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神武天皇

日本書紀(日本の編年史) 日本書紀 · 舎人親王ほか · 720年(養老4年) · 段落 34 · 漢字 5,196字 · 朗読 20.8分

日本書紀(日本の編年史) 人代 日本で最も古い正史。神々の時代から持統天皇までの三十巻。神代上・下は同じ神話の異なる伝えを「一書に曰く」として並べて載せ、食い違う話を隠していない。百済・新羅・高句麗・任那の記事が1,379箇所に現れ、韓国の史書と突き合わせる箇所が最も多い書でもある。

1神武天皇

神日本磐余彦天皇。諱彦火火出見。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊第四子也。母曰玉依姫。海童之小女也。天皇生而明達。意礭如也。年十五立爲太子。長而娶日向國吾田邑吾平津媛。爲妃。生手研耳命。

神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)は、諱(いみな)を彦火火出見(ひこほほでみ)と申します。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の第四子で、母は玉依姫、海童(わたつみ)の末の娘です。

天皇は生まれながらに明らかに達しておられ、意(こころ)は確かでした。年十五で太子に立てられました。成長されて日向国の吾田の邑の吾平津媛(あひらつひめ)を娶って妃とし、手研耳命(たぎしみみのみこと)を生まれました。

2東に美しい地がある

及年四十五歳。謂諸兄及子等曰。昔我天神。高皇産靈尊。大日孁尊。擧此豐葦原瑞穗國而授我天祖彦火瓊瓊杵尊。於是火瓊瓊杵尊。闢天關。披雲路。駈仙蹕以戻止。是時運屬鴻荒。時鍾草昧。故蒙以養正治此西偏。皇祖皇考乃神乃聖。積慶重暉多歴年所。自天祖降跡以逮。于今一百七十九萬二千四百七十餘歳。而遼邈之地。猶未霑於王澤。遂使邑有君。村有長。各自分彊用相凌躒。抑又聞於鹽土老翁曰。東有美地。青山四周。其中亦有乘天磐船飛降者。余謂。彼地必當足以恢弘大業光宅天下。蓋六合之中心乎。厥飛降者。謂是饒速日歟。何不就而都之乎。諸皇子對曰。理實灼然。我亦恒以爲念。宜早行之。是年也太歳甲寅。

年四十五になって、諸々の兄や子たちに言われました。

「昔、わが天の神である高皇産霊尊と大日孁尊が、この豊葦原瑞穂国を挙げて、わが天の祖である彦火瓊瓊杵尊に授けられた。そこで火瓊瓊杵尊は天の関を闢き、雲の路を披き、仙蹕(みゆき)を駆って到り留まられた。このときは運が鴻荒(ひろくあらき)に属し、時は草昧(くさぐさくらき)ころであった。だから蒙(くら)いままに正しさを養い、この西の偏った地を治められた。

皇祖・皇考は神のごとく聖のごとく、慶びを積み輝きを重ねて、多くの年を歴られた。天の祖が跡を降されてから今まで、百七十九万二千四百七十余年である。

ところが遼く邈い地は、なお王の澤(うるおい)に霑っていない。ついに邑ごとに君があり、村ごとに長があって、それぞれ自ら彊を分け、互いに凌ぎ躒んでいる。

また塩土老翁に聞いたところ、東に美しい地があり、青い山が四方を周り、その中にもまた天の磐船に乗って飛び降った者がいるという。私が思うに、その地は必ず大業を恢め弘め、天下を光らかに宅むに足るであろう。おそらく六合の中心ではないか。その飛び降った者は、饒速日(にぎはやひ)を言うのであろうか。どうして行って都としないことがあろうか。」

諸々の皇子が答えました。「理はまことに灼かです。私たちも常にそう思っておりました。早くお行いになるのがよろしいでしょう。」

この年は太歳甲寅です。

3東へ進む

其年冬十月丁巳朔辛酉。天皇親帥諸皇子舟師東征。至速吸之門。時有一漁人。乘艇而至。天皇招之。因問曰。汝誰也。對曰。臣是國神。名曰珍彦。釣魚於曲浦。聞天神子來。故即奉迎。又問之曰。汝能爲我導耶。對曰。導之矣。天皇勅授漁人椎末令執而牽納於皇舟。以爲海導者。乃特賜名爲椎根津彦。此即倭直部始祖也。行至筑紫國菟狹時有菟狹國造祖號曰菟狹津彦。菟狹津媛。乃於菟狹川上。造一柱騰宮。而奉饗焉。是時。勅以菟狹津媛。賜妻之於侍臣天種子命。天種子命。是中臣氏之遠祖也。

その年の冬十月丁巳の朔の辛酉の日、天皇は自ら諸々の皇子と舟師(ふないくさ)を率いて東を征たれました。速吸(はやすい)の門に着きました。

そのとき一人の漁人があって、艇(おぶね)に乗って来ました。天皇は招いて、そして問われました。「お前は誰か。」

答えました。「私は国の神で、名を珍彦(うずひこ)と申します。曲(わだ)の浦で魚を釣っておりましたが、天の神の子が来られると聞いて、すぐに迎え奉るのです。」

また問われました。「お前は私のために導となれるか。」答えました。「お導きいたします。」

天皇は勅して漁人に椎(さお)の末を授けて執らせ、引いて皇の舟に納れ、海の導く者とされました。そしてことに名を賜って椎根津彦(しいねつひこ)と申しました。これがすなわち倭直部(やまとのあたいべ)の始祖です。

行って筑紫国の菟狭(うさ)に着きました。そのとき菟狭国造の祖があって、お名を菟狭津彦(うさつひこ)・菟狭津媛(うさつひめ)と申しました。そこで菟狭川の上流に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を造って饗し奉りました。このとき勅して、菟狭津媛を侍臣の天種子命(あまのたねこのみこと)に妻として賜りました。天種子命は、中臣氏の遠い祖です。

夾注 3

椎。此云辭毘。

椎は「しび」と読みます。

菟狹者地名也。此云宇佐。

菟狭は地名で、「うさ」と読みます。

一柱騰宮。此云阿斯毘苔徒鞅餓離能瀰椰。

一柱騰宮は「あしひとつあがりのみや」と読みます。

4崗の水門

十有一月丙戌朔甲午。天皇至筑紫國崗水門。

十一月丙戌の朔の甲午の日、天皇は筑紫国の崗(おか)の水門(みなと)に着かれました。

5埃宮

十有二月丙辰朔壬午。至安藝國。居于埃宮。

十二月丙辰の朔の壬午の日、安芸国に着き、埃宮(えのみや)にお住まいになりました。

6吉備で三年を備える

乙卯年春三月甲寅朔己未。徙入吉備國。起行宮以居之。是曰高嶋宮。積三年間。脩舟楫。蓄兵会。將欲以一擧而平天下也。

乙卯の年の春三月甲寅の朔の己未の日、移って吉備国に入り、行宮を起てて住まわれました。これを高嶋宮(たかしまのみや)と申します。三年の間、舟と楫を修め、兵と糧を蓄えて、一挙に天下を平らげようとされました。

7浪速という名ができる

戊午年春二月丁酉朔丁未。皇師遂東。舳艫相接。方到難波之碕。會有奔潮太急。因以名爲浪速國。亦曰浪花。今謂難波訛也。

戊午の年の春二月丁酉の朔の丁未の日、皇の師(いくさ)はついに東へ向かいました。舳(へ)と艫(とも)が相接ぎました。ちょうど難波の碕に着いたところ、たまたま奔る潮が非常に急でした。それにちなんで名を浪速国(なみはやのくに)と申し、浪花(なみはな)とも申します。今、難波(なにわ)と言うのは訛ったものです。

