朝鮮 一 — 高麗末と国号「朝鮮」朝鮮 一
1箕子から王氏まで
朝鮮,箕子所封國也。漢以前曰朝鮮。始為燕人衞滿所據,漢武帝平之,置真番、臨屯、樂浪、玄菟四郡。漢末,有扶餘人高氏據其地,改國號曰高麗,又曰高句麗,居平壤,即樂浪也。已,為唐所破,東徙。後唐時,王建代高氏,兼併新羅、百濟地,徙居松岳,曰東京,而以平壤為西京。其國北鄰契丹,西則女直,南曰日本。元至元中,西京內屬,置東寧路總管府,盡慈嶺為界。
朝鮮は箕子が封じられた国である。漢より前は朝鮮と呼ばれた。はじめ燕の人衛満に占拠されたが、漢の武帝がこれを平定し、真番・臨屯・楽浪・玄菟の四郡を置いた。漢の末、扶餘の人高氏がその地を手に入れ、国号を高麗と改めた。高句麗ともいい、平壌に都したが、これがすなわち楽浪である。のち唐に破られて東へ移った。五代の後唐のとき、王建が高氏に代わって新羅・百済の地を併せ、松岳に移って住み、ここを東京と呼び、平壌を西京とした。その国は北で契丹と隣り合い、西は女直、南は日本である。元の至元年間に西京が内属し、東寧路総管府が置かれ、慈悲嶺を境とした。
2恭愍王と洪武帝
明興,王高麗者王顓。太祖即位之元年遣使賜璽書。二年送還其國流人。顓表賀,貢方物,且請封。帝遣符璽郎偰斯齎詔及金印誥文封顓為高麗國王,賜曆及錦綺。其秋,顓遣總部尚書成惟得、千牛衞大將軍金甲兩上表謝,并賀天壽節,因請祭服制度,帝命工部製賜之。惟得等辭歸,帝從容問:「王居國何為?城郭修乎?兵甲利乎?宮室壯乎?」頓首言:「東海波臣,惟知崇信釋氏,他未遑也。」遂以書諭之曰:「古者王公設險,未嘗去兵。民以食為天,而國必有出政令之所。今有人民而無城郭,人將何依?武備不修,則威弛;地不耕,則民艱於食;且有居室,無廳事,無以示尊嚴。此數者朕甚不取。夫國之大事,在祀與戎。苟闕斯二者,而徒事佛求福,梁武之事,可為明鑑。王國北接契丹、女直,而南接倭,備禦之道,王其念之。」因賜之六經、四書、通鑑。自是貢獻數至,元旦及聖節皆遣使朝賀,歲以為常。
明が興ったとき、高麗の王であったのは王顓(恭愍王)である。太祖は即位の元年に使者を遣わして璽書を賜り、二年にはその国の流民を送り返した。顓は表を奉って慶賀し、方物を貢ぎ、あわせて封爵を請うた。帝は符璽郎の偰斯を遣わし、詔と金印・誥文を持たせて顓を高麗国王に封じ、暦と錦綺を賜った。その秋、顓は総部尚書の成惟得と千牛衛大将軍の金甲両を遣わして表を奉り謝意を述べ、あわせて天寿節を賀し、その折に祭服の制度を請うたので、帝は工部に命じて作らせて賜った。惟得らが暇を告げて帰るとき、帝はくつろいで尋ねた。「王は国で何をしているのか。城郭は修めてあるか。兵器は鋭いか。宮室は立派か。」彼らは頭を下げて答えた。「東海の片隅の臣でございますから、ただ釈氏を篤く信ずることだけを知り、ほかには手が回りません。」そこで帝は書を下して諭した。「古の王公は険しい備えを設け、かつて兵を捨てたことがない。民は食を天とし、国には必ず政令の出るところがなければならぬ。いま人民がいて城郭がなければ、人は何に拠ろうとするのか。武備を修めなければ威はゆるみ、土地を耕さなければ民は食に窮する。また住まいはあっても政務をとる庁舎がなければ、尊厳を示すすべがない。この数か条は朕のまったく取らぬところである。そもそも国の大事は祭祀と戦にある。もしこの二つを欠いて、ただ仏に仕えて福を求めるなら、梁の武帝の事こそ明らかな鑑となろう。王の国は北で契丹・女直に接し、南で倭に接するのだから、備え守る道を王はよく心に留めよ。」そして六経・四書・通鑑を賜った。これより朝貢がしばしば届き、元旦と聖節にはいずれも使者を遣わして朝賀し、毎年の例となった。
