須頌篇
古之帝王建鴻德者,須鴻筆之臣。褒頌紀載,鴻德乃彰,萬世乃聞。
昔の帝王で大きな徳を立てた者は、大きな筆の臣を必要とした。褒め頌(ほ)めて紀し載せてはじめて大きな徳が明らかになり、万世に聞かれるのである。
問說《書》者:「『欽明文思』以下,誰所言也?」曰:「篇家也。」「篇家誰也?」「孔子也。」然則孔子鴻筆之人也,自衛反魯,然後樂正,《雅》、《頌》各得其所也。
『書』を説く者に問う。「『欽明文思』以下は、誰が言ったものか。」答える。「篇を作った家である。」「篇を作った家とは誰か。」「孔子である。」とすれば孔子は大きな筆の人であり、衛から魯に返ってからはじめて楽が正され、『雅』と『頌』がそれぞれその所を得たのである。
鴻筆之奮,蓋斯時也。或說《尚書》曰:「尚者,上也;上所為,下所書也。」「下者誰也?」曰:「臣子也。」然則臣子書上所為矣。
大きな筆が奮われたのは、おそらくこの時である。ある者は『尚書』を説いて言う。「尚とは上である。上が為したことを下が書いたのである。」「下とは誰か。」答える。「臣子である。」とすれば臣子が上の為したことを書いたのである。
問儒者:「禮言制,樂言作,何也?」曰:「禮者,上所制,故曰制;樂者,下所作,故曰作。天下太平,頌聲作。」
儒者に問う。「礼は制(さだ)めるといい、楽は作(つく)るというのは、なぜか。」答える。「礼は上が制めるものだから制めるといい、楽は下が作るものだから作るという。天下が太平になれば、頌の声が作られる。」
方今天下太平矣,頌詩樂聲,可以作未?傳者不知也,故曰拘儒。衛孔悝之鼎銘,周臣勸行。孝宣皇帝稱潁川太守黃霸有治狀,賜金百斤,漢臣勉政。夫以人主頌稱臣子,臣子當褒君父,於義較矣。虞氏天下太平,夔歌舜德。宣王惠周,《詩》頌其行。召伯述職,周歌棠樹。
いま天下は太平であるが、頌の詩や楽の声を作ってよいのか、まだなのか。伝える者はそれを知らないので、拘(かた)くるしい儒者というのである。衛の孔悝の鼎の銘は、周の臣が行いを勧めたものである。孝宣皇帝が潁川太守の黄霸に治めた実績があると称えて金百斤を賜ると、漢の臣は政治に励んだ。君主が臣子を頌め称えるのだから、臣子が君父を褒めるべきであることは、義として明らかである。虞氏の天下が太平になると、夔が舜の徳を歌った。宣王が周に恵み深かったので、『詩』がその行いを頌めた。召伯が職を述(つ)くしたので、周が棠(やまなし)の樹を歌った。
是故《周頌》三十一,《殷頌》五,《魯頌》四,凡頌四十篇,詩人所以嘉上也。由此言之,臣子當頌,明矣。
だから『周頌』は三十一、『殷頌』は五、『魯頌』は四、あわせて頌は四十篇であり、詩人が上を嘉(よ)しとしたからである。これによって言えば、臣子が頌むべきであることは明らかである。
儒者謂漢無聖帝,治化未太平。《宣漢》之篇,論漢已有聖帝,治已太平。《恢國》之篇,極論漢德非常,實然乃在百代之上。表德頌功,宣褒主上,詩之頌言,右臣之典也。舍其家而觀他人之室,忽其父而稱異人之翁,未為德也。漢,今天下之家也;先帝、今上民臣之翁也。夫曉主德而頌其美,識國奇而恢其功,孰與疑暗不能也!孔子稱「大哉,堯之為君也!唯天為大,唯堯則之。蕩蕩乎民無能名焉」。或年五十,擊壤於塗,或曰:「大哉,堯之德也!」擊壤者曰:「吾日出而作,日入而息,鑿井而飲,耕田而食,堯何等力?」
儒者は漢に聖なる帝がなく、治めも化もまだ太平でないという。『宣漢』の篇は、漢にすでに聖なる帝があり、治めがすでに太平であることを論じた。『恢国』の篇は、漢の徳がふつうでなく、実際にそうであって百代の上にあることを極めて論じた。徳を表し功を頌め、主上を宣(の)べ褒めるのは、詩の頌の言であり、臣を右(たす)ける典(きまり)である。自分の家をさしおいて他人の室を見、自分の父をおろそかにして別人の翁を称えるのは、徳ではない。漢はいまの天下の家であり、先帝といまの上は民や臣の翁である。主の徳を暁(さと)ってその美しさを頌め、国の奇(すぐ)れたさまを識ってその功を広げることと、疑い暗くてそれができないことと、どちらが勝るのか。孔子は「大きいことだ、堯の君としてのありようは。ただ天が大きいが、ただ堯がそれに則った。蕩々として広く、民はそれを名づけることができない」と称えた。あるとき年五十の者が道ばたで壌を打っていて、ある人が言った。「大きいことだ、堯の徳は。」壌を打つ者は言った。「わたしは日が出れば働き、日が入れば休み、井戸を掘って飲み、田を耕して食べている。堯に何の力があるのか。」
