雄略天皇
1兄たちを斬る
大泊瀬幼武天皇。雄朝津間稚子宿禰天皇第五子也。天皇産而神光滿殿。長而伉健過人。三年八月。穴穗天皇意將沐浴。幸于山宮。遂登樓兮遊目。因命酒兮肆宴。爾乃情盤欒極。間以言談。顧謂皇后曰。吾妹。汝雖親眤。朕畏眉輪王。眉輪王幼年遊戲樓下。悉聞所談。既而穴穗天皇枕皇后膝。晝醉眠臥。於是。眉輪王伺其熟睡而刺殺之。是日。大舍人驟言於天皇曰。穴穗天皇爲眉輪王見殺。天皇大驚。即猜兄等。被甲帶刀。卒兵自將。逼問八釣白彦皇子。皇子見其欲害黙坐不語。天皇乃拔刀而斬。更逼問坂合黒彦皇子。皇子亦知將害。黙坐不語。
大泊瀬幼武天皇(おおはつせのわかたけのてんのう)は、雄朝津間稚子宿禰天皇の第五子です。天皇はお生まれになると神しい光が殿に満ち、お育ちになると強く健やかなことが人に過ぎていました。
三年八月、穴穗天皇(あなほのてんのう)は沐浴しようとの思いで山宮に幸しました。ついに楼に登って目を遊ばせ、続いて酒を命じて宴を張りました。そこで心が歓びの極みに至ると、合間に言葉を交わしました。皇后を顧みて言いました。「我が妹よ、お前は親しいとはいえ、朕は眉輪王(まゆわのおおきみ)が畏ろしい」
眉輪王は幼い年で楼の下で遊んでいて、談られたことをことごとく聞きました。
やがて穴穗天皇は皇后の膝を枕にして、昼に酔って眠り臥しました。そこで眉輪王はその熟く睡った隙をうかがって、刺し殺しました。
この日、大舍人(おおとねり)が天皇のもとに驟けて来て言いました。「穴穗天皇が眉輪王に殺されました」
天皇は大いに驚き、すぐに兄たちを猜んで、甲を被り刀を帯び、兵を率いて自ら将いました。八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)を逼って問いました。皇子はその害そうとする様を見て、黙って座り、語りませんでした。天皇はそこで刀を抜いて斬りました。
改めて坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)を逼って問いました。皇子もまた害されようとしていることを知って、黙って座り、語りませんでした。
夾注 3
去來穗別天皇女曰中蒂姫皇女。更名長田大娘皇女也。大鷦鷯天皇子大草香皇子。娶長田皇女生眉輪王也。於後穴穗天皇用根臣讒。殺大草香皇子。而立中蒂姫皇女爲皇后。語在穴穗天皇紀也。
去來穗別天皇の娘を中蒂姫皇女(なかしひめのひめみこ)といい、別の名を長田大娘皇女(ながたのおおいらつめのひめみこ)といいます。大鷦鷯天皇の子である大草香皇子が長田皇女を娶って眉輪王を生みました。後に穴穗天皇が根臣(ねのおみ)の讒りを用いて大草香皇子を殺し、中蒂姫皇女を立てて皇后としました。その話は穴穗天皇の紀にあります。
稱妻爲妹。盖古之俗乎。
妻を妹と称するのは、おそらく古い風俗なのでしょうか。
闕姓字也。
姓と字が欠けています。
2圓大臣の宅を焼く
天皇忿怒彌盛。乃復并爲欲殺眉輪王。案劾所由。眉輪王曰。臣元不求天位。唯報父仇而已。坂合黒彦皇子深恐所疑。竊語眉輪王。遂共得間而出。逃入圓大臣宅。天皇使使乞之。大臣以使報曰。盖聞。人臣有事逃入王室。未見君王隱匿臣舍。方今坂合黒彦皇子與眉輪王。深恃臣心。來臣之舍。■忍送歟。由是天皇復益興兵圍大臣宅。大臣出立於庭索脚帶。時大臣妻持來脚帶。愴矣傷懷。而歌曰。飫瀰能古簸。多倍能波伽摩鳴。那那陛鳴■。爾播爾陀陀始諦。阿遥比那陀須暮。大臣裝束已畢。進軍門跪拜曰。臣雖被戮。莫敢命。古人有云。匹夫之志難可奪。方屬乎臣。伏願大王奉獻臣女韓媛與葛城宅七區。請以贖罪。天皇不許。縱火燔宅。於是。大臣與黒彦皇子。眉輪王。倶被燔死。時坂合部連贄宿禰。抱皇子屍而見燔死。其舍人等收取所燒。遂難擇骨。盛之一棺合葬新漢擬本南丘。
天皇の忿りと怒りはますます盛んになり、そこで改めてあわせて眉輪王を殺そうとして、その由るところを案べ劾べました。
眉輪王が言いました。「臣はもとより天の位を求めてはおりません。ただ父の仇に報いただけです」
坂合黒彦皇子は疑われることを深く恐れ、竊かに眉輪王と語り、ついにともに隙を得て出て、圓大臣(つぶらのおおおみ)の宅に逃げ入りました。
天皇は使いを遣わしてこれを乞いました。大臣は使いに報えて言いました。「おそらく聞くところでは、人の臣が事あって王室に逃げ入ることはあっても、君王が臣の舍に隱れ匿れたことは、まだ見たことがありません。いま坂合黒彦皇子と眉輪王が、深く臣の心を恃んで臣の舍に来られました。どうして忍んで送れましょうか」
これによって天皇は改めてますます兵を興して、大臣の宅を囲みました。
大臣は庭に出て立ち、脚帶(あゆい)を索めました。そのとき大臣の妻が脚帶を持って来て、愴しく懐いを傷めて歌って言いました。
「飫瀰能古簸 多倍能波伽摩鳴 那那陛鳴■ 爾播爾陀陀始諦 阿遥比那陀須暮(おみのこは たへのはかまを ななへをし にはにたたして あよひなだすも)」
— 音を写したものなので、意味には訳しません。
大臣は装い束ねることを終えて、軍門に進み、跪き拝んで言いました。「臣は戮されても、敢えて命に逆らいません。古人に『匹夫の志も奪い難し』という言葉があります。まさに臣に当たる言葉です。伏して願わくは、大王に臣の娘の韓媛(からひめ)と、葛城の宅七区を奉り献じます。どうかこれをもって罪を贖わせてください」
天皇は許さず、火を放って宅を燔きました。そこで大臣と黒彦皇子と眉輪王は、ともに燔かれて死にました。
そのとき坂合部連贄宿禰(さかあいべのむらじにえのすくね)は、皇子の屍を抱いて燔かれて死にました。その舍人たちが焼けたものを収め取りましたが、ついに骨を択び分けることが難しくありました。一つの棺に盛って、新漢(いまきのあや)の擬本(つきもと)の南の丘に合わせて葬りました。
夾注 2
闕名字也。
名と字が欠けています。
擬字未詳。盖是槻乎。
擬という字は詳らかではありません。おそらく槻でしょうか。
3市邊押磐皇子を射殺す
冬十月癸未朔。天皇恨穴穗天皇曾欲以市邊押磐皇子傅國而遥付囑後事。乃使人於市邊押磐皇子。陽期狡獵。勸遊郊野曰。近江狹狹城山君韓■言。今於近江來田綿蛟屋野猪鹿多有。其戴角類枯樹末。其聚脚如弱木株。呼吸氣息似於朝霧。願與皇子。孟冬作陰之月。寒風肅殺之晨。將逍遥於郊野。聊■情以騁射。市邊押磐皇子乃隨馳獵。於是大泊瀬天皇彎弓驟馬。而陽呼曰猪有。即射殺市邊押磐皇子。皇子帳内佐伯部賣輪。抱屍駭■不解所由。反側呼號往還頭脚。天皇尚誅之◎是月。御馬皇子以曾善三輪君身狹。故思欲遣慮而往。不意道逢邀軍於三輪磐井側逆戰。不久被捉。臨刑指井而詛曰。此水者百姓唯得飮焉。王者獨不能飮矣。
冬十月癸未の朔の日、天皇は、穴穗天皇がかつて市邊押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)に国を傅けようとして、遥かに後の事を付け囑んだことを恨みました。
そこで人を市邊押磐皇子に遣わして、偽って獵りを期し、郊野に出て遊ぶことを勧めて言いました。「近江の狹狹城山君韓■(ささきやまのきみからぶくろ)が言うには、いま近江の來田綿(くたわた)の蛟屋野(かやの)に猪や鹿が多くあり、その戴いている角は枯れた樹の末のようで、その聚まっている脚は弱い木の株のようで、呼吸する息は朝霧に似ているとのことです。願わくは皇子とともに、孟冬の陰を作す月、寒風が肅殺たる晨に、郊野に逍遥し、しばらく情を遣って射を騁せたいのです」
市邊押磐皇子はそこで随って馳せ獵りをしました。そこで大泊瀬天皇は弓を彎き馬を驟らせて、偽って呼びました。「猪がいる」そしてすぐに市邊押磐皇子を射殺しました。
皇子の帳の内の佐伯部賣輪(さえきべのめわ)は、屍を抱いて駭き惑い、何の由るところか分かりませんでした。反り側り、呼び号び、頭と脚のあいだを往き還りました。天皇はその者までも誅しました。
この月、御馬皇子(みまのみこ)は、かつて三輪君身狹(みわのきみむさ)と善かったので、思いを遣りに往こうとしました。思いがけず道で邀え討つ軍に逢い、三輪の磐井(いわい)のほとりで逆らい戦いました。久しからずして捉えられました。刑に臨んで井を指して詛って言いました。「この水は、百姓だけが飲むことができ、王者は独り飲むことができないだろう」
夾注 1
更名仲子。
別の名は仲子(なかつこ)です。
4位に即く
十一月壬子朔甲子。天皇命有司設壇於泊瀬朝倉即天皇位。遂定宮焉。以平群臣眞鳥爲大臣。以大伴連室屋。物部連目爲大連。
十一月壬子の朔の甲子の日、天皇は有司に命じて泊瀬(はつせ)の朝倉(あさくら)に壇を設け、天皇の位に即きました。ついに宮を定めました。平群臣眞鳥(へぐりのおみまとり)を大臣とし、大伴連室屋(おおとものむらじむろや)と物部連目(もののべのむらじめ)を大連としました。
5皇后を立てる
春三月庚戌朔壬子。立草香幡梭姫皇女爲皇后。
春三月庚戌の朔の壬子の日、草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)を立てて皇后としました。
夾注 1
更名橘姫。
別の名は橘姫(たちばなひめ)です。
6三人の妃と釆女の娘
是月。立三妃。元妃葛城圓大臣女曰韓媛。生白髪武廣國押稚日本根子天皇。與稚足姫皇女。是皇女侍伊勢大神祠。次有吉備上道臣女稚媛。生二男。長曰磐城皇子。少曰星川稚宮皇子。次有春日和珥臣深目女。曰童女君。生春日大娘皇女。童女君者本是采女。天皇與一夜而■。遂生女子。天皇疑不養。及女子行歩。天皇御大殿。物部目大連侍焉。女子過庭。目大連謂群臣曰。麗哉女子。古人有云。娜毘騰耶■麼珥。徐歩清庭者言誰女子。天皇曰。何故問耶。目大連對曰。臣觀女子行歩。容儀能似天皇。天皇曰。見此者咸言如卿所■。然朕與一宵而■。産女殊常。由是生疑。大連曰。然則一宵喚幾廻乎。天皇曰。七廻喚之。大連曰。此娘子以清身意奉與一宵。安輙生疑嫌他有潔。臣聞。易産腹者。以褌觸體。即便懷■。况與終宵而妄生疑也。天皇命大連。以女子爲皇女。以母爲妃。是年也。太歳丁酉。
この月、三人の妃を立てました。
