いにしえの文 › 論衡(虚と実を秤にかける書)

恢國篇

論衡(虚と実を秤にかける書) 論衡 · 王充 · 80年頃 · 段落 22 · 漢字 2,498字 · 朗読 10.0分

論衡(虚と実を秤にかける書) 後漢の人・王充が自ら明かしたこの書の意は四字である — 「疾虚妄」、虚しく妄りなものを憎む。天が人の事に応えて災いを下すとか、死ねば鬼神になって仇を返すとか、日を選ばなければ障りがあるとかいう、その時代の言い分を一つ一つ捕らえて論じる。 論じる肌合いが人とは違う。年長者の言葉だからといってそのままにしない — 孔子に問い(問孔)、孟子を刺し(刺孟)、韓非を否とする(非韓)。天が咎めて災いを下すという言い分には、それならば天はなぜ君主一人のために国中に旱を下すのかと問い返す。 「虚」の字が付いた九篇(書虚・変虚・異虚・感虚・福虚・禍虚・龍虚・雷虚・道虚)が一列に並び、古い書に記された不思議な話を順に捕らえる。「増」の字が付いた三篇(語増・儒増・芸増)は、言葉がどのように膨らんでいくのかを扱う。 吉験篇には、夫余の東明が弓をよく射たので王が殺そうとし、南へ逃れて掩淲水に至ったという話がある。今に残る東明の記録のうち最も早い形である。

顏淵喟然嘆曰:「仰之彌高,鑽之彌堅。」

顔淵は喟(ああ)と嘆じて言った。「仰げば仰ぐほど高く、鑽(き)れば鑽るほど堅い。」

此言顏淵學於孔子,積累歲月,見道彌深也。《宣漢》之篇,高漢於周,擬漢過周,論者未極也。恢而極之,彌見漢奇。夫經熟講者,要妙乃見;國極論者,恢奇彌出。恢論漢國在百代之上,審矣。何以驗之?黃帝有涿鹿之戰,堯有丹水之師,舜時有苗不服,夏啟有扈叛逆,高宗伐鬼方三年克之。周成王,管、蔡悖亂,周公東征。前代皆然,漢不聞此。高祖之時,陳反,彭越叛,治始安也。孝景之時,吳、楚興兵,怨晃錯也。匈奴時擾,正朔不及,無荒之地,王功不加兵,今皆內附,貢獻牛馬。此則漢之威盛莫敢犯也。

これは顔淵が孔子に学び、歳月を積み重ねて、道を見ることがいよいよ深くなったことを言うのである。『宣漢』の篇は漢を周より高いとし、漢が周に勝ると見積もったが、論ずるにまだ尽くしていない。広げて尽くせば、いよいよ漢の奇(すぐ)れたさまが見えてくる。経は熟(よ)く講ずれば要と妙がはじめて見え、国は極めて論ずれば広く奇れたさまがいよいよ出てくる。広く論ずれば、漢の国が百代の上にあることは明らかである。何によってそれを確かめるか。黄帝には涿鹿の戦いがあり、堯には丹水の師(いくさ)があり、舜の時には有苗が服さず、夏の啓には有扈が叛き逆らい、高宗は鬼方を伐って三年で克った。周の成王のとき、管と蔡が背き乱れ、周公が東を征した。前の代はどれもそうであったが、漢ではこういうことは聞かない。高祖の時に陳豨が反し彭越が叛いたのは、治めがまだ安らぎ始めたばかりだったからである。孝景の時に呉と楚が兵を興したのは、晁錯を怨んだからである。匈奴がときに騒がせたが、正朔の及ばない荒れた地であり、王の功は兵を加えなかったのに、いまはみな内に属して牛や馬を貢ぎ献ずる。これはつまり漢の威が盛んで、あえて犯す者がないということである。