夾注 1

訛。此云與許奈磨盧。

訛は「よこなまる」と読みます。

8白肩の津

三月丁卯朔丙子。遡流而上。徑至河内國草香邑青雲白肩之津。

三月丁卯の朔の丙子の日、流れを遡って上り、まっすぐ河内国の草香(くさか)の邑の青雲(あおくも)の白肩(しらかた)の津に着かれました。

9日に向かって征つのは天の道に逆らう

夏四月丙申朔甲辰。皇師勒兵歩趣龍田。而其路狹嶮。人不得並行。乃還更欲東踰膽駒山而入中洲。時長髄彦聞之曰。夫天神子等所以來者。必將奪我國。則盡起屬兵。徼之於孔舍衞坂。與之會戰。有流矢中五瀬命肱脛。皇師不能進戰。天皇憂之。乃運神策於冲衿曰。今我是日神子孫。而向日征虜此逆天道也。不若退還示弱禮祭神祇。背負日神之威。隨影壓躡。如此則曾不血刃。虜必自敗矣。僉曰。然。於是令軍中曰。且停。勿復進。乃引軍還。虜亦不敢逼。却至草香津。植盾而爲雄誥焉。因改號其津曰盾津。今云蓼津訛也。初孔舍衞之戰。有人隱於大樹而得兔難。仍指其樹曰。恩如母。時人因號其地曰母木邑。今云飫悶廼奇訛也。

夏四月丙申の朔の甲辰の日、皇の師は兵を勒めて歩いて竜田(たつた)へ赴きました。しかしその路は狭く嶮しく、人が並んで行くことができませんでした。そこで還って、改めて東へ胆駒山(いこまやま)を踰えて中洲(なかつくに)に入ろうとされました。

そのとき長髄彦(ながすねびこ)がこれを聞いて言いました。「そもそも天の神の子らが来る理由は、必ずわが国を奪おうとするものだ。」そして属(したがう)兵をすべて起こし、孔舎衛坂(くさえのさか)で徼(さえぎ)り、ともに会戦しました。

流れ矢が五瀬命の肱(ひじ)と脛(すね)に当たりました。皇の師は進んで戦うことができませんでした。

天皇はこれを憂え、神妙な策を胸の内に運らせて言われました。「今、私は日の神の子孫である。それなのに日に向かって虜を征つのは、これは天の道に逆らうことである。退き還って弱さを示し、礼をもって神祇を祭り、日の神の威を背に負い、影に随って圧し躡むほうがよい。こうすれば、かつて刃に血を塗らずとも、虜は必ずおのずから敗れるであろう。」

みな言いました。「そのとおりです。」そこで軍中に令しました。「しばらく停まれ。もう進むな。」そして軍を引いて還りました。虜もまた敢えて逼りませんでした。

却いて草香の津に着き、盾を植てて雄誥(おたけび)をされました。それにちなんでその津の名を改めて盾津(たてつ)と申しました。今、蓼津(たでつ)と言うのは訛ったものです。

初め、孔舎衛の戦いで、ある人が大きな樹に隠れて難を免れることができました。そしてその樹を指して言いました。「恩は母のようだ。」そのときの人がそれにちなんでその地を母木邑(おもきのむら)と申しました。今、飫悶廼奇(おもんのき)と言うのは訛ったものです。

夾注 1

雄誥。此云烏多鷄麼。

雄誥は「おたけび」と読みます。

10五瀬命が亡くなる

五月丙寅朔癸酉,軍至茅渟山城水門。時五瀬命矢瘡痛甚。乃撫劒而雄誥之曰:“慨哉!大丈夫被傷於虜手,將不報而死耶!”時人因號其處曰雄水門。進到于紀伊國竃山,而五瀬命薨于軍。因葬竃山。

五月丙寅の朔の癸酉の日、軍は茅渟(ちぬ)の山城(やまき)の水門に着きました。そのとき五瀬命の矢の瘡が甚だ痛みました。そこで剣を撫でて雄誥して言いました。「慨しいことだ。大丈夫が虜の手に傷つけられ、報いもせずに死ぬというのか。」

そのときの人がそれにちなんでその処を雄水門(おのみなと)と申しました。進んで紀伊国の竃山(かまやま)に着き、五瀬命が軍中で薨れました。そこで竃山に葬りました。

夾注 3

亦名山井水門。茅渟,此云智怒。

山井水門(やまいのみなと)とも申します。茅渟は「ちぬ」と読みます。

撫劒,此云都盧耆能多伽彌屠利辭魔屢。

撫剣は「つるぎのたかみとりしまる」と読みます。

慨哉,此云于黎多棄伽夜。

慨哉は「うれたきかや」と読みます。

11兄が二人、海に入る

六月乙未朔丁巳。軍至名草邑。則誅名草戸畔者。遂越狹野而到熊神邑。且登天磐盾。仍引軍漸進。海中卒遇暴風。皇舟漂蕩。時稻飯命乃歎曰。嗟乎。吾祖則天神。母則海神。如何厄我於陸。復厄我於海乎。言訖乃拔釼入海。化爲鋤持神。三毛入野命亦恨之曰。我母及姨並是海神。何爲起波瀾。以潅溺乎。則蹈浪秀而往乎常世郷矣。天皇獨與皇子手研耳命。帥軍而進至熊野荒坂津。因誅丹敷戸畔者。時神吐毒氣。人物咸瘁。由是皇軍不能復振。時彼處有人。號曰熊野高倉下。忽夜夢。天照太神謂武甕雷神曰。夫葦原中國猶聞喧擾之響焉。宜汝更往而征之。武甕雷神對曰。雖予不行而下予平國之釼。則國將自平矣。天照太神曰。諾。時武甕雷神登謂高倉下曰。予釼號曰韴靈。今當置汝庫裏。

六月乙未の朔の丁巳の日、軍は名草(なくさ)の邑に着きました。そして名草戸畔(なくさとべ)という者を誅しました。ついに狭野(さの)を越えて熊野の邑に着きました。また天磐盾(あまのいわたて)に登りました。そして軍を率いて次第に進みました。

海の中で突然、暴しい風に遭い、皇の舟が漂い蕩いました。そのとき稲飯命が歎いて言いました。「ああ、わが祖は天の神、母は海の神である。どうして私を陸で厄しめ、また私を海で厄しめるのか。」言い終わると、剣を抜いて海に入り、鋤持神(さいもちのかみ)となりました。

三毛入野命もまた恨んで言いました。「わが母と姨はどちらも海の神である。どうして波瀾を起こして、水に潅し溺らせるのか。」そして浪の秀を蹈んで常世郷へ行きました。

天皇は独り皇子の手研耳命とともに軍を率いて進み、熊野の荒坂(あらさか)の津に着きました。そして丹敷戸畔(にしきとべ)という者を誅しました。そのとき神が毒の気を吐いて、人も物もみな瘁れました。これによって皇の軍は再び振るうことができませんでした。

そのときその所に人がいて、お名を熊野高倉下(くまののたかくらじ)と申しました。忽然と夜の夢に、天照大神が武甕雷神に言いました。「そもそも葦原中国には、なお喧しく擾れる響きが聞こえる。お前がもう一度行って征つがよい。」