元の妃は葛城圓大臣の娘で、韓媛といいます。白髪武廣國押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのてんのう)と、稚足姫皇女(わかたらしひめのひめみこ)を生みました。この皇女は伊勢の大神の祠に侍りました。
次に吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)の娘、稚媛(わかひめ)がいて、二人の男を生みました。長を磐城皇子(いわきのみこ)といい、少を星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)といいます。
次に春日和珥臣深目(かすがのわにのおみふかめ)の娘がいて、童女君(おみなぎみ)といいます。春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)を生みました。
童女君はもとは釆女でした。天皇が一夜をともにして、身ごもりました。ついに女の子を生みました。天皇は疑って養いませんでした。
女の子が歩けるようになったとき、天皇は大殿におられ、物部目大連が侍っていました。女の子が庭を過ぎました。
目大連は群臣に言いました。「麗しいことだな、あの女の子は。古人に『娜毘騰耶■麼珥(なびとやはまに)』という言葉がある。静かに清らかな庭を歩いているあの子は、誰の娘か」
天皇は言いました。「何の故に問うのか」
目大連は答えて言いました。「臣が女の子の歩みを観ますに、容も儀もよく天皇に似ております」
天皇は言いました。「これを見た者は皆、卿が言うとおりだと言う。しかし朕は一宵をともにしただけなのに、女を産んだことが常と殊なっている。これによって疑いが生じたのだ」
大連は言いました。「それでは、一宵に幾たびお喚びになりましたか」
天皇は言いました。「七たび喚んだ」
大連は言いました。「この娘子は清らかな身と意で一宵を奉りました。どうしてたやすく疑って、他人にその潔さを嫌わせるのですか。臣が聞きますに、産みやすい腹の者は、褌が体に触れただけでもすぐに身ごもるといいます。まして宵を終えておきながら、みだりに疑いを生じられるのですか」
天皇は大連に命じて、女の子を皇女とし、母を妃としました。
この年は太歳丁酉です。
夾注 5
更名栲幡娘姫皇女。
別の名は栲幡娘姫皇女(たくはたのいらつひめのひめみこ)です。
一本云。吉備窪屋臣女。
ある本には、吉備窪屋臣(きびのくぼやのおみ)の娘といいます。
見下文。
下の文に見えます。
更名高橋皇女。
別の名は高橋皇女(たかはしのひめみこ)です。
此古語未詳。
この古語は詳らかではありません。
7池津媛を焼き殺す
秋七月。百濟池津媛違天皇將幸。婬於石河楯。天皇大怒。詔大伴室屋大連。使來目部張夫婦四支於木。置假■上。以火燒死。
秋七月、百済の池津媛(いけつひめ)が、天皇が幸しようとされるのに違い、石河楯(いしかわのたて)と婬れました。天皇は大いに怒り、大伴室屋大連に詔して、來目部(くめべ)に夫婦の四肢を木に張らせ、仮の棚の上に置いて、火で焼き殺させました。
夾注 2
舊本云。石河股合首祖楯。
旧本には、石河股合首(いしかわのまたいのおびと)の祖である楯といいます。
百濟新撰云。己巳年。葢鹵王立。天皇遣阿禮奴跪來索女郎。百濟荘飾慕尼夫人女曰適稽女郎。貢進於天皇。
百済新撰にいうには、己巳の年、蓋鹵王が立ちました。天皇が阿禮奴跪を遣わして女郎を索めました。百済は慕尼夫人の娘を荘り飾って適稽女郎といい、天皇に貢り進めたとあります。
8吉野宮に幸する
冬十月辛未朔癸酉。幸于吉野宮。
冬十月辛未の朔の癸酉の日、吉野宮に幸しました。
9獵場の楽しみ
丙子。幸御馬瀬。命虞人縱獵。凌重■赴長莽。未及移影、■什七八。毎獵大獲。鳥獸將盡。遂旋憩乎林泉。相羊乎薮澤。息行未展車馬。問羣臣曰。獵場之樂使膳夫割鮮。何與自割。羣臣忽莫能對。於是天皇大怒。拔刀斬御者大津馬飼。是日車駕至自吉野宮。國内居民咸皆振怖。由是皇太后與皇后。聞之大懼。使倭采女日媛擧酒迎進。天皇見采女面貌端麗。形容温雅。乃和顏悦色曰。朕豈不欲覩汝妍咲。乃相携手入於後宮。語皇太后曰。今日遊獵大獲禽獸。欲與羣臣割鮮野饗。歴問羣臣莫能有對。故朕嗔焉。皇太后知斯詔情。奉慰天皇曰。群臣不悟陛下因遊獵場置宍人部降問群臣。群臣黙然。理且難對。今貢未晩。以我爲初。膳臣長野能作宍膾。願以此貢。天皇跪禮而受曰。善哉鄙人所云。貴相知心。此之謂也。皇太后視天皇悦歡喜盈懷。更欲貢人曰。我之厨人菟田御戸部。眞鋒田高天。以此二人請將加貢。爲宍人部。自茲以後大倭國造吾子篭宿禰。貢狹穂子鳥別爲宍人部。臣連伴造國造又隨續貢。
丙子の日、御馬瀬(みませ)に幸しました。虞人(やまもり)に命じて獵りを縱たせました。重なる峰を凌ぎ、長い莽を赴けて、影が移るのも待たないうちに、十のうち七つ八つを獲ました。獵りをするたびに大いに獲て、鳥も獸も尽きるばかりでした。
ついに旋って林と泉で憩い、薮と沢のあたりを相羊いました。歩みを息めて、まだ車馬を展べないうちに、群臣に問いました。「獵場の楽しみは、膳夫に鮮を割かせるのと、自ら割くのと、どちらがよいか」
群臣はたちまち答えることができませんでした。そこで天皇は大いに怒り、刀を抜いて御者の大津馬飼(おおつのうまかい)を斬りました。
この日、車駕が吉野宮から至りました。国内の居民は皆、振え怖れました。
これによって皇太后と皇后はこれを聞いて大いに懼れ、倭の釆女、日媛(ひひめ)に酒を挙げて迎え進めさせました。
天皇は釆女の面貌が端しく麗しく、形も容も温やかで雅びであるのを見て、顔を和らげ色を悦ばせて言いました。「朕がどうしてお前の妍しい咲みを覩たくないことがあろうか」そこで相たがいに手を携えて後宮に入りました。
皇太后に語って言いました。「今日は遊び獵りをして禽獸を多く獲ましたので、群臣とともに鮮を割いて野で饗しようと思いました。群臣に歴く問いましたが、答えられる者がありませんでした。だから朕は嗔ったのです」
皇太后はこの詔の情を知り、天皇を慰め奉って言いました。
「群臣は、陛下が獵場に宍人部(ししひとべ)を置くために群臣に問い降されたことを悟らなかったのです。群臣が黙然としていたのも、理として答え難いことでした。いま貢っても晩くはありません。私から初めましょう。膳臣長野(かしわでのおみながの)はよく宍の膾を作ります。願わくはこの者を貢ります」
天皇は跪いて礼をして受け、言いました。「よいことです。鄙びた人の言葉に『貴いのは相たがいに心を知ること』とあるのは、これを言うのですね」
皇太后は天皇が悦ぶのを視て、歓び喜びが懐に盈ち、改めて人を貢ろうとして言いました。「私の厨の人、菟田御戸部(うだのみとべ)と眞鋒田高天(まほきたのたかま)、この二人を加えて貢ることを請います。宍人部とされますように」
これより後、大倭國造吾子篭宿禰(おおやまとのくにのみやつこあごこのすくね)が狹穂子鳥別(さほこのとりわけ)を貢って宍人部としました。臣・連・伴造・國造もまた随って続いて貢りました。
10舍人部を置く
是月。置史戸。河上舍人部。天皇以心爲師。誤殺人衆。天下誹謗言。太惡天皇也。唯所愛寵。史部身狹村主青。桧隈民使博徳等也。
この月、史戸(ふみひとべ)と河上舍人部(かわかみのとねりべ)を置きました。
天皇は心を師として、誤って人を殺すことが多くありました。天下は誹り謗って言いました。「はなはだ悪い天皇である」
ただ愛され寵まれたのは、史部の身狹村主青(むさのすぐりあお)と桧隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)たちでした。
11栲幡皇女が自ら死ぬ
夏四月。阿閇臣國見譖栲幡皇女與湯人廬城部連武彦曰。武彦皇女而使任身。武彦之父枳■喩聞此流言。恐禍及身。誘率武彦於廬城河。僞使■■沒水捕魚。因其不意而打殺之。天皇聞遣使者案問皇女。皇女對言。妾不識也。俄而皇女■持神鏡。詣於五十鈴河上伺人不行。埋鏡經死。天皇疑皇女不在。恒使闇夜東西求覓。乃於河上虹見如蛇四五丈者。掘虹起處而獲神鏡。移行未遠。得皇女屍。割而觀之。腹中有物如水。水中有石。枳■喩由斯得雪子罪。還悔殺子報殺國見。逃匿石上神宮。
夏四月、阿閇臣國見(あへのおみくにみ)が栲幡皇女(たくはたのひめみこ)と湯人(ゆえ)の廬城部連武彦(いおきべのむらじたけひこ)を譖って言いました。「武彦が皇女と交わって身ごもらせました」
武彦の父の枳■喩(きつゆ)はこの流れる言葉を聞いて、禍が身に及ぶことを恐れ、武彦を廬城河に誘い率い、偽って鵜を使って水に沒らせて魚を捕らせ、その思いがけない隙に打ち殺しました。
天皇はこれを聞いて使者を遣わし、皇女を案べ問わせました。皇女は答えて言いました。「私は知りません」
やがて皇女は神しい鏡を持って、五十鈴河(いすずがわ)の上に詣り、人が通らないのをうかがって、鏡を埋めて経れて死にました。
天皇は皇女がいないことを疑い、常に人を使って闇い夜に東西に求め覓させました。すると河の上に虹が蛇のように四、五丈に見えました。虹の起こったところを掘って、神しい鏡を獲ました。移り行くこともまだ遠くないところで、皇女の屍を得ました。
割いて観ると、腹の中に水のようなものがあり、水の中に石がありました。枳■喩はこれによって子の罪を雪ぐことができました。かえって子を殺したことを悔い、報いとして國見を殺し、石上神宮に逃げ匿れました。
夾注 2
更名磯特牛。
別の名は磯特牛(いそのことい)です。
湯人。此云臾衞。
湯人は、臾衞(ゆえ)と読みます。
12一事主神
春二月。天皇射獵於葛城山。忽見長人。來望丹谷。面貌容儀相似天皇。天皇知是神、猶故問曰。何處公也。長人對曰。現人之神。先稱王諱。然後應■。天皇答曰。朕是幼武尊也。長人次稱曰。僕是一事主神也。遂與盤于遊田。駈逐一鹿。相辭發箭。並轡馳騁。言詞恭恪。有若逢仙。於是日晩田罷。神侍送天皇。至來目水。是時百姓咸言。有徳天皇也。
春二月、天皇は葛城山で射獵りをしました。忽ち長い人を見ました。丹の谷を望みながら来るのですが、面貌も容儀も天皇と相似ていました。
天皇はこれが神であると知りながら、なお故意に問いました。「どこの公か」
