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難歳篇難歲篇

論衡(虚と実を秤にかける書) 論衡 · 王充 · 80年頃 · 段落 13 · 漢字 1,945字 · 朗読 7.8分

論衡(虚と実を秤にかける書) 難歲篇 後漢の人・王充が自ら明かしたこの書の意は四字である — 「疾虚妄」、虚しく妄りなものを憎む。天が人の事に応えて災いを下すとか、死ねば鬼神になって仇を返すとか、日を選ばなければ障りがあるとかいう、その時代の言い分を一つ一つ捕らえて論じる。 論じる肌合いが人とは違う。年長者の言葉だからといってそのままにしない — 孔子に問い(問孔)、孟子を刺し(刺孟)、韓非を否とする(非韓)。天が咎めて災いを下すという言い分には、それならば天はなぜ君主一人のために国中に旱を下すのかと問い返す。 「虚」の字が付いた九篇(書虚・変虚・異虚・感虚・福虚・禍虚・龍虚・雷虚・道虚)が一列に並び、古い書に記された不思議な話を順に捕らえる。「増」の字が付いた三篇(語増・儒増・芸増)は、言葉がどのように膨らんでいくのかを扱う。 吉験篇には、夫余の東明が弓をよく射たので王が殺そうとし、南へ逃れて掩淲水に至ったという話がある。今に残る東明の記録のうち最も早い形である。

俗人險心,好信禁忌,知者亦疑,莫能實定。是以儒雅服從,工伎得勝。吉凶之書,伐經典之義;工伎之說,凌儒雅之論。今略實論,令(親)〔觀〕覽,總核是非,使世一悟。

俗人は心がねじけて禁忌を信じるのを好み、知ある者も疑って、実のところを定められる者がない。そのために儒雅の者が従い、工人や技の者が勝ってしまう。吉凶の書が経典の義を打ち、工人や技の説が儒雅の論を踏みつける。いまおおよそ実に即して論じ、見てもらい、是非をすべて調べて、世に一度悟らせることにする。

《移徙法》曰:「徙抵太歲凶,負太歲亦凶。」

『移徙法』に言う。「移るのに太歳に突き当たれば凶であり、太歳を背にしても凶である。」

抵太歲名曰歲下,負太歲名曰歲破,故皆凶也。假令太歲在甲子,天下之人皆不得南北徙,起宅嫁娶亦皆避之;其移東西,若徙四維,相之如者皆吉。何者?不與太歲相觸,亦不抵太歲之衝也。實問:避太歲者何意也?令太歲惡人徙乎?則徙者皆有禍。令太歲不禁人徙,惡人抵觸之乎?則道上之人南北行者皆有殃。太歲之意,猶長吏之心也。長吏在塗,人行觸車馬,干其吏從,長吏怒之,豈獨抱器載物、去宅徙居觸犯之者而乃責之哉!昔文帝出,過霸陵橋,有一人行逢車駕,逃於橋下,以為文帝之車已過,疾走而出,驚乘輿馬。文帝怒,以屬廷尉張釋之,釋之當論。使太歲之神行若文帝出乎,則人犯之者,必有如橋下走出之人矣。方今行道路者,暴溺仆死,何以知非觸遇太歲之出也?為移徙者又不能處,不能處,則犯與不犯未可知,未可知,則其行與不行未可審也。