夾注 1
成惟得至金甲兩上表謝成惟得,高麗史卷四一作「成准得」。金甲兩,作「金甲雨」。
「成惟得と金甲両が表を奉って謝した」 — 成惟得は高麗史巻四一に「成准得」とあり、金甲両は「金甲雨」とある。
3三年に一度の朝聘とせよ
三年正月命使往祀其國之山川。是歲頒科舉詔於高麗,顓表謝,貢方物,并納元所授金印。中書省言:「高麗貢使多齎私物入貨,宜征稅;又多攜中國物出境,禁之便。」俱不許。五年表請遣子弟入太學,帝曰:「入學固美事,但涉海遠,不欲者勿強。」貢使洪師範、鄭夢周等一百五十餘人來京,失風溺死者三十九人,師範與焉。帝憫之,遣元樞密使延安答里往諭入貢毋數。而顓復遣其門下贊成事姜仁裕來貢馬,其賀正旦使金湑等已先至,帝悉遣還。謂中書省臣曰:「高麗貢獻繁數,既困敝其民,而涉海復虞覆溺。宜遵古諸侯之禮,三年一聘。貢物惟所產,毋過侈。其明諭朕意。」
三年正月、使者に命じてその国の山川を祀らせた。この年、科挙の詔を高麗に頒布したので、顓は表を奉って謝し、方物を貢ぎ、あわせて元から授かった金印を納めた。中書省が「高麗の貢使は私物を多く持ち込んで売っているので税を課すべきであり、また中国の品を多く国外へ持ち出すので、これを禁じるのが得策です」と言ったが、いずれも許さなかった。五年、表を奉って子弟を太学に入れたいと請うたので、帝は「入学はまことに美しいことだが、海を渡るのは遠い。望まぬ者に無理をさせてはならぬ」と言った。貢使の洪師範・鄭夢周ら百五十余人が都に来る途中、風に遭って溺れ死んだ者が三十九人、師範もその中にいた。帝はこれを哀れみ、元の枢密使であった延安答里を遣わして、入貢をたびたびするなと諭した。ところが顓はまた門下賛成事の姜仁裕を遣わして馬を貢ぎ、賀正旦使の金湑らはすでに先に来ていたので、帝はみな送り返した。そして中書省の臣に言った。「高麗の朝貢は頻繁で、すでにその民を疲れさせており、海を渡ればまた溺れる心配がある。古の諸侯の礼にならい、三年に一度朝聘させ、貢物はその土地の産物だけとし、度を越して贅沢にさせてはならぬ。朕の意をはっきりと諭せ。」
4恭愍王が殺される
六年,顓遣甲兩等貢馬五十匹,道亡其二,甲兩以聞。及進,以私馬足之。帝惡其不誠,卻之。七年遣監門護軍周誼、鄭庇等來貢,表請每歲一貢,貢道從陸,由定遼,毋涉海,其貢物稱「送太府監」。中書省言:「元時有太府監,本朝未嘗有,言涉不誠。」帝命卻其貢。是歲顓為權相李仁人所弒。顓無子,以寵臣辛肫之子禑為子,於是仁人立禑。
