いにしえの文 › 明史 朝鮮伝(明史に記された朝鮮の記録) › 全一巻

朝鮮 二 — 太宗から中宗まで朝鮮 二

明史 朝鮮伝(明史に記された朝鮮の記録) 明史 朝鮮傳 · 張廷玉ほか · 1739年(清・乾隆4年) · 段落 18 · 漢字 2,484字 · 朗読 9.9分

明史 朝鮮伝(明史に記された朝鮮の記録) 全一巻 明が見た朝鮮三百年。威化島回軍と「朝鮮」という国号、宗系弁誣をめぐる二百年の争い、そして半ばを占める壬辰倭乱(文禄・慶長の役)七年戦争の全容(平壌・碧蹄館・蔚山・露梁)まで — 「属国と称したが、国の内と変わりがなかった」と結ぶ最後の正史の朝鮮伝である。

1表箋の事件

二十七年,旦遣子入貢。二十八年遣使柳珣賀明年正旦。帝以表文語慢,詰責之。珣言表文乃門下評理鄭道傳所撰,遂命逮道傳,釋珣歸。二十九年送撰表人鄭總等三人至,云表實總等所撰,道傳病不能行。帝以總等亂邦搆釁,留不遣。三十年冬,復以表涉譏訕,拘其使。建文初,旦表陳年老,以子芳遠襲位。許之。

二十七年、旦は子を遣わして入貢した。二十八年、使者の柳珣を遣わして翌年の正旦を賀した。帝は表文の言葉が傲慢だとしてこれを責め問うた。珣が、表文は門下評理の鄭道伝が作ったものだと述べたので、ついに道伝を捕らえて来させるよう命じ、珣は放って帰した。二十九年、表文を作った鄭総ら三人を送って来て、表は実は総らが作ったもので、道伝は病んで来られないと言った。帝は、総らは国を乱して争いの種を作ったとして、留め置いて帰さなかった。三十年の冬、また表文が謗りそしりにわたるとして、その使者を拘留した。建文の初め、旦は表を奉って年老いたことを述べ、子の芳遠に位を継がせたいと願ったので、これを許した。

2太宗と朝鮮

成祖立,遣官頒即位詔。永樂元年正月,芳遠遣使朝貢。四月復遣陪臣李貴齡入貢,奏芳遠父有疾,需龍腦、沉香、蘇合、香油諸物,齎布求市。帝命太醫院賜之,還其布。芳遠表謝,因請冕服書籍。帝嘉其能慕中國禮,賜金印、誥命、冕服、九章、圭玉、珮玉,妃珠翠七翟冠、霞帔、金墜,及經籍綵幣表裏。自後貢獻,歲輒四五至焉。

成祖が位に即くと、官を遣わして即位の詔を頒布した。永楽元年正月、芳遠は使者を遣わして朝貢した。四月、また陪臣の李貴齢を遣わして入貢し、芳遠の父が病で、竜脳・沈香・蘇合・香油などの品を必要としていると奏上し、布を持って来て買い求めようとした。帝は太医院に命じてこれを与え、その布は返した。芳遠は表を奉って謝し、その折に冕服と書籍を請うた。帝は中国の礼を慕うことができるのを嘉し、金印・誥命・冕服九章・圭玉・珮玉、および妃には珠翠七翟冠・霞帔・金墜、さらに経籍と綵幣の表裏地を賜った。これより後、朝貢は毎年四、五度も届くようになった。

3世子禔の入朝

二年十二月詔立芳遠子禔為世子,從其請也。五年十二月,貢馬三千匹至遼東,命戶部運絹布萬五千匹償之。六年,世子禔來朝,賜織金文綺。及歸,帝親製詩賜之。時朝鮮納女後宮,立為妃嬪者四人。其秋,遣陪臣鄭擢來告其父旦之喪。命官弔祭,賜諡康獻。

二年十二月、詔して芳遠の子である禔を世子に立てた。その願いに従ったのである。五年十二月、馬三千匹を貢いで遼東に届いたので、戸部に命じて絹布一万五千匹を運んでその代価とさせた。六年、世子の禔が朝見に来たので、織金の文綺を賜り、帰るときには帝が自ら詩を作って与えた。このころ朝鮮は後宮に女を納め、妃嬪に立てられた者が四人あった。その秋、陪臣の鄭擢を遣わして父の旦の喪を告げてきた。官に命じて弔い祭らせ、康献という諡を賜った。

