いにしえの文 › 論衡(虚と実を秤にかける書)

詰術篇

論衡(虚と実を秤にかける書) 論衡 · 王充 · 80年頃 · 段落 16 · 漢字 1,784字 · 朗読 7.1分

論衡(虚と実を秤にかける書) 後漢の人・王充が自ら明かしたこの書の意は四字である — 「疾虚妄」、虚しく妄りなものを憎む。天が人の事に応えて災いを下すとか、死ねば鬼神になって仇を返すとか、日を選ばなければ障りがあるとかいう、その時代の言い分を一つ一つ捕らえて論じる。 論じる肌合いが人とは違う。年長者の言葉だからといってそのままにしない — 孔子に問い(問孔)、孟子を刺し(刺孟)、韓非を否とする(非韓)。天が咎めて災いを下すという言い分には、それならば天はなぜ君主一人のために国中に旱を下すのかと問い返す。 「虚」の字が付いた九篇(書虚・変虚・異虚・感虚・福虚・禍虚・龍虚・雷虚・道虚)が一列に並び、古い書に記された不思議な話を順に捕らえる。「増」の字が付いた三篇(語増・儒増・芸増)は、言葉がどのように膨らんでいくのかを扱う。 吉験篇には、夫余の東明が弓をよく射たので王が殺そうとし、南へ逃れて掩淲水に至ったという話がある。今に残る東明の記録のうち最も早い形である。

圖宅術曰:「宅有八術,以六甲之名數而第之,第定名立,官商殊別。宅有五音,姓有五聲,宅不宜其姓,姓與宅相賊,則疾病死亡,犯罪遇禍。」

図宅術に言う。「家には八つの術があり、六甲の名と数で順を定める。順が定まり名が立てば、宮と商が別に分かれる。家には五音があり、姓には五声がある。家がその姓にふさわしくなく、姓と家が互いを損なえば、病んで死に、罪を犯し禍に出合う。」

詰曰:夫人之在天地之間也,萬物之貴者耳。其有宅也,猶鳥之有巢,獸之有穴也。謂宅有甲乙,巢穴復有甲乙乎?甲乙之神獨在民家,不在鳥獸何?夫人之有宅,猶有田也。以田飲食,以宅居處,人民所重,莫食最急,先田後宅,田重於宅也。田間阡陌可以制八術,比土為田,可以數甲乙,甲乙之術獨施於宅,不設於田,何也?府廷之內,吏舍比屬,吏舍之形制何殊於宅,吏之居處何異於民,不以甲乙第舍,獨以甲乙數宅,何也?民間之宅,與鄉亭比屋相屬,接界相連,不并數鄉亭,獨第民家,甲乙之神何以獨立於民家也?數宅之術行市亭,數巷街以第甲乙。入市門曲折,亦有巷街。人晝夜居家,朝夕坐市,其實一也。市肆戶何以不第甲乙?州郡列居,縣邑雜處,與街巷民家何以異?州郡縣邑何以不數甲乙也?

なじって言う。そもそも人が天地のあいだにあるのは、万物の中で貴いものだというだけのことだ。人に家があるのは、鳥に巣があり獣に穴があるのと同じである。家に甲乙があるというなら、巣や穴にもまた甲乙があるのか。甲乙の神が民の家にだけあって、鳥や獣にはないのはなぜか。そもそも人に家があるのは、田があるのと同じだ。田で飲み食いし、家で住み暮らす。民が重んじるもので食べることほど急なものはなく、田を先にし家を後にするのだから、田は家より重い。田のあいだの畦道で八つの術を作れるし、土を並べて田とすれば甲乙を数えられる。それなのに甲乙の術が家にだけ施されて田に施されないのはなぜか。役所の庭の内に役人の住まいが次々に連なっているが、役人の住まいの形や造りが家とどう違い、役人の住まい方が民とどう違うというのか。それなのに甲乙で役宅に順をつけず、甲乙で民家だけを数えるのはなぜか。民間の家は郷や亭と屋根を並べて連なり、境を接してつながっているのに、郷や亭をいっしょに数えず、民の家だけに順をつける。甲乙の神はどうして民の家にだけ立つのか。家を数える術は市や亭でも行われ、路地や通りを数えて甲乙で順をつける。市の門に入れば曲がり角にも路地や通りがある。人が昼夜家にいるのと、朝夕市に座っているのとは、その実は一つである。市の店の戸口は、どうして甲乙で順をつけないのか。州や郡が並び、県や邑が入りまじっているのは、通りや路地の民家とどう違うのか。州・郡・県・邑は、どうして甲乙を数えないのか。