紂為至惡,天下叛之。武王舉兵,皆願就戰,八百諸侯,不期俱至。項羽惡微,號而用兵,與高祖俱起,威力輕重,未有所定,則項羽力勁。折鐵難於摧木,高祖誅項羽,折鐵;武王伐紂,摧木:然則漢力勝周多矣。凡克敵一則易,二則難。湯、武伐桀、紂,一敵也;高祖誅秦殺項,兼勝二家,力倍湯、武。武王為殷西伯,臣事於紂,以臣伐(周)〔君〕,夷、齊恥之,扣馬而諫,武王不聽,不食周粟,餓死首陽。高祖不為秦臣,光武不仕王莽,誅惡伐無道,無伯夷之譏,可謂順於周矣。

紂は至って悪であったので、天下が叛いた。武王が兵を挙げると、みな戦いに就くことを願い、八百の諸侯が約束もせずそろって至った。項羽は悪が微(すく)なく、呼びかけて兵を用い、高祖とともに起こって、威と力の軽重はまだ定まっていなかったのだから、項羽の力は強かった。鉄を折るのは木を砕くより難しい。高祖が項羽を誅したのは鉄を折ることであり、武王が紂を伐ったのは木を砕くことである。とすれば、漢の力が周に勝ることは大きい。敵に克つのに、一つなら易しく、二つなら難しい。湯や武が桀や紂を伐ったのは敵が一つである。高祖が秦を誅し項を殺したのは二つの家にともに勝ったのであり、力は湯や武の倍である。武王は殷の西伯となり、臣として紂に事えていながら、臣の身で君を伐ったので、伯夷と叔齊はそれを恥じ、馬を扣(ひ)いて諫めたが、武王は聴かなかった。二人は周の粟を食べず、首陽で餓え死んだ。高祖は秦の臣とならず、光武は王莽に仕えず、悪を誅し道のないものを伐ったので、伯夷の譏りがない。周より順(すじみち)にかなっているといえる。

丘由易以起高,淵易以為深。起於微賤,無所因階者難;襲爵乘位,尊祖統業者易。堯以唐侯入嗣帝位,舜以司徒因堯授禪,禹以司空緣功代舜,湯由七十里,文王百里〔為西伯〕,武王(為西伯)襲文王位(三郊)。五代之起,皆有因緣,力易為也。高祖從亭長提三尺劍取天下,光武由白水奮威武,〔帝〕海內,無尺土所因,一位所乘,直奉天命推自然。此則起高於淵,為深於丘山也。比方五代,孰者為優?

丘は高くしやすいところから高さを起こし、淵は深くしやすいところから深さとなる。微(いや)しく賤しいところから起こって、拠るべき階(きざはし)のない者は難しく、爵を襲ぎ位に乗り、祖を尊んで業を継ぐ者は易しい。堯は唐侯として帝位を嗣ぎ、舜は司徒として堯の授ける禅(ゆずり)を受け、禹は司空として功によって舜に代わり、湯は七十里から起こり、文王は百里で西伯となり、武王は文王の位を襲いだ。五つの代の起こりには、どれも因(たよ)るべき縁があり、力を用いるのが易しかった。高祖は亭長から三尺の剣を提げて天下を取り、光武は白水から威と武を奮って海内の帝となった。一尺の土も拠るものがなく、一つの位も乗るものがなく、ただ天の命を奉じておのずとそうなることを推したのである。これはつまり淵から高さを起こし、丘や山から深さとなったことである。五つの代と比べて、どちらが優れているのか。

傳書或稱武王伐紂,太公陰謀食小兒以丹,令身純赤,長大教言殷亡。

伝える書には、武王が紂を伐ったとき、太公が陰(ひそ)かに謀って小児に丹を食わせ、身を真っ赤にして、大きくなったら殷が亡ぶと言わせるよう教えたと称えるものがある。

殷民見兒身赤,以為天神,及言殷亡,皆謂商滅。兵至牧野,晨舉脂燭,奸謀惑民,權掩不備,周之所諱也,世謂之虛。漢取天下,無此虛言。《武成》之篇言,周伐紂,血流浮杵。以《武成》言之,食兒以丹,晨舉脂燭,殆且然矣。漢伐亡新,光武將五千人,王莽遣二公將(三)〔百〕萬人戰於昆陽,雷雨晦冥,前後不相見。漢兵出昆陽城擊二公軍,一而當十,二公兵散。天下以雷雨助漢威敵,孰與舉脂燭以人事譎取殷哉!

