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清寧天皇

日本書紀(日本の編年史) 日本書紀 · 舎人親王ほか · 720年(養老4年) · 段落 20 · 漢字 1,048字 · 朗読 4.2分

日本書紀(日本の編年史) 人代 日本で最も古い正史。神々の時代から持統天皇までの三十巻。神代上・下は同じ神話の異なる伝えを「一書に曰く」として並べて載せ、食い違う話を隠していない。百済・新羅・高句麗・任那の記事が1,379箇所に現れ、韓国の史書と突き合わせる箇所が最も多い書でもある。

1星川皇子を焼き殺す

白髮武廣國押稚日本根子天皇。大泊瀬幼武天皇第三子也。母曰葛城韓媛。天皇生而白髮。長而愛民。大泊瀬天皇於諸子中特所靈異。廿二年立爲皇太子。廿三年八月。大泊瀬天皇崩。吉備稚媛陰謂幼子星川皇子曰。欲登天下之位。先取大藏之官。長子磐城皇子。聞母夫人教其幼子之語曰。皇太子雖是我弟。安可欺乎。不可爲也。星川皇子不聽。輙隨母夫人之意。遂取大藏官。■閇外門。式備乎難。權勢自由費用官物。於是大伴室屋大連。言於東漢掬直曰。大泊瀬天皇之遺詔今將至矣。宜從遺詔奉皇太子。乃發軍士圍繞大藏。自外拒閇。縱火燔殺。是時吉備稚媛。磐城皇子異父兄兄君。城丘前來目。隨星川皇子而被燔殺焉。惟河内三野縣主小根。慓然振怖。避火逃出。抱草香部吉士漢彦脚。因使祈生於大伴室屋大連曰。奴縣主小根事星川皇子者信。而無有背於皇太子。

白髮武廣國押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのてんのう)は、大泊瀬幼武天皇の第三子です。母は葛城韓媛(かずらきのからひめ)といいます。天皇はお生まれになったときから白髪で、お育ちになると民を愛しました。大泊瀬天皇は諸々の子の中でも特に靈しく異なる者と思われました。

二十二年、皇太子に立てられました。二十三年八月、大泊瀬天皇が崩じました。

吉備稚媛(きびのわかひめ)は、密かに幼い子の星川皇子に言いました。「天下の位に登りたいなら、まず大藏(おおくら)の官を取りなさい」

長子の磐城皇子は、母夫人がその幼い子を教える言葉を聞いて言いました。「皇太子はたしかに私の弟ですが、どうして欺けるでしょうか。してはなりません」

星川皇子は聴かず、たやすく母夫人の意に随って、ついに大藏の官を取りました。外の門を閇ざし鎖して難に備え、権勢を自由にして官の物を費い用いました。

そこで大伴室屋大連は、東漢掬直に言いました。「大泊瀬天皇の遺詔が、いままさに至った。遺詔に従って皇太子を奉るべきである」

そこで軍士を発して大藏を囲み繞み、外から拒み閇ざして、火を縱って燔き殺しました。

このとき吉備稚媛と、磐城皇子の父の異なる兄の兄君、城丘前來目(きのおかさきのくめ)が、星川皇子に随って燔き殺されました。

ただ河内の三野縣主小根(みののあがたぬしおね)は、慓然として振え怖れ、火を避けて逃げ出し、草香部吉士漢彦(くさかべのきしあやひこ)の脚を抱きました。そして大伴室屋大連に生かすことを祈らせて言いました。「奴の縣主小根が星川皇子に事えたことは、まことです。しかし皇太子に背いたことはありません。

夾注 1

闕名。

名が欠けています。

2璽を皇太子に奉る

乞降洪恩救賜他命。漢彦乃具爲啓於大伴大連。不入刑類。小根仍使漢彦啓於大連曰。大伴大連。我君降大慈愍。促短之命既續延長。獲觀日色。輙以難波來目邑大井戸田十町。送於大連。又以田地與于漢彦。以報其恩。◎是月。吉備上道臣等聞朝作亂。思救其腹所生星川皇子。率船師册艘。來浮於海。既而聞被燔殺。自海而歸。天皇即遣使嘖讓於上道臣等。而奪其所領山部。冬十月己巳朔壬申。大伴室屋大連率臣連等。奉璽於皇太子。

