書虛篇
世信虛妄之書,以為載於竹帛上者,皆賢聖所傳,無不然之事,故信而是之,諷而讀之。睹真是之傳與虛妄之書相違,則并謂短書,不可信用。夫幽冥之實尚可知,沈隱之情尚可定,顯文露書,是非易見,籠總并傳非實事,用精不專,無思於事也。
世は虚しく妄りな書を信じて、竹や帛に載っているものはみな賢く聖なる者が伝えたのだから、そうでない事はないとして、信じて是とし、諷んで読む。真に是である伝えが虚しく妄りな書と相い違うのを睹れば、まとめて短い書だとして、信じて用いることはできないと言う。そもそも幽く冥い実すら知ることができ、沈み隱れた情すら定めることができる。まして顕れた文、露れた書は是非が見やすいのに、籠め総べてまとめて伝え、実でない事をそのままにするのは、精を専らに用いず、事に思いがないからである。
夫世間傳書諸子之語,多欲立奇造異,作驚目之論,以駭世俗之人;為譎詭之書,以著殊異之名。傳書言:延陵季子出游,見路有遺金。當夏五月,有披裘而薪者曰:「取彼地金來!」薪者投鐮於地,目拂手而言曰:「何子居之高,視之下,儀貌之壯,語言之野也!吾當夏五月,披裘而薪,豈取金者哉?」季子謝之,請問姓字。薪者曰:「子皮相之士也,何足語姓名!」遂去不顧。世以為然,殆虛言也。夫季子恥吳之亂,吳欲共立以為主,終不肯受,去之延陵,終身不還,廉讓之行,終始若一。許由讓天下,不嫌貪封侯。伯夷委國飢死,不嫌貪刀鉤。廉讓之行,大可以況小,小難以況大。季子能讓吳位,何嫌貪地遺金?季子使於上國,道過徐。徐君好其寶劍,未之即予。還而徐君死,解劍帶冢樹而去。廉讓之心,恥負其前志也。季子不負死者,棄其寶劍,何嫌一叱生人取金於地?季子未去吳乎,公子也;已去吳乎,延陵君也。公子與君,出有前後,車有附從,不能空行於塗,明矣。既不恥取金,何難使左右,而煩披裘者?
そもそも世間に伝わる書や諸子の語は、多く奇を立て異を造って、目を驚かす論を作って世俗の人を駭かせ、譎しく詭しい書を作って殊に異なる名を著そうとする。
伝わる書に言う。延陵の季子が出て游び、路に遺された金があるのを見た。時は夏の五月であったが、裘を披て薪する者がいたので、「あの地の金を取って来い」と言った。薪する者は鐮を地に投げ、目を拂い手を振って言った。「どうしてあなたは居るところが高く、視るところが下り、儀や貌は壮やかなのに、語る言は野しいのか。私は夏の五月に裘を披て薪する者だ。どうして金を取る者であろうか。」季子は謝して姓や字を問うた。薪する者は言った。「あなたは皮を相る士だ。どうして姓名を語るに足ろう。」そのまま顧みずに去った、と。世はそうだと思うが、おそらく虚しい言である。
そもそも季子は呉の乱を恥じ、呉が共に立てて主としようとしたのに、ついに受けようとせず、去って延陵に行き、終身還らなかった。廉く譲る行いが、始めも終わりも一つのようであった。許由は天下を譲ったのだから、封侯を貪るという嫌いはない。伯夷は国を委て飢え死にしたのだから、刀や鉤を貪るという嫌いはない。廉く譲る行いは、大きいもので小さいものを況えることはできても、小さいもので大きいものを況えることは難しい。季子は呉の位を譲ることができたのに、どうして地に遺された金を貪るという嫌いがあろうか。
季子が上国に使いしたとき、道が徐を過ぎた。徐の君がその宝剣を好んだが、すぐには与えなかった。還るときに徐の君が死んだので、剣を解いて冢の樹に帯びさせて去った。廉く譲る心が、その前の志に負くことを恥じたのである。季子は死んだ者にも負かず、その宝剣を棄てたのに、どうして一たび生きた人を叱って地から金を取らせるという嫌いがあろうか。季子がまだ呉を去っていなかったなら、公子である。すでに呉を去っていたなら、延陵の君である。公子と君は、出れば前後があり、車に附き従う者があって、空しく塗を行くことができないのは明らかである。すでに金を取ることを恥じなかったのなら、どうして左右の者に使わせるのが難しくて、裘を披た者を煩わせたりしようか。
世稱柳下惠之行,言其能以幽冥自修潔也。賢者同操,故千歲交志。置季子於冥昧之處,尚不取金,況以白日,前後備具,取金於路,非季子之操也。或時季子實見遺金,怜披裘薪者欲以益之;或時言取彼地金,欲以予薪者,不自取也。世俗傳言,則言季子取遺金也。
世は柳下惠の行いを称えて、彼が幽く冥いところでも自ら修め潔くできたと言う。賢い者は操が同じだから、千歳を隔てて志が交わる。季子を冥く昧いところに置いても、なお金を取らないであろう。まして白い日に、前後が備わり具わった中で、路から金を取るのは、季子の操ではない。おそらく季子は実際に遺された金を見て、裘を披て薪する者を怜れんでこれを益してやろうとしたのであろう。あるいは、あの地の金を取れと言ったのは、薪する者に与えようとしたのであって、自ら取ろうとしたのではないのであろう。世俗が伝えて言うときには、季子が遺された金を取ったと言うのである。
傳書或言顏淵與孔子俱上魯太山,孔子東南望吳(閶)〔昌〕門外有繫白馬,引顏淵指以示之曰:「若見吳昌門乎?」顏淵曰:「見之。」孔子曰:「門外何有?」曰「有如繫練之狀。」
伝わる書にあるいは言う。顔淵が孔子とともに魯の太山に上ったとき、孔子が東南に呉の昌門の外に白い馬が繫がれているのを望み、顔淵を引いて指し示して言った。「お前は呉の昌門が見えるか。」顔淵は「見えます」と言った。孔子は「門の外に何があるか」と言った。「練った絹を繫いだような状のものがあります」と言った。
