正説篇正說篇
儒者說《五經》,多失其實。前儒不見本末,空生虛說。後儒信前師之言,隨舊述故,滑習辭語。苟名一師之學,趨為師教授,及時蚤仕,汲汲竟進,不暇留精用心,考實根核。故虛說傳而不絕,實事沒而不見,《五經》並失其實。《尚書》、《春秋》事較易,略正題目粗粗之說,以照篇中微妙之文。
儒者が『五経』を説くとき、しばしばその実を外す。前の儒者が本と末を見ずに、むなしく空疎な説を生んだ。後の儒者が前の師の言葉を信じ、古いものに従い先のものを述べて、言葉づかいをなめらかに身につけた。いいかげんに一人の師の学を名のって、師となって教えることに走り、時を得て早く仕え、あくせく競って進み、精を凝らし心を使って根もとと実を調べるいとまがない。だから空疎な説が伝わって絶えず、実の事が沈んで見えなくなり、『五経』がそろってその実を外している。『尚書』と『春秋』は事が比べて易しいので、おおよそ題目の大まかな説を正して、篇の中の微妙な文を照らすことにする。
說《尚書》者,或以為本百兩篇,後遭秦燔《詩》、《書》,遺在者二十九篇。夫言秦燔《詩》、《書》,是也;言本百兩篇者,妄也。蓋《尚書》本百篇,孔子以授也。遭秦用李斯之議,燔燒《五經》,濟南伏生抱百篇藏於山中。孝景皇帝時,始存《尚書》。伏生已出山中,景帝遣晁錯往從受《尚書》二十餘篇。伏生老死,《書》殘不竟,晁錯傳於倪寬。至孝宣皇帝之時,河內女子發老屋,得逸《易》、《禮》、《尚書》各一篇,奏之。宣帝下示博士,然後《易》、《禮》、《尚書》各益一篇,而《尚書》二十九篇始定矣。至孝〔武〕帝時,魯共王壞孔子教授堂以為殿,得百篇《尚書》於牆壁中。武帝使使者取視,莫能讀者,遂秘於中,外不得見。至孝成皇帝時,徵為古文《尚書》學。東海張霸案百篇之序,空造百兩之篇,獻之成帝。帝出秘百篇以校之,皆不相應,於是下霸於吏。吏白霸罪當至死,成帝高其才而不誅,亦惜其文而不滅。故百兩之篇,傳在世間者,傳見之人則謂《尚書》本有百兩篇矣。或言秦燔詩書者,燔《詩經》之書也,其經不燔焉。夫《詩經》獨燔其詩。《書》,《五經》之總名也。傳曰:「男子不讀經,則有博戲之心。」子路使子羔為費宰,孔子曰「賊夫人之子。」子路曰:「有民人焉,有社稷焉,何必讀書,然後為學。」《五經》總名為書。傳者不知秦燔書所起,故不審燔書之實。秦始皇三十四年,置酒咸陽宮,博士七十人前為壽。僕射周青臣進頌秦始皇。齊人淳于越進諫,以為始皇不封子弟,卒有田常、六卿之難,無以救也,譏青臣之頌,謂之為諛。秦始皇下其議丞相府,丞相斯以為越言不可用,因此謂諸生之言惑亂黔首,乃令史官盡燒《五經》,有敢藏諸〔詩〕書百家語者刑,唯博士官乃得有之。《五經》皆燔,非獨諸〔詩〕家之書也。傳者信之,見言詩書則獨謂《〔詩〕經》之書矣。