武甕雷神が答えて言いました。「私が行かなくても、私が国を平らげた剣を下せば、国はおのずから平らぐでしょう。」

天照大神が言いました。「よろしい。」

そのとき武甕雷神が高倉下に言いました。「私の剣は、お名を韴霊(ふつのみたま)と申す。今、お前の庫の裏に置こう。

夾注 5

戸畔。此云妬轂。

戸畔は「とべ」と読みます。

亦名丹敷浦。

丹敷浦(にしきのうら)とも申します。

聞喧擾之響焉。此云左揶霓利奈離。

聞喧擾之響焉は「さやげりなり」と読みます。

諾。此云宇毎那利。

諾は「うべなり」と読みます。

韴靈。此云赴屠能瀰哆磨。

韴霊は「ふつのみたま」と読みます。

12頭八咫烏が道を導く

宜取而獻之天孫。高倉下曰唯唯而寤之。明旦依夢中教開庫視之。果有落釼。倒立於庫底板。即取以進之。于時。天皇適寐。忽然而寤之曰。予何長眠若此乎。尋而中毒士卒悉復醒起。既而皇師欲趣中洲。而山中嶮絶。無復可行之路。乃棲遑不知其所跋渉。時夜夢。天照大神訓于天皇曰。朕今遣頭八咫烏。宜以爲郷導者。果有頭八咫烏。自空翔降。天皇曰。此烏之來自叶祥夢。大哉赫矣。我皇祖天照大神。欲以助成基業乎。是時。大伴氏之遠祖日臣命帥大來目督將元戎。蹈山啓行。乃尋烏所向仰視而追之。遂達于菟田下縣。因號其所至之處。曰菟田穿邑。于時勅譽日臣命曰。汝忠而且勇。加能有導之功。是以改汝名爲道臣。

取って天孫に献じよ。」高倉下は「はい、はい」と言って目覚めました。

翌朝、夢の中の教えのとおりに庫を開けて見ると、はたして落ちた剣があり、庫の底の板に倒さまに立っていました。そこで取って進めました。

そのとき天皇はちょうど寐ておられ、忽然と覚めて言われました。「私はどうしてこのように長く眠ったのか。」続いて、毒に中った士卒もみな再び醒めて起きました。

やがて皇の師は中洲へ赴こうとしましたが、山の中は嶮しく絶えて、もう行ける路がありませんでした。そこで棲い遑いて、どこを跋り渉ればよいかわかりませんでした。

そのとき夜の夢に、天照大神が天皇に訓えて言いました。「朕は今、頭八咫烏(やたがらす)を遣わす。郷の導とするがよい。」

はたして頭八咫烏があって、空から翔り降りました。天皇は言われました。「この烏が来たのは、おのずから祥しい夢に叶っている。大きいことだ、赫かしいことだ。わが皇祖の天照大神が、基業を成すのを助けようとされるのか。」

このとき大伴氏の遠い祖である日臣命(ひのおみのみこと)が大来目を率い、元戎(おおいくさ)を督し、山を蹈んで行を啓きました。そして烏の向かう所を尋ね、仰ぎ見て追い、ついに菟田(うだ)の下県(しもつあがた)に達しました。それにちなんでその着いた処を菟田の穿邑(うかちのむら)と申しました。

そのとき日臣命を譽めて勅して言われました。「お前は忠であり、また勇である。加えて導の功がある。それゆえ、お前の名を改めて道臣(みちのおみ)とする。」

夾注 1

穿邑。此云于介知能務羅。

穿邑は「うかちのむら」と読みます。

13兄猾が自らの機に圧されて死ぬ

秋八月甲午朔乙未。天皇使徴兄猾及弟猾者。是兩人菟田縣之魁帥者也。時兄猾不來。弟猾即詣至。因拜軍門而告之曰。臣兄兄猾之爲逆状也。聞天孫且到。即起兵將襲。望見皇師之威。懼不敢敵。乃潜伏其兵。權作新宮。而殿内施機。欲因請饗以作難。願知此詐。善爲之備。天皇即遣道臣命察其逆状。時道臣命審知有賊害之心。而大怒誥嘖之曰。虜爾所造屋。爾自居之。因案釼彎弓。逼令催入。兄猾獲罪兄於天。事無所辭。乃自蹈機而壓死。時陳其屍而斬之。流血沒踝。故號其地曰菟田血原。已而弟猾大設牛酒。以勞饗皇師焉。天皇以其酒完班賜軍卒。乃爲御謠之曰。于能多伽機珥。辭藝和奈陂蘆。和餓末菟夜。辭藝破佐夜羅孺。伊殊區波辭。區旎羅佐夜離。固奈瀰餓。那居波佐麼。多智曾麼能未廼。那鶏句塢。

秋八月甲午の朔の乙未の日、天皇は兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を徴されました。この二人は菟田県の魁帥(ひとごのかみ)です。

そのとき兄猾は来ず、弟猾がすぐに詣り着きました。そして軍門に拝して告げて言いました。「私の兄、兄猾が逆らう振る舞いをしております。天孫が到られると聞いて、すぐに兵を起こして襲おうとしました。皇の師の威を望み見て、懼れて敢えて敵しませんので、その兵をこっそり伏せ、仮に新しい宮を作って殿の内に機(わな)を施し、饗を請うのに託けて難を起こそうとしております。どうかこの詐りを知って、よくお備えください。」

天皇はすぐに道臣命を遣わして、その逆らう振る舞いを察させました。そのとき道臣命は賊い害する心があると審らかに知って、大いに怒り誥り嘖って言いました。「虜め、お前が造った屋には、お前が自ら居るがよい。」

そして剣を案え弓を彎いて、逼り催して入らせました。兄猾は天に罪を獲て、事に辞する所がありませんでした。そこで自ら機を蹈んで圧されて死にました。そのときその屍を陳べて斬ると、流れる血が踝を没しました。そこでその地を菟田の血原(ちはら)と申しました。

やがて弟猾は牛と酒を大いに設けて、皇の師を労い饗しました。天皇はその酒と肉を軍卒に班け賜り、こう御謠いになりました。

「うのたかきに しぎわなはる わがまつや しぎはさやらず いすくはし くじらさやり こなみが なこわさば たちそばのみの なけくを(于能多伽機珥 辭藝和奈陂蘆 和餓末菟夜 辭藝破佐夜羅孺 伊殊區波辭 區旎羅佐夜離 固奈瀰餓 那居波佐麼 多智曾麼能未廼 那鶏句塢)」

夾注 4

猾。此云字介志。

猾は「うかし」と読みます。

魁帥。此云此登誤廼伽彌。

魁帥は「ひとごのかみ」と読みます。

爾。此云飫例。

爾は「おれ」と読みます。

謠。此云宇多預瀰。

謠は「うたよみ」と読みます。

14吉野の尾のある人たち

居氣辭被惠禰。宇破奈利餓。那居波佐磨。伊智佐介幾未迺。於朋鶏句塢。居氣塢被惠禰。是謂來目歌。今樂府奏此歌者。猶有手量大小及音聲巨細。此古之遺式也。是後天皇欲省吉野之地。乃從菟田穿邑。親率輕兵巡幸焉。至吉野時。有人出自井中。光而有尾。天皇問之曰。汝何人。對曰。臣是國神。名爲井光。此則吉野首部始祖也。更少進亦有尾而披磐石而出者。天皇問之曰。汝何人。對曰。臣是磐排別之子。此則吉野國部始祖也。及縁水西行。亦有作梁取魚者。天皇問之。對曰。臣是苞苴擔之子。此則阿太養鸕部始祖也。

「こきしひえね うわなりが なこわさば いちさかきみの おおけくを こきだひえね(居氣辭被惠禰 宇破奈利餓 那居波佐磨 伊智佐介幾未迺 於朋鶏句塢 居氣塢被惠禰)」 — 音を写したものなので、意味には訳しません。