どうか洪い恩を降して、この命を救い賜りますように」

漢彦はそこで具に大伴大連に啓して、刑する類に入れませんでした。

小根はそこで漢彦を使って大連に啓して言いました。「大伴大連、我が君が大いなる慈しみと愍れみを降されたので、促まり短くなる命がすでに続いて延び長くなり、日の色を観ることができました」そしてたやすく難波の來目の邑の大井戸の田十町を大連に送りました。また田地を漢彦に与えて、その恩に報いました。

この月、吉備上道臣たちは、朝に乱れが起こったと聞いて、その腹から生まれた星川皇子を救おうと思い、船の師四十艘を率いて、海に浮かんで来ました。やがて燔き殺されたと聞いて、海から帰りました。

天皇はすぐに使いを遣わして上道臣たちを嘖め讓め、彼らが領いていた山部を奪いました。

冬十月己巳の朔の壬申の日、大伴室屋大連が臣・連たちを率いて、璽を皇太子に奉りました。

3位に即く

元年春正月戊戌朔壬子。命有司。設壇場於磐余甕栗陟天皇位。遂定宮焉。尊葛城韓媛爲皇太夫人。以大伴室屋大連爲大連。平群眞鳥大臣爲大臣。並如故。臣連伴造等各依職位焉。

元年春正月戊戌の朔の壬子の日、有司に命じて、磐余の甕栗(みかくり)に壇場を設け、天皇の位に陟りました。ついに宮を定めました。

葛城韓媛を尊んで皇太夫人としました。大伴室屋大連を大連とし、平群眞鳥大臣を大臣として、あわせて故のとおりでした。臣・連・伴造たちは、それぞれ職位に依りました。

4隼人が陵のほとりで死ぬ

冬十月癸巳朔辛丑。葬大泊瀬天皇于丹比高鷲原陵。于時隼人晝夜哀號陵側。與食不喫。七日而死。有司造墓陵北。以禮葬之。是年也太歳庚申。

冬十月癸巳の朔の辛丑の日、大泊瀬天皇を丹比の高鷲原(たかわしはら)の陵に葬りました。このとき隼人が昼も夜も陵のほとりで哀しく號び、食べ物を与えても喫わず、七日で死にました。有司が陵の北に墓を造って、礼をもって葬りました。

この年は太歳庚申です。

5白髮部を置く

二年春二月。天皇恨無子。乃遣大伴室屋大連於諸國。置白髮部舎人。白髮部膳夫。白髮部靭負。冀垂遺跡令觀於後。

二年春二月、天皇は子のないことを恨みました。そこで大伴室屋大連を諸国に遣わして、白髮部舎人(しらかべのとねり)、白髮部膳夫(しらかべのかしわで)、白髮部靭負(しらかべのゆげい)を置きました。遺した跡を垂れて、後の人に観せたいと願ったのです。

6二人の王子を見出す

冬十一月。依大甞供奉之料。遣於播磨國司山部連先祖伊與來目部小楯。於赤石郡縮見屯倉首忍海部造細目新室。見市邊押磐皇子子億計。弘計。畏敬兼抱。思奉爲君。奉養甚謹。以私供給。便起柴宮權奉安置。乘騨馳奏。天皇愕然驚歎。良以愴懷曰。懿哉。悦哉。天垂博愛。賜以兩兒。

冬十一月、大甞(おおにえ)に供え奉る料のために、播磨國司であった山部連の先の祖、伊與來目部小楯(いよのくめべのおだて)を遣わしました。

赤石郡(あかしのこおり)の縮見(しじみ)の屯倉の首、忍海部造細目(おしぬみべのみやつこほそめ)の新しい室で、市邊押磐皇子の子の億計(おけ)、弘計(をけ)を見ました。畏れ敬い、あわせて抱いて、君として奉ろうと思い、奉り養うことをはなはだ謹み、私の物で供え給しました。すぐに柴の宮を起こして、權りに奉り安置し、騨に乗って馳せて奏しました。