殷の民は児の身が赤いのを見て天の神だと思い、殷が亡ぶと言うのを聞いて、みな商が滅ぶと言った。兵が牧野に至って、明けがたに脂の燭(あかり)を挙げた。奸(よこしま)な謀で民を惑わし、権(たばかり)で備えのないところを掩(おそ)ったのだから、周の憚るところであり、世はそれを虚しいことという。漢が天下を取るのに、こういう虚しい言はない。『武成』の篇には、周が紂を伐ち、血が流れて杵(きね)が浮いたとある。『武成』によって言えば、児に丹を食わせ明けがたに脂の燭を挙げたことも、おそらくやはりあったのだろう。漢が亡新を伐ったとき、光武は五千人を率い、王莽は二公をつかわして百万人を率いさせて昆陽で戦ったが、雷雨で暗くなり、前も後も互いに見えなかった。漢の兵は昆陽城を出て二公の軍を撃ち、一で十に当たって、二公の兵は散った。天が雷雨で漢を助けて敵を威したことと、脂の燭を挙げて人の事で詭(いつわ)って殷を取ったことと、どちらが勝るのか。

或云武王伐紂,紂赴火死,武王就斬以鉞,懸其首於大白之旌。

ある者は、武王が紂を伐つと、紂は火に赴いて死んだが、武王は近づいて鉞で斬り、その首を大白の旌(はた)に懸けたという。

齊宣王怜畔鐘之牛,睹其色之觳觫也。楚庄王赦鄭伯之罪,見其肉袒而形暴也。君子惡〔惡〕,不惡其身。紂尸赴於火中,所見淒愴,非徒色之觳觫,袒之暴形也。就斬以鉞,懸乎其首,何其忍哉!高祖入咸陽,閻樂誅二世,項羽殺子嬰,高祖雍容入秦,不戮二尸。光武入長安,劉聖公已誅王莽,乘兵即害,不刃王莽之死。夫斬赴火之首,與貰被刃者之身,德虐孰大也?豈以里之恨哉!以人君拘人臣,其逆孰與秦奪周國,莽鴆平帝也?鄒伯奇論桀、紂之惡不若亡秦,亡秦不若王莽。然則紂惡微而周誅之痛,秦、莽罪重而漢伐之輕,寬狹誰也?

斉の宣王が鐘に血を塗る牛を憐れんだのは、その色が觳觫(こくそく)と震えるのを見たからである。楚の荘王が鄭伯の罪を赦したのは、その肉を袒(あらわ)にして形を暴(さら)しているのを見たからである。君子は悪を憎むが、その身を憎まない。紂の屍は火の中に赴いたのだから、見たところは凄(すさ)まじく愴(いたま)しく、ただ色が震え、袒にして形を暴しているというだけではなかった。それを近づいて鉞で斬り、その首を懸けたとは、なんと忍(むご)いことか。高祖が咸陽に入ったとき、閻楽が二世を誅し、項羽が子嬰を殺していたが、高祖はゆったりと秦に入り、二つの屍を戮(はずかし)めなかった。光武が長安に入ったとき、劉聖公がすでに王莽を誅していて、兵に乗じて害することもできたが、王莽の死者に刃をあてなかった。火に赴いた者の首を斬ることと、刃を受けた者の身を貰(ゆる)すことと、徳と虐のどちらが大きいのか。まさか羑里の恨みのためだというのか。君主が人臣を拘(とら)えたことと、秦が周の国を奪い、莽が平帝を鴆(どく)したこととでは、その逆らいはどちらが甚だしいのか。鄒伯奇は、桀や紂の悪は亡んだ秦に及ばず、亡んだ秦は王莽に及ばないと論じた。とすれば、紂の悪は微(すく)ないのに周の誅は痛く、秦や莽の罪は重いのに漢の伐は軽い。寛(ゆる)やかなのと狭いのとは、どちらだろうか。