これを来目歌(くめうた)と申します。今、楽府でこの歌を奏するときには、なお手の量りの大小と音声の巨細があります。これは古に遺された式です。

この後、天皇は吉野の地を省られようとして、菟田の穿邑から自ら軽い兵を率いて巡り幸されました。

吉野に着いたとき、ある人が井の中から出て来ましたが、光っていて尾がありました。天皇が問われました。「お前は何者か。」答えました。「私は国の神で、名を井光(いひか)と申します。」これがすなわち吉野首部(よしののおびとべ)の始祖です。

さらに少し進むと、やはり尾があって、磐石を披いて出て来る者がありました。天皇が問われました。「お前は何者か。」答えました。「私は磐排別(いわおしわく)の子です。」これがすなわち吉野国部(よしののくにすべ)の始祖です。

水に縁って西へ行くと、やはり梁(やな)を作って魚を取る者がありました。天皇が問われました。答えました。「私は苞苴擔(にえもつ)の子です。」これがすなわち阿太の養鸕部(うかいべ)の始祖です。

夾注 3

排別。此云飫時和句。

排別は「おしわく」と読みます。

梁。此云揶奈。

梁は「やな」と読みます。

苞苴擔。此云珥倍毛菟。

苞苴擔は「にえもつ」と読みます。

15夢で天の神が土を取れと教える

九月甲子朔戊辰。天皇陟彼菟田高倉山之巓。瞻望域中。時國見丘上則有八十梟帥。又於女坂置女軍。男坂置男軍。墨坂置炭。其女坂男坂墨坂之號由此而起也。復有兄磯城軍。布滿於磐余邑。賊虜所據。皆是要害之地。故道路絶塞。無處可通。天皇惡之。是夜自祈而寢。夢。有天神訓之曰。宜取天香山社中土。以造天平瓮八十枚。并造嚴瓮。而敬祭天神地祇。亦爲嚴咒詛。如此則虜自平伏。天皇祇承夢訓。依以將行。時弟猾又奏曰。倭國磯城邑有磯城八十梟帥。又高尾張邑有赤銅八十梟帥。此類皆欲與天皇距戰。臣竊爲天皇憂之。宜今當取天香山埴以造天平瓮。而祭天社國社之神。然後撃虜則易除也。天皇既以夢辭爲吉兆。及聞弟猾之言。

九月甲子の朔の戊辰の日、天皇は菟田の高倉山の巓に陟り、域の中を瞻み望まれました。

そのとき国見丘(くにみのおか)の上に八十梟帥(やそたける)がいました。また女坂(めさか)に女軍を置き、男坂(おさか)に男軍を置き、墨坂(すみさか)に炭を置いていました。その女坂・男坂・墨坂という名は、これによって起こりました。

また兄磯城(えしき)の軍があって、磐余(いわれ)の邑に布き満ちていました。賊虜が拠った所は、みな要害の地でした。そこで道路は絶え塞がり、通れる処がありませんでした。

天皇はこれを悪んで、その夜、自ら祈って寝ました。夢に天の神があって訓えて言いました。「天香山(あまのかぐやま)の社の中の土を取って、天平瓮(あまのひらか)八十枚を造り、併せて厳瓮(いつへ)を造って、敬んで天神地祇を祭り、また厳咒詛(いつのかしり)をするがよい。こうすれば虜はおのずから平らぎ伏すであろう。」

天皇は謹んで夢の訓えを承り、そのとおりに行おうとされました。

そのとき弟猾がまた奏して言いました。「倭国の磯城(しき)の邑に磯城の八十梟帥がおり、また高尾張(たかおわり)の邑に赤銅(あかがね)の八十梟帥がおります。この類はみな天皇と距ち戦おうとしております。私はひそかに天皇のために憂えております。今、まさに天香山の埴(はに)を取って天平瓮を造り、天社・国社の神を祭り、そののちに虜を撃てば、除きやすいでしょう。」

天皇はもう夢の言葉を吉い兆と思っておられましたが、弟猾の言葉を聞くに至って、

夾注 7

梟帥。此云多稽屡。

梟帥は「たける」と読みます。

磯。此云志。

磯は「し」と読みます。

香山。此云介遇夜摩。

香山は「かぐやま」と読みます。

平瓮。此云毘邏介。

平瓮は「ひらか」と読みます。

嚴瓮。此云怡途背。

厳瓮は「いつへ」と読みます。

嚴咒詛。此云怡途能伽辭離。

厳咒詛は「いつのかしり」と読みます。

或本云。葛城邑也。

ある本には葛城邑(かずらきのむら)と言います。

16老人の姿に装って香山の土を取る

益喜於懷。乃使椎根津彦著弊衣服及蓑笠。爲老父貌。又使弟猾被箕。爲老嫗貌。而勅之曰。宜汝二人到天香山。潜取其巓土而可來旋矣。基業成否。當以汝爲占。努力愼歟。是時虜兵滿路。難以往還。時椎根津彦乃祈之曰。我皇當能定此國者。行路自通。如不能者。賊必防禦。言訖徑去。時羣虜見二人。大咲之曰。大醜乎。老父老嫗。則相與闢道使行。二人得至其山。取土來歸。於是天皇甚悦。乃以此埴造作八十平瓮。天手抉八十枚。嚴瓮、而陟于丹生川上。用祭天神地祇。則於彼菟田川之朝原。譬如水沫而有所咒著也。天皇又因祈之曰。吾今當以八十平無水造飴。飴成則吾必不假鋒刃之威。坐平天下。乃造飴。飴即自成。又祈之曰。吾今當以嚴瓮沈于丹生之川。如魚無大小悉醉而流。譬猶柀葉之淨流者。吾必能定此國。

いっそう懐に喜ばれました。そこで椎根津彦に弊れた衣服と蓑と笠を著けさせて老いた父の貌とし、また弟猾に箕を被らせて老いた嫗の貌とされました。

そして勅して言われました。「お前たち二人は天香山に行き、こっそりその巓の土を取って帰って来るがよい。基業が成るか否かは、お前たちで占うことにする。努めて慎め。」

このとき虜の兵が路に満ちていて、往き還るのが難しかった。そのとき椎根津彦が祈って言いました。「わが皇がこの国を定められるのであれば、行く路はおのずから通じよう。できないのであれば、賊が必ず防ぎ禦ぐであろう。」言い終わってまっすぐ去りました。

そのとき群れた虜が二人を見て、大いに咲って言いました。「ひどく醜いことだ、老いた父と老いた嫗よ。」そして互いに道を闢いて行かせました。二人はその山に至ることができ、土を取って帰って来ました。

そこで天皇は甚だ悦ばれました。そしてこの埴で八十の平瓮と天手抉(あまのたくじり)八十枚と厳瓮を造り、丹生川(にうのかわ)の上流に陟って、天神地祇を祭られました。そしてあの菟田川の朝原(あさはら)で、ちょうど水の沫のように咒い著けるところがありました。

天皇はまた祈って言われました。「私は今、八十の平瓮で水なしに飴(たがね)を造ろう。飴が成れば、私は必ず鋒刃の威を藉らず、坐したまま天下を平らげるであろう。」そして飴を造ると、飴はすぐにおのずから成りました。

また祈って言われました。「私は今、厳瓮を丹生の川に沈めよう。もし魚が大小なくみな醉って流れ、ちょうど柀(まき)の葉が浄く流れるようであれば、私は必ずこの国を定められるであろう。

夾注 3

大醜。此云鞅奈瀰爾勾。

大醜は「あなみにく」と読みます。

手抉。此云多衢餌離。

手抉は「たくじり」と読みます。

柀。此云磨紀。

柀は「まき」と読みます。

17厳(いつ)の名々

如其不爾。終無所成。乃沈於川。其口向下。頃之魚皆浮出。隨水噞喁。時椎根津彦見而奏之。天皇大喜。乃拔取丹生川上之五百箇眞坂樹以祭諸神。自此始有嚴之置也。時勅道臣命。今以高皇産靈尊。朕親作顯齋。用汝爲齋主。授以嚴媛之號。而名其所置埴瓮爲嚴瓮。又火名爲嚴香來雷。水名爲嚴罔象女。粮名爲嚴稻魂女。薪名爲嚴山雷。草名爲嚴野椎。