孔子乃言「大哉堯之德」者,乃知堯者也。涉聖世不知聖主,是則盲者不能別青黃也;知聖主不能頌,是則暗者不能言是非也。然則方今盲喑之儒,與唐擊壤之民,同一才矣。夫孔子及唐人言「大哉」者,知堯德,蓋堯盛也。擊壤之民云「堯何等力」,是不知堯德也。
孔子が「大きいことだ、堯の徳は」と言ったのは、堯を知っていたのである。聖なる世を過ごしながら聖なる主を知らないのは、盲(めし)いた者が青と黄を見分けられないのと同じであり、聖なる主を知っていて頌めないのは、喑(おし)の者が是非を言えないのと同じである。とすれば、いまの盲い喑の儒者は、唐の壌を打つ民と同じ一つの才である。孔子や唐の人が「大きいことだ」と言ったのは堯の徳を知っていたのであり、それは堯が盛んだったからである。壌を打つ民が「堯に何の力があるのか」と言ったのは、堯の徳を知らなかったのである。
夜舉燈燭,光曜所及,可得度也。日照天下,遠近廣狹,難得量也。浮於淮、濟,皆知曲折;入東海者,不曉南北。故夫廣大從橫難數,極深揭歷難測。漢德酆廣,日光海外也。知者知之,不知者不知漢盛也。漢家著書,多上及殷、周,諸子并作,皆論他事,無褒頌之言,《論衡》有之。又《詩》頌國名《周頌》,與杜撫、〔班〕固所上《漢頌》,相依類也。
夜に灯や燭を挙げれば、光の及ぶところを度(はか)ることができる。日が天下を照らせば、遠近も広狭も量りがたい。淮や済に浮かべば、誰でも曲がりくねりを知るが、東海に入った者は南北も分からない。広く大きい縦横は数えがたく、極めて深いところは揭(すそ)を上げて渡っても測りがたい。漢の徳は豊かで広く、日の光が海の外にまで届くようである。知る者は知り、知らない者は漢の盛んなことを知らない。漢の家が書を著すとき、たいてい上は殷や周にまで及び、諸子がそろって作ったものは、どれも他の事を論じて、褒め頌める言がないのに、『論衡』にはそれがある。また『詩』の頌は国の名で『周頌』といい、杜撫や班固が上った『漢頌』と、互いに依り合う類である。
宣帝之時,畫圖漢列士,或不在於畫上者,子孫恥之。何則?父祖不賢,故不畫圖也。夫頌言,非徒畫文也。如千世之後,讀經書不見漢美,後世怪之。故夫古之通經之臣,紀主令功,記於竹帛;頌上令德,刻於鼎銘。文人涉世,以此自勉。漢德不及六代,論者不德之故也。
宣帝の時、漢の列(すぐ)れた士を図に描いたが、図の上にいない者は、その子孫が恥じた。なぜか。父や祖が賢くなかったから図に描かれなかったのである。頌の言は、ただの絵の文ではない。千世の後に、経書を読んで漢の美しさを見なければ、後の世はそれを怪しむだろう。だから昔の経に通じた臣は、主の嘉い功を紀して竹や帛に記し、上の嘉い徳を頌めて鼎の銘に刻んだ。文人は世を渡るのに、これをもってみずから励んだ。漢の徳が六つの代に及ばないとされるのは、論ずる者が徳としないからである。
地有丘,故有高平,或以鍤平而夷之,為平地矣。世見五帝、三王為經書,漢事不載,則謂五、三優於漢矣。或以論為鍤,損(三)五、〔三〕,少丰滿漢家之下,豈徒并為平哉!漢將為丘,五、三轉為矣。湖池非一,廣狹同也,樹竿測之,深淺可度。漢與百代俱為主也,實而論之,優劣可見。故不樹長竿,不知深淺之度;無《論衡》之論,不知優劣之實。漢在百代之末,上與百代料德,湖池相與比也。無鴻筆之論,不免庸庸之名。論好稱古而毀今,恐漢將在百代之下,豈徒同哉!