長い人は答えて言いました。「現人の神である。先に王の諱を称えよ。その後に応えよう」
天皇は答えて言いました。「朕は幼武尊(わかたけのみこと)である」
長い人は次いで称えて言いました。「僕は一事主神(ひとことぬしのかみ)である」
ついにともに遊びの田(かり)で盤しみ、一頭の鹿を駈り逐い、相たがいに辞って箭を発ち、轡を並べて馳せ騁せました。言葉は恭しく恪しく、仙に逢ったようでした。
そこで日が晩れて田を罷め、神は天皇を侍り送って、來目(くめ)の水まで至りました。このとき百姓は皆言いました。「徳のある天皇である」
13吉野宮に幸する
秋八月辛卯朔戊申。行幸吉野宮。
秋八月辛卯の朔の戊申の日、吉野宮に行幸しました。
14蜻蛉を讃えて歌う
庚戌。幸于河上小野。命虞人駈獸。欲躬射而待。虻疾飛來■天皇臂。於是蜻蛉忽然飛來。囓虻將去。天皇嘉厥有心。詔羣臣曰。爲朕讃蜻蛉歌賦之。群臣莫能敢賦者。天皇乃口號曰。野磨等能。嗚武羅能陀該爾之之符須登。■例柯擧能居登。飫褒磨陛爾麻嗚須。飫褒枳瀰簸。賊據嗚枳舸斯題。■磨磨枳能。阿娯羅爾陀陀伺。施都魔枳能。阿娯羅爾陀陀伺。斯斯魔都登。倭我伊麻西麼。佐謂麻都登。倭我陀陀西麼。陀倶符羅爾。阿武柯枳都枳都。曾能阿武嗚。婀枳豆波野倶譬。波賦武志謀。飫褒枳瀰爾磨都羅符。儺我柯陀播於柯武。婀岐豆斯麻野麻登。因讃蜻蛉。名此地爲蜻蛉野。
庚戌の日、河上の小野に幸しました。虞人に命じて獸を駈らせ、自ら射ようとして待ちました。虻が疾く飛んで来て、天皇の臂を囓みました。そこで蜻蛉(あきつ)が忽然と飛んで来て、虻を囓んで去りました。
天皇はそれに心のあることを嘉して、群臣に詔しました。「朕のために蜻蛉を讃える歌を賦めよ」
群臣のうちに、敢えて賦める者はありませんでした。天皇はそこで口ずさんで言いました。
「野磨等能 嗚武羅能陀該爾之之符須登 ■例柯擧能居登 飫褒磨陛爾麻嗚須 飫褒枳瀰簸 賊據嗚枳舸斯題 ■磨磨枳能 阿娯羅爾陀陀伺 施都魔枳能 阿娯羅爾陀陀伺 斯斯魔都登 倭我伊麻西麼 佐謂麻都登 倭我陀陀西麼 陀倶符羅爾 阿武柯枳都枳都 曾能阿武嗚 婀枳豆波野倶譬 波賦武志謀 飫褒枳瀰爾磨都羅符 儺我柯陀播於柯武 婀岐豆斯麻野麻登(やまとの をむらのたけにししふすと たれかこのこと おほまへにまをす おほきみは そこをきかして たままきの あぐらにたたし しづまきの あぐらにたたし ししまつと わがいませば さゐまつと わがたたせば たくぶらに あむかきつきつ そのあむを あきづはやくひ はふむしも おほきみにまつらふ ながかたはをかむ あきづしまやまと)」
— 音を写したものなので、意味には訳しません。
蜻蛉を讃えたことによって、この地を蜻蛉野(あきつの)と名づけました。
夾注 3
一本。以飫褒磨陛爾麻鳴須。易飫褒枳彌爾麻嗚須。
ある本では、飫褒磨陛爾麻嗚須を飫褒枳彌爾麻嗚須に替えています。
一本。以陀陀伺。易伊麻伺。
ある本では、陀陀伺を伊麻伺に替えています。
一本。以婆賦武志謀以下易舸矩能御等。難爾於婆武登。蘇羅濔瀰豆。野磨等能矩爾嗚。婀岐豆斯麻登以符。
ある本では、波賦武志謀より下を、舸矩能御等 難爾於婆武登 蘇羅濔瀰豆 野磨等能矩爾嗚 婀岐豆斯麻登以符に替えています。
15舍人を生かす
春二月。天皇狡獵于葛城山。靈鳥忽來。其大如雀。尾長曳地。而且嗚曰努力努力。俄而見逐嗔猪從草中暴出逐人。獵徒縁樹大懼。天皇詔舍人曰。猛獸逢人則止。宜逆射而且刺。舍人性懦弱。縁樹失色。五情無主。嗔猪直來欲噬天皇。天皇用弓刺止。擧脚踏殺。於是田罷欲斬舍人。舍人臨刑而作歌曰。野須瀰斯志。倭我飫褒枳瀰能。阿蘇麼斯志。斯斯能宇■枳。舸斯固瀰。倭我尼■能褒利志。阿理嗚能宇倍能。婆利我曳陀阿西嗚。皇后聞悲。興感止之。詔曰。皇后不與天皇而顧舍人。對曰。國人皆謂。陛下安野而好獸。無乃不可乎。今陛下以嗔猪故而斬舍人。陛下譬無異於豺狼也。天皇乃與皇后上車歸。呼萬歳曰。樂哉。人皆獵禽獸。朕獵得善言而歸。
春二月、天皇は葛城山で獵りをしました。靈しい鳥が忽ち来ました。その大きさは雀ほどで、尾が長く地を曳いていました。そのうえ嗚いて言いました。「努めよ、努めよ」
やがて逐われた嗔った猪が草の中から暴しく出て、人を逐いました。獵りの徒は樹に縁って大いに懼れました。
天皇は舍人に詔しました。「猛い獸も人に逢えば止まる。逆らい射て、そのうえ刺せ」
舍人は性が懦く弱く、樹に縁って色を失い、五つの情も主を無くしました。
嗔った猪は直ちに来て天皇を噬もうとしました。天皇は弓を用いて刺し止め、脚を挙げて踏み殺しました。
そこで田を罷めて舍人を斬ろうとしました。舍人は刑に臨んで歌を作って言いました。
「野須瀰斯志 倭我飫褒枳瀰能 阿蘇麼斯志 斯斯能宇■枳 舸斯固瀰 倭我尼■能褒利志 阿理嗚能宇倍能 婆利我曳陀阿西嗚(やすみしし わがおほきみの あそばしし ししのうたき かしこみ わがにげのぼりし ありをのうへの はりがえだあせを)」
— 音を写したものなので、意味には訳しません。
皇后はこれを聞いて悲しみ、感じるところが興って、これを止めさせました。
天皇は詔しました。「皇后は天皇に与せずに、かえって舍人を顧みるのか」
答えました。「国の人は皆、陛下は野を安んじて獸を好まれると申します。よくないことではありませんか。いま陛下が嗔った猪のために舍人を斬られるなら、陛下は譬えれば豺や狼と異なるところがありません」
天皇はそこで皇后とともに車に上って帰り、万歳を呼んで言いました。「楽しいことだ。人は皆、禽獸を獵るが、朕は善い言葉を獵って帰るのだ」
16蓋鹵王が弟の昆支を遣わす
夏四月。百濟加須利君飛聞池津媛之所燔殺而籌議曰。昔貢女人爲釆女。而既無禮。失我國名。自今以後不合貢女。乃告其弟軍君曰。汝宜往日本以事天皇。軍君對曰。上君之命不可奉違。願賜君婦而後奉遺。加須利君則以孕婦。既嫁與軍君曰。我之孕婦既當産月。若於路産。冀載一船。隨至何處速令送國。遂與辭訣奉遣於朝。
夏四月、百済の加須利君は、池津媛が燔き殺されたことを飛び聞いて、籌り議って言いました。「昔、女人を貢って釆女とさせたが、すでに礼がなく、我が国の名を失った。今より後は女を貢らないのがよい」
そこでその弟の軍君に告げました。「お前は日本に往って天皇にお仕えせよ」
軍君は答えて言いました。「上の君の命に奉り違うことはできません。願わくは君の婦を賜った後に、遣わし奉られますように」
加須利君はそこで孕んだ婦をすでに軍君に嫁がせて言いました。「私の孕んだ婦は、すでに産む月に当たっている。もし路で産んだら、どうか一つの船に載せて、どこに至っていても速やかに国へ送らせよ」
ついに辞し訣れて、朝に遣わし奉りました。
夾注 3
盖鹵王也。
蓋鹵王です。
適稽女郎也。
適稽女郎です。
崑攴君也
崑攴君です。
17武寧王が生まれる
六月丙戌朔。孕婦果如加須利君言。於筑紫各羅嶋産兒。仍名此兒曰嶋君。於是軍君即以一船送嶋君於國。是爲武寧王。百濟人呼此嶋曰主嶋也。
六月丙戌の朔の日、孕んだ婦は果たして加須利君の言葉のとおり、筑紫の各羅嶋(かからのしま)で児を産みました。そこでこの児を名づけて嶋君といいました。
そこで軍君はすぐに一つの船で嶋君を国に送りました。これが武寧王です。百済の人はこの嶋を主嶋といいます。
18昆支が京に入る
秋七月。軍君入京。既而有五子。
秋七月、軍君が京に入りました。やがて五人の子がありました。
夾注 1
百濟新撰云。辛丑年盖鹵王遣王遣弟昆攴君。向大倭侍天皇。以脩先王之好也。
百済新撰にいうには、辛丑の年、蓋鹵王が弟の昆攴君を遣わして大倭に向かわせ、天皇にお仕えさせて、先の王の代の好みを脩めたとあります。
19泊瀬の小野を讃える
春二月壬子朔乙卯。天皇遊乎泊瀬小野。觀山野之體勢。慨然興感歌曰。擧暮利矩能。播都制能野磨播。伊底■智能。與慮斯企野磨。和斯里底能。與盧斯企夜磨能。據暮利矩能。播都制能夜麻播。阿野爾于羅虞波斯。阿野爾于羅虞波斯。於是名小野曰道小野。
春二月壬子の朔の乙卯の日、天皇は泊瀬の小野に遊び、山野の体の勢いを観ました。慨然として感じるところが興って歌って言いました。
「擧暮利矩能 播都制能野磨播 伊底■智能 與慮斯企野磨 和斯里底能 與盧斯企夜磨能 據暮利矩能 播都制能夜麻播 阿野爾于羅虞波斯 阿野爾于羅虞波斯(こもりくの はつせのやまは いでたちの よろしきやま わしりでの よろしきやまの こもりくの はつせのやまは あやにうらぐはし あやにうらぐはし)」
— 音を写したものなので、意味には訳しません。
そこで小野を道小野(みちのおの)と名づけました。
20少子部連■■が嬰児を集める
三月辛巳朔丁亥。天皇欲使后妃親桑以勸蠶事。爰命■■聚國内蠶。於是■■誤聚嬰兒奉獻天皇。天皇大咲。賜嬰兒於■■曰。汝宜自養。■■即養嬰兒於宮墻下。仍賜姓爲少子部連。
三月辛巳の朔の丁亥の日、天皇は后妃に自ら桑を取らせて、蠶(かいこ)を飼う事を勧めようとしました。そこで須我屡(すがる)に命じて、国内の蠶を聚めさせました。
そこで須我屡は誤って嬰児を聚め、天皇に奉り献じました。天皇は大いに咲い、嬰児を須我屡に賜って言いました。「お前が自ら養うのがよい」
須我屡はすぐに嬰児を宮の墻の下で養いました。そこで姓を賜って少子部連(ちいさこべのむらじ)としました。
夾注 1
□□。人名也。此云須我屡。
■■は人の名です。須我屡(すがる)と読みます。
21呉国が使いを遣わす
夏四月。呉國遣使貢獻。
夏四月、呉国が使いを遣わして貢り献じました。
22三諸岳の大蛇
秋七月甲戌朔丙子。天皇詔少子部連■■曰。朕欲見三諸岳神之形。汝膂力過人。自行捉來。■■答曰。試往捉之。乃登三諸岳。捉取大蛇奉示天皇。天皇不齋戒。其雷■■。目精赫赫。天皇畏。蔽目不見却入殿中。使放於岳。仍改賜名爲雷。
秋七月甲戌の朔の丙子の日、天皇は少子部連■■(すがる)に詔しました。「朕は三諸岳(みもろのたけ)の神の形を見たい。お前は膂力が人に過ぎている。自ら行って捉えて来よ」
須我屡は答えて言いました。「試しに往って捉えてみましょう」