4世宗を立てる

十六年奏世子禔不肖,第三子祹孝弟力學,國人所屬,請立為嗣,詔聽王所擇。因上表謝,幷陳己年老,請以祹理國事。命光祿少卿韓確、鴻臚丞劉泉封祹為朝鮮國王。時帝已遷北都,朝鮮益近,而事大之禮益恭,朝廷亦待以加禮,他國不敢望也。

十六年、世子の禔は不才で、第三子の祹(世宗)は孝悌で学問に励み、国人が望みを寄せているので、嗣子に立てたいと奏上したところ、詔して王の選ぶところに任せた。そこで表を奉って謝し、あわせて自分が年老いたことを述べ、祹に国事を治めさせたいと請うたので、光禄少卿の韓確と鴻臚丞の劉泉に命じて、祹を朝鮮国王に封じた。このころ帝はすでに北京へ都を移していて朝鮮はいっそう近くなり、朝鮮の事大の礼はいっそう恭しく、朝廷もまた礼を加えて待遇したので、他国には及びもつかぬほどであった。

5馬一万匹

二十年,芳遠卒,賜諡恭定。二十一年七月,祹請立嫡子珦為世子,從之。先是,敕祹貢馬萬匹,至是如數至,賜白金綺絹。

二十年、芳遠が亡くなったので、恭定という諡を賜った。二十一年七月、祹が嫡子の珦を世子に立てたいと請うたので、これに従った。これより先、祹に勅して馬一万匹を貢がせていたが、ここに至って数のとおり届いたので、白金と綺絹を賜った。

6宣徳年間のできごと

宣德二年三月遣中官賜白金紵紗,別敕進馬五千匹,資邊用。九月如數至。四年賜祹書:「珍禽異獸,非朕所貴,其勿獻。」後又敕祹:「金玉之器,非爾國所產,宜止之,土物效誠而已。」八年,祹奏遣子弟詣太學或遼東學,帝不許,賜五經、四書、性理、通鑑綱目諸書。

宣徳二年三月、中官を遣わして白金・紵・紗を賜り、別に勅して馬五千匹を献じさせ、辺境の用に充てさせたところ、九月に数のとおり届いた。四年、祹に書を賜って言った。「珍しい鳥や獣は朕の貴ぶものではない。献上してはならぬ。」のちまた祹に勅した。「金や玉の器はそなたの国の産ではないから、やめるのがよい。土地の産物で誠意を表すだけでよい。」八年、祹が子弟を太学または遼東の学校へ遣わしたいと奏上したが、帝は許さず、五経・四書・性理・通鑑綱目などの書を賜った。

7正統年間 — 倭寇を捕らえて献じる

正統元年三月放朝鮮婦女金黑等五十三人還其國。金黑等自宣德初至京師,至是遣中官送回。三年八月賜祹遠游冠、絳紗袍、玉佩、赤舄。先是,建州長童倉避居朝鮮界,已復還建州。朝鮮言:「昔以窮歸臣,臣遇之善。今負恩還建州李滿住所,慮其同謀擾邊。」建州長言,所部為朝鮮追殺,阻留一百七十餘家。五年詔祹還之。七年五月諭祹曰:「鴨綠江一帶東寧等衞,密邇王境,中多細人逃至王國,或被國人誘脅去者,無問漢人、女直,至即解京。」初,瓦剌密令女直諸部誘朝鮮,使背中國。祹拒之,白其事於朝。帝嘉其忠,敕奬之,幷賜綵幣。九年春,倭寇犯邊,祹命將擒獲五十餘人,械送京師。十年又獲餘黨來獻。帝連敕奬諭,賜賚加等。十三年冬,命使調發朝鮮及野人女直兵會遼東,征北寇。時英宗北狩,郕王即位,遣官頒詔於其國。

