いにしえの文 › 論衡(虚と実を秤にかける書)

書解篇

論衡(虚と実を秤にかける書) 論衡 · 王充 · 80年頃 · 段落 10 · 漢字 2,387字 · 朗読 9.5分

論衡(虚と実を秤にかける書) 後漢の人・王充が自ら明かしたこの書の意は四字である — 「疾虚妄」、虚しく妄りなものを憎む。天が人の事に応えて災いを下すとか、死ねば鬼神になって仇を返すとか、日を選ばなければ障りがあるとかいう、その時代の言い分を一つ一つ捕らえて論じる。 論じる肌合いが人とは違う。年長者の言葉だからといってそのままにしない — 孔子に問い(問孔)、孟子を刺し(刺孟)、韓非を否とする(非韓)。天が咎めて災いを下すという言い分には、それならば天はなぜ君主一人のために国中に旱を下すのかと問い返す。 「虚」の字が付いた九篇(書虚・変虚・異虚・感虚・福虚・禍虚・龍虚・雷虚・道虚)が一列に並び、古い書に記された不思議な話を順に捕らえる。「増」の字が付いた三篇(語増・儒増・芸増)は、言葉がどのように膨らんでいくのかを扱う。 吉験篇には、夫余の東明が弓をよく射たので王が殺そうとし、南へ逃れて掩淲水に至ったという話がある。今に残る東明の記録のうち最も早い形である。

或曰:「士之論高,何必以文?」

ある人は言う。「士の論が高いのに、どうして文によらなければならないのか。」

答曰:夫人有文質乃成。物有華而不實,有實而不華者。《易》曰:「聖人之情見乎辭。」出口為言,集札為文,文辭施設,實情敷烈。夫文德,世服也。空書為文,實行為德,著之於衣為服。故曰:德彌盛者文彌縟,德彌彰者人彌明。大人德擴其文炳。小人德熾其文斑。官尊而文繁,德高而文積。華而晥者,大夫之簀,曾子寢疾,命元起易。由此言之,衣服以品賢,賢以文為差。愚傑不別,須文以立折。非唯於人,物亦咸然。龍鱗有文,於蛇為神;鳳羽五色,於鳥為君;虎猛,毛蚡蚖;龜知,背負文:四者體不質,於物為聖賢。且夫山無林,則為土山,地無毛,則為瀉土;人無文,則為僕人。土山無麋鹿,瀉土無五穀,人無文德,不為聖賢。上天多文而後土多理。二氣協和,聖賢稟受,法像本類,故多文彩。瑞應符命,莫非文者。晉唐叔虞、魯成季友、惠公夫人號曰仲子,生而怪奇,文在其手。張良當貴,出與神會,老父授書,卒封留侯。河神,故出圖,洛靈,故出書。竹帛所記怪奇之物,不出潢洿。物以文為表,人以文為基。棘子成欲彌文,子貢譏之。謂文不足奇者,子成之徒也。

