朝鮮 五 — 露梁から光海君まで朝鮮 五
1露梁 — 倭がすべて帰る
九月,將士分道進兵,劉綎進逼行長營,約行長為好會。翌日,攻城,斬首九十二。陳璘舟師協堵擊,毀倭船百餘。行長潛出千餘騎扼之,綎不利,退,璘亦棄舟走。麻貴至蔚山,頗有斬獲,倭偽退誘之。貴入空壘,伏兵起,遂敗。董一元進取晉州,乘勝渡江,連燬二寨。倭退保泗州老營,鏖戰下之,前逼新寨。寨三面臨江,一面通陸,引海為濠,海艘泊寨下千計,築金海、固城為左右翼。十月,董一元遣將四面攻城,用火器擊碎寨門,兵競前拔柵。忽營中火藥崩,烟焰漲天。倭乘勢衝擊,固城倭亦至,兵遂大潰,奔還晉州。帝聞,命斬二遊擊以徇,一元等各帶罪立功。是月,福建都御史金學曾報七月九日平秀吉死,各倭俱有歸志。十一月,清正發舟先走,麻貴遂入島山、酉浦,劉綎攻奪曳橋。石曼子引舟師救行長,陳璘邀擊敗之。諸倭揚帆盡歸。
九月、将士が道を分けて進軍した。劉綎は行長の陣営に迫り、行長とよしみを通じて会う約束をした。翌日、城を攻めて九十二の首を斬り、陳璘の水軍が挟んで塞ぎ討ち、倭船百余艘を壊した。行長がひそかに千余騎を出して遮ったので、綎は不利となって退き、璘もまた舟を捨てて逃げた。麻貴は蔚山に至ってかなり斬り取ったが、倭が偽って退いて誘ったため、貴は空の塁に入り、伏兵が起こってついに敗れた。董一元は進んで晋州を取り、勝ちに乗じて江を渡り、続けて二つの砦を焼いた。倭が退いて泗州の本営を守ったので、死力を尽くして戦ってこれを落とし、さらに前進して新しい砦に迫った。砦は三面が江に臨み、一面が陸に通じ、海を引いて濠としており、海の船が千を数えて砦の下に泊まり、金海と固城を築いて左右の翼としていた。十月、董一元は諸将を遣わして四面から城を攻め、火器で砦の門を撃ち砕いたので、兵は競って進み柵を引き抜いた。ところが突然、陣営の中の火薬が爆発し、煙と炎が天に満ちた。倭がその勢いに乗じて突き撃ち、固城の倭もまた来たので、兵はついに大きく崩れ、晋州へ逃げ帰った。帝はこれを聞いて、遊撃二人を斬って見せしめにするよう命じ、一元らにはそれぞれ罪を負ったまま功を立てさせた。この月、福建都御史の金学曾が、七月九日に平秀吉が死んで、どの倭にも帰る気があると報せた。十一月、清正が舟を出して先に逃げたので、麻貴はついに島山・酉浦に入り、劉綎は曳橋を攻め取った。石曼子が水軍を率いて行長を救いに来たので、陳璘が迎え撃ってこれを破った。倭たちは帆を揚げてことごとく帰った。
夾注 1
麻貴遂入島山酉浦酉浦,本書卷二三八麻貴傳作「西浦」,疑是。
「麻貴はついに島山・酉浦に入り」の酉浦は、本書巻二三八の麻貴伝に「西浦」とあり、それが正しいようである。
2七年の戦いの帳尻
自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。
倭が朝鮮を乱した七年のあいだ、失った軍は数十万、費やした兵糧は数百万に及んだが、中朝も属国もついに勝つ算段がなく、関白が死んではじめて災いが収まった。
3倭を平らげた詔
