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天志中

墨子(墨翟の書) 墨子 · 墨翟とその門人たち · 紀元前4世紀頃 · 段落 11 · 漢字 2,451字 · 朗読 9.8分

墨子(墨翟の書) 戦国時代に儒家と並んで「二つの大きな群れ」に数えられた学派の文章である。一人の著述ではなく、墨翟とその門人たちが代を継いで加えたものなので、同じ主張を上・中・下の三通りに記した篇が多い。門派が分かれ、それぞれに写し取った跡と見られる。 十の主張が骨格である — 賢い者を高くし(尚賢)、上と義を同じくし(尚同)、あまねく愛し(兼愛)、攻めることを否とし(非攻)、用に節度を置き(節用)、葬に節度を置き(節葬)、天の意に従い(天志)、鬼神を明らかにし(明鬼)、音楽を否とし(非楽)、命を否とする(非命)。 「他人の家を見ることを自分の家のようにすれば、誰が盗むだろうか」が兼愛篇に、桃一つを盗めば罰しながら他国を攻めれば称えるという「非攻」の階段が、尺度なしに語れば「回る轆轤の上に日の出と日の入りの位置を立てるようなもの」だという三表が非命篇にある。 終わりの「公輸」の一篇は物語である。楚が雲梯を作って宋を攻めようとすると、墨子が十日十夜を歩いて行き、公輸盤と帯と木片で九度競って勝ち、帰る道で雨に遭い、よりによってその宋の村の門の内で雨を避けられない。

子墨子言曰:今天下之君子之欲爲仁義者,則不可不察義之所從出。既曰不可以不察義之所從出,然則義何從出?子墨子曰:義不從愚且賤者出,必自貴且知者出。何以知義之不從愚且賤者出,而必自貴且知者出也?曰:義者,善政也。何以知義之善政也?曰:天下有義則治,無義則亂,是以知義之善政也。夫愚且賤者,不得爲政乎貴且知者;貴且知者,然後得爲政乎愚且賤者。此吾所以知義之不從愚且賤者出,而必自貴且知者出也。然則孰爲貴?孰爲知?曰:天爲貴、天爲知而已矣。然則義果自天出矣。

墨子先生が言った。「いま天下の君子で仁義を行おうとする者は、義がどこから出てくるかを察しないわけにはいかない。

すでに義がどこから出てくるかを察しないわけにはいかないと言った。それでは、義はどこから出てくるのか。」

墨子先生が言った。「義は愚かでかつ賤しい者から出てくるのではなく、必ず貴くてかつ賢い者から出てくる。

何によって、義が愚かでかつ賤しい者から出てくるのではなく、必ず貴くてかつ賢い者から出てくると知るのか。いう、義とは善い治めである。

何によって義が善い治めであると知るのか。いう、天下に義があれば治まり、義がなければ乱れる。これによって義が善い治めであると分かる。

そもそも愚かでかつ賤しい者は、貴くてかつ賢い者を治めることはできず、貴くてかつ賢い者であってこそ、愚かでかつ賤しい者を治めることができる。これが、私が義が愚かでかつ賤しい者から出てくるのではなく、必ず貴くてかつ賢い者から出てくると分かる理由である。

それでは、誰が貴く、誰が賢いのか。いう、天が貴く、天が賢いだけである。それなら、義ははたして天から出てくるのである。」

今天下之人曰:當若天子之貴諸侯,諸侯之貴大夫,傐明知之。然吾未知天之貴且知於天子也。子墨子曰:吾所以知天之貴且知於天子者,有矣。曰:天子爲善,天能賞之;天子爲暴,天能罰之。天子有疾病禍祟,必齋戒沐浴,潔爲酒醴粢盛,以祭祀天鬼,則天能除去之。然吾未知天之祈福於天子也,此吾所以知天之貴且知於天子也。且吾所以知天之貴且知於天子者,不止此而已矣,又以先王之書馴天明不解之道也知之。曰:「明哲維天,臨君下土。」則此語天之貴且知於天子。不知亦有貴知夫天者乎?曰:天爲貴、天爲知而已矣。然則義果自天出矣。是故子墨子曰:今天下之君子,中實將欲尊道利民,本察仁義之本,天之意不可不慎也。

いま天下の人が言う。「天子が諸侯より貴く、諸侯が大夫より貴いことは、まことに明らかに分かる。しかし私は、天が天子より貴くて賢いことはまだ分からない。」

墨子先生が言った。「私が天が天子より貴くて賢いと分かる理由がある。いう、天子が善を行えば天はこれを賞することができ、天子が暴を行えば天はこれを罰することができる。天子に病や災いがあれば、必ず斎戒し沐浴し、清めて酒や供え物の穀物を用意して天と鬼神を祭るので、天はこれを除くことができる。しかし私は、天が天子に福を祈るということはまだ知らない。これが、私が天が天子より貴くて賢いと分かる理由である。