もしそうでなければ、ついに成るところはないであろう。」そして川に沈めると、その口は下を向きました。しばらくして魚がみな浮き出て、水に随って噞喁(あぎと)いました。

そのとき椎根津彦が見て奏しました。天皇は大いに喜ばれ、丹生川の上流の五百箇の真坂樹を抜き取って諸々の神を祭られました。これより初めて厳(いつ)を置くことが始まりました。

そのとき道臣命に勅されました。「今、高皇産霊尊を朕が自ら顕斎(うつしいわい)として奉る。お前を斎主とし、厳媛(いつひめ)の名を授ける。」

そしてその置いた埴の瓮を厳瓮と名づけ、また火の名を厳香来雷(いつのかぐつち)、水の名を厳罔象女(いつのみつはのめ)、粮の名を厳稲魂女(いつのうかのめ)、薪の名を厳山雷(いつのやまつち)、草の名を厳野椎(いつののづち)と名づけられました。

夾注 3

顯齋。此云于圖詩怡破毘。

顕斎は「うつしいわい」と読みます。

罔象女。此云瀰菟破廼迷。

罔象女は「みつはのめ」と読みます。

稻魂女。此云于伽能迷。

稲魂女は「うかのめ」と読みます。

18歌を合図として忍坂で撃つ

冬十月癸巳朔。天皇嘗其嚴瓮之粮。勒兵而出。先撃八十梟帥於國見丘破斬之。是役也。天皇志存必克。乃爲御謠之曰。伽牟伽筮能。伊齊能于瀰能。於費異之珥夜。異波臂茂等倍屡。之多瀰能。之多瀰能。阿誤豫。之多太瀰能。異波比茂等倍離。于智弖之夜莽務。于智弖之夜莽務。謠意。以大石喩其國見丘也。既而餘黨猶繁。其情難測。乃顧勅道臣命。汝宜帥大來目部。作大室於忍坂邑。盛設宴饗。誘虜而取之。道臣命於是奉密旨。掘於忍坂。而選我猛卒。與虜雜居。陰期之曰。酒酣之後。吾則起歌。汝等聞吾歌聲。則一時刺虜。已而坐定酒行。虜不知我之有陰謀。任情徑醉。時道臣命乃起而歌之曰。於佐箇廼於朋務露夜珥。比苔瑳破而。異離烏利苔毛。比苔瑳破而。枳伊離烏利苔毛。瀰都瀰都志。倶梅能固邏餓。勾鶩都都伊。異志都都伊毛智。于智弖之夜莽務。時我卒聞歌。倶拔其頭椎釼。

冬十月癸巳の朔、天皇はその厳瓮の粮を嘗め、兵を勒めて出られました。まず国見丘で八十梟帥を撃って破り斬りました。この役に、天皇は必ず克とうという志があって、こう御謠いになりました。

「かむかぜの いせのうみの おおいしにや いはいもとへる しただみの しただみの あごよ しただみの いはいもとへり うちてしやまむ うちてしやまむ(伽牟伽筮能 伊齊能于瀰能 於費異之珥夜 異波臂茂等倍屡 之多瀰能 之多瀰能 阿誤豫 之多太瀰能 異波比茂等倍離 于智弖之夜莽務 于智弖之夜莽務)」

歌の意は、大きな石でその国見丘を喩えたものです。

やがて余った党がなお繁く、その情を測りがたいものでした。そこで顧みて道臣命に勅されました。「お前は大来目部を率い、忍坂(おさか)の邑に大きな室を作って宴饗を盛んに設け、虜を誘って取るがよい。」

道臣命はそこで密旨を奉り、忍坂に掘って、我が猛い卒を選び、虜と雑じって居らせました。ひそかに期して言いました。「酒が酣(たけなわ)になった後、私が起って歌う。お前たちは私の歌声を聞いたら、一時に虜を刺せ。」

やがて坐が定まり、酒が行きました。虜は我が方に陰謀があるとは知らず、情のままにそのまま醉いました。そのとき道臣命は起って歌いました。

「おさかの おおむろやに ひとさわに いりおりとも ひとさわに きいりおりとも みつみつし くめのこらが くぶつつい いしつついもち うちてしやまむ(於佐箇廼於朋務露夜珥 比苔瑳破而 異離烏利苔毛 比苔瑳破而 枳伊離烏利苔毛 瀰都瀰都志 倶梅能固邏餓 勾鶩都都伊 異志都都伊毛智 于智弖之夜莽務)」

そのとき我が卒は歌を聞いて、ともにその頭椎剣(かぶつちのつるぎ)を抜きました。

19勝っても驕らない

一時殺虜。虜無復噍類者。皇軍大悦。仰天而咲。因歌之曰。伊莽波豫。伊莽波豫。阿阿時夜塢。伊莽儾而毛阿誤豫。伊莽儾而毛阿誤豫。今來目部歌而後大哂。是其縁也。又歌之曰。愛濔詩烏毘利。毛毛那比苔。比苔破易陪廼毛。多牟伽毘毛勢儒。此皆承密旨而歌之。非敢自專者也。時天皇曰。戰勝而無驕者。良將之行也。今魁賊已滅。而同惡者匈匈十數羣。其情不可知。如何久居一處無以制變。乃徙營於別處。

一時に虜を殺したので、虜には再び噍(かむ)類もありませんでした。皇の軍は大いに悦び、天を仰いで咲いました。そしてこう歌いました。

「いまはよ いまはよ ああしやを いまだにも あごよ いまだにも あごよ(伊莽波豫 伊莽波豫 阿阿時夜塢 伊莽儾而毛阿誤豫 伊莽儾而毛阿誤豫)」

今、来目部が歌った後に大いに哂うのは、これが由縁です。またこう歌いました。

「えみしをひり ももなひと ひとはいえども たむかいもせず(愛濔詩烏毘利 毛毛那比苔 比苔破易陪廼毛 多牟伽毘毛勢儒)」

— 歌はどれも音を写したものなので、意味には訳しません。

これはみな密旨を承って歌ったもので、敢えて自ら専らにしたものではありません。

そのとき天皇が言われました。「戦いに勝って驕らないのは、良い将の行いである。今、魁の賊はもう滅びたが、同じく悪しき者が匈匈として十数群ある。その情は知ることができない。どうして一つ処に久しく居て、変に制することができないままでいられようか。」そして営を別の処に徙されました。

20烏が召すと兄は射、弟は拝する

十有一月癸亥朔己巳。皇師大擧。將攻磯城彦。先遣使者徴兄磯城。兄磯城不承命。更遺頭八咫烏召之。時烏到其營而鳴之曰。天神子召汝。怡奘過。怡奘過。兄磯城忿之曰。聞天壓神至。而吾爲慨憤時。奈何烏鳥若此惡鳴耶。乃彎弓射之。烏即避去。次到弟磯城宅而鳴之曰。天神子召汝。怡奘過。怡奘過。時弟磯城然改容曰。臣聞天壓神至。旦夕畏懼。善乎烏。汝鳴之若此者歟。即作葉盤八枚。盛食饗之。因以隨烏。詣到而告之曰。吾兄兄磯城聞天神子來。則聚八十梟帥。具兵甲將與決戰。可早圖之。天皇乃會諸將。問之曰。今兄磯城果有逆賊之意。召亦不來。爲之奈何。諸將曰。兄磯城黠賊也。宜先遣弟磯城曉喩之。并説兄倉下。弟倉下。如遂不歸順。然後擧兵臨之亦未晩也。乃使弟磯城開示利害。而兄磯城等猶守愚謀不肯承伏。