そこで三諸岳に登り、大蛇を捉え取って天皇に奉り示しました。天皇は斎戒していなかったので、その雷が鳴り轟き、目の精が赫赫と光りました。天皇は畏れ、目を蔽って見ず、却いて殿の中に入りました。岳に放させ、そこで名を改め賜って雷(いかずち)としました。
夾注 1
或云。此山之神爲大物代主神也。或云。菟田墨坂神也。
ある人はこの山の神を大物代主神(おおものしろぬしのかみ)といい、ある人は菟田の墨坂(すみさか)の神といいます。
23前津屋を誅する
八月。官者吉備弓削部虚空取急歸家。吉備下道臣前津屋留使虚空。經月不肯聽上京都。天皇遣身毛君丈夫召焉。虚空被召來言。前津屋以小女爲天皇人。以大女爲己人。競令相闘。見幼女勝。即刀而殺。復以小雄鷄呼爲天皇鷄。拔毛剪翼。以大雄鷄呼爲己鷄。著鈴金距。競令闘之。見禿鷄勝。亦拔刀而殺。天皇聞是語。遣物部兵士卅人。誅殺前津屋并族七十人。
八月、官人の吉備弓削部虚空(きびのゆげべのおおぞら)が急いで家に帰ろうとしました。吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみまえつや)は虚空を留めて使い、月を経ても京都に上ることを聽き入れませんでした。
天皇は身毛君丈夫(むげのきみますらお)を遣わして召しました。虚空は召しを被って来て言いました。
「前津屋は、小さい女の子を天皇の人とし、大きい女の子を自分の人として、競って相闘わせました。幼い女が勝つのを見ると、すぐに刀で殺しました。また小さい雄の鷄を天皇の鷄と呼んで毛を抜き翼を剪り、大きい雄の鷄を自分の鷄と呼んで鈴を著け金の距(けづめ)を着けて、競って闘わせました。禿げた鷄が勝つのを見ると、また刀を抜いて殺しました」
天皇はこの語を聞いて、物部の兵士三十人を遣わして、前津屋とあわせて族七十人を誅し殺しました。
夾注 1
或本云。國造吉備臣山。
ある本には、國造の吉備臣山(きびのおみやま)といいます。
24田狹を任那国司とする
是歳。吉備上道臣田狹侍於殿側。盛稱稚媛於朋友曰。天下麗人莫若吾婦。茂矣綽矣。諸好備矣。曄矣温矣。種相足矣。鉛花弗御。蘭澤無加。曠世罕儔。當時獨秀者也。天皇傾耳。遥聽而心悦焉。便欲自求稚媛爲女御。拜田狹爲任那國司。俄而天皇幸稚媛。田狹臣娶稚媛而生兄君。弟君也。田狹既之任所聞天皇之幸其婦。思欲求援而入新羅。于時。新羅不事中國。天皇詔田狹臣子弟君與吉備海部直赤尾曰。汝宜往罸新羅。於是。西漢才伎歡因知利在側。乃進而奏曰。巧於奴者多在韓國。可召而使。天皇詔群臣曰。然則宜以歡因知利副弟君等。取道於百濟。并下勅書。令獻巧者。於是。弟君銜命。率衆行到百濟而入其國。國神化爲老女。忽然逢路。弟君就訪國之遠近。老女報言。復行一日而後可到。
この歳、吉備上道臣田狹(きびのかみつみちのおみたさ)が殿の側に侍っていました。朋友に稚媛を盛んに称えて言いました。「天下の麗しい人で、我が婦に及ぶ者はない。茂やかで綽やかで、諸々の好いところが備わっている。曄やかで温やかで、種々の相が足りている。鉛の花(おしろい)を御いず、蘭の澤(かおりあぶら)を加えずとも、曠き世に儔が罕く、当時に独り秀でた者である」
天皇は耳を傾け、遥かに聽いて心に悦びました。そこで自ら稚媛を求めて女御にしようとして、田狹を任那國司に拜しました。
やがて天皇は稚媛に幸しました。田狹臣は稚媛を娶って兄君(えきみ)、弟君(おときみ)を生んでいました。
田狹はすでに任ずる所に行ってから、天皇が自分の婦に幸したことを聞き、援けを求めようと思って新羅に入ろうとしました。このとき新羅は中国に事えていませんでした。
天皇は田狹臣の子の弟君と、吉備海部直赤尾(きびのあまべのあたいあかお)に詔しました。「お前たちは往って新羅を罸つのがよい」
そこで西漢(かわちのあや)の才伎(てひと)、歡因知利が側にいて、進んで奏して言いました。「私より巧みな者が韓国に多くおります。召して使うことができます」
天皇は群臣に詔しました。「それならば、歡因知利を弟君たちに副えて、百済に道を取らせ、あわせて勅書を下して、巧みな者を献じさせよ」
そこで弟君は命を銜んで、衆を率いて行き、百済に到ってその国に入りました。国の神が老いた女に化けて、忽然と路で逢いました。弟君は就いて国の遠近を訪ねました。老いた女は報えて言いました。「さらに一日行って、その後に到れるだろう」
夾注 2
別本云。田狹臣婦名毛媛者。葛城襲津彦子。玉田宿禰之女也。天皇聞體貌閑麗。殺夫自幸焉。
別の本にいうには、田狹臣の婦の名を毛媛(けひめ)といい、葛城襲津彦の子である玉田宿禰の娘です。天皇は体も貌も閑やかで麗しいと聞いて、夫を殺して自ら幸したとあります。
底本は中国としています — 日本書紀が自らを指す言葉です。― 訳者
25百済の才伎を移す
弟君自思路遠不伐而還。集聚百濟所貢今來才伎於大嶋中。託稱候風。淹留數月。任那國司田狹臣乃喜弟君不伐而還。密使人於百濟。戒弟君曰。汝之領項有何■錮。而伐人乎。傳聞。天皇幸吾婦遂有兒息。今恐。禍及於身可■足待。吾兒汝者。跨據百濟。勿使通於日本。吾者據有任那。亦勿通於日本。弟君之婦樟媛。國家情深。君臣義切。忠踰白日。節冠青松。惡斯謀叛盜殺其夫。隱埋室内。乃與海部直赤尾將百濟所獻手末才伎在於大嶋。天皇聞弟君不在。遣日鷹吉士堅磐固安錢。使共復命。遂即安置於倭國吾砺廣津邑。而病死者衆。由是、天皇詔大伴大連室屋。命東漢直掬。以新漢陶部高貴。鞍部堅貴。畫部因斯羅我。錦部定安那錦。譯語卯安那等遷居于上桃原■。下桃原。眞神原三所。
弟君は自ら路が遠いと思って、伐たずに還りました。百済が貢った今來(いまき)の才伎を大嶋の中に集め聚め、風を候つと託け称して、数か月のあいだ淹く留まりました。
任那國司の田狹臣は、弟君が伐たずに還ったことを喜んで、密かに人を百済に遣わし、弟君を戒めて言いました。
「お前の領や項に、どんな堅いものがあって人を伐つのか。伝え聞くところでは、天皇が我が婦に幸して、ついに子まであるという。いま、禍が身に及ぶことが、足を跂てて待つほどに近いと恐れる。我が子のお前は、百済に跨り据わって、日本に通わせるな。私は任那に据わり有って、やはり日本に通わない」
弟君の婦の樟媛(くすひめ)は、国家を思う情が深く、君臣の義が切でした。忠は白い日を踰え、節は青い松に冠たるものでした。この謀叛を悪んで、竊かにその夫を殺し、室の内に隱し埋めました。
そこで海部直赤尾とともに、百済が献じた手末(たなすえ)の才伎を率いて大嶋にいました。
天皇は弟君がいないことを聞いて、日鷹吉士堅磐固安錢(ひたかのきしかたしわこあんせん)を遣わして、ともに命を復させました。
ついに倭国の吾砺(あと)の廣津(ひろきつ)の邑に安置しましたが、病んで死ぬ者が多くありました。
これによって天皇は大伴大連室屋に詔し、東漢直掬(やまとのあやのあたいつか)に命じて、新漢(いまきのあや)の陶部高貴、鞍部堅貴、畫部因斯羅我、錦部定安那錦、譯語卯安那たちを、上桃原(かみつももはら)、下桃原(しもつももはら)、眞神原(まがみのはら)の三か所に遷し居らせました。
夾注 5
兒息已見上文
子はすでに上の文に見えます。
堅磐。此云柯陀之波。
堅磐は、柯陀之波(かたしわ)と読みます。
廣津。此云比盧岐頭。
廣津は、比盧岐頭(ひろきつ)と読みます。
或本云。吉備臣弟君還自百濟。獻漢手人部。衣縫部。宍人部。
ある本には、吉備臣弟君が百済から還って、漢手人部(あやのてひとべ)、衣縫部(きぬぬいべ)、宍人部を献じたといいます。
「堅磐と固安錢」を一人の名、堅磐固安錢(かたしわこあんせん)と読む流れもあります。― 訳者
26高麗が新羅を守る
春二月。遣身狹村主青。桧隈民使博徳使於呉國。自天皇即位至于是歳。新羅國背誕。苞苴不入。於今八年。而大懼中國之心。脩好於高麗。由是高麗王遣精兵一百人。守新羅。有頃高麗軍士一人取假歸國。時以新羅人爲典馬。而顧謂之曰。汝國爲吾國所破非久矣。其典馬聞之。陽患其腹。退而在後。遂逃入國説其所語。於是新羅王乃知高麗僞守。遣使馳告國人曰。人殺家内所養鷄之雄者。國人知意。盡殺國内所有高麗人。惟有遣高麗一人。乘間得脱逃入其國。皆具爲説之。高麗王即發軍兵。屯聚筑足流城。遂歌■興樂。於是。新羅王夜聞高麗軍四面歌■。知賊盡入新羅地。乃使人於任那王曰。高麗王征伐我國。當此之時若綴旒。然國之危殆過於累卵。命之脩短大所不計。伏請救於日本府行軍元帥等。
春二月、身狹村主青と桧隈民使博徳を呉国に使いとして遣わしました。
天皇が位に即いてからこの歳に至るまで、新羅国が背き誕り、苞苴(みつき)を入れないことが、いまや八年になりました。そのうえ中国の心を大いに懼れて、高麗と好みを脩めました。
これによって高麗の王は精兵一百人を遣わして、新羅を守らせました。
しばらくして高麗の軍士一人が、暇を取って自分の国に帰りました。そのとき新羅の人を典馬(うまかい)としていましたが、顧みて言いました。「お前の国が我が国に破られることは、久しくないぞ」
その典馬はこれを聞いて、偽ってその腹を患い、退いて後ろにいました。ついに逃げて国に入り、その語られたことを説きました。
そこで新羅の王は、高麗が偽って守っていることを知り、使いを遣わして国の人に馳せ告げさせて言いました。「人々よ、家の内で養っている鷄の雄を殺せ」
国の人は意を知って、国内にいる高麗の人をことごとく殺しました。ただ残った高麗の人一人が、隙に乗じて脱れ、自分の国に逃げ入って、皆を具に説きました。
高麗の王はすぐに軍兵を発して、筑足流城に屯し聚まりました。ついに歌い舞って楽しみました。
そこで新羅の王は、夜に高麗の軍が四面で歌い舞うのを聞いて、賊が新羅の地にことごとく入ったことを知りました。そこで人を任那の王に遣わして言いました。
「高麗の王が我が国を征伐しており、このときに当たって、綴られた旒のようなものです。国の危さは累ねた卵よりも過ぎ、命の長短は計るべきところではありません。伏して日本府の行軍元帥たちに救いを請います」
夾注 4
典馬。此云于麻柯毘。
典馬は、于麻柯毘(うまかひ)と読みます。
一本云。汝國果成吾士非久矣。
ある本にいうには、「お前の国が果たして我が土になることは久しくない」とあります。
或本云。都久斯岐城。
