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天志上

墨子(墨翟の書) 墨子 · 墨翟とその門人たち · 紀元前4世紀頃 · 段落 8 · 漢字 1,489字 · 朗読 6.0分

墨子(墨翟の書) 戦国時代に儒家と並んで「二つの大きな群れ」に数えられた学派の文章である。一人の著述ではなく、墨翟とその門人たちが代を継いで加えたものなので、同じ主張を上・中・下の三通りに記した篇が多い。門派が分かれ、それぞれに写し取った跡と見られる。 十の主張が骨格である — 賢い者を高くし(尚賢)、上と義を同じくし(尚同)、あまねく愛し(兼愛)、攻めることを否とし(非攻)、用に節度を置き(節用)、葬に節度を置き(節葬)、天の意に従い(天志)、鬼神を明らかにし(明鬼)、音楽を否とし(非楽)、命を否とする(非命)。 「他人の家を見ることを自分の家のようにすれば、誰が盗むだろうか」が兼愛篇に、桃一つを盗めば罰しながら他国を攻めれば称えるという「非攻」の階段が、尺度なしに語れば「回る轆轤の上に日の出と日の入りの位置を立てるようなもの」だという三表が非命篇にある。 終わりの「公輸」の一篇は物語である。楚が雲梯を作って宋を攻めようとすると、墨子が十日十夜を歩いて行き、公輸盤と帯と木片で九度競って勝ち、帰る道で雨に遭い、よりによってその宋の村の門の内で雨を避けられない。

子墨子言曰:今天下之士君子,知小而不知大。何以知之?以其處家者知之。若處家得罪於家長,猶有鄰家所避逃之。然且親戚兄弟所知識共相儆戒,皆曰:「不可不戒矣,不可不慎矣,惡有處家而得罪於家長而可爲也!」非獨處家者爲然,雖處國亦然。處國得罪於國君,猶有鄰國所避逃之。然且親戚兄弟所知識共相儆戒,皆曰:「不可不戒矣,不可不慎矣,誰亦有處國得罪於國君而可爲也!」此有所避逃之者也,相儆戒猶若此其厚。況無所避逃之者,相儆戒豈不愈厚然後可哉?且語言有之曰:「焉而晏日,焉而得罪,將惡避逃之?」曰:無所避逃之。夫天不可爲林谷幽閒無人,明必見之。然而天下之士君子之於天也,忽然不知以相儆戒。此我所以知天下士君子知小而不知大也。

墨子先生が言った。「いま天下の士や君子は、小さなことを知って大きなことを知らない。

何によってそれを知るのか。その家に住むことによって知る。もし家に住んでいて家長に罪を得ても、なお隣の家に逃れる所がある。それなのに親族や兄弟や知り合いがともに互いに戒め、みなこう言う。『戒めないわけにはいかない。慎まないわけにはいかない。どうして家に住んでいて家長に罪を得て、それでよいことがあろうか。』

家に住む者だけがそうなのではなく、国に住んでも同じである。国に住んでいて国君に罪を得ても、なお隣の国に逃れる所がある。それなのに親族や兄弟や知り合いがともに互いに戒め、みなこう言う。『戒めないわけにはいかない。慎まないわけにはいかない。誰がまた国に住んでいて国君に罪を得て、それでよいことがあろうか。』

これは逃れる所がある場合であるのに、互いに戒めることがなおこのように厚い。まして逃れる所のない場合なら、互いに戒めることがさらに厚くなければならないのではないか。

また言葉にこうある。『明るい日のもとで罪を得れば、いったいどこに逃れるのか。』いう、逃れる所はない。そもそも天は、林や谷や奥深く静かな所だから人がいないということはなく、明らかに必ずこれを見る。

それなのに天下の士や君子は、天に対してはうっかりと互いに戒めることを知らない。これが、私が天下の士や君子が小さなことを知って大きなことを知らないと分かる理由である。」

然則天亦何欲何惡?天欲義而惡不義。然則率天下之百姓以從事於義,則我乃爲天之所欲也。我爲天之所欲,天亦爲我所欲。然則我何欲何惡?我欲福祿而惡禍祟。然則率天下之百姓以從事於不義,則我乃爲天之所不欲也。我爲天之所不欲,天亦爲我所不欲,則是我率天下之百姓以從事於禍祟中也。

それでは、天はまた何を望み何を憎むのか。天は義を望み、不義を憎む。

それなら、天下の百姓を率いて義に当たる事に向かえば、私は天の望むところを行うのである。私が天の望むところを行えば、天もまた私の望むところを行う。

それでは、私は何を望み何を憎むのか。私は福と禄を望み、災いを憎む。

それなら、天下の百姓を率いて不義に当たる事に向かえば、私は天の望まないところを行うのである。私が天の望まないところを行えば、天もまた私の望まないところを行う。つまりこれは、私が天下の百姓を率いて災いの中に向かって行くことである。