孔子撫其目而正之,因與俱下。下而顏淵髪白齒落,遂以病死。蓋以精神不能若孔子,強力自極,精華竭盡,故早夭死。世俗聞之,皆以為然。如實論之,殆虛言也。案《論語》之文,不見此言。考《六經》之傳,亦無此語。夫顏淵能見千里之外,與聖人同,孔子諸子何諱不言?蓋人目之所見,不過十里。過此不見,非所明察,遠也。傳曰:「太山之高巍然,去之百里,不見螺,遠也。」案魯去吳,千有餘里,使離朱望之,終不能見,況使顏淵,何能審之?如才庶幾者,明目異於人,則世宜稱亞聖,不宜言離朱。人目之視也,物大者易察,小者難審。使顏淵處昌門之外,望太山之形,終不能見。況從太山之上,察白馬之色,色不能見,明矣。非顏淵不能見,孔子亦不能見也。何以驗之?耳目之用,均也。目不能見百里,則耳亦不能聞也。陸賈曰:「離婁之明,不能察帷薄之內;師曠之聰,不能聞百里之外。」昌門之與太山,非直帷薄之內、百里之外也。秦武王與孟說舉鼎不任,絕脈而死。舉鼎用力,力由筋脈,筋脈不堪,絕傷而死,道理宜也。今顏淵用目望遠,望遠目睛不任,宜盲眇,髪白齒落,非其致也。髪白齒落,用精於學,勤力不休,氣力竭盡,故至於死。
孔子はその目を撫でて正し、そこでともに下った。下ると顔淵は髪が白くなり歯が落ちて、ついに病んで死んだ。精神が孔子のようではないのに、強いて力めて自ら極まで行き、精華が竭き尽きたから、早く夭く死んだのだという。世俗はこれを聞いて、みなそうだと思う。実のとおりに論ずれば、おそらく虚しい言である。
「論語」の文を案ずると、この言は見えない。「六経」の伝えを考えても、またこの語はない。そもそも顔淵が千里の外を見ることができて聖人と同じだったのなら、孔子の諸子がどうして諱んで言わなかったであろうか。およそ人の目が見るところは、十里を過ぎない。これを過ぎれば見えず、明らかに察するところではない。遠いからである。伝えに言う。「太山の高さは巍然としているが、これを去って百里なら、螺ほども見えない。遠いからである。」案ずるに、魯から呉までは千里有余だから、離朱に望ませても、ついに見ることはできない。まして顔淵に、どうして審らかにできようか。もし才が庶幾い者が、明らかな目で人と異なるのなら、世はまさに亜聖と称えるべきで、離朱を言うべきではない。
人の目が視るのに、物は大きいものは察しやすく、小さいものは審らかにしにくい。顔淵を昌門の外に処らせて太山の形を望ませても、ついに見ることはできない。まして太山の上から白い馬の色を察するのはどうか。色が見えないのは明らかである。顔淵が見られないだけでなく、孔子もまた見られない。何によってこれを験すか。耳と目の用は均しい。目が百里を見られないなら、耳もまた聞くことができない。陸賈は言った。「離婁の明でも、帷や薄の内を察することはできない。師曠の聰でも、百里の外を聞くことはできない。」昌門と太山は、ただ帷や薄の内、百里の外というだけのものではない。
秦の武王が孟説と鼎を挙げて任えられず、脈が絶えて死んだ。鼎を挙げるのに力を用い、力は筋や脈に由るのだから、筋や脈が堪えずに絶え傷ついて死んだのは、道理として当然である。今、顔淵が目を用いて遠くを望み、遠くを望むのに目の睛が任えなかったのなら、まさに盲い眇むべきで、髪が白くなり歯が落ちるのは、それが致したものではない。髪が白くなり歯が落ちたのは、精を学に用い、勤め力めて休まず、気力が竭き尽きたから、死に至ったのである。
伯奇放流,首髪早白。《詩》云:「惟憂用老。」伯奇用憂,而顏淵用睛,暫望倉卒,安能致此?
伯奇が放たれ流されると、首の髪が早く白くなった。「詩」に言う。「ただ憂いによって老いる。」伯奇は憂いを用いたのであり、顔淵は睛を用いたのである。暫く望んだ倉卒の間に、どうしてこれに致ることができようか。
儒書言:舜葬於蒼梧、禹葬於會稽者,巡狩年老,道死邊土。聖人以天下為家,不別遠近,不殊內外,故遂止葬。夫言舜、禹,實也;言其巡狩,虛也。舜之與堯,俱帝者也。共五千里之境,同四海之內。二帝之道,相因不殊。
儒の書に言う。舜が蒼梧に葬られ、禹が會稽に葬られたのは、巡狩して年老い、道で辺の土に死んだからである。聖人は天下を家とするから、遠近を別たず、内外を殊にしないので、そのままそこに止めて葬ったのだという。そもそも舜や禹を言うのは実である。その巡狩を言うのは虚である。舜と堯はともに帝である。五千里の境を共にし、四海の内を同じくした。二人の帝の道は、相い因って殊ならなかった。
《堯典》之篇,舜巡狩東至岱宗,南至霍山,西至太華,北至恆山。以為四岳者,四方之中,諸侯之來,并會岳下,幽深遠近,無不見者,聖人舉事求其宜適也。禹王如舜,事無所改,巡狩所至,以復如舜。舜至蒼梧,禹到會稽,非其實也。實舜、禹之時,鴻水未治,堯傳於舜,舜受為帝,與禹分部,行治鴻水。堯崩之後,舜老,亦以傳於禹。舜南治水,死於蒼梧;禹東治水,死於會嵇。賢聖家天下,故因葬焉。
「堯典」の篇に、舜が巡狩して東は岱宗に至り、南は霍山に至り、西は太華に至り、北は恆山に至ったとある。四岳とは四方の中であり、諸侯が来て並び岳の下に会すれば、幽く深いところ、遠いところ近いところまで見えないものがない。聖人が事を挙げるのにその宜しく適うところを求めたのである。禹の王たることは舜のようで、事に改めたところがなかったのだから、巡狩して至ったところも、また舜と同じだったはずである。舜が蒼梧に至り、禹が會稽に到ったというのは、その実ではない。
実は、舜と禹の時には鴻水がまだ治まっておらず、堯が舜に伝え、舜が受けて帝となると、禹と部を分けて、行って鴻水を治めた。堯が崩じた後、舜が老いて、やはり禹に伝えた。舜は南で水を治めて蒼梧で死に、禹は東で水を治めて會稽で死んだ。賢く聖なる者は天下を家とするから、そのままそこに葬ったのである。
吳君高說:「會稽本山名,夏禹巡守,會計於此山,因以名郡,故曰會稽。」夫言因山名郡可也,言禹巡狩會計於此山,虛也。巡狩本不至會稽,安得會計於此山?宜聽君高之說,誠會稽為會計,禹到南方,何所會計?如禹始東死於會稽,舜亦巡狩至於蒼梧,安所會計?百王治定則出巡,巡則輒會計,是則四方之山皆會計也。百王太平,升封太山。太山之上,封可見者七十有二,紛綸湮滅者,不可勝數。如審帝王巡狩輒會計,會計之地如太山封者,四方宜多。夫郡國成名,猶萬物之名,不可說也。獨為會稽立歟?周時舊名吳越也,為吳越立名,從何往哉?六國立名,狀當如何?天下郡國且百餘,縣邑出萬,鄉亭聚里皆有號名,賢聖之才莫能說。君高能說會稽,不能辨定方名。會計之說,未可從也。巡狩考正法度,禹時,吳為裸國,斷髪文身,考之無用,會計如何?