『尚書』を説く者は、もともと百二篇あったのに、後に秦が『詩』『書』を焼いたので残ったのが二十九篇だと考える者がある。そもそも秦が『詩』『書』を焼いたというのは正しいが、もともと百二篇あったというのはでたらめである。思うに『尚書』はもともと百篇で、孔子が授けたものである。秦が李斯の意見を用いて『五経』を焼いたとき、済南の伏生が百篇を抱えて山の中に隠した。孝景皇帝の時に、はじめて『尚書』が保たれた。伏生がすでに山中から出ていたので、景帝は晁錯を遣わして『尚書』二十余篇を受けさせた。伏生は老いて死に、『書』は欠けて完結せず、晁錯はそれを倪寬に伝えた。孝宣皇帝の時に至って、河内の女が古い家を壊して、散逸した『易』『礼』『尚書』各一篇を得て、それを奏上した。宣帝が博士に下して見せ、そのうえで『易』『礼』『尚書』がそれぞれ一篇を加え、『尚書』二十九篇がはじめて定まった。孝武帝の時に至って、魯の共王が孔子の教えた堂を壊して殿を造ろうとして、百篇の『尚書』を壁の中から得た。武帝は使者に取って見させたが、読める者がなく、ついに宮中に秘められて、外では見られなかった。孝成皇帝の時に至って、召して古文『尚書』の学とした。東海の張霸が百篇の序を調べて、むなしく百二篇を作り、成帝に献じた。帝が秘めてあった百篇を出して照らし合わせると、どれも合わなかったので、霸を役人に下した。役人は霸の罪が死に当たると申し上げたが、成帝はその才を高く見て誅さず、またその文を惜しんで滅ぼさなかった。だから百二篇が世間に伝わり、それを伝えて見た人は、『尚書』にもともと百二篇があったと思うのである。あるいは、秦が詩書を焼いたというのは『詩経』の書を焼いたのであって、その経は焼かなかったという者がある。『詩経』だけがその詩を焼かれたというのだ。だが『書』は『五経』の総称である。伝えに言う。「男子が経を読まなければ、博打の心が起こる。」子路が子羔を費の宰にしようとしたとき、孔子は「人の子を損なう」と言った。子路は言った。「民人があり社稷があるのですから、どうして書を読んでからでなければ学にならないのですか。」『五経』の総称が書である。伝える者は秦が書を焼いた起こりを知らないので、書を焼いた実を見きわめられない。秦の始皇の三十四年、咸陽宮で酒宴を設け、博士七十人が前で寿を祝った。僕射の周青臣が進んで秦の始皇を頌した。斉の人の淳于越が進んで諫め、始皇が子弟を封じなければ、急に田常や六卿のような難があっても救うすべがないと考え、青臣の頌をとがめて、おもねりだと言った。秦の始皇はその議を丞相府に下し、丞相の李斯は越の言葉は用いられないとし、これによって諸生の言葉が民を惑わし乱すとして、史官に命じて『五経』をすべて焼かせ、あえて詩書や百家の言を隠す者があれば刑に処し、ただ博士の官だけが持てるようにした。『五経』がみな焼かれたのであって、『詩』の家の書だけではない。伝える者はこれを信じて、詩書と言うのを見ると『詩経』の書だけのことだと思うのである。
傳者或知《尚書》為秦所燔,而謂二十九,篇其遺脫不燒者也。審若此言,《尚書》二十九篇,火之餘也。七十一篇為炭灰,二十九篇獨遺邪?夫伏生年老,晁錯從之學時,適得二十餘篇。伏生死矣,故二十九篇獨見,七十一篇遺脫。遺脫者七十一篇,反謂二十九篇遺脫矣。
伝える者は、『尚書』が秦に焼かれたことを知りながら、二十九篇はその漏れて焼かれなかったものだという。この言葉のとおり見きわめるなら、『尚書』二十九篇は火の残りである。七十一篇が炭と灰になって、二十九篇だけが残ったというのか。そもそも伏生は年が老いていて、晁錯が従って学んだとき、ちょうど二十余篇を得たのだ。伏生が死んだので、二十九篇だけが世に出て、七十一篇は漏れた。漏れたのは七十一篇なのに、かえって二十九篇が漏れたのだという。