高祖,母妊之時,蛟龍在上,夢與神遇;好酒(貫)〔貰〕飲,酒舍負仇,及醉留臥,其上常有神怪;夜行斬蛇,蛇嫗悲哭;與呂后俱之田廬,時自隱匿,光氣暢見,呂后輒知;始皇望見東南有天子氣,及起,五星聚於東井;楚望漢軍,雲氣五色。光武且生,鳳皇集於城,嘉禾滋於屋,皇妣之身,夜半無燭,空中光明。初者,蘇伯阿望舂陵氣郁郁蔥蔥;光武起過舊廬,見氣憧憧上屬於天。五帝、三王,初生始起,不聞此怪。堯母感於赤龍,及起不聞奇佑;禹母吞薏苡,將生得玄圭;契母咽燕子;湯起白狼銜鉤;后稷母履大人之跡;文王起得赤雀;武王得魚、烏:皆不及漢太平之瑞。黃帝、堯、舜鳳皇一至,凡諸眾瑞重至者希。漢文帝黃龍、玉棒。武帝黃龍、麒麟、連木。宣帝鳳皇五至,麒麟、神雀、甘露、醴泉、黃龍、神光。平帝白雉、黑雉。孝明麒麟、神雀、甘露、醴泉、白雉、黑雉、芝草、連木、嘉禾,與宣帝同奇,有神鼎黃金之怪。一代之瑞,累仍不絕。此則漢德丰茂,故瑞佑多也。孝明天崩,今上嗣位,元二之間,嘉德布流。三年,零陵生芝草五本。

高祖は、母が身ごもったとき蛟龍が上にあり、夢に神と出あった。酒を好んで貰(か)りで飲み、酒屋に借りを負ったが、酔って留まり臥すときには、その上にいつも神(くしび)な怪(ふしぎ)があった。夜歩いて蛇を斬ると、蛇の媼(おうな)が悲しんで哭いた。呂后とともに田の廬(いおり)に行くとき、ときに自分で隠れても、光の気が明らかに見えて、呂后はすぐに分かった。始皇は東南に天子の気があるのを望み見、高祖が起こるに及んで、五つの星が東井に集まった。楚が漢の軍を望むと、雲の気が五色であった。光武がまさに生まれようとするとき、鳳皇が城に集まり、嘉禾が屋に茂り、皇妣の身のあたりは、夜半に燭がなくても空中が明るかった。はじめ、蘇伯阿は舂陵の気が郁郁(いくいく)蔥蔥(そうそう)としているのを望み見た。光武が起こって旧い廬を過ぎたとき、気が憧憧(しょうしょう)と上って天に続いているのを見た。五帝や三王は、生まれ起こったとき、こういう怪を聞かない。堯の母は赤い龍に感じたが、起こるに及んで奇(ふしぎ)な佑を聞かず、禹の母は薏苡を呑み、生まれようとして玄い圭を得、契の母は燕の子(たまご)を咽(の)み、湯が起こったときは白い狼が鉤をくわえ、后稷の母は大人の跡を履み、文王が起こったときは赤い雀を得、武王は魚と烏を得た。どれも漢の太平の瑞に及ばない。黄帝・堯・舜では鳳皇が一度至っただけで、あらゆる多くの瑞が重ねて至ったことはまれである。漢の文帝には黄龍と玉の棒。武帝には黄龍・麒麟・連なった木。宣帝には鳳皇が五たび至り、麒麟・神雀・甘露・醴泉・黄龍・神な光。平帝には白い雉と黒い雉。孝明には麒麟・神雀・甘露・醴泉・白い雉・黒い雉・芝草・連なった木・嘉禾があって宣帝と奇れたさまを同じくし、神な鼎と黄金の怪があった。一つの代の瑞が、重なり続いて絶えない。これはつまり漢の徳が豊かに茂っているので、瑞や佑が多いのである。孝明が天に崩じ、いまの上が位を嗣いで、元年と二年の間に、嘉(よ)い徳が布(ゆき)わたり流れた。三年、零陵に芝草が五本生えた。

四年,甘露降五縣。五年,芝復生六(年)〔本〕,黃龍見,大小凡八。前世龍見不雙,芝生無二,甘露一降。而今八龍并出,十一芝累生,甘露流五縣。德惠盛熾,故瑞繁夥也。自古帝王,孰能致斯?