答える。そもそも人は文と質があってはじめて成る。物には花があって実がないものがあり、実があって花がないものがある。『易』に言う。「聖人の情は辞に現れる。」口から出れば言葉となり、札を集めれば文となる。文辞が設けられれば、実の情が広がり顕れる。そもそも文と徳は、世の衣である。空に書けば文となり、実に行えば徳となり、衣に表せば服となる。だから言う。徳が盛んであるほど文はこまやかであり、徳が顕れるほど人は明らかである。大人は徳が広くてその文が輝き、小人は徳が燃え立ってその文がまだらである。官が尊ければ文が多く、徳が高ければ文が積む。華やかでなめらかなものは大夫の敷物であって、曾子が病み伏せたとき、元に命じて起こして取り替えさせた。これによって言えば、衣服で賢さを品定めし、賢さは文によって段をつける。愚かさと優れたさが見分けられないので、文によって判じ分ける。人だけでなく、物もどれもそうである。竜の鱗に文があるので蛇より神妙であり、鳳の羽は五色なので鳥の君となり、虎は猛々しくて毛がまだらであり、亀は知があって背に文を負う。この四つは体が質素でないので、物のなかの聖賢となる。また、そもそも山に林がなければ土の山となり、地に毛がなければ塩気の土となり、人に文がなければ僕(しもべ)となる。土の山に麋や鹿はおらず、塩気の土に五穀は育たず、人に文と徳がなければ聖賢にならない。上の天は文が多く、后土は筋目が多い。二つの気が和合して聖賢が受け、もとの類をならうので、文のあやが多い。めでたい応えや符命は、文でないものがない。晋の唐叔虞、魯の成季友、恵公の夫人で仲子と呼ばれた人は、生まれつき不思議で、文がその手にあった。張良が貴くなるはずのとき、出かけて神に出会い、老父が書を授け、ついに留侯に封じられた。河の神なので図を出し、洛の霊なので書を出した。竹や絹が記した不思議なものは、水たまりから出たりしない。物は文を表とし、人は文を基とする。棘子成が文をなくそうとしたとき、子貢がそれをとがめた。文が珍しいに足りないという者は、子成の仲間である。

著作者為文儒,說經者為世儒。二儒在世,未知何者為優。或曰:「文儒不若世儒。世儒說聖人之經,解賢者之傳,義理廣博,無不實見,故在官常位,位最尊者為博士,門徒聚眾,招會千里,身雖死亡,學傳於後。文儒為華淫之說,於世無補,故無常官,弟子門徒不見一人,身死之後,莫有紹傳,此其所以不如世儒者也。」

著作する者は文儒となり、経を説く者は世儒となる。二つの儒が世にあって、どちらが優れているかは分からない。ある人は言う。「文儒は世儒に及ばない。世儒は聖人の経を説き、賢者の伝を解いて、意味と理が広く、実に見ないものがないので、官につねに位があり、位の最も高い者は博士となり、門弟が多く集まり、千里から招き寄せ、身が死んでも学が後に伝わる。文儒は華やかでみだりな説をなして、世に補いがないので、定まった官がなく、弟子や門弟が一人も見えず、身が死んだ後は継いで伝える者がない。これが世儒に及ばない理由である。」

答曰:不然。夫世儒說聖情,□□□□,共起並驗,俱追聖人。事殊而務同,言異而義鈞。何以謂之文儒之說無補於世?世儒業易為,故世人學之多;非事可析第,故宮廷設其位。文儒之業,卓絕不循,人寡其書,業雖不講,門雖無人,書文奇偉,世人亦傳。彼虛說,此實篇。折累二者,孰者為賢?案古俊又著作辭說,自用其業,自明於世。世儒當時雖尊,不遭文儒之書,其跡不傳。周公制禮樂,名垂而不滅。孔子作《春秋》,聞傳而不絕。周公、孔子,難以論言。漢世文章之徒,陸賈、司馬遷、劉子政、揚子雲,其材能若奇,其稱不由人。世傳《詩》家魯申公,《書》家千乘歐陽、公孫,不遭太史公,世人不聞。夫以業自顯,孰與須人乃顯?夫能紀百人,孰與廑能顯其名?