或說《尚書》二十九篇者,法曰鬥〔四〕七宿也。四七二十八篇,其一曰鬥矣,故二十九。夫《尚書》滅絕於秦,其見在者二十九篇,安得法乎?宣帝之時,得佚《尚書》及《易》、《禮》各一篇,《禮》、《易》篇數亦始足,焉得有法?案百篇之序,闕遺者七十一篇,獨為二十九篇立法,如何?或說曰:「孔子更選二十九篇,二十九篇獨有法也。」蓋俗儒之說也,未必傳記之明也。二十九篇殘而不足,有傳之者,因不足之數,立取法之說,失聖人之意,違古今之實。夫經之有篇也,猶有章句〔也〕。有章句,猶有文字也。文字有意以立句,句有數以連章,章有體以成篇,篇則章句之大者也。謂篇有所法,是謂章句復有所法也。《詩經》舊時亦數千篇,孔子刪去複重,正而存三百篇,猶二十九篇也。謂二十九篇有法,是謂三百五篇復有法也。
あるいは、『尚書』二十九篇は、北斗と二十八宿にならったのだと説く。四七で二十八篇、その一つが北斗なので二十九だという。そもそも『尚書』は秦で滅び絶えて、残っているものが二十九篇なのに、どうしてならいがあろう。宣帝の時に散逸した『尚書』と『易』『礼』各一篇を得て、『礼』『易』の篇数もはじめて足りたのだから、どうしてならいがあろう。百篇の序を調べれば、欠け漏れたのが七十一篇なのに、二十九篇だけのためにならいを立てるというのは、どういうことか。ある人はこう説く。「孔子が改めて二十九篇を選んだので、二十九篇だけにならいがあるのだ。」おそらく俗な儒者の説で、必ずしも伝記の明らかなところではない。二十九篇は欠けて足りないのに、伝える者がいて、足りない数によってならいを取った説を立てる。聖人の意を外し、古今の実に背いている。そもそも経に篇があるのは、章や句があるのと同じだ。章や句があるのは、文字があるのと同じだ。文字に意味があって句を立て、句に数があって章をつなぎ、章に体があって篇を成すのだから、篇とは章や句の大きなものである。篇にならったものがあるというなら、それは章や句にもまたならったものがあるということだ。『詩経』は昔は数千篇もあったが、孔子が重なるものを削り取り、正して三百篇を残した。二十九篇と同じである。二十九篇にならいがあるというなら、それは三百五篇にもまたならいがあるということだ。
或說《春秋》十二月也。《春秋》十二公,猶《尚書》之百篇。百篇無所法,十二公安得法?說《春秋》者曰:「二百四十二年,人道浹,王道備,善善惡惡,撥亂世,反諸正,莫近於《春秋》。」若此者,人道、王道適具足也。三軍六師萬二千人,足以陵敵伐寇,橫行天下,令行禁止,未必有所法也。孔子作《春秋》,紀魯十二公,猶三軍之有六師也;士眾萬二千,猶年有二百四十二也。六師萬二千人,足以成軍;十二公二百四十二年,足以立義。說事者好神道恢義,不肖以遭禍。是故經傳篇數,皆有所法。考實根本,論其文義,與彼賢者作書詩,無以異也。故聖人所經,賢者作書,義窮理竟,文辭備足,則為篇矣。其立篇也,種類相從,科條相附。殊種異類,論說不同,更別為篇。意異則文殊,事改則篇更。據事意作,安得法像之義乎?