四年、甘露が五つの県に降った。五年、芝がまた六本生え、黄龍が現れ、大小あわせて八つであった。前の世では龍が現れるのは双(ふた)つでなく、芝が生えるのも二つはなく、甘露は一度降っただけである。それがいま八つの龍がそろって出、十一の芝が重なって生え、甘露が五つの県に流れた。徳と恵みが盛んに熾(さか)んであるから、瑞が繁(しげ)く夥(おお)いのである。古からの帝王で、誰がこれを招けただろうか。

儒者論曰「王者推行道德,受命於天。」

儒者は論じて言う。「王者は道と徳を推し行って、天から命を受ける。」

《論衡》《初(秉)〔稟〕》以為王者生稟天命,性命難審,且兩論之。酒食之賜,一則為薄,再則為厚。如儒者之言,五代皆一受命,唯漢獨再,此則天命於漢厚也。如審《論衡》之言,生稟自然,此亦漢家所稟厚也。絕而復屬,死而復生。世有死而復生之人,人必謂之神。漢統絕而復屬,江武存亡,可謂優矣。

『論衡』の『初稟』は、王者は生まれながらに天の命を受けると考える。性と命は見きわめがたいので、ひとまず両方を論じておく。酒や食を賜(たま)わるのに、一度なら薄く、二度なら厚い。儒者の言のとおりなら、五つの代はどれも一度命を受け、ただ漢だけが二度であり、これはつまり天が漢に命ずるのが厚いのである。『論衡』の言を見きわめれば、生まれながらにおのずとそうであるものを受けるのであり、これもまた漢の家が受けたものが厚いのである。絶えてまた続き、死んでまた生きる。世に死んでまた生きた人があれば、人は必ずそれを神(くしび)だという。漢の統(すじ)が絶えてまた続き、光武によって存亡が決したのだから、優れているといえる。

武王伐紂,庸、蜀之夷佐戰牧野。

武王が紂を伐ったとき、庸と蜀の夷が牧野で戦いを助けた。

成王之時,越常獻雉,倭人貢暢。幽、歷衰微,戎狄攻周,平王東走,以避其難。至漢,四夷朝貢。孝平元始元年,越常重譯獻白雉一、黑雉二。夫以成王之賢,輔以周公,越常獻一,平帝得三。後至四年,金城塞外羌(良橋橋種)〔豪〕良願等〔種〕獻其魚鹽之地,願內屬漢,遂得西王母石室,因為西海郡。周時戎狄攻王,至漢內屬,獻其寶地。西王母國在絕極之外,而漢屬之。德孰大?壤孰廣?

成王の時には越常が雉を献じ、倭人が暢(かおりぐさ)を貢いだ。幽王・厲王が衰え弱って、戎狄が周を攻め、平王は東に走ってその難を避けた。漢に至って、四夷が朝貢する。孝平の元始元年、越常が重ねて訳(つうじ)をたてて白い雉一羽、黒い雉二羽を献じた。成王の賢さに周公が輔けてさえ、越常が献じたのは一羽であり、平帝は三羽を得た。のち四年に至って、金城の塞の外の羌の豪(かしら)の良願らの種族が、その魚と塩の地を献じ、内に漢に属することを願った。そこで西王母の石室を得て、それによって西海郡とした。周の時には戎狄が王を攻めたのに、漢に至って内に属し、その宝の地を献じた。西王母の国は果ての果ての外にあるのに、漢はそれを属させた。徳はどちらが大きいのか。土はどちらが広いのか。