呉の君高が説く。「會稽はもと山の名である。夏の禹が巡守して、この山で会計したので、それによって郡を名づけ、だから會稽と言う。」そもそも山によって郡を名づけたと言うのはよい。禹が巡狩してこの山で会計したと言うのは虚である。巡狩はもともと會稽に至っていないのに、どうしてこの山で会計できようか。君高の説に聽き従って、誠に會稽が会計だとするなら、禹が南方に到って、何を会計したのか。もし禹が初めて東に行って會稽で死に、舜もまた巡狩して蒼梧に至ったのなら、どこで会計したのか。
百王が治が定まれば出て巡り、巡ればすぐに会計するというのなら、四方の山がみな会計である。百王が太平であれば太山に升って封じた。太山の上には、封じたもので見られるものが七十二あり、紛れ綸れて湮れ滅んだものは数え切れない。もし審らかに帝王が巡狩すればすぐに会計するのなら、会計の地は太山の封のように、四方に多いはずである。そもそも郡や国の名が成るのは、万物の名と同じで、説くことができない。ひとり會稽のためだけに立てたのであろうか。周の時の旧い名は呉と越であるが、呉や越のために名を立てたのは、何に従ってであろうか。六国が名を立てた状はまさにどうであろうか。天下の郡や国はおよそ百有余、県や邑は万を出、郷や亭や聚や里もみな号や名があって、賢く聖なる才でも説くことはできない。君高は會稽を説くことができても、諸々の方の名を辨じ定めることはできない。会計の説は、従うことができない。巡狩は法度を考え正すものであるが、禹の時に呉は裸の国で、髪を断ち身に文していて、考えても用がなかった。会計はどうであったのか。
傳書言:舜葬於蒼梧,象為之耕;禹葬會稽,烏為之田。蓋以聖德所致,天使鳥獸報佑之也。
伝わる書に言う。舜を蒼梧に葬ると、象がこれのために耕した。禹を會稽に葬ると、烏がこれのために田った。聖なる徳が致したところで、天が鳥獸に報い佑けさせたのだという。
世莫不然。考實之,殆虛言也。夫舜、禹之德不能過堯,堯葬於冀州,或言葬於崇山,冀州鳥獸不耕,而鳥獸獨為舜、禹耕,何天恩之偏駁也?或曰:「舜、禹,治水,不得宁處,故舜死於蒼梧,禹死於會稽。勤苦有功,故天報之;遠離中國,故天痛之。」夫天報舜、禹,使鳥田象耕,何益舜、禹?天欲報舜、禹,宜使蒼梧、會稽常祭祀之。
世はそうでないとしない。実を考えれば、おそらく虚しい言である。そもそも舜や禹の徳は堯を過ぎることができない。堯は冀州に葬られ、あるいは崇山に葬られたと言うが、冀州の鳥獸は耕さなかった。それなのに鳥獸がひとり舜と禹のために耕したというなら、どうして天の恩が偏り駁っているのか。ある人が言う。「舜と禹は水を治めて宁んじ処ることができなかったから、舜は蒼梧で死に、禹は會稽で死んだ。勤め苦しんで功があったから天がこれに報い、中国から遠く離れたから天がこれを痛んだのである。」そもそも天が舜と禹に報いて、烏に田らせ象に耕させたとして、舜や禹に何の益があるのか。天が舜と禹に報いようとしたのなら、まさに蒼梧や會稽に常にこれを祭祀させるべきである。
使鳥獸田耕,不能使人祭。祭加舜、禹之墓,田施人民之家,天之報佑聖人,何其拙也,且無益哉!由此言之,鳥田象耕,報佑舜、禹,非其實也。實者,蒼梧多象之地,會稽眾鳥所居。《禹貢》曰:「彭蠡既瀦,陽鳥攸居。」天地之情,鳥獸之行也。象自蹈土,鳥自食蘋。土蹶草盡,若耕田狀,壤靡泥易,人隨種之,世俗則謂為舜、禹田。海陵麋田,若象耕狀,何嘗帝王葬海陵者邪?