十一月癸亥の朔の己巳の日、皇の師は大いに挙がって、磯城彦(しきひこ)を攻めようとされました。まず使者を遣わして兄磯城を徴しましたが、兄磯城は命を承けませんでした。改めて頭八咫烏を遣わして召しました。

そのとき烏はその営に到って鳴いて言いました。「天の神の子がお前を召す。いざわ、いざわ。」

兄磯城は忿って言いました。「天圧神(あまおすかみ)が至ったと聞いて、私が慨き憤っているところなのに、どうして烏がこのように悪しく鳴くのか。」そして弓を彎いて射ると、烏はすぐに避けて去りました。

次に弟磯城の宅に到って鳴いて言いました。「天の神の子がお前を召す。いざわ、いざわ。」

そのとき弟磯城は容を改めて言いました。「私は天圧神が至ったと聞いて、朝夕畏れ懼れておりました。善いことだ烏よ、お前がこのように鳴いてくれるのか。」

そしてすぐに葉盤(ひらで)八枚を作り、食を盛って饗しました。そして烏に随って詣り到り、告げて言いました。「わが兄の兄磯城は、天の神の子が来られると聞いて、八十梟帥を聚め、兵と甲を具えて決戦しようとしております。早くお図りください。」

天皇はそこで諸々の将を会して問われました。「今、兄磯城にははたして逆らう賊の意があり、召しても来ない。これをどうしようか。」

諸々の将が言いました。「兄磯城は黠い賊です。まず弟磯城を遣わして暁し喩し、併せて兄倉下(えくらじ)・弟倉下(おとくらじ)を説かれるのがよいでしょう。もしついに帰順しないなら、そののちに兵を挙げて臨まれても、まだ晩くはありません。」

そこで弟磯城に利害を開き示させました。しかし兄磯城たちはなお愚かな謀を守って、承り伏そうとしませんでした。

夾注 4

過。音倭。

過は音が倭です。

壓。此云飫蒭。

圧は「おす」と読みます。

葉盤。此云毘羅耐。

葉盤は「ひらで」と読みます。

倉下。此云衢羅餌。

倉下は「くらじ」と読みます。

21女軍を先に立てる

時椎根津彦計之曰。今者宜先遣我女軍。出自忍坂道。虜見之。必盡鋭而赴。吾則駈馳勁卒、直指墨坂。取菟田川水以潅其炭火。儵忽之間出其不意。則破之必也。天皇善其策。乃出女軍以臨之。虜謂大兵已至。畢力相待。先是皇軍攻必取。戰必勝。而介胃之士。不無疲弊。故聊爲御謠以慰將卒之心焉。謠曰。哆哆奈梅弖。伊那瑳能椰摩能。虚能莽由毛。易喩耆摩毛羅毘。多多介陪麼。和例破椰隈怒。之摩途等利。宇介譬餓等茂。伊莽輸開珥虚禰。果以男軍越墨坂。從後夾撃破之斬其梟帥兄磯城等。

そのとき椎根津彦が計って言いました。「今はまず我が女軍を遣わして、忍坂の道から出すのがよいでしょう。虜がこれを見れば、必ず鋭を尽くして赴くはずです。我らは勁い卒を駆り馳せて、まっすぐ墨坂を指し、菟田川の水を取ってその炭火に潅ぎ、儵忽の間にその不意を突けば、破ることは必ずなるでしょう。」

天皇はその策を善しとされ、女軍を出して臨ませました。虜は大兵がもう至ったと思って、力を畢くして相待ちました。

これより先、皇の軍は攻めれば必ず取り、戦えば必ず勝ちましたが、介胄(よろい)の士に疲れ弊れがないわけではありませんでした。そこでしばらく御謠いになって、将や卒の心を慰められました。その謠にいいます。

「たたなめて いなさのやまの このまよも いゆきまもらい たたかえば われはやえぬ しまつとり うかいがとも いますけにこね(哆哆奈梅弖 伊那瑳能椰摩能 虚能莽由毛 易喩耆摩毛羅毘 多多介陪麼 和例破椰隈怒 之摩途等利 宇介譬餓等茂 伊莽輸開珥虚禰)」

はたして男軍で墨坂を越え、後から夾み撃って破り、その梟帥である兄磯城たちを斬りました。

22金色の鵄が弓の弭に止まる

十有二月癸巳朔丙申。皇師遂撃長髄彦。連戰不能取勝。時忽然天陰而雨氷。乃有金色靈鵄。飛來止于皇弓之弭。其鵄光曄煜。状如流電。由是長髄彦軍卒皆迷眩不復力戰。長髄是邑之本號焉。因亦以爲人名。及皇軍之得鵄瑞也。時人仍號鵄邑。今云鳥見。是訛也。昔孔舎衞之戰。五瀬命中矢而薨。天皇銜之。常懷憤。至此役也。意欲窮誅。乃爲御謠之曰。瀰都瀰都志。倶梅能故邏餓。介耆茂等珥。阿波赴珥破。介瀰羅毘苔茂苔。曾迺餓毛苔。曾禰梅屠那藝弖。于笞弖之夜莽務。又謠之曰。瀰都瀰都志。倶梅能故邏餓。介耆茂等珥。宇惠志破餌介瀰。勾致弭比倶。和例破涴輸例儒于智弖之夜莽務。因復縱兵忽攻之。凡諸御謠。皆謂來目歌。此的取歌者而名之也。時長髄彦乃遣行人言於天皇曰。嘗有天神之子。乘天磐船自天降止。號曰櫛玉饒速日命。是娶吾妹三炊屋媛。

十二月癸巳の朔の丙申の日、皇の師はついに長髄彦を撃ちました。連ねて戦いましたが、勝ちを得ることができませんでした。

そのとき忽然と天が陰って氷が雨りました。そして金色の霊しい鵄(とび)があって、飛んで来て皇の弓の弭(ゆはず)に止まりました。その鵄の光は曄煜(きらきら)として、様は流れる電のようでした。これによって長髄彦の軍卒はみな迷い眩んで、再び力戦できませんでした。

長髄はこの邑の本の名です。それをまた人の名ともしました。皇の軍が鵄の瑞を得たので、そのときの人がそれにちなんで鵄邑(とびのむら)と申しました。今、鳥見(とみ)と言うのは訛ったものです。

昔、孔舎衛の戦いで五瀬命が矢に中って薨れました。天皇はこれを銜んで、常に憤りを懐いておられました。この役に至って、意は窮めて誅そうとされました。そこでこう御謠いになりました。

「みつみつし くめのこらが かきもとに あわふには かみらひともと そねがもと そねめつなぎて うちてしやまむ(瀰都瀰都志 倶梅能故邏餓 介耆茂等珥 阿波赴珥破 介瀰羅毘苔茂苔 曾迺餓毛苔 曾禰梅屠那藝弖 于笞弖之夜莽務)」

またこう謠われました。

「みつみつし くめのこらが かきもとに うえしはじかみ くちびひく われはわすれず うちてしやまむ(瀰都瀰都志 倶梅能故邏餓 介耆茂等珥 宇惠志破餌介瀰 勾致弭比倶 和例破涴輸例儒 于智弖之夜莽務)」

そして再び兵を縦って、たちまち攻めました。およそ諸々の御謠を、みな来目歌と申します。これは謠った者をそのまま取って名づけたものです。

そのとき長髄彦は行人を遣わして天皇に言いました。「かつて天の神の子があって、天の磐船に乗って天から降り止まられました。お名を櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)と申します。この方がわが妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶って、

