いにしえの文 › 荘子(荘周の書) › 外篇

繕性莊子 外篇 繕性

荘子(荘周の書) 莊子 · 荘周と後の人びと · 戦国時代(紀元前4〜3世紀)· 西晋・郭象の33篇本 · 段落 8 · 漢字 671字 · 朗読 2.7分

荘子(荘周の書) 外篇 「北の黒い海に魚がいる、その名を鯤という」 — この一行で始まり、背の広さが何千里あるか分からない鳥が南の海へ飛んでいくところから書が開く。胡蝶の夢を見て目覚め「私が胡蝶の夢を見たのか、胡蝶が私の夢を見ているのか」と問い、牛を解く庖丁は十九年のあいだ刃を研がず、妻が死ぬと盆を叩いて歌う。蝸牛の角の上で国と国が戦って死者数万が倒れたという話で戦をやめさせ、恵子の墓を過ぎて「私にはもう語り合う者がいない」と言う。道徳経と並べて置けば、同じところをまるで違う声で語っているのが聞こえる。

1覆われ暗くなった民

繕性於俗,俗學以求復其初;滑欲於俗,思以求致其明;謂之蔽蒙之民。

性(さが)を世間で繕(つくろ)い、世間の学びでその初めを取り戻そうとし、欲を世間で乱しながら、思いでその明るさを成そうとする者、これを覆われ暗くなった民という。

2静かさで知を養う

古之治道者,以恬養知;生而无以知為也,謂之以知養恬。知與恬交相養,而和理出其性。夫德,和也;道,理也。德无不容,仁也;道无不理,義也;義明而物親,忠也;中純實而反乎情,樂也;信行容體而順乎文,禮也。禮樂徧行,則天下亂矣。彼正而蒙己德,德則不冒。冒則物必失其性也。

昔、道を治めた者は、淡々としたことで知を養った。生きていて知で為すことがなかったので、これを知で淡々としたことを養うという。知と淡々としたことが互いに養い合って、和(やわ)らぎと理(すじ)がその性から出てきた。

およそ徳とは和らぎであり、道とは理である。徳が容(い)れないものがないのが仁であり、道が理でないものがないのが義である。義が明らかでものが親しむのが忠であり、内が純粋でまことであって実(じつ)に帰るのが楽(がく)であり、信が行われ身ぶりが文(あや)に従うのが礼である。

礼と楽があまねく行われれば、天下は乱れる。あれが正しいのに自分の徳を覆えば、徳は被(かぶ)せない。被せれば、ものは必ず自分の性を失う。

3至りの一つ(至一)

古之人,在混芒之中,與一世而得澹漠焉。當是時也,陰陽和靜,鬼神不擾,四時得節,萬物不傷,羣生不夭,人雖有知,无所用之,此之謂至一。當是時也,莫之為而常自然。

昔の人は、混(ま)じり合って奥深い中にあって、一つの世とともに淡々としたものを得ていた。

このときには、陰と陽が和らいで静かで、鬼神が乱さず、四季が節を得て、万物が傷つかず、多くの生が早死にしなかった。人に知があっても使うところがなかったので、これを至りの一つという。

このときには、為す者がいなくても、いつも自(おの)ずからそうであった。

4徳が下へ衰える

逮德下衰,及燧人伏羲始為天下,是故順而不一。德又下衰,及神農黃帝始為天下,是故安而不順。德又下衰,及唐虞始為天下,興治化之流,𣻏淳散朴,離道以善,險德以行,然後去性而從於心。心與心識知而不足以定天下,然後附之以文,益之以博。文滅質,博溺心,然後民始惑亂,无以反其性情而復其初。