鳥獸に田り耕させながら、人に祭らせることはできなかった。祭りは舜と禹の墓に加わり、田は人民の家に施される。天が聖人に報い佑けるのが、どうしてそれほど拙く、しかも益がないのか。これによって言えば、烏が田り象が耕して舜と禹に報い佑けたというのは、その実ではない。実は、蒼梧が象の多い地であり、會稽が衆の鳥の居るところだということである。「禹貢」に言う。「彭蠡がすでに瀦まって、陽鳥の居るところとなった。」天地の情であり、鳥獸の行いである。象はおのずから土を蹈み、鳥はおのずから蘋を食う。土が蹶れ草が尽きて、田を耕した状のようになり、壤が靡らかに泥が易くなるので、人が随ってこれに種える。世俗はそれで舜や禹の田だと言う。海陵の麋の田は象が耕した状のようだが、いつ帝王が海陵に葬られたことがあろうか。
傳書言:吳王夫差殺伍子胥,煮之於鑊,乃以鴟夷橐投之於江。子胥恚恨,驅水為濤,以溺殺人。今時會稽、丹徒大江、錢塘浙江,皆立子胥之廟。蓋欲慰其恨心,止其猛濤也。夫言吳王殺子胥投之於江,實也;言其恨恚驅水為濤者,虛也。
伝わる書に言う。呉王の夫差が伍子胥を殺して鑊で煮、鴟夷の橐に入れてこれを江に投げた。子胥は恚り恨んで、水を驅って濤とし、人を溺らせ殺す。今、會稽や丹徒の大江、錢塘の浙江に、みな子胥の廟が立っている。その恨む心を慰め、その猛い濤を止めようとするのだという。そもそも呉王が子胥を殺して江に投げたと言うのは実である。その恨み恚って水を驅って濤としたと言うのは虚である。
屈原懷恨,自投湘江,湘江不為濤;申徒狄蹈河而死,河水不為濤。世人必曰屈原、申徒狄不能勇猛,力怒不如子胥。夫衛菹子路而漢烹彭越,子胥勇猛不過子路、彭越。然二士不能發怒於鼎鑊之中,以烹湯菹汁?〔〕旁人。
屈原は恨みを懐いて自ら湘江に投じたが、湘江は濤とならない。申徒狄は河を蹈んで死んだが、河の水は濤とならない。世の人は必ず、屈原や申徒狄は勇猛でなく、力や怒りが子胥に及ばなかったのだと言うであろう。そもそも衛は子路を菹にし、漢は彭越を烹たが、子胥の勇猛は子路や彭越を過ぎない。それなのに二人の士は鼎や鑊の中で怒りを発して、烹える湯や菹の汁で傍らの人をどうにかすることができなかったのか。
子胥亦自先入鑊,〔後〕乃入江;在鑊中之時,其神安居?豈怯於鑊湯,勇於江水哉!何其怒氣前後不相副也?且投於江中,何江也?有丹徒大江,有錢唐浙江,有吳通陵江。或言投於丹徒大江,無濤,欲言投於錢唐浙江。浙江、山陰江、上虞江皆有濤,三江有濤,豈分橐中之體,散置三江中乎?人若恨恚也,仇讎未死,子孫遺在,可也。今吳國已滅,夫差無類,吳為會稽,立置太守,子胥之神,復何怨苦,為濤不止,欲何求索?吳、越在時,分會稽郡,越治山陰,吳都今吳,餘暨以南屬越,錢唐以北屬吳。錢唐之江,兩國界也。山陰、上虞在越界中,子胥入吳之江,為濤當自上吳界中,何為入越之地?怨恚吳王、發怒越江,違失道理,無神之驗也。且夫水難驅而人易從也。生任筋力,死用精魂。子胥之生,不能從生人營衛其身,自令身死,筋力消絕,精魂飛散,安能為濤?使子胥之類數百千人,乘船渡江,不能越水。一子胥之身,煮湯鑊之中,骨肉糜爛,成為羹菹,何能有害也?周宣王殺其臣杜伯,(趙簡子)〔燕簡公〕殺其臣庄子義。其後杜伯射宣王,庄子義害簡(子)〔公〕,事理似然,猶為虛言。今子胥不能完體,為杜伯、子義之事以報吳王,而驅水往來,豈報仇之義、有知之驗哉!俗語不實,成為丹青;丹青之文,賢聖惑焉。夫地之有百川也,猶人之有血脈也。血脈流行,泛揚動靜,自有節度。百川亦然,其朝夕往來,猶人之呼吸氣出入也。天地之性,上古有之,《經》曰:「江、漢朝宗於海。」
子胥もまた自ら先に鑊に入り、後に江に入った。鑊の中にいた時、その神はどこに居たのか。どうして鑊の湯には怯え、江の水には勇ましかったのか。どうしてその怒りの気が前後で相い副わないのか。
その上、江の中に投げたというが、どの江か。丹徒の大江があり、錢唐の浙江があり、呉の通陵江がある。あるいは丹徒の大江に投げたと言うが、そこに濤はないので、錢唐の浙江に投げたと言おうとする。浙江・山陰江・上虞江にはみな濤がある。三つの江に濤があるなら、どうして橐の中の体を分けて三つの江の中に散らし置いたりしようか。人が恨み恚うのは、仇讎がまだ死なず、子孫が遺っていればこそである。今、呉の国はすでに滅び、夫差に類はなく、呉は會稽となって太守が立て置かれた。子胥の神は、また何を怨み苦しんで、濤を為して止まず、何を求め索めようとするのか。
呉と越があった時、會稽郡を分けて、越は山陰に治め、呉は今の呉に都し、餘暨から南は越に属し、錢唐から北は呉に属した。錢唐の江は両国の界である。山陰と上虞は越の界の中にある。子胥が呉の江に入ったのなら、濤を為すのもまさに呉の界の中からであるべきなのに、どうして越の地に入ったのか。呉王を怨み恚いながら越の江で怒りを発するのは、道理に違い失っていて、神がないという験である。
その上、水は驅りにくく、人は従いやすい。生きていれば筋力に任せ、死ねば精魂を用いる。子胥は生きていた時に、生きた人を従わせて自分の身を営み衛ることができず、自ら身を死なせたのである。筋力が消え絶え、精魂が飛び散った後に、どうして濤を為すことができようか。子胥のような者が数百数千人、船に乗って江を渡っても、水を越えることはできない。子胥一人の身が湯の鑊の中で煮られ、骨も肉も糜れ爛れて羹や菹となったのに、どうして害することができようか。