答える。そうではない。そもそも世儒が聖人の情を説くのは、ともに立ち上がってともに証しを立て、どちらも聖人を追うのである。事は違っても務めは同じであり、言葉は異なっても意味は等しい。何によって文儒の説が世に補いがないというのか。世儒の業はやりやすいので世の人が学ぶ者が多く、事が分けて順をつけられるものではないので、宮廷がその位を設けている。文儒の業はぬきんでて人に従わず、その書を作る人も少ない。業が講じられず、門に人がいなくても、その文は珍しく偉大なので、世の人もまたそれを伝える。あちらは空疎な説であり、こちらは実の篇である。二つをはかりにかければ、どちらが賢いのか。調べてみれば、昔の俊才もまた辞や説を著して、自分でその業を用い、自分で世に明らかにした。世儒は当時は尊くても、文儒の書に出合わなければ、その跡は伝わらない。周公が礼楽を定めて、その名は垂れて消えない。孔子が『春秋』を作って、聞き伝えられて絶えない。周公と孔子は、論じて言うのが難しい。漢の世の文章の人々、陸賈・司馬遷・劉子政・揚子雲は、その才と能が並ならぬようで、その評判は人によらなかった。世に伝わる『詩』の家の魯の申公、『書』の家の千乗の欧陽と公孫は、太史公に出合わなければ、世の人は聞かなかったであろう。そもそも業によって自ら顕れるのと、人を待ってはじめて顕れるのと、どちらが優るのか。そもそも百人を記せるのと、やっと自分の名を顕せるだけなのと、どちらが優るのか。

或曰:「著作者,思慮間也,未必材知出異人也。居不幽,思不至。使著作之人,總眾事之凡,典國境之職,汲汲忙忙,〔何〕暇著作?試使庸人積閒暇之思,亦能成篇八十數。文王日昃不暇食,周公一沐三握發,何暇優游為麗美之文於筆札?孔子作《春秋》,不用於周也。司馬長卿不預公卿之事,故能作子虛之賦。揚子雲存中郎之官,故能成《太玄經》,就《法言》。使孔子得王,《春秋》不作。〔籍〕長卿、子雲為相,賦玄不工。」

ある人は言う。「著作する者は思いにゆとりがあるのであって、必ずしも才と知が人よりぬきんでているわけではない。住まいが静かでなければ思いは至らない。著作する人に、多くの事のすべてを総べさせ、国境の職を任せたら、あくせく忙しくて、どこに著作のいとまがあろう。ためしに並の人にゆとりある思いを積ませれば、やはり八十篇ほどは作れる。文王は日が傾くまで食べるいとまがなく、周公は一度髪を洗うあいだに三度髪をつかんだのだから、どこにゆったりと麗しく美しい文を筆と札に書くいとまがあったか。孔子が『春秋』を作ったのは、周に用いられなかったからだ。司馬長卿は公卿の事にあずからなかったので、子虚の賦を作れた。揚子雲は中郎の官にあったので、『太玄経』を成し『法言』を作れた。孔子が王となれていたら『春秋』は作られなかった。長卿や子雲が相となっていたら、賦も玄も巧みではなかったであろう。」

答曰:文王日昃不暇食,此謂演《易》而益卦。周公一沐三握發,為周改法而製。周道不弊,孔子不作,休思慮間也!周法闊疏,不可因也。夫稟天地之文,發於胸臆,豈為間作不暇日哉?感偽起妄,源流氣。管仲相桓公,致於九合。商鞅相孝公,為秦開帝業。然而二子之書,篇章數十。長卿、子雲,二子之倫也。俱感,故才並;才同,故業鈞。皆士而各著,不以思慮間也。問事彌多而見彌博,官彌劇而識彌泥。居不幽則思不至,思不至則筆不利。嚚頑之人,有幽室之思,雖無憂,不能著一字。蓋人材有能,無有不暇。有無材而不能思,無有知而不能著。有鴻材欲作而無起,細知以問而能記。蓋奇有無所因,無有不能言,兩有無所睹,無不暇造作。