天皇は愕然として驚き歎き、まことに愴しく懐って言いました。「懿しいことだ、悦ばしいことだ。天が博い愛を垂れて、二人の児を賜ったのだ」

7赤石に迎えに遣わす

是月。使小楯持節將左右舎人。至赤石奉迎。語在弘計天皇紀。

この月、小楯に節を持たせ、左右の舎人を率いて、赤石に至って奉り迎えさせました。話は弘計天皇の紀にあります。

8二人の王が宮に入る

三年春正月丙辰朔。小楯等奉億計。弘計。到攝津國。使臣連持節以王青盖車迎入宮中。

三年春正月丙辰の朔の日、小楯たちが億計、弘計を奉って攝津国に到りました。臣・連に節を持たせ、王の青い盖の車で迎えて宮の中に入れました。

9皇太子を立てる

夏四月乙酉朔辛卯。以億計王爲皇太子。以弘計王爲皇子。

夏四月乙酉の朔の辛卯の日、億計王を皇太子とし、弘計王を皇子としました。

10飯豐皇女

秋七月。飯豐皇女於角刺宮與夫初交。謂人曰。一知女道。又安可異。終不願交於男。

秋七月、飯豐皇女(いいとよのひめみこ)が角刺宮(つのさしのみや)で夫と初めて交わりました。人に言いました。「一たび女の道を知った。また、どうして異なることがあろうか。ついに男と交わることを願わない」

夾注 1

此曰有夫未詳也。

ここで夫があるというのは、詳らかではありません。

11風俗を省る

九月壬子朔癸丑。遣臣連巡省風俗。

九月壬子の朔の癸丑の日、臣・連を遣わして風俗を巡り省させました。

12犬や馬を献じるな

冬十月壬午朔乙酉。詔。犬馬器翫、不得獻上

冬十月壬午の朔の乙酉の日、詔しました。「犬、馬、器、翫びものは、献じ上ることができない」

13綿と帛を賜る

十一月辛亥朔戊辰。宴臣連於大庭。賜綿帛。皆任其自取盡力而出。

十一月辛亥の朔の戊辰の日、臣・連に大きな庭で宴をし、綿と帛を賜りました。皆、自ら取りたいままに任せて、力を尽くして持ち出させました。

14海の外の諸蕃が調を進める

是月。海表諸蕃並遣使進調。

この月、海の外の諸蕃が、あわせて使いを遣わして調を進めました。

15朝堂で宴をする

四年春正月庚戌朔丙辰。宴海表諸蕃使者於朝堂。賜物各有差。

四年春正月庚戌の朔の丙辰の日、海の外の諸蕃の使者に朝堂で宴をし、物を賜るのに、それぞれ差がありました。

16五日のあいだ大いに餔う

夏閏五月。大餔五日。

夏閏五月、五日のあいだ大いに餔いました。

17囚徒を録す

秋八月丁未朔癸丑。天皇親録囚徒。是日。蝦夷。隼人並内附。

秋八月丁未の朔の癸丑の日、天皇が自ら囚徒を録しました。この日、蝦夷と隼人が、あわせて内に附きました。

18射殿

九月丙子朔。天皇御射殿。詔百寮及海表使者射。賜物各有差。

九月丙子の朔の日、天皇が射殿(いどの)に御して、百寮および海の外の使者に射ることを詔し、物を賜るのに、それぞれ差がありました。

19天皇が崩じる

五年春正月甲戌朔己丑。天皇崩于宮。時年若干。

五年春正月甲戌の朔の己丑の日、天皇が宮で崩じました。そのとき年はいくつであったか分かりません。

20坂門原の陵

冬十一月庚午朔戊寅。葬于河内坂門原陵。

冬十一月庚午の朔の戊寅の日、河内の坂門原(さかとはら)の陵に葬りました。