方今哀牢、鄯善、(諾)〔羌〕降附歸德,匈奴時擾,遣將攘討,獲虜生口千萬數。夏禹裸入吳國,太伯采葯,斷髪文身。

いま哀牢・鄯善・羌が降り附いて徳に帰し、匈奴がときに騒がせれば、将をつかわして攘(はら)い討ち、獲た虜の生け捕りは千万と数えられる。夏の禹は裸で呉の国に入り、太伯は薬を採り、髪を断ち身に文(いれずみ)をした。

唐、虞國界,吳為荒服,越在九夷,衣關頭,今皆夏服、褒衣、履舄。巴、蜀、越、郁林、日南、遼東、樂浪,周時被髪椎髻,今戴皮弁;周時重譯,今吟《詩》、《書》。

唐や虞の国の境では、呉は荒服であり、越は九夷にあって、衣は頭を通すだけのものであったが、いまはみな中国の服、ゆるやかな衣、履(くつ)や舄(くつ)を身につける。巴・蜀・越・郁林・日南・遼東・楽浪は、周の時は髪を被(みだ)し椎(つち)のように髻(もとどり)を結んでいたが、いまは皮の弁(かんむり)をかぶる。周の時には重ねて訳をたてたが、いまは『詩』や『書』を吟ずる。

《春秋》之義,君親無將,將而必誅。廣陵王荊迷於巫,楚王英惑於(狹)〔俠〕客,事情列見。孝明三宥,二王吞葯,周誅管、蔡,違斯遠矣。楚外家許氏與楚王謀議,孝明曰:「許(民)〔氏〕有屬於王,欲王尊貴,人情也。聖心原之,不繩於法。隱強侯傳懸書市里,誹謗聖政。今上海(思)〔恩〕,(犯)〔弗〕奪爵土。

『春秋』の義では、君や親に対してこれから手を出そうとすることはあってはならず、しようとすれば必ず誅する。広陵王荊は巫に惑い、楚王英は俠客に惑って、事の情が並び現れた。孝明は三たび宥(ゆる)し、二人の王は薬を呑んだ。周が管や蔡を誅したこととは、これほど遠く違っている。楚の外家の許氏が楚王と謀議したとき、孝明は言った。「許氏は王に連なるところがあり、王が尊く貴くなることを願うのは人の情である。」聖なる心はそれを原(ゆる)し、法で縄(しば)らなかった。隠強侯の傅が市や里に書を懸けて聖なる政治を誹謗したが、いまの上は海のような恩で、爵も土も奪わなかった。

惡其人者憎其胥余。立二王之子,安楚、廣陵,〔隱〕強弟員嗣祀陰氏。二王,帝族也,位為王侯,與管、蔡同。管、蔡滅嗣,二王立後,恩已褒矣。隱強,異姓也,尊重父祖,復存其祀。立武庚之義,繼祿父之恩,方斯羸矣。何則?并為帝王,舉兵相征,貪天下之大,絕成湯之統,非聖君之義,失承天之意也。隱強,臣子也。漢統自在,絕滅陰氏,無損於義,而猶存之,惠滂沛也。故夫雨露之施,內則注於骨肉,外則布於他施。唐之晏晏,舜之,豈能逾此!

その人を憎む者はその垣の隅までも憎むという。二人の王の子を立てて楚と広陵を安んじ、隠強の弟の員に陰氏の祀りを嗣がせた。二人の王は帝の族であり、位は王侯で、管や蔡と同じである。管や蔡は嗣ぎを滅ぼされ、二人の王は後(あと)を立てられたのだから、恩はすでに広い。隠強は異なる姓である。父や祖を尊び重んじて、またその祀りを存(のこ)した。武庚を立てた義や禄父を継がせた恩も、これに比べれば痩せたものである。なぜか。ともに帝王であって、兵を挙げて互いに征(う)ち、天下の大きさを貪って成湯の統を絶ったのは、聖なる君の義ではなく、天を承ける意を失っている。隠強は臣子である。漢の統はおのずとあるのだから、陰氏を絶ち滅ぼしても義に損はないのに、それでもこれを存したのだから、恵みが溢れ沛(あふ)れている。雨や露の施しは、内では骨肉に注ぎ、外では他への施しに布(ゆき)わたる。唐の晏晏(あんあん)たるさまも、舜の雍雍(ようよう)たるさまも、どうしてこれを越えられようか。