然則何以知天之欲義而惡不義?曰:天下有義則生,無義則死;有義則富,無義則貧;有義則治,無義則亂。然則天欲其生而惡其死,欲其富而惡其貧,欲其治而惡其亂,此我所以知天欲義而惡不義也。

それでは、何によって天が義を望み不義を憎むと知るのか。いう、天下に義があれば生き、義がなければ死に、義があれば富み、義がなければ貧しく、義があれば治まり、義がなければ乱れる。

それなら、天はその生を望みその死を憎み、その富を望みその貧しさを憎み、その治まりを望みその乱れを憎む。これが、私が天が義を望み不義を憎むと分かる理由である。

曰:且夫義者,政也。無從下之政上,必從上之政下。是故庶人竭力從事,未得次己而爲政,有士政之;士竭力從事,未得次己而爲政,有將軍大夫政之;將軍大夫竭力從事,未得次己而爲政,有三公諸侯政之;三公諸侯竭力聽治,未得次己而爲政,有天子政之;天子未得次己而爲政,有天政之。天子爲政於三公、諸侯、士、庶人,天下之士君子固明知之;天之爲政於天子,天下百姓未得之明知也。故昔三代聖王禹湯文武,欲以天之爲政於天子明說天下之百姓,故莫不犓牛羊,豢犬彘,潔爲粢盛酒醴,以祭祀上帝鬼神,而求祈福於天。我未嘗聞天下之所求祈福於天子者也,我所以知天之爲政於天子者也。

いう。またそもそも義とは、治めることである。下から上を治めることはできず、必ず上から下を治める。

だから庶民が力を尽くして事に当たっても、自分の思いどおりに治めることはできず、士がこれを治める。士が力を尽くして事に当たっても、自分の思いどおりに治めることはできず、将軍や大夫がこれを治める。将軍や大夫が力を尽くして事に当たっても、自分の思いどおりに治めることはできず、三公や諸侯がこれを治める。三公や諸侯が力を尽くして政を聴いて治めても、自分の思いどおりに治めることはできず、天子がこれを治める。天子が自分の思いどおりに治めることはできず、天がこれを治める。

天子が三公や諸侯や士や庶民に政を執ることは、天下の士や君子がもともと明らかに知っているが、天が天子に政を執ることは、天下の百姓はまだ明らかに知らない。

だから昔の三代の聖王である禹と湯と文王と武王は、天が天子に政を執ることを天下の百姓に明らかに説こうとしたので、牛や羊を飼い、犬や豚を養い、清めて供え物の穀物や酒を用意して上帝や鬼神を祭り、天に福を祈り求めない者はなかった。

私はいまだかつて、天が天子に福を祈り求めるということを聞いたことがない。これが、私が天が天子に政を執ると分かる理由である。

夾注 1

天下之所求祈福於天子

底本は天下だが、天の誤りと見る。天志中・天志下の同じ箇所に合わせて読んだ。― 訳者

故天子者,天下之窮貴也,天下之窮富也。故欲富且貴者,當天意而不可不順。順天意者,兼相愛、交相利,必得賞;反天意者,別相惡、交相賊,必得罰。然則是誰順天意而得賞者?誰反天意而得罰者?子墨子言曰:昔三代聖王禹湯文武,此順天意而得賞者也;昔三代之暴王桀紂幽厲,此反天意而得罰者也。然則禹湯文武其得賞何以也?子墨子言曰:其事上尊天,中事鬼神,下愛人。故天意曰:「此之我所愛,兼而愛之;我所利,兼而利之。愛人者此爲博焉,利人者此爲厚焉。」故使貴爲天子,富有天下,業萬世子孫。傳稱其善,方施天下,至今稱之,謂之聖王。然則桀紂幽厲得其罰何以也?子墨子言曰:其事上詬天,中誣鬼,下賊人。故天意曰:「此之我所愛,別而惡之;我所利,交而賊之。惡人者此爲之博也,賊人者此爲之厚也。」故使不得終其壽,不歿其世,至今毀之,謂之暴王。

だから天子とは、天下で極まった貴さであり、天下で極まった富である。だから富みかつ貴くなろうとする者は、まさに天の意に従わないわけにはいかない。

天の意に従う者はあまねく互いに愛し、交わって互いに利するので、必ず賞を得る。天の意に背く者は分け隔てて互いに憎み、交わって互いに害するので、必ず罰を得る。

それでは、誰が天の意に従って賞を得た者であり、誰が天の意に背いて罰を得た者なのか。

墨子先生が言った。「昔の三代の聖王である禹と湯と文王と武王が、天の意に従って賞を得た者であり、昔の三代の暴王である桀と紂と幽王と厲王が、天の意に背いて罰を得た者である。」