二十七年閏四月,以平倭詔告天下,又敕諭昖曰:「倭奴平秀吉肆為不道,蹂躪爾邦。朕念王世篤忠貞,深用憫惻。七年之中,日以此賊為事。始行薄伐,繼示包容,終加嚴討。蓋不殺乃天之心,而用兵非予得已。安疆靖亂,宜取蕩平。神惡凶盈,陰殲魁首,大師乘之,追奔逐北,鯨鯢盡戮,海隅載清,捷書來聞,憂勞始釋。惟王雖還舊物,實同新造,振凋起敝,為力倍艱。倭雖遁歸,族類尚在。茲命邢玠振旅歸京,量留萬世德等分布戍守。王宜臥薪嘗膽,無忘前恥,惟忠惟孝,纘紹前休。」
二十七年閏四月、倭を平らげた詔を天下に告げ、また昖に勅諭して言った。「倭奴の平秀吉は勝手に無道な振る舞いをして、そなたの国を踏み荒らした。朕は王が代々忠貞を篤くしてきたことを思い、深く憐れんだ。七年のあいだ、日々この賊を事としてきた。はじめは軽く討ち、次には寛容を示し、最後には厳しい討伐を加えた。そもそも殺さぬのが天の心であり、兵を用いたのは予のやむをえぬところであった。国土を安んじ乱を静めるには、掃き清めるほかない。神は凶悪の満ちるのを憎み、ひそかに首魁を討ち滅ぼし、大軍がそれに乗じて逃げる者を追い、鯨のごとき輩をことごとく殺したので、海の隅まで清らかになり、戦勝の書が届いて、憂いと労苦がはじめて解けた。王は旧いものを取り戻したとはいえ、実は新しく造ったに等しく、衰えを起こし傷みを立て直すには、倍の力がいる。倭は逃げ帰ったが、その族はなお残っている。そこで邢玠に軍を整えて都へ帰らせ、万世徳らを量って残して分けて守らせる。王はまさに薪に臥し胆を嘗めて、先の恥を忘れず、忠を尽くし孝を尽くして、先代の美しさを継ぐがよい。」
夾注 1
二十七年閏四月閏四月,原作「四月」,脫「閏」字,據本書卷二一神宗紀、神宗實錄卷三三四萬曆二十七年閏四月丙戌條補。
「二十七年閏四月」の閏四月は、もと「四月」とあって「閏」の字が落ちていたが、本書巻二一の神宗紀、および神宗実録巻三三四の万暦二十七年閏四月丙戌の条によって補った。
4後始末の十か条
五月,玠條陳東征善後事宜十事。一,留戍兵,馬步水陸共計三萬四千有奇,馬三千匹。一,定月餉,每年計銀九十一萬八千有奇。一,定本色,合用米豆,分派遼東、天津、山東等處,每年十三萬石。一,留中路海防道。一,裁餉司。一,重將領。一,添巡捕。一,分汛地。一,議操練。一,責成本國。廷臣議:「數年疲耗,今始息肩,自宜內固根本,不當更為繁費。況彼國兵荒之後,不獨苦倭之擾,兼苦我兵。故今日善後事宜,仍當商之彼國,先量彼餉之贏絀,始可酌我兵之去留。至於增買馬匹,添補標兵,創立巡捕,及至管餉府佐,悉宜停止。」帝命督撫會同國王酌奏。八月,昖獻方物,助大工,褒賞如例。十月,請留水兵八千,以資戍守。其撤回官兵,駐劄遼陽備警。二十八年四月請將義州等倉遺下米豆運回遼陽。戶部議:「輸運維艱,莫若徑與彼國,振其彫敝,以昭皇仁。」詔曰:「可。」
五月、玠が東征の後始末に関する事柄を十か条に分けて申し上げた。一つ、守備の兵を残すこと。騎馬・歩兵・水陸合わせて三万四千余、馬三千匹。一つ、月々の糧を定めること。毎年銀九十一万八千余。一つ、現物を定めること。必要な米と豆を遼東・天津・山東などに割り振り、毎年十三万石。一つ、中路の海防道を残すこと。一つ、糧餉の役所を減らすこと。一つ、将領の権を重くすること。一つ、巡捕を増やすこと。一つ、持ち場を分けること。一つ、調練を議すること。一つ、本国に責任を負わせること。朝廷の臣たちが議して言った。「数年の疲弊でいまようやく肩を休めたのですから、内において根本を固めるのが当然で、さらに多くの費用をかけるべきではありません。