六年、顓は甲両らを遣わして馬五十匹を貢いだが、途中で二匹を失ったので、甲両はそのことを申し上げ、献上の際には自分の馬で数を補った。帝はその不誠実を憎んで受け取らなかった。七年、監門護軍の周誼・鄭庇らを遣わして貢ぎ、表を奉って毎年一度貢ぎ、貢路は陸路をとって定遼を経ることとし、海を渡らずにすむよう請うたが、その貢物に「太府監に送る」と記してあった。中書省が「元のときには太府監があったが、本朝にはかつてない。言葉が不誠実にわたります」と言ったので、帝はその貢物を却けよと命じた。この年、顓は権臣の李仁人に殺された。顓には子がなく、寵臣辛肫の子である禑を子としていたので、こうして仁人が禑を立てた。
夾注 1
顓為權相李仁人所弒李仁人,李朝實錄太祖實錄卷一恭讓王元年十二月條、明世宗實錄卷一0四嘉靖八年八月壬午條都作「李仁任」。作「仁人」或係傳訛。太祖實錄卷二二一洪武二十五年九月庚寅條、葉向高朝鮮考,統作「仁人」,今姑仍之。下同。
「顓(恭愍王)が権臣の李仁人に殺された」 — 李仁人は、李朝実録の太祖実録巻一恭讓王元年十二月条、および明の世宗実録巻一〇四嘉靖八年八月壬午条には、いずれも「李仁任」とある。「仁人」は伝え誤りかと思われるが、太祖実録巻二二一洪武二十五年九月庚寅条や葉向高の朝鮮考がそろって「仁人」と書くので、いまはしばらくそのままにしておく。以下も同じ。
5馬千匹、人質のような歳貢
八年,禑遣判宗簿事崔原來告哀,且言前有貢使金義殺朝使蔡斌,今嗣王禑已誅義,籍其家。帝疑其詐,拘原而遣使往祭弔。十年,使來請故王顓諡號,帝曰:「顓被殺已久,今始請諡,將假吾朝命,鎮撫其民,且掩其弒逆之跡,不可許。前所留使者,其遣之。」於是釋原歸。其夏,復遣周誼貢馬及方物,卻不受。冬,又遣使賀明年正旦。帝曰:「高麗王顓被弒,奸臣竊命,春秋之義,亂臣必誅,夫又何言。第前後使者皆稱嗣王所遣,中書宜遣人往問嗣王如何,政令安在。若政令如前,嗣王不為羈囚,則當依前王言,歲貢馬千匹,明年貢金百斤、銀萬兩、良馬百、細布萬,仍悉送還所拘遼東民,方見王位真而政令行,朕無惑已。否則弒君之賊,必討無赦。」
八年、禑は判宗簿事の崔原を遣わして喪を告げ、あわせて、さきに貢使の金義が明の使者蔡斌を殺したが、いま嗣王の禑はすでに義を誅し、その家を没収したと述べた。帝はその偽りを疑い、原を留め置いて、使者を遣わして祭り弔わせた。十年、使者が来て先王顓の諡号を請うたので、帝は言った。「顓が殺されてすでに久しいのに、いまになって諡を請うのは、わが朝廷の命を借りてその民を鎮め撫し、あわせて主殺しの跡を覆い隠そうとするものだ。許すわけにはいかぬ。さきに留め置いた使者は帰してやれ。」そこで原を放って帰した。その夏、また周誼を遣わして馬と方物を貢いだが、却けて受け取らなかった。冬、また使者を遣わして翌年の正旦を賀したので、帝は言った。「高麗王顓は殺され、奸臣が国命を盗んだ。春秋の義では乱臣は必ず誅するもの、何を言うことがあろう。ただ前後の使者がいずれも嗣王の遣わしたものだと称するので、中書は人を遣わして、嗣王はどうしているのか、政令はどこにあるのかを問わせよ。政令が以前のとおりで、嗣王が囚われの身でないなら、前王の言のとおり毎年馬千匹を貢ぎ、来年は金百斤・銀一万両・良馬百匹・細布一万匹を貢ぎ、あわせて抑留している遼東の民をすべて送り返させよ。そうしてこそ王位が本物であり政令が行われていることが見え、朕に疑いはなくなる。さもなければ、君を殺した賊は必ず討って赦さぬ。」