周の宣王はその臣の杜伯を殺し、燕の簡公はその臣の莊子義を殺した。その後、杜伯が宣王を射、莊子義が簡公を害したという。事の理は然もありそうだが、それでも虚しい言である。今、子胥は体を完うすることができず、杜伯や子義の事を為して呉王に報いることもできないのに、水を驅って往来するというのは、どうして仇に報いる義であり、知があるという験であろうか。俗の語が実でないのに丹や青となり、丹や青の文に賢く聖なる者が惑うのである。
そもそも地に百川があるのは、人に血脈があるのと同じである。血脈が流れ行き、泛れ揚がり動き静まるのに、おのずから節度がある。百川もまたそうであり、その朝夕に往来するのは、人が呼吸して気が出入りするのと同じである。天地の性で、上古からあったのである。「経」に言う。「江と漢が海に朝宗する。」
唐、虞之前也,其發海中之時,漾馳而已;入三江之中,殆小淺狹,水激沸起,故騰為濤。廣陵曲江有濤,文人賦之。大江浩洋,曲江有濤,竟以隘狹也。吳殺其身,為濤廣陵,子胥之神,竟無知也。溪谷之深,流者安洋,淺多沙石,激揚為瀨。夫濤瀨,一也。謂子胥為濤,誰居溪谷為瀨者乎?案濤入三江,岸沸踊,中央無聲。必以子胥為濤,子胥之身聚岸也。濤之起也,隨月盛衰,小大滿損不齊同。如子胥為濤,子胥之怒,以月為節也。三江時風,揚疾之波亦溺殺人,子胥之神,復為風也?秦始皇渡湘水,遭風,問湘山何祠?左右對曰:「堯之女,舜之妻也。」
唐や虞より前のことである。それが海の中から発するときは、漾れ馳せるだけであるが、三つの江の中に入ると、やや小さく浅く狹いので、水が激して沸き起こり、だから騰って濤となる。廣陵の曲江に濤があって、文人がこれを賦した。大江は浩く洋いのに曲江に濤があるのは、結局隘く狹いからである。呉がその身を殺したのに、廣陵で濤を為すというなら、子胥の神は結局知がないのである。溪や谷が深ければ、流れるものは安く洋く、浅くて沙や石が多ければ、激し揚がって瀨となる。そもそも濤と瀨は一つである。子胥が濤を為すと言うなら、誰が溪や谷に居て瀨を為すのか。案ずるに、濤が三つの江に入ると、岸では沸き踊るが、中央には声がない。必ず子胥が濤を為すというなら、子胥の身は岸に聚まっていることになる。濤が起こるのは、月の盛衰に随って、小大や満損が斉しく同じではない。子胥が濤を為すというなら、子胥の怒りは月を節としていることになる。三つの江で時に風が吹き、揚がる疾い波もまた人を溺らせ殺す。子胥の神は、また風にもなるのか。秦の始皇が湘水を渡って風に遭い、湘山は何の祠かと問うた。左右の者が対えて言った。「堯の女、舜の妻です。」
始皇太怒,使刑徒三千人斬湘山之樹而履之。夫謂子胥之神為濤,猶謂二女之精為風也。
始皇は太いに怒って、刑徒三千人に湘山の樹を斬らせ、これを履ませた。そもそも子胥の神が濤を為すと言うのは、二人の女の精が風を為すと言うのと同じである。
傳書言:孔子當泗水(之)〔而〕葬,泗水為之卻流。此言孔子之德,能使水卻,不湍其墓也。世人信之。是故儒者稱論,皆言孔子之後當封,以泗水卻流為証。如原省之,殆虛言也。夫孔子死,孰與其生?生能操行,慎道應天,死操行絕。天佑至德,故五帝、三王招致瑞應,皆以生存,不以死亡。孔子生時推排不容,故嘆曰:「鳳鳥不至,河不出圖,吾已矣夫!」生時無佑,死反有報乎?孔子之死,五帝、三王之死也。五帝、三王無佑,孔子之死獨有天報,是孔子之魂聖,五帝之精不能神也。泗水無知,為孔子卻流,天神使之。然則,孔子生時,天神不使人尊敬。如泗水卻流,天欲封孔子之後,孔子生時,功德應天,天不封其身,乃欲封其後乎?是蓋水偶自卻流。江河之流,有回復之處;百川之行,或易道更路,與卻流無以異。則泗水卻流,不為神怪也。
伝わる書に言う。孔子が泗水に当たって葬られると、泗水がこれのために卻き流れた。これは孔子の徳が水を卻かせ、その墓を湍らせなかったという意味である。世の人はこれを信じる。だから儒者が称え論ずるとき、みな孔子の後がまさに封じられるべきだと言い、泗水が卻き流れたことを証とする。原め省いてみれば、おそらく虚しい言である。
そもそも孔子が死んだのは、生きていたのに比べてどうか。生きていれば操行することができ、道を慎んで天に応じたが、死ねば操行は絶える。天が至れる徳を佑けるのだから、五帝や三王が瑞応を招き致したのは、みな生きて存った時であって、死に亡んだ時ではない。孔子は生きていた時に推され排されて容れられなかったので、嘆いて言った。「鳳鳥が至らず、河が図を出さない。わたしはもう終わりだ。」生きていた時に佑けがなかったのに、死んでかえって報いがあろうか。孔子の死は、五帝や三王の死である。五帝や三王に佑けがなく、孔子の死にだけ天の報いがあるというなら、これは孔子の魂が聖で、五帝の精が神しくないということになる。
泗水に知はないのだから、孔子のために卻き流れたのは天の神がそうさせたのである。それならば、孔子が生きていた時、天の神は人に尊び敬わせなかったことになる。泗水が卻き流れたのが、天が孔子の後を封じようとしてのことなら、孔子が生きていた時に功も徳も天に応じていたのに、天はその身を封じないで、その後を封じようとしたのか。これはおそらく水が偶々自ら卻き流れたのである。江や河の流れには回り復るところがあり、百川の行きには道を易え路を更えるものもあって、卻き流れることと異なるところがない。それなら泗水が卻き流れたのは、神しく怪しいことではない。