また私が天が天子より貴くて賢いと分かる理由はこれにとどまらず、さらに先王の書によって、天の明らかで怠らない道を習い知るのである。いう、『明らかに哲なるは、ただ天であり、下の土に臨んで君となる』と。つまりこれは、天が天子より貴くて賢いことを言ったのである。

分からないが、またあの天より貴くて賢いものがあるのか。いう、天が貴く、天が賢いだけである。それなら、義ははたして天から出てくるのである。」

だから墨子先生が言った。「いま天下の君子が、心の中から道を尊び民を利し、仁義の根本を根本から察しようとするなら、天の意を慎まないわけにはいかない。」

既以天之意以爲不可不慎已,然則天之將何欲何憎?子墨子曰:天之意,不欲大國之攻小國也,大家之亂小家也,强之劫弱,衆之暴寡,詐之謀愚,貴之傲賤,此天之所不欲也。不止此而已,欲人之有力相營,有道相教,有財相分也。又欲上之强聽治也,下之强從事也。上强聽治,則國家治矣;下强從事,則財用足矣。若國家治,財用足,則上有以絜爲酒醴粢盛,以祭祀天鬼;外有以爲環璧珠玉,以聘撓四鄰,諸侯之冤不興矣,邊境兵甲不作矣;內有以食飢息勞,持養其萬民,則君臣上下惠忠,父子弟兄慈孝。故惟毋明乎順天之意,奉而光施之天下,則刑政治,萬民和,國家富,財用足,百姓皆得煖衣飽食,便寍無憂。是故子墨子曰:今天下之君子,中實將欲遵道利民,本察仁義之本,天之意不可不慎也。

すでに天の意を慎まないわけにはいかないと言った。それでは、天はいったい何を望み何を憎むのか。

墨子先生が言った。「天の意は、大国が小国を攻め、大きな家が小さな家を乱し、強い者が弱い者を脅し、数の多い者が少ない者に暴れ、偽る者が愚かな者を謀り、貴い者が賤しい者に驕ることを望まない。これが天の望まないところである。

これにとどまらず、人が力があれば互いに助け、道があれば互いに教え、財があれば互いに分けることを望む。また上が努めて政を聴いて治め、下が努めて事に当たることを望む。上が努めて政を聴いて治めれば国家は治まり、下が努めて事に当たれば財と用いるものは足りる。

もし国家が治まり、財と用いるものが足りれば、上には清めて酒や供え物の穀物を用意して天と鬼神を祭ることができ、外には環や璧や珠や玉を用意して四方の隣国を聘することができて、諸侯の怨みが起こらず、国境に武器や鎧が起こらず、内には飢えた者を食わせ労した者を休ませて、その万民を保ち養うことができる。つまり、君と臣と上下が恵み深く忠であり、父と子と弟と兄が慈しみ孝である。

だから、ただ天の意に従うことに明らかで、それを奉じて天下に輝かしく施せば、刑と政が治まり、万民が和し、国家が富み、財と用いるものが足り、百姓はみな暖かく着て腹いっぱい食べ、安らかで憂いがない。」

だから墨子先生が言った。「いま天下の君子が、心の中から道に従い民を利し、仁義の根本を根本から察しようとするなら、天の意を慎まないわけにはいかない。」

且夫天子之有天下也,辟之無以異乎國君諸侯之有四境之內也。今國君諸侯之有四境之內也,夫豈欲其臣國萬民之相爲不利哉?今若處大國則攻小國,處大家則亂小家,欲以此求賞譽,終不可得,誅罰必至矣。夫天之有天下也,將無已異此。今若處大國則攻小國,處大都則伐小都,欲以此求福祿於天,福祿終不得,而禍祟必至矣。然有所不爲天之所欲,而爲天之所不欲,則夫天亦且不爲人之所欲,而爲人之所不欲矣。人之所不欲者何也?曰:病疾禍祟也。若己不爲天之所欲,而爲天之所不欲,是率天下之萬民以從事乎禍祟之中也。故古者聖王明知天鬼之所福,而辟天鬼之所憎,以求興天下之利,而除天下之害。是以天之爲寒熱也節,四時調,陰陽雨露也時,五穀孰,六畜遂,疾葘戾疫凶饑則不至。是故子墨子曰:今天下之君子,中實將欲遵道利民,本察仁義之本,天意不可不慎也。