ある本には、都久斯岐城(つくしきのさし)といいます。
底本は中国としています — 日本書紀が自らを指す言葉です。― 訳者
27二国の怨みが生まれる
由是任那王勸膳臣斑鳩。吉備臣小梨。難波吉士赤目子。徃救新羅。膳臣等未至營止。高麗諸將未與膳臣等相戰皆怖。膳臣等乃自力勞軍。令軍中促爲攻具急進攻之。與高麗相守十餘日。乃夜鑿險爲地道。悉過輜車設奇兵。會明、高麗謂。膳臣等爲遁也。悉軍來追。乃縱奇兵。歩騎夾攻。大破之。二國之怨自此而生。膳臣等謂新羅曰。汝以至弱當至強。官軍不救。必爲所乘。將成人地殆於此役。自今以後。豈背天朝也。
これによって任那の王は、膳臣斑鳩(かしわでのおみいかるが)、吉備臣小梨(きびのおみおなし)、難波吉士赤目子(なにわのきしあかめこ)に勧めて、新羅を救いに往かせました。
膳臣たちがまだ営に至って止まらないうちに、高麗の諸将は、まだ膳臣たちと相戦ってもいないのに、皆怖れました。
膳臣たちはそこで自ら力めて軍を労い、軍中に命じて促して攻めの具を作らせ、急いで進んで攻めました。高麗と相守って十余日になりました。
そこで夜に険しいところを鑿って地の道を作り、輜車をことごとく過ごして、奇しき兵を設けました。
明けるころ、高麗は膳臣たちが遁れたのだと思って、軍をことごとく出して追って来ました。そこで奇しき兵を縱ち、歩と騎で夾み攻めて、大いに破りました。二国の怨みはこれより生まれました。
膳臣たちは新羅に言いました。「お前たちは至って弱いもので至って強いものに当たった。官軍が救わなければ、必ず乗じられて、人の地となるところであった。この役で危ういところだった。今より後、どうして天朝に背くことがあろうか」
夾注 2
斑鳩。此云伊柯屡餓。
斑鳩は、伊柯屡餓(いかるが)と読みます。
言二國者。高麗新羅也。
二国というのは、高麗と新羅です。
28香賜を斬る
春二月甲子朔。遣凡河内直香賜與采女。祠胸方神。香賜與采女既至壇所。及將行事。奸其采女。天皇聞之曰。詞神祈福可不愼歟。乃遣難波日鷹吉士將誅之。時香賜即逃亡不在。天皇復遣弓削連豐穗。普求國郡縣。遂於三嶋郡藍原。執而斬焉。
春二月甲子の朔の日、凡河内直香賜(おしこうちのあたいかたぶ)と釆女を遣わして、胸方(むなかた)の神を祠らせました。
香賜と釆女がすでに壇の所に至り、事を行おうとするとき、その釆女を奸しました。
天皇はこれを聞いて言いました。「神を詞って福を祈るのに、慎まないでよいものか」
そこで難波日鷹吉士を遣わして誅させようとしました。そのとき香賜はすぐに逃げ亡せて、いませんでした。天皇は改めて弓削連豐穗(ゆげのむらじとよほ)を遣わして、国・郡・県を普く求めさせました。ついに三嶋郡の藍原(あいはら)で執らえて斬りました。
夾注 1
香賜。此云舸□夫。
香賜は、舸■夫(かたぶ)と読みます。
29新羅を伐てと命じる
三月。天皇欲親伐新羅。神戒天皇曰。無往也。天皇由是不果行。乃勅紀小弓宿禰。蘇我韓子宿禰。大伴談連。小鹿火宿禰等曰。新羅自居西土。累葉稱臣。朝聘無違。貢職允濟。逮乎朕之王天下。投身對馬之外。竄跡匝羅之表。阻高麗之貢。呑百濟之城。况復朝聘闕。貢職莫脩。狼子野心。飽飛飢附。以汝四卿。拜爲大將。宜以王師薄伐天罸襲行。於是。紀小弓宿禰使大伴室屋大連。憂陳於天皇曰。臣雖拙弱敬奉勅矣。但今臣婦命過之際。莫能視養臣者。公冀將此事具陳天皇。於是。大伴室屋大連具爲陳之。天皇聞悲頽歎。以吉備上道采女大海。賜於紀小弓宿禰。爲隨身視養。遂推轂以遣焉。紀小弓宿禰等即入新羅。行屠傍郡。新羅王夜聞官軍四面鼓聲。知盡得喙地。與數百騎馬軍亂走。是以大敗。小弓宿禰追斬敵將陣中。喙地悉定。遣衆不下。紀小弓宿禰亦收兵。
三月、天皇は自ら新羅を伐とうとしました。神が天皇を戒めて言いました。「往くな」天皇はこれによって行くことを果たしませんでした。
そこで紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)、蘇我韓子宿禰(そがのからこのすくね)、大伴談連(おおとものかたりのむらじ)、小鹿火宿禰(おかひのすくね)たちに勅しました。
「新羅は西の土に居ながら、累ねた葉のように臣と称し、朝聘に違うことなく、貢ぐ職をよく済してきた。朕が天下に王となるに及んで、身を対馬の外に投げ、跡を匝羅の表に竄した。高麗の貢を阻み、百済の城を呑んだ。まして、そのうえ朝聘を闕き、貢ぐ職を脩めない。狼の子は野の心を持ち、飽けば飛び去り、飢えれば附く。お前たち四卿を大将に拜すから、王の師をもって薄く伐ち、天の罸を襲い行うのがよい」
そこで紀小弓宿禰は、大伴室屋大連を通して、憂いを天皇に陳べて言いました。「臣は拙く弱いとはいえ、敬んで勅を奉ります。ただ、いま臣の婦が命を過ぎた際で、臣を視て養える者がありません。公よ、どうかこの事を具に天皇に陳べてください」
そこで大伴室屋大連が具にこれを陳べました。天皇は聞いて悲しみ、頽れるように歎いて、吉備上道の釆女、大海(おしあま)を紀小弓宿禰に賜って、身に随って視て養わせました。ついに轂を推して遣わしました。
紀小弓宿禰たちはすぐに新羅に入り、傍らの郡を屠りながら行きました。
新羅の王は、夜に官軍が四面で鼓を打つ声を聞き、喙(とく)の地をことごとく得られたと知って、数百騎の馬の軍とともに乱れ走りました。このため大いに敗れました。
小弓宿禰は追って敵の将を陣の中で斬りました。喙の地はことごとく定まりましたが、残った衆が降りませんでした。紀小弓宿禰もまた兵を収めて、
夾注 3
談。此云箇陀利。
談は、箇陀利(かたり)と読みます。
行屠。並行並撃。
行屠とは、行きながら撃つことです。
原文は推轂です — 君が将を遣り出すときに、自らその車を推してやった古い礼です。― 訳者
30大伴談連が死ぬ
與大伴談連等會。兵復大振。與遣衆戰。是夕大伴談連及紀崗前來目連皆力而死。談連從人同姓津麻呂。後入軍中尋覓其主。從軍覓出問曰。吾主大伴公何處在也。人告之曰。汝主等果爲敵手所殺。指示屍處。津麻呂聞之踏叱曰。主既已陷。何用獨全。因復赴敵。同時殞命。有頃遣衆自退。官軍亦随而却。大將軍紀小弓宿禰値病而薨。
大伴談連たちと会いました。兵は再び大いに振るいました。残った衆と戦いました。
この夕べ、大伴談連と紀崗前來目連(きのおかさきのくめのむらじ)は、皆力を尽くして死にました。
談連の従者で同じ姓の津麻呂(つまろ)が、後に軍の中に入ってその主を尋ね覓めました。軍に従って覓め出て問いました。「我が主の大伴公はどこにおられるか」
人が告げて言いました。「お前の主たちは、果たして敵の手に殺された」そして屍のある所を指し示しました。
津麻呂はこれを聞いて足を踏み叱って言いました。「主がすでに陥ったのに、どうして独り全くしていられようか」そこで再び敵に赴き、同じときに命を殞としました。
しばらくして残った衆は自ら退きました。官軍もまた随って却きました。大将軍の紀小弓宿禰は病にあって薨じました。
31三人の臣が相争う
夏五月。紀大磐宿禰聞父既薨。乃向新羅。執小鹿火宿禰所掌兵馬船官及諸小官。専用威命。於是。小鹿火宿禰深怨乎大磐宿禰。乃詐告於韓子宿禰曰。大磐宿禰謂僕曰。我當復執韓子宿禰所掌之官不久也。願固守之。由是。韓子宿禰與大磐宿禰有隙。於是百濟王聞日本諸將縁小事有隙。乃使人於韓子宿禰等曰。欲觀國堺。請垂降臨。是以韓子宿禰等並轡而往。及至於河。大磐宿禰飮馬於河。是時韓子宿禰從後而射大磐宿禰鞍瓦■後橋。大磐宿禰愕然反視。射堕韓子宿禰於中流而死。是三臣由前相競。行亂於道。不及百濟王宮而却還矣。於是。采女大海從小弓宿禰喪來到日本。遂憂諮於大伴室屋大連曰。妾不知葬所。願占良地。大連即爲奏之。天皇勅大連曰。大將軍紀小弓宿禰龍驤虎視。旁眺八維。掩討逆節。折衝四海。然則身勞萬里。命墜三韓。宜致哀矜。死視葬者。
夏五月、紀大磐宿禰(きのおいわのすくね)は父がすでに薨じたことを聞いて、そこで新羅に向かい、小鹿火宿禰が掌っていた兵馬・船・官および諸々の小さな官を執って、専ら威と命を用いました。
そこで小鹿火宿禰は大磐宿禰を深く怨みました。そこで詐って韓子宿禰に告げて言いました。「大磐宿禰が私に言いました。『私はまさに韓子宿禰が掌っている官も執るだろう。それは久しくない』と。願わくは固く守られますように」
これによって韓子宿禰と大磐宿禰のあいだに隙が生じました。
そこで百済の王は、日本の諸将が小さな事で隙があることを聞いて、人を韓子宿禰たちに遣わして言いました。「国の堺を観たいので、どうか降り臨んでください」
このため韓子宿禰たちは轡を並べて往きました。河に至ると、大磐宿禰が河で馬に水を飲ませました。
このとき韓子宿禰が後ろから大磐宿禰を射て、鞍の瓦の後ろの橋に中てました。大磐宿禰は愕然として反り視て、射て韓子宿禰を流れの中に堕として死なせました。
この三人の臣は、前に相競ったことによって、道で乱れを行い、百済の王宮に及ばないまま却き還りました。
そこで釆女の大海は、小弓宿禰の喪に従って日本に来到りました。ついに憂えて大伴室屋大連に諮って言いました。「私は葬る所を知りません。願わくは良い地を占ってください」
大連はすぐにこれを奏しました。天皇は大連に勅して言いました。
「大将軍の紀小弓宿禰は、龍のように驤り虎のように視て、旁く八つの維を眺め、逆らう節を掩い討ち、四つの海で衝を折った。そうであるから、身は万里に労し、命は三韓に墜ちた。哀れみ矜れむのを致すべきであるから、死んだ者を葬ることを視よ。
32冢墓を作る
又汝大伴卿。與紀卿等。同國近隣之人。由來尚矣。於是大連奉勅。使土師連小鳥。作冢墓於田身輪邑而葬之也。由是大海欣悦不能自黙。以韓奴室。兄麻呂。弟麻呂。御倉。小倉。針六口送大連。吉備上道蚊嶋田邑家人部是也。別小鹿火宿禰從紀小弓宿禰喪來。時獨留角國。使倭子連奉八咫鏡於大伴大連。而祈請曰。僕不堪共紀卿奉事天朝故請留住角國。是以大連爲奏於天皇。使留居于角國。是角臣等初居角國。而名角臣。自此始也。
またお前、大伴卿は、紀卿たちと同じ国の近い隣の人であり、その由来は尚い」
そこで大連は勅を奉り、土師連小鳥(はじのむらじおどり)に、田身輪(たむわ)の邑に冢墓を作らせて葬りました。