正統元年三月、朝鮮の婦女である金黒ら五十三人を放ってその国へ帰した。金黒らは宣徳の初めから都に来ていたが、ここに至って中官を遣わして送り返したのである。三年八月、祹に遠游冠・絳紗袍・玉佩・赤舄を賜った。これより先、建州の長である童倉が朝鮮の境内に避けて住んでいたが、やがてまた建州へ帰った。朝鮮は「かつて窮して臣に帰したとき、臣は厚くもてなしました。いま恩に背いて建州の李満住のもとへ帰りましたので、ともに謀って辺境を騒がせるのではないかと心配しております」と言い、建州の長は、自分の部族が朝鮮に追い討ちされ、百七十余家が抑留されていると言った。そこで五年、詔して祹にこれを返させた。七年五月、祹に諭して言った。「鴨緑江一帯の東寧などの衛は王の境にひどく近く、その中の民が王の国へ逃げ込み、あるいは国人に誘われ脅されて連れ去られた者が多い。漢人であれ女直であれ問わず、着きしだい都へ送り返せ。」はじめ瓦剌(オイラト)がひそかに女直の諸部に命じて朝鮮を誘い、中国に背かせようとした。祹はこれを拒み、そのことを朝廷に申し上げた。帝はその忠を嘉して勅により褒め励まし、あわせて綵幣を賜った。九年春、倭寇が辺境を侵したので、祹は将に命じて五十余人を捕らえ、縛って都へ送り、十年にはまた残党を捕らえて献じた。帝は続けて勅を下して褒め諭し、下賜の品も等級を上げた。十三年冬、使者に命じて朝鮮および野人女直の兵を徴発し、遼東に集めて北の寇を討たせた。このとき英宗が北に連れ去られ、郕王(景泰帝)が即位したので、官を遣わしてその国に詔を頒布した。

8景泰年間 — 文宗と端宗

景泰元年貢馬五百匹。奏稱奉敕辦馬二三萬匹,比因鄰寇搆釁,馬畜踣斃,一時未能。詔曰:「寇今少息。馬已至者,償其直。未至者,止勿貢。」是年夏,祹卒,賜弔祭,諡莊憲,封子珦為國王。會遼東奏報開原、瀋陽有寇入境,掠人畜,係建州、海西、野人女直頭目李滿住等為嚮導,因諭珦相為掎角截殺之。其秋,續貢馬千五百餘匹。賜冕服,幷償其直。冬又賜珦及妃權氏誥命,封其子弘暐為世子。二年冬,以建州頭目潛與朝鮮通,戒珦絕其使。

景泰元年、馬五百匹を貢ぎ、勅を奉じて馬二、三万匹を調えようとしたが、このところ隣の寇が争いを起こしたため馬が倒れ死に、一度には果たせないと奏上した。そこで詔して言った。「寇はいま少し静まっている。すでに届いた馬はその代価を償え。まだ届かぬ分は、やめて貢がせるな。」この年の夏、祹が亡くなったので、弔祭を賜り、荘憲と諡し、子の珦(文宗)を国王に封じた。ちょうど遼東から、開原・瀋陽に寇が境内に入って人や家畜を奪っており、建州・海西・野人女直の頭目である李満住らが道案内をしていると奏報があったので、珦に諭して互いに挟み撃ちにして討ち取らせた。その秋、続けて馬千五百余匹を貢いだので、冕服を賜り、あわせてその代価を償った。冬にはまた珦とその妃権氏に誥命を賜り、その子の弘暐(端宗)を世子に封じた。二年冬、建州の頭目がひそかに朝鮮と通じているとして、珦にその使者と絶つよう戒めた。

9世祖が立つ

三年秋,珦卒,來告哀。遣中官往弔祭,賜諡恭順,命子弘暐嗣立。弘暐立三年,以年幼且嬰夙疾,請以叔瑈權國事。七年上表遜位,乃封瑈為國王。瑈請立子暲為世子,從之。

三年秋、珦が亡くなり、喪を告げて来た。中官を遣わして弔い祭らせ、恭順という諡を賜り、子の弘暐に跡を継いで立たせた。弘暐が立って三年、年が幼く、また前からの病を抱えているとして、叔父の瑈(世祖)に国事をとらせたいと請い、七年に表を奉って位を譲ったので、瑈を国王に封じた。瑈が子の暲を世子に立てたいと請うたので、これに従った。