天地開辟有甲乙邪?後王乃有甲乙。

天地が開けたときに甲乙があったのか。後の王になってやっと甲乙があったのだ。

如天地開辟本有甲乙,則上古之時巢居穴處,無屋宅之居、街巷之制,甲乙之神皆何在?數宅既以甲乙,五行之家數日亦當以甲乙。甲乙有支干,支干有加時。支干加時,專此者吉,相賊者凶。當其不舉也未必加憂(支)辱也。事理有曲直,罪法有輕重,上官平心原其獄狀,未有支干吉凶之驗,而有事理曲直之效,為支干者何以對此?武王以甲子日戰勝,紂以甲子日戰負,二家俱期,兩軍相當,旗幟相望,俱用一日,或存或亡。且甲與子專比,昧爽時加寅,寅與甲乙不相賊,武王終以破紂,何也?

天地が開けたときにもともと甲乙があったのなら、上古のころは巣に住み穴に暮らして、家の住まいも通りや路地のきまりもなかったのに、甲乙の神はみなどこにいたのか。家を数えるのにすでに甲乙を使うのだから、五行の家が日を数えるのにも甲乙を使うべきだ。甲乙には支と干があり、支と干には加える時がある。支と干と加える時について、これを専らにする者は吉で、互いに損なう者は凶だという。だが用いられないときに、必ず憂いや恥を加えられるわけではない。事の理に曲直があり、罪と法に軽重がある。上の役人が心を公平にしてその訴えのありさまをたどるとき、支や干の吉凶の証しはなく、事の理の曲直の証しがある。支と干を立てる者は、これに何と答えるのか。武王は甲子の日に戦って勝ち、紂は甲子の日に戦って負けた。二つの家がともに日を約し、両軍が向かい合い、旗じるしが見え合い、同じ一日を用いたのに、一方は残り一方は滅んだ。また甲と子はぴったり並び、明け方の時に寅を加えると、寅と甲乙は互いに損なわないのに、武王がついに紂を破ったのはなぜか。

日,火也,在天為日,在地為火。何以驗之?陽燧鄉日,火從天來。由此言之,火,日氣也。日有甲乙,火無甲乙。何日十而辰十二?日辰相配,故甲與子連。所謂日十者,何等也?端端之日有十邪,而將一有十名也?

日は火であって、天にあれば日となり、地にあれば火となる。どうしてそう言えるか。陽燧(ひとりかがみ)を日に向ければ、火が天から来る。これによって言えば、火は日の気である。日には甲乙があるが、火には甲乙がない。どうして日は十で、辰は十二なのか。日と辰が互いに組み合うので、甲と子がつながる。いわゆる日が十あるというのは、どういうことなのか。丸いあの日が十あるのか、それとも一つに十の名があるのか。

如端端之日有十,甲乙是其名,何以不(從)〔徒〕言甲乙,必言子丑?何日廷圖甲乙有位,子丑亦有處,各有部署,列布五方,若王者營衛,常居不動?今端端之日中行,旦出東方,夕入西方,行而不已,與日廷異,何謂甲乙為日之名乎?術家更說日甲乙者,自天地神也。日更用事,自用甲乙勝負為吉凶,非端端之日也。夫如是,於五行之象,徒當用甲乙決吉凶而已,何為言加時乎?案加時者,端端之日加也。端端之日安得勝負?

丸いあの日が十あって、甲乙がその名だというなら、どうして甲乙だけを言わずに、必ず子や丑を言うのか。どうして日の廷の図では甲乙に位があり、子や丑にも場所があって、それぞれに持ち場があり、五方に並べ広げられ、王者の陣営のように、いつもそこにいて動かないのか。ところがいま、丸いあの日は空の中ほどを巡り、朝に東方から出て夕に西方に入り、巡って止まらない。日の廷とは違うのに、どうして甲乙を日の名だというのか。術家はさらに、日の甲乙はもともと天地の神だと説く。日が交替で事をつかさどり、もともと甲乙の勝ち負けによって吉凶となるのであって、丸いあの日のことではないという。こうであるなら、五行のかたちからすれば、ただ甲乙を使って吉凶を決めるだけでよいのに、どうして加える時を言うのか。調べてみれば、加える時とは丸いあの日が加えるものである。丸いあの日に、どうして勝ち負けがあろう。

五音之家,用口調姓名及字,用姓定其名,用名正其字。口有張歙,聲有外內,以定五音宮商之實。夫人之有姓者,用稟於天,天得五行之氣為姓邪?

