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朝鮮 六 — 仁祖と明の終わり朝鮮 六

明史 朝鮮伝(明史に記された朝鮮の記録) 明史 朝鮮傳 · 張廷玉ほか · 1739年(清・乾隆4年) · 段落 13 · 漢字 2,068字 · 朗読 8.3分

明史 朝鮮伝(明史に記された朝鮮の記録) 全一巻 明が見た朝鮮三百年。威化島回軍と「朝鮮」という国号、宗系弁誣をめぐる二百年の争い、そして半ばを占める壬辰倭乱(文禄・慶長の役)七年戦争の全容(平壌・碧蹄館・蔚山・露梁)まで — 「属国と称したが、国の内と変わりがなかった」と結ぶ最後の正史の朝鮮伝である。

1仁祖の即位と册封の議

三年四月,國人廢琿而立其姪綾陽君倧,以昭敬王妃之命權國事,令議政府移文督撫轉奏,文龍為之揭報。登州巡撫袁可立上言:「琿果不道,宜聽太妃具奏,以待中國更立。」疏留中。八月,王妃金氏疏請封倧,禮部尚書林堯俞言:「朝鮮廢立之事,內外諸臣抒忠發憤,有謂宜聲罪致討者,有謂勿遽討且受方貢覈顛末者,或謂當責以大義,察輿情之向背者,或謂當令倧討敵自洗者,眾論咸有可采。其謂琿實悖德,倧討叛臣以赤心奉朝廷者,惟文龍一人耳。皇上奉天討逆,扶植綱常,此正法也。毋亦念彼素稱恭順,迥異諸裔,則更遣貞士信臣,會同文龍,公集臣民,再四詢訪。勘辨既明,再請聖斷。」報可。十二月,禮部復上言:「臣前同兵部移咨登撫,幷劄毛帥,遣官往勘。今據申送彼國公結十二道,自宗室至八道臣民共稱倧為恭順。且彼之陪臣相率哀籲,謂當此危急之秋,必須君國之主。乞先頒敕諭,令倧統理國事,仍令發兵索賦,同文龍設伏出奇,俟漸有次第,始遣重臣往正封典。庶幾字小之中,不失固圉之道。」從之。四年四月,封倧為國王。

三年四月、国人が琿を廃してその甥の綾陽君の倧(仁祖)を立て、昭敬王妃の命によって国事を仮に預かり、議政府に督撫へ公文を送って取り次いで奏上させ、文竜もそのために揭文で報せた。登州巡撫の袁可立が申し上げて言った。「琿がまことに無道であったのなら、太妃に詳しく奏上させて、中国が改めて立てるのを待たせるべきです。」その上疏は宮中に留め置かれた。八月、王妃の金氏が上疏して倧の册封を請うと、礼部尚書の林堯俞が言った。「朝鮮の廃立の件については、内外の諸臣が忠義と憤りを述べ、罪を鳴らして討つべきだという者もあり、急いで討たず、まず方物の貢を受けて始末を見極めよという者もあり、大義で責めて世論の向背を見るべきだという者もあり、倧に敵を討たせて自ら身を清めさせるべきだという者もあって、どの議論にも採るところがございます。しかし、琿がまことに徳に背き、倧は叛いた臣を討って赤心から朝廷に仕えていると言う者は、文竜ただ一人です。皇上が天を奉じて逆を討ち、綱常を立て直されるのは、これこそ正しい道理です。とはいえ、彼らが平素から恭順と称され、他の外藩とは大いに異なることをお思いになり、改めて節操のある信ずべき臣を遣わし、文竜と会同して臣民を公に集め、再三再四尋ね回らせてはいかがでしょう。見極めが明らかになってから、改めてご裁断を請いたく存じます。」許可する旨を報じた。十二月、礼部がまた申し上げた。「臣らはさきに兵部とともに登州の巡撫へ咨文を送り、あわせて毛帥へ公文を出して、官を遣わして調べさせました。いま送られてきたその国の公の証書十二通によれば、宗室から八道の臣民まで、みな倧を恭順だと称しております。しかもあちらの陪臣が連れ立って哀しく訴え、この危急の時に当たっては必ず国を治める主がいなければならぬと申します。まず勅諭を頒布して倧に国事を統べ治めさせ、あわせて兵を出させ賦を集めさせて、文竜とともに伏兵を置き奇襲を仕掛けさせ、次第に筋道が立つのを待ってはじめて重臣を遣わして册封の典礼を正すのが当然です。そうしてこそ、小国を慈しむなかで辺境を固める道を失わずにすみましょう。」これに従った。四年四月、倧を国王に封じた。