まして彼の国は兵乱と飢饉のあとで、倭の騒ぎに苦しんだだけでなく、わが兵にも苦しんでおります。ですから今日の後始末の事柄は、やはり彼の国と相談し、まず彼らの兵糧の余裕と不足を量ってから、はじめてわが兵の去就を考えることができます。馬を買い増すこと、標兵を補うこと、巡捕を新設すること、糧餉を管する府の佐官を置くことに至っては、ことごとく取りやめるべきです。」帝は督撫に命じて、国王と会って斟酌して奏上させた。八月、昖が方物を献じ、大きな造営を助けたので、例のとおり褒め賞した。十月、水兵八千を残して守備の助けとし、引き揚げる官兵は遼陽に駐屯して警備させるよう請うた。二十八年四月、義州などの倉に残った米と豆を遼陽へ運び返すことを請うたが、戸部が「運ぶのはいかにも困難ですから、いっそ直接その国に与えて、その衰えを救い、皇帝の仁を明らかにするのがよろしいでしょう」と議したので、詔して「よろしい」と言った。
夾注 1
留中路海防道中路,原作「中都」,據明史稿傳一九四朝鮮傳、神宗實錄卷三三五萬曆二十七年五月壬戌條改。
「中路の海防道を残す」の中路は、もと「中都」とあったが、明史稿の朝鮮伝、および神宗実録巻三三五の万暦二十七年五月壬戌の条によって改めた。
5経理と総督の七か条
二十九年二月,兵部覆奏經督條陳七事:「一,練兵士。麗人鷙悍耐寒苦,而長衫大袖,訓練無方,宜以束伍之法教之。一,守衝要。朝鮮三面距海,釜山與對馬相望,巨濟次之,宜各守以重兵,幷蔚山、開山等處皆宜戍守。一,修險隘。王京北倚叢山,南環滄海。忠州左右烏、竹二嶺,羊腸繞曲,有一夫當關之險。今營壘遺址尚存,亟宜修葺。一,建城池。朝鮮八道,十九無城。平壤西北鴨、浿二江,俱南通海。倘倭別遣一旅占據平壤,則王京聲援斷絕,皆應修築屯聚。一,造器械。倭戰便陸不便海,以船制重大,不利攻擊。今准福唬造百十艘為奇兵,幷添造神機百子火箭。一,訪異材。朝鮮貴世官,賤世役,一切禁錮,往往走倭走敵,為本國患,宜破格搜採。一,修內治。國家東南臨海,以登、旅為門戶,鎮江為咽喉,應援之兵,不宜盡撤。我自固,亦所以固朝鮮也。」詔朝鮮刻勵以行。九月,奏所頒誥命冕服遭變淪失,祈補給,從之。
二十九年二月、兵部が経理と総督が条目を挙げて申し上げた七か条を重ねて奏上した。「一つ、兵士を鍛える。高麗の人は荒々しく強く、寒さと苦しみに耐えるが、長い上着に大きな袖で訓練に方法がないので、束伍の法で教えるべきである。一つ、要衝を守る。朝鮮は三面が海に接し、釜山は対馬と向かい合い、巨済がそれに次ぐので、それぞれ重兵で守らせ、あわせて蔚山・開山などにも守備を置くべきである。一つ、険しい隘路を修める。王京は北に群山を背負い、南に青い海をめぐらせ、忠州の左右の烏嶺・竹嶺の二峠は羊の腸のように曲がり、一人で関を塞げる険しさがある。いま営塁の跡がなお残っているので、急ぎ修繕すべきである。一つ、城と濠を築く。朝鮮八道は十に九つ城がない。平壌の西北の鴨緑・浿水の二江はいずれも南へ海に通じているので、もし倭が別に一隊を遣わして平壌を占めれば、王京への後ろ盾が断ち切られる。いずれも修築して兵を集めておくべきである。一つ、器械を造る。倭は陸戦に長じ海戦に不得手で、船の造りが重く大きく、攻撃に向かないからである。