地には丘と壑(たに)があるので高いところと平らなところがあるが、鍤(すき)で平らにして均せば、平らな地となる。世は五帝や三王が経書となり、漢の事が載っていないのを見て、五帝・三王が漢より優れているという。論を鍤として五帝・三王を削り、漢の家の下を少し豊かに満たせば、ただ並んで平らになるだけだろうか。漢がこれから丘となり、五帝・三王がかえって壑となるだろう。湖や池は一つでないが、広さ狭さが同じなら、竿を立てて測れば深さ浅さを度ることができる。漢と百代はどれも主(きみ)であり、実によって論ずれば、優劣を見ることができる。だから長い竿を立てなければ深さ浅さの度は分からず、『論衡』の論がなければ優劣の実は分からない。漢は百代の末にあって、上は百代と徳を料(はか)り、湖と池が互いに比べあうようなものである。大きな筆の論がなければ、凡庸という名を免れない。論は古を称え今を毀(そし)るのを好むから、おそらく漢はこれから百代の下に置かれるだろう。ただ同じになるだけですむだろうか。
謚者,行之跡也。謚之美者,成、宣也;惡者,靈、歷也。成湯遭旱,周宣亦然。然而成湯加「成」,宣王言〔宣〕,無妄之災,不能虧政,臣子累謚,不失實也。由斯以論堯,堯亦美謚也,時亦有洪水,百姓不安,猶言堯者,得實考也。夫一字之謚,尚猶明主,況千言之論,萬文之頌哉!
謚(おくりな)は行いの跡である。謚の美しいものは成や宣であり、悪いものは霊や厲である。成湯は旱に遭い、周の宣王もまたそうであった。しかし成湯には「成」を加え、宣王は「宣」と言った。無妄の災いは政治を欠かせることができないので、臣子が謚を重ねるのに、実を失わなかったのである。これによって堯を論ずれば、堯もまた美しい謚である。その時にもまた洪水があって民は安らかでなかったのに、それでも堯というのは、実の考(しらべ)を得ているのである。一字の謚でさえ明らかな主を明らかにするのに、まして千言の論、万文の頌ではなおさらである。
船車載人,孰與其徒多也?素車朴船,孰與加漆采畫也?
船や車で人を載せるのと、徒(かち)で行くのと、どちらが多く運べるのか。素(しろ)い車や朴(そぼく)な船と、漆を加え彩りを描いたものと、どちらが勝るのか。
然則鴻筆之人,國之船車采畫也。農無(疆)〔強〕夫,谷粟不登;國無強文,德暗不彰。漢德不休,亂在百代之間,強筆之儒不著載也。高祖以來,著書非不講論。漢司馬長卿為《封禪書》,文約不具。司馬子長紀黃帝以至孝武,揚子雲錄宣帝以至哀、平,陳平仲紀光武,班孟堅頌孝明,漢家功德,頗可觀見。今上即命,未有褒載,《論衡》之人,為此畢精,故有《齊世》、《宣漢》、《恢國》、《驗符》。
とすれば、大きな筆の人は国の船や車の彩りの絵である。農に強い夫(おとこ)がなければ穀物や粟は実らず、国に強い文がなければ徳は暗くて明らかにならない。漢の徳が休(よ)いとされず、百代の間に乱れた位置にあるのは、強い筆の儒者が著し載せないからである。高祖以来、書を著すのに講じ論じなかったわけではない。漢の司馬長卿は『封禅書』を作ったが、文が簡略で備わっていない。司馬子長は黄帝から孝武に至るまでを紀し、揚子雲は宣帝から哀帝・平帝に至るまでを録し、陳平仲は光武を紀し、班孟堅は孝明を頌めて、漢の家の功と徳はかなり見るべきものとなった。いまの上が命に即いてから、まだ褒めて載せたものがない。『論衡』の人はこのために精(こころ)を尽くしたので、『斉世』『宣漢』『恢国』『験符』があるのである。
龍無雲雨不能參天。鴻筆之人,國之雲雨也。載國德於傳書之上,宣昭名於萬世之後,厥高非徒參天也。城牆之土,平地之壤也,人加筑蹈之力,樹立臨池。國之功德崇於城牆,文人之筆勁於筑蹈。聖主德盛功立,(莫)〔若〕不褒頌紀載,奚得傳馳流去無疆乎?人有高行,或譽得其實,或欲稱之不能言,或謂不善不肯陳(一)。斷此三者,孰者為賢?五、三之際,於斯為盛。孝明之時,眾瑞并至,百官臣子不為少矣,唯班固之徒稱頌國德,可謂譽得其實矣。頌文譎以奇,彰漢德於百代,使帝名如日月,孰與不能言,言之不美善哉!