太歳に突き当たるのを歳下といい、太歳を背にするのを歳破というので、どちらも凶だというのだ。たとえば太歳が甲子にあれば、天下の人はみな南北に移ることができず、家を建て嫁入り嫁取りするのもみなこれを避ける。東西に移ったり、四隅に移ったりして向かい合うものはどれも吉だという。なぜか。太歳と突き当たらず、また太歳の向かい合う側にも当たらないからだという。実際に問う。太歳を避けるのは、どういう意味なのか。太歳が人が移ることを憎むのだとすれば、移る者はみな禍があるはずだ。太歳が人が移ることを禁じず、人が自分に突き当たるのを憎むのだとすれば、道の上の人で南北に歩く者はみな災いがあるはずだ。太歳の心は、長官の心と同じである。長官が道にいるとき、人が歩いて車や馬に突き当たり、その供の者を犯せば、長官は怒る。それがどうして、器を抱え物を積み、家を離れて移り住む者で触れて犯した者だけをとがめることがあろう。昔、文帝が出かけて霸陵橋を通るとき、一人の男が歩いていて車駕に出合い、橋の下に逃げたが、文帝の車がもう通り過ぎたと思って急いで走り出て、御車の馬を驚かせた。文帝は怒り、廷尉の張釈之に委ねると、釈之がその罪を論じた。太歳の神が歩くことが文帝の出かけるのと同じなら、人がそれを犯す場合は、必ず橋の下から走り出た男のような者があるはずだ。いま道を歩く者が急に溺れ倒れて死ぬことがあるが、それが太歳の出歩きに突き当たって出合ったのでないと、どうして分かるのか。引っ越しを扱う者もそれをさばけない。さばけないなら、犯したか犯さなかったかも分からない。分からないなら、行くか行かないかも見きわめられない。

且太歲之神審行乎,則宜有曲折,不宜直南北也。長吏出舍,行有曲折。如天神直道不曲折乎,則從東西四維徙者,猶干之也。若長吏之南北行,人從東如西,四維相之如,猶抵觸之。如不正南北,南北之徙又何犯。如太歲不動行乎,則宜有宮室營堡,不與人相見,人安得而觸之?如太歲無體,與長吏異,若煙雲虹霓直經天地,極子午南北陳乎,則東西徙若四維徙者亦干之,譬若今時人行,觸繁霧蜮氣,無從橫負鄉皆中傷焉。如審如氣,人當見之,雖不移徙,亦皆中傷。

また太歳の神がほんとうに歩くのなら、曲がり道があるはずで、まっすぐ南北だけであるはずがない。長官が屋敷を出れば、道筋には曲がりがある。天の神がまっすぐな道で曲がらないのなら、東西や四隅に移る者もやはりこれを犯すことになる。長官が南北に歩くとき、人が東から西へ行き、四隅で向かい合えば、やはり突き当たるのと同じである。まっすぐ南北でないのなら、南北に移ることが何を犯すというのか。太歳が動いて歩かないのなら、宮室や陣屋があって人と顔を合わせないはずで、人がどうして突き当たれよう。太歳に体がなく、長官と違って、煙や雲や虹がまっすぐ天地を横切り、子午を極めて南北に張り渡したようなものだとすれば、東西に移る者も四隅に移る者もやはりこれを犯すことになる。たとえば、いまの人が歩いていて濃い霧や水虫の気に当たれば、縦も横も、背にしていても向かっていても、みな当たって傷つくのと同じだ。ほんとうに気のようなものなら、人はそれを見るはずであり、たとえ移らなくても、やはりみな当たって傷つく。

且太歲,天別神也,與青龍無異。龍之體不過數千丈。如令神者宜長大,饒之數萬丈,令體掩北方,當言太歲在北方,不當言在子。其東有丑,其西有亥,明不專掩北方,極東西之廣,明矣。令正言在子位觸土之中,直子午者,不得南北徙耳。東邊直丑巳之地,西邊直亥未之民,何為不得南北徙?丑與亥地之民,使太歲左右通得南北徙及東西徙,(可)則丑在子東,亥在子西,丑亥之民東西徙,觸歲之位;巳未之民東西徙,忌歲所破。