2李适の乱と流民

五年十二月,文龍報:「朝鮮逆黨李适、韓明璉等起兵昌城,直趨王京,被臣擒獲。餘孽韓潤、鄭梅等竄入建州,有左議府尹義立約為內應,期今冬大舉犯朝鮮。臣已咨國王防守,暫移鐵山之眾就雲從島柴薪。」登萊巡撫武之望奏:「毛帥自五月以來,營室於須彌,所謂雲從島是也。今十月又徙兵民商賈以實之,而鐵山之地空矣。故朝鮮各道疑其有逼處之嫌,甚至布兵以防禦之。今鎮臣所稱李适等之叛,尹義立之內應,臣等微聞之,而未敢遽信焉。信之則益重鮮人之疑,不信則恐貽後來之患。」兵部言:「牽制敵國者,朝鮮也;聯屬朝鮮者,毛鎮也;駕馭毛鎮者,登撫也。今撫臣與鎮臣不和,以至鎮臣與屬國不和,大不利。」帝乃飭勉鎮撫同心,而韓潤、尹義立等令朝鮮自處。倧又請撤遼民安插中土,兵部言:「遼人去留,文龍是視。文龍一日不去,則遼人一日不離。鮮人驅之入島可也,驅之離島不可也。宜令鎮臣將遼民盡刷過島,登撫刻期運糧朝鮮,量行救振,以資屯牧。」帝是之。

五年十二月、文竜が報せた。「朝鮮の逆党である李适・韓明璉らが昌城で兵を挙げ、まっすぐ王京へ向かいましたが、臣に捕らえられました。残党の韓潤・鄭梅らは建州へ逃げ込みましたが、左議府の尹義立が内応を約し、この冬に大挙して朝鮮を侵す手はずだといいます。臣はすでに国王に咨文を送って守りを固めさせ、しばらく鉄山の衆を雲従島の薪の採れる地へ移しました。」登莱巡撫の武之望が奏上した。「毛帥は五月以来、須彌に営舎を構えておりますが、いわゆる雲従島がそれです。この十月にはまた軍民や商人を移して埋め、鉄山の地は空になりました。そのため朝鮮の各道は、すぐ近くに住み着かれるのではないかと疑い、ひどいことには兵を並べて防いでおります。いま鎮の臣が称している李适らの叛乱、尹義立の内応は、臣らもほのかに聞いてはおりますが、あえてすぐには信じられません。信じれば朝鮮の人の疑いをいっそう重くし、信じなければ後日の患いを残すのではないかと恐れます。」兵部が言った。「敵国を牽制するのは朝鮮であり、朝鮮をつなぎ留めるのは毛鎮であり、毛鎮を御するのは登州の巡撫です。いま巡撫の臣と鎮の臣が仲違いし、そのために鎮の臣と属国が仲違いするに至っては、大いに不利です。」帝はそこで鎮と撫に心を一つにするよう戒め励まし、韓潤・尹義立らについては朝鮮が自ら処置するようにさせた。倧はまた遼東の民を引き揚げて中国本土に移住させてほしいと請うたが、兵部が言った。「遼東の人の去就は、文竜次第です。文竜が一日去らなければ、遼東の人も一日離れません。朝鮮の人が彼らを島へ追い込むのはよいとしても、島から追い出すわけにはいきません。鎮の臣に遼東の民をすべて洗い出して島へ渡らせ、登州の巡撫には期日を定めて朝鮮へ糧を運び、量を見て救い恵んで、屯田と牧畜の資とさせるべきです。」帝はこれをよしとした。

3仁祖の上疏

六年十月,倧上疏曰:

六年十月、倧が上疏した。

4李适と韓明璉

:皇朝之於小邦,覆幬之恩,視同服內。頃遭昏亂,潛通敵國,皇天震怒,降黜厥命。臣自權署之初,不敢遑寧,即命陪臣張晚為帥,李适副之,付以國中精銳,進屯寧邊,一聽毛鎮節制,以候協剿之期。而适重兵在握,潛蓄覬覦,遂與龜城府使明璉舉兵內叛,直犯京城。晚收餘兵躡其後,與京輔官兵表裏夾攻,賊皆授首,而西邊軍實及列鎮儲偫罄於是役矣。