五音の家は、口によって姓名と字を整え、姓でその名を定め、名でその字を正す。口に開きと閉じがあり、声に外と内があって、それで五音の宮や商の実を定める。そもそも人に姓があるのは天から受けたものを用いるのだから、天が五行の気を得て姓になるのか。

以口張歙聲外內為姓也?如以本所稟於天者為姓,若五谷萬物稟氣矣,何故用〔口〕張(口)歙、聲內外定正之乎?古者因生以賜姓,因其所生賜之姓也。若夏吞薏苡而生,則姓苡氏;商吞燕子而生,則姓為子氏;周履大人跡,則姬氏。其立名也,以信、以像、以假、以類。以生名為信,若魯公子友生,文在其手曰「友」也。

口の開き閉じと声の外内で姓になるのか。もともと天から受けたものを姓とするのなら、五穀や万物が気を受けるのと同じであるのに、どういうわけで口の開き閉じと声の内外で定めて正すのか。昔は生まれによって姓を授けた。その生まれたいきさつによって姓を与えたのだ。夏が薏苡(はぶそう)を呑んで生まれたのなら姓は苡氏、商が燕の卵を呑んで生まれたのなら姓は子氏、周が大きな人の足跡を踏んだのなら姫氏である。その名を立てるときは、信によって、像によって、仮によって、類によってする。生まれたことで名づけるのを信といい、魯の公子友が生まれたときに文がその手にあって「友」とあったようなものだ。

以德名為義,若文王為昌、武王為發也。以類名為像,若孔子名丘也。取於物為假,若宋公名杵臼也。取於父為類,有似類於父也。其立字也,展名取同義,名賜字子貢,名予字子我。

徳によって名づけるのを義といい、文王が昌、武王が発であるようなものだ。たぐいによって名づけるのを像といい、孔子の名が丘であるようなものだ。物から取るのを仮といい、宋公の名が杵臼であるようなものだ。父から取るのを類といい、父に似たところがあるということだ。その字を立てるときは、名を広げて同じ意味を取る。名が賜なら字は子貢、名が予なら字は子我である。

其立姓則以本所生,置名則以信、義、像、假、類,字則展名取同義,不用口張歙、〔聲〕外內。調宮商之吏之氏姓也;孟氏、仲氏,王父字之氏姓也。

その姓を立てるのはもともと生まれたいきさつによってであり、名を置くのは信・義・像・仮・類によってであり、字は名を広げて同じ意味を取るのであって、口の開き閉じや声の外内は使わない。宮や商を整える者は役人の氏姓であり、孟氏や仲氏は祖父の字による氏姓である。

氏姓有三,事乎,吏乎,王父字乎?以本姓則用所生,以氏姓則用事、吏、王父字,用口張歙調姓之義何居?

氏姓には三つある。事によるのか、役によるのか、祖父の字によるのか。もとの姓によるなら生まれたいきさつを用い、氏姓によるなら事と役と祖父の字を用いる。口の開き閉じを使って姓を整えるという意味は、どこにあるのか。

匈奴之俗,有名無姓字,無與相調諧,自以壽命終,禍福何在?禮,買妾不知其姓則卜之。不知者,不知本姓也。夫妾必有父母家姓,然而必卜之者,父母姓轉易失實,禮重取同姓,故必卜之。姓徒用口調諧姓族,則禮買妾何故卜之!

匈奴の俗では名があって姓も字もなく、互いに整え調和させるものがないが、それでもおのずと寿命を終える。禍福はどこにあるのか。礼では、妾を買ってその姓が分からなければ占う。分からないとは、もとの姓が分からないことだ。そもそも妾には必ず父母の家の姓があるのに、それでも必ず占うのは、父母の姓が移り変わって実を失うことがあり、礼は同じ姓を取ることを重く見るので、必ず占うのである。姓がただ口で姓の族を整え調和させるものなら、礼で妾を買うときに、どういうわけで占うのか。

圖宅術曰:「商家門不宜南向,徵家門不宜北向。」

図宅術に言う。「商の家は門が南向きにふさわしくなく、徴の家は門が北向きにふさわしくない。」

則商金,南方火也;徵火,北方水也。水勝火,火賊金,五行之氣不相得,故五姓之宅門有宜向。向得其宜,富貴吉昌;向失其宜,貧賤衰耗。夫門之與堂何以異?五姓之門,各有五姓之堂,所向無宜何?門之掩地,不如堂廡,朝夕所處,於堂不於門。圖吉凶者,宜皆以堂。如門,人所出入,則戶亦宜然。孔子曰:「誰能出之由戶?」