龍は雲や雨がなければ天に参(のぼ)れない。大きな筆の人は国の雲や雨である。国の徳を伝える書の上に載せ、明らかな名を万世の後に宣べるのだから、その高さはただ天に参るだけではない。城の牆(かき)の土は平らな地の土であるが、人が筑(つ)き蹈(ふ)む力を加えて、立てて池に臨ませる。国の功と徳は城の牆より崇(たか)く、文人の筆は筑き蹈むことより勁(つよ)い。聖なる主の徳が盛んで功が立っても、褒め頌めて紀し載せなければ、どうして伝わり馳せ流れて疆(かぎり)なく行きわたることができようか。人に高い行いがあるとき、誉めてその実を得ることもあり、称えようとして言えないこともあり、善くないといって述べようとしないこともある。この三つを断ずれば、どれが賢いのか。五帝・三王のころ、ここに盛んであった。孝明の時、多くの瑞がそろって至り、百官や臣子も少なくはなかったが、ただ班固の徒だけが国の徳を称え頌めた。誉めてその実を得たといえる。頌の文が詭(あや)しいほど奇(すぐ)れていて、漢の徳を百代に明らかにし、帝の名を日や月のようにすることと、言えないこと、言っても美しく善くないこととでは、どちらが勝るのか。
秦始皇東南游,升會稽山,李斯刻石,紀頌帝德,至琅琊亦然。秦無道之國,刻石文世,觀讀之者見堯、舜之美。由此言之,須頌明矣。當今非無李斯之才也,無從升會稽歷琅琊之階也。弦歌為妙異之曲,坐者不曰善,弦歌之人必怠不精。何則?妙異難為,觀者不知善也。聖國揚妙異之政,眾臣不頌,將順其美,安得所施哉!今方(板)〔技〕之書在竹帛,無主名所從生出,見者忽然不卸服也。如題曰(甲)〔某〕甲某子之方,若言已驗嘗試,人爭刻寫,以為珍秘。上書於國,(記)奏〔記〕於郡,譽荐士吏,稱術行能,章下記出,士吏賢妙。何則?章表其行,記明其才也。國德溢熾,莫有宣褒,使聖國大漢有庸庸之名,咎在俗儒不實論也。
秦の始皇が東南に遊んで会稽山に升ると、李斯が石に刻んで帝の徳を紀し頌め、琅琊に至ってもそうした。秦は道のない国であるのに、石に刻んで世に文を残したので、それを見て読む者は堯や舜の美しさを見る。これによって言えば、頌を須(ま)つことは明らかである。いま李斯の才がないのではなく、会稽に升り琅琊を歴(めぐ)る階(きざはし)に従うところがないのである。弦と歌で妙に異なった曲を奏でても、坐っている者が善いと言わなければ、弦と歌の人は必ず怠けて精(くわ)しくなくなる。なぜか。妙に異なったことは為しがたいのに、見る者が善さを知らないからである。聖なる国が妙に異なった政治を揚げても、多くの臣が頌めなければ、その美しさを順(う)け承(つ)ぐことが、どこに施しようがあろうか。いま方技の書が竹や帛にあっても、主の名も出てきた由来もなければ、見る者はおろそかにして慎んで服さない。題に某甲某子の方(ほう)とあり、すでに験(ため)し嘗(こころ)みたと言えば、人は争って刻み写し、珍しい秘めごととする。国に書を上り、郡に記を奏して、士や吏を誉め荐め、術や行いや能を称えれば、章が下り記が出て、士や吏は賢く妙とされる。なぜか。章がその行いを表し、記がその才を明らかにするからである。国の徳が溢れ熾んであるのに、宣べ褒める者がなく、聖なる国である大漢に凡庸という名があるのは、咎は俗儒が実によって論じないことにある。
古今聖王不絕,則其符瑞亦宜累屬。符瑞之出,不同於前,或時已有,世無以知,故有《講瑞》。俗儒好長古而短今,言瑞則渥前而薄後。是應實而定之,漢不為少。漢有實事,儒者不稱;古有虛美,誠心然之。信久遠之偽,忽近今之實。斯蓋三增九虛,所以成也;能聖實聖,所以興也。儒者稱聖過實,稽合於漢,漢不能及。非不能及,儒者之說使難及也。〔如〕實(而)論之,漢更難及。谷熟歲平,聖王因緣以立功化,故《治期》之篇,為漢激發。治有期,亂有時。能以亂為治者優,優者有之。建初孟年,無妄氣至,聖世之期也。皇帝執德,救備其災,故《順鼓》、《明雩》,為漢應變。是故災變之至,或在聖世。時旱禍湛,為漢論災。是故《春秋》為漢制法,《論衡》為漢平說。從門應庭,聽堂室之言,什而失九,如升堂窺室,百不失一。《論衡》之人在古荒流之地,其遠非徒門庭也。