歡兜之行,靖言庸回,共工私之,稱荐於堯。

歓兜の行いは、言うことは靖(しず)かだが用いることは回(よこしま)であったのに、共工がそれを私(ひそ)かにして、堯に推し荐(すす)めた。

三苗巧佞之人,或言有罪之國。鯀不能治水,知力極盡,罪皆在身,不加於上,唐、虞放流,死於不毛,怨惡謀上,懷挾叛逆。考事失實,誤國殺將,罪惡重於四子。孝明加恩,則論徙邊。今上寬惠,還歸州里。開辟以來,因莫斯大。晏子曰:「鉤星在房、心之間,地其動乎!」

三苗は巧みに佞(へつら)う人であり、あるいは罪のある国だという。鯀は水を治められず、知も力も尽き果てたが、罪はどれも身にあって上に加えるものではなかったのに、唐や虞は放ち流して、毛も生えない地で死なせた。怨み憎んで上をはかり、叛き逆らう心を懐き挟み、事を調べるのに実を失って国を誤らせ将を殺した。その罪と悪は四人の者より重い。孝明は恩を加えて、議して辺に徙(うつ)すにとどめた。いまの上は寛(ゆる)やかで恵み深く、州や里に還り帰らせた。天地が開けて以来、恩がこれほど大きいことはない。晏子は言った。「鉤星が房と心の間にある。地がおそらく動くだろう。」

夫地動天時,非政所致。皇帝振畏,猶歸於治,廣征賢良,訪求過闕。高宗之側身,周成之開匱,(勵)〔〕能逮此。

地が動くのは天の時であって、政治が招くものではない。皇帝は振(おそ)れ畏れて、それでも治めのことに帰し、広く賢良を召し、過ちや欠けを訪ね求めた。高宗が身を慎んだことや、周の成王が匱を開いたことも、どうしてこれに及ぶことができようか。

谷登歲平,庸主因緣以建德政,顛沛危殆,聖哲優者,乃立功化。是故微病恆醫皆巧,篤劇扁鵲乃良。建初孟年,無妄氣至,歲之疾疫也。比旱不雨,牛死民流,可謂劇矣。皇帝敦德,俊在官,第五司空股肱國維,轉谷振贍,民不乏餓,天下慕德,雖危不不亂。民飢於谷,飽於道德,身流在道,心回鄉內。以故道路無盜賊之跡,深幽迥絕無劫奪之奸,以危為宁,以困為通,五帝、三王,孰能堪斯哉!

穀物が実り年が平らかであれば、凡庸な主でもそれに乗じて徳の政治を立てられるが、顛(たお)れ沛(つまず)いて危うく殆(あやぶ)むときは、聖く哲(さと)いことの優れた者でなければ、功も化も立てられない。だから軽い病ならふつうの医者でもみな巧みだが、重く劇(はげ)しい病なら扁鵲でなければよいとはいえない。建初の初めの年、無妄の気が至り、その年は疫(えやみ)であった。続けて旱で雨が降らず、牛が死に民が流れた。劇しいといえる。皇帝は徳を敦(あつ)くし、俊(すぐ)れた者が官にあり、第五司空が国の股肱(てあし)となり維(つな)となって、穀物を転じ振(すく)い贍(たす)けたので、民は飢えに乏しまず、天下は徳を慕い、危うくても乱れなかった。民は穀物に飢えても道と徳に飽(あきた)り、身は道に流れても心は郷の内に回(かえ)った。だから道路に盗賊の跡はなく、深く奥まって遠く絶えたところにも劫(おびや)かし奪う奸はなく、危うさを安らぎとし、困(くる)しみを通りとした。五帝や三王のうち、誰がこれに堪えられただろうか。