いま福船・唬船百十艘を造って奇兵とし、あわせて神機百子火箭を造り増すことを許す。一つ、すぐれた人材を求める。朝鮮は代々官につく家を貴び、代々役につく家を賤しんで、一切を閉ざしているので、しばしば倭に走り敵に走って本国の患いとなる。格式を破って探り採るべきである。一つ、内の政を修める。国家は東南が海に臨み、登州・旅順を門戸とし、鎮江を喉元とするので、応援の兵をことごとく引き揚げるべきではない。われらが自ら固めることは、すなわち朝鮮を固めることでもある。」詔して朝鮮に励んで実行させた。九月、賜与された誥命と冕服を変乱で失ったと奏上して、改めて給わるよう願い出たので、これに従った。
夾注 2
倭戰便陸不便海原作「倭便戰陸不便海」,據神宗實錄卷三五六萬曆二十九年二月辛卯條改。
「倭は陸戦に長じ海戦に不得手で」は、もと「倭便戦陸不便海」とあったが、神宗実録巻三五六の万暦二十九年二月辛卯の条によって改めた。
並添造神機百子火箭火,原作「大」,據神宗實錄卷三五六萬曆二十九年二月辛卯條改。
「あわせて神機百子火箭を造り増す」の火は、もと「大」とあったが、神宗実録巻三五六の万暦二十九年二月辛卯の条によって改めた。
6対馬の和議の求め
時倭國內亂,對馬島主平義智悉遣降人還朝鮮,遺書乞和,且揚言秀吉將家康將輸糧數十萬石為軍興資,以脅朝鮮。朝鮮與對馬島一水相望,島地不產五穀,資米於朝鮮。兵興後,絕開市,因百計脅款。秀吉死,我軍盡撤,朝鮮畏倭滋甚。欲與倭通款,又懼開罪中國。十二月,昖以島倭求款來請命。兵部以事難遙度,令總督世德酌議,詔可。三十年十一月,昖言倭使頻來要挾和款,兵端漸露,乞選將率兵,督同本國訓練修防。帝曰:「曾留將士教習,成法具在,無容再遣。」因命其使臣齎敕誡勵。三十三年九月,昖復請封琿為世子,禮部仍執立長之議。三十五年四月,昖以家康求和來告,兵部議聽王自計而已。由是和款不絕,後三年始畫開市之事。
このころ倭国が内から乱れ、対馬島主の平義智は降った者をすべて朝鮮に帰し、書を寄せて和を願い、そのうえ秀吉の将であった家康が兵糧数十万石を運んで軍を起こす資とするだろうと言い立てて、朝鮮を脅した。朝鮮は対馬島と一筋の水を隔てて向かい合っているが、島の地は五穀が実らず、米を朝鮮に頼っていた。兵乱が起こってから交易の市が絶えたので、あらゆる手立てで和議を迫ったのである。秀吉が死んでわが軍がすべて引き揚げると、朝鮮は倭をいっそう恐れ、倭と和を通じたいと思いながら、中国の罪を得ることをまた恐れた。十二月、昖は島の倭が和を求めていることを告げて、処置の命を請うた。兵部は遠くから推し量りがたい事だとして、総督の世徳に斟酌して議させることとし、詔して許された。三十年十一月、昖は、倭の使者がしきりに来て和議を強く求め、兵乱の端緒が次第に現れていると述べ、将を選んで兵を率い、本国を監督して訓練させ防備を修めさせてほしいと願った。帝は「かつて将士を残して教え習わせ、できあがった法がそのまま残っているのだから、改めて遣わす必要はない」と言い、そこでその使臣に勅を持たせて戒め励ませた。三十三年九月、昖はまた琿を世子に封じることを請うたが、礼部はなお長子を立てるという議を押し通した。三十五年四月、昖は家康が和を求めていることを告げて来たが、兵部は王が自ら考えるに任せようと議するだけであった。これより和議は絶えず、三年のちにようやく市を開く件が定まった。