夾注 1

饒速日。此云爾藝波揶卑。

饒速日は「にぎはやひ」と読みます。

23天の神の子がどうして二種あろうか

遂有兒息。名曰可美眞手命。故吾以饒速日命爲君而奉焉。夫天神之子豈有兩種乎。奈何更穩天神子。以奪人地乎。吾心推之、未必爲信。天皇曰。天神子亦多耳。汝所爲君。是實天神之子者。必有表物。可相示之。長髄彦即取饒速日命之天羽羽矢一隻及歩靭以奉示天皇。天皇覧之曰。事不虚也。還以所御天羽羽矢一隻及歩靭。賜示於長髄彦。長髄彦見其天表。益懷踧踖。然而凶器已搆。其勢不得中休。而猶守迷圖。無復改意。饒速日命本知天神慇懃唯天孫是與。且見夫長髄彦禀性愎不可教以天人之際。乃殺之。帥其衆而歸順焉。天皇素聞鐃速日命是自天降者。而今果立忠効。則褒而寵之。此物部氏之遠祖也。

ついに子をお持ちになり、お名を可美真手命(うましまでのみこと)と申します。ですから私は饒速日命を君として奉っております。そもそも天の神の子に、どうして二種あるのでしょうか。どうしてまた天の神の子と称えて、人の地を奪おうとされるのですか。私の心で推すに、必ずしも信とは思えません。」

天皇が言われました。「天の神の子もまた多いのだ。お前が君としている者が、まことに天の神の子であるなら、必ず表の物があろう。互いに示し合おう。」

長髄彦はすぐに饒速日命の天羽羽矢一隻と歩靭(かちゆき)を取って、天皇に奉り示しました。天皇はこれを覧て言われました。「事は虚ではない。」

そして御自ら持っておられた天羽羽矢一隻と歩靭を、長髄彦に賜って示されました。長髄彦はその天の表を見て、いっそう踧踖(つつしみ)の心を懐きました。しかし凶器がもう搆えられていて、その勢は中途で休むことができず、なお迷った図を守って、再び意を改めませんでした。

饒速日命はもともと、天の神が慇懃にただ天孫にのみ与えられたことを知っていました。また、あの長髄彦が禀けた性が愎(かたくな)で、天と人の際を教えることができないと見ました。そこでこれを殺し、その衆を率いて帰順しました。

天皇はもとより饒速日命が天から降った者だと聞いておられ、今はたして忠の効を立てたので、褒めて寵まれました。これが物部氏の遠い祖です。

夾注 2

亦名長髄媛。亦名鳥見屋媛。

長髄媛(ながすねひめ)とも、鳥見屋媛(とみやひめ)とも申します。

可美眞手。此云于魔詩莽耐。

可美真手は「うましまで」と読みます。

24土蜘蛛を討ち、地名ができる

己未年春二月壬辰朔辛亥。命諸將練士卒。是時層富縣波哆丘岬有新城戸畔者。又和珥坂下有居勢祝者。臍見長柄丘岬有猪祝者。此三處土蜘蛛並恃其勇力不肯來庭。天皇乃分遺偏師皆誅之。又高尾張邑有土蜘蛛。其爲人也身短而手足長。與侏儒相類。皇軍結葛網而掩襲殺之。因改號其邑曰葛城。夫磐余之地舊名片居。亦曰片立。逮我皇師之破虜也。大軍集而滿於其地。因改號爲磐余。或曰。天皇徃甞嚴瓮粮出軍而征。是時。磯城八十梟帥於彼處屯聚居之。果與天皇大戰。遂爲皇師所滅。故名之曰磐余邑。又皇師立詰之處。是謂猛田。作城處號曰城田。又賊衆戰死而僵屍枕臂處呼爲頬枕田。天皇以前年秋九月。潜取天香山之埴土。以造八十平瓮。躬自齋戒祭諸神。遂得安定區宇。故號取土之處曰埴安。

己未の年の春二月壬辰の朔の辛亥の日、諸々の将に命じて士卒を練らせました。

このとき層富県(そほのあがた)の波哆(はた)の丘岬(おかさき)に新城戸畔(にいきとべ)という者があり、また和珥(わに)の坂下(さかもと)に居勢祝(こせのはふり)という者があり、臍見(ほそみ)の長柄(ながら)の丘岬に猪祝(いのはふり)という者がありました。この三つの処の土蜘蛛(つちぐも)は、みなその勇力を恃んで庭(みかど)に来ようとしませんでした。天皇は偏師(わかれいくさ)を分け遣わして、みな誅されました。

また高尾張の邑に土蜘蛛がありました。その人となりは身が短く手足が長く、侏儒(ひきひと)に似ていました。皇の軍は葛の網を結んで掩い襲い、殺しました。それにちなんでその邑の名を改めて葛城(かずらき)と申しました。

そもそも磐余の地は旧い名を片居(かたい)、片立(かたたち)とも申しました。我が皇の師が虜を破るに至って、大軍が集まってその地に満ちました。それにちなんで名を改めて磐余としました。

ある説ではこう言います。天皇が往に厳瓮の粮を嘗めて軍を出し征たれた。このとき磯城の八十梟帥がその処に屯り聚って居り、はたして天皇と大いに戦って、ついに皇の師に滅ぼされた。それで磐余邑と名づけた、と。

また皇の師が立って詰った処を猛田(たけだ)と申し、城を作った処を城田(きだ)と申します。また賊の衆が戦い死んで、僵れた屍が臂を枕にした処を頬枕田(つらまきた)と呼びます。

天皇は前の年の秋九月に、こっそり天香山の埴土を取って八十の平瓮を造り、自ら斎み戒めて諸々の神を祭り、ついに区宇(くにのうち)を安定することができました。そこで土を取った処を埴安(はにやす)と申しました。

夾注 5

丘岬。此云塢介佐棄。

丘岬は「おかさき」と読みます。

坂下。此云瑳伽梅苔。

坂下は「さかもと」と読みます。

片居。此云伽哆韋。

片居は「かたい」と読みます。

片立。此云伽哆哆知。

片立は「かたたち」と読みます。

屯聚居。此云怡波瀰萎。

屯聚居は「いわみい」と読みます。

25「八紘を掩いて宇とする」

三月辛酉朔丁卯。下令曰。自我東征於茲六年矣。頼以皇天之威。凶徒就戮。雖邊土未清。餘妖尚梗。而中洲之地無復風塵。誠宜恢廓皇都規大壯。而今運屬此屯蒙。民心朴素。巣棲穴住。習俗惟常。夫大人立制。義必隨時。苟有利民。何妨聖造。且當披拂山林。經營宮室。而恭臨寶位。以鎭元元。上則答乾靈授國之徳。下則弘皇孫養正之心。然後兼六合以開都。掩八紘而爲宇不亦可乎。觀夫畝傍山東南橿原地者。蓋國之墺區乎。可治之。

三月辛酉の朔の丁卯の日、令を下されました。

「私が東を征ってから、ここに六年になった。皇天の威に頼って、凶しい徒は戮に就いた。辺の土はまだ清まらず、余りの妖がなお梗(ふさ)いでいるけれども、中洲の地には再び風塵がない。

まことに皇の都を恢め廓げ、大いなる壮んな規を立てるべきである。ところが今、運はこの屯蒙(なやみくらき)に属し、民の心は朴素で、巣に棲み穴に住み、習わしの俗はそれが常である。そもそも大人が制を立てるとき、義は必ず時に随う。かりにも民に利があるなら、どうして聖の造ることに妨げがあろうか。