商は金で、南方は火であり、徴は火で、北方は水である。水は火に勝ち、火は金を損なう。五行の気が互いに合わないので、五つの姓の家の門にふさわしい向きがある、というのだ。向きがそのふさわしさを得れば富み貴く吉く栄え、向きがそのふさわしさを失えば貧しく賤しく衰えすり減るという。そもそも門と堂に何の違いがあるのか。五つの姓の門には、それぞれ五つの姓の堂があるのに、その向きにふさわしさがないのはなぜか。門が地を覆う広さは堂や廊に及ばず、朝夕過ごすのは堂であって門ではない。吉凶をはかる者は、どれも堂によるべきだ。門が人の出入りする所だからというなら、戸(と)もまたそうあるべきだ。孔子は言った。「だれが出るのに戸を通らずにいられよう。」

言戶不言門。五祀之祭,門與戶均。

戸を言って門を言っていない。五祀の祭りでは、門と戸は同じ扱いである。

如當以門正所向,則戶何以不當與門相應乎?且今府廷之內,吏舍連屬,門向有南北,長吏舍傳,閭居有東西。長吏之姓必有宮商,諸吏之舍必有徵羽。安官遷徙,未必角姓門南向也,失位貶黜,未必商姓門北出也,或安官遷徙,或失位貶黜何?姓有五音,人之質性亦有五行。五音之家,商家不宜南向門,則人稟金之性者,可復不宜南向坐、南行步乎?一日五音之門,有五行之人,假令商姓口食五人,五人中各有五色,木人青,火人赤,水人黑,金人白,土人黃。五色之人,俱出南向之門,或凶或吉,壽命或短或長,凶而短者未必色白,吉而長者未必色黃也,五行之家何以為決?南向之門,賤商姓家,其實如何?南方火也,使火氣之禍,若火延燔,徑從南方來乎,則雖為北向門猶之凶也。火氣之禍,若夏日之熱,四方洽浹乎,則天地之間皆得其氣,南向門家何以獨凶?南方火者,火位南方,一曰其氣布在四方,非必南方獨有火,四方無有也,猶水位在北方,四方猶有水也。火滿天下,水辨四方。火或在人之南,或在人之北。謂火常在南方,是則東方可無金,西方可無木乎?

門で向きを正すべきだというなら、戸がどうして門と対応しないことがあろう。また、いまの役所の庭の内では、役人の住まいが連なって門の向きに南北があり、長官の住まいや宿舎、里の住まいに東西がある。長官の姓には必ず宮や商があり、諸役人の住まいには必ず徴や羽がある。官が安らかで昇進する者が必ず角の姓で門を南向きにしているわけではなく、位を失って降されるのが必ず商の姓で門を北に出しているわけではない。それなのに、ある者は官が安らかで昇進し、ある者は位を失って降されるのはなぜか。姓に五音があり、人の素の性にも五行がある。五音の家で、商の家は南向きの門がふさわしくないというなら、人で金の性を受けた者は、やはり南向きに座り南へ歩いてはいけないことになるのか。一つの日に、五音の門に五行の人がいる。たとえば商の姓で食べる口が五人なら、五人の中にそれぞれ五つの色があって、木の人は青く、火の人は赤く、水の人は黒く、金の人は白く、土の人は黄色い。五つの色の人がともに南向きの門から出て、ある者は凶、ある者は吉で、寿命がある者は短くある者は長いが、凶で短い者が必ず色の白い者とはかぎらず、吉で長い者が必ず色の黄色い者とはかぎらない。五行の家は何によって決めるのか。南向きの門が商の姓の家を賤しくするというのは、その実はどうなのか。南方は火であるから、火の気の禍が、火が燃え広がるようにまっすぐ南方から来るのなら、たとえ北向きの門にしてもやはり凶である。火の気の禍が、夏の日の暑さのように四方にあまねく染みわたるのなら、天地のあいだがみなその気を受けるのに、南向きの門の家がどうしてそれだけ凶なのか。南方が火だというのは、火の位が南方だということで、一つにはその気が四方に広がっているということであって、必ず南方にだけ火があって四方にないわけではない。水の位が北方にあっても、四方にやはり水があるのと同じだ。火は天下に満ち、水は四方にゆきわたる。火は人の南にあることもあり、人の北にあることもある。火がいつも南方にあるというなら、それでは東方に金がなく、西方に木がないということがありえようか。