またそもそも天子が天下を持つことは、たとえれば国君や諸侯が四境の内を持つことと違いがない。いま国君や諸侯が四境の内を持つにあたって、そもそもどうしてその臣たる国や万民が互いに利をもたらさないことを望もうか。

いまもし大国にあって小国を攻め、大きな家にあって小さな家を乱しながら、これによって賞と誉れを求めようとすれば、ついに得られず、誅と罰が必ず至る。

そもそも天が天下を持つことも、これと違いはない。いまもし大国にあって小国を攻め、大きな都にあって小さな都を伐ちながら、これによって天に福と禄を求めようとすれば、福と禄はついに得られず、災いが必ず至る。

それなら、天の望むところを行わず、天の望まないところを行ったのである。つまりあの天もまた、人の望むところを行わず、人の望まないところを行うであろう。人の望まないところとは何か。いう、病と災いである。

もし自分が天の望むところを行わず、天の望まないところを行えば、これは天下の万民を率いて災いの中に向かって行くことである。

だから昔の聖王は、天と鬼神が福を与えるところを明らかに知り、天と鬼神が憎むところを避けて、天下の利を興し天下の害を除くことを求めた。これによって、天は寒さと暑さを節に合わせ、四季は調い、陰と陽と雨と露は時に合い、五穀は熟し、六畜は育ち、病や災いや激しい疫病や凶年や飢えは至らなかった。

だから墨子先生が言った。「いま天下の君子が、心の中から道に従い民を利し、仁義の根本を根本から察しようとするなら、天の意を慎まないわけにはいかない。」

且夫天下蓋有不仁不祥者,曰:當若子之不事父,弟之不事兄,臣之不事君也。故天下之君子與謂之不祥者。今夫天兼天下而愛之,檄遂萬物以利之,若豪之末,末非天之所爲也,而民得而利之,則可謂否矣。然獨無報夫天,而不知其爲不仁不祥也。此吾所謂君子明細而不明大也。

またそもそも天下におおよそ不仁で不吉なことがある。いう、子が父に仕えず、弟が兄に仕えず、臣が君に仕えないことである。だから天下の君子はともにこれを不吉だという。

いまあの天が天下をあまねく愛し、万物を成し遂げさせて利するにあたって、毛筋の先ほどのものでも、その先が天の為したものでないものはなく、民はそれを得て利としている。大きいといえよう。それなのに、ひとりあの天に報いることがないまま、それが不仁で不吉になることを知らない。これが私のいう、君子が細かいことに明らかで大きなことに明らかでないということである。

且吾所以知天之愛民之厚者,有矣。曰:以曆爲日月星辰,以昭道之;制爲四時春秋冬夏,以紀綱之;雷降雪霜雨露,以長遂五穀麻絲,使民得而財利之;列爲山川谿谷,播賦百事;爲王公侯伯,以臨司民之善否,使之賞賢而罰暴,賊金木鳥獸,從事乎五穀麻絲,以爲民衣食之財。自古及今,未嘗不有此也。今有人於此,驩若愛其子,竭力單務以利之。其子長,而無報乎求父。故天下之君子與謂之不仁不祥。今夫天兼天下而愛之,檄遂萬物以利之,若豪之末,末非天之所爲,而民得而利之,則可謂否矣。然獨無報夫天,而不知其爲不仁不祥也。此吾所謂君子明細而不明大也。

また私が天が民を愛することの厚さを知る理由がある。

いう、日と月と星を並べて明るく導き、四季の春と秋と冬と夏を作って綱を立て、雷や雪や霜や雨や露を降らせて五穀や麻や糸を育て成し遂げさせ、民がそれを得て財として利するようにし、山や川や谷や渓を並べてあらゆる事を分け与え、王や公や侯や伯を置いて民の善し悪しに臨んで司らせ、賢者に賞し暴な者を罰させ、金や木や鳥や獣を取り、五穀や麻や糸に当たる仕事に向かわせて、民の衣食となる財とさせた。昔から今まで、いまだかつてこれがなかったことはない。

いまここにある人がいて、喜んでその子を愛し、力を尽くし務めを尽くしてこれを利するとしよう。その子が成長して、父に報いることがなければ、だから天下の君子はともにこれを不仁で不吉だという。

いまあの天が天下をあまねく愛し、万物を成し遂げさせて利するにあたって、毛筋の先ほどのものでも、その先が天の為したものでないものはなく、民はそれを得て利としている。大きいといえよう。それなのに、ひとりあの天に報いることがないまま、それが不仁で不吉になることを知らない。これが私のいう、君子が細かいことに明らかで大きなことに明らかでないということである。