「皇朝が小邦に覆いかけてくださった恩は、国内と同じにご覧になるものでございます。さきに昏乱に遭い、ひそかに敵国と通じましたので、皇天は震え怒り、その命を下して退けられました。臣は国事を仮に預かった初めから、あえて安んじることなく、ただちに陪臣の張晚を元帥、李适を副将として国中の精鋭を預け、寧辺へ進んで駐屯させ、ひたすら毛鎮の指揮に従って、ともに討つ時期を待たせました。ところが适は重兵を手に握り、ひそかに野心を養って、ついに亀城府使の明璉とともに兵を挙げて内から叛き、まっすぐ京城を侵しました。晩が残った兵を集めてその後を追い、京の近辺の官兵と内外から挟み撃ちにしたので、賊はみな首を差し出しましたが、西辺の軍備と諸鎮の蓄えは、この戦いで尽きてしまいました。

5毛文竜の兵糧

:毛鎮當全遼淪沒之後,孤軍東渡,寄寓海上,招集遼民前後數十萬,亦小邦所仰藉也。顧以封疆多故,土瘠民貧,內供本國之軍需,外濟鎮兵之待哺,生穀有限,支給實難。遼民迫於饑餒,散布村落,強者攫奪,弱者丐乞。小邦兵民被撓不堪,拋棄鄉邑,轉徙內地。遼民逐食,亦隨而入。自昌、義以南,安、肅以北,客居六七,主居三四。向者將此情形具奏,見兵部題覆處分已定,何敢再干。

毛鎮は遼東が全て失われたのち、孤軍で東へ渡り、海上に身を寄せ、遼東の民を前後数十万集めましたので、これもまた小邦が頼みとするところです。ただ国土には事が多く、土は痩せ民は貧しいのに、内では本国の軍需を供し、外では鎮の兵の口を養う助けをしておりますので、実る穀物には限りがあり、支給はまことに困難です。遼東の民は飢えに迫られて村落に散り、強い者は奪い取り、弱い者は乞い歩きますので、小邦の軍民は煩わしさに耐えかねて故郷を捨てて内地へ移り、遼東の民も食を追って続いて入り込み、昌城・義州以南、安州・肅川以北では、よそ者が十のうち六、七、地元の者が三、四という有様です。さきにこの事情を詳しく奏上しましたところ、兵部の答申で処分がすでに定まっておりますので、どうして重ねて申し立てられましょう。

6韓潤と尹義立の申し開き

:至韓潤及弟潭係逆賊明璉子姪,亡命潛逃,因而勾引來寇。賊既叛國而去,制命已不在臣。尹義立曾任判書,本非議政。頃年差為毛鎮接伴官,不稱任使,褫職歸家,並無怨叛之事。毛鎮據王仲保等所訴,都無實事。意必有讒邪之臣,欺妄督撫,以售其交搆之計者。

韓潤とその弟の潭は、逆賊の明璉の子や甥で、亡命してひそかに逃げ、そのうえ敵を引き入れて侵して来たのです。賊はすでに国に叛いて去ったのですから、それを抑える命は臣の手にはございません。尹義立はかつて判書を務めた者で、もとより議政ではありません。先年、毛鎮の接伴官に任ぜられましたが、任に堪えず、職を奪われて家に帰っただけで、恨んで叛いた事などございません。毛鎮は王仲保らの訴えに拠ったのですが、まるで実のある事ではありません。思うに必ず讒言する邪な臣があって、督撫を欺き騙し、仲を裂く計を売り込んでいるのでございましょう。

夾注 1

至韓潤及弟潭係逆賊明璉子姪弟潭,明史稿傳一九四朝鮮傳、熹宗實錄卷七二天啟六年十月辛酉條俱作「弟澤」。

「韓潤とその弟の潭は、逆賊の明璉の子や甥である」の弟の潭は、明史稿の伝一九四朝鮮伝、および熹宗実録巻七二の天啓六年十月辛酉の条には、いずれも「弟の澤」とある。

7毛文竜との情誼

:毛帥久鎮海外,臣與周旋已近十稔。雖餼牽將竭,彼此俱困,而情誼之殷,實無少損。且其須彌之遷,直為保護累重,將以就便芻薪。一進一退,兵家常事。訛言噂沓,本不介意。竊見部撫移咨曰「虞其逼處」,曰「驅其民,驅其帥」,甚至有「布兵以防,屬國攜貳」之語,似海外情事,未盡諒悉。臣之請刷遼民,因力不足濟,初非慮及逼處也。臣方與毛鎮同心一力,建功報主,豈敢有一毫猜防意乎。