あるいは、『春秋』は十二の月だと説く。『春秋』の十二公は、『尚書』の百篇と同じである。百篇にならったものがないのに、十二公がどうしてならいを得よう。『春秋』を説く者は言う。「二百四十二年で人の道が行きわたり、王の道が備わり、善を善とし悪を悪として、乱れた世を正し、正しさに返す。『春秋』より近いものはない。」そうであれば、人の道と王の道がちょうど備わって足りたということだ。三軍六師一万二千人は、敵を圧し寇を討って天下を横行し、命令が行われ禁じたことが止むのに足りるが、必ずしもならったものがあるわけではない。孔子が『春秋』を作って魯の十二公を記したのは、三軍に六師があるのと同じだ。士が一万二千なのは、年が二百四十二あるのと同じだ。六師一万二千人は軍を成すのに足り、十二公二百四十二年は義を立てるのに足りる。事を説く者は神妙な道と大きな義を好み、ふつつかさから禍に遭う。そのために経伝の篇数にどれもならったものがあるというのだ。実と根もとを調べ、その文と意味を論ずれば、あの賢者が書や詩を作ることと変わりがない。だから聖人が経をなし、賢者が書を作るのに、意が尽き理が極まり、文辞が備わって足れば、篇となる。その篇を立てるとき、種類が互いに従い、条目が互いに付く。種類が違い類が異なって論説が同じでなければ、改めて別の篇とする。意が違えば文が異なり、事が変われば篇が変わる。事と意に拠って作るのだから、どうしてならいやかたどりの意味があろう。
或說《春秋》二百四十二年者,上壽九十,中壽八十,下壽七十。孔子據中壽三世而作,三八二十四,故二百四十年也。又說為赤制之中數也。又說二百四十二年,人道浹,王道備。夫據三世,則浹備之說非;言浹備之說為是,則據三世之論誤。二者相伐,而立其義,聖人之意何定哉?凡紀事言年月日者,詳悉重之也。《洪範》五紀,歲、月、日、星。紀事之文,非法像之言也。紀十二公享國之年,凡有二百四十二,凡此以立三世之說矣。實孔子紀十二公者,以為十二公事,適足以見王義邪?據三世,三世之數,適得十二公而足也?如據十二公,則二百四十二年不為三世見也。如據三世,取三八之數,二百四十年而已,何必取二?說者又曰:「欲合隱公之元也,不敢二年。隱公元年,不載於經。」夫《春秋》自據三世之數而作,何用隱公元年之事為始?須隱公元年之事為始,是竟以備足為義,據三世之說不復用矣。說隱公享國五十年,將盡紀元年以來邪?中斷以備三八之數也?如盡紀元年以來,三八之數則中斷;如中斷以備三世之數,則隱公之元不合,何如?且年與月日,小大異耳,其所紀載,同一實也。二百四十二年謂之據三世,二百四十二年中之日月必有數矣。年據三世,月日多少何據哉?夫《春秋》之有年也,猶《尚書》之有章。章以首義,年以紀事。謂《春秋》之年有據,是謂《尚書》之章亦有據也。
あるいは、『春秋』の二百四十二年は、上の寿命が九十、中の寿命が八十、下の寿命が七十で、孔子は中の寿命の三世に拠って作り、三八で二十四なので二百四十年なのだと説く。また赤帝の制の中ほどの数だとも説く。また二百四十二年で人の道が行きわたり王の道が備わったとも説く。そもそも三世に拠るというなら、行きわたり備わったという説は誤りであり、行きわたり備わったという説を正しいとするなら、三世に拠るという論が誤りである。二つが互いを打ちながらその意味を立てるのだから、聖人の意はどうして定まろう。およそ事を記して年や月や日を言うのは、くわしく尽くして重んじるためである。『洪範』の五紀は、歳・月・日・星である。事を記す文であって、ならいやかたどりの言葉ではない。十二公が国を享けた年を記して、全部で二百四十二あったので、それで三世の説を立てたのだ。実際に孔子が十二公を記したのは、十二公の事がちょうど王の義を示すのに足りると考えたからなのか。それとも三世に拠って、三世の数がちょうど十二公を得て足りたからなのか。十二公に拠ったのなら、二百四十二年は三世のために示されたのではない。