これによって大海は欣び悦んで自ら黙っていられず、韓の奴の室(むろ)、兄麻呂(えまろ)、弟麻呂(おとまろ)、御倉(みくら)、小倉(おぐら)、針(はり)の六口を大連に送りました。吉備上道の蚊嶋田(かしまだ)の邑の家人部が、これです。
別に、小鹿火宿禰は紀小弓宿禰の喪に従って来ました。そのとき独り角国(つのくに)に留まり、倭子連(やまとこのむらじ)を使って八咫鏡(やたのかがみ)を大伴大連に奉り、祈り請って言いました。「私は紀卿とともに天朝に奉り事えることに堪えられません。だから角国に留まり住むことを請います」
そこで大連は天皇に奏して、角国に留まり居らせました。これが角臣(つののおみ)たちが初めて角国に居り、角臣と名づけた始まりです。
夾注 1
連未詳何姓人。
連は、どの姓の人か詳らかではありません。
33赤い駿馬が土の馬になる
秋七月壬辰朔。河内國言。飛鳥戸郡人田邊史伯孫女者。古市郡人書首加龍之妻也。伯孫聞女産兒。往賀聟家。而月夜還。於蓬■丘譽田陵下。逢騎赤駿者。其馬時■略而龍■。■聳擢■而鴻驚。異體■生。殊相逸發。伯孫就視而心欲之。乃鞭所乘■馬。齊頭並轡。爾乃赤駿超■絶於埃塵。驅■迅於滅沒。於是馬後而怠足。不可復追。其乘駿者知伯孫所欲。仍停換馬相辭取別。伯孫得駿甚歡。驟而入廐。解鞍秣馬眠之。其明旦赤駿變爲土馬。伯孫心異之。還覓譽田陵。乃見■馬在於土馬之間。取而代而置所換土馬也。
秋七月壬辰の朔の日、河内国が言いました。
「飛鳥戸郡(あすかべのこおり)の人、田邊史伯孫(たなべのふびとはくそん)の娘は、古市郡(ふるいちのこおり)の人、書首加龍(ふみのおびとかりょう)の妻です。伯孫は娘が児を産んだと聞いて、聟の家に賀びに往き、月の夜に還りました。蓬■丘(いちびこのおか)の譽田陵(ほむたのみささぎ)の下で、赤い駿馬に騎った者に逢いました。
その馬は、あるときは身を屈めて鴨のように行き、ふと龍のように聳え、首を擢き耳を立てると、鴻が驚いて飛ぶようでした。体が異なり、相が殊れて逸れ発っていました。
伯孫は就いて視て、心に欲しくなり、そこで乗っていた驪(くろ)の馬に鞭を打ち、頭を齊え轡を並べました。しかし赤い駿馬は超え躍って埃や塵を絶ち、驅けることは滅び沒するように迅かでした。そこで驪の馬は後れ、足が怠くなって、再び追うことができませんでした。
その駿馬に乗った者は、伯孫の欲するところを知って、そこで停まって馬を換え、相たがいに辞して別れを取りました。
伯孫は駿馬を得てはなはだ歓び、驟けて廐に入り、鞍を解き馬に秣をやって眠りました。その明けた旦、赤い駿馬は変わって土の馬になっていました。
伯孫は心に異しく思い、還って譽田陵を覓めると、そこに驪の馬が土の馬のあいだにありました。それを取って、代わりに換えた土の馬をその所に置きました」
夾注 1
蓬□。此云伊致寐姑。
蓬■は、伊致寐姑(いちびこ)と読みます。
34鵝を犬が囓み殺す
秋九月乙酉朔戊子。身狹村主青等將呉所獻二鵝到於筑紫。是鵝爲水間君犬所囓死。由是。水間君恐怖憂愁。不能自默。獻鴻十隻與養鳥人。請以贖罪。天皇許焉。
秋九月乙酉の朔の戊子の日、身狹村主青たちが、呉が献じた鵝(がちょう)二羽を率いて筑紫に到りました。この鵝は水間君(みずまのきみ)の犬に囓まれて死にました。
これによって水間君は恐れ怖れ憂え愁えて、自ら黙っていられませんでした。鴻(おおとり)十隻と鳥を養う人を献じて、罪を贖うことを請いました。天皇は許しました。
夾注 1
別本云。是鵝爲筑紫嶺縣主泥麻呂犬所囓死。
別の本にいうには、この鵝は筑紫の嶺縣主泥麻呂(みねのあがたぬしねまろ)の犬に囓まれて死んだとあります。
35鳥を養う人たちを置く
冬十月乙卯朔辛酉。以水間君所獻養鳥人等安置於輕村磐余村二所。
冬十月乙卯の朔の辛酉の日、水間君が献じた鳥を養う人たちを、輕(かる)の村と磐余の村の二か所に安置しました。
36白い鵜
夏五月辛亥朔。近江國栗太郡言。白■■居于谷上濱。因詔置川瀬舍人。
夏五月辛亥の朔の日、近江国の栗太郡(くりたのこおり)が言いました。「白い鵜が谷上(たにかみ)の濱にいます」これによって詔して川瀬舍人(かわせのとねり)を置きました。
37貴信
秋七月。有從百濟國逃化來者。自稱名曰貴信。又稱。貴信呉國人也。磐余呉琴彈■手屋形麻呂等。是其後也。
秋七月、百済国から逃げて化り来た者があって、自ら名を貴信と称しました。また、貴信は呉国の人であるともいいます。磐余の呉琴彈(くれのことひき)と大手屋形麻呂(おおてひとやかたまろ)たちが、その後です。
38鳥のために墨を入れる
冬十月。鳥官之禽。爲菟田人狗所囓死。天皇瞋。黥面而爲鳥養部。於是信濃國直丁與武藏國直丁侍宿。相謂曰。嗟乎。我國積鳥之高同於小墓。旦暮而食。尚有其餘。今天皇由一鳥之故而黥人面。太無道理。惡行之主也。天皇聞而使聚積之。直丁等不能忽備。仍詔爲鳥養部。
冬十月、鳥の官の禽が、菟田の人の狗に囓まれて死にました。天皇は瞋って、面に墨を入れて鳥養部(とりかいべ)としました。
そこで信濃国の直丁(よぼろ)と武藏国の直丁が、ともに侍り宿って、相たがいに言いました。「ああ。我が国では積んだ鳥の高さが小さな墓ほどもある。旦も暮も食べて、なお余りがある。いま天皇は一羽の鳥のために人の面に墨を入れる。はなはだ道理がない。悪い行いの主である」
天皇は聞いて、その鳥を聚め積ませました。直丁たちはたちまちに備えることができませんでした。そこで詔して鳥養部としました。
39呉に使いを遣わす
夏四月丙子朔己卯。身狹村主青與桧隈民使博徳出使于呉。
夏四月丙子の朔の己卯の日、身狹村主青と桧隈民使博徳が、呉に使いとして出ました。
40琴の声で悟らせる
冬十月癸酉朔壬午。天皇命木工鷄御田。始起樓閣。於是御田登樓。疾走四面。有若飛行。時有伊勢采女。仰觀樓上。恠彼疾行。顛仆於庭。覆所■饌。天皇便疑御田奸其采女。自念將刑而付物部。時秦酒公侍坐。欲以琴聲使悟於天皇。横琴彈曰。柯武柯噬能。伊制能。伊制能奴能。娑柯曳鳴。伊褒甫流柯枳底。志我都矩屡麻泥爾。飫褒枳濔爾。柯■倶都柯陪。麻都羅武騰。倭我伊能致謀。那我倶母鵝騰。伊比志■倶彌■夜。阿■羅陀倶彌■夜。於是天皇悟琴聲。而赦其罪。
冬十月癸酉の朔の壬午の日、天皇は木工の鷄御田(つげのみた)に命じて、初めて楼閣を起こさせました。
そこで御田は楼に登り、四面を疾く走ると、飛び行くようでした。そのとき伊勢の釆女が楼の上を仰ぎ観て、彼の疾く行くことを恠しみ、庭に顛れ仆れて、捧げていた饌を覆しました。
天皇はすぐに、御田がその釆女を奸したのだと疑い、自ら刑しようと念って物部に付けました。
そのとき秦酒公(はたのさけのきみ)が侍り坐っていて、琴の声で天皇に悟らせようとして、琴を横たえて弾いて言いました。
「柯武柯噬能 伊制能 伊制能奴能 娑柯曳鳴 伊褒甫流柯枳底 志我都矩屡麻泥爾 飫褒枳濔爾 柯■倶都柯陪 麻都羅武騰 倭我伊能致謀 那我倶母鵝騰 伊比志■倶彌■夜 阿■羅陀倶彌■夜(かむかぜの いせの いせののの さかえを いほふるかきて しがつくるまでに おほきみに かたくつかへ まつらむと わがいのちも ながくもがと いひしたくみはや あたらたくみはや)」
— 音を写したものなので、意味には訳しません。
そこで天皇は琴の声を悟って、その罪を赦しました。
夾注 2
一本云。猪名部御田。盖誤也。
ある本には猪名部御田(いなべのみた)といいますが、おそらく誤りでしょう。
饌者。御膳之物也。
饌とは、御膳に上るものです。
41齒田根命が罪を贖う
春三月。狹穗彦玄孫齒田根命竊奸采女山邊小嶋子。天皇聞以齒田根命。收於物部目大連而使責讓。齒田根命以馬八匹。大刀八口。秡除罪過。既而歌曰。耶麼能謎能。故思麼古唹衞爾。比登涅羅賦。宇麼能耶都擬播。鳴思稽矩那欺。目大連聞而奏之。天皇使鹵田根命資財露置於餌香市邊橘本之土。遂以餌香長野邑。賜物部目大連。
春三月、狹穗彦(さほひこ)の玄孫である齒田根命(はだねのみこと)が、竊かに釆女の山邊小嶋子(やまのべのおしまこ)と奸れました。天皇はこれを聞いて、齒田根命を物部目大連に収めさせ、責め讓めさせました。
齒田根命は馬八匹、大刀八口で罪と過ちを秡い除きました。やがて歌って言いました。
「耶麼能謎能 故思麼古唹衞爾 比登涅羅賦 宇麼能耶都擬播 鳴思稽矩那欺(やまのべの こしまこゆゑに ひとどらふ うまのやつぎは をしけくもなし)」
— 音を写したものなので、意味には訳しません。
目大連は聞いてこれを奏しました。天皇は齒田根命の資財を、餌香(えが)の市のほとりの橘の本の土に露わに置かせ、ついに餌香の長野の邑を物部目大連に賜りました。
42文石小麻呂を焼く
秋八月。播磨國御井隈人文石小麻呂有力強心。肆行暴虐。路中抄刧不使通行。又斷商客■■。悉以奪取。兼違國法。不輸租賦。於是。天皇遣春日小野臣大樹領敢死士一百。並持火炬。圍宅而燒。時自火炎中白狗暴出。逐大樹臣。其大如馬。大樹臣神色不變。拔刀斬之。即化爲文石小麻呂。
秋八月、播磨国の御井隈(みいのくま)の人、文石小麻呂(あやしのおまろ)は、力が強く心が強く、ほしいままに暴虐を行いました。路の中で抄い刧かして通り行かせず、また商人の船を断って、ことごとく奪い取りました。あわせて国の法に違い、租賦を輸しませんでした。
そこで天皇は春日小野臣大樹(かすがのおののおみおおき)を遣わして、敢えて死ぬ士一百人を領き、あわせて火の炬を持って、宅を囲んで焼かせました。
そのとき火の炎の中から白い狗が暴しく出て、大樹臣を逐いました。その大きさは馬ほどでした。大樹臣は神しい色を変えず、刀を抜いて斬りました。すると変わって文石小麻呂になりました。
43眞根を生かす
秋九月。木工猪名部眞根以石爲質揮斧■材。終日■之不誤傷刃。天皇遊詣其所。而恠問曰。■不誤中石耶。眞根答曰。竟不誤矣。乃喚集采女。使脱衣裙而著犢鼻露所相撲。於是。眞根暫停。仰視而■。不覺手誤傷刃。天皇因嘖讓曰。何處奴。不畏朕。用不貞心妄輙答。仍付物部使刑於野。爰有同伴巧者。歎惜眞根而作歌曰。婀■羅斯枳。偉儺謎能陀倶彌。柯該志須彌儺■。旨我那稽麼。■例柯柯該武預。婀■羅須彌儺■。天皇聞是歌反生悔惜。喟然頽歎曰。幾失人哉。乃以赦使乘於甲斐黒駒。馳詣刑所。止而赦之。用解徽纒。復作歌曰。農播■磨能。柯彼能矩盧古磨。矩羅枳制播。伊能致志儺磨志。柯彼能倶盧古磨。