6国交が凍りつく
十一年四月,禑復命誼來貢。十二年敕遼東守將潘敬、葉旺等謹飭邊備。其冬,禑遣李茂芳等來貢,以不如約卻之。十三年,遼東送高麗使誼至京師,帝敕敬等曰:「高麗弒君,又殺朝使,前堅請入貢又不如期,今遣誼來,以虛文飾詐,他日必為邊患。自今來者,其絕勿通。」因留誼於京師。十六年來貢,卻之,命禮部責其朝貢過期、陪臣侮慢之罪;誠欲聽約者,當以前五歲違約不貢之物幷至。十七年六月,禑遣司僕正崔涓、禮儀判書金進宜貢馬二千匹。且言金非地所產,願以馬代輸,餘皆如約。遼東守將唐勝宗為之請,帝許之。然請顓諡號,襲王爵,未允也。
十一年四月、禑はまた誼に命じて貢がせた。十二年、遼東の守将である潘敬・葉旺らに勅して、辺境の備えを謹んで整えさせた。その冬、禑は李茂芳らを遣わして貢いだが、約束どおりでないとして却けた。十三年、遼東が高麗の使者の誼を都に送ってきたので、帝は敬らに勅して言った。「高麗は君を殺し、また朝廷の使者を殺した。さきには入貢を強く請いながら期限を守らず、いま誼を遣わして空虚な文辞で偽りを飾っている。いずれ必ず辺境の患いとなろう。今より来る者はみな断って通すな。」そして誼を都に留め置いた。十六年に貢いできたが却け、礼部に命じて、朝貢の期限を越えた罪と陪臣の無礼傲慢の罪を責めさせ、まことに約束に従う気があるなら、この五年のあいだ約束を破って貢がなかった品をあわせて持って来るようにと言わせた。十七年六月、禑は司僕正の崔涓と礼儀判書の金進宜を遣わして馬二千匹を貢ぎ、あわせて、金はこの地の産でないので馬で代えて納めたい、ほかはみな約束どおりにすると述べた。遼東の守将唐勝宗がそのために取りなしたので、帝は許した。しかし顓の諡号と王爵の継承を請うたことは、まだ認めなかった。
7三年一貢に減らす
十八年正月,貢使至。帝諭禮臣曰:「高麗屢請約束,朕數不允,而其請不已,故索歲貢以試其誠偽,非以此為富也。今既聽命,宜損其貢數,今三年一朝,貢馬五十匹。至二十一年正旦乃貢。」七月,禑上表請襲爵,幷請故王諡。命封禑為高麗國王,賜故王顓諡恭愍。
十八年正月、貢使が着いた。帝は礼部の臣に諭して言った。「高麗はたびたび取り決めを請うたが、朕は幾度も許さなかった。それでも請うてやめないので、歳貢を求めてその誠意と偽りを試したのである。これで富を得ようとしたのではない。いますでに命に従ったのだから、貢物の数を減らし、三年に一度朝し、馬五十匹を貢がせ、二十一年の正旦に貢がせるのがよい。」七月、禑は表を奉って爵位の継承を請い、あわせて先王の諡を請うたので、禑を高麗国王に封じ、先王顓に恭愍という諡を賜った。
8鉄嶺衛の通告
十九年二月遣使貢布萬匹、馬千匹。九月,表賀,貢方物。其後貢獻輒踰常額,且未嘗至三年也。冬,詔遣指揮僉事高家奴以綺布市馬於高麗。二十年三月,高家奴還,陳高麗表辭馬直,帝敕如數償之。先是,元末遼、瀋兵起,民避亂,轉徙高麗。至是因市馬,帝令就索之,遂以遼、瀋流民三百餘口來歸。十二月命戶部咨高麗王:「鐵嶺北,東西之地,舊屬開元者,遼東統之。鐵嶺之南,舊屬高麗者,本國統之。各正疆境,毋侵越。」
