不爲不足。是故鳧脛雖短,續之則憂;鶴脛雖長,斷之則悲。故性長非所斷,性短非所續,无所去憂也。意仁義其非人情乎?彼仁人何其多憂也?且夫駢於拇者,決之則泣;枝於手者,齕之則啼。二者或有餘於數,或不足於數,其於憂一也。今世之仁人,蒿目而憂世之患;不仁之人,決性命之情而饕貴富。故意仁義其非人情乎!自三代以下者,天下何其囂囂也!且夫待鉤繩規矩而正者,是削其性也;待繩約膠漆而固者,是侵其德也;屈折禮樂,呴俞仁義,以慰天下之心者,此失其常然也。天下有常然。常然者,曲者不以鉤,直者不以繩,圓者不以規,方者不以矩,附離不以膠漆,約束不以纆索。故天下誘然皆生,而不知其所以生;同焉皆得,而不知其所以得。故古今不二,不可虧也,則仁義又奚連連如膠漆纆索而遊乎道德之間爲哉,使天下惑也!

あのまことに正しいものは、自分の性と命(いのち)の実を失わない。だから、くっついたものもくっついたとせず、枝分かれしたものも枝分かれしたとせず、長いものも余りとせず、短いものも足りないとしない。

だから、鴨(かも)の脛(すね)は短くても継いでやれば憂いとなり、鶴(つる)の脛は長くても切ってやれば悲しみとなる。だから、性として長いものは切るべきものではなく、性として短いものは継ぐべきものではない。憂いを無くすところはないのだ。

思うに、仁義は人の実ではないのか。あの仁(やさ)しい人たちは、どうしてあれほど憂いが多いのか。

また、およそ親指がくっついた者は、それを裂かれれば泣き、手に枝分かれした者は、それを噛(か)み切られれば泣く。この二つは、一方は数に余り、一方は数に足りないが、その憂いであることは同じである。

いまの世の仁しい人たちは目を見開いて世の憂いを心配し、仁しくない人たちは性と命の実を裂いて貴さと富みをむさぼる。だから思うに、仁義は人の実ではないのだ。三代より下、天下はどうしてあれほど騒がしいのか。

また、およそ鉤(かぎ)や墨縄(すみなわ)や円規(ぶんまわし)や曲尺(かねじゃく)を待って正しくなるものは、その性を削ることであり、縄や膠(にかわ)や漆(うるし)を待って固くなるものは、その徳を侵(おか)すことである。礼楽に身を屈め、仁義であやして天下の心を慰めることは、その常にそうであることを失うことである。

天下には常にそうであることがある。常にそうであるものとは、曲がったものが鉤で曲がったのではなく、直(なお)いものが墨縄で直いのではなく、円いものが円規で円いのではなく、四角いものが曲尺で四角いのではない。くっついたものが膠や漆でくっついたのではなく、縛られたものが縄で縛られたのではない。

だから天下は誘われるようにみな生きていながら、生きる訳を知らず、ひとしくみな得ていながら、得る訳を知らない。だから古(いにしえ)と今は二つではなく、欠くことができない。それなのに仁義がまた、どうして膠や漆や縄のようにつなぎ合わせて道徳の間に遊び、天下を惑わせるのか。

3臧と穀がともに羊を失う

夫小惑易方,大惑易性。何以知其然邪?自虞氏招仁義以撓天下也,天下莫不奔命於仁義。是非以仁義易其性與?故嘗試論之:自三代以下者,天下莫不以物易其性矣。小人則以身殉利,士則以身殉名,大夫則以身殉家,聖人則以身殉天下。故此數子者,事業不同,名聲異號,其於傷性以身爲殉,一也。臧與穀,二人相與牧羊,而俱亡其羊。問臧奚事,則挾筴讀書;問穀奚事,則博塞以遊。二人者,事業不同,其於亡羊,均也。伯夷死名於首陽之下,盜跖死利於東陵之上。二人者,所死不同,其於殘生傷性,均也,奚必伯夷之是而盜跖之非乎?天下盡殉也。彼其所殉仁義也,則俗謂之君子;其所殉貨財也,則俗謂之小人。其殉一也,則有君子焉,有小人焉。若其殘生損性,則盜跖亦伯夷已,又惡取君子小人於其間哉!