答える。文王が日が傾くまで食べるいとまがなかったのは、『易』を広げて卦を加えたことをいう。周公が一度髪を洗うあいだに三度髪をつかんだのは、周のために法を改めて定めたことである。周の道が廃れなければ孔子は作らなかっただろうというのは、思いのゆとりをほめることになる。周の法は広くて目が粗く、そのままには拠れなかったのだ。そもそも天地の文を受けて胸の内から発するのに、どうしてゆとりがあるときに作って、いとまのない日には作らないということがあろう。偽りに感じてでたらめを起こすのは、源と流れの気である。管仲は桓公を助けて九度の会盟に至った。商鞅は孝公を助けて秦のために帝業を開いた。それでも二人の書は篇章が数十ある。長卿と子雲は、この二人と同じ仲間である。ともに感じたので才が並び、才が同じなので業も等しい。どちらも士でありながらそれぞれ著したのであって、思いにゆとりがあったからではない。事を問うことが多いほど見るところは広く、官が忙しいほど知はつまる。住まいが静かでなければ思いは至らず、思いが至らなければ筆は鋭くならない。愚かで頑なな人は、静かな部屋の思いがあって、憂いがなくても、一字も書けない。思うに人の才に能があれば、いとまがないということはない。才がなくて考えられないことはあるが、知があって書けないことはない。大きな才があって作ろうとしても起こすもとがないことがあり、細い知で問うて記せることがある。思うに、並ならぬ者が拠るもとがないことはあっても、語れないことはなく、二つがそろっていれば見るものがなくても、作るいとまがないということはない。

或曰:「凡作者精思已極,居位不能領職。蓋人思有所倚著,則精有所盡索。著作之人,書言通奇,其材已極,其知已罷。案古作書者,多位布散盤解,輔傾寧危,非著作之人所能為也。夫有所逼,有所泥,則有所自,篇章數百。呂不韋作《春秋》舉家徙蜀;淮南王作道書,禍至滅族;韓非著治術,身下秦獄。身且不全,安能輔國?夫有長於彼,安能不短於此?深於作文,安能不淺於政治?」

ある人は言う。「およそ作る者は精しい思いがすでに極まっていて、位にいても職を務められない。思うに人の思いが寄りかかるところがあれば、精がそこで尽き果てる。著作する人は、文も言葉も並ならぬところに通じていて、その才はすでに極まり、その知はすでに尽きている。調べてみれば、昔、書を作った者は、多く位から散り離れていて、傾くものを支え危ういものを安らかにすることは、著作する人にできることではない。そもそも追い込まれるところがあり、行き詰まるところがあれば、自分からするものがあって、篇章が数百になる。呂不韋は『春秋』を作って一家が蜀に移され、淮南王は道家の書を作って禍が至り一族が滅び、韓非は治める術を著して身が秦の獄に下された。身すら全うできないのに、どうして国を助けられよう。そもそもあちらに長けていれば、どうしてこちらに短くないでいられよう。文を作るのに深ければ、どうして政治に浅くないでいられよう。」

答曰:人有所優,固有所劣;人有所工,固有所拙。非劣也,志意不為也,非拙也,精誠不加也。誌有所存,顧不見泰山;思有所至,有身不暇徇也。稱干將之利,刺則不能擊,擊則不能刺,非刃不利,不能一旦二也。蛢彈雀則失鷃,射鵲則失雁,方員畫不俱成,左右視不並見,人材有兩為,不能成一。使乾將寡刺而更擊,舍鵲而射雁,則下射無失矣。人委其篇章,專為〔政〕治,則子產、子賤之跡不足侔也。古作書者,多立功不用也。管仲、晏嬰,功書並作;商鞅、虞卿,篇治俱為。高祖既得天下,馬上之計未敗,陸賈造《新語》,高祖粗納採。呂氏橫逆,劉氏將傾,非陸賈之策,帝室不寧。蓋材知無不能,在所遭遇,遇亂則知立功,有起則以其材著書者也。出口為言,著文為篇。古以言為功者多,以文為敗者希。呂不韋、淮南王以他為過,不以書有非,使客作書,不身自為;如不作書,猶蒙此章章之禍。人古今違屬,未必皆著作材知極也。鄒陽舉疏,免罪於梁。徐樂上書,身拜郎中。材能以其文為功於人,何嫌不能營衛其身?韓蚤信公子非,國不傾危。及非之死,李斯如奇,非以著作材極,不能複有為也。春物之傷,或死之也,殘物不傷,秋亦不長。假令非不死,秦未可知。故才人能令其行可尊,不能使人必法己;能令其言可行,不能使人必採取之矣。