十九年二月、使者を遣わして布一万匹・馬千匹を貢ぎ、九月には表を奉って慶賀し、方物を貢いだ。その後、朝貢はいつも定めの額を越え、しかも三年に一度になったことはなかった。冬、詔して指揮僉事の高家奴を遣わし、綺と布をもって高麗で馬を買わせた。二十年三月、高家奴が帰って高麗の表文と馬の代金のことを申し上げたので、帝は数のとおり償えと勅した。これより先、元末に遼陽・瀋陽で兵乱が起こると、民は乱を避けて高麗へ移り住んでいた。ここに至って馬を買うついでに、帝は彼らを求めさせたので、ついに遼・瀋の流民三百余口を連れて帰った。十二月、戸部に命じて高麗王に咨文を送らせた。「鉄嶺より北、東西の地で、もと開元に属していたものは遼東が統べ、鉄嶺より南で、もと高麗に属していたものは本国が統べよ。それぞれ境界を正し、侵し越えてはならぬ。」
9鴨緑江が古い境である
二十一年四月,禑表言,鐵嶺之地實其世守,乞仍舊便。帝曰:「高麗舊以鴨綠江為界,今飾辭鐵嶺,詐偽昭然。其以朕言諭之,,俾安分,毋生釁端。」
二十一年四月、禑は表を奉って、鉄嶺の地は実は代々守ってきたものだから、もとのままにしていただきたいと述べた。帝は言った。「高麗は古くから鴨緑江を境としてきたのに、いま鉄嶺だと言葉を飾るのは、偽りが明らかである。朕の言葉で諭し、分を守らせて、争いの種を作らせるな。」
10威化島回軍の知らせ
八月,高麗千戶陳景來降,言:「是年四月,禑欲寇遼東,使都軍相崔瑩、李成桂繕兵西京。成桂使陳景屯艾州,以糧不繼退師。王怒,殺成桂之子。成桂還兵攻破王城,囚王及瑩。」景懼及,故降。帝敕遼東嚴守備,仍遣人偵之。十月,禑請遜位於其子昌。帝曰:「前聞其王被囚,此必成桂之謀,姑俟之以觀變。」
八月、高麗の千戸である陳景が降ってきて言った。「この年の四月、禑は遼東を侵そうとして、都軍相の崔瑩と李成桂に西京で兵を整えさせました。成桂は陳景を艾州に駐屯させましたが、兵糧が続かず軍を退きました。王が怒って成桂の子を殺したので、成桂は兵を返して王城を攻め破り、王と瑩を幽閉しました。」景は身に及ぶのを恐れて、それゆえ降ったのである。帝は遼東に勅して守備を厳しくさせ、あわせて人を遣わして様子を探らせた。十月、禑が子の昌に位を譲りたいと請うたので、帝は「さきに王が幽閉されたと聞いた。これは必ず成桂のはかりごとである。しばらく待って変化を見よ」と言った。
11王氏の血筋が絶える
二十二年,權國事昌奏乞入朝,帝不許。是歲,成桂廢昌,而立定昌國院君瑤。二十三年正月遣使來告。二十四年三月詔市馬高麗。八月,權國事瑤進所市馬千五百匹。帝曰:「三韓君臣悖亂,二紀於茲。今王瑤嗣立,乃王氏苗裔,宜遣使勞之。」十二月,瑤遣其子奭朝賀明年正旦。奭未歸而成桂自立,遂有其國,瑤出居原州。王氏自五代傳國數百年,至是絕。
二十二年、権国事の昌が入朝を願い出たが、帝は許さなかった。この年、成桂は昌を廃して定昌国院君の瑤(恭讓王)を立てた。二十三年正月、使者を遣わして報せてきた。二十四年三月、詔して高麗で馬を買わせ、八月、権国事の瑤が買い集めた馬千五百匹を献じたので、帝は「三韓の君臣が道に背いて乱れてから、いまで二十四年になる。このたび王瑤が跡を継いで立ったが、王氏の後裔であるから、使者を遣わして労ってやるのがよい」と言った。十二月、瑤は子の奭を遣わして翌年の正旦を賀させたが、奭が帰らぬうちに成桂が自ら位に即き、ついにその国を取ったので、瑤は原州に出て住んだ。王氏が五代から国を伝えて数百年、ここに絶えた。