傳書稱:魏公子之德,仁惠下士,兼及鳥獸。方與客飲,有擊鳩。鳩走,巡於公子案下。追擊,殺於公子之前,公子恥之,即使人多設羅,得數十枚,責讓以擊鳩之罪。擊鳩之,低頭不敢仰視,公子乃殺之。世稱之曰:「魏公子為鳩報仇。」此虛言也。夫物也,情心不同,音語不通。聖人不能使鳥獸為義理之行,公子何人,能使低頭自責?鳥為者以千萬數,向擊鳩蜚去,安可復得?能低頭自責,是聖鳥也。曉公子之言,則知公子之行矣。知公子之行,則不擊鳩於其前。人猶不能改過,鳥與人異,謂之能悔,世俗之語,失物類之實也。或時公子實捕,得。人持其頭,變折其頸,疾痛低垂,不能仰視。緣公子惠義之人,則因褒稱,言?服過。蓋言語之次,空生虛妄之美;功名之下,常有非實之加。
伝わる書に称する。魏の公子の徳は仁く惠しく、士に下り、あわせて鳥獸にも及んだ。ちょうど客と飲んでいたとき、鷂が鳩を撃った。鳩は走って公子の案の下を巡ったが、鷂は追い撃って公子の前で殺した。公子はこれを恥じて、すぐに人に多く羅を設けさせ、数十枚を得て、鳩を撃った罪を責め讓めた。鳩を撃った鷂は頭を低れて敢えて仰ぎ視なかったので、公子はそこでこれを殺した。世はこれを称えて「魏の公子が鳩のために仇を報じた」と言う。これは虚しい言である。
そもそも物は、情や心が同じでなく、音や語が通じない。聖人でも鳥獸に義理の行いを為させることはできない。公子は何者で、頭を低れて自ら責めさせることができたのか。鳥で鷂であるものは千万を数えるのに、さきほど鳩を撃って蜚び去ったものを、どうして改めて得られようか。頭を低れて自ら責めることができるなら、それは聖なる鳥である。公子の言を曉ったのなら、公子の行いを知っていたことになる。公子の行いを知っていたのなら、その前で鳩を撃たなかったであろう。人ですらなお過ちを改めることができないのに、鳥は人と異なるのに、それが悔いることができると言うのは、世俗の語が物の類の実を失っているのである。おそらく公子が実際に鷂を捕らえ得たのであろう。人がその頭を持ち、その頸を変え折ったので、疾み痛んで低れ垂れ、仰ぎ視ることができなかったのであろう。公子が惠しく義しい人であることにかこつけて、それで褒め称えて、鷂が過ちに服したと言ったのである。おそらく言語の次いでに、空しく虚しく妄りな美が生じ、功名の下に、常に実でないものが加わるのである。
傳書言齊桓公妻姑姊妹七人,此言虛也。夫亂骨肉,犯親戚,無上下之序者,禽獸之性,則亂不知倫理。案桓公九合諸侯,一(正)〔匡〕天下,道之以德,將之以威,以故諸侯服從,莫敢不率,非內亂懷鳥獸之性者所能為也。夫率諸侯朝事王室,恥上無勢而下無禮也。外恥禮之不存,內何犯禮而自坏?外內不相副,則功無成而威不立矣。世稱桀、紂之惡,不言淫於親戚。實論者謂夫桀、紂惡微於亡秦,亡秦過泊於王莽,無淫亂之言。桓公妻姑姊七人,惡浮於桀、紂,而過重於秦、莽也。《春秋》采毫毛之美,貶纖芥之惡。桓公惡大,不貶何哉?魯文姜,齊襄公之妹也,襄公通焉。《春秋》經曰:「庄二年冬,夫人姜氏會齊侯於郜。」《春秋》何尤於襄公,而書其奸;何宥於桓公,隱而不譏?如《經》失之,傳家左丘明、公羊、谷梁何諱不言?案桓公之過多內寵,內嬖如夫人者六,有五公子爭立,齊亂,公薨三月乃訃。世聞內嬖六人,嫡庶無別,則言亂於姑姊妹七人矣。
伝わる書に、齊の桓公が姑や姊妹七人を妻にしたと言うが、この言は虚である。そもそも骨肉を乱し、親戚を犯して、上下の序がないのは禽獸の性であり、乱れて倫理を知らないものである。案ずるに、桓公は九たび諸侯を合わせ、一たび天下を匡し、徳でこれを道き、威でこれを将いた。だから諸侯は服従して、敢えて率わない者がなかった。内で乱れて鳥獸の性を懐いた者にできることではない。そもそも諸侯を率いて王室を朝し事えたのは、上に勢いがなく下に礼がないことを恥じたからである。外で礼の存らないことを恥じながら、内でどうして礼を犯して自ら坏そうか。外と内が相い副わなければ、功は成らず威は立たない。
世は桀や紂の悪を称えるが、親戚に淫したとは言わない。実を論ずる者は、桀や紂の悪は亡んだ秦より微かで、亡んだ秦の過ちは王莽より泊いと言うが、淫乱の言はない。桓公が姑や姊七人を妻にしたのなら、悪は桀や紂より浮き、過ちは秦や莽より重い。「春秋」は毫毛ほどの美も采り、纖芥ほどの悪も貶した。桓公の悪が大きいのに貶さなかったのはどういうことか。魯の文姜は齊の襄公の妹であり、襄公はこれと通じた。「春秋」の経に言う。「莊公二年の冬、夫人の姜氏が齊侯と郜で会した。」「春秋」はどうして襄公を尤めてその奸を書き、どうして桓公を宥して隱して譏らなかったのか。もし「経」がこれを失ったのなら、伝家の左丘明・公羊・谷梁がどうして諱んで言わなかったのか。案ずるに、桓公の過ちは内の寵が多かったことで、内に嬖せられて夫人のような者が六人あり、五人の公子が立つことを争って齊が乱れ、公が薨じて三月してやっと訃した。世は内に嬖せられた六人のことを聞き、嫡庶に別がなかったので、姑や姊妹七人に乱れたと言ったのである。
傳書言,齊桓公負婦人而朝諸侯,此言桓公之淫亂無禮甚也。夫桓公大朝之時,負婦人於背,其游宴之時,何以加此?方修士禮,崇歷肅敬,負婦人於背,何以能率諸侯朝事王室?葵丘之會,桓公驕矜,當時諸侯畔者九國。睚眥不得,九國畔去,況負婦人淫亂之行,何以肯留?或曰:「管仲告諸侯:吾君背有疽創,不得婦人,瘡不衰愈。諸侯信管仲,故無畔者。」夫十室之邑,必有忠信若孔子。當時諸侯千人以上,必知方朮,治疽不用婦人。管仲為君諱也,諸侯知仲為君諱而欺己,必恚怒而畔去,何以能久統會諸侯,成功於霸?或曰:「桓公實無道,任賢相管仲,故能霸天下。」夫無道之人,與狂無異,信讒遠賢,反害仁義,安能任管仲,能養人,令之成事?桀殺關龍逢,紂殺王子比干,無道之君莫能用賢,使管仲賢,桓公不能用;用管仲,故知桓公無亂行也。有賢明之君,故有貞良之臣。臣賢,君明之驗,奈何謂之有亂?