また太歳は天の別の神であって、青竜と変わりがない。竜の体は数千丈にすぎない。神だから長く大きいはずだとして、たっぷり数万丈を与え、その体が北方を覆うとすれば、太歳は北方にあると言うべきで、子にあると言うべきではない。その東に丑があり、その西に亥があるのだから、北方だけを覆っているのではなく、東西の広がりを極めていることが明らかだ。まっすぐ子の位にあって土の中ほどに当たると言うのなら、子午にまっすぐ当たる者が南北に移れないだけのことだ。東の端で丑や巳に当たる土地、西の端で亥や未に当たる民が、どうして南北に移れないのか。丑や亥の土地の民について、太歳の左右が通っていて南北にも東西にも移れるとするなら、丑は子の東にあり亥は子の西にあるのだから、丑や亥の民が東西に移れば歳の位に突き当たり、巳や未の民が東西に移れば歳が破る所を忌むことになる。

儒者論天下九州,以為東西南北盡地廣長。九州之內五千里,竟三河土中。周公卜宅,《經》曰:「王來紹上帝,自服於土中。」

儒者が天下の九州を論ずるとき、東西南北に地の広さと長さを極めると考える。九州の内は五千里で、三河が土の中ほどを占める。周公が家の地を占ったとき、『経』に言う。「王が来て上帝を継ぎ、土の中ほどで自ら治める。」

雒則土之中也。鄒衍論之,以為九州之內五千里,竟合為一州,在東(東)〔南〕位,名曰赤縣州。自有九州者九焉,九九八十一,凡八十一州。此言殆虛。地形難審,假令有之,亦一難也。使天下九州如儒者之議,直雒邑以南,對三河以北,豫州、荊州、冀州之部有太歲耳。雍、梁之間,青、兗、徐、揚之地,安得有太歲?使如鄒衍之論,則天下九州在東南位,不直子午,安得有太歲?如太歲不在天地極,分散在民間,則一家之宅,輒有太歲,雖不南北徙,猶抵觸之。假令從東里徙西里,西里有太歲,從東宅徙西宅,西宅有太歲,或在人之東西,或在人之南北,猶行途上,東西南北皆逢觸人。

洛こそ土の中ほどである。鄒衍はこれを論じて、九州の内の五千里が合わせて一つの州となり、東南の位にあって、名を赤県州というと考えた。それぞれ九州を持つものが九つあり、九九八十一で、全部で八十一州だという。この言葉はほとんど空ごとである。地の形は見きわめがたいので、たとえあったとしても、これもまた一つの難問である。天下の九州が儒者の議のとおりなら、ちょうど洛邑の南、三河の北に向かい合う豫州・荊州・冀州の一帯に太歳があるだけだ。雍と梁のあいだ、青・兗・徐・揚の地に、どうして太歳があろう。鄒衍の論のとおりなら、天下の九州は東南の位にあって子午にまっすぐ当たらないのだから、どうして太歳があろう。太歳が天地の端にいるのではなく、民のあいだに散らばっているのなら、一軒の家ごとに太歳があることになって、南北に移らなくてもやはり突き当たる。たとえば東の里から西の里に移れば西の里に太歳があり、東の家から西の家に移れば西の家に太歳があり、人の東西にあることもあり、人の南北にあることもあって、道の上を歩けば東西南北どこでも人に出合ってぶつかるのと同じである。

太歲位數千萬億,天下之民,徙者皆凶,為移徙者何以審之?如審立於天地之際,猶王者之位在土中也。東方之民,張弓西射,人不謂之射王者,以不能至王者之都,自止射其處也。今徙豈能北至太歲位哉!自止徙百步之內,何為謂之傷太歲乎!且移徙之家禁南北徙者,以為歲在子位,子者破午,南北徙者抵觸其衝,故謂之凶。夫破者須有以椎破之也,如審有所用,則不徙之民皆被破害;如無所用,何能破之!

