いにしえの文 › 論衡(虚と実を秤にかける書)

商蟲篇

論衡(虚と実を秤にかける書) 論衡 · 王充 · 80年頃 · 段落 14 · 漢字 1,531字 · 朗読 6.1分

論衡(虚と実を秤にかける書) 後漢の人・王充が自ら明かしたこの書の意は四字である — 「疾虚妄」、虚しく妄りなものを憎む。天が人の事に応えて災いを下すとか、死ねば鬼神になって仇を返すとか、日を選ばなければ障りがあるとかいう、その時代の言い分を一つ一つ捕らえて論じる。 論じる肌合いが人とは違う。年長者の言葉だからといってそのままにしない — 孔子に問い(問孔)、孟子を刺し(刺孟)、韓非を否とする(非韓)。天が咎めて災いを下すという言い分には、それならば天はなぜ君主一人のために国中に旱を下すのかと問い返す。 「虚」の字が付いた九篇(書虚・変虚・異虚・感虚・福虚・禍虚・龍虚・雷虚・道虚)が一列に並び、古い書に記された不思議な話を順に捕らえる。「増」の字が付いた三篇(語増・儒増・芸増)は、言葉がどのように膨らんでいくのかを扱う。 吉験篇には、夫余の東明が弓をよく射たので王が殺そうとし、南へ逃れて掩淲水に至ったという話がある。今に残る東明の記録のうち最も早い形である。

變復之家謂蟲食谷者,部吏所致也。貪則侵漁,故蟲食谷。

変復の家は、虫が穀物を食うのは部の吏が招いたことだという。むさぼれば掠め取るから、虫が穀物を食うというのである。

身黑頭赤,則謂武官;頭黑身赤,則謂文官。使加罰於蟲所象類之吏,則蟲滅息不復見矣。夫頭赤則謂武吏,頭黑則謂文吏所致也。時或頭赤身白,頭黑身黃,或頭身皆黃,或頭身皆青,或皆白,若魚肉之蟲,應何官吏?時或白布豪民猾吏被刑乞貸者,威勝於官,取多於吏,其蟲形象何如狀哉?蟲之滅也,皆因風雨。案蟲滅之時,則吏未必伏罰也。陸田之中時有鼠,水田之中時有魚,蝦蟹之類皆為谷害,或時希出而暫為害,或常有而為災,等類眾多,應何官吏?

体が黒く頭が赤ければ武官のことだといい、頭が黒く体が赤ければ文官のことだという。虫がかたどった類の吏に罰を加えれば、虫は滅え息(や)んで二度と現れないという。頭が赤ければ武吏が招いたことだといい、頭が黒ければ文吏が招いたことだという。ときには頭が赤く体が白いもの、頭が黒く体が黄いもの、頭も体も黄いもの、頭も体も青いもの、どちらも白いものがあり、魚や肉につく虫のようなものは、どの官の吏に応ずるのか。ときには白い布を着た豪民や、刑を受けて借りを乞うような狡(こす)い吏があって、その威は官に勝り、取るものは吏より多いが、その虫の形はどんな姿になるのか。虫が滅えるのは、どれも風と雨によってである。虫が滅える時を調べてみると、吏が必ず罰に伏したわけではない。陸の田の中にはときに鼠があり、水の田の中にはときに魚があって、蝦や蟹の類もみな穀物の害となる。あるいはまれに出てしばらく害をなし、あるいはいつもいて災いとなる。同じ類のものは数多いが、どの官の吏に応ずるのか。

魯宣公履畝而稅,應時而有生者,或言若蝗。蝗時至蔽天如雨,集地食物,不擇谷草。察其頭身,象類何吏?變復之家,謂蝗何應?建武三十一年,蝗起太山郡,西南過陳留、河南,遂入夷狄,所集鄉縣以千百數。當時鄉縣之吏未皆履畝,蝗食谷草,連日老極,或蜚徙去,或止枯死。當時鄉縣之吏,未必皆伏罪也。夫蟲食谷,自有止期,猶蠶食桑自有足時也。生出有日,死極有月,期盡變化,不常為蟲。使人君不罪其吏,蟲猶自亡。夫蟲,風氣所生,蒼頡知之,故「凡蟲」為「風」之字,取氣於風,故八日而化,生春夏之物,或食五谷,或食眾草。食五谷,吏受錢穀也,其食他草,受人何物?