12朝鮮という国号
二十五年九月,高麗知密直司事趙胖等持國都評議司奏言:「本國自恭愍王薨,無嗣,權臣李仁人以辛肫子禑主國事,昏暴好殺,至欲興師犯邊,大將李成桂以為不可而回軍。禑負罪惶懼,遜位於子昌。國人弗順,啟請恭愍王妃安氏擇宗親瑤權國事。已及四年,昏戾信讒,戕害勳舊,子奭癡騃不慧,國人謂瑤不足主社稷。今以安氏命,退瑤於私第。王氏子姓無可當輿望者,中外人心咸繫成桂。臣等與國人耆老共推主國事,惟聖王俞允。」帝以高麗僻處東隅,非中國所治,令禮部移諭:「果能順天道,合人心,不啟邊釁,使命往來,實爾國之福,我又何誅。」冬,成桂聞皇太子薨,遣使表慰,幷請更國號。帝命仍古號曰朝鮮。
二十五年九月、高麗の知密直司事である趙胖らが、国都評議司の上奏を持って来て言った。「本国は恭愍王が亡くなってから嗣子がなく、権臣の李仁人が辛肫の子である禑に国事をとらせましたが、暗愚で乱暴、人を殺すことを好み、ついには兵を起こして辺境を侵そうとしましたので、大将の李成桂がそれはならぬとして軍を返しました。禑は罪を負って恐れ、子の昌に位を譲りましたが、国人が従わず、恭愍王妃の安氏に願い出て、宗親の瑤を選んで国事をとらせました。すでに四年になりますが、暗く荒々しく、讒言を信じて勲旧を害し、子の奭は愚かで賢くありません。国人は、瑤では社稷を主るに足らぬと申します。いま安氏の命により、瑤を私邸に退かせました。王氏の子孫には衆望に応えられる者がなく、内外の人心はみな成桂に繋がっておりますので、臣らは国人と長老たちとともに成桂を推して国事を主らせました。聖王のご承認を願います。」帝は、高麗は東の片隅に離れていて中国の治めるところではないとして、礼部に申し渡させた。「まことに天道に順い、人心に適い、辺境の争いを起こさぬのであれば、使命が往き来することはまことにそなたの国の福であり、わたしがまた何を責めよう。」冬、成桂は皇太子が亡くなったと聞いて使者を遣わし、表を奉って弔い、あわせて国号を改めることを請うたので、帝は古い名のとおり朝鮮とせよと命じた。
13名を旦と改める
二十六年二月遣使進馬九千八百餘匹,命運紵絲綿布一萬九千七百餘匹酬之。六月表謝,貢馬及方物,幷上前恭愍王金印,請更己名曰旦。從之。是月,遼東都指揮使司奏,朝鮮國招引女直五百餘人,潛渡鴨綠江,欲入寇。乃遣使敕諭,示以禍福。旦得敕,惶懼陳謝,上貢,幷械送逋逃軍民三百八十餘人至遼東。
二十六年二月、使者を遣わして馬九千八百余匹を献じたので、紵絲と綿布一万九千七百余匹を運んでその代価とさせた。六月、表を奉って謝し、馬と方物を貢ぎ、あわせて前の恭愍王の金印を差し出し、自分の名を旦と改めることを請うたので、これに従った。この月、遼東都指揮使司が、朝鮮国が女直五百余人を誘い、ひそかに鴨緑江を渡って侵入しようとしていると上奏したので、使者を遣わして勅諭し、禍福のほどを示した。旦は勅書を受けて恐れかしこみ、謝罪を申し述べて貢物を奉り、あわせて逃亡した軍民三百八十余人を縛って遼東に送った。