徳が下へ衰えるに至って、燧人(すいじん)と伏羲が初めて天下を治めたので、従いはしても一つになれなかった。

徳がまた下へ衰えて、神農と黄帝が初めて天下を治めたので、安らかではあっても従えなかった。

徳がまた下へ衰えて、堯と舜が初めて天下を治め、治めて感化する流れを起こし、純やかさを濁らせ丸木を散らし、道を離れて善へ向かい、徳を危うくして行った。そののちに性を捨てて心に従った。

心と心が互いに知り合っても、天下を定めるには足りなかった。そののちに文(あや)を付け、広さを足した。文が素(もと)を消し、広さが心を溺(おぼ)れさせたので、そののちに民は初めて惑い乱れ、その性と実に帰ってその初めを取り戻す道がなくなった。

5世と道が互いに失う

由是觀之,世喪道矣,道喪世矣,世與道交相喪也,道之人何由興乎世,世亦何由興乎道哉!道无以興乎世,世无以興乎道,雖聖人不在山林之中,其德隱矣。

これで見れば、世が道を失い、道が世を失った。世と道が互いに失ったのだから、道を持つ人が何によって世に起こり、世がまた何によって道に起ころうか。

道が世に起こる道がなく、世が道に起こる道がないのだから、聖人が山林の中にいなくても、その徳は隠れる。

6隠れるということ

隱,故不自隱。古之所謂隱士者,非伏其身而弗見也,非閉其言而不出也,非藏其知而不發也,時命大謬也。當時命而大行乎天下,則反一无迹;不當時命而大窮乎天下,則深根寧極而待;此存身之道也。

隠れるのであって、自ら隠れるのではない。

昔いわゆる隠れた士とは、自分の身を伏せて見えないようにしたのではなく、自分の言葉を閉ざして出さなかったのではなく、自分の知を隠して開かなかったのではない。時と命が大いに狂っていたからである。

時と命に出会って天下に大いに行われれば、一つに帰って跡がなく、時と命に出会えずに天下で大いに窮すれば、根を深くし至りのところに安んじて待つ。これが身を保つ道である。

7自分を正すだけ

古之行身者,不以辯飾知,不以知窮天下,不以知窮德,危然處其所而反其性已,又何為哉!道固不小行,德固不小識。小識傷德,小行傷道。故曰,正己而已矣。樂全之謂得志。

昔、身を保った者は、弁で知を飾らず、知で天下を窮させず、知で徳を窮させなかった。毅然(きぜん)として自分の場に身を置き、自分の性に帰るだけであったのだから、ほかに何をしようか。

道はもともと小さく行うものではなく、徳はもともと小さく知るものではない。小さく知れば徳を傷つけ、小さく行えば道を傷つける。だから言う。自分を正すだけである。楽しみが全うであることを、志を得たという。

8逆さに置かれた民

古之所謂得志者,非軒冕之謂也,謂其无以益其樂而已矣。今之所謂得志者,軒冕之謂也。軒冕在身,非性命也,物之儻來,寄者也。寄之,其來不可圉,其去不可止。故不為軒冕肆志,不為窮約趨俗,其樂彼與此同,故无憂而已矣。今寄去則不樂,由是觀之,雖樂,未嘗不荒也。故曰,喪己於物,失性於俗者,謂之倒置之民。

昔いわゆる志を得たというのは、高い車や冠(かんむり)を言うのではなく、その楽しみに足すものがないことを言うだけであった。

いまいわゆる志を得たというのは、高い車や冠を言う。高い車や冠が身にあるのは性や命ではなく、ものが思いがけず来て、しばらく身を寄せているのである。寄せているのだから、その来るのを防ぐことができず、その去るのを止めることができない。

だから、高い車や冠のために志を勝手にせず、窮して詰まったからといって世間を追わない。その楽しみがあちらでもこちらでも同じなので、憂いがないだけである。

いま寄せていたものが去れば楽しくないのだから、これで見れば、楽しんでいたとしても、荒(すさ)んでいなかったことがない。

だから言う。自分をものにおいて失い、性を世間において失う者、これを逆さに置かれた民という。