およそ小さな惑いは方角を変え、大きな惑いは性を変える。何によってそれが分かるのか。虞氏(ぐし)が仁義を呼び寄せて天下を揺るがしてから、天下に仁義のために命がけで走らない者がない。これは仁義でその性を変えたことではないか。

だから、ひとつ論じてみよう。三代より下、天下にものでその性を変えなかった者はない。小人は身で利に殉(じゅん)じ、士は身で名に殉じ、大夫は身で家に殉じ、聖人は身で天下に殉じる。だからこの数人は、仕事も為(な)すところも違い、名も呼び名も違うが、性を傷つけて身を殉じたことは同じである。

臧(ぞう)と穀(こく)の二人が一緒に羊を飼っていて、二人とも羊を失った。臧に何をしていたかと問えば、書物を抱えて読んでいたと言い、穀に何をしていたかと問えば、博打(ばくち)をして遊んでいたと言った。二人のしたことは違うが、羊を失ったことは同じである。

伯夷(はくい)は首陽(しゅよう)の下で名のために死に、盗跖(とうせき)は東陵(とうりょう)の上で利のために死んだ。二人は死んだ訳が違うが、生を損ない性を傷つけたことは同じである。どうして必ず伯夷が是(よ)く、盗跖が非(わる)いと言えようか。

天下はみな殉じている。その殉じたものが仁義なら、世間は彼を君子と言い、その殉じたものが財なら、世間は彼を小人と言う。その殉じたことは同じなのに、君子もあり小人もある。生を損ない性を減らしたことで言えば、盗跖も伯夷であるだけなのだから、またその間にどうして君子と小人を分けようか。

夾注 1

則挾筴讀書

筴 — 竹の札、すなわち書物と見て訳した。羊を追う鞭(むち)と見る読み方もある。― 訳者

4自分の得るものを自ら得ない者

且夫屬其性乎仁義者,雖通如曾、史,非吾所謂臧也;屬其性於五味,雖通如俞兒,非吾所謂臧也;屬其性乎五聲,雖通如師曠,非吾所謂聰也;屬其性乎五色,雖通如離朱,非吾所謂明也。吾所謂臧,非仁義之謂也,臧於其德而已矣;吾所謂臧者,非所謂仁義之謂也,任其性命之情而已矣;吾所謂聰者,非謂其聞彼也,自聞而已矣;吾所謂明者,非謂其見彼也,自見而已矣。夫不自見而見彼,不自得而得彼者,是得人之得而不自得其得者也,適人之適而不自適其適者也。夫適人之適而不自適其適,雖盜跖與伯夷,是同爲淫僻也。余愧乎道德,是以上不敢爲仁義之操,而下不敢爲淫僻之行也。

また、およそ自分の性を仁義に属(つ)けた者は、曾参や史鰌のように通じていても、わたしの言う善(よ)いものではない。自分の性を五つの味に属けた者は、俞兒(ゆじ)のように通じていても、わたしの言う善いものではない。自分の性を五つの音に属けた者は、師曠のように通じていても、わたしの言うよく聞くことではない。自分の性を五つの色に属けた者は、離朱のように通じていても、わたしの言う明るさではない。

わたしの言う善いものとは、仁義を言うのではなく、自分の徳において善いだけである。わたしの言う善いものとは、いわゆる仁義を言うのではなく、自分の性と命の実に任せるだけである。わたしの言うよく聞くこととは、あれを聞くという意味ではなく、自ら聞くだけである。わたしの言う明るさとは、あれを見るという意味ではなく、自ら見るだけである。

およそ自ら見ずにあれを見、自ら得ずにあれを得る者は、人の得たものを得て自分の得るものを自ら得ない者であり、人のかなうところにかなって自分のかなうところを自らかなえない者である。

およそ人のかなうところにかなって自分のかなうところを自らかなえないなら、盗跖であれ伯夷であれ、ひとしく度を越して溺れたことである。わたしは道徳に恥じるので、上は仁義の節(みさお)を立てることをあえてせず、下は度を越して溺れた行いをあえてしない。