秋九月、木工の猪名部眞根(いなべのまね)は、石を質(あてぎ)として斧を揮って材を削りました。終日削っても、誤って刃を傷つけることがありませんでした。
天皇はその所に遊び詣って、恠しんで問いました。「誤って石に中てることはないのか」
眞根は答えて言いました。「ついに誤りません」
そこで釆女を喚び集め、衣と裙を脱がせて犢鼻(たふさぎ)を著けさせ、露わにして相撲らせました。そこで眞根はしばらく停まり、仰ぎ視て咲いました。覚えないうちに手が誤って刃を傷つけました。
天皇はこれによって嘖め讓めて言いました。「どこの奴か。朕を畏れず、貞しくない心を用いて、みだりにたやすく答えた」そして物部に付けて、野で刑させました。
そこに同じ伴の巧みな者がいて、眞根を歎き惜しんで歌を作って言いました。
「婀■羅斯枳 偉儺謎能陀倶彌 柯該志須彌儺■ 旨我那稽麼 ■例柯柯該武預 婀■羅須彌儺■(あたらしき いなべのたくみ かけしすみなは しがなけば たれかかけむよ あたらすみなは)」
天皇はこの歌を聞いて、かえって悔い惜しむ心が生じ、喟然として頽れるように歎いて言いました。「ほとんど人を失うところであった」
そこで赦す使いを甲斐の黒い駒に乗せ、刑する所に馳せ詣らせて、止めて赦し、徽り纒いたものを解かせました。改めて歌を作って言いました。
「農播■磨能 柯彼能矩盧古磨 矩羅枳制播 伊能致志儺磨志 柯彼能倶盧古磨(ぬばたまの かひのくろこま くらきせば いのちしなまし かひのくろこま)」
— 二つの歌は音を写したものなので、意味には訳しません。
夾注 1
一本。換伊能致志儺磨志。而云伊志柯孺阿羅磨志。
ある本では、伊能致志儺磨志を換えて、伊志柯孺阿羅磨志といいます。
44呉の衣縫の女たちが来る
春正月丙寅朔戊寅。身狹村主青等共呉國使。將呉所獻手末才伎漢織。呉織及衣縫兄媛。弟媛等。泊於住吉津。
春正月丙寅の朔の戊寅の日、身狹村主青たちが呉国の使いとともに、呉が献じた手末の才伎である漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)、および衣縫(きぬぬい)の兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)たちを率いて、住吉津に泊まりました。
45呉坂
是月。爲呉客道通磯齒津路。名呉坂。
この月、呉の客のために磯齒津(しはつ)の路を道通じさせ、呉坂(くれさか)と名づけました。
46呉原
三月。命臣連迎呉使。即安置呉人於桧隈野。因名呉原。以衣縫兄媛奉大三輪神。以弟媛爲漢衣縫部也。漢織。呉織。衣縫。是飛鳥衣縫部。伊勢衣縫之先也。
三月、臣・連に命じて呉の使いを迎えさせました。そして呉の人を桧隈野(ひのくまの)に安置しました。これによって呉原(くれはら)と名づけました。
衣縫の兄媛を大三輪の神に奉り、弟媛を漢衣縫部(あやのきぬぬいべ)としました。漢織、呉織、衣縫は、飛鳥衣縫部(あすかのきぬぬいべ)と伊勢衣縫(いせのきぬぬい)の先です。
47根使主の罪が現れる
夏四月甲午朔。天皇欲設呉人。歴問群臣曰。其共食者誰好乎。群臣僉曰。根使主可。天皇即命根使主爲共食者。遂於石上高拔原饗呉人。時密遣舍人、視察裝餝。舍人復命曰。根使主所著玉縵大貴最好。又衆人云。前迎使時又亦著之。於是天皇欲自見。命臣連裝如饗之時。引見殿前。皇后仰天歔欷啼泣傷哀。天皇問曰。何由泣耶。皇后避床而對曰。此玉縵者。昔妾兄大草香皇子奉穴穗天皇勅,進妾於陛下時。爲妾所獻之物也。故致疑於根使主。不覺涕埀哀泣矣。天皇聞驚大怒。深責根使主。根使主對言。死罪死罪。實臣之愆。詔曰。根使主。自今以後。子子孫孫八十聯綿。莫預羣臣之例。乃將欲斬之。根使主逃匿至於日根。造稻城而待戰。遂爲官軍見殺。天皇命有司二分子孫。一分爲大草香部民以封皇后。一分賜茅渟縣主爲負嚢者。即求難波吉士日香香子孫。賜姓爲大草香部吉士。其日香香等語在穴穗天皇紀。事平之後。小根使主夜臥謂人曰。天皇城不堅。我父城堅。天皇傳聞是語。使人見根使主宅。實如其言。故收殺之。根使主之後爲坂本臣。自是始焉。
夏四月甲午の朔の日、天皇は呉の人をもてなそうとして、群臣に歴く問いました。「その共に食う者には誰がよいか」
群臣は僉な言いました。「根使主がよろしいでしょう」
天皇はすぐに根使主に命じて共に食う者としました。ついに石上の高拔原(たかぬきはら)で呉の人を饗しました。
そのとき密かに舍人を遣わして、装い飾りを視察させました。舍人は命を復して言いました。「根使主が著けている玉縵(たまかずら)は、大いに貴く、最も好いものです。また衆の人が言うには、前に使いを迎えたときも、やはりそれを著けていたとのことです」
そこで天皇は自ら見ようとして、臣・連に命じて饗したときのように装わせ、殿の前に引き見ました。
皇后は天を仰いで歔り欷き、啼き泣いて傷み哀しみました。天皇は問いました。「何に由って泣くのか」
皇后は床を避けて答えて言いました。「この玉縵は、昔、私の兄の大草香皇子が、穴穗天皇の勅を奉って私を陛下に進めたとき、私のために献じた物です。だから根使主に疑いを致して、覚えないうちに涕が垂れ、哀しく泣いたのです」
天皇は聞いて驚き、大いに怒って、根使主を深く責めました。
根使主は答えて言いました。「死罪、死罪。まことに臣の愆です」
詔しました。「根使主は、今より後、子々孫々八十代に聯なり綿くまで、群臣の例に預かってはならない」
そこで斬ろうとしました。根使主は逃げ匿れて日根に至り、稻城(いなき)を造って戦いを待ちました。ついに官軍に殺されました。
天皇は有司に命じて子孫を二つに分け、一分は大草香部(おおくさかべ)の民として皇后に封じ、一分は茅渟縣主に賜って嚢を負う者としました。
そして難波吉士日香香(なにわのきしのひかか)の子孫を求めて、姓を賜って大草香部吉士としました。その日香香たちの話は穴穗天皇の紀にあります。
事が平らいだ後、小根使主(おねのおみ)が夜に臥して人に言いました。「天皇の城は堅くない。我が父の城は堅い」
天皇はこの語を伝え聞いて、人に根使主の宅を見させると、まことにその言葉のとおりでした。だから収めて殺しました。
根使主の後が坂本臣となったのは、これより始まったのです。
夾注 1
小根使主。根使主子也。
小根使主は、根使主の子です。
48秦酒公
秦民分散。臣連等各随欲駈使。勿委秦造。由是秦造酒甚以爲。憂。而仕於天皇。天皇愛寵之。詔聚秦民賜於秦酒公。公仍領率百八十種勝。奉獻庸調御調也絹■。充積朝庭。因賜姓曰禹豆麻佐。
秦(はた)の民が分かれ散って、臣・連たちがそれぞれ欲するままに駈り使い、秦造(はたのみやつこ)に委ねませんでした。これによって秦造酒(はたのみやつこさけ)はたいへん憂えて、天皇にお仕えしました。天皇は愛し寵んで、詔して秦の民を聚め、秦酒公に賜りました。
公はそこで百八十種の勝(すぐり)を領き率いて、庸と調を奉り献じました。献じる絹や縑が朝庭に充ち積みました。これによって姓を賜って禹豆麻佐(うずまさ)といいました。
夾注 1
一云禹豆母利麻佐。皆盈積之貌也。
一説には禹豆母利麻佐(うずもりまさ)といいます。どちらも盈ち積んだ貌です。
49桑を殖えさせる
秋七月。詔宜桑國縣殖桑。又散遷秦民使獻庸調。
秋七月、詔して、桑に宜しい国と県に桑を殖えさせました。また秦の民を散らし遷して、庸と調を献じさせました。
50漢部を聚める
冬十月。詔。聚漢部。定其伴造者。賜姓曰直。
冬十月、詔して漢部(あやべ)を聚め、その伴造を定めて、姓を賜って直(あたい)といいました。
夾注 1
一本云。賜漢使主等賜姓曰直。
ある本にいうには、漢使主(あやのおみ)たちに姓を賜って直といったとあります。
51贄土師部
春三月丁丑朔戊寅。詔土師連等使進應盛朝夕御膳清器者。於是。土師連祖吾笥仍進揶津國來狹狹村。山背國内村。俯見村。伊勢國藤形村及丹波。但馬。因幡私民部。名曰贄土師部。
春三月丁丑の朔の戊寅の日、土師連たちに詔して、朝夕の御膳に盛るべき清らかな器を担う者を進めさせました。
そこで土師連の祖の吾笥(あけ)が、そこで山背国の來狹狹(くせささ)の村、山背国の内(うち)の村、俯見(ふしみ)の村、伊勢国の藤形(ふじかた)の村、および丹波、但馬、因幡の私の民部を進めました。名づけて贄土師部(にえのはじべ)といいました。
52朝日郎を斬る
秋八月己亥朔戊申。遣物部菟代宿禰。物部目連。以伐伊勢朝日郎。朝日郎聞官軍至。即逆戰於伊賀青墓。自矜能射。謂官軍曰。朝日郎手誰人可中也。其所發箭穿二重甲。官軍皆懼。菟代宿禰不敢進撃。相持二日一夜。於是。物部目連自執大刀。使筑紫聞物部大斧手執楯叱於軍中倶進。朝日郎乃遥見。而射穿大斧手楯二重甲。并入身肉一寸。大斧手以楯翳物部目連。目連即獲朝日郎斬之。由是菟代宿禰羞愧不克。七日不復命。天皇問侍臣曰。菟代宿禰何不復命。爰有讃岐田蟲別。進而奏曰。菟代宿禰怯也。二日一夜之間不能擒執朝日郎。而物部目連率筑紫聞物部大斧手。獲朝日郎矣。天皇聞之怒。輙奪菟代宿禰所有猪名部。賜物部目連。
秋八月己亥の朔の戊申の日、物部菟代宿禰(もののべのうしろのすくね)と物部目連を遣わして、伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)を伐たせました。
朝日郎は官軍が至ると聞いて、すぐに伊賀の青墓(あおはか)で逆らい戦いました。自ら射ることに能いと矜って、官軍に言いました。「朝日郎の手に、誰が中たることができるか」その発った箭は二重の甲を穿ちました。官軍は皆懼れました。
菟代宿禰は敢えて進んで撃たず、相たがいに持ちあって二日一夜になりました。
そこで物部目連が自ら大刀を執り、筑紫聞物部大斧手(つくしのきくのもののべのおおのて)に楯を執って軍中に叱ばせ、ともに進ませました。
朝日郎はそこで遥かに見て、射て大斧手の楯と二重の甲を穿ち、あわせて身の肉に一寸入りました。大斧手は楯で物部目連を翳いました。目連はすぐに朝日郎を獲て斬りました。