伝わる書に、齊の桓公が婦人を負って諸侯を朝したと言うが、この言は桓公の淫乱無礼が甚しいということである。そもそも桓公が大きな朝の時に婦人を背に負ったのなら、その游び宴する時には何をこれに加えたであろうか。ちょうど士の礼を修め、肅み敬うことを歷ましく崇める場で、婦人を背に負って、どうして諸侯を率いて王室を朝し事えることができようか。葵丘の会で桓公が驕り矜ったとき、その時に諸侯で畔いた者は九国であった。睚み眥むことすら得ないで九国が畔き去ったのに、まして婦人を負う淫乱の行いで、どうして留まろうとしたであろうか。
ある人が言う。「管仲が諸侯に告げて、我が君は背に疽の創があって、婦人を得なければ瘡が衰え愈えないのだと言った。諸侯は管仲を信じたので、畔く者がなかった。」そもそも十室の邑にも、必ず孔子のような忠や信がある。その時、諸侯は千人以上であったから、必ず方や術を知る者がいて、疽を治すのに婦人を用いないことを知っていたはずである。管仲は君のために諱んだのだが、諸侯が仲が君のために諱んで己を欺いていると知ったなら、必ず恚り怒って畔き去ったであろう。どうして久しく諸侯を統べ会わせて、霸に功を成すことができようか。
ある人が言う。「桓公は実は無道であったが、賢い相の管仲に任せたから、天下に霸たることができた。」そもそも無道の人は狂った者と異なりがなく、讒を信じ賢を遠ざけ、かえって仁義を害する。どうして管仲に任せ、人を養わせ、事を成させることができようか。桀は関龍逢を殺し、紂は王子比干を殺した。無道の君は賢を用いることができない。管仲が賢かったのなら、桓公は用いることができなかったはずである。管仲を用いたのだから、桓公に乱れた行いがなかったことが分かる。賢く明らかな君があって、はじめて貞く良い臣がある。臣が賢いのは君が明らかである験であるのに、どうしてこれに乱れがあると言うのか。
難曰:「衛靈公無道之君,時知賢臣。管仲為輔,何明桓公不為亂也?」夫靈公無道,任用三臣,僅以不喪,非有功行也。桓公尊九九之人,拔甯戚於車下,責苞茅不貢,運兵功楚,九合諸侯,一匡天下,千世一出之主也。而云負婦人於背,虛矣。說《尚書》者曰:「周公居攝,帶天子之綬,戴天子之冠,負南面而朝諸侯。」
難じて言う。「衛の靈公は無道の君であったが、時に賢い臣を知った。管仲が輔となったからといって、どうして桓公が乱を為さなかったことが明らかになるのか。」そもそも靈公は無道で、三人の臣を任用して、わずかに喪わなかっただけで、功や行いがあったのではない。桓公は九九を知る人を尊び、甯戚を車の下から拔き、苞茅を貢がないことを責めて兵を運んで楚を功め、九たび諸侯を合わせ、一たび天下を匡した。千世に一たび出る主である。それなのに婦人を背に負ったと言うのは、虚である。「尚書」を説く者が言う。「周公が摂に居ったとき、天子の綬を帯び、天子の冠を戴き、南面を負って諸侯を朝した。」
戶牖之間曰,南面之坐位也。負南面鄉坐,在後也。桓公朝諸侯之時,或南面坐,婦人立於後也。世俗傳云,則曰負婦人於背矣。此則夔一足、宋丁公鑿井得一人之語也。唐虞時,夔為大夫,性知音樂,調聲悲善。當時人曰:「調樂如夔一足矣。」世俗傳言,夔一足。
戸と牖の間を扆と言い、南面して坐る位である。南面を負って鄉いて坐れば、扆が後ろにある。桓公が諸侯を朝した時、おそらく南面して坐り、婦人が後ろに立っていたのであろう。世俗が伝えて言うときには、婦人を背に負ったと言ったのである。これは夔が一足であったという話や、宋の丁公が井を鑿って一人を得たという語と同じである。唐虞の時、夔は大夫で、性が音楽を知り、声を調えることが悲しく善かった。当時の人が言った。「楽を調えるには夔のような者が一人で足る。」世俗が伝えて言うと、夔は足が一つ、となった。
案秩宗官缺,帝舜博求,眾稱伯夷,伯夷稽首讓於夔龍。秩宗卿官,漢之宗正也。斷足,(足)非其理也。
案ずるに、秩宗の官が缺けたとき、帝舜が博く求め、衆が伯夷を称えたが、伯夷は稽首して夔と龍に譲った。秩宗は卿の官で、漢の宗正である。足を断たれていたというなら、その理ではない。
且一足之人,何用行也?夏後孔甲田於東山,天雨晦冥,入於民家,主人方乳,或曰:「後來之子必貴。」或曰:「不勝之子必賤。」孔甲曰:「為餘子,孰能賤之?」遂載以歸,析繚,斧斬其足,卒為守者。孔甲之欲貴之子,有餘力矣,斷足無宜,故為守者。今夔一足,無因趨步,坐調音樂,可也。秩宗之官,不宜一足,猶守者斷足,不可貴也。孔甲不得貴之子,伯夷不得讓於夔焉。宋丁公者,宋人也。未鑿井時,常有寄汲,計之,日去一人作。自鑿井後,不復寄汲,計之,日得一人之作。故曰:「宋丁公鑿井得一人。」俗傳言曰:「丁公鑿井得一人於井中。」夫人生於人,非生於土也。穿土鑿井,無為得人。推此以論,負婦人之語,猶此類也。負婦人而坐,則云婦人在背。知婦人在背非道,則生管仲以婦人治疽之言矣。使桓公用婦人徹胤服,婦人於背,女氣〔愈〕瘡,可(去)〔云〕以婦人治疽。方朝諸侯,桓公重衣,婦人襲裳,女氣分隔,負之何益?桓公思土,作庭燎而夜坐,以思致土,反以白日負婦人見諸侯乎?