10建州とのいざこざ

天順三年,邊將奏,有建州三衞都督私與朝鮮結,恐為中國患。因敕瑈毋作不靖,貽後悔。瑈疏辨,復諭曰:「宣德、正統年間,以王國與彼互相侵掠,敕解怨息兵,初不令交通給賞授官也。彼既受朝廷官職,王又加之,是與朝廷抗也。王素秉禮義,何爾文過飾非?後宜絕私交,以全令譽。」四年復諭瑈曰:「王奏毛憐衞都督郎卜兒哈通謀煽亂,已置之法。夫法止可行於國中,豈得加於鄰境。郎卜兒哈有罪,宜奏朝廷區處。今輒行殺害,何怪其子阿比車之思復讐也。聞阿比車之母尚在,宜急送遼東都司,令阿比車領回,以解讐怨。」五年,建州衞野人至義州殺掠,瑈奏乞朝命還所掠。兵部議:「朝鮮先嘗誘殺郎卜兒哈,繼又誘致都指揮兀克,縱兵掠其家屬。今野人實係復讐,宜諭朝鮮,寇盜之來皆自取,惟守分安法,庶弭邊釁。」從之。

天順三年、辺境の将が、建州三衛の都督がひそかに朝鮮と結んでおり、中国の患いとなるのを恐れると奏上した。そこで瑈に勅して、穏やかでないことをして後悔を残すなと言った。瑈が上疏して申し開きをしたので、また諭して言った。「宣徳・正統の年間には、王の国と彼らとが互いに侵し奪っていたので、勅して恨みを解き兵を休めさせたのであって、はじめから往き来して賞を与え官を授けよと言ったのではない。彼らはすでに朝廷の官職を受けているのに、王がまたそれに加えるのは、朝廷と張り合うことである。王はもとより礼義を守ってきたのに、どうしてそのように過ちを飾り偽りを覆い隠すのか。今後は私的な交わりを絶って、よい評判を全うせよ。」四年、また瑈に諭して言った。「王は、毛憐衛の都督である郎卜児哈が反乱を共謀したのですでに法に照らして処したと奏上した。そもそも法は国の中で行えるだけのもので、どうして隣の境に及ぼせよう。郎卜児哈に罪があるなら、朝廷に奏上して処分を仰ぐのが当然である。ところがいきなり殺してしまったのだから、その子の阿比車が仇を討とうと思うのを、どうして怪しめよう。聞けば阿比車の母がまだ生きているという。急いで遼東都司に送り、阿比車に引き取らせて、仇の恨みを解くのがよい。」五年、建州衛の野人が義州に来て殺し奪ったので、瑈は朝廷の命によって奪われたものを返させてほしいと奏上した。兵部が議して言った。「朝鮮は先に郎卜児哈を誘い殺し、続いて都指揮の兀克を誘い寄せ、兵を放ってその家族を奪いました。今回の野人のことは実は仇討ちですから、朝鮮に諭して、寇や盗が来るのはみな自ら招いたことであり、ただ分を守り法に安んじてこそ辺境の争いは止むであろうと言うべきです。」これに従った。

11建州征伐を助ける

成化元年冬,陪臣李門炯來朝,卒於道。命給棺賜祭,幷賜綵幣慰其家。時朝鮮頻貢異物,三年春,敕諭瑈修常貢,勿事珍奇。是時朝廷用兵征建州,敕瑈助兵進剿。瑈遣中樞府知事康純統眾萬餘渡鴨綠、潑猪二江,攻破九獮府諸寨,斬獲多。

成化元年冬、陪臣の李門炯が朝見に来る途中、道で亡くなった。命じて棺を与え祭りを賜り、あわせて綵幣をもってその家を慰めた。このころ朝鮮が珍しい品をしきりに貢いだので、三年春、瑈に勅諭して通常の貢物だけを調え、珍奇なものを事とするなと言った。このとき朝廷は兵を用いて建州を討っていたので、瑈に勅して兵で助けて討たせた。瑈は中枢府知事の康純に一万余の衆を率いさせ、鴨緑・潑猪の二江を渡らせて、九獮府の諸砦を攻め破り、斬り取った数が多かった。

12内臣を冊封使とするのをやめる

四年正月遣官來獻俘。詔從厚賚,敕奬諭之。是年,瑈卒,賜諡惠莊。遣太監鄭同、崔安封世子晄為王,給妃韓氏誥命。既行,巡按遼東御史侯英奏曰:「遼東連年被寇,瘡痍未起,今復禾稼不登,軍民乏食。太監鄭同等隨從人員所過驛騷。臣考先年曾於翰林院中,選有學行文望者出使。今同、安俱朝鮮人,墳墓宗族皆在,見其國王,不免屈節,殊褻中國體。乞寢成命,或翰林,或給事中及行人內推選一員,往使為便。」帝曰:「英所言良是。自後賞賚遣內臣,其冊封正副使,選廷臣有學行者。」