毛帥は海外に長く鎮しており、臣とのつき合いはもう十年近くになります。食糧が尽きかけて互いに困窮しておりますが、情誼の篤さは実のところ少しも損なわれておりません。また須彌へ移ったのは、ひとえに多くの荷を守り、薪や秣の手近な地に寄ろうとしたためで、一度進み一度退くのは兵家の常のこと、流言がしきりに立っても、もとより気にかけておりませんでした。ところが部と撫の咨文に「すぐ近くに住み着かれるのを疑う」とあり、「その民を追い、その帥を追う」とあり、ひどいことには「兵を並べて防いでおり、属国が二心を抱いている」という言葉さえございますので、海外の事情をすべて察しておられぬように存じます。臣が遼東の民を洗い出して送ることを請いましたのは、力が救うに足りないからで、はじめからすぐ近くに住み着かれることを心配したのではありません。臣はまさに毛鎮と心を一つ力を一つにして功を立て主君に報いようとしておりますのに、どうして毛ほどでも疑い防ぐ心がございましょうか。」

8帝の答え

帝報曰:「王和協東鎮,愛戴中朝,忠貞之忱,溢乎言表。鎮軍久懸,鮮、遼雜處。久客累主,生寡食多。微王言,朕有不坐照萬里之外者。然毛帥在中朝為牽制之師,在王國則唇齒之形也。海上芻輓,已令該部區畫,刻期運濟。逃難邊民,亦令毛帥悉心計處,俾無重為王累。傳訛之言,未足介懷,幷力一心,王其勉之。」

帝が答えて言った。「王が東鎮と和し協わせ、中朝を愛し戴いていることは、忠貞の誠が言葉の外にあふれている。鎮の軍が長く宙に浮いて、朝鮮と遼東の者が入り混じって住み、客は長居し主は煩わされ、生み出すものは少なく食う者は多い。王の言葉がなければ、朕は万里の外を座したまま照らし見ることができなかったであろう。しかし毛帥は、中朝にとっては牽制の軍であり、王の国にとっては唇と歯の間柄である。海上への糧の運びは、すでに担当の部に取り計らいを命じ、期日を定めて運び届けさせた。難を逃れて来た辺民についても、毛帥に心を尽くして処置させ、重ねて王の負担にならぬようにさせた。誤って伝わる言葉は気にかけるに足りぬ。力を合わせ心を一つにして、王は励むがよい。」

9丁卯の胡乱

七年三月,兵部上文龍揭言:「麗官、麗人招敵攻鐵山,傷我兵千人,殺麗兵六萬,焚糧百餘萬,敵遂移兵攻麗矣。」帝敕文龍速相機應援。登撫李嵩奏:「朝鮮叛臣韓潤等引敵入安州,節度使南以興自焚死,中國援兵都司王三桂等俱陣亡。」既復奏:「義州及郭山、凌漢、山城俱破,平壤、黃州不戰自潰,敵兵直抵中和,遊騎出入黃、鳳之間,又分向雲從,攻掠毛帥,國王及士民遷於江華以避難。」時大清兵所至輒下,朝鮮列城望風奔潰,乃遣使諭倧。倧輸款,遂班師。九月,倧奏被兵情形。時熹宗崩,莊烈帝嗣位,優詔勵勉焉。

七年三月、兵部が文竜の揭文を上った。「高麗の官と高麗の人が敵を招いて鉄山を攻め、わが兵千人が傷つき、高麗の兵六万が殺され、糧百余万が焼かれました。敵はついに兵を移して高麗を攻めております。」帝は文竜に、機を見て速やかに援けよと勅した。登州巡撫の李嵩が奏上した。「朝鮮の叛臣である韓潤らが敵を引いて安州に入り、節度使の南以興は自ら焼け死に、中国の援兵の都司である王三桂らはみな討ち死にしました。」やがてまた奏上した。「義州および郭山・凌漢の山城はいずれも破られ、平壌・黄州は戦わずして自ら崩れ、敵兵はまっすぐ中和に至り、遊撃の騎兵が黄州・鳳山のあいだを出入りし、さらに分かれて雲従へ向かい、毛帥を攻めて奪っております。国王と士民は江華へ移って難を避けました。」このとき大清の兵は至るところたちまち落とし、朝鮮の諸城は風を望んで逃げ崩れたので、そこで使者を遣わして倧に諭した。倧が和を差し出したので、ついに軍を返した。九月、倧は兵禍を受けた有様を奏上した。このとき熹宗が崩じ、荘烈帝(崇禎帝)が位を継いで、厚い詔によって励ました。

