いにしえの文 › 墨子(墨翟の書)

所染

墨子(墨翟の書) 墨子 · 墨翟とその門人たち · 紀元前4世紀頃 · 段落 3 · 漢字 589字 · 朗読 2.4分

墨子(墨翟の書) 戦国時代に儒家と並んで「二つの大きな群れ」に数えられた学派の文章である。一人の著述ではなく、墨翟とその門人たちが代を継いで加えたものなので、同じ主張を上・中・下の三通りに記した篇が多い。門派が分かれ、それぞれに写し取った跡と見られる。 十の主張が骨格である — 賢い者を高くし(尚賢)、上と義を同じくし(尚同)、あまねく愛し(兼愛)、攻めることを否とし(非攻)、用に節度を置き(節用)、葬に節度を置き(節葬)、天の意に従い(天志)、鬼神を明らかにし(明鬼)、音楽を否とし(非楽)、命を否とする(非命)。 「他人の家を見ることを自分の家のようにすれば、誰が盗むだろうか」が兼愛篇に、桃一つを盗めば罰しながら他国を攻めれば称えるという「非攻」の階段が、尺度なしに語れば「回る轆轤の上に日の出と日の入りの位置を立てるようなもの」だという三表が非命篇にある。 終わりの「公輸」の一篇は物語である。楚が雲梯を作って宋を攻めようとすると、墨子が十日十夜を歩いて行き、公輸盤と帯と木片で九度競って勝ち、帰る道で雨に遭い、よりによってその宋の村の門の内で雨を避けられない。

子墨子言見染絲者而歎,曰:染於蒼則蒼,染於黃則黃,所入者變,其色亦變。五入必,而已則爲五色矣。故染不可不愼也。

墨子先生は糸を染める者を見て嘆き、こう言った。「青いものに染めれば青くなり、黄のものに染めれば黄になる。入れるものが変われば、その色もまた変わる。五度入れれば五色になる。だから染めることは慎まないわけにはいかない。」

非獨染絲然也,國亦有染。舜染於許由、伯陽,禹染於皋陶、伯益,湯染於伊尹、仲虺,武王染於太公、周公。此四王者所染當,故王天下,立爲天子,功名蔽天地。舉天下之仁義顯人,必稱此四王者。夏桀染於干辛、推哆,殷紂染於崇侯、惡來,厲王染於厲公長父、榮夷終,幽王染於傅公夷、蔡公穀。此四王者所染不當,故國殘身死,爲天下僇。舉天下不義辱人,必稱此四王者。齊桓染於管仲、鮑叔,晉文染於舅犯、高偃,楚莊染於孫叔、沈尹,吳闔閭染於伍員、文義,越句踐染於范蠡、大夫種。此五君者所染當,故霸諸侯,功名傳於後世。范吉射染於長柳朔、王胜,中行寅染於籍秦、高彊,吳夫差染於王孫雒、太宰嚭,智伯搖染於智國、張武,中山尚染於魏義、偃長,宋康染於唐鞅、佃不禮。此六君者所染不當,故國家殘亡,身爲刑戮,宗廟破滅,絕無後類,君臣離散,民人流亡。舉天下之貪暴苛擾者,必稱此六君也。凡君之所以安者,何也?以其行理也,行理性於染當。故善爲君者,勞於論人,而佚於治官。不能爲君者,傷形費神,愁心勞意,然國逾危,身逾辱。此六君者,非不重其國、愛其身也,以不知要故也。不知要者,所染不當也。

糸だけがそうなのではなく、国にも染まりがある。

舜は許由と伯陽に染まり、禹は皋陶と伯益に染まり、湯は伊尹と仲虺に染まり、武王は太公と周公に染まった。この四人の王は染まった相手が適切であったから、天下に王となり、立って天子となり、功と名が天地を覆った。天下で仁義によって名の現れた人を挙げれば、必ずこの四人の王を称える。

夏の桀は干辛と推哆に染まり、殷の紂は崇侯と悪来に染まり、厲王は厲公長父と栄夷終に染まり、幽王は傅公夷と蔡公穀に染まった。この四人の王は染まった相手が適切でなかったから、国は損なわれ身は死に、天下で殺されて恥をさらした。天下で不義によって恥をさらした人を挙げれば、必ずこの四人の王を称える。

斉の桓公は管仲と鮑叔に染まり、晋の文公は舅犯と高偃に染まり、楚の荘王は孫叔と沈尹に染まり、呉の闔閭は伍員と文義に染まり、越の勾践は范蠡と大夫種に染まった。この五人の君は染まった相手が適切であったから、諸侯の覇者となり、功と名が後の世に伝わった。

范吉射は長柳朔と王胜に染まり、中行寅は籍秦と高彊に染まり、呉の夫差は王孫雒と太宰嚭に染まり、智伯搖は智国と張武に染まり、中山の尚は魏義と偃長に染まり、宋の康は唐鞅と佃不礼に染まった。この六人の君は染まった相手が適切でなかったから、国家は損なわれ滅び、身は刑に殺され、宗廟は破れ滅び、後継ぎは絶え、君臣は離れ散り、民は流れ亡んだ。天下で貪り暴れ苛み乱した者を挙げれば、必ずこの六人の君を称える。

およそ君が安らかでいられる理由は何か。その理にかなって行うからである。理にかなって行うのは、染まりが適切であるところから生まれる。だから君として優れた者は人を論じることに苦労し、官を治めることでは楽をする。君となれない者は、体を損ない精神を費やし、心を憂え意を労しながら、それでも国はいよいよ危うく、身はいよいよ恥をさらす。

この六人の君は、自分の国を重んじ自分の身を愛さなかったのではなく、要を知らなかったからである。要を知らないとは、染まった相手が適切でないということである。

非獨國有染也,士亦有染。其友皆好仁義,淳謹畏令,則家日益、身日安、名日榮,處官得其理矣,則段干木、禽子、傅說之徒是也。其友皆好矜奮,創作比周,則家日損、身日危、名日辱,處官失其理矣,則子西、易牙、豎刀之徒是也。《詩》曰「必擇所堪,必謹所堪」者,此之謂也。

国だけに染まりがあるのではなく、士にも染まりがある。

その友がみな仁義を好み、素朴で慎み深く法令を畏れるなら、家は日ごとに増し、身は日ごとに安らかになり、名は日ごとに栄え、官にあってその理を得る。段干木・禽子・傅説の徒がそれである。

その友がみな誇り高ぶり奮い立つことを好み、事を作り出し党を組むなら、家は日ごとに損じ、身は日ごとに危うく、名は日ごとに恥をさらし、官にあってその理を失う。子西・易牙・豎刀の徒がそれである。

『詩』に「必ず浸す所を択び、必ず浸すことを慎め」とあるのは、これを言うのである。