四年正月、官を遣わして捕虜を献じて来た。詔して手厚く賜与し、勅によって褒め諭した。この年、瑈が亡くなったので、恵荘という諡を賜り、太監の鄭同・崔安を遣わして世子の晄(睿宗)を王に封じ、妃の韓氏に誥命を与えた。一行が出発したのち、巡按遼東御史の侯英が奏上して言った。「遼東は連年寇に襲われて傷が癒えておらず、いままた作物が実らず、軍民が食に乏しくあります。太監の鄭同らの随行の者たちは、通る先ごとに駅を騒がせております。臣が調べますと、以前は翰林院の中から学識と行いと文名のある者を選んで使者に出しました。いま同と安はともに朝鮮の人で、墳墓も一族もみなその地にありますから、その国王に会えば節を屈せざるをえず、中国の体面をひどく損ないます。すでに下された命を取り下げ、翰林か、給事中か、行人の中から一人を選んで遣わすのが得策です。」帝は言った。「英の言うことはまことに正しい。今後、賞賜には内臣を遣わすとして、冊封の正使・副使には、学識と行いのある朝廷の臣を選べ。」

13睿宗と成宗

六年,晄病篤,以所生子幼,命其兄故世子暲之子娎權國事,遣陪臣以聞。及卒,賜諡襄悼,命娎嗣位,娎妻韓氏封王妃。十年追贈娎父世子暲為國王,諡懷簡,母韓氏為王妃,從所請也。

六年、晄が病み重くなり、生まれた子が幼いので、兄である故世子の暲の子である娎(成宗)に国事をとらせるよう命じ、陪臣を遣わしてそのことを申し上げた。やがて亡くなったので、襄悼という諡を賜り、娎に位を継がせ、娎の妻である韓氏を王妃に封じた。十年、娎の父である世子の暲を国王に追贈して懐簡と諡し、母の韓氏を王妃としたのは、その願いに従ったのである。

14弓の材料を許す

十一年四月,娎奏建州野人糾聚毛憐等衞侵擾邊境不已,乞朝命戒飭。十二年十月,娎為繼妻尹氏請封,賜誥命冠服。時禁外國互市兵器,娎奏:「小邦北連野人,南鄰倭島,五兵之用,不可缺一。而弓材所需牛角,仰於上國。高皇帝時嘗賜火藥、火礮,今望特許收買弓角,不與外番同禁。」兵部議歲市弓角五十,後以不足於用,請無限額,詔許倍市。

十一年四月、娎は、建州の野人が毛憐などの衛を集めて辺境を侵し騒がせてやまないので、朝廷の命によって戒め取り締まってほしいと奏上した。十二年十月、娎が後妻の尹氏のために封を請うたので、誥命と冠服を賜った。このころ外国との兵器の交易を禁じていたが、娎が奏上した。「小邦は北で野人に連なり、南で倭島と隣り合っておりますので、五つの武器のうち一つも欠くことができません。しかも弓の材料に必要な牛角は上国に頼っております。高皇帝のときには火薬と火砲を賜ったこともございます。いまはとくに弓角の買い入れをお許しくださり、ほかの外藩と同じように禁じないでいただきたく存じます。」兵部は毎年弓角五十を交易させることを議したが、のちに用に足りないとして限度を外すよう請うたので、詔して倍の量を買うことを許した。

15成化の挟み撃ち

十五年十月命娎出兵夾擊建州女直。娎遂遣右贊成魚有沼率兵至滿浦江,以氷泮後期。復遣左議政尹弼商、節度使金嶠等渡江進剿。十六年春遣陪臣來獻捷,帝命內官齎敕奬其能繼先烈,賜金幣,領兵官賞賚如例。後使還,遣其臣許熙伴送。熙歸至開州,建州騎二千邀之,掠其從卒三十餘人,馬二百三十餘匹,他所亡物稱是。奏聞,英國公張懋、吏部尚書尹旻等以遼東連年用兵,未可輕動,宜以此意諭娎。敕遼東守臣整飭邊備,更令譯者窮究所掠,期在必得,仍賜熙白金綵幣慰安之。