三世に拠って三八の数を取ったのなら、二百四十年であるはずで、どうして二を足す必要があるのか。説く者はまた言う。「隠公の元年を合わせようとして、あえて二年からにしなかった。隠公の元年は経に載っていない。」そもそも『春秋』がもともと三世の数に拠って作られたのなら、どうして隠公の元年の事を始まりにしたのか。隠公の元年の事を始まりにする必要があるというのは、結局は備わって足りることを意味としているのであって、三世に拠るという説はもう使えない。隠公が国を享けたのは五十年だと説くが、元年以来を全部記そうというのか。それとも途中で断って三八の数を揃えるのか。元年以来を全部記せば三八の数は途中で断たれ、途中で断って三世の数を揃えれば隠公の元年が合わない。どうなのか。また年と月と日は、大小が違うだけで、それが記し載せるところは同じ一つの実である。二百四十二年を三世に拠るというなら、二百四十二年の中の日や月にも必ず数があるはずだ。年が三世に拠るなら、月や日の多少は何に拠るのか。そもそも『春秋』に年があるのは、『尚書』に章があるのと同じだ。章は意味を頭に立て、年は事を記す。『春秋』の年に拠りどころがあるというなら、それは『尚書』の章にも拠りどころがあるということだ。
說《易》者皆謂伏羲作八卦,文王演為六十四。夫聖王起,河出圖,洛出書。伏羲王,《河圖》從河水中出,《易》卦是也。禹之時,得《洛書》,書從洛水中出,《洪範》九章是也。故伏義以卦治天下,禹案《洪範》以治洪水。古者烈山氏之王得河圖,夏後因之曰《連山》;〔歸藏〕氏之王得河圖,殷人因之曰《歸藏》;伏羲氏之王得河圖,周人曰《周易》。其經卦皆六十四,文王、周公因彖十八章究六爻。世之傳說《易》者,言伏羲作八卦;不實其本,則謂伏羲真作八卦也。伏羲得八卦,非作之;文王得成六十四,非演之也。演作之言,生於俗傳。苟信一文,使夫真是幾滅不存。既不知《易》之為河圖,又不知存於俗何家《易》也,或時《連山》、《歸藏》,或時《周易》。案禮夏、殷、周三家相損益之製,較著不同。如以周家在後,論今為《周易》,則禮亦宜為周禮。六典不與今禮相應,今禮未必為周,則亦疑今《易》未必為周也。案左丘明之傳,引周家以卦,與今《易》相應,殆《周易》也。
『易』を説く者はみな、伏羲が八卦を作り、文王がそれを広げて六十四にしたという。そもそも聖王が立てば、河から図が出、洛から書が出る。伏羲が王となったとき、『河図』が河の水の中から出た。『易』の卦がそれである。禹の時に『洛書』を得た。書が洛水の中から出たもので、『洪範』九章がそれである。だから伏羲は卦によって天下を治め、禹は『洪範』を調べて洪水を治めた。昔、烈山氏の王が河図を得て、夏后がこれに拠って『連山』といい、帰蔵氏の王が河図を得て、殷の人がこれに拠って『帰蔵』といい、伏羲氏の王が河図を得て、周の人が『周易』といった。その経の卦はどれも六十四で、文王と周公は彖の十八章によって六爻をきわめた。世で『易』を伝えて説く者は、伏羲が八卦を作ったという。その根もとを実のものにしなければ、伏羲がほんとうに八卦を作ったのだということになる。伏羲は八卦を得たのであって作ったのではなく、文王は成った六十四を得たのであって広げたのではない。広げた、作ったという言葉は、俗の伝えから生まれた。いいかげんに一つの文を信じて、ほんとうに正しいものをほとんど滅んで残らないようにしてしまう。すでに『易』が河図であることを知らず、また俗に残っているのがどの家の『易』なのかも知らない。ときには『連山』や『帰蔵』であり、ときには『周易』である。調べてみれば、礼では夏・殷・周の三家が互いに削り加えた制度が、はっきりと同じでない。周の家が後にあるから、いまのものを論じて『周易』というのなら、礼もまた周礼というべきだ。六典がいまの礼と合わないのだから、いまの礼が必ずしも周のものでないのなら、いまの『易』も必ずしも周のものではないのではないかと疑われる。調べてみれば、左丘明の伝が周の家が卦を用いたことを引いていて、それがいまの『易』と合うので、おそらく『周易』である。