それでは、禹と湯と文王と武王がその賞を得たのは何によってか。

墨子先生が言った。「彼らが事を行うにあたって、上は天を尊び、中は鬼神に仕え、下は人を愛した。だから天の意がこう言った。『この者は、私が愛するところをあまねく愛し、私が利するところをあまねく利する。人を愛することがこのように広く、人を利することがこのように厚い。』だから貴きこと天子とならせ、富むこと天下を持たせ、万代の子孫に業を継がせた。伝えはその善を称え、天下にあまねく行き渡って、今に至るまでこれを称え、聖王という。」

それでは、桀と紂と幽王と厲王がその罰を得たのは何によってか。

墨子先生が言った。「彼らが事を行うにあたって、上は天を罵り、中は鬼神を偽り、下は人を害した。だから天の意がこう言った。『この者は、私が愛するところを分け隔てて憎み、私が利するところを交わって害する。人を憎むことがこのように広く、人を害することがこのように厚い。』だからその寿命を終えられず、その世を全うできないようにして、今に至るまでこれを謗り、暴王という。」

然則何以知天之愛天下之百姓?以其兼而明之。何以知其兼而明之?以其兼而有之。何以知其兼而有之?以其兼而食焉。何以知其兼而食焉?曰:四海之內,粒食之民,莫不犓牛羊、豢犬彘,潔爲粢盛酒醴,以祭祀於上帝鬼神。天有邑人,何用弗愛也?且吾言殺一不辜者,必有一不祥。殺不辜者誰也?則人也。予之不祥者誰也?則天也。若以天爲不愛天下之百姓,則何故以人與人相殺,而天予之不祥?此我所以知天之愛天下之百姓也。

それでは、何によって天が天下の百姓を愛すると知るのか。天があまねくこれを明らかにするからである。

何によって天があまねくこれを明らかにすると知るのか。天があまねくこれを保つからである。

何によって天があまねくこれを保つと知るのか。天があまねく食を受けるからである。

何によって天があまねく食を受けると知るのか。いう、四海の内で穀物を食う民が、牛や羊を飼い、犬や豚を養い、清めて供え物の穀物や酒を用意して上帝や鬼神を祭らない者はない。天に邑の人がいるのだから、何のために愛さないことがあろうか。

また私は言った、罪のない一人を殺せば必ず一つの不吉があると。罪のない者を殺すのは誰か。人である。その者に不吉を与えるのは誰か。天である。もし天が天下の百姓を愛さないとするなら、何のゆえに人と人が互いに殺すのに天がその者に不吉を与えるのか。これが、私が天が天下の百姓を愛すると分かる理由である。

順天意者,義政也。反天意者,力政也。然義政將柰何哉?子墨子言曰:處大國不攻小國,處大家不篡小家,强者不劫弱,貴者不傲賤,多詐者不欺愚。此必上利於天,中利於鬼,下利於人。三利無所不利,故舉天下美名加之,謂之「聖王」。力政者則與此異,言非此,行反此,猶倖馳也。處大國攻小國,處大家篡小家,强者劫弱,貴者傲賤,多詐者欺愚。此上不利於天,中不利於鬼,下不利於人。三不利無所利,故舉天下惡名加之,謂之「暴王」。

天の意に従う者は義の政であり、天の意に背く者は力の政である。

それでは、義の政とはいったいどのようなものか。

墨子先生が言った。「大国にあって小国を攻めず、大きな家にあって小さな家を奪わず、強い者が弱い者を脅さず、貴い者が賤しい者に驕らず、偽りの多い者が愚かな者を欺かない。これは必ず上は天に利あり、中は鬼神に利あり、下は人に利がある。三つの利に利のないところがないので、天下の美しい名を挙げてこれに加え、聖王という。」

力の政はこれとは違って、言葉はこれと異なり、行いはこれと逆で、ちょうど背を向けて走るようなものである。大国にあって小国を攻め、大きな家にあって小さな家を奪い、強い者が弱い者を脅し、貴い者が賤しい者に驕り、偽りの多い者が愚かな者を欺く。これは上は天に利がなく、中は鬼神に利がなく、下は人に利がない。三つの利のなさに利のあるところがないので、天下の悪い名を挙げてこれに加え、暴王という。

子墨子言曰:我有天志,譬若輪人之有規,匠人之有矩。輪匠執其規矩,以度天下之方圜,曰:中者是也,不中者非也。今天下之士君子之書不可勝載,言語不可盡計,上說諸侯,下說列士,其於仁義則大相遠也。何以知之?曰:我得天下之明法以度之。

墨子先生が言った。「私に天の志があるのは、たとえば輪作りにコンパスがあり、大工に曲尺があるのと同じである。輪作りと大工はそのコンパスと曲尺を執って天下の四角いものと丸いものを測り、『当たるものは正しく、当たらないものは誤りである』という。

いま天下の士や君子の書は載せきれず、言葉は数えきれず、上は諸侯に説き、下は多くの士に説くが、その仁義については大いに互いに隔たっている。

何によってそれを知るのか。いう、私は天下の明らかな法を得て、これで測るのである。」