太歳の位が数千万億もあるのなら、天下の民で移る者はみな凶になる。引っ越しを扱う者は何によってそれを見きわめるのか。見きわめて天地のきわに立つのなら、王者の位が土の中ほどにあるのと同じである。東方の民が弓を引いて西に射ても、人はそれを王者を射たとは言わない。王者の都まで届かず、自分のいる所で射て終わるからだ。いま移るからといって、どうして北の太歳の位まで届けよう。自分の百歩の内で移って終わるだけなのに、どうしてそれが太歳を傷つけるというのか。また引っ越しの家が南北に移ることを禁じるのは、歳が子の位にあって、子は午を破るのだから、南北に移る者はその向かい合う側に当たる、だから凶だというのである。そもそも破るというのは、必ず槌で打ち破るものがあってのことだ。見きわめて何か用いるものがあるなら、移らない民もみな破られる害を受けるはずだ。用いるものがないなら、どうして破れよう。

夫雷,天氣也,盛夏擊折,折木破山,時暴殺人。使太歲所破若迅雷也,則聲音宜疾,死者宜暴。如不若雷,亦無能破。如謂衝抵為破,衝抵安能相破?東西相與為衝,而南北相與為抵。如必以衝抵為凶,則東西常凶而南北常惡也。如以太歲神其衝獨凶,神莫過於天地,天地相與為衝,則天地之間無生人也。或上十二神登明、從魁之輩,工伎家謂之皆天神也。

そもそも雷は天の気であって、真夏に打って折り、木を折り山を破り、ときに急に人を殺す。太歳が破るものが速い雷のようだとすれば、音は速いはずで、死ぬ者は急であるはずだ。雷に及ばないのなら、やはり破ることはできない。向かい合うことと当たることを破るというのなら、向かい合いと当たりがどうして互いを破れよう。東と西が互いに向かい合いとなり、南と北が互いに当たりとなる。必ず向かい合いと当たりを凶とするなら、東西はいつも凶で、南北はいつも悪いことになる。太歳が神妙だからその向かい合う側だけが凶だというなら、神妙さは天地に過ぎるものはないのに、天と地が互いに向かい合いとなるのだから、天地のあいだに生きた人はいなくなるはずだ。あるいは上の十二神、登明や従魁のたぐいを、工人や技の家はみな天の神だという。

常立子丑之位,俱有衝抵之氣,神雖不若太歲,宜有微敗。移徙者雖避太歲之凶,猶觸十二神之害。為移徙時者何以不禁?

それらはいつも子や丑の位に立って、どれも向かい合い当たる気を持っているのだから、その神が太歳に及ばないとしても、小さな破れはあるはずだ。移る者は太歳の凶を避けても、やはり十二神の害に触れる。引っ越しの時を扱う者は、どうしてそれを禁じないのか。

冬氣寒,水也,水位在北方。夏氣熱,火也,火位在南方。案秋冬寒,春夏熱者,天下普然,非獨南北之方水火衝也。今太歲位在子耳,天下皆為太歲,非獨子午衝也。審以所立者為主,則午可為大夏,子可為大冬。冬夏南北徙者,可復凶乎?立春,艮王震相,巽胎離沒,坤死兌囚,乾廢坎休。王之衝死,相之衝囚,王相衝位,有死囚之氣。乾坤六子,天下正道,伏羲、文王象以治世,文為經所載,道為聖所信,明審於太歲矣。人或以立春東北徙,抵艮之下,不被凶害。太歲立於子,彼東北徙,坤卦近於午,猶艮以坤,徙觸子位,何故獨凶?正月建於寅,破於申,從寅申徙,相之如者無有凶害。太歲不指午,而空曰歲破,午實無凶禍,而虛禁南北,豈不妄哉!