說《禮》者,皆知禮也,禮〔為〕何家禮也?孔子曰:「殷因於夏禮,所損益可知也。周因於殷禮,所損益可知也。」由此言之,夏、殷、周各自有禮。方今周禮邪?夏、殷也?謂之周禮,《周禮》六典。案今《禮經》不見六典,或時殷禮未絕,而六典之禮不傳,世因謂此為周禮也?案周官之法不與今禮相應,然則《周禮》六典是也。其不傳,猶古文《尚書》、《春秋》,《左氏》不興矣。
『礼』を説く者はみな礼を知っているが、その礼はどの家の礼なのか。孔子は言った。「殷は夏の礼に拠ったので、削り加えたところが分かる。周は殷の礼に拠ったので、削り加えたところが分かる。」これによって言えば、夏・殷・周にそれぞれ礼がある。いまのものは周の礼なのか、夏や殷なのか。周礼だというなら、『周礼』は六典である。調べてみればいまの『礼経』に六典は見えない。ときには殷の礼がまだ絶えておらず、六典の礼が伝わらなかったので、世はそれで、これを周礼だというのか。調べてみれば周官の法はいまの礼と合わない。であれば『周礼』は六典のことである。それが伝わらなかったのは、古文『尚書』や『春秋』『左氏』が興らなかったのと同じである。
說《論》者,皆知說文解語而已,不知《論語》本幾何篇,但周以八寸為尺,不知《論語》所獨一尺之意。夫《論語》者,弟子共紀孔子之言行,敕記之時甚多,數十百篇,以八寸為尺,紀之約省,懷持之便也。以其遺非經,傳文紀識恐忘,故以但八寸尺,不二尺四寸也。漢興失亡,至武帝發取孔子壁中古文,得二十一篇,齊、魯二,河間九篇:三十篇。至昭帝女讀二十一篇。宣帝下太常博士,時尚稱書難曉,名之曰傳,後更隸寫以傳誦。初孔子孫孔安國以教魯人扶卿,官至荊州刺史,始曰《論語》。今時稱《論語》二十篇,又失齊、魯、河間九篇。本三十篇,分佈亡失,或二十一篇。目或多或少,文贊或是或誤。說《論語》者,但知以剝解之問,以纖微之難,不知存問本根篇數章目。溫故知新,可以為師;今不知古,稱師如何?
『論』を説く者はみな、文を説き語を解くことだけを知って、『論語』がもともと何篇あったかを知らず、ただ周が八寸を一尺としたことだけを知って、『論語』だけが一尺である意味を知らない。そもそも『論語』は弟子たちがともに孔子の言葉と行いを記したもので、慎んで記したときには非常に多く、数十、数百篇あった。八寸を一尺として記録を簡略にし、懐に持ち歩きやすくしたのである。それが残したものが経ではなく、伝える文として記して忘れることを恐れたのだから、ただ八寸の尺にして、二尺四寸にしなかったのだ。漢が興って失われ、武帝のときに孔子の壁の中の古文を開いて取り、二十一篇を得て、斉と魯の二つ、河間の九篇で、三十篇だった。昭帝に至って二十一篇を読んだ。宣帝が太常の博士に下したが、当時なお文が分かりにくいと言われ、これを伝と名づけ、後に改めて隷書で書き写して伝え唱えた。はじめ孔子の孫の孔安国が魯の人の扶卿に教え、その人は官が荊州の刺史に至ったが、はじめて『論語』といった。いま『論語』二十篇と称するのは、さらに斉・魯・河間の九篇を失ったのだ。もともと三十篇あったのが、散り失われて、二十一篇だったりする。篇目は多かったり少なかったり、文や賛は正しかったり誤っていたりする。『論語』を説く者は、ただ剥いで解きほぐす問いや、細かく微かな難題だけを知って、もともとの根もとや篇の数、章の目を調べ問うことを知らない。古いものを温めて新しいものを知れば師となれるのに、いま古いものを知らずに師と称するのは、どういうことか。