答える。人に優れたところがあれば、もとより劣ったところがある。人に巧みなところがあれば、もとより拙いところがある。劣っているのではなく、志がそれをしないのであり、拙いのではなく、まことがそこに向けられていないのだ。志が向かうところがあれば、振り向いても泰山が見えず、思いが至るところがあれば、身があってもそれを顧みるいとまがない。干将の刃の鋭さを称えるにも、刺せば斬れず、斬れば刺せない。刃が鋭くないのではなく、ひとときに二つはできないのだ。雀を狙えば鷃を逃し、鵲を射れば雁を逃す。四角と丸を描くのに同時には成らず、左右を見るのに同時には見えない。人の才に二つのことをさせれば、一つも成せない。干将で刺すのを控えて斬ることに替え、鵲を捨てて雁を射させれば、射て外すことはなくなる。人がその篇章を捨てて、もっぱら政治をしたなら、子産や子賤の跡も並べるに足りなくなるだろう。昔、書を作った者は、多く功を立てても用いられなかった。管仲や晏嬰は、功と書がともに成った。商鞅や虞卿は、篇と政がともに成った。高祖がすでに天下を得て、馬上の計がまだ破れていないときに、陸賈が『新語』を作ると、高祖はおおよそそれを受け入れた。呂氏が横暴に逆らって劉氏が傾こうとしたとき、陸賈の策がなければ帝室は安らかでなかった。思うに才と知にできないことはなく、出合うものによって、乱れに出合えば知が功を立て、起こすもとがあればその才で書を著すのである。口から出れば言葉となり、文を著せば篇となる。昔、言葉で功をなした者は多く、文で破れた者はまれである。呂不韋や淮南王はほかの事で過ちとなったのであって、書に誤りがあったからではない。客に書を作らせて、自分で書いたのではない。書を作らなかったとしても、やはりこの明らかな禍を受けたであろう。人が古今に背きまた属するのであって、必ずしもみな著作の才と知が極まったわけではない。鄒陽は上疏して梁で罪を免れた。徐楽は上書して身が郎中に任じられた。才と能がその文によって人のために功をなしたのに、どうしてその身を守れないと疑うのか。韓が早く公子の非を信じていたら、国は傾き危うくならなかった。非が死んだとき、李斯がそれを並ならぬと思ったようであるから、非が著作の才を極めてもう何もできなかったからではない。春に物が傷つけば死ぬこともあり、残った物が傷つかなくても、秋にやはり育たない。かりに非が死ななかったとしても、秦のことは分からない。だから才ある人は、その行いを尊ぶに足るものにはできても、人に必ず自分をならわせることはできず、その言葉を行うに足るものにはできても、人に必ずそれを採り上げさせることはできない。

或曰:「古今作書者非一,各穿鑿失經之實傳,違聖人質,故謂之蕞殘,比之玉屑。故曰:「蕞殘滿車,不成為道;玉屑滿篋,不成為寶。」前人近聖,猶為蕞殘,況遠聖從後復重為者乎?其作必為妄,其言必不明,安可採用而施行?」

ある人は言う。「古今に書を作った者は一人ではないが、それぞれ穿鑿して経の実の伝えを外し、聖人の質に背くので、それを切れ端といい、玉の屑に比べる。だから言う。『切れ端が車に満ちても道にはならず、玉の屑が箱に満ちても宝にはならない。』前の人は聖人に近くてもなお切れ端なのだから、まして聖人から遠く、後に続いてまた重ねて作る者はどうか。その作るものは必ずでたらめで、その言葉は必ず明らかでない。どうして採り上げて行えようか。」