冬の気が寒いのは水であり、水の位は北方にある。夏の気が熱いのは火であり、火の位は南方にある。だが調べてみれば、秋と冬が寒く春と夏が熱いのは天下あまねくそうであって、南北の方向でだけ水と火が向かい合うからではない。いま太歳の位は子にあるだけなのに、天下がみな太歳のこととなっており、子と午だけが向かい合うのではない。見きわめて立っている所を主とするなら、午は大いなる夏となり、子は大いなる冬となれる。冬と夏に南北へ移る者が、また凶になるというのか。立春には艮が王、震が相、巽が胎、離が没、坤が死、兌が囚、乾が廃、坎が休である。王の向かい合いは死、相の向かい合いは囚であって、王と相が向かい合う位には死と囚の気がある。乾坤の六つの子は天下の正しい道で、伏羲と文王はそれにならって世を治めた。その文は経が載せるところ、その道は聖人が信じるところであって、太歳よりも明らかに見きわめられている。人がときに立春に東北へ移って艮の下に当たっても、凶い害を受けない。太歳が子に立ち、その人が東北へ移れば、坤の卦は午に近いのだから、艮から坤へ移って子の位に突き当たるのと同じなのに、どういうわけでそちらだけが凶なのか。正月は寅に建ち申を破るのだから、寅や申から移って向かい合う者には凶い害がない。太歳は午を指していないのにむなしく歳破だと言い、午にはほんとうに凶い禍がないのにむなしく南北を禁じる。なんとでたらめなことではないか。

十二月為一歲,四時節竟,陰陽氣終,竟復為一歲,日月積聚之名耳,何故有神而謂之立於子位乎?積分為日,累日為月,連月為時,紀時為歲。歲則日月時之類也。歲而有神,日月時亦復有神乎?千五百三十九〔歲〕為一統,四千六百一十七歲為一元。歲猶統元也。歲有神,統元復有神乎?論之以為無。假令有之,何故害人?神莫過於天地,天地不害人。人謂百神,百神不害人。太歲之氣,天地之氣也,何憎於人,觸而為害?且文曰:「甲子不徙。」

十二の月で一年となり、四季の節が終わり、陰陽の気が尽きて、終わってまた一年となる。日と月が積み重なった呼び名にすぎないのに、どういうわけで神があって、それが子の位に立つというのか。分を積んで日となり、日を重ねて月となり、月をつないで時となり、時を記して歳となる。歳とは日と月と時のたぐいである。歳に神があるなら、日や月や時にもまた神があるのか。千五百三十九年で一統となり、四千六百十七年で一元となる。歳は統や元と同じである。歳に神があるなら、統や元にもまた神があるのか。論ずればないのである。たとえあったとしても、どういうわけで人を害するのか。神妙さは天地に過ぎるものはないのに、天地は人を害さない。人が百の神というが、百の神は人を害さない。太歳の気は天地の気なのに、人の何を憎んで、触れれば害となるのか。また文に言う。「甲子には移らない。」

言甲與子殊位,太歲立子不居甲,為移徙者運之,而復居甲,為之而復居甲,為移徙時者,亦宜復禁東西徙。甲與子鈞,其凶宜同。不禁甲而獨忌子,為移徙時者,竟妄不可用也。人居不能不移徙,移徙不能不觸歲,(不)觸歲不能不得時死。工伎之人,見今人之死,則歸禍於往時之徙。俗心險危,死者不絕,故太歲之言,傳世不滅。

これは甲と子が位を異にするということだが、太歳は子に立って甲にはいないのに、引っ越しを扱う者がそれを運んで、また甲にいることにする。そうしてまた甲にいるのなら、引っ越しの時を扱う者は、やはり東西へ移ることも禁じるべきだ。甲と子が同じなら、その凶も同じであるべきだ。甲を禁じず、子だけを忌むのだから、引っ越しの時を扱う者は、結局でたらめで用いられない。人は暮らしていて移らないわけにはいかず、移れば歳に触れないわけにはいかず、歳に触れればいつか死を得ないわけにはいかない。工人や技の人は、いまの人の死を見れば、禍を過ぎた日の引っ越しに帰す。俗な心はねじけて危うく、死ぬ者が絶えないので、太歳の言葉は世に伝わって消えないのである。