これによって菟代宿禰は羞じ愧じて克えず、七日のあいだ命を復しませんでした。
天皇は侍臣に問いました。「菟代宿禰はどうして命を復さないのか」
そこに讃岐田蟲別(さぬきのたむしわけ)がいて、進んで奏して言いました。「菟代宿禰は怯いのです。二日一夜のあいだに朝日郎を擒え執ることができず、物部目連が筑紫聞物部大斧手を率いて、朝日郎を獲たのです」
天皇はこれを聞いて怒り、たやすく菟代宿禰が有っていた猪名部を奪って、物部目連に賜りました。
53穴穗部を置く
春三月丙寅朔戊寅。詔置穴穗部。
春三月丙寅の朔の戊寅の日、詔して穴穗部を置きました。
54高麗が百済を伐つ
冬。高麗王大發軍兵。伐盡百濟。爰有少許遺衆。聚居倉下。兵粮既盡。憂泣茲深。於是高麗諸將言於王曰。百濟心許非常。臣毎見之。不覺自失。恐更蔓生。請遂除之。王曰。不可矣。寡人聞。百濟國者。爲日本國之官家。所由來遠久矣。又其王入仕天皇。四隣之所共識也。遂止之。
冬、高麗の王が軍兵を大いに発して、百済を伐ち尽くしました。そこに少しばかり残った衆があって、倉の下に聚まり居ました。兵も粮もすでに尽きて、憂え泣くことがはなはだ深くありました。
そこで高麗の諸将が王に言いました。「百済の心ざしは常ならぬものです。臣が見るたびに、覚えず自らを失います。改めて蔓り生えることを恐れますので、どうかついに除かれますように」
王は言いました。「よくない。寡人が聞くところでは、百済国は日本国の官家となって、その由来は遠く久しいという。またその王が入って天皇にお仕えしたことは、四つの隣がともに識るところである」
ついに止めました。
夾注 1
百濟記云。盖鹵王乙卯年冬。狛大軍來。攻大城七日七夜。王城降陷。遂失尉禮國。王及大后王子等皆沒敵手。
百済記にいうには、蓋鹵王の乙卯の年の冬、狛(こま)の大軍が来て、大城を七日七夜攻めました。王城は降り陥り、ついに尉禮國を失いました。王および大后、王子たちは皆、敵の手に沒したとあります。
55久麻那利を汶洲王に賜る
春三月。天皇聞百濟爲高麗所破。以久麻那利賜■洲王。救興其國。時人皆云。百濟國雖屬既亡聚夏倉下。實頼於天皇。更造其國。
春三月、天皇は百済が高麗に破られたと聞いて、久麻那利を汶洲王に賜り、その国を救って興しました。
そのとき人は皆言いました。「百済国は、族がすでに亡びて倉の下に聚まったとはいえ、まことに天皇に頼って、改めてその国を造ったのだ」
夾注 1
□洲王盖鹵王母弟也。日本舊記云。以久麻那利賜末多王。盖是誤也。久麻那利者任那國下□呼□縣之別邑也。
汶洲王は蓋鹵王の母を同じくする弟です。日本舊記には、久麻那利を末多王に賜ったといいますが、おそらく誤りでしょう。久麻那利は任那国の下■呼■縣の別の邑です。
56皇太子を立てる
春正月己酉朔。以白髮皇子爲皇太子。
春正月己酉の朔の日、白髮皇子(しらかのみこ)を皇太子としました。
57浦嶋子
秋七月。丹波國餘社郡管川人水江浦嶋子乘舟而釣。遂得大龜。便化爲女。於是浦嶋子感以爲婦。相逐入海。到蓬莱山歴覩仙衆。語在別卷。
秋七月、丹波国の餘社郡(よさのこおり)の管川(つつかわ)の人、水江浦嶋子(みずのえのうらしまこ)が舟に乗って釣りをし、ついに大きな龜を得ました。すると変わって女になりました。そこで浦嶋子は感じて婦としました。相たがいに逐って海に入り、蓬莱山に到って仙の衆を歴く覩ました。話は別の巻にあります。
58末多王を遣わす
夏四月。百濟文斤王薨。天皇以昆攴王五子中。第二末多王幼年聰明。勅喚内裹。親撫頭面誡勅慇懃。使王其國。仍賜兵器。并遣筑紫國軍士五百人。衞送於國。是爲東城王。
夏四月、百済の文斤王が薨じました。天皇は、昆攴王の五人の子のうち、第二の末多王が幼い年で聰く明らかであるとして、勅して内裹に喚び、自ら頭と面を撫でて、慇懃に誡め勅し、その国の王とさせました。そこで兵器を賜り、あわせて筑紫国の軍士五百人を遣わして、国まで衛り送りました。これが東城王です。
59百済が調を増す
是歳。百濟調賦益於常例。筑紫安致臣。馬飼臣等。率船師以撃高麗。
この歳、百済が調と賦を常の例より増しました。筑紫の安致臣(あちのおみ)、馬飼臣(うまかいのおみ)たちが、船の師を率いて高麗を撃ちました。
60病んで太子に付す
秋七月辛丑朔。天皇寢疾不預。詔。賞罰支度。事無巨細。並付皇太子。
秋七月辛丑の朔の日、天皇は疾に寢って事を預かれませんでした。詔しました。「賞し罰する支度は、事の巨きさ細かさを問わず、あわせて皇太子に付せ」
61遺詔
八月庚午朔丙子。天皇疾彌甚。與百寮辭訣。並握手歔欷。崩于大殿。遺詔於大伴室屋大連。與東漢掬直曰。方今區宇一家。烟火萬里。百姓艾安。四夷賓服。此又天意欲寧區夏。所以小心勵己日愼一日。盖爲百姓故也。臣連伴造。毎日朝參。國司郡司随時朝集何不■竭心府。誡勅慇懃。義乃君臣。情兼父子。庶藉臣連智力内外歡心。欲令普天之下永保安樂。不謂。遘疾彌留至於大漸。此乃人生常分。何足言及。但朝野衣冠未得鮮麗。教化政刑猶未盡善。興言念此。唯以留恨。今年踰若于不復稱夭。筋力精神一時勞竭。如此之事本非爲身。止欲安養百姓。所以致此。人生子孫誰不屬念。既爲天下事須割情。今星川王。心懷悖惡。行闕友于古人有言。知臣莫若君。知子莫若父。縱使星川得志。共治家國。必當戮辱遍於臣連。酷毒流於民庶。夫惡子孫已爲百姓所憚。好子孫足堪負荷大業。
八月庚午の朔の丙子の日、天皇の疾はますます甚だしくなりました。百寮と辞し訣れ、あわせて手を握って歔り欷き、大殿で崩じました。
大伴室屋大連と東漢掬直(やまとのあやのつかのあたい)に遺詔して言いました。
「いま区宇は一つの家となり、烟火は万里に上り、百姓は艾く安らかで、四夷は賓として服している。これもまた天の意が区夏を寧らかにしようとするものである。だから心を小さくし己を励まして、日ごとに一日を慎んだのは、おそらく百姓のためであった。
臣・連・伴造が日ごとに朝に参り、國司・郡司が時に随って朝に集まるのに、どうして心の府を竭さないでいられようか。誡め勅することが慇懃であれば、義は君臣であり、情は父子を兼ねる。願わくは臣・連の智と力、内外の歓ぶ心に藉って、普き天の下をして永く安らかな楽しみを保たせたいと思っていた。
思いがけず疾に遘って、ますます留まり、大漸に至った。これは人の生の常の分であるから、どうして言い及ぶに足りようか。ただ朝も野も衣も冠もまだ鮮やかに麗しくならず、教えて化える事も政も刑もなお尽くは善くない。言を興してこれを念えば、ただ恨みが留まるばかりである。
今年、年は若干を踰えたから、改めて夭いと称えはしない。筋力も精神も一時に労し竭きた。このような事はもとより身のためではなく、ただ百姓を安らかに養おうとしたことで、このようになったのである。
人が子孫を生んで、誰が念いを属けないことがあろうか。すでに天下のための事であるから、須く情を割かなければならない。
いま星川王(ほしかわのおおきみ)は、心に悖り悪むものを懐き、行いに友うものを闕いている。古人に『臣を知るは君に若くはなく、子を知るは父に若くはない』という言葉がある。たとえ星川が志を得て、ともに家と国を治めたとしても、必ず戮し辱めることが臣・連に遍く及び、酷い毒が民や庶に流れるだろう。
そもそも悪い子孫はすでに百姓が憚るところであり、好い子孫は大業を負い荷うに堪えるに足る。
62尾代が蝦夷を撃つ
此雖朕家事理不容隱。大連等民部廣大充盈於國。皇太子地居上嗣。仁孝著聞。以其行業。堪成朕志。以此共治天下。朕雖瞑目。何所復恨。是時。征新羅將軍吉備臣尾代行至吉備國過家。後所率五百蝦夷等聞天皇崩。乃相謂之曰。領制吾國天皇既崩。時不可失也。乃相聚結。侵冦傍郡。於是。尾代從家來。會蝦夷於娑婆水門。合戰而射蝦夷等。或踊或伏。能避脱箭。終不可射。是以尾代空彈弓弦於海濱上。射死踊伏者二隊。二■之箭既盡。即喚船人索箭。船人恐而自退。尾代乃立弓執末而歌曰。濔致爾阿賦耶。鳴之慮能古。阿毎爾擧曾。枳擧曳儒阿羅毎。矩爾爾播。枳擧曳底那。唱訖自斬數人。更追至丹波國浦掛水門。盡逼殺之。
これは朕の家の事とはいえ、理として隠すことは容されない。
大連たちの民部は広く大きく、国に充ち盈ちている。皇太子は地位が上の嗣に居り、仁しく孝であることが著く聞こえている。その行いと業で、朕の志を成すに堪える。これをもってともに天下を治めるなら、朕は目を瞑っても、何を改めて恨むことがあろうか」
このとき、新羅を征つ将軍の吉備臣尾代(きびのおみおしろ)が、行って吉備国に至り、家を過ぎました。後に率いていた五百人の蝦夷たちが、天皇が崩じたと聞いて、そこで相たがいに言いました。「我が国を領き制めていた天皇は、すでに崩じた。時を失うことはできない」
そこで相たがいに聚まり結んで、傍らの郡を侵し冦しました。
そこで尾代は家から来て、蝦夷を娑婆(さば)の水門で会い、合わせ戦って蝦夷を射ました。ある者は踊り、ある者は伏して、よく箭を避け脱れ、ついに射ることができませんでした。
このため尾代は海の濱の上で空しく弓の弦を弾きました。踊り伏す者、二隊を射殺しました。二つの靱の箭がすでに尽きると、すぐに船の人を喚んで箭を索めました。船の人は恐れて自ら退きました。
尾代はそこで弓を立て、末を執って歌って言いました。
「濔致爾阿賦耶 鳴之慮能古 阿毎爾擧曾 枳擧曳儒阿羅毎 矩爾爾播 枳擧曳底那(みちにあふや をしろのこ あめにこそ きこえずあらめ くにには きこえてな)」
— 音を写したものなので、意味には訳しません。
歌い訖えて、自ら数人を斬りました。改めて追って丹波国の浦掛(うらかけ)の水門に至り、ことごとく逼め殺しました。
夾注 2
一本。云。星川王腹惡心麁。天下著聞。不幸朕崩之後。當害皇太子。汝等民部甚多。努力相助。勿令侮慢。
ある本にいうには、星川王は腹が悪く心が麁く、天下に著く聞こえている。不幸にも朕が崩じた後、皇太子を害するだろう。お前たちの民部はたいへん多いから、努めて相助け、侮り慢らせてはならない、とあります。
一本云。追至浦掛。遣人盡殺之。
ある本にいうには、追って浦掛に至り、人を遣わしてことごとく殺したとあります。