7光海君の即位
三十六年,昖卒。光海君琿自稱署國事,遣陪臣來訃,且請諡。帝惡其擅,不允,令該國臣民公議以聞。時我大清兵征服各部,漸近朝鮮。兵部議令該王大修武備,整飭邊防,幷請敕遼左督撫鎮臣,遣官宣達毋相侵犯之意。從之。十月,封琿為國王,從其臣民請也。三十七年二月,諡昖曰昭敬,遣官賜琿及妃柳氏誥命。
三十六年、昖が亡くなった。光海君の琿は自ら署国事と称して陪臣を遣わして訃を告げ、あわせて諡を請うた。帝はその勝手な振る舞いを憎んで許さず、その国の臣民に公の議として申し上げさせた。このころわが大清の兵が各部を征服して、次第に朝鮮へ近づいていたので、兵部はその王に武備を大いに修め辺境の防備を整えさせ、あわせて遼左の督撫・鎮の臣に勅して、官を遣わして互いに侵し犯さぬという意を伝えさせるよう請い、これに従った。十月、琿を国王に封じたのは、その臣民の願いに従ったのである。三十七年二月、昖に昭敬と諡し、官を遣わして琿とその妃柳氏に誥命を賜った。
8釜山をめぐる噂
初,朝鮮失守,賴中國力得復,倭棄釜山遁。然陰謀啟疆,為患不已。於是海上流言倭圖釜山,朝鮮與之通。四十一年九月,總兵官楊宗業以聞。琿疏辨,詔慰解之。
はじめ朝鮮は守りを失ったが、中国の力に頼って回復することができ、倭は釜山を捨てて逃げた。しかしひそかに領土を広げる謀を抱いて、患いはやまなかった。そこで海の上に、倭が釜山を狙っており、朝鮮がそれと通じているという噂が流れた。四十一年九月、総兵官の楊宗業がそのことを申し上げたので、琿は上疏して申し開きをし、詔して慰め、疑いを解いた。
9生母の追封
四十二年四月,奏請追封生母金氏。禮部按會典,嫡母受封而生母先亡者得追贈,乃命封為國王次妃。四十三年十一月,表賀冬至,因奏買回吾學編、弇山堂別集等書,載本國事與會典乖錯,乞改正。禮部言:「野史不足憑。今所請恥與逆黨同譏,宜憫其誠,宣付史館。」報可。初,琿為生母已得封,至是復祈給冠服。禮臣以金氏側室,禮有隆殺,執不可。四十五年正月,琿請至再,帝以琿屢次懇陳,勉從之。
四十二年四月、生母の金氏を追って封じることを奏請した。礼部が会典を調べると、嫡母が封を受けていて生母が先に亡くなっている場合は追贈できるとあったので、国王の次妃に封じるよう命じた。四十三年十一月、表を奉って冬至を賀し、その折に、買って帰った吾学編・弇山堂別集などの書に、本国の事が会典と食い違って載っているので訂正してほしいと奏上した。礼部は「野史は拠りどころにするに足りません。このたびの願いは逆党と同じに謗られることを恥じるものですから、その誠意を憐れんで、史館へ下されるのが当然です」と言い、許可する旨を報じた。はじめ琿は生母のためにすでに封を得ていたが、ここに至って重ねて冠服を給わるよう願った。礼部の臣は、金氏は側室であって礼には厚薄の別があるとして、不可を押し通した。四十五年正月、琿が二度三度と請うたので、帝は琿がたびたび懇ろに述べたのを見て、努めてこれに従った。
10深河の役と光海君の申し開き