答曰:聖人作其經,賢者造其傳,述作者之意,採聖人之志,故經須傳也。俱賢所為,何以獨謂經傳是,他書記非?彼見經傳,傳經之文,經須而解,故謂之是。他書與書相違,更造端緒,故謂之非。若此者,韙是於《五經》。使言非《五經》,雖是不見聽。使《五經》從孔門出,到今常令人不缺滅,謂之純壹,信之可也。今《五經》遭亡秦之奢侈,觸李斯之橫議,燔燒禁防,伏生之休,抱經深藏。漢興,收《五經》,經書缺滅而不明,篇章棄散而不具。晁錯之輩,各以私意分拆文字,師徒相因相授,不知何者為是。亡秦無道,敗亂之也。秦雖無道,不燔諸子。諸子尺書,文篇具在,可觀讀以正說,可採掇以示後人。後人復作,猶前人之造也。夫俱鴻而知,皆傳記所稱,文義與經相薄。何以獨謂文書失經之實?由此言之,經缺而不完,書無佚本,經有遺篇。折累二者,孰與蕞殘?《易》據事象,《詩》採民以為篇,《樂》須〔民〕歡,《禮》待民平。四經有據,篇章乃成。《尚書》、《春秋》,採掇史記。史記興無異,以民事一意,《六經》之作皆有據。由此言之,書亦為本,經亦為末,末失事實,本得道質。折累二者,孰為玉屑?知屋漏者在宇下,知政失者在草野,知經誤者在諸子。諸子尺書,文明實是。說章句者,終不求解扣明,師師相傳,初為章句者,非通覽之人也。

答える。聖人がその経を作り、賢者がその伝を作って、作った者の意を述べ、聖人の志を採ったのだから、経は伝を必要とする。どちらも賢者がしたことなのに、どうして経と伝だけが正しく、ほかの書の記は誤りだというのか。彼らは、経伝は経を伝える文で、経はそれを待ってはじめて解けるのだから正しい、と見るのだ。ほかの書は書と互いに食い違い、改めて別の糸口を作るので、誤りだという。こういう考え方は、正しさを『五経』に置くものだ。言葉が『五経』でなければ、正しくても聞き入れられない。『五経』が孔子の門から出て、今までずっと人が欠かし滅ぼさないようにしてきたのなら、純一だといって、それを信じてよい。ところがいま『五経』は亡んだ秦の奢りに遭い、李斯の横暴な議に触れて、焼かれ禁じられ、伏生の美しさは経を抱いて深く隠したことだった。漢が興って『五経』を集めたとき、経書は欠け滅びて明らかでなく、篇章は捨てられ散って揃っていなかった。晁錯の輩がそれぞれ自分の考えで文字を分け割き、師と弟子が互いに拠って互いに授けたので、どれが正しいか分からない。亡んだ秦が道なく、破り乱したのである。だが秦は道がなくても、諸子の書は焼かなかった。諸子の一尺の書は文と篇がそろって残っており、見て読んで説を正せるし、採り上げて後の人に示せる。後の人がまた作るのは、前の人が作ったのと同じである。そもそもどちらも大きく知があって、どちらも伝記が称えるところで、文と意味が経と近い。どうして文書だけが経の実を外したというのか。これによって言えば、経は欠けて完全でなく、書には失われた本がなく、経には漏れた篇がある。二つをはかりにかければ、どちらが切れ端なのか。『易』は事のかたちに拠り、『詩』は民から採って篇とし、『楽』は民の喜びを待ち、『礼』は民の安らかさを待つ。この四つの経に拠りどころがあって、篇章がはじめて成る。『尚書』と『春秋』は史記から採った。史記の起こりも変わりがなく、民の事をもって一つの意としたのだから、『六経』の作にはどれも拠りどころがある。これによって言えば、書も本となり、経も末となる。末は事の実を外し、本は道の質を得る。二つをはかりにかければ、どちらが玉の屑なのか。屋根が漏ることを知るのは軒の下にいる者であり、政の失を知るのは草の野にいる者であり、経の誤りを知るのは諸子である。諸子の一尺の書は、文が明らかで実に正しい。章句を説く者は、ついに解き明かすことを求めず、師から師へと伝えるだけで、はじめて章句を作った者は、あまねく見わたした人ではなかったのだ。