魯の宣公が畝(うね)を踏んで税をかけると、時に応じて生じたものがあり、蝗(いなご)のようだったという。蝗はときに至って天を覆うことが雨のようで、地に群がって物を食い、穀物も草もえらばない。その頭と体を調べて、どの吏をかたどったというのか。変復の家は、蝗は何に応ずるというのか。建武三十一年、蝗が太山郡に起こり、西南へ陳留・河南を過ぎ、ついに夷狄に入った。群がった郷や県は千百と数えられた。当時の郷や県の吏がみな畝を踏んだわけではない。蝗は穀物や草を食い、幾日も続いて老い衰え、あるいは飛び移って去り、あるいはとどまって枯れ死んだ。当時の郷や県の吏が、必ずみな罪に伏したわけではない。虫が穀物を食うのには、おのずとやむ期限がある。蠶(かいこ)が桑を食うのに、おのずと足る時があるのと同じである。生まれ出るのに日(ひかず)があり、死に絶えるのに月(つきかず)があって、期限が尽きれば変化して、いつまでも虫のままではいない。君主がその吏を罪しなくても、虫はやはりおのずといなくなる。虫は風の気が生むものであり、倉頡はそれを知っていたので、「凡」と「蟲」で「風」の字を作った。気を風から取るので、八日で変化し、春と夏の物に生まれて、あるものは五穀を食い、あるものはあらゆる草を食う。五穀を食うのが吏が銭や穀物を受け取ることだというなら、そのほかの草を食うのは、人から何の物を受け取ることなのか。

裸蟲三百,人為之長。由此言之,人亦蟲也。人食蟲所食,蟲亦食人所食,俱為蟲而相食物,何為怪之?設蟲有知,亦將非人曰:「女食天之所生,吾亦食之,謂我為變,不自謂為災。」

裸の虫は三百あって、人がその長である。これによって言えば、人もまた虫である。人は虫が食うものを食い、虫も人が食うものを食う。どちらも虫でありながら互いの食う物を食っているのに、どうしてそれを怪しむのか。かりに虫に知があれば、やはり人を非として言うだろう。「おまえは天が生んだものを食い、わたしもそれを食う。それなのにわたしを変異だといって、自分を災いだとは言わない。」

凡含氣之類所甘嗜者,口腹不異。人甘五谷,惡蟲之食;自生天地之間,惡蟲之出。設蟲能言,以此非人,亦無以詰也。夫蟲之在物間也,知者不怪,其食萬物也不謂之災。

気を含んだ類が甘く好むものは、口も腹も違わない。人は五穀を甘く思い、虫がそれを食うのを憎み、おのずと天と地の間に生まれながら、虫が出てくるのを憎む。虫が物を言えて、これによって人を非とすれば、やはり詰(なじ)りかえすことはできない。虫が物の間にいることを、知る者は怪しまず、それが万物を食うことを災いとは言わない。

甘香渥味之物,蟲生常多,故谷之多蟲者粢也。稻時有蟲,麥與豆無蟲。必以有蟲責主者吏,是其粢鄉部吏常伏罪也。神農、后稷藏種之方,煮馬屎以汁漬種者,令禾不蟲。

甘く香ばしく味の濃い物には虫が生まれることがいつも多いので、穀物のうち虫が多いのは粢(きび)である。稲にはときに虫があるが、麦と豆には虫がない。どうしても虫があることで主(つかさど)る吏を責めるというなら、それは粢を作る郷や部の吏がいつも罪に伏すことになる。神農と后稷の種を蔵(しま)う方(ほう)に、馬の屎(くそ)を煮てその汁に種を漬けると、禾(いね)に虫がつかなくなるというのがある。

如或以馬屎漬種,其鄉部吏鮑焦、陳仲子也。是故后稷、神農之術用,則其鄉吏(何)〔可〕免為奸。何則?蟲無從生,上無以察也。

もし馬の屎で種を漬けたら、その郷や部の吏は鮑焦や陳仲子だということになる。だから后稷や神農の術が用いられれば、その郷の吏は不正を免れることができる。なぜか。虫に生まれるもとがなく、上の者に調べるものがなくなるからである。

蟲食他草,平事不怪,食五谷葉,乃謂之災。桂有蠹,桑有蠍,桂中葯而桑給蠶,其用亦急,與谷無異。蠹蠍不為怪,獨謂蟲為災,不通物類之實,暗於災變之情也。谷蟲曰蠱,蠱若蛾矣。粟米熱生蠱。夫蠱食粟米不謂之災,蟲食苗葉歸之於政。如說蟲之家謂粟輕苗重也。