夾注 1

竭力單務

底本は單だが、殫(尽くす)の誤りと見る。前の竭力と対になる。― 訳者

且吾所以知天愛民之厚者,不止此而已矣。曰:殺不辜者,天予不祥。不辜者誰也?曰:人也。予之不祥者誰也?曰:天也。若天不愛民之厚,夫胡說人殺不辜而天予之不祥哉?此吾所以知天之愛民之厚也。且吾所以知天之愛民之厚者,不止此而已矣。曰:愛人利人,順天之意,得天之賞者,有矣。憎人賊人,反天之意,得天之罰者,亦有矣。

また私が天が民を愛することの厚さを知る理由は、これにとどまらない。

いう、罪のない者を殺せば、天は不吉を与える。罪のない者とは誰か。いう、人である。その者に不吉を与えるのは誰か。いう、天である。もし天が民を愛することが厚くないなら、そもそもどうして人が罪のない者を殺すのに天がその者に不吉を与えるのか。これが、私が天が民を愛することの厚さを知る理由である。

また私が天が民を愛することの厚さを知る理由は、これにとどまらない。いう、人を愛し人を利して天の意に従い、天の賞を得た者がおり、人を憎み人を害して天の意に背き、天の罰を得た者もいる。

夫愛人利人,順天之意,得天之賞者,誰也?曰:若昔三代聖王堯舜禹湯文武者是也。堯舜禹湯文武焉所從事?曰:從事兼,不從事別。兼者,處大國不攻小國,處大家不亂小家,强不劫弱,衆不暴寡,詐不謀愚,貴不傲賤。觀其事,上利乎天,中利乎鬼,下利乎人。三利無所不利,是謂天德。聚斂天下之美名而加之焉,曰:此仁也,義也,愛人利人,順天之意,得天之賞者也。不止此而已,書於竹帛,鏤之金石,琢之槃盂,傳遺後世子孫。曰:將何以爲?將以識夫愛人利人,順天之意,得天之賞者也。《皇矣》道之曰:「帝謂文王,予懷明德,不大聲以色,不長夏以革,不識不知,順帝之則。」帝善其順法則也,故舉殷以賞之,使貴爲天子,富有天下,名譽至今不息。故夫愛人利人,順天之意,得天之賞者,既可得而知已。

そもそも人を愛し人を利して天の意に従い、天の賞を得た者は誰か。いう、昔の三代の聖王である堯・舜・禹・湯・文・武がそれである。

堯・舜・禹・湯・文・武は何に当たって事を行ったのか。いう、あまねく愛することに当たり、分け隔てることには当たらなかった。

あまねく愛することとは、大国にあって小国を攻めず、大きな家にあって小さな家を乱さず、強い者が弱い者を脅さず、数の多い者が少ない者に暴れず、偽る者が愚かな者を謀らず、貴い者が賤しい者に驕らないことである。

その事を見れば、上は天に利あり、中は鬼神に利あり、下は人に利がある。三つの利に利のないところがないので、これを天の徳という。天下の美しい名を集めてこれに加え、「これは仁であり義である。人を愛し人を利して天の意に従い、天の賞を得た者である」という。

これにとどまらず、竹や絹に書き、金や石に刻み、盤や盂に彫って、後の世の子孫に伝え遺す。いう。いったい何のためか。あの人を愛し人を利して天の意に従い、天の賞を得た者を知らせるためである。

『皇矣』がこれを述べていう、「帝が文王に言った、私は明らかな徳を懐く。声や色を大きくせず、鞭や革を長くせず、知らず知らずのうちに帝の則に従っている」と。帝は彼が法則に従うことを善しとしたので、殷を挙げてこれに賞し、貴きこと天子とならせ、富むこと天下を持たせたので、名と誉れは今に至るまでやまない。

だから、そもそも人を愛し人を利して天の意に従い、天の賞を得た者は、すでに得て知ることができる。

夫憎人賊人,反天之意,得天之罰者,誰也?曰:若昔者三代暴王桀紂幽厲者是也。桀紂幽厲焉所從事?曰:從事別,不從事兼。別者,處大國則攻小國,處大家則亂小家,强劫弱,衆暴寡,詐謀愚,貴傲賤。觀其事,上不利乎天,中不利乎鬼,下不利乎人。三不利無所利,是謂天賊。聚斂天下之醜名而加之焉,曰:此非仁也,非義也,憎人賊人,反天之意,得天之罰者也。不止此而已,又書其事於竹帛,鏤之金石,琢之槃盂,傳遺後世子孫。曰:將何以爲?將以識夫憎人賊人,反天之意,得天之罰者也。《大明》之道之曰:「紂越厥夷居,不肎事上帝,棄厥先神祇不祀,乃曰:吾有命,無廖𠏿務。天下天亦縱棄紂而不葆。」察天所以縱棄紂而不葆者,反天之意也。故夫憎人賊人,反天之意,得天之罰者,既可得而知也。