その上、足が一つの人が、何によって行くのか。夏后の孔甲が東山で田りをしていたとき、天が雨を降らせて晦く冥くなり、民の家に入った。主人はちょうど子を乳んでいた。ある者は「后が来られてからの子だから、必ず貴くなる」と言い、ある者は「勝えられない子だから、必ず賤しくなる」と言った。孔甲は言った。「余の子とするのに、誰がこれを賤しくできようか。」そのまま載せて帰ったが、繚を析くときに斧でその足を斬ってしまい、ついに守る者となった。孔甲がこの子を貴くしようとする力は余りあったが、足を断たれては宜しくないので、守る者となったのである。今、夔が足が一つであるなら、趨り歩む術がないから、坐って音楽を調えるのはよい。しかし秩宗の官は足が一つであっては宜しくない。守る者が足を断たれて貴くなれないのと同じである。孔甲は子を貴くすることができなかったのだから、伯夷が夔に譲ることもできなかったはずである。
宋の丁公は宋の人である。まだ井を鑿らない時は、常に人に寄せて汲ませていたので、計えれば日に一人の作が去っていた。自ら井を鑿った後は、もう寄せて汲ませないので、計えれば日に一人の作を得た。だから「宋の丁公が井を鑿って一人を得た」と言った。俗に伝えて言うと、「丁公が井を鑿って井の中で一人を得た」となった。そもそも人は人から生じるのであって、土から生じるのではない。土を穿ち井を鑿って、人を得るはずがない。これを推して論ずれば、婦人を負ったという語も、やはりこの類である。
婦人を背にして坐ったのを、婦人が背にいると言ったのである。婦人が背にいるのが道でないと分かるので、管仲が婦人で疽を治したという言が生じたのである。桓公が婦人を用い、胤の服を徹って婦人を背に当て、女の気で瘡を愈えさせたのなら、婦人で疽を治したと言える。しかしちょうど諸侯を朝するとき、桓公は衣を重ね、婦人は裳を襲ねていて、女の気は分け隔てられていた。負ったとして何の益があろうか。桓公は士を思って庭に燎を作って夜に坐り、思って士を致そうとしたのに、かえって白い日に婦人を負って諸侯に見えたりしようか。
傳書言聶正為嚴翁仲刺殺韓王,此虛也。夫聶政之時,韓列侯也。列侯之三年,聶政刺韓相俠累。十二年,列侯卒。與聶政殺俠累,相去十七年。而言聶政刺殺韓王,短書小傳,竟虛不可信也。
伝わる書に、聶政が嚴翁仲のために韓王を刺し殺したと言うが、これは虚である。そもそも聶政の時は韓の列侯である。列侯の三年に、聶政は韓の相の俠累を刺した。十二年に列侯が卒した。聶政が俠累を殺した時と、十七年隔たっている。それなのに聶政が韓王を刺し殺したと言う。短い書や小さい伝えは、結局虚しくて信ずることができない。
傳書又言:燕太子丹使刺客荊軻刺秦王不得,誅死。後高漸麗復以擊筑見秦王,秦王說之,知燕太子之客,乃冒其眼,使之擊筑。漸麗乃置鉛於筑中以為重。當擊筑,秦王膝進,不能自禁。漸麗以筑擊秦王顙,秦王病傷三月而死。夫言到高漸麗以筑擊秦王,實也;言中秦王病傷三月而死,虛也。夫秦王者,秦始皇帝也。始皇二十年,燕太子丹使荊軻刺始皇,始皇殺軻明矣。二十一年,使將軍王翦功燕,得太子首。二十五年,遂伐燕而虜燕王嘉。後不審何年,高漸麗以筑擊始皇不中,誅漸麗。當二十七年,游天下,到會稽,至琅邪,北至勞、盛山,并海,西至平原津而病,到沙丘平台,始皇崩。夫讖書言始皇還,到沙丘而亡;傳書又言病筑瘡三月而死於秦。一始皇之身,世或言死於沙丘,或言死於秦,其死言恆病瘡。傳書之言多失其實,世俗之人不能定也。
伝わる書にまた言う。燕の太子の丹が刺客の荊軻に秦王を刺させたが、果たせず、誅され死んだ。後に高漸麗が改めて筑を撃つことで秦王に見え、秦王は彼を説んだが、燕の太子の客だと知って、その眼を冒い、筑を撃たせた。漸麗はそこで鉛を筑の中に置いて重くした。筑を撃つとき、秦王は膝で進み出て、自ら禁じることができなかった。漸麗は筑で秦王の顙を撃ち、秦王は傷を病んで三月して死んだ、と。
そもそも高漸麗が筑で秦王を撃ったと言うところまでは実である。秦王に中てて傷を病んで三月して死んだと言うのは虚である。そもそも秦王とは秦の始皇帝である。始皇二十年に燕の太子の丹が荊軻に始皇を刺させ、始皇が軻を殺したのは明らかである。二十一年に将軍の王翦に燕を功めさせ、太子の首を得た。二十五年に、ついに燕を伐って燕王の喜を虜にした。その後、何年か審らかでないが、高漸麗が筑で始皇を撃って中てられず、漸麗を誅した。二十七年に当たって天下を游び、會稽に到り、琅邪に至り、北は勞山と盛山に至り、海に并んで、西は平原津に至って病み、沙丘の平台に到って始皇は崩じた。そもそも讖書は始皇が還って沙丘に到って亡んだと言い、伝わる書はまた筑の瘡を病んで三月して秦で死んだと言う。始皇一人の身を、世はあるいは沙丘で死んだと言い、あるいは秦で死んだと言い、その死を恆に瘡を病んだと言う。伝わる書の言は多くその実を失っていて、世俗の人は定めることができない。
夾注 1
虜燕王嘉
底本は「燕王嘉」と記すが、秦に虜にされた燕の最後の君は喜なので、嘉を喜の誤りと見て読んだ。――訳者