虫がほかの草を食うのは平凡な事として怪しまず、五穀の葉を食うと災いだという。桂には蠹(きくいむし)があり、桑には蠍(きくいむし)がある。桂は薬に用い、桑は蠶に与えるので、その役立ちはやはり急を要し、穀物と変わらない。蠹や蠍は怪しまず、虫だけを災いというのは、物の類の実に通ぜず、災いと変異の実情に暗いのである。穀物の虫を蠱(こ)といい、蠱は蛾のようなものである。粟や米が熱(あつ)くなれば蠱が生まれる。蠱が粟や米を食うのを災いとは言わず、虫が苗や葉を食うのを政治のせいにする。虫を説く家の言うとおりなら、粟は軽く苗は重いことになる。

蟲之種類,眾多非一。魚肉腐臭有蟲,醯醬不閉有蟲,飯溫濕有蟲,書卷不舒有蟲,衣襞不懸有蟲,蝸疽螻蝦有蟲。或白或黑,或長或短,大小鴻殺,不相似類,皆風氣所生,并連以死。生不擇日,若生日短促,見而輒滅。變復之家,見其希出,出又食物,則謂之災。災出當有所罪,則依所似類之吏,順而說之。人腹中有三蟲,下地之澤其蟲曰蛭,蛭食人足,三蟲食腸。順說之家,將謂三蟲何似類乎?凡天地之間,陰陽所生,(蛟)〔〕蟯之類,蜫蠕之屬,含氣而生,開口而食。食有甘不,同心等欲,強大食細弱,知慧反頓愚。他物小大連相嚙噬,不謂之災,獨謂蟲食谷物為應政事,失道理之實,不達物氣之性也。

虫の種類は数多く、ひとつではない。魚や肉が腐って臭えば虫があり、酢や醬を閉じておかなければ虫があり、飯が温かく湿れば虫があり、書巻を広げなければ虫があり、衣をたたんで掛けておかなければ虫があり、蝸(かたつむり)や疽(できもの)や螻(けら)や蝦(ひきがえる)にも虫がある。あるものは白く、あるものは黒く、あるものは長く、あるものは短く、大きさや肥え痩せもさまざまで、互いに似た類ではないが、どれも風の気が生み、連れだって死ぬ。生まれるのに日をえらばず、生まれても日数が短く切なくて、現れてはすぐに滅える。変復の家は、それがまれに出て、出てまた物を食うのを見て、災いだという。災いが出れば罪すべきところがあるはずだとして、似た類の吏に当てて、都合よく説く。人の腹の中には三つの虫があり、低い土地の沢にいる虫は蛭(ひる)という。蛭は人の足を食い、三つの虫は腸を食う。都合よく説く家は、三つの虫を何に似た類だというのか。天と地の間に、陰陽が生ずるもの、蛔(かいちゅう)や蟯(ぎょうちゅう)の類、蜫(こんちゅう)や蠕(うごめくもの)の属は、気を含んで生まれ、口を開いて食う。食うものに甘いものとそうでないものがあり、心が同じで欲も等しく、強く大きいものが細く弱いものを食い、知恵あるものが鈍く愚かなものをくつがえす。ほかの物が大小につれて互いに噛みあうのを災いとは言わず、虫が穀物を食うことだけを政事に応ずるというのは、道理の実を失い、物と気の性に達していないのである。

然夫蟲之生也,必依溫濕。溫濕之氣,常在春夏。秋冬之氣,寒而干燥,蟲未曾生。若以蟲生罪鄉部吏,是則鄉部吏貪於春夏,廉於秋冬。雖盜蹠之吏以秋冬署,蒙伯夷之舉矣。夫春夏非一,而蟲時生者,溫濕甚也,甚則陰陽不和。陰陽不和,政也,徒當歸於政治,而指謂部吏為奸,失事實矣。何知蟲以溫濕生也?以蠱蟲知之。谷干燥者,蟲不生;溫濕饐餲,蟲生不禁。藏宿麥之種,烈日干暴,投於燥器,則蟲不生。如不干暴,閘喋之蟲,生如雲煙。以蠱閘喋,准況眾蟲,溫濕所生明矣。