孟子曰:「王者之跡熄而《詩》亡,《詩》亡然後《春秋》作。晉之《乘》,楚之《杌》,魯之《春秋》,一也。」若孟子之言,《春秋》者,魯史記之名,《乘》、《檮杌》同。孔子因舊故之名,以號《春秋》之經,未必有奇說異意,深美之據也。今俗儒說之:「春者歲之始,秋者其終也。《春秋》之經,可以奉始養終,故號為《春秋》。」《春秋》之經,何以異《尚書》?《尚書》者,以為上古帝王之書,或以為上所為下所書,授事相實而為名,不依違作意以見奇。說《尚書》者得經之實,說《春秋》者失聖之意矣。《春秋左氏傳》:「桓公十有七年冬十月朔,日有食之。不書日,官失之也。」謂官失之言,蓋其實也。史官記事,若今時縣官之書矣,其年月尚大難失,日者微小易忘也。蓋紀以善惡為實,不以日月為意。若夫公羊、穀梁之傳,日月不具,輒為意使。失平常之事,有怪異之說,徑直之文,有曲折之義,非孔子之心。夫春秋實言〔冬〕夏,不言者,亦與不書日月,同一實也。
孟子は言った。「王者の跡が消えて『詩』が亡び、『詩』が亡んで後に『春秋』が作られた。晋の『乗』、楚の『檮杌』、魯の『春秋』は、一つである。」孟子の言葉のとおりなら、『春秋』は魯の史記の名であって、『乗』や『檮杌』と同じだ。孔子は古くからの名によって『春秋』の経と呼んだのであって、必ずしも奇抜な説や変わった意味、深く美しい拠りどころがあるわけではない。いま俗な儒者はこう説く。「春は年の始めであり、秋はその終わりである。『春秋』の経は始めを奉じ終わりを養えるので、『春秋』と名づけた。」『春秋』の経は、何が『尚書』と違うのか。『尚書』は、上古の帝王の書だとされ、あるいは上がしたことを下が書いたものだとされる。事を授け受けて互いに実のものとして名としたのであって、よりかかったり背いたりして意をこしらえ奇抜さを見せたのではない。『尚書』を説く者は経の実を得ており、『春秋』を説く者は聖人の意を外している。『春秋左氏伝』に言う。「桓公十七年冬十月朔、日食があった。日を書いていないのは、官がそれを落としたのである。」官が落としたという言葉が、おそらくその実である。史官が事を記すのは、いまの県の役所の文書と同じで、その年や月は大きくて落としにくく、日は小さくて忘れやすい。思うに記録は善悪を実とし、日や月を意とはしない。あの公羊や穀梁の伝は、日や月がそろっていないと、すぐそこに意味を持たせる。ふだんの事を見失って怪しい説を立て、まっすぐな文に曲がった意味を見る。孔子の心ではない。そもそも春秋が実際に冬や夏を言っていないことも、やはり日や月を書いていないのと同じ一つのことである。
唐、虞、夏、殷、周者,土地之名。堯以唐侯嗣位,舜從虞地得達,禹由夏而起,湯因殷而興,武王階周而伐,皆本所興昌之地,重本不忘始,故以為號,若人之有姓矣。說《尚書》謂之有天下之代號,唐、虞、夏、殷、周者,功德之名,盛隆之意也。故唐之為言蕩蕩也,虞者樂也,夏者大也,殷者中也,周者至也。堯則蕩蕩民無能名;舜則天下虞樂;禹承二帝之業,使道尚蕩蕩,民無能名;殷則道得中;周武則功德無不至。其立義美也,其褒五家大矣,然而違其正實,失其初意。唐、虞、夏、殷、周,猶秦之為秦,漢之為漢。秦起於秦,漢興於漢中,故曰猶秦、漢;猶王莽從新都侯起,故曰亡新。使秦、漢在經傳之上,說者將復為秦、漢作道德之說矣。
唐・虞・夏・殷・周は、土地の名である。堯は唐侯として位を継ぎ、舜は虞の地から道が開け、禹は夏から起こり、湯は殷によって興り、武王は周を踏み台にして討った。どれももともと興り栄えた土地なので、根もとを重んじ始まりを忘れないためにそれを号としたのであって、人に姓があるのと同じである。『尚書』を説く者は、それを天下を持った代の号だとして、唐・虞・夏・殷・周は功徳の名であり、盛んで隆んな意味だという。だから唐という言葉は蕩々(ひろびろ)としていること、虞は楽しみ、夏は大きさ、殷は中ほど、周は至ることだという。堯は蕩々として民が名づけようもなく、舜は天下が虞しみ、禹は二人の帝の業を継いで道をなお蕩々とさせ民が名づけようもなく、殷は道が中ほどを得、周の武王は功徳が至らないところがない、というのだ。その意味の立て方は美しく、その五つの家をほめるのは大きいが、その正しい実に背き、その初めの意を外している。唐・虞・夏・殷・周は、秦が秦となり、漢が漢となったのと同じである。秦は秦から起こり、漢は漢中から興ったので、秦や漢と同じだというのだ。王莽が新都侯から起こったので亡んだ新というのと同じだ。かりに秦や漢が経伝の上にあったなら、説く者はまた秦や漢のために道徳の説を作ったであろう。