夾注 1

中國援兵都司王三桂等俱陣亡王三桂,熹宗實錄卷七七天啟七年三月戊寅條作「王三貴」。

「中国の援兵の都司である王三桂らはみな討ち死にした」の王三桂は、熹宗実録巻七七の天啓七年三月戊寅の条に「王三貴」とある。

10貢路を元に戻そうとする

崇禎二年,改每歲兩貢為一貢。先是,遼路阻絕,貢使取道登、萊,已十餘年矣。自袁崇煥督師,題改覺華,迂途冒險,其國屢請復故。至是遣戶曹判書鄭斗源從登海來,移書登撫孫元化,屬其陳請。元化委官伴送,仍疏聞。帝以水路既有成命,改途嫌於自便,不許。是年六月,督師袁崇煥殺平遼將軍左都督毛文龍於雙島。

崇禎二年、毎年二度の朝貢を一度に改めた。これより先、遼東の道が断たれて、貢使が登州・莱州に道をとることが、すでに十余年続いていた。袁崇煥が督師となってから、覚華島へ改めるよう提案したので、道が遠回りになり危険を冒すことになり、その国はたびたび元の道に戻すことを請うた。ここに至って戸曹判書の鄭斗源を遣わして登州の海から来させ、登州巡撫の孫元化へ書を送ってその申し立てを頼ませたので、元化は官を付けて送らせ、そのまま上疏して申し上げた。帝は、水路についてはすでに定まった命があるのだから、道を改めるのは自分の都合に寄るきらいがあるとして、許さなかった。この年の六月、督師の袁崇煥が、平遼将軍左都督の毛文竜を双島で殺した。

11孔有徳の降伏

六年六月,倧遺書總兵黃龍言:「文龍舊將孔有德、耿仲明率士卒二萬投順大清,向朝鮮徵糧。本國以有德等曩在皮島為本國患,故未之應。」龍以聞。

六年六月、倧が総兵の黄竜に書を送って「文竜の旧将である孔有徳・耿仲明が士卒二万を率いて大清に降り従い、朝鮮に糧を求めてまいりました。本国は、有徳らが先に皮島にいたころ本国の患いであったので、応じませんでした」と述べたので、竜はそのことを申し上げた。

12丙子の胡乱と明の終わり

十年正月,太宗文皇帝親征朝鮮,責其渝盟助明之罪,列城悉潰。朝鮮告急,命總兵陳洪範調各鎮舟師赴援。三月,洪範奏官兵出海。越數日,山東巡撫顏繼祖奏屬國失守,江華已破,世子被擒,國王出降。今大治舟艦,來攻皮島、鐵山,其鋒甚銳。宜急敕沈世魁、陳洪範二鎮臣,以堅守皮島為第一義。帝以繼祖不能協圖匡救,切責之。亡何,皮島並為大清兵所破,朝鮮遂絕,不數載而明亦亡矣。

十年正月、太宗文皇帝が自ら朝鮮を征し、盟約を破って明を助けた罪を責めると、諸城はことごとく崩れた。朝鮮が急を告げたので、総兵の陳洪範に命じて各鎮の水軍を動かして救援に向かわせた。三月、洪範が官兵が海へ出たと奏上した。数日を経て、山東巡撫の顔継祖が、属国は守りを失い、江華はすでに破られ、世子は捕らえられ、国王は出て降ったと奏上し、いま大いに舟や艦を仕立てて皮島・鉄山を攻めに来ており、その矛先がはなはだ鋭いので、急ぎ沈世魁・陳洪範の二人の鎮の臣に勅して、皮島を固く守ることを第一の義とさせるべきだと請うた。帝は、継祖が力を合わせて救い立て直すことができなかったとして、厳しく責めた。ほどなく皮島もまた大清の兵に破られ、朝鮮はついに絶え、幾年もたたずに明もまた滅んだ。

13むすび

朝鮮在明雖稱屬國,而無異域內。故朝貢絡繹,錫賚便蕃,殆不勝書,止著其有關治亂者於篇。至國之風土物產,則具載前史,茲不復錄。

朝鮮は明において属国と称されたが、国内と異なるところがなかった。それゆえ朝貢が引きも切らず、下賜も度々で、とても書き尽くせないので、ただ治乱にかかわるものだけをこの篇に記した。その国の風土と物産については、前代の史書に詳しく載っているので、ここに重ねては記さない。