また、まさに山林を披き拂い、宮室を経営して、恭んで宝位に臨み、元元(たみ)を鎮めよう。上は乾霊(あまつかみ)が国を授けられた徳に答え、下は皇孫が正しさを養われた心を弘めよう。そののちに六合を兼ねて都を開き、八紘(やも)を掩いて宇(いえ)とするのも、また可いではないか。

あの畝傍山(うねびやま)の東南の橿原(かしはら)の地を観ると、おそらく国の墺(おく)まった区であろうか。ここを治めるがよい。」

夾注 1

畝傍山。此云宇禰縻夜摩。

畝傍山は「うねびやま」と読みます。

26帝の宅を造り始める

是月。即命有司經始帝宅。

この月、すぐに有司(つかさ)に命じて、帝の宅を経め始めさせました。

27正妃を求める

庚申年秋八月癸丑朔戊辰。天皇當立正妃。改廣求華胄。時有人奏之曰。事代主神共三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛。所生兒。號曰媛蹈韛五十鈴媛命。是國色之秀者。天皇悦之。

庚申の年の秋八月癸丑の朔の戊辰の日、天皇は正妃を立てようとして、改めて広く華やかな胄(すえ)を求められました。

そのときある人が奏して言いました。「事代主神が三嶋溝橛耳神(みしまのみぞくいみみのかみ)の娘の玉櫛媛と生んだ子があり、お名を媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)と申します。これは国色の秀れた方です。」

天皇は悦ばれました。

28正妃に迎える

九月壬午朔乙巳。納媛蹈韛五十鈴媛命。以爲正妃。

九月壬午の朔の乙巳の日、媛蹈韛五十鈴媛命を納れて正妃とされました。

29橿原宮で位に即く

辛酉年春正月庚辰朔。天皇即帝位於橿原宮。是歳爲天皇元年。尊正妃爲皇后。生皇子神八井命。神渟名川耳尊。故古語稱之曰。於畝傍之橿原也。太立宮柱於底磐之根。峻峙搏風於高天之原。而始馭天下之天皇。號曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。初天皇草創天基之日也。大伴氏之遠祖道臣命帥大來目部奉承密策。能以諷歌倒語掃蕩妖氣。倒語之用始起乎茲。

辛酉の年の春正月庚辰の朔、天皇は橿原宮で帝の位に即かれました。この年を天皇の元年とします。正妃を尊んで皇后とされました。皇子の神八井命(かむやいのみこと)と神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を生まれました。

そこで古語に称えて、畝傍の橿原に、宮の柱を底の磐の根に太く立て、搏風(ちぎ)を高天の原に峻しく峙てて、初めて天下を馭められた天皇として、お名を神日本磐余彦火火出見天皇と申します。

初め、天皇が天の基を草め創められた日に、大伴氏の遠い祖である道臣命が大来目部を率いて密かな策を奉り承け、よく諷歌(そえうた)と倒語(さかしまごと)で妖しい気を掃い蕩いました。倒語を用いることは、ここから始まりました。

30功を定めて賞を行う

二年春二月甲辰朔乙巳。天皇定功行賞。賜道臣命宅地居于築坂邑。以寵異之。亦使大來目居于畝傍山以西川邊之地。今號來目邑。此其縁也。以珍彦爲倭國造。又給弟猾猛田邑。因爲猛田縣主。是菟田主水部遠祖也。弟磯城名黒速。爲磯城縣主。復以釼根者爲葛城國造。又頭八咫烏亦人賞例。其苗裔即葛野主殿縣主部是也。

二年の春二月甲辰の朔の乙巳の日、天皇は功を定めて賞を行われました。道臣命に宅地を賜って築坂(つきさか)の邑に居らせ、ことに寵まれました。また大来目を畝傍山の西の川辺の地に居らせました。今、来目邑(くめのむら)と申すのは、これが由縁です。

珍彦を倭国造とされました。また弟猾に猛田の邑を給い、そして猛田県主(たけだのあがたぬし)とされました。これが菟田の主水部(もひとりべ)の遠い祖です。弟磯城は名を黒速(くろはや)といい、磯城県主とされました。また剣根(つるぎね)という者を葛城国造とされました。

また頭八咫烏も賞の例に入りました。その苗裔が、すなわち葛野(かどの)の主殿県主部(とのもりのあがたぬしべ)です。

夾注 1

珍彦。此云于砮毘故。

珍彦は「うずひこ」と読みます。

31鳥見山に霊畤を立てる

四年春二月壬戌朔甲申。詔曰。我皇祖之靈也自天降鑒光助朕躬。今諸虜已平。海内無事。可以郊祀天神用申大孝者也。乃立靈畤於鳥見山中。其地號曰上小野榛原。下小野榛原。用祭皇祖天神焉。

四年の春二月壬戌の朔の甲申の日、詔して言われました。「わが皇祖の霊が天から降って鑒み、光で朕の躬を助けられた。今、諸々の虜はもう平らぎ、海の内に事がない。郊で天の神を祀り、大いなる孝を申べるべきである。」

そこで鳥見山(とみのやま)の中に霊畤(まつりのにわ)を立てられました。その地を上小野榛原(かみつおののはりはら)・下小野榛原(しもつおののはりはら)と申し、皇祖と天の神を祭られました。

32蜻蛉が臀を呫めたようだ

卅有一年夏四月乙酉朔。皇與巡幸。因登腋上嗛間丘。而廻望國状曰。妍哉乎國之獲矣。雖内木錦之眞迮國。猶如蜻蛉之臀呫焉。由是始有秋津洲之號也。昔伊弉諾尊目此國曰。日本者浦安國。細戈千足國。磯輪上秀眞國。復大己貴大神目之曰。玉牆内國。及至饒速日命乘天磐船。而翔行太虚也。睨是郷而降之。故因目之曰虚空見日本國矣。

三十一年の夏四月乙酉の朔、皇の輿が巡り幸されました。そして腋上(わきがみ)の嗛間(ほほま)の丘に登り、国の様を廻り望んで言われました。「麗しいことだ、国を獲たことだ。内木錦(うつゆう)のようにまことに迮(せま)い国ではあるけれども、なお蜻蛉(あきつ)が臀(とも)を呫(な)めたようだ。」これによって初めて秋津洲(あきつしま)という名ができました。

昔、伊弉諾尊がこの国を目して言われました。「日本(やまと)は浦安国(うらやすのくに)、細戈千足国(くわしほこちだるくに)、磯輪上秀真国(しわかみのほつまくに)である。」

また大己貴大神が目して言われました。「玉牆内国(たまかきのうちつくに)である。」

饒速日命が天の磐船に乗って大きな虚(そら)を翔り行き、この郷を睨んで降りるに至って、それにちなんで目して虚空見日本国(そらみつやまとのくに)と申しました。

夾注 2

妍哉。此云鞅奈珥夜。

妍哉は「あなにや」と読みます。

秀眞國。此云袍圖莽勾爾。

秀真国は「ほつまくに」と読みます。

33皇太子を立てる

卅有二年春正月壬子朔甲寅。立皇子神渟名川耳尊爲皇太子。

三十二年の春正月壬子の朔の甲寅の日、皇子の神渟名川耳尊を皇太子に立てられました。

34百二十七歳で崩れる

七十有六年春三月甲午朔甲辰。天皇崩于橿原宮。時年一百廿七歳。明年秋九月乙卯朔丙寅。葬畝傍山東北陵。

七十六年の春三月甲午の朔の甲辰の日、天皇は橿原宮で崩れました。そのとき年は百二十七歳でした。明くる年の秋九月乙卯の朔の丙寅の日、畝傍山の東北の陵に葬りました。