十五年十月、娎に命じて兵を出し、建州女直を挟み撃ちにさせた。娎はそこで右賛成の魚有沼に兵を率いて満浦江まで行かせたが、氷が解けて期限に遅れた。そこでまた左議政の尹弼商、節度使の金嶠らを遣わして江を渡らせ、進んで討たせた。十六年春、陪臣を遣わして戦勝を報じて来たので、帝は内官に勅書を持たせて遣わし、先祖の功業をよく継いだことを褒め励まし、金と幣を賜り、兵を率いた官にも例のとおり賞を与えた。のちに使者が帰るとき、その臣の許熙を付き添わせて送らせた。熙が帰る途中、開州に至ったところ、建州の騎兵二千が待ち伏せて、従っていた兵卒三十余人と馬二百三十余匹を奪い、ほかに失った品もそれに見合う量であった。奏上されると、英国公の張懋、吏部尚書の尹旻らが、遼東は連年兵を用いていて軽々しく動かすべきではないので、この意を娎に諭すべきだと言った。そこで遼東の守臣に勅して辺境の備えを整えさせ、さらに通訳に命じて奪われた物を徹底して調べさせ、必ず取り戻すこととし、あわせて熙に白金と綵幣を賜って慰めた。

16王妃を替える

十七年,娎奏繼妃尹氏失德,廢置,乞更封副室尹氏。從之。十九年四月封娎長子㦕為世子。

十七年、娎は後妃の尹氏が徳を失ったので廃して退けたと奏上し、副室の尹氏を改めて封じてほしいと願ったので、これに従った。十九年四月、娎の長子である㦕(燕山君)を世子に封じた。

17燕山君

弘治七年十二月,娎卒,賜諡康靖。明年四月,封㦕為國王,妻慎氏為王妃。十二年,㦕奏:「本國人屢有違禁匿海島,誘引軍民,漸至滋蔓。乞許本國自行搜刷。其係上國地方,請敕官追捕。」時遼東守臣亦奏如㦕言,報可。十五年冬,封㦕長子𩔇為世子。

弘治七年十二月、娎が亡くなったので、康靖という諡を賜った。翌年四月、㦕を国王に封じ、妻の慎氏を王妃とした。十二年、㦕が奏上した。「本国の人がたびたび禁を破って海島に隠れ、軍民を誘い込んで、次第にはびこるに至っております。本国が自ら捜し出して取り締まることをお許しください。上国の地方にかかる分については、官に勅して追捕させていただきたく存じます。」このとき遼東の守臣もまた㦕の言うとおりに奏上したので、許可する旨を報じた。十五年冬、㦕の長子である𩔇を世子に封じた。

18中宗が即位する

正德二年,㦕以世子𩔇夭亡,哀慟成疾,奏請以國事付其弟懌,其國人復奏請封懌。禮部議命懌權理國事,俟㦕卒乃封。既,陪臣盧公弼等以朝貢至京,復請封懌,廷議不允。十二月,㦕母妃奏懌長且賢,堪付重寄。於是禮部奏:「㦕以痼疾辭位,懌以親弟承托,接受既明,友愛不失。通國臣民舉無異詞,宜順其請。」上乃允懌嗣位,遣中官敕封,幷賜其妃尹氏誥命。

正徳二年、㦕は世子の𩔇が早世し、悲しみが募って病となったとして、国事を弟の懌(中宗)に委ねたいと奏請し、その国人もまた懌の封を請うた。礼部は、懌に国事を仮に治めさせ、㦕が亡くなってから封じることを議した。やがて陪臣の盧公弼らが朝貢のため都に来て、重ねて懌の封を請うたが、朝廷の議は許さなかった。十二月、㦕の母妃が、懌は年長で賢く、重い託しを引き受けるに堪えると奏上した。そこで礼部が奏上した。「㦕は持病のために位を辞し、懌は実の弟として託しを受け、受け渡しはすでに明らかで、兄弟の情も損なわれておりません。国中の臣民はこぞって異論がないのですから、その願いに従うのが当然です。」上はそこで懌が位を継ぐことを認め、中官を遣わして勅封し、あわせてその妃の尹氏に誥命を賜った。