虫が生まれるには、必ず温かさと湿りによる。温かく湿った気はいつも春と夏にある。秋と冬の気は寒く乾いていて、虫はこれまで生まれたことがない。虫が生まれたことで郷や部の吏を罪するというなら、それは郷や部の吏が春夏にはむさぼり、秋冬には清廉だということになる。盗蹠のような吏でも、秋冬に任ぜられれば、伯夷の推挙を受けることになろう。春と夏は一度だけではないのに、虫がときに生まれるのは、温かさと湿りが甚だしいからで、甚だしければ陰陽が和さない。陰陽が和さないのは政治である。ただ政治に帰すべきであって、部の吏を指して不正だというのは、事の実を失っている。虫が温かさと湿りによって生まれると、どうして分かるのか。蠱の虫によって分かる。穀物が乾いていれば虫は生まれず、温かく湿って饐(す)え饐えれば、虫が生まれて止められない。古い麦の種を蔵うとき、強い日ざしにさらして乾かし、乾いた器に入れておけば虫は生まれない。乾かさなければ、噛みつく虫が雲や煙のように生まれる。蠱や噛みつく虫によってあらゆる虫をおしはかれば、温かさと湿りが生むものであることは明らかである。

《詩》云:「營營青蠅,止於藩。愷悌君子,無信讒言。」

『詩』に「ぶんぶん飛ぶ青蠅(あおばえ)が、垣根に止まる。和(なご)やかな君子よ、讒(そしり)の言を信じるな」とある。

讒言傷善,青蠅污白,同一禍敗,《詩》以為興。昌邑王夢西階下有積蠅矢,明旦召問郎中龔遂,遂對曰:「蠅者,讒人之象也。夫矢積於階下,王將用讒臣之言也。」

讒の言は善い人を傷つけ、青蠅は白いものを汚す。同じ一つの禍(わざわい)と敗(やぶれ)であるから、『詩』はそれを興(おこし)とした。昌邑王は西の階の下に蠅の屎が積もっている夢を見て、翌朝、郎中の龔遂を召してたずねた。遂は答えた。「蠅は讒する人の象です。屎が階の下に積もるのは、王がまさに讒する臣の言を用いようとしておられるのです。」

由此言之,蠅之為蟲,應人君用讒。何故不謂蠅為災乎?如蠅可以為災,夫蠅歲生世間,人君常用讒乎?

これによって言えば、蠅という虫は、君主が讒を用いることに応ずるのである。それならどうして蠅を災いと言わないのか。もし蠅が災いとなりうるなら、蠅は毎年世間に生まれるのだから、君主はいつも讒を用いているというのか。

案蟲害人者莫如蚊虻,蚊虻歲生。如以蚊虻應災,世間常有害人之吏乎?必以食物乃為災,人則物之最貴者也,蚊虻食人,尤當為災。必以暴生害物乃為災,夫歲生而食人,與時出而害物,災孰為甚?人之病疥亦希非常,疥蟲何故不為災?且天將雨,蟻出蚋蜚,為與氣相應也。或時諸蟲之生,自與時氣相應,如何輒歸罪於部吏乎?天道自然,吉凶偶會,非常之蟲適生,貪吏遭署。人察貪吏之操,又見災蟲之生,則謂部吏之所為致也。

思うに、虫で人を害するものは蚊や虻にかなうものがなく、蚊や虻は毎年生まれる。蚊や虻で災いに応ずるというなら、世間にはいつも人を害する吏がいるというのか。どうしても物を食ってこそ災いだというなら、人は物のうちで最も貴いものであり、蚊や虻が人を食うのは、いっそう災いとすべきである。どうしても急に生まれて物を害してこそ災いだというなら、毎年生まれて人を食うことと、ときに出て物を害することと、災いはどちらが甚だしいのか。人の病の疥(かいせん)もまたまれで平凡ではないが、疥の虫はどうして災いとされないのか。また天がまさに雨を降らせようとすると、蟻が出て蚋が飛ぶ。気と互いに応じているからである。あるいはあらゆる虫の生まれることも、おのずと時の気と互いに応じているのに、どうしてすぐに部の吏に罪を帰するのか。天の道はおのずとそうであり、吉凶はたまたま出あうのであって、ふつうでない虫がちょうど生まれ、むさぼる吏がちょうど任ぜられたのである。人がむさぼる吏の身の持ちようを見、また災いの虫の生まれるのを見て、部の吏のしわざが招いたのだと言うのである。