そもそも人を憎み人を害して天の意に背き、天の罰を得た者は誰か。いう、昔の三代の暴王である桀と紂と幽王と厲王がそれである。

桀と紂と幽王と厲王は何に当たって事を行ったのか。いう、分け隔てることに当たり、あまねく愛することには当たらなかった。

分け隔てることとは、大国にあって小国を攻め、大きな家にあって小さな家を乱し、強い者が弱い者を脅し、数の多い者が少ない者に暴れ、偽る者が愚かな者を謀り、貴い者が賤しい者に驕ることである。

その事を見れば、上は天に利がなく、中は鬼神に利がなく、下は人に利がない。三つの利のなさに利のあるところがないので、これを天の賊という。天下の醜い名を集めてこれに加え、「これは仁ではなく義ではない。人を憎み人を害して天の意に背き、天の罰を得た者である」という。

これにとどまらず、さらにその事を竹や絹に書き、金や石に刻み、盤や盂に彫って、後の世の子孫に伝え遺す。いう。いったい何のためか。あの人を憎み人を害して天の意に背き、天の罰を得た者を知らせるためである。

『大明』の道がこれを述べていう、「紂はその住まうところを踏み越え、上帝に仕えることを好まず、その先の神々を棄てて祭らず、そして『私には命がある』と言って、務めを顧みなかった。天もまた紂を放ち棄てて守らなかった」と。

天が紂を放ち棄てて守らなかった理由を察すれば、天の意に背いたからである。だから、そもそも人を憎み人を害して天の意に背き、天の罰を得た者は、すでに得て知ることができる。

是故子墨子之有天之,辟之無以異乎輪人之有規,匠人之有矩也。今夫輪人操其規,將以量度天下之圜與不圜也,曰:「中吾規者謂之圜,不中吾規者謂之不圜。」是以圜與不圜,皆可得而知也。此其故何?則圜法明也。匠人亦操其矩,將以量度天下之方與不方也,曰:「中吾矩者謂之方,不中吾矩者謂之不方。」是以方與不方,皆可得而知之。此其故何?則方法明也。故子墨子之有天之意也,上將以度天下之王公大人之爲刑政也,下將以量天下之萬民爲文學、出言談也。觀其行,順天之意,謂之善意行。反天之意,謂之不善意行。觀其言談,順天之意,謂之善言談;反天之意,謂之不善言談。觀其刑政,順天之意,謂之善刑政;反天之意,謂之不善刑政。故置此以爲法,立此以爲儀,將以量度天下之王公大人卿大夫之仁與不仁,譬之猶分黑白也。

だから墨子先生に天の意があることは、たとえれば輪作りにコンパスがあり、大工に曲尺があることと違いがない。

いまあの輪作りがそのコンパスを執って、天下の丸いものと丸くないものを測ろうとして、「わがコンパスに当たるものを丸いといい、わがコンパスに当たらないものを丸くないという」という。これによって丸いものと丸くないものをどちらも得て知ることができる。これは何のゆえか。丸さの法が明らかだからである。

大工もまたその曲尺を執って、天下の四角いものと四角くないものを測ろうとして、「わが曲尺に当たるものを四角いといい、わが曲尺に当たらないものを四角くないという」という。これによって四角いものと四角くないものをどちらも得て知ることができる。これは何のゆえか。四角さの法が明らかだからである。

だから墨子先生に天の意があることは、上は天下の王公や大人が刑と政を執ることを測り、下は天下の万民が学問をし言葉を発することを測るためである。

その行いを見て、天の意に従えば善い意の行いといい、天の意に背けば善くない意の行いという。その言葉を見て、天の意に従えば善い言葉といい、天の意に背けば善くない言葉という。その刑と政を見て、天の意に従えば善い刑と政といい、天の意に背けば善くない刑と政という。

だからこれを置いて法とし、これを立てて基準として、天下の王公や大人や卿や大夫の仁と不仁を測ろうとするのであり、たとえれば黒と白を分けるのと同じである。

是故子墨子曰:今天下之王公大人士君子,中實將欲遵道利民,本察仁義之本,天之意不可不順也。順天之意者,義之法也。

だから墨子先生が言った。「いま天下の王公や大人や士や君子が、心の中から道に従い民を利し、仁義の根本を根本から察しようとするなら、天の意に従わないわけにはいかない。天の意に従うことが義の法である。」