古今に聖なる王が絶えないのなら、その符や瑞もまた重なり続くはずである。符や瑞の出かたが前と同じでなく、ときにすでにあっても世に知るすべがないので、『講瑞』があるのである。俗儒は古を長くし今を短くするのを好み、瑞を言えば前を厚くし後を薄くする。『是応』は実によってそれを定めたのであり、漢は少ないわけではない。漢に実の事があっても儒者は称えず、古に虚しい美しさがあっても誠の心でそれをそうだと認める。久しく遠い偽りを信じ、近く今の実をおろそかにする。これがおそらく『三増』『九虚』が成りたった理由であり、『能聖』『実聖』が興った理由である。儒者が聖を称えることが実を越え、それを漢に稽(かんが)え合わせれば、漢は及べない。及べないのではなく、儒者の説が及びがたくしているのである。実によって論ずれば、漢のほうがさらに及びがたい。穀物が熟し年が平らかであれば、聖なる王はそれに因って功と化を立てるので、『治期』の篇は漢のために激しく発したのである。治めに期(めぐり)があり、乱れに時がある。乱れを治めに変えられる者は優れており、優れた者はいるのである。建初の初めの年、無妄の気が至ったのは、聖なる世の期である。皇帝は徳を執ってその災いを救い備えたので、『順鼓』『明雩』が漢のために変異に応じたのである。だから災変が至るのは、ときに聖なる世にある。ときに旱があり禍として水びたりがあったので、漢のために災いを論じた。だから『春秋』は漢のために法を制め、『論衡』は漢のために説を平らかにしたのである。門から庭を隔てて堂や室の言を聴けば、十のうち九を失うが、堂に升って室を窺(うかが)えば、百のうち一も失わない。『論衡』の人は昔の荒れ流れた地にいるのだから、その遠さはただ門や庭ほどではない。
日刻徑重千里,人不謂之廣者,遠也。望夜甚雨,月光不暗,人不睹曜者,隱也。聖者垂日月之明,處在中州。隱於百里,遙聞傳授,不實。形耀不實,難論。得詔書到,計吏至,乃聞聖政。
日は径(わたり)が千里を重ねるほどであるのに、人がそれを広いと言わないのは、遠いからである。満月の夜にひどく雨が降っても月の光は暗くならないのに、人がその輝きを見られないのは、隠れているからである。聖なる者は日や月の明るさを垂れて、中州にいる。百里に隔たって隠れ、遥かに伝え授けられるのを聞くだけでは、実ではない。形も輝きも実でなければ、論じがたい。詔書が届き、計吏が至って、はじめて聖なる政治を聞くのである。
是以褒功失丘山之積,頌德遺膏腴之美。使至台閣之下,蹈班、賈之跡,論功德之實,不失毫厘之微。武王封比干之墓,孔子顯三累之行。大漢之德,非直比干三累也。道立(國)〔郵〕表,路出其下,望(國)〔郵〕表者昭然知路。
だから功を褒めるのに丘や山のような積み重ねを失い、徳を頌めるのに膏(あぶら)のように肥えた美しさを遺(のこ)してしまう。台閣の下に至り、班固や賈誼の跡を蹈んで、功と徳の実を論じさせれば、毛筋ほどの微かなものも失わないだろう。武王は比干の墓を封じ、孔子は三たび重ねた行いを顕(あら)わした。大漢の徳は、ただ比干や三たび重ねた行いほどのものではない。道に郵(しゅくば)の表(しるし)を立てれば、路はその下に出て、郵の表を望む者は昭らかに路を知る。
漢德明著,莫立邦表之言,故浩廣之德未光於世也。
漢の徳は明らかに著(あら)われているのに、邦の表の言を立てる者がないので、浩(ひろ)く広い徳がまだ世に光っていないのである。