堯老求禪,四岳舉舜。堯曰:「我其試哉!」說《尚書》曰:「試者,用也;我其用之為天子也。」文為天子也。文又曰:「女於時,觀厥刑於二女。」觀者,觀爾虞舜於天下,不謂堯自觀之也。若此者,高大堯、舜,以為聖人相見已審,不須觀試,精耀相照,曠然相信。又曰:「四門穆穆,入於大麓,烈風雷雨不迷。」言大麓,三公之位也。居一公之位,大總錄二公之事,眾多並吉,若疾風大雨。夫聖人才高,未必相知也。聖成事,舜難知佞,使皋陶陳知人之法。佞難知,聖亦難別。堯之才,猶舜之知也。舜知佞,堯知聖。堯聞舜賢,四岳舉之,心知其奇而未必知其能,故言「我其試〔哉〕!」試之於職,妻以二女,觀其夫婦之法,職治修而不廢,夫道正而不僻。復令人庶之野,而觀其聖,逢烈風疾雨,終不迷惑。堯乃知其聖,授以天下。夫文言「觀」「試」,觀試其才也。說家以為譬喻增飾,使事失正是,誠而不存;曲折失意,使偽說傳而不絕。造說之傳,失之久矣。後生精者,苟欲明經,不原實,而原之者亦校古隨舊,重是之文,以為說證。經之傳不可從,《五經》皆多失實之說。《尚書》、《春秋》,行事成文,較著可見,故頗獨論。
堯が老いて譲る相手を求めると、四岳が舜を推挙した。堯は言った。「私はこれを試そう。」『尚書』を説いてこう言う。「試すとは用いることである。私はこれを用いて天子としよう、ということだ。」文は天子にするということだという。文にはまた言う。「このときに娘を嫁がせ、その法を二人の娘において見よう。」見るとは、おまえ虞舜を天下に見せることであって、堯が自分で見ることをいうのではないという。こうした説き方は、堯と舜を高く大きくして、聖人が互いに会えばすでに見きわめがつき、見たり試したりする必要がなく、精しい輝きが互いを照らして、からりと互いに信じるものだと考えるのである。また言う。「四つの門は穆々として、大麓に入り、烈しい風と雷と雨にも惑わなかった。」大麓とは三公の位だという。一つの公の位にいて、大きく二つの公の事を総べ、多くの事がそろって吉であるのが、疾い風や大雨のようだというのだ。そもそも聖人は才が高くても、必ずしも互いを知るわけではない。聖人の実際の事として、舜はへつらう者を見抜くのが難しくて、皋陶に人を知る法を述べさせた。へつらう者は見抜きにくく、聖人もまた見分けにくい。堯の才は舜の知と同じである。舜はへつらう者を見抜き、堯は聖人を見抜く。堯は舜の賢さを聞き、四岳が推挙したので、心にその並ならぬことは分かったが、必ずしもその能を知ったわけではないので、「私はこれを試そう」と言ったのだ。職において試し、二人の娘を妻として与えてその夫婦のあり方を見ると、職の政は修まって廃れず、夫婦の道は正しくて偏らなかった。さらに人の多い野に行かせてその聖さを見ると、烈しい風と疾い雨に遭ってもついに惑わなかった。堯はそこでその聖さを知り、天下を授けたのである。そもそも文に「観」「試」というのは、その才を見て試すことである。説く家が譬えや飾りを加えて、事を正しさから外させ、まことが残らず、曲げて意を外させて、偽りの説が伝わって絶えないようにしてしまった。説をこしらえた伝えが実を失ってから久しい。後に生まれた精しい者が、いいかげんに経を明らかにしようとしても、実をたどらず、たどる者もまた古いものを調べ古いものに従い、正しいとされてきた文を重ねて、説の証しとする。経の伝えは従えるものではなく、『五経』にはどれも実を外した説が多い。『尚書』と『春秋』は、行われた事が文となって、はっきりと目に見えるので、とりわけこれだけを論じたのである。