四十七年,楊鎬督馬林、杜松、劉綎等出師,為我大清兵所敗。朝鮮助戰兵將,或降或戰死。琿告急,詔加優恤。十一月,兵部覆:朝鮮入貢之道,宜添兵防守。詔鎮江等處設兵將,令經略熊廷弼調委。四十八年正月,琿奏:「敵兵八月中攻破北關,金台吉自焚,白羊出降。鐵嶺之役,蒙古宰賽亦為所滅。聞其國謀議以朝鮮、北關、宰賽皆助兵南朝,今北關、宰賽皆滅,不可使朝鮮獨存。又聞設兵牛毛寨、萬遮嶺,欲略寬奠、鎮江等處。寬奠、鎮江與昌城、義州諸堡隔水相望,孤危非常。敵若從靉陽境上鴉鶻關取路遶出鳳凰城裏,一日長軀,寬鎮、昌城俱莫自保。內而遼左八站,外而東江一城,彼此隔斷,聲援阻絕,可為寒心。望速調大兵,共為掎角,以固邊防。」時遼鎮塘報稱朝鮮與大清講和,朝議遂謂琿陽衡陰順,宜遣官宣諭,或命將監護,其說紛挐。琿疏辨:「二百年忠誠事大,死生一節。」詞極剴摯。禮、兵二部請降敕令曉諭,以安其心。帝是其議,然敕令陪臣往,不遣官也。
四十七年、楊鎬が馬林・杜松・劉綎らを督して軍を出したが、わが大清の兵に敗れた。朝鮮から戦いを助けた兵と将は、降る者もあり戦って死ぬ者もあった。琿が急を告げたので、詔して手厚い恤みを加えた。十一月、兵部が、朝鮮が入貢する道には兵を増やして守るべきだと重ねて奏上したので、詔して鎮江などに兵と将を置き、経略の熊廷弼に動かして任せさせた。四十八年正月、琿が奏上した。「敵兵は八月のうちに北関を攻め破り、金台吉は自ら焼け死に、白羊骨は出て降りました。鉄嶺の役では、蒙古の宰賽もまた滅ぼされました。聞けば、その国の謀りごとでは、朝鮮と北関と宰賽はみな南朝に兵を助けたが、いま北関と宰賽はいずれも滅んだのだから、朝鮮だけを残しておくわけにはいかぬと申しているとのことです。また牛毛砦と万遮嶺に兵を置いて、寛奠・鎮江などを侵そうとしているとも聞きます。寛奠・鎮江は昌城・義州の諸堡と水を隔てて向かい合い、孤立して危ういことこのうえありません。敵がもし靉陽の境の鴉鶻関から道をとり、回って鳳凰城の内側へ出て、一日で長駆すれば、寛奠・鎮江と昌城はいずれも自ら保てず、内は遼左の八站、外は東江の一城が、たがいに隔てられて後ろ盾が断たれ、寒心のかぎりでございます。どうか速やかに大軍を動かし、ともに挟み撃ちの構えをとって、辺境の防備を固めてくださいますよう。」このとき遼鎮の報せに、朝鮮が大清と和議をしていると称したので、朝廷の議はついに、琿は表向き抗って裏で従っているのだから、官を遣わして諭すべきだ、あるいは将に命じて監視させるべきだと、その説が乱れ騒いだ。琿は上疏して「二百年のあいだ忠誠をもって大に事え、生きるも死ぬも節を一つにしてまいりました」と申し開きをしたが、その言葉はきわめて切実であった。礼部・兵部は勅を下して諭し、その心を安んじるよう請うた。帝はその議をよしとしたが、勅は陪臣に持たせて行かせ、官は遣わさなかった。
11毛文竜と椵島
天啟元年八月,改朝鮮貢道,自海至登州,直達京師。時毛文龍以總兵鎮皮島,招集逃民為兵,而仰給於朝鮮。十一月,琿奏力難餽餉,乞循萬曆東征例,發運山東粟,從之。
天啓元年八月、朝鮮の貢路を改めて、海から登州に至り、まっすぐ都へ達することとした。このころ毛文竜が総兵として皮島に鎮し、逃げた民を集めて兵とし、糧は朝鮮に頼っていた。十一月、琿は糧を送るのが力に余ると奏上し、万暦の東征の例にならって山東